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 章 1
悔い改め

羊は門から囲い(御国)に入らなければならないのに、塀を乗り越えて入ろうとする人がいるとイエスは言われました(ヨハネ10:1)。

 神が定められた人が救われるための方法は、主イエス・キリストにある悔い改めと信仰です。 それが唯一の方法です。 神は、他の方法で乗り越えようとする人を決して受け入れられません。

 主の道を備えるために来たバプテスマのヨハネは、悔い改めを説きました。 イスラエルの民がイエスを救い主として受け入れるための唯一の方法でした。 私たちにとっても、他に道はありません。

悔い改めと信仰

 今日の信仰者のほとんどは、初期のクリスチャンが持っていた真剣さ、献身、または力を持っていないように見受けられます。

 その理由は何だと思いますか。それは彼らが正しく悔い改めていないからです。

 彼らはキリストを信じています。しかし、最初に悔い改めることなくただ信じてきたので、彼らの回心は希薄です。

 有名な賛美歌の次の歌詞を見てください。

「凶悪犯罪者でも、本当に信じたその瞬間イエスから赦しを受けます。」

この歌詞のように、凶悪犯罪者も本当に信じるだけで赦しが得られるでしょうか?

まずはじめに悔い改めが必要ではありませんか?

 真の信仰には悔い改めも含まれると言われるかもしれません。 しかし、それが最も卑劣な犯罪者に説明されない限り、彼はただ信じたからといって、自分はすでに回心した、生まれ変わったと思い込み、誤解したまま生きていくことになるでしょう。

 イエスご自身が説教されたメッセージは、「悔い改めて福音を信じなさい。」でした(マルコ1:15)。 イエスは、使徒たちにも同じメッセージを伝えるように命じられました(ルカ24:47)。 そして使徒たちも、イエスの言われた通りに悔い改めを説きました(使徒20:21)。

 神のみことばは、この悔い改めについて非常に明確に指摘しています。 もしあなたが、本当に回心したいのならば、悔い改めと信仰を切り離すことはできません。 神はこの二つを結びつけられました。 そして、神が結び合わせたものをだれも切り離してはいけません。

 実際、悔い改めと信仰は、クリスチャン人生において最も大切な二つの要素です (ヘブル 6:1)。 もし、あなたが正しく悔い改めないなら、基盤が築かれず、勿論あなたのクリスチャン人生全体も揺らぎます。

 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」と述べています(箴言9:10)。 もし私たちが本当に主を恐れるなら、私たちは「悪から離れ」ます(箴言3:7)。

 ですから、悔い改めて罪から立ち返っていない人は、クリスチャン人生の初歩さえも学んでいません。

偽りの悔い改めと真の悔い改め

 もしあなたが悔い改めたなら、心から悔い改めたかどうかを確認しなければなりません。 サタンも偽りの悔い改めを持っていて、それで人々を欺いているからです。

 サタンは、ほとんどの人が、「知られてはだめ!」というルールの下に生きていることを知っています。 そして、誰にも知られないで罪を犯す方法と手段を彼らに教えます。

そして、もし捕まったら自分の罪に対して悪かったと後悔はします。

しかし、これは本当の悔い改めではありません。

 聖書には、誤った悔い改めをした人々の例がいくつか出てきます。

 サウル王は神に従わなかった際、サムエルに自分は罪を犯したと認めました。 しかし、彼はそれを人々に知られたくありませんでした。 彼は依然として人からの名誉を求めていただけで、本当に悔い改めていなかったのです。彼は罪が知られたことをただ後悔していました(1サムエル15:24-30)。 それは自分の罪を公然と認めたダビデ王との違いでした(詩篇51)。

 アハブ王もサウルと似た王でした。 神が彼を裁くだろうとエリヤが警告した時、彼は自分の過ちを悔いました。 彼は荒布を自分に着せ、自分の罪を悼みました(1列王21:27-29)。 しかし、彼は神の裁きを恐れていただけで、本当に悔い改めてはいませんでした。

 イスカリオテのユダの場合は、偽りの悔い改めの明らかな例です。

 彼がイエスに死刑が言い渡されたのを見た時、悪かったと思い「私は罪を犯した」と言いました(マタイ 27:3-5)。 しかし、彼はそれを祭司長たちに告白しました。今日でも同じようなことをしている人々がたくさんいます。

  自分のしたことを悲しんだにもかかわらず、彼は悔い改めませんでした。 もし本当に悔い改めたなら、彼は打ちひしがれて主のもとに行き、赦しを求めたでしょう。 しかし、彼はそうしませんでした。

 これらの例から、偽りの悔い改めが何かお分かりになるでしょう。

 真の悔い改めとは、「偶像から神に立ち帰ること」です(1テサロニケ1:9)。

 偶像は、異教の寺院に見られる木や石で作られた偶像だけではありません。 人々が崇拝する危険な偶像の中には、見た目はそれほど醜くないものも存在します。例えば、快楽、贅沢な暮らし、お金、名声、自分の思うままの人生を求めることなども偶像です。私たちは皆、長年にわたってこれらを崇拝してきました。

  悔い改めるとは、これらの偶像を崇拝するのをやめ、神に立ち返ることを意味します。

 真の悔い改めには、私たちの考え、感情、意志といった私たちの全人格が関係します。

まず第一に、悔い改めとは、罪と世俗についての自分の考えを改めることを意味します。

 私たちは自分の罪が自分自身を神から引き離しており、 また、この世的な生き方全体が神に背いていることに気がつきます。そして、 私たちは神を辱めるその生き方から立ち帰りたいと願います。

 第二に、悔い改めには私たちの感情が関係します。 私たちは自分の生き方について悲しみを感じます(2コリント7:10)。過去の過ちから自分自身を忌み嫌い、またそれ以上に、私たちは人には知られていない、自分の中にある大きな悪を憎みます(エゼキエル36:31)。

 私たちは、自分たちの生き方によって神を大きく傷つけてしまったことを嘆きます。 それは、聖書に登場する多くの偉人たちが自分の罪を認識したときの反応です。 ダビデ(詩篇 51)、ヨブ(ヨブ 42:6)、ペテロ(マタイ 26:75)は皆、自分の罪を悔い改めたときに激しく泣きました。

 イエスや使徒たちも、自分の罪のために泣き悲しむよう私たちに勧めています(マタイ 5:4、ヤコブ 4:9)。 それが神のもとへ帰る道なのです。

 最後に、悔い改めには私たちの意志が関係します。 私たちは「自分の思いどおりにしたい」という頑固な自己意志を放棄し、イエスを人生の主としなければなりません。 それは、私たちが今後、神が私たちに望まれることは何でも、たとえどんな代償を払っても、どんなに屈辱的でも喜んで行うという意味です。

 聖書の中の放蕩息子は、父親の言うことなら何でも喜んでしたいと、打ちひしがれた従順な若者として父親の元に帰ってきました。 それが真の悔い改めです(ルカ15:11-24)。

 私たちはこれまで犯した罪をすべて神に告白する必要はありません。 いずれにせよ、それらすべてを思い出すことは不可能でしょう。 放蕩息子も自分の過去を回顧せず、ただ「父よ、私は罪を犯しました」と言っただけでした。 私たちが言わなければならないことはそれだけです。

 しかし、イスカリオテのユダも「私は罪を犯した」と言ったことを思い出してください。 しかし、彼の告白と放蕩息子の告白の間には大きな違いがあります。 神は私たちの言葉だけを聞いておられるわけではありません。 神は私たちの言葉の背後にある霊を感じ取り、それに応じて私たちを取り扱ってくださるのです。

 悔い改めの実

 バプテスマのヨハネはパリサイ人に、悔い改めに従って実を結ぶように言いました(マタイ 3:8)。 もし私たちが本当に悔い改めるなら、私たちの生き方そのものが変わります。

悔い改めた後、私たちが最初にしなければならないことの一つは、人生で犯した過ちを償うことです。

 聖書の中にザアカイについて書いてありますが、彼はイエスが家に入られるやいなや、罪を告白しました(ルカ19:1-10)。 ザアカイは金銭を愛する人でした。 しかし、彼は悔い改めとはどういう意味かを正しく理解し、イエスの弟子になりたいのならば、人生で犯したすべての悪を償わなければならないことを知っていました。

 彼はそれまでたくさんの人を金銭的に騙していたので、それは彼にとって大損失を意味しまました。 しかし、ザアカイは心から悔い改めると決め、自分の財産の半分を貧しい人々に分け与えて、その後、人から騙し取った金額の四倍を返すと主に言いました。

 ザアカイが償いをすると言ったとき初めて、イエスはその家に救いが来たと言われたのです。 進んで償いをしようとする姿勢は、真の救いの証拠の一つです (ルカ 19:1-10)。

 イエスが語られた例え話の中で、家を建てる賢い人は、深く掘って砂の層の下にある岩の上に土台を築きました(ルカ 6:48)。 一方、愚かな人も同じ場所に家を建てました。 しかし、彼は十分に深く掘り下げずに、砂の層の上に土台を置きました。

 このたとえ話は、真の悔い改めと偽の悔い改めを表します。 人生を取り戻すために苦労してこそ、私たちは深く掘り下げることができます。

 私たちがキリストのもとに来る時、回心する前の人生で解決すべき問題を、たとえ時間がかかっても、すべて整理するのは良いことです。 もし私たちが見せかけだけで、問題をうやむやにしているなら、私たちの基礎は脆弱なままであり、いつか家は崩壊してしまいます。

  償いの対象となるもの

 では一体、償いには何が含まれるのでしょうか。例えば、政府から税金などをくすねた場合は、今すぐそれらの税金を返還するべきです。 場合によっては、関係部署に返済できない場合もあるでしょう。 しかし、私たちが神に従いたいのであれば、意志があるところには必ず道は開かれます。 私たちは郵便局の切手や鉄道の切符を買って破棄することで、政府に借りているお金を確実に政府に返すことができます。

 もし人を騙したのなら、返済するとともに謝罪するべきです。 あなたの人生にどのような変化が起き、今に至ったのかも伝えましょう。 一人でこれを行う勇気がない場合、だれか兄弟を償いの場に連れて行くのがよいでしょう。

 一度にすべての借金を返済できなくても、心配する必要はありません。 分割払いで行えます。 たとえ 五ルピーしかなかったとしても、まずは始めてみましょう。 神はザアカイを、借金を返済し終えた後ではなく、返済を決意したその日に受け入れてくださいました。

 あなたが誰かを騙したけれども、その人が今どこに住んでいるのかわからない場合は、そのお金をすべてのお金の元の所有者である神に返すべきです。 それは神がイスラエルの人々に定めた律法でした(民数記5:6-8)。

 いずれにせよ、私たちは不正に入手した金銭を決して所持してはいけません。 神はそのようなお金を決して祝福されません。

 金銭に関係なく、何らかの方法で誰かを傷つけたりした場合、私たちはその人のところに行って謝罪し、許しを請うべきです。

 何か月もお金を貯めた銀行口座を全部空にして、くすねていた税金や関税を政府に返済した兄弟を知っています。 そして神はこの兄弟に、多額の銀行口座よりも優れたものをお与えになりました。

