明確な福音のメッセージ

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ここでは私は新しく生まれること、また救われることの意味について話そうと思う。

悔い改めはこれを経験するための第一歩である。しかし(罪から)悔い改めるためには、あなたはまず罪とは何かを知らなければならない。今日クリスチャンの間では、罪につい ての間違った理解がたくさんあるので悔い改めについても間違った理解がたくさんある。

キリスト教のレベルはこの 2、30 年で大きく低下した。今日ほとんどの説教者が教えている福音は真理をかなり薄めている。人々はただイエスを信じるだけでよいと教えられている。しかしイエスを信じるだけでは、だれも救われないのだ。もし、悔い改めがなければ。

新しく生まれることはキリスト教徒として生活の土台である。もし、あなたがこの土台に立たないで良い生活(人生)を送るなら、あなたのキリスト教徒としての意義は、世界の他の宗教と変わらない。他の宗教も人々によい生活をするように教えているからである。我々は確かに良い生活を送らなければならない。しかし、そのことはキリスト教の上部構造であって、土台ではない。土台は新しく生まれることである。我々はすべてそこから始めなければならない。

イエスはヨハネ 3:3 で、正しい指導者で誠実に生き、神を畏れる人であったニコデモに話しておられた時、「新しく生れる」という言葉を使われた。イエスは彼に言われた、「だれでも新しく生れなければ, 神の国を見ることはできない」(ヨハネ 3:3)。たとえあなたが非常に良い人間であっても、神の国に入るためには、霊的な新生が必要であることがわかる。そしてイエスは彼にイエスが十字架にかけられ死ぬこと、そして人々がイエスを信じるようになるということを話された(ヨハネ 3:14,16)。

イエスは続けて、人はその行いが悪いので光よりも暗闇を愛すると言われた(ヨハネ 3:19)。しかし、正直なものは光の中に来ることができ、救われる(ヨハネ 3:21)。新しく生まれる ためには、あなたは光の中に来なければならない。それは神に誠実であり、あなたの罪を 神に告白することである。明らかにあなたは犯した全ての罪を覚えているわけではない。 しかし、あなたは自分が罪びとであることを認め、覚えている全ての罪を神に話さなけれ ばならない。

まず、罪は非常に大きく、あなたは自分の人生の中でそのほんの一部しか見ることはできない。それは、あなたが大きい国に住んでいて、その一部しか見られないのと同じである。しかし、あなたが気づいている罪から離れるようになると、あなたはその人生において少しずつこの「罪の国」が見えるようになる。あなたが光の中を歩くと、もっと多くの罪が見えてくる。そして、あなたはその罪から清くなることができる。だからあなたはずっと神の前に誠実に歩かなければならない。

もう一つの例をあげよう:あなたが汚れた部屋が沢山ある家に住んでいるとしよう。あなたは主イエスにあなたの家に来て住まわれるよう願っている。しかし、主は汚れた部屋に住むことはできない。それで、主はあなたを助け、一部屋ずつ各部屋を掃除する。少しずつ掃除していくうちに家全体がきれいになる。このようにして我々はクリスチャン生活において神聖のうちに成長する。

使徒パウロは行く先々で、すべての人々に同じメッセージを語ったと言った:神への悔い改めを、主イエスキリストへの信仰を(使徒 20:20)。これらはあなたの人生において良い土台を築き、新しく生まれるための2つの要求である。神は悔い改めと信仰を結びつけられた。しかし大抵のキリスト教の説教者はこの2つを分けている。悔い改めは今日のほとんどの福音の説教から省かれている。信仰だけが説教されている。

しかし、もしあなたが信仰だけを持っているなら、あなたは新しく生まれることはできない。これは、女性がいくら努力しても女性だけで子供を持てないのと似ている。男性も同じである。子どもが生まれるためには男女が一緒にならなければならない。霊的な子供が生まれる、つまり、あなたの霊において新生が起こるのは、悔い改めと信仰が一緒になる時である。この霊的な誕生は肉体的な誕生と同じように一瞬にして起こる。ゆっくり徐々に起こるのではない。

新しく生まれるためには何カ月もの準備期間がいるかもしれない、子どもが生まれるには

10 か月の期間がいるように。しかし新生そのものは子どもの誕生と同じように一瞬にして起こる。あるクリスチャンは新しく生まれた日を知らない。私は自分がいつ新しく生まれたか知らない。人が生まれて生きているなら、これは重要な問題ではない。同じように、重要なことはあなたは今キリストにあって生きていることを確かなものとして知ることである。

イエスが神への唯一の道だと我々が言う時、我々は偏狭的な考え方をしているのだろうか?