 また、切符を購入せずに、バスや電車を利用していた頃の運賃を注意深く計算し、その金額を払い戻した人も知っています。 小さなことに忠実な人は、神のために大きなことを成し遂げます。

 また、学位証明書を持って大学事務局に行き、最終試験で不正行為をしたことを認めた人も何人か知っています。 彼らは、学位を剥奪されたとしても、潔白な心を得ようと努めました。 神は、大学側に彼らに対する好意の目をお与えになり、許しを得ることができました。

 しかし、常にそのようにうまくいくとは限りません。 もしかしたら、神は大学があなたの証明書を取り上げることをお許しになるかもしれません。 しかし、それはあなたへの神の完全なみこころです。

 私は、何年も前に小さな切手を盗んでしまった相手の人に、謝罪の手紙を書いた兄弟を知っています。 たとえ盗まれた品物の価値がどんなに少額であっても、窃盗は窃盗です。 些細なことで私たちの忠実さが試されます。

 私は、あなたに過去の小さな数々の悪行を記憶から呼び起こさせて、あなたを苦しめようとしているのではありません。 いいえ、そのようなことは不要です。 神は解決すべき事柄をあなたに思い出させてくれるでしょう。 そして、神が思い出させてくれたことだけを解決すればよいのです。

 また、間違った行為が非常に複雑であるため、まったく何もできない場合もあります。 そのような場合、あなたにできることは、神に悲しみを言い表し、神の憐れみを求めることだけです。

 どのような場合であっても、私たちが整理できない問題があるからといって、サタンが私たちに罪悪感や自己非難を永遠に与えることを許してはなりません。 神は私たちを取り巻く状況を十分に理解されており、私たちを苦しめたりはされません。 もし、あなたが進んで問題に対処したいという心を持っているなら、神はあなたにできることを受け入れてくださいます(2コリント8:12)、たとえ何もできないとしても。

 神はなんと慈悲深い方でしょうか。

 神はご自分を尊ぶ者を尊ばれます(1サムエル2:30)。 そして、私たちが神を敬う方法の一つは、小さなことにも忠実であることです。

 償うことをしなければ、私たちは一生鎖を引きずることになるでしょう。 お金、名誉、学位、さらには仕事よりも、明確な良心を大切にするかどうかを神は試しておられるのです。

このテストで多くの人は失敗します。 しかし、神を賛美します、地上の何よりも神を愛する人たちがどの世代にも残っていることを。

人を赦すこと

 悔い改めには、何らかの形で私たちに危害を加えた人を赦すことも含まれます。

イエスは言いました。

「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:15)。

 また、私たちは表面的にではなく、心から人を赦さなければならないと言われました(マタイ18:35)。

 人を心から完全に赦さなければ、私たちも神によって赦されることはありません。

 私たちは、人にされた嫌なことをなかなか忘れることができません。 しかし、私たちはそれを思い出そうとする時、考えないようにすることはできます。

 もしかしたら、あなたは誰かにひどく傷つけられて、その人を心から赦すのが本当に難しいと感じているかもしれません。 赦すことができるよう神に助けを求めてください。 そうすれば、神はその願いとすべての人を赦すことができる力の両方を喜んで与えてくださいます。

 神が無償で赦してくださった私たちの無数の罪を考えると、私たちが人を同じように赦すのは難しいことではありません。 私たちが人を赦さなければ、サタンが私たちに対して力を発揮します。

 パウロはこう言います。「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。」(2コリント2:10、11)。

サタンに対する態度の変化

 解決するべき領域がもう一つあります。それはサタンや悪霊との接触領域です。

 占星術、偶像崇拝、手相、黒魔術などをしたことがある場合、またはロック音楽や薬物に傾倒したことがある場合は、こういったサタンとの接触を放棄する必要があります。たとえ無意識のうちにこれらを行ってきたとしてもです。

 あなたが最初にしなければならないことは、持っているすべての偶像、オカルト本、お守りなどを破壊することです(売るのではなく破壊します)(使徒19:19参照)。

 それから、あなたはこう言って祈るべきです。

「主イエスよ、私は意識的か無意識的かに関わらず、サタンとのあらゆる接触を放棄します。」

それからサタンに直接言いましょう。

「私は私の主であり救い主であるイエス・キリストの御名においてサタンに対抗する。 もう私に触れないように。私は今主イエス・キリストのものだ。」

ヤコブ 4:7にはこう書かれています。

「神に従いなさい。 悪魔に抵抗すれば悪魔はあなたから逃げるでしょう。」

 ですから、サタンはもうあなたを支配することはできません。

私たちが主とともに歩み続けるなら、主は私たちの様々な領域で光を照らしてくださいます。 例えば、身なりや話し方、または読書の嗜好などです。このようにして、私たちは悔い改め、清めるべき領域を常に発見していきます。

 私たちは日々、この絶え間ない悔い改めの道を歩まなければなりません。

 章 2
信仰

 悔い改めはクリスチャン生活の土台の初歩です。 信仰はその次です。

 神を信じるということは、自分の感情や他の人が何と言おうと、神を信頼し、神が言われることを信じるということです。 それはとても簡単です。

 神に関する三つの事実は次のとおりです。

1. 神は私たちを無限に愛してくださいます。

2 神は全知であり

3. 神は万能です。

 これらの事実を信じるのは難しいでしょうか。いいえ、ですから私たちが心から神を信頼することも難しいことではありません。

 エバがエデンの園でサタンの声を聞いてしまったことは、彼女の過ちでした。 彼女は、神の命令が自分のためであることを信じていませんでした。エバは、完全な神の愛を信じていなかったので、神に従うことができませんでした。

  神の賜物を受け取る信仰 

 神は、私たちに素晴らしいものをたくさん与えてくださいます。 神の賜物は、すべて恵みの賜物です。 しかし、それらの賜物を受け取るには信仰が必要です。

 聖書は、私たちは「恵みのゆえに、信仰によって」救われたと言っています(エペソ2:8)。 恵みは、私たちに差し伸べられている、天の祝福でいっぱいの神の手です。 信仰とは、私たちの方から、手を伸ばして神の手から祝福を受け取るということです。

 神はまず最初に、私たちに罪の赦しを与えてくださいます。 私たちが悔い改めたなら、次にに私たちがしなければならないことは、神が私たちに無償で差し出してくださったものを手を伸ばして受け取ることです。 私たちはそのために働いたり、お金を払ったりする必要はありません。 それは、すでにカルバリで支払われています。 私たちはただ、「お父さん、ありがとう」と言ってそれを受け取るだけです。 それが信仰です。

 神が下さるものを受け取らないということは、実際には神を侮辱していることになります。 神の賜物を軽蔑するということです。よく大人が、なにかを子供にあげようと手を伸ばすと、子供たちがそれを取ろうと手を伸ばします。ですがその瞬間に手を引っ込めて子供をからかったりします。それと同じように、神は私たちをからかっているのではないかと考える人もいるようです 。しかし、神はそのような大人のように、意地悪でも邪悪でもありません。 神は愛情深い父です。 神は私たちに最高の贈り物を渡したいと切に望んでおられます。

 だからこそ聖書は、「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)と言っているのです。

 私たちが神を信じるならば、神は私たちの罪を赦してくれるだけでなく、私たちを罪の力から解放してくださいます。

 どうすれば信仰を得ることができるのでしょうか。方法は一つしかありません。聖書には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」とあります(ローマ10:17)。みことばを通して神に語っていただき、それを聞くことで、私たちは信仰を得ることができるのです。 そして、私たちの信仰も増していきます。

 神のみことばを通して、私たちはキリストが私たちの罪のために死んで復活されたことを知ります。 そして、もし私たちが悔い改めて神に信頼するなら、すぐに私たちの罪に対する完全かつ無償の赦しを受けることができるます。 そして、聖霊はこれが真実であると私たちの心に証ししてくださいます。 神のみことばと聖霊のこの二重の証しを通して、私たちは神が私たちを赦してくださったこと、そして私たちが確かに神の子であることを確信することができます。

信仰の保証

 神は、私たちの心に、本当に自分が神の子であるという絶対な確信があることを望まれます。 私たちがその事実を疑うことは決して神のみこころではありません。

 サタンは、私たちが疑いを抱くように全力を尽くします。 しかし、私たちは決して疑う必要はありません。なぜなら、神はみことばの中で多くの約束を与え保証してくださっているからです。

 これらの約束を見てください。イエスはこう言われました。

​​「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。…まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます」(ヨハネ6:37、47)。

「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)。

主はこう言われます。

「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」(ヘブル8:12)。

 神の約束を信じるということは、川を渡る時、強い橋に足を踏み出すことと同じです。 橋が強ければ足が弱くても問題ではありません。

では、強い信仰とは何でしょうか。それは力強い神とその神の約束を信じることです。

 私たちの感情はしばしば非常に欺瞞的です。 私たちは決して感情に頼るべきではありません。 狭い壁の上を一列に並んで歩いていた「真実、信仰、感情」という三人の人のたとえ話があります。

 一番前に真実、信仰、感情という順番で三人は歩いていました。 信仰が前にいる真実から目を離さずにいる間は、三人とも問題なく前進していました。感情は彼らの後ろを必死に追いかけます。

 しかし、信仰が感情の様子を伺おうと後ろを振り向くとすぐに、信仰は転がり落ちて死んでしまいました。 そして感情も同様に落下して死んでしまいました。 しかし真実は、何もためらわずに壁に沿って歩き続けました。

 このたとえ話の教訓は明白です。 神のみことばは不変の事実で構成されています。 私たちの信仰が神のみことばだけをしっかりと見つめるなら、私たちがつまずく危険はありません。 そして感情はやがてついてきます。 しかし、私たちが自分の感情に目を向け始めると、簡単につまずいて、すぐに落ち込み、また自己非難します。

信仰告白

 聖書は、私たちが信じていることを告白しなければならないと述べています。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9、10)。

 私たちが自分の口で告白することはとても重要です。 神のみことばを告白するとは、神が言われたことを自分の口で言うということです。 それは、神の約束に対して「アーメン」(「そのようになりますように」)と言うに等しく、難しいことではありません。

 聖書の中で「信じる」という言葉が初めて使われるのは、創世記 15 章です。そこには、アブラムにまだ子供がいなかった時、彼らの子孫は空の星の数ほどになると神が告げられたと書かれてあります。 そして「アブラムは主を信じた」(6節)とあります。 そこでの「信じる」を意味するヘブライ語は「アマン」であり、そこから「そのとおりになるだろう」を意味する「アーメン」という言葉が派生しています。 したがって、アブラムがしたことは神の約束に対して「アーメン」と言うだけでした。

 それが真の信仰です。神に「アーメン」と言うだけです。

 その後、アブラムは自分のことを神によって与えられた新しい名前、アブラハム(「国民の父」を意味する)と名乗っていました。 彼の妻、サラにはまだ子供がいませんでしたが、彼は神の言われたことを信じていたので、構わず自分自身を国民の父と呼んでいました(創世記17:5)。それが信仰告白です。たとえ神の約束をまだ目にしていなくても、神が言われたことを告白することです。

 神が私たちに求めておられるのは、神が言われていることを自分の口で言うことだけです。 私たちが神の約束を告白する時、神への信仰を表明します。 そして初めて、神は私たちに代わって働いてくださるのです。