例をあげて答えよう。私の父を、一度も(写真ですら)見たことがない人は父がどのような人であるかを知ることはできない。同じようにして、神を見たことがない我々は神を知ることができないし、また知るすべもない。しかし、イエスキリストは神から来られた方である。だから彼だけが唯一我々に神への道を示すことができる。イエスは言われた、「私は道である。誰も私によらないで父の御もとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)

我々がイエスが父の御もとに行く唯一の道だと言われたことについて考える時、我々は彼が真実をいっているのか、嘘をついたり欺いたりしているのか、どちらかであることを告白しなければならない。誰が、イエスは嘘つきでペテン師だと言えよう。イエスは正しい人で預言者である、というだけでは十分ではない。否、彼は単に正しい人というのではなく神ご自身なのである。もし、イエスが嘘つきでペテン師なら正しい人と言うことはできない。イエスは人の姿をした神であったのである。

すべての真実は偏狭的である。数学で、2+2は常に4である。我々はこれ以外の答えを認め、3や5でもよいとするわけにはいかない。3.9999 も認めるわけにはゆかない。もし、真理以外のものを認めるなら、数学の計算は成り立たなくなる。同様に、地球は太陽の周りをまわっていることを知っている。もし我々が広い心を持って太陽も地球の周りをまわっているという説に眼とめれば、天文学の計算はおかしくなる。同じようにして、化学では H2O は水である。広い心を持って H2O は塩であるということはできない。それぞれの分野において、真理は絶対的であり、非常に偏狭的なのである。神のことに関しても同じことである。これもいい、あれもいいということになると、数学、天文学、化学の世界では、重大な間違いが生じる。神についての真理を知ることにおいてもしかりである。

聖書は、すべての人は罪人であり、イエスは罪人のために死なれたと教えている。もしあなたがイエスのもとにクリスチャンとして来るなら、彼はあなたの罪を許されないだろう。なぜならイエスはクリスチャンのために死なれたのではないからである。彼は罪人のため に死なれた。許されることができる唯一の人は、イエスのもとに来て、「主よ、私は罪人です」という人である。もしあなたが罪人として彼のもとに来るなら、あなたの罪は直ちに 許されるであろう。

我々は誰でも自分は罪人であることを知るのは易しい、なぜなら神は我々に皆良心をお与えになったからである。子供は良心に対して非常に敏感であるからすぐに悪いことに気づく。しかし、子どもは大人になるにつれて良心は固くなり敏感でなくなる。3 歳の子どもが嘘をつく時、その顔には罪悪感が現れている。罪の意識があるからである。しかし 15 年経つと、その人は平気な顔をして嘘をつく。良心の声を何度も無視することによりその良心を殺したからである。赤ちゃんの足の裏は大変柔らかいので、羽根でなでたような肌触り

である。しかし大人の足の裏は手で強く押さない限りピンでついても感じない。このことは、子どもが大人になるにつれて良心に起こることである。

良心は神が我々の中におかれた声であって、我々が道徳的な存在であることを示す。良心は善悪の基本的な理解を与える。また、神のすばらしい贈り物である。イエスはそれを「心の目」と呼ばれた(ルカ 11:34)。もし我々がこの「目」を大切にしないなら、ある日我々は霊的に盲目になるであろう。良心の呵責を無視することはあなたの目に入った埃を無視するほどに危険であり、ある日あなたは完全に霊的に盲目となるであろう。

赤ちゃんが生まれた時、宗教を持っている子は誰もいない。みんな同じである。2 年後彼らは尚も同じで、利己的で喧嘩好きである。しかし時がたつにつれて彼らの両親はいろいろな宗教を吹き込む、このようにして、子どたちはいろいろな宗教に入るのである。90%以上、人の宗教は両親がその人に選んだものである。

しかし神は我々を違う宗教をもったものとは見ていない。彼は私たちすべてのものを罪人と見ている。イエスは天から下ってこられすべての人のために死なれた。神の国に入れるほどよい人間だと考えている人々のためにではなく、自分が罪人で神の国に入るのは難しいと考えている人のために来られた。あなたの良心があなたは罪人だと教えているのに、なぜイエスのところへ来て「主よ、私は罪人です。私は今まで沢山の罪を犯しました」と言うことが難しいのだろうか?