 私たちは「あかしのことば」によってサタンに打ち勝つことができます(黙示録12:11)。 告発者であるサタンは、常に私たちの救いの確信と神の御前に立つ勇気を奪おうとしています。 私たちがサタンに打ち勝ちたいのであれば、神の約束を直接引用してサタンに立ち向かわなければなりません。

 イエスご自身も、「と書いてある」と聖書を引用してサタンに打ち勝たれました(マタイ 4:1-11)。

 私たちが神のみことばを疑えば、私たちは神を嘘つきと見なしています。 しかし、私たちが神のみことばをサタンに告白する時、神とみことばの側に立ち、サタンとその虚偽に対抗します。 このようにして、私たちは状況や感情がなんと言おうと、神の言われることは真実であると信じているとサタンに断言できます。

これは信仰の告白です。

 章 3
選びと義化

神がご自分の子を選ばれることと、彼らを義としてくださることは、新約聖書が私たちに教えている輝かしい二つの真理です。

選び

 聖書には、神はご自身の予知に従って、私たちを神の子として選ばれたと書かれています(1ペテロ1:1、2)。 これは、神が永遠の昔から神の子となる人々を知っておられたことを意味します。

 聖書はまた、神は「世の基の置かれる前から」キリストにあって私たちを選んでくださったと述べています(エペソ1:4)。 アダムが創造されるずっと前から、神は私たち一人一人を神の子として名前で知っており、私たちの名前は「いのちの書」に載っていました(黙示録 13:8)。これらの事実は、私たちに大きな安らぎを与えてくれます。

 聖書には、私たちが立つ神の礎には二重の印があると書かれています。 神側の面には、「主はご自分に属する者を知っておられる。」、また人の側には、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(テモテ2 2:19)と書かれています。

 神は、世界の基が置かれる前から、ご自分の子たちを知っておられました。 しかし、私たちが自分は神の子であると知るのは、実際に悔い改めて神に立ち返った時だけです。

  私たちの限りある心は、神がどのようにして子を選び、なぜ彼らに、神を選ぶか否かの選択の自由までもお与えになるのかを理解することができません。これらは、私たちにとっては、決して交わらないように思える平行線です。 しかし、平行線の数学的定義がそうであるように、平行線は無限、つまり神の無限の思いの中で交わります。

 ある人がこれを次のように表現したことがあります。いのちという道を歩いていると、ある日、開いたドアを見つけました。そのドアには、「悔い改めてキリストを信じる者は誰でも、ここに入り、永遠の命を得ることができる」という言葉が書かれています。 そして中に入って振り返ると、入ってきたまさにそのドアに、「あなたは世界の基が置かれる前から、キリストにあって神に選ばれたのです」という言葉が書かれているのが見えました。

義とされる

 私たちの罪が赦されるということは、過去の罪を取り除かれるということです。 しかし、だからといって私たちが完全に清くなるわけではありません。 ですから、私たちはまだ完全で聖なる神の前に立つことはできません。 そこで神は、私たちのためにさらに何かをしなければならなかったのです。神は私たちを義化する必要があったのです!

 義化とは、神がキリストの完全な義を私たちのものとしてくださることです。 その結果、私たちは、キリストと同じように完全な姿で神の御前に立つことができます。これは驚くべき事実であり、真実です! それは、物乞いの人の名前の銀行口座に数百万ルピーが入金されるようなものです。この物乞いが稼いでわけでもなく、また受け取る立場でもないのに、ただの贈り物として彼にお金が与えられたのです。

 義とされるということは、あたかも私たちが過去一度も罪を犯さなかったかのように、また現在も完全に義人であるかのように、神に受け入れられるということです。

 神のみことばはこう述べています。

「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(ローマ5:2)。

 これで私たちは、いつでも恐れやためらいを感じることなく、大胆に神の御前に入ることができます。 神ご自身がその道を開いてくださいました。

 エデンの園で、アダムとエバは罪を犯すとすぐに、罪悪感と恥ずかしさを感じ、イチジクの葉で体を覆いました。 神は彼らのイチジクの葉を取り上げ、動物を殺し、その皮を彼らに着せました。

 それらのイチジクの葉は、私たち自身の良い行いの象徴です。 イチジクの葉のように、私たちの良い行いは神の前で私たちの裸を覆うことはできません。 なぜなら、聖書は、私たちの最も優れた行いでさえ、神の目には不潔な着物のようなものであると述べているからです(イザヤ書 64:6)。

 その殺された動物は、私たちの罪のために十字架刑になられたキリストのことです。 皮膚は、私たちを覆うために与えられたキリストの完全な義の象徴でした(創世記 3:7、21)。

 義化は神からの無償の贈り物です。 誰も自分の行いによって、神の前に義とされることはできません。 ですから、「神に義とされるために、義人になるよう努めよう」と言う考えは完全な誤りです。

 しかしながら、真逆の誤った見方もあります。それは「私たちは選ばれ、義とされているから、たとえ今罪を犯していても問題ない。」ということです。

 神は自分たちを選び、義としてくださったからという理由で罪を軽く見る人は、自分が神の選民ではないことを自分で証明しています。 (ローマ 4:5 とヤコブ 2:24 を比較してください)。

 私たちが選ばれ、義化されたと確信すれば、私たちに対するサタンからの告発、非難はその影響力を失います。 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 (ローマ8:31)。 私たちはもう、自分が神に非難されている、あるいは拒絶されていると感じる必要は全くありません。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)。 ハレルヤ!これこそが素晴らしい福音です!

 したがって、私たちが神に選ばれ義とされたという事実を、多くの信仰者にサタンが隠しているのも不思議ではありません。

 章 4
弟子になること

イエスが使徒たちに、すべての国に行って弟子を作るように言われた時、彼らはイエスが意図されたことをすぐに理解できました。(マタイ 28:19)なぜなら、イエスは弟子になることはどういうことなのかを、すでに彼らに説明されていたからです。

 ルカ 14:25 - 35 は、弟子となるための 三つの条件を最も明確に示しています。 イエスは、塔の基礎を築いたものの、建設費を支払うことができずに完成できなかった人について語られます(28-30節)。 これは、弟子になるにはそれなりの代償を払わなければならないことを表しています。 イエスは私たちに、建設を始める前に、まず座ってそのコストを計算するようにと言われました。

 神は、私たちが罪を赦されてから、弟子の本当の意味を理解するのに何年もかかることを望んでおられません。 イエスはご自分のところに来る人々にすぐ、弟子になる際の代価について話されました。

 イエスは、弟子になることを望まない信仰者は、神にとっては塩気のない塩と同じように役に立たないと言われました(ルカ14:35)。

私たちの親戚を『憎む』とは

 弟子になるための第一の条件は、私たちの家族や親戚に対する過剰な肉親愛を断ち切らなければならないということです。

 イエスは、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26)と言われました。

 強い言葉ですよね。「憎む」とはどういう意味でしょうか。 憎むことは殺すことと同じです(1ヨハネ3:15)。 しかし、私たちがここで求められているのは、親戚家族に対する人間的な愛着、愛情をなくすということです。

 これは、私たちが彼らを愛してはいけないという意味でしょうか。

 いいえ、決してそういう意味ではありません。 私たちが彼らに対する人間的な愛情を放棄する時、神はそれを神の愛に置き換えてくださいます。 そして、私たちの親戚家族に対する愛は清いものになります。つまり、私たちは、常に肉親ではなく神を第一に愛するという意味です。

 多くの人は、父親、母親、妻などを怒らせることを恐れて神に従いません。主は私たちの人生の中で第一の地位を求めておられます。 そして、もし私たちがその地位を神に与えなければ、私たちは神の弟子にはなれません。

 イエスご自身の例を見てください。 イエスは未亡人の母親を愛しておられましたが、たとえ小さな事柄であっても、完全な天の父の御心から、イエスを引き離すような影響を母親が与えるのを決して許されませんでした。 この例は、イエスが母親の勧めに従うことを拒否した、カナでの結婚式に見られます(ヨハネ2:4)。

 イエスはまた、兄弟たちを「嫌う」方法を私たちに教えてくれました。 ペテロが十字架からイエスを遠ざけようとした時、イエスは振り向いて、これまでに発したこともない、最も鋭い言葉でペテロを叱責しました。 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」(マタイ 16:23)。 ペテロはあふれる人間愛をもって、イエスに十字架に向かわないよう促しました。 しかし、イエスは彼を叱責しました。なぜなら、ペテロの提案は父の御心に反するからです。

 天の父は、常にイエスにとって最も愛するお方でした。 イエスは、私たちも彼と同じようになることを望んでおられます。 復活後イエスはペテロに、地上の他のすべてのものよりも、イエスを愛しているかどうか尋ねました(ヨハネ21:15-17)。 主をこの上なく愛する者だけが、主の教会での責任を与えられます。

 エペソ教会の指導者は、主に対する最初の愛を失ったため、神に否まれるうる状態にありました(黙示録2:1-5)。

 もし私たちが詩編作者のように

「天では、あなたのほかに、だれを待つことができましょう。」

「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」(詩篇73:25)。

と言うことができれば、私たちは弟子としての最初の条件を真に満たしていることになります。

 イエスが私たちに求めておられる愛は、心が高鳴るような、ドラマティックな献身を歌った賛美歌にみられる感情的、感傷的、人間的な愛ではありません。 いいえ。

 私たちが真に神を愛しているなら、神に従います(ヨハネ14:21)。

  自我を憎むこと

 弟子になるための第二の条件は、私たちが自我を憎むことです。 イエスは言いました。

「わたしのもとに来て…そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26)。

また次のように強調されました。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:27)。

 これはイエスの教えの中で最も理解されていないことの一つです。

 イエスは弟子に対して「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と言われました。

 聖書を読むことや毎日祈ることよりも、自我を否定し、毎日十字架を背負うことが大切です。 自我を否定することは、自我を憎むことです。それはアダムから受け継いだものです。 十字架を負うことは、その自我を葬ることです。 私たちはその前に、まずその自我による生き方を憎まなければなりません。

 私たちの自我は、キリストのいのちの主な敵です。 聖書はこれを「肉」と呼んでいます。 肉は私たちに、自分の利益、自分の名誉、自分の喜び、自分のやり方などを求めるよう誘惑します。もし私たちが正直ならば、私たちの素晴らしい行いの多くが、自我から生じる邪悪な動機で腐敗したものだと認めることができます。

この肉を憎まない限り、私たちは決して主に従うことはできません。

 これが、イエスが「私たちのいのちを憎む(または失う)こと」について語られた理由です。

 実際、このことは福音書の中で六回繰り返し言われています。 (マタイ 10:39; 16:25; マルコ 8:35; ルカ 9:24; 14:26; ヨハネ 12:25) これは福音書の中で最も頻繁に繰り返される主の言葉です。 しかし、ほとんど説教されておらず、理解されていないのが現状です。

 自分のいのちを憎むということは、自分の権利や特権、名誉、野心や利益、そして自分のやり方を求めることをやめるということです。この道に喜んで進むならば、イエスの弟子になれます。

すべての所有物を手放す

 弟子になるための第三の条件は、私たちが自分の所有物をすべて手放すことです。 イエスは「あなたがたのうち、自分の財産をすべて捨てないければ、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:33)と言われました。

 私たちの所有物とは、私たちが自分のものとしているものです。 それらをすべて手放すということは、もはや何も自分のものとは考えないことを意味します。

 アブラハムの生涯にこの実例が見られます。 イサクは自分の息子であり、彼の所有物でした。 ある日、神は彼にイサクを犠牲として捧げるように言われます。 そしてアブラハムはイサクを祭壇に置き、彼を殺めようとしました。 しかし神はイサクを制止し、彼の神に従う意志をご覧になり、犠牲は必要ないと言われました(創世記22章)。 その後、アブラハムは、自分の家にイサクがいたとしても、もはや彼を自分のものとしみていないことに気づきました。 イサクはこのようにして神のものとなったのです。

​​ これが、私たちの持ち物をすべて放棄するということです。 私たちが持っているものはすべて祭壇に置かれ、神に捧げなければなりません。

 神は私たちがそれらのもののいくつかを使用することをお許しになるかもしれません。 しかし、私たちは、もうそれらを自分のものにしてはいけません。 たとえ自分が購入した家に住んでいるとしても、私たちはその家は神のものだと考えるべきです。そして神は私たちが家賃なしでそこに住めるようにしてくださったのです! これが真の弟子訓練です。

 私たちは全財産を手放し、神に捧げているでしょうか。 私たちの所有物には、銀行口座、財産、仕事、資格、賜物と才能、妻と子供、そしてこの地球上で私たちが大切にしているその他すべてのものが含まれます。 私たちが真の弟子になりたいなら、それらすべてを祭壇に捧げなければなりません。

 神は、私たちが心から神を愛することを望んでおられます。 それがマタイ 5:8 で述べられている「きよい心」の意味です。 明確な良心を持っているだけでは十分ではありません。 明確な良心とは、私たちが罪を放棄したということだけを意味します。 清い心とは、すべてを手放す心です!

そして、真の弟子になるには、以下のこと対する態度の根本的な変化が必要であることがわかります。

1.肉親や愛する人たち

2.自我

3.所有物

 クリスチャン人生の初期段階でこれらの問題に真正面から向き合わなければ、良い基盤を築くことはできません。

 章 5
水のバプテスマ

イエスが天に昇る前に弟子たちに最後に命じられたことは、次のとおりでした。

⒈行って弟子を作りなさい。

⒉父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授けなさい。

⒊主が命じられたことすべてに従うように教えなさい。

この順序は大変重要です。

 喜んで弟子になりたい人だけがバプテスマを受けます。 他の誰でもありません。

 赤ん坊がイエスのところに連れてこられたとき、イエスは彼らの頭に手を置いて祝福されました(マルコ10:13-16参照)。 しかし、悔い改めた大人たちがイエスのところに来ると、イエスは弟子たちを通して彼らにバプテスマを授けました(ヨハネ4:1、2参照)。

 しかし今日、私たちは多くの「教会」と言われているところで何を目にするでしょうか。

まったく逆のことです。 赤ちゃんがバプテスマを受け、そして大人たちの頭の上に手が置かれます。(確証として)!

これはイエスがなさったこととは正反対です。

 ペンテコステの日、多くの人が罪に気づいた時、ペテロは彼らに「悔い改めてバプテスマを受けなさい」と言いました。さらに、彼の言葉を受け入れた人々はバプテスマを受けたと述べています(使徒2:38、41)。

 神のみことばを真剣に受け入れて悔い改めた人だけがバプテスマを受けたことは明らかです。 そしてそれは、『使徒の働き』に記録されているあらゆる事例にも見受けられます。

バプテスマの意味

 ローマ 6:1-7 はバプテスマの意味を説明しています。

  私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ、バプテスマによってキリストとともに死に葬られたとあります。

 古い人とは、私たちが回心前に持っていた、罪を犯そうとする思いです。 それがキリストとともに十字架につけられたのです。

 しかし、このことを事前に理解しようとする必要はありません。 私たちは神の言われたことをただ信じればよいのです。 もし神のみことばが、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたと言っているなら、キリストがカルバリの丘で十字架につけられたことを自分が信じたように、それを信じるということです。 この両方の事実は信仰によって受け入れられます。

 古い人と肉の思いは全く違うものです。

肉は私たちの中にある自我であり、神の意志に反する性質です。 私たちは死ぬまでそれを持ち続けなければなりません。 私たちはその肉を、家に侵入しようとする強盗の一団にたとえることができます。

  古い人は、家の中に強盗がいつでも入って来れるように、常にドアを開けておくいい加減な使用人であり、ここで殺されてしまうのはその使用人です。しかしながら、強盗たちは全く御構い無しです。しかし今、私たちには、用心深くいつもドアを閉めている新しい使用人、新しい人がいます。

 私たちは、古い人(罪を犯したいという欲望)が死に埋葬され、今から「いのちにあって新しい歩みをする」ために、キリストと共によみがえられたことをバプテスマを通して証しするのです(ローマ6:4)。

 ノアの時代の洪水もバプテスマの一例です(1ペテロ 3:20、21)。神はその洪水によって、全世界を滅ぼされました。 ノアは、箱舟の中で耐え忍び、箱舟から出て真新しい世界に出て行きました。 前の世とその中のすべてのものは、すべて洪水に飲み込まれてしまいました。

 これは私たちがバプテスマの際に証しすることです。つまり、以前の自分の世に対する関わり方(例えば世俗的な生き方や人間関係などが含まれます)が今ではすべて断ち切られ、私たちは今、水の中から上がり、全く新しい世界へ出てきたのです。

バプテスマの方法

 ではどのようにバプテスマを受けるべきでしょうかなのか。

 「バプテスマ」という言葉は英語ではありません。 新約聖書はもともとギリシャ語で書かれました。 そして「液体で全体を覆う」または「浸す」を意味するギリシャ語の「バプト」に由来しています。 これはまさに初期の使徒たちにとってバプテスマが意味したもの、つまり水に浸ることでした。 誰かの頭に水を振りかけるようなことは間違いなくバプテスマとは言えません。

 ピリポがエチオピアの宦官にバプテスマを授けた時、「ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき…」と書かれています(使徒8:38、39)。

 イエスのバプテスマの時も同様に、バプテスマを受けた後、水から上がってこられました(マルコ 1:10)

 新約聖書では、バプテスマは常に浸水によって行われました。 バプテスマは葬ることであるため、これを正確に表すことができるのは浸水だけであることは明らかです。つまり、私たちは誰かが亡くなった時、頭に砂を振りかけて人を埋葬するのではなく、完全に地面の下に埋めることと同じです。

 これはまた、内の古い人が死に、もう罪を犯したくないと望む人だけがバプテスマを受ける資格があるということです。なぜなら、死んだ人だけが埋葬されるからであり、死んでいない人を埋葬するのは犯罪です!

  三つの名によるバプテスマ

 イエスは私たちに「父、子、聖霊の御名によって」バプテスマを施すように命じられました(マタイ 28:19)。 神は唯一であるため、名は単数です。 しかしイエスは、神はおひとりであるにもかかわらず、互いに異なる三つの人格として存在していることを明らかにされました。

 私たちの罪のために死なれたのは父ではなく、聖霊でもありませんでした。それは子でした。 イエスが天に昇られた時、聖霊の右ではなく、父の右に座られました。 同様に、イエスが弟子たちに助け手として遣わされたのは父ではなく聖霊でした。 これらすべては初歩的なことと思われるかもしれません。 しかし、私たちの救いにおいて、神の中の三つの位格とその働きを混同しないことが重要です。

 使徒の働きの本には、使徒たちがイエス・キリストの名によって人々にバプテスマを授けたことが何度も書かれています(使徒2:38など)。 これはマタイ 28:19のイエスの命令に沿っているでしょうか。

 聖書の中で一見矛盾する 二つの記述があった場合、よく調べてみると、両方の記述が真実であることがわかります。

  父、子、聖霊が異教徒たちの三位一体とは違うことを明確にするために、使徒たちは御子がイエス・キリストであると特定した上で、彼らは「父、子主イエス・キリスト、そして聖霊」の名によって人々にバプテスマを授けたのです。 これはイエス・キリストの名によるバプテスマと呼ばれました。

信仰の従順

 バプテスマは弟子として良く従い生きていくための第一歩であり、その先も、理性によってではなく、信仰によって従順であり続けなければなりません。

 もし、イエスが自分の理性に頼っておられたとしたら、決してバプテスマのヨハネのところには行かれなかったでしょう。 イエスは一度も罪を犯されなかった方なので、バプテスマを受けることに対しても多くの議論があったことでしょう。 ヨハネ自身も、なぜイエスがバプテスマを受けなければならないのか理解できませんでした。

しかし、イエスは理性の問題を脇に置いて、ただ聖霊の声に従われたのです。(マタイ 3:15)。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」とみことばは述べています(箴言 3:5)。 理性は信仰の最大の敵です。なぜなら、人間の理性は霊的な真実を把握できないからです。

 バプテスマを受ける時、体の中で最後に水に入る部分は頭の上部です。 それは象徴的ですね! 私たちの理性の権威は、私たちの中で最も葬ることが難しい部分です。 アダムの子供たちは理性が言うままに生きています。

 バプテスマにおいて、私たちは(自分の理性だけに頼る)生き方に死に、今は神の口から出る一つ一つの言葉への信仰によって生きることを証します(マタイ4:4、ローマ1:17)。

 一部のクリスチャンはバプテスマを軽視しています。 ナアマンは当初、らい病を治すためにヨルダン川に七回身を浸すというエリシャの命令を軽蔑しました。 しかし、彼が癒されたのは、その単純な命令に従った時でした(列王下5:10-14)。 神は小さなことで私たちの従順さを試されます。

 神に従うことを後回しにしてはいけません。 もしあなたの内の古い人が本当に死んだのであれば、すぐに埋葬するべきです。 死んだ人を埋葬しないのは犯罪と同じことだからです。

「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16)。

 章 6
聖霊のバプテスマ

私たちに必要なことは二つあります。 一つ目は過去、つまり私たちの罪の赦しを受けることであり、 二つ目は未来、つまり神に喜ばれる人生を歩むことです。 前者はキリストの死によって成し遂げられます。そして 後者が達成されるために、神は私たちに聖霊の力を与えてくださいます。

  いのちと働きのための力

 罪の赦しは、私たちの力では決して得ることができませんでしたが、神がご自身が成し遂げてくださいました。 神に喜ばれる生き方も同じです。 私たちは自分の力だけでは、神に喜ばれる人生、神の意志をすべて満たす人生を送ることはできません。 ある人たちはクリスチャン生活の初めにこのことをよく認識し、すぐに神の力を求めます。 また、このことを難しく捉えて、何年も試行錯誤をした後、ようやく神の力に頼るようになる人もいます。残念なことに、挫折と失敗を何度も繰り返して、打ち勝つことは到底無理だと感じ、最終的には敗北の人生に身を委ねてしまう人がいるのも事実です。

 これは、私たちが主に仕え、主の証し人になることにも当てはまります。

 ほとんどの信仰者は、回心した直後に自分たちが主の証し人になるべきであると思います。 しかし、彼らは実際自分たちが口の重い、無力な者だと感じます。ある人はこれを自分の負の性格だと考え、キリストの力強い証し人になれないと諦めてしまいます。