ある人がこう尋ねるかもしれない、「神は我々の罪を寛大に見て許すことができないのだろうか、父がするように」。もし息子が何か大切なものを壊せば(失えば)、そしてそのことを悔いて父に謝るなら、彼の父は彼を許すだろう。しかしこれらのことは道徳的な問題ではない。もしすべての我々の罪がこのようなことであれば、神はただちに私たちを許すだろう。しかし、罪はこのようなものではない。罪は犯罪なのである。

もしある人が法廷の裁判官で、彼の息子がある犯罪で告訴されて彼の前に立っているなら、彼は息子に「息子よ、おまえを愛している。お前を許そう。お前を罰しない」とでも言う だろうか?少しでも正義感のある地上の裁判官ならそのようなことは決していない。我々 がみんな持っているそのような正義感は、全能の神(我々はそのように造られているのだ が)の完全な義の小さな部分でしかない。それで、我々がなにか非常に悪いことをすると 神は裁判官として私たちに「私はあなたを愛している、しかしあなたは罪を犯したからあ なたを処罰する」と言わなければならない。その法廷では、息子はその犯罪に対していく ら詫びても、裁判官として、父親は息子を罰しなければならない。息子が銀行強盗したと 考えよう。父親は彼に法律の罰金を、たとえば 100 万ルピー、課す。その少年は罰金を払

うだけのお金を持っていないから監獄に入らなければならない。すると父親は裁判官を辞 任し、裁判官の服を脱ぎ降りてくる。彼は自分の小切手帳を取りだし 100 万ルピーの小切手を切り(彼が一生かかって稼ぐ金額)息子に罰金を払うために渡す。彼の息子は彼が息 子を愛していないと言って訴えるだろうか?否、同時に、だれも彼を裁判官でないと言っ て訴えることはあり得ない、彼は息子に法律が要求するだけの罰を息子に課したのだから。このことはまさに神が我々にしたのと同じである。裁判官として神は我々が自分の罪のた めに死ななければならないことを宣言した。そして神は人となってこの世に来られ、その 罪をご自身で受けられたのであるから。

聖書は神は唯一であっても、父、子、聖霊の3つの人格として存在すると言っている。もし神が一つの人格であれば、天国でその王座を明け渡し、イエスの人格で人となって地上に来ることはできなかったであろう。誰が宇宙を動かしているのだろうか。しかし、神が三つの人格として存在するので、子はこの世に来て裁判官であった天におられる父の前に我々の罪のために死ぬことができたのである。あるクリスチャンは神において唯一の人格

-イエスだけが居ると言って「イエスだけ」の名により洗礼を受ける。これは重大な過ちである。1ヨハネ 2:22 では父と御子を否定する者は反キリストであると言っている。なぜならそのような人は、神である御子がイエスキリストとして人となって来られたことを否定し、彼ご自身の御心と父の御心を行われ、父なる神の前で我々の罪を取り除かれたことを否定するものである(1ヨハネ 4:2,3)。イエスは、この地上に来られた時、完全に神であり人であった。彼は十字架の上で死なれた時、全ての人類の罪の罰を取られた。我々の罪の罰は永遠に神から切り離されている。そして、イエスが十字架にかけられた時、彼は天の父から離された。そのように切り離されたのは人の苦しみの中でも最も恐ろしい苦しみである。

地獄は宇宙の中で唯一神に身捨てられた場所である。そこに神は存在しない。また地獄では、全ての悪魔にある悪そのもので満ちている。その悪はすべて地獄へ行くものにとって惨めなことをおこなう。イエスは十字架にかかった時その罰を経験された。彼は 6 時間十

字架にかかっていた。しかし、最後の 3 時間は、彼は神に許されていた。太陽は暗くなり地は揺れ動いた。イエスと天にいます父との関係は切られていた。父はキリストの頭である(1コリント 11:3)。そして、キリストが許された時、彼の頭はねじ取られたようであった。我々はキリストが受けた苦悶はどんなものだったか十分理解できない。

もしイエスが単なる被造物であったなら、彼はアダムから今日に至るまでの何十億人もの人類の罰を負えなかっただろう。なぜなら一人の人が1億人の殺人者の代わりに十字架に掛けられることはできないからだ。しかしイエスは神であるからその罪を負うことができた。更に神であるから 3 時間のうちに永遠の罰を受けることができたのである。もし、イ

エスキリストが神でなく、父なる神がキリストを我々の罪のために罰したなら、それはとても不公平な事である。神は一人の人を他の人の罪のために罰することはできない。たとえその人が喜んで罰を受けようとも。あなたの友人はあなたの代わりに罰を受け、十字架にかけられることはできない。それは不公平である、理にかなっていない。だからもしイエスが単に被造物であり、彼が私たちのために罰せられたのなら、それはとても不公平である。