 また、神が聖霊の力を約束してくださったことを知っている人々もいます。 彼らはこの力を神に求め、大胆に、力強く、恥じることない確かなキリストの証し人となるための、超自然的な賜物を授けられます。

 御霊から生まれるということは、 神の子になるということに他なりません。 しかし、聖霊のバプテスマを受ける(浸される)こととは全く別のことです。 聖霊のバプテスマによって、私たちは神が望まれる自分になり、神のみこころを行うようになります。

 私たちの新しい契約の生得の権利

 旧約下では、聖霊は特定の人々の上にのみ降り、彼らが神への特定の働きができるようにしました。 しかし、新約の下では、すべての人が聖霊を受けることができます。 聖霊は私たちにイエスの栄光を示し、私たちをイエスに似た者に変えるために来られました。

 バプテスマのヨハネは、イエスが果たしてくださる二つのミニストリーについて語りました。一つは罪を取り除くことであり、もう一つは人々に聖霊でバプテスマを授けることでした(ヨハネ1:29、33)。 私たちはそのどちらも経験しなければなりません。

 新約聖書の最初の約束は次のとおりです。

「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)。

新約聖書の第二の約束は次のとおりです。

「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ 3:11)。

 新約聖書がこの二つの約束で始まることは注目すべきことです。 これは、神と人との新しい時代、つまり新約の始まりでした。 したがって、罪から救われ、聖霊のバプテスマを受けることは、神の子である私たちの二重の生得の権利です。 そして、神は確かに私たちの生得の権利の半分ではなく、完全な権利を私たちに与えたいと望んでおられます。

 新約聖書の最初の五冊は、それぞれ聖霊によるバプテスマの約束で始まります (マタイ 3:11; マルコ 1:8; ルカ 3:16; ヨハネ 1:33; 使徒 1:5)。

しかし、非常に多くのクリスチャンは自分のたために聖霊を求めようとしていません。

  生きた水の川

 新約聖書では、聖霊は神の御座から流れ出て地に注がれる川として描かれています(黙示録22:1、使徒2:33)。 聖霊のバプテスマを受けることは、この滝に浸されることです。 イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。(ヨハネ7:37)

 しかし、ほとんどの信仰者が経験していることは手押しポンプに似ています。必死にもがいて、乾いた心から数滴の祝福を汲み上げる人生です。 しかし、そうではありません。

  私たちが直接、主の元に渇きを満たしに行っていたら状況は違っていたでしょう。 私たちに触れる人すべてに祝福が流れ出るような川を持つことは、私たちの人生における神のみこころです。

 その為の最初のステップは、私たち自身がその必要性を認識することです。 多くの信仰者は言葉についての愚かな議論に捕らわれています。 しかし、私たちに必要なのは力であり、正しい専門用語ではありません。 私たちが骨のように乾いているなら、専門用語が正しくても何の意味があるでしょうか。 素直に神のもとに来て、祝福の川が私たちから流れ出ないことを告白する方がはるかに良いのです。 その最初の一歩を踏み出せば、神が私たちの求めているものをくださると信じることができます。

 聖霊のバプテスマを受けるために私たちが必要とするのは、渇き(神の栄光を讃えたいという大きな切望から生まれる強い願い)と信仰(神が約束したものを私たちに与えてくださるという絶対的な自信)だけです。 渇きと信仰を持ってこの力を求めましょう。そうすれば神は私たちの願いを拒まれることはありません。

力の授与

 当時の使徒たちはすべてを捨ててイエスに従いました。 しかし、彼らは公で神が定めた働きをする前に、聖霊のバプテスマを受けるのを待たなければなりませんでした。

 イエスご自身も公で働きを始められる前に、聖霊と力を注がれる必要がありました(使徒10:38)。 神さえもこの油注ぎを必要としていたのなら、私たちにはなおさらそれが必要でしょう。

 イエスは使徒たちに「力をうける」までエルサレムで待つように言われました(ルカ24:49)。 そして天に昇られる直前に、イエスは再び、聖霊が彼らの上に臨む時、彼らは「力を受ける」と言われました(使徒1:8)。そして ペンテコステの日、聖霊が彼らに注がれました。それまで臆病だった人々はすぐにさま、大胆で力強い主の証人へと変えられました(使徒2:1-4)。

 彼らが受け取ったものはまさに彼らが必ず受けると約束されたもの、力でした。

 私たちがクリスチャン生活を送るために必要なのは、単なる教義ではなく、私たちの生活における神の力です。 聖霊のバプテスマは私たちに敬虔と働きの為の力を与えます。

霊の働きの多様性

 聖霊は聖書の中で風に例えられています。 そして、風は異なる時間、方角に吹きます。 「御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とイエスは言われました(ヨハネ 3:8)。 したがって、聖霊のバプテスマで起こる外的な経験は信仰者によって異なります。 しかし、本当に重要なのは、内に得る力なのです。

 神は、キリストのからだとして教会を築き上げる上で、私たちが効果的に神に仕えることができるように御霊を通して、私たちに『力の賜物』を与えてくださいます。 しかし、私たち一人ひとりがどのような賜物を持つべきかを決定されるのは神です。

 預言(力強く宣べ伝えて証し、励まし、慰める能力)は、これらの賜物の中でとても有益な賜物です(1コリント14:1-5)。 奉仕、教育、癒し、勧め、献金、リーダーシップなどもあります(ローマ12:6-8; 1コリント12:8-10)。 未知の言語で話す能力(「異言の賜物」)も神が与えてくださったもう一つの賜物であり、私たちの思いや母国語などによる制限を超えて神に祈り、賛美できるようにするものです。

 御霊のバプテスマをまだ受けていないなら、神に長子(生得)の権利を求めましょう。 あなたに与えられるという確信も与えてくださるよう神にお願いしてください。

「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。…あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ルカ 11:13、ヤコブ 4:2)

 次に、心を尽くして神に叫び、ヤコブがペニエルで神に言ったように、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記 32:26)と言いましょう。

 神にはえこひいきなどありません。 神が他の人にしてくださったことを、あなたにもしてくださるでしょう。 今日でも、イエスは彼を熱心に求める人々には報いてくださいます(ヘブル

11:6)。 イエスは彼に栄光を帰したいと願ってやまない人すべてに、喜んで聖霊を与えてくださいます。

 章 7
聖化

福音の二重のメッセージが、罪を犯して捉えられた女性へのイエスのみことばに要約されています。

(i) わたしもあなたを罪に定めない。

(ii) 今から決して罪を犯してはなりません。

(ヨハネ 8:11)

 義化はクリスチャン人生という競争のスタートラインであり、聖化はそのトラックです。 「聖別する」という言葉は「分離する」という意味です。 したがって、聖化とは、罪、世界、自我から徐々に離れていくプロセスです。

 私たちがキリストのもとに来る目的は、聖化されるためです。アスリートがレースに参加する為にスタートラインに来ることと同じです。 レースに参加するつもりがなければ、アスリートがスタートラインで他の選手と一緒に並んでも意味がありません。

  私たちにある神の目的

 私たちのほとんどは、癒されたい、地獄には行きたくないなど、利己的な動機を持って最初はキリストのもとにやって来ます。 しかし、そのような利己的な動機にもかかわらず、神は私たちを受け入れてくださいました。 聖句に出てくる放蕩息子の父親は、自分の息子をとても愛していたので、お腹を満たしたいと帰ってきた放蕩息子を歓迎しました。 それほど神は素晴らしいお方なのです!

 しかし、天国に行きたいという理由だけでクリスチャン生活を続けるとしたら、それは本当に悲しいことです。神が私たちに立てておられるご計画を理解すればするほど、私たちはそれを完全に成し遂げたいと願うはずです。 エペソの兄弟へのパウロの祈りは、彼らが「神の召しによって与えられる望み」を見るために、心の目が開かれるようにということでした(エペソ1:18)。

 ローマ8:29−30は、神の召しの望みが何であるかを教えています。

「 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認められた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

 神の目的は、私たちがイエスに似た者に変えられるということです。 それが聖化の意味です。 これは、先に同じレースを走ったイエスを私たちは見ながら走るよう勧められているクリスチャンのレースです(ヘブル12:1、2)。

 罪をやめる

 この競走の最初の一歩は、犯し続けてきた罪を意識的にやめることです。 律法のもとでは、罪をやめるよう勧めたことはありませんでした。 しかし、新約の下の使徒たちはみな、福音の二重のメッセージはイエスが言われたこと、つまり罪による非難から解放され、罪をやめることだと一致していました。

パウロ

「罪をやめなさい。」(1コリント15:34)

ヨハネ

「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」(1ヨハネ2:1)

ペテロ

「罪との関わりを断ちました。」罪を断ちなさいと勧めています(1ペテロ4:1)

 ローマ5 章で信仰による義認を説明した後、パウロは次の問いを投げかけます。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」 (ローマ6:1)

そして再び(今度はより強い力で)「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。」 (ローマ 6:15 と言っています。どちらの場合でも、答えは断然「ノー」です。 私たちは罪を犯さないように努めるべきです。

 これが重いメッセージのように聞こえますか。罪を犯し続けたい人には負担となるかもしれません。 しかし、これは罪の捕らわれていることにうんざりしている人たちにとっては、大変喜ばしい自由のメッセージです。 どんな囚人でも、自由になれると聞いたら喜ぶでしょう。 それは彼にとって決して重荷にはならないはずです。

 イエスは御霊に満たされ「捕らわれ人(罪の)には赦免を…しいたげられている(サタンに)人々を自由にし…」と公言しました(ルカ4:18)。

新約の輝かしい約束は次のとおりです。

「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(旧約

)の下にはなく、恵み(イエスによってたてられた新約)の下にあるからです。」(ローマ6:14)

 勝利への第一歩は、このような人生も可能だと信じることです。

  誘惑と罪

 誘惑を受けることと罪を犯すことには違いがあります。 聖書にはこう書かれています。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14、15)。

  肉の欲を宿すまでは、心に罪は生まれません。 サタンや肉が私たちの心に暗示を与えて、私たちは誘惑されます。 私たちの心がその誘惑に同意すると、罪が生まれます。

 誘惑を受けるからといって私たちが悪だということにはなりません。 イエスご自身も誘惑を受けられました。 しかし、イエスはいかなる場合も一度も罪を犯したことがなく、完全に聖いお方でした。

 聖書は、イエスが「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」と述べています(ヘブル 2:17; 4:15)。 彼は私たちと全く同じように誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。

 私たちの中には、「神であるイエスは、自然に、簡単に、罪を克服できるのでは」と疑問に思われる人がいるかもしれません。 しかし、覚えておいてください。イエスは地上に来られた時、神という特権を捨て、「ご自分を無に」されました(ピリピ 2:6、7)。 イエスが人間として地上に生きておられた間彼は、今日私たちに与えてくださるのと同じ聖霊の力しか用いられませんでした。

 だからこそ、私たちは「イエスから目を離さずに」レースをするようにと言われているのです。 今日私たちが「罪と闘う」際に、模範である主イエスを見れば励まされます(ヘブル12:2-4)。 なぜなら、イエスが私たちの直面するあらゆる誘惑をすべて克服なさったからです。 このようにして、イエスは私たちの先駆者となり、私たちが従うべき模範となられました。(ヘブル 6:20)。