なので、どんな被造物も我々のために罰を受けることはできないことは明白である。神のみその罰を受けることができる、なぜなら、神は宇宙の裁判官であるから。神には我々を罰する権利があり、我々の罰に服する権利がある。そしてそのことは、神がイエスキリストとして人となってこの地上にこられた時、神がなされたことである。

キリスト教信仰の土台は2つの大きい真理にある。一つはキリストが人類の罪のために死なれたこと。もう一つは、キリストは 3 日後に死から蘇られたことである。

もしキリストが死から蘇えなかったら、彼が神であったということを証明できなかったであろう。彼が死から蘇ったことは彼が言ったが真実である証拠であった。どんな宗教の指導者も自分が世界の罪のために死ぬと言ったものはいない。また、どの宗教の指導者も死から蘇ったものはいない。これら2つの事実だけでもイエスキリストは唯一の存在だと言える。

すべての宗教は我々に他人によい行いをし、平和に生きることを教えている。しかし、キリスト教の信仰はユニークな土台を持っている:キリストは我々の罪のために死なれ、死から蘇られた。もしこの2つの真理がキリスト教から取り除かれれば、キリスト教は他の宗教と同じようなものになってしまう。この2つの真理はキリスト教だけにあるものである。

我々すべては神のために生きるように神に造られた。しかし、我々はみんな自分のために生きている。そう、我々が神のところに行くときに、何年もの間神の物を盗んでいた悔い 改めた盗人として行かなければならない。キリストが我々のために死なれたことに感謝し、死から蘇られ今も生きておられることを信じて、神のところにいかなければならない。我々はイエスが今日生きておられなかったら、彼に祈ることはできない。なぜならあなたは死 者を拝むことはできないからである。しかし、イエスは死から蘇られたので我々は彼と話 をすることができる。

キリストが死から蘇られた後、上げられ、天に返られた。その時、神の第 3 の人格である聖霊が地上に下って来られた。聖霊はイエスご自身のように本当の人格である。それは我々 の人生をその存在で満たすために、この世に来られた。もし聖霊に身をゆだねるなら、我々を聖別される。聖霊に満たされる時あなたは罪に打ち勝つ人生を送ることができる。ペンテコステの日に聖霊が、その人のところに来て住まわれるまでは、誰もそのような生き方をすることはできなかった。それまでは、人々はその外側の生活 life を良くするだけしかできなかった。人々の内側の生活 life は罪に打ちのめされ変わらないままであった。聖霊があなたを満たすとき、神ご自身があなたのうちに住まわれ、内側に置いても信心深い生活を送れるようにされる。

福音の素晴らしいメッセージは、神があなたを許され、キリストが聖霊を通してあなたの内に住まわれあなたの体を神の家とされる時、あなたの心は完全に清くなることができると言うことである。

私はかつてタバコを吸っていたクリスチャンと話をしていた。私は彼に教会の中でタバコ を吸ったらどうですかと尋ねた。彼はもう吸わない、教会は神の家だから、と言った。私 は彼に、神の家はあなたの体です、それは教会の建物のようなところではありません、と 言った。あなたは教会堂で姦淫しないだろう。教会堂でインターネットのポルノを見ない だろう。あなたの体は神の家なのである。喫煙や飲酒や有害なドラッグを飲むことや、不 純な考えが心に浮かぶのを許容するような習慣はだんだんあなたの体と心を虫食んでいく。

クリスチャンの人生は競争のようなものだ。我々が罪に背を向け、新しく生まれると、この競争のスタート地点に立つ。そしてマラソン競技が始まる、人生の終わりまで。我々は走って走って走り続ける。このようにして、毎日少しずつゴールに近づいていく。しかし、我々は決して走るのを止めてはいけない。

別の例でも説明しよう。我々が新しく生まれる時、我々は家の土台を築く。その後ゆっくり多くの階からなる、上部構造を立てる。

これはあなたが送ることができる最高の人生である、なぜならあなたはあなたの人生から悪いものをすべて少しずつ取り除きだんだん神のようになっていくからである。それでは、新しく生まれるにはあなたは何をしなけれなならないか?まず最初に、あなたは自分が罪 人だと認めること。他の人と比べ彼らよりましだと思って慰めることのないようにするこ と。罪は猛毒である。1 滴でも 100 滴でもそれを飲むならあなたは死ぬ。もしクリスチャン生活で良いスタートをきりたいと思うならばあなたは世界中で最も罪深い者同然であるこ とを認めること。そして、すべての罪から背を向けることを決心することである。