 「…キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、…」(1テモテ3:16)

イエスは私たちと同じ肉体を持っておられましたが、生涯を通して聖い霊を持ち続けられました。

 この事実は、主が克服されたように私たちも克服できるという希望を与えます。 神は私たちが主に従えるよう「ご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けて」くださいました。(ヘブル10:20)。 これが聖化の道です。

  古い人と新しい人

 私たちの内の古い人が、泥棒をわざわざ家に入れるのを許す不忠実な使用人のようであることはすでに学びましたが、その古い人は十字架につけられ、降ろされ、埋葬されました。 今、私たちの内には、「神よ、あなたのみこころを行うために」(ヘブル 10:7)と言う新しい人がいるのです。

 それでもまだ、イエスの弟子がまだ罪を犯すことはあります。 しかし、汚れた水に落ちる猫と汚れた水にあえて飛び込む豚との間には違いがあるのと同じように、弟子が罪を犯すのと未信仰者が罪を犯すのとの間には違いがあります。

 猫は汚い水を嫌いますが、誤って水に落ちてしまいます。 しかし、豚は汚い水が大好きです。 それはすべて習性です。 イエスの弟子は、清さを愛し、罪を憎むという新しい特性を持っているのです。

 古い人は罪を犯したいと思います。 新しい人は決して罪を犯したくないと思います。 しかし、新しい人が十分に強くないと、肉の欲望に対して心の扉を閉めておくことができないかもしれません。 それは新しい人がそれらの欲を望んでいるからではありません。 いいえ。欲望に抵抗できるほど強くないからです。 それは、その新しい人が神のみことばによって十分に養われていないためか、あるいは祈りによって強くなっていないためかもしれません。

 したがって、罪を犯すことと罪に陥ることには違いがあります。 この違いを知ることは重要です。 そうすれば、心の中の多くの無駄な自己非難の感情を避けることができるからです。

 聖書は、「罪を犯している者(つまり、意図的に罪を犯し続ける者)は、悪魔から出た者です」(1ヨハネ3:8)と述べています。

 その一方で、ヨハネは信仰者たちに次のように書いています。

「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のためのー私たちの罪だけでなく、世全体のためのーなだめの供え物です。」(1ヨハネ 2:1、2)。

  意識的および無意識的な罪

 罪に陥ることと罪が在ることの間にも違いがあります。 罪があるということは、私たちの人格の中に無意識の罪があるということです。たとえ、私たちより成熟した人が気づいても、私たち自身は気づかない罪です。

 しかし、そのような無意識の罪で私たちは罪悪感を感じることはありません。なぜなら、神のみことばが、「しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」と言っているからです(私たちの意識の中で罪を意識しない場合も、神は私たちに罪を認めないという意味もあります。) 

 私たちが光の中を歩んでいれば、無意識の罪は減っていきますが、私たちは死ぬ日までこの罪を抱え続けます。 聖書には、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:8)とあります。

  自分には罪がないと言う人は、実際には、自分はすでにキリストのように完全だと主張しているのです。 しかし、神のみことばは、私たちが「神のようになる」のは、神が再臨される時だけであり、それ以前ではないと言っています(1ヨハネ3:2)。 したがって、完全に神聖化され、すでに完全であると主張する人は、自分自身を欺いています。

 しかし、無意識の罪は清められる必要があります。 そして、私たちが神の光の中を歩む限り、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)

ですから私たちは今、無限の聖なる神の御前に、恐れることなく大胆に立つことができるのです。私たちを義としてくださるキリストの血の力はこれほど大きいのです。 ハレルヤ!

  慈しみと恵み

 私たちは、「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と言われています(ヘブル 4:16)。

  慈悲と恵みは同じではありません。 憐れみとは私たちの罪の許しを指します。 それは私たちの過去に関係しています。 しかし、将来の必要な時のために私たちには恵みも必要です。

 私たちが必要とする時とは、誘惑、試練に遭った時、つまり、ペテロがガリラヤの海に沈みそうになった時と同じように落ちてしまいそうな時です(マタイ 14:30)。 その時、私たちは恵みを求めて叫ばなければなりません。 そして、イエスがすぐに手を差し伸べて、ペテロをつかまれように、私たちもまた、沈むことなく立ち上がることができる恵みを得ることができるでしょう。

 神のみことばには、神が私たちを顛落から守ってくださることを保証する素晴らしい約束があります。 これらのいくつかを見てください。

 神は、私たちが克服できないほどの誘惑に私たちが誘惑されることを決してお許しにならないと約束しています。

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に…」(ユダ24)

 神のみことばには、これらの私たちへの素晴らしい約束が他にもたくさんあるので、私たちはもう罪を犯す必要はありません。 私たちは今後、神のみこころだけを行うために人生を歩むことができます(1ペテロ 4:2 )。

 飛躍的な聖化

 イエスは使徒たちに、主が命じられたことすべてに従うように人々に教えなさいと言われました(マタイ28:20)。 主を愛する人は、まず第一に、心を尽くしてそれらの戒めが何であるかを知ろうとします。 そして彼はそれらの戒めに従おうとするでしょう(ヨハネ14:21)。

 律法のもとで、神は人に戒めを与えましたが、従う力は与えられませんでした。 それではなぜ、神は律法を与えたのでしょうか。 それは、人が神の基準に到底達することができないことに気がついて、救い主と助け手の必要性を認識するためです。

「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)。

 しかし今、神は人と新しい契約を結ばれました。 そして神は、戒めだけでなく、私たちの主イエス・キリストという手本になるべき方も与えてくださいました。 イエスは、私たちが神のすべての戒めに従うことができることを、世での生涯を通して実証してくださったのです。

 神はまた、新約の下で、神の律法を私たちの思いの中に入れ、私たちの心に書きつけることを約束されました(ヘブル 8:10)。 神は私たちの内に住まわれる聖霊を通してこれを行ってくださいます。 聖霊は私たちの助け手であり、神のみこころが何であるかを示すだけでなく、そのみこころを実行したいという願いと、それに従う恵みを与えてくださいます。

 神は、私たちを全く聖として下さるお方です(1テサロニケ5:23)。 私たちの力ではできません。 私たちは、神に頼らなければなりません。なぜなら、神は私たちの内に働いて、みこころを行いたいともう願いと、それに必要な力の両方を私たちに与えて下さる方だからです。

  しかし、私たちは「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」必要があります(ピリピ 2:12、13)。 神は私たちをロボットに変えられたわけではないので、神の働きが私たちの中で完成されるよう努めるべきです。

 神は私たちを罪のから救ってくださいます。 しかし、私たちは「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うする」ように命じられています(2コリント7:1)。どのような汚れも明らかになったら、そうするべきです。

 このように、私たちが「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら」(ローマ 8:13)、御霊の実、つまり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が生まれ、私たちの中にますます反映されるでしょう。 これが、キリストに似た者に変えられるということです。

 こうして、私たちの道はいよいよ光り輝く道となります(箴言4:18)。 神が私たちのために設けてくださった輝かしい聖化の道です。

 章 8
神のみことばと祈り

 生まれたばかりの赤ちゃんが誕生時に必要とするのは、栄養と空気です。 それは霊的な誕生を経験した人たちも全く同じです。 生まれたばかりの神の子も食べ、呼吸する必要があります。

 彼らの食物は神のみことばであり、呼吸は祈りです。

  神のみことばー私たちの霊的な食物

 子どもは最初、ミルクから始まりますが、やがて固形食物が必要になります。 聖書にはミルクと固形食物の両方が登場します。 ミルクは「キリストについての初歩的な教え」(ヘブル 6:1)、 そして固い食物は「義の教え」と呼ばれています(ヘブル5:13)。

 私たちがどれだけ早く固形食物に移行するかは、神が与えてくださる光にどれだけ早く従うかによって決まります。私たちの霊的な成長は信仰と従順にかかっています。

 神は、私たちが神に信頼できるようにみことばの中で約束を、また従うべき戒めも与えられました。 定期的に神のみことばを黙想し、神に信頼して従うなら、私たちは決して枯れることのない常緑樹のように、神に深く根ざすことができます。 そして神は、私たちが何をしても栄えるよう祝福してくださいます(詩篇 1:2、3)。

 みことばの知的解釈の研究だけでは神のみことばを理解することはできません。 私たちには聖霊の啓示が必要です。 イエスは、霊的真理は賢い人や知性のある人には隠されていて、幼子たちには明らかにされる、と言われました(マタイ11:25)。

​​ 賢くて知的な人々が持っていなくて、赤ちゃんが持っているものとは何でしょうか。

それは純粋な心です。神は頭ではなく心を見ておられます。 神は神の御前でへりくだり、神のみことばに恐れおののく人々に啓示を与えてくださいます(イザヤ66:2)。

 また、イエスは神のみこころを行おうとする者だけが神のみことばを理解できるとも言われました(ヨハネ7:17)。

 神のみことばー御霊の剣

 神のみことばは、サタンとの戦いで私たちが使用する武器でもあります。それはエペソ6:17で「御霊の剣」と呼ばれています。

 イエスご自身も、荒野での最後の三度の誘惑の際に、この武器を非常に効果的に用いられました。 イエスはサタンの誘惑に対して、その都度「…と書いてある」と言って対抗されました(マタイ 4:4、7、10)。

 そのようにして主は克服されたのです。 私たちも同じようにこの武器を用いて克服できます。

 サタンは告発者です。 私たちはサタンの告発と聖霊による確信を区別しなければなりません。 サタンは常に私たちを責めて苦しめ、私たちが非難されていると感じさせようとします。 一方、聖霊による確信は常に優しく希望に満ちています。

 私たちは、「小羊の血と自分たちのあかしのことば」によってのみ、告発者に勝つことができます(黙示録12:11)。 私たちの過去の罪に関するサタンの告発は、キリストの血が私たちを清め、完全に義としてくださったとサタンに対して断言することでしか、克服することができません。 私たちはイエスが用いたのと同じ武器を使わなければなりません:「…と書いてある。」というイエスの言葉です。

 神のみことばをサタンに告白することは、サタンの非難だけでなく、落胆や不安、そしてサタンが引き起こす数々の誘惑を克服する方法でもあります。

 だからこそ、必要なときに聖霊が正しい聖句を思い起こさしてくださるように、神のみことばをよく知ることが重要です。

 したがって、毎日神に語ってくださいと求めながら、みことばを黙想する時間を持つことは良いことです。 神のみことばを心の中に秘めておけば、神に対して罪を犯さないようになります(詩篇119:11)。

  私たちの人生に対する神の計画

 神は、私たちの人生に完璧なご計画を持っておられ、私たちを導いてそれを実現させたいと願っておられます。 私たちが世で送る最も祝福された人生は、その計画を完全に遂行する人生です。

 仕事を選ぶ時、あるいは結婚する時、神が私たちの進むべき道をすでにご計画してくださっていることを知ることは、なんと素晴らしいことでしょう。 私たちが主の道を選択すれば、サタンが私たちのために用意した、多くの落とし穴を避けることができます。 神は、主にみことばを通して私たちをその計画に導いてくださいます。

 神のご意志を見つけることは大変重要な課題であり、『神のみこころを見つける』という私の本でより詳しく取り上げられています。また、霊的な結婚に臨むことについては、『性、愛 、そして結婚 - クリスチャンの道』という本に書いてあります

  祈り - 神と話す

 神とのコミュニケーションは双方向です。 私たちはまず、神がみことばを通して私たちに語られるのを聞きます。 そして私たちは神に話しかけます。

 しかし、祈りはただ神に願い事をするだけではありません。 祈りの主な目的は、花嫁と花婿のように、私たちが神との交わりを持つということです。

 花嫁が花婿にどのように話しかけるべきかについてのルールはありませんが、規律として祈りを次の内容で構成するのは良いことです。

⒈私たちの父なる神を讃美します。

⒉罪の告白。

⒊御国への願い。

⒋私たち自身の必要への願い。

⒌他の人の必要のためのとりなし。

⒍神がしてくださったことに感謝すること。

⒎神がしてくださることに感謝すること。

 イエスは私たちに「いつでも祈るべきであり…」と言われました(ルカ18:1)。

身につけるべき良い習慣は、日常生活のささいなことについても神に話すことです。

 このようにして、私たちは一日中祈りの中にいるようになります。 したがって、神と話すことは私たちにとって儀式ではなく、楽しみになるのです。また、神が驚くべき方法で私たちの心の中に語りかけられることにも気づくでしょう。

 しかし、これらは祈りについての幼稚園クラスにすぎません。 私たちが忠実であれば、さらに進歩することができます。

 いずれにせよ、祈りが無味乾燥で空虚な儀式になってしまっては絶対にいけません。 祈りは呼吸のようなものです。 呼吸が困難になれば、それはただごとではないはずです。 祈りが無味乾燥で退屈なものであることは、決して神のみこころではありません。

 しかし、私たちが成長するにつれて、祈りは意義深くなります。 神が私たちの心に備えられる、祈るべきささいな事柄に対して、私たちが誠実になればなるほど、神は私たちに、さらに祈るべき課題をお与えになるでしょう。そして、私たちは他の人を祝福する神の働きにおいて、神と協力することができるのです。

 イエスは「大きな叫び声と涙とをもって」祈られました(ヘブル5:7)。 かつて、イエスがゲツセマネで祈られた際、彼の汗は大粒の血のしずくのようになりました(ルカ 22:44)。 イエスは、それほど必死に祈られていたのです。また、彼は一晩中祈りを捧げられたこともありました。(ルカ6:12)イエスには、祈るために頻繁に荒野に出て行く習慣がありました(ルカ5:16)。

  誰かがこう言ったことがあります。「旅行者が新しい場所に来る度、名所を探しまわるように、イエスはどこに行っても祈るための静かな場所を常に探しておられました。」

 イエスの例は、祈りがいかに重要であるかを示しています。 神ご自身がこれほどまでに祈る必要があるなら、あなたも私もどれだけ祈る必要があるでしょうか。自分と戦いながら、まずは祈りの人になることを心に決めましょう。

 章 9
交わりと教会

神が、私たちをキリストに似た者に変えたいと願っておられることは、すでに見てきました。 しかし、この変化は、イエスの他の弟子たちから孤立した私たちに起こるわけではありません。 彼らと一緒でなければ私たちは変えられません。

 神は私たちが神により頼むだけでなく、互いに交わりを持ち生きることを望んでおられます。 旧約聖書の時代、神はモーセ、エリヤ、バプテスマのヨハネなどの個人を通して、みわざを成し遂げられました。

 しかし、新約の下で神が望んでおられるのは、キリストという頭の権威の下で一つとなった弟子たちの共同体です。 これが「教会」、つまりキリストのからだです(エペソ1:22、23; 2:14-16)。

  教会 - キリストのからだ

 教会は建物でも宗派でもありません。 新約聖書の英語の「教会」という言葉は、ギリシャ語の「エクレシア」という言葉の翻訳であり、これは呼び出された人々の集まりを意味します。この場合、神の所有物となるよう世から呼び出された人々、ということです。

 罪と世から分離せよという神の呼びかけに応えた世界中の人々が、キリストのからだである教会を形成します。 それぞれの地域、場所で、各教会に属する一人一人が一緒になってその一つのからだを築き上げなければなりません。

 キリストの最初のからだは、イエスが世に来られたときのイエスの肉体でした。 神はそのからだでご自身を世に現されました。 イエスは完全に御父に身を委ねておられたので、生涯の終わりに、「わたしを見た者は父を見た」と言われたほどでした(ヨハネ14:9)。

 今、私たちの使命は、共に世に対して、自分たちを通してイエスを表していくことです。 たった一人でイエスを的確に表せる人は誰もいません。 私たちはお互いを必要としています。  私たちの中で最も優秀な人たちでも未熟です。 私たちには長所もありますが、短所もあります。 私たちは、ある分野ではキリストをうまく反映できるかもしれませんが、別の分野ではあまり反映できないかもしれません。 しかし、皆が一緒になると、一人の長所が他の人の短所を補って、うまくバランスがとれます。 そして、私たちが互いに愛と献身の中で生きるなら、キリストは私たちを通して、未信仰者の世に神の全体像を反映することができます。 これが教会に対する神の目的です。

 地元の教会の一員になる

 

 回心したらすぐに、熱心に神のみことばに従いイエスに倣う弟子たちの交わりを探して、その交わりに参加する必要があります。

 ここで、新しく回心した人は、キリスト教世界に存在する数多くのグループや宗派に当惑してしまうかもしれません。 残念なことに、自分たちこそがキリストの唯一の真の表れだと主張する団体が、教義の広範囲にわたって非常に多く存在します。

 これらのグループの多くは聖書を叩きながら、あなたがそのグループに入らなければ、キリストのからだの一員にはなれないと説き伏せるでしょう。

 彼らのグループに属さず、彼らの独特の教義を守らない多くの子たちが、実際には神の子の中にたくさんいるいるという事実を、彼らに納得させるのは到底不可能です。 彼らの主張は差別そのものです。

  今日のキリスト教世界の多くを悩ませている、このパリサイ主義とカルト主義の網に巻き込まれないように注意しなければなりません。

 主を愛し、誠実に、主に従おうとするすべての人に対して心を開いてください。 彼らは、あなたとまったく同じで、彼らの教義を注意深く完璧に従っている人いないでしょう。

  しかし、神が彼らに与えられた光の中を歩いているのであれば、それは深刻なことではありません。 私たちは、神が私たちに与えてくださった光の中を歩むよう、彼ら強制することはできません。

神の子たちをすべて受け入れる

 神の子たちは私たちにとっても、兄弟姉妹です。私たちは、神ご自身が受け入れた、すべての人を心から歓迎し互いに受け入れあうべきです(ローマ14:1;15:7)。 イエスが誰かを兄弟と呼ぶことを恥じないのであれば、私たちも恥じるべきではありません(ヘブル2:11)。

 この交わりについては、信仰者が行き着いてしまう極端な例が二つあります。 一つは、交わりを保つために真実そのものをないがしろにしてしまうこと、 もう一つは、交わりに加わる前に、すべての事において統一性を強いられることです。 よく考え、これらの両極端を是非とも避けるべきです。

 神の働きにおいてお互い同意できない人と共に働くことはできません。 しかし、私たちは、誰かと交わりを持つ際、細部に至るまで自分と全く同じ信仰を相手に強制する必要はありません。 誰かと共に働くことと、その人と交わりを持つことには違いがあります。

 ただし、自分にとって霊的な家族となり、献身できる教会を地元で探さなければなりません。

  新約聖書教会

 あなたが住んでいる地域にはたくさんの「教会」があると思いますが、その中で、あなたがこれまでに理解してきた新約聖書の内容に最も近い教会を探すべきです。 時間が経ち、新約聖書をさらに理解するにつれて、その『教会』を離れ、より神のみことばに沿った別の教会に移るべきだと感じるかもしれません。

 それは、霊的に成長しており、神のために最高かつ最良のものを目指して突き進む決意をしている人にとっては、ごく自然のことです。 あらゆる分野において、神の最善以外のものに甘んじてはなりません。そうすれば、永遠に後悔しないでしょう。

 新約聖書の教会には宗派のラベルがありません。 それは聖霊によってイエス・キリストの御名のもとに集められた人々の交わりです。 主はそのような集まりのただ中にのみおられると約束されました(マタイ18:20)。

 あなたが所属する教会は、聖書を神のみことばとして、また信仰と人生の唯一の土台として用いていなければなりません。

  多くのカルト集団は、聖書だけがすべてと主張していながら、聖書と同等に、指導者自身のの書物を引用していることがよくあります。 彼らに近づけば、神のみことばよりも指導者の教えにより縛られていることがわかります。 その中には良いこともたくさんあるかもしれません。 しかし、その集団の中に入ってみると、彼らのカルト的な態度で自分が奴隷になっていることにすぐに気づくはずです。

 神の教会では、信仰者はすべて平等に神の祭司です。神が私たち皆を祭司としてくださったからです(1ペテロ2:9)。ですから、みことばに奉仕する資格があるとされる「祭司」または「牧師」という特別階級を擁する「教会」は神の意志に反しています。

 神は、教会の指導者を長老たち(常に複数)の手に委ねるよう定められました。 しかし、これらの長老たちは「全時間労働者」である必要はありません(使徒 14:23; テトス 1:5)。

 新約の教会の集会では、特に神のみことばの説教が特に重視されます。そのような教会では、どの信仰者も皆誰もが霊的成長の度合いや霊的な賜物に応じて、神のみことばを自由に分かち合うことができます。

 語られるみことばが真に聖霊によるものであれば、そのみことばが慰め、勧め、徳を立てるものであり、聞く者が『心の秘密』明らかにされることで、神が語っておられると認めるのです(1コリント14:3) 、24-31)。

 真の新約の教会の主な目的は、イエスの弟子を作り、イエスの戒めに完全に従うことを教えることです(マタイ 28:19、20)。 そのような教会の主な特徴は、イエスがヨハネ 13:35 で述べられたように、兄弟姉妹の相互愛です。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 みことばが力強く語られ、神の愛が支配し、主の臨在が感じられるような教会こそが、あなたが行くべき教会です。

  交わりの重要性

 他の人との愛ある交わりの中で共に生きようとすると、交わりを保つ為に、私たちがどれだけ自我を否み、毎日十字架を背負わなければならないかがわかります。

 サタンは常に神の子たちの仲を分裂させることに大忙しです。 私たちが成熟していれば、自分と他の間にそのような分裂が起こるのを防ぐために常に注意を払うでしょう。 キリストのからだの中での交わりが壊れる時、神にとっても私たちにとっても、それは大きな損失です。

 団結した教会には計り知れない力があります。 サタンは一つになった教会によってのみ打ち倒されます。

イエスは言われました。

「たとえ二人の信仰者でも、霊が完全に一つであり、強く団結していれば、御父になんでも求めることができ、その願いは聞き入れられるでしょう。なぜなら、そのような二つでも三つでも団結した魂が聖霊によって集まるところならどこでも、私は力を持ってそこに存在しているからです。 そして、そのような信仰者たちの交わりは、天と地のサタンの力を束縛し、抑制することができます。 彼らはまた、祈りによって人々をサタンの束縛から解放することもできるのです。」(マタイ18:18-20 パラフレーズ訳)

 だからこそ、サタンは信仰者間に分裂をもたらし、教会内に派閥やグループを形成するのです。 彼は自分の王国を団結した教会の攻撃から守りたいと思っています。 私たちはサタンの策略に警戒しなければならず、見過ごすべきではありません。

 キリストのからだの手足を考えてみてください。それらが相互に連動できなかったら、キリストのからだの動きにどれほど制限がもたらされるでしょうか。 そのからだは、世にキリストの栄光を十分に現すことはできません。 これは、キリストの霊的なからだである教会の頭として、キリストご自身が今日、信仰者が分裂する時に直面されている問題です。

 そして、これは私たちにとっても同じです。 もし、あなたが他の神の子から離れるならば、あなたは、その人を通してのみ、もたらされたはずの神の富の一部を自分から奪いとったことになります。私たちは「すべての聖徒とともに」(エペソ3:17-19)のみキリストの愛を知ることができます。

(クリスチャンの交わりの重要性についてさらに詳しく知りたい場合は、『キリストにおける一つのからだ』というタイトルの私の本を読んでみてください。)

 章 10
世の終わり

旧約聖書の時代には、死後の世界や神の将来のご計画について明確な見解はありませんでした。 しかし、イエスはこれら両方の事柄についてはっきりと教えてくださいました。 私たちにとってもこれらのことについて知っておくのは良いことです。

 死後には何が?