そして、キリストを信じること。このことはあなたの心の中でキリストについて何かを信じるだけではなく、キリストに自分を委ねることを意味する。あなたは、自分自身をその 人に委ねることなくその人のことを信じることができる。花嫁は結婚式で「あなたはこの男性にあなた自身を委ねますか」と尋ねられる。彼女が「私は彼は非常に良い人だと思います。しかし、この人に私の人生と未来を委ねるかどうかは自信ありません」と答えるとしよう。そうであれば、彼女は彼と結婚することはできない。なぜなら、彼女は彼を信頼していないからである。一人の女性が結婚する時、彼女の全人生の方向は変わる。彼女は姓を男性の姓に変える。彼女の両親のもとを去り、夫のところに行く。彼女は夫がどこに住むか知らないが、彼女はこれからの全てを彼に信頼する。彼女は彼を信頼している。このことはキリストに信仰を置くことの意味である。

クリスチャンという言葉はキリスト夫人という意味である!私の妻は私と結婚した時に私の名前を得ることができた。同じように、あなたはキリストと結婚するときにその名を得てクリスチャンと言うことができる。もし私と結婚せずに私の名をだれか女性が得て彼女を Zac Poonen 夫人と呼べば、それは嘘である。同様に、キリストと結婚しないで、クリスチャンと自称することは、嘘をついていることなのである。

結婚は永久であり 2,3 日のものではない。同様にクリスチャンであることは、一生の献身なのである。全てをキリストに委ねることはあなたが完全になるという意味ではない。女性が結婚する時、人生で一度も過ちを犯さないとは約束しない。彼女は多くの過ちを犯すだろうが、彼女の夫は彼女を許す。しかし、彼女は夫といつまでも一緒に暮らすと約束する。これが我々がキリストと一体になることである。

あなたの取るべき次のステップは水の洗礼である。洗礼を受けることは婚姻証明書を得るようなことである。あなたは婚姻証明書を得ただけでは結婚できない。洗礼を受けただけでクリスチャンになることもできない。あなたが婚姻証明書を得ることができるのは結婚してからである。だとしても、洗礼を受けるのはあなたがキリストに自分自身を捧げてからである。洗礼では、あなたが今までの古い生き方に終止符を打ち、イエスキリストをあなたの人生の主としたことを証するのである。良き夫と妻は互いによく話し合うものである。だからあなたもイエスと話し、イエスが聖書を通して毎日あなたに話すのを聞かなければならない。良き妻は決して夫をつらい思いにさせない。すべてのことを夫と分かち合ってする。真のクリスチャンもまたイエスが見ない映画を見るというような、キリストを不快にさせるようなことはしない。

あなたは本当に新しく生まれることができると思うか?そうである。ローマ 8:16 には、あなたが新しく生まれる時、御霊みずから, わたしたちの霊と共に, わたしたちが神の子であることをあかしして下さる、とある。これはすばらしい命である。なぜなら我々はかつてない最良の友人と一緒に住んでいるからである。イエスはいつもどこに居ても我々と

共におられるので我々は決して一人になることはない。

我々は自分の問題をイエスと共有し、解決してもらうように頼むことができる。それは喜びに満ちた人生であり、心配や恐れから解放された人生である。なぜならイエスは我々の未来は彼の手にあるからである。もしあなたが新しく生まれたいのなら、今主に心の底からこう言おう。主イエスよ、私はあなたが神の子であることを信じます。私は地獄に行くような罪人です。私を愛し、私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを感謝します。私はあなたが死から蘇り今日も生きておられることを信じます。私は今罪深い人生に背を向けたいです。私の全ての罪をお許しください。罪を憎む心をお与えください。私はいろいろと私を傷つけた人を許します。主イエスよ、私の人生/命の中に来てください。そして、今日からずっと私の人生の主となってください。私を今神の子としてください。

神のみ言葉はこう言っている。「しかし, 彼を受けいれた者, すなわち, その名を信じた人々には, 彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ 1:12)主イエスは言われる。

「私はわたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ 6:37)。それであなたは、イエスがあなたを受け入れたと確信することができる。そして、あなたは彼にこう感謝することができる「主イエスよ、私を許し受け入れてくださったこと感謝します。どうかわたしを聖霊で満たし、あなたのために生きる力をください。今日からあなただけがお喜びになるように望みます。」

毎日神の言葉を読み、主に日々聖霊で満たしてくれるように願うべきだ。又他の新生したクリスチャンと分かち合う必要がある。これによってのみ、あなたはクリスチャンとしての生活において成長し、主に従い続ける力を持つだろう。だから、主があなたに良い教会に導いてくれるよう願いなさい。

神の恵みが豊かにありますように。