 イエスは死に打ち勝ってくださったので、キリストの弟子にとって、死は恐怖ではありません。 死はすでに敗北した敵です。 イエスが死なれ、サタンを無力にしたので、私たちはもはや死を恐れる必要がなくなります(ヘブル 2:14、15)。 死の鍵は、今イエスの手の中にあります(黙示録 1:18)。 今、弟子たちの死の扉を開けることができるのはイエスだけです。 サタンは彼らに触れることができません。

 人が死んだらどうなるのでしょうか。 イエスはある金持ちとラザロについて語られた時、この質問に明確に答えられました。 先に進む前に、ルカ 16:19-31 を読んでいただければ幸いです。

 これはたとえ話ではありません。なぜなら、イエスが実際の人の名前を使ってたとえ話をされたことはこの時以外にないからです。 金持ちもラザロも実在の人物でした。

 イエスはここで、死者が行く場所は二つしかないことを明らかにされました。 一つは天国(「アブラハムのふところ」または「パラダイス」とも呼ばれます)、つまり慰めと安らぎの場所です。 そしてもう一つは地獄、つまり痛みと苦しみの場所です。

 人が死ぬとすぐに、その魂は、たとえ彼の体が地中に埋葬される前であっても、これらのいずれかの場所に行きます。 そして、肉体が無くても、自分のいる状況、慰めや痛みを意識します。

 人間の存在は、霊、魂、からだで構成されています(1テサロニケ5:23)。 魂と霊は死後、からだから分離され、パラダイスか地獄に向かいます。

 イエスは十字架上で、悔い改めた強盗に、まさにその日、ご自分と一緒にパラダイスにいるだろうと言われました。 イエスもその強盗も、魂が肉体を離れるとすぐにパラダイスに行きました。 イエスは死後、三日三晩「地の中」に留まると言われました(マタイ12:40)。 これらのことから、パラダイスは当時、地球の中心にあったことがわかります。 しかし、「キリストが地上の低いところから復活され…そして高いところに昇られたとき、 彼は大勢の捕虜を率いました」(エペソ4:8、9)。 イエスは、パラダイスとそこにあるすべての魂を第三の天に連れて行かれました。

 2コリント 12: 2 と 4 を比較すると、パラダイスが今は第三の天にあることがわかります。 ここは、イエスの弟子が死後、すぐに行く場所です(ピリピ 1:23)。

  キリストの再臨のしるし

 聖書には、キリストが地上に再臨する直前に起こる数々の出来事が記されています。

そのいくつかをご紹介します。

⒈ 戦争、飢饉、地震(マタイ 24:7)。 これらは常に地球上に存在していました。 しかし、第二次世界大戦 (1939〜 1945 年) 以降、その数は大幅に増加しました。

⒉ 情報量と世界を行き交う人の急激な増加(ダニエル12:4)。 これらは両方とも、過去五十年間にこれまでよりもはるかに大きな規模で見られました。

⒊ 人は快楽を愛する者になります(2テモテ 3:4)。 不道徳は特に現代の邪悪な特徴です。 ポルノ映画やビデオはすべて、不道徳を蔓延させたいサタンの目的に加担しています。

⒋ 人は傲慢になり、ののしり、親に反抗的になります(2テモテ 3:2-4)。

 今日、家庭、学校、大学、工場など、私たちの社会のあらゆるところで反抗する霊が見られます。

⒌ 信仰者は信仰から離れてしまいます(1テモテ4:1)。

 現代において多くのカルトが広範囲に蔓延し、多くの信仰者がその餌食になっています。

⒍ イスラエル国民の再生(葉を伸ばすイチジクの木 - イスラエルの象徴 - ルカ 21:29-32)

 西暦七十年以来、ユダヤ人は世界中に散らばっていました。 このイチジクの木はその後19世紀近く枯れたままになっていました。 しかし1948年5月、イスラエル国家が再び誕生しました。 イエスは、エルサレムはユダヤ人以外の人々に占領され、彼らの時代が終わるまで続くだろうと言われました(ルカ21:24)。 1967年6月、イスラエルは20世紀になって初めてエルサレム市を占領しました。

 今日世界で起きていることはとても興味深いです。 兆候はすべて、キリストが間もなく再来することを示しています。

  キリストの最初の復活と裁きの座

 キリストが再び来られる時、キリストに属する者は皆、瞬時に変えられます。 私たちは決して、老化したり死んだりすることのない、新しいからだを受け取ります(1コリント15:51-53)。 私たちの新しいからだは、イエスご自身が復活された後に持っておられたからだとまったく同じです(ピリピ 3:20、21)。 キリストにあってすでに亡くなった人々も、新しいからだを得て墓から起き上がり、当時生きていたイエスの弟子たちとともに、主に会うために天へ上がっていきます(1テサロニケ4:13-17)。

 その時、キリストは裁きの座を設けられ、そこで私たちは裁かれ(評価され)、世の人生での忠実さに応じて個々に報いを受けることになります。

 聖書は、その日、忠実であった人々に冠が与えられると述べています。

その時に主が弟子たちに与えてくださる報いについては、以下の箇所を参照してみてください。

 2コリント 5:10、 1コリント3:11-15&4:5、 2テモテ 4:8 、1ペテロ 5:4

 その日、私たちは「先の者があとになり、後の者がさきになる(マタイ19:30)」ことを知るでしょう。 世では、非常に霊的であるように見えた多くの人も、神の目には、それほど忠実ではなかったということがあります。 私たちがあまり高く評価していなかった人たちも、神の目には忠実な人として映ります。 その日には、無名でも忠実な未亡人が、世界的に有名だけれども、実のところ不誠実である説教者よりも優先されるのです。

 その日、私たちは、お金や名声など、人間が地上で価値があると考えている多くのものが、神の前では何の価値もないことを知るでしょう。 そして、清さ、謙虚さ、無私、慈悲、善良さなど、人間が評価しなかった多くの美徳が、神によって高く評価されます。

 そして、聖書が「神の子羊の結婚」と呼ぶもの、つまり、イエス・キリストとその花嫁との霊的な結婚が行われます。花嫁とはつまり、自分自身を捨て、日々十字架を負い、地上で主の弟子としてイエスに従うことに忠実だった人々のことです。 (黙示録 19:8-10)。

 その日、私たちは、主と主の福音のために受けてきた誤解、恥、迫害、さらには死など経験したすべてのことに価値があったことがわかるでしょう。

  千年王国

 その後、千年の平和の統治が始まり、ライオンが子羊と一緒に安らかに横たわり、子供が無害なコブラなどと遊ぶエデンの園のような状態が地上に広がります(イザヤ11:6-9)。 。

 そして、イエスはエルサレムから全地を王として統治します(ゼカリヤ 14:9-21)。 サタンはそれらの年月の間拘束され、今のように世に関わることができなくなります。

 その千年の終わりに、サタンは世での回心しなかった人々を再び試みるために、短期間解放されます。

 しかし、再び大勢の人がサタンに従います。 千年に渡る平和を見た後でも、キリストが自分たちを統治することを望まない人がいるということを、神が御使いと人間に証明されるのです。それほど人は盲目であり、頑固であり、邪悪なのです。 神はその反逆的な群衆に裁きを下され、サタンは火の海に投げ込まれるでしょう(これはさらに広大な地獄ということです - 黙示録 20:7-10)。

二度目の復活と最後の審判

 その後、神はすべての不信者を裁くために裁きの座を設けられます。 二度目の復活となります。 死者は、墓からよみがえります。 すべての不信者の魂は、地獄から地上の体に戻り、神の前に立って裁かれます。 その後、彼らは『これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じて』裁かれることになります(黙示録20:12)。

 記憶はビデオテープのようなもので、私たちが考え、話し、行ったことすべて、そして世の生活の中での動機や態度も忠実に記録します。 その日、神はこのテープを再生して、すべての人の隠されてきた人生を明らかにされます。 これは、神が人々を永遠の裁きに送ることができる完全に義である方を示す方法となるのです。

 いのちの書に名のしるされていない人は皆、地上で仕えていたサタンと共に火の湖に投げ込まれるのです(黙示録20:15)。

  時の終わり

 そして時は止まり、永遠が始まります。 救われた人々は新しい天と新しい地に入り、キリストの花嫁はその栄光の中で輝きます(黙示録 21 章に記載)。

 サタンとすべての不信者はその完全な天と地から排除されます。 その輝かしい新しい世界では、罪が醜い頭をもたげることはもうなく、私たちの肉にも欲は存在しません。 天国は永遠に神のみこころを喜んで選択した人々で満たされるでしょう。

  克服の召し

 ペテロはこう言います、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(2ペテロ 3:11、12)。

この終わりの日が近づいている今、御霊のメッセージは「克服せよ」の一言に要約できます(黙示録 2:7、11、17、26、3:5、12、21、21:7 参照)。

 この本は、今日、不信仰者への説教で見過ごされている要素「悔い改めること」から始まりました。

 そして、今日、信仰者への説教で欠けている要素「打ち勝つこと、克服すること」を強調してこの本を締めくくりたいと思います。

 人間が罪に陥って以来、私たちの召しは勝利者となることでした。 神はカインにこう言いました。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)。

聖書の最後の本では、その呼びかけが繰り返されています。

「 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(黙示録21:7)。

 神との交わりと神の目的の実現に生きる人生がもたらす栄光に匹敵するものは、地上にありません。 イエスが地上で生きた人生は、これまで生きてきた人類の人生のなかでも、最も素晴らしく、最も輝かしく、最も幸福な人生でした。 イエスは世界的に有名でも裕福でもありませんでした。 しかし、彼は生涯を通じて神の栄光を輝かせました。福音の良い知らせは、あなたもその神の栄光を輝かせることができるということです。

 あなたは世での生涯を通して、勝利者でいられるのです。 忠実に、常に永遠の価値に目を留めて生きてください。 アーメン。