天国のような家

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 章 1
「地上の天国の家」

長男サンジェイとキャシーの結婚式のメッセージ

 長男の結婚式でスピーチできることは私にとって大きな喜びです。 私たちは何年もこの日を楽しみにしていました。

 申命記 11:18-21 (KJV訳聖書) にある聖句をお二人と分かち合いたいと思います。 そこで神はこう言われます。

 「わたしの言葉を心に刻みつけなさい。そうすれば、あなたの日々は天の日々のようになるでしょう。」

「あなたの地上の日々が天の日々のようになりますように。」とはどういうことでしょうか。

 天国の日々がどのようなものか考えてみましょう。 天国には争いや衝突はなく、平和と喜びだけが存在します。 そして何よりも、愛で満たされています。

  地上での毎日が天の日々のような、そんな家庭をあなたたちは持つことができます。 それこそ、神がすべての家庭に意図されたことです。

 聖書はアダムとエバの結婚で始まり、キリストとその民の教会の結婚で終わります。

 神はアダムとエバの最初の結婚式を執り行われた時、彼らの日々が天国のような日々になることを望んでおられました。 彼らの最初の家は楽園、エデンでした。 しかし、サタンがやって来て、彼らの家を地獄に変えてしまいました。 そして今日、世界中にはこのような荒れ果てた家庭が、いたるところに見受けられます。

 しかし、物語はそれで終わりではありません。神を賛美します! 聖書には、エデンの園でアダムが罪を犯すとすぐに、サタンが引き起こした問題を解決するために、神は御子を遣わすことをアダムに約束されたと書かれてあります。

 ここに、神が悪魔に対して常に私たちの味方でいてくださるという偉大な真実があります。 神はアダムの罪のために世を呪われる前、女性を通して悪魔の頭を打ち砕くであろう子が生まれるだろうとアダムとイブに告げられました。 神が彼らに罰をお告げになったのは、その後でした。

 悪魔が来て、全てを滅茶苦茶にしたとしても、神はアダムとエバに、悪魔に対して、ご自分がアダムとエバの味方であるということを知ってほしいと思っておられたのです。 悪魔が、どの家庭で何をしようとも、神は家庭を立て直してくださいます。 神は、私たちがこの世においても天国のような日々を過ごすという、当初の神のご計画に、私たちの家庭を戻そうと願っておられます。 そして、キリストが来られた救いのわざが完了した今日、これは私たち一人一人に、本当に実現することです。

メーカーの説明書

 少し前にデジタルカメラを買いました。 それまでは、フィルムのロールを使用する旧式カメラを使用していました。 しかし、この高価なデジタルカメラを使用しても、まったく良い写真がとれず、どの写真も、ぼやけていて焦点が合っていませんでした。 それだけのお金を費やしたにもかかわらず、ゴミ箱に捨てたくなるような写真だけが残りました。これは結婚にも当てはまります。

 では、なぜそうなったのでしょうか。 メーカーの取扱説明書を読んでいなかったからです。 高価な機器には必ずメーカーの説明書が入っています。

 それでは、結婚を定められた神が、私たちに何の取扱説明書もお与えにならないでしょうか。 いいえ、神は確かに私たちに指示を与えてくださいました。 私たちの結婚生活が曖昧で焦点が合わず、ゴミ箱行きになってしまうのは、(私のデジタルカメラのように)神の指示に従わないからです。

 そこで、私はメーカーの説明書に書かれているカメラの使用方法に従いました。 私は、そのカメラのメーカーよりも自分の方がわかっていると自負していました。 そう思うこと自体、大変愚かなことです。 しかしそれは、結婚に関して「メーカーの指示」を無視し、神よりも、心理学者や人間の伝統に耳を傾ければ、より良い結婚生活が送れると思い込んでいる多くの人に見られる愚かさと同じです。

 神は、私たちに結婚について非常に明確な指示を与えてくださいました。 最終的にデジタルカメラのメーカーの指示に従ってみたところ、完璧な写真が撮れました。 そして、それはまさに、夫と妻がメーカーの指示に従った時に結婚生活でも起こることです。

 結婚についての取扱説明書を含む本は世界にたった一つしかありません。聖書です。私は結婚する何年も前に聖書の勉強を始めました。 そして、結婚後、私は妻と一緒に聖書を学びました。 そして、私たちは結婚生活三十七年間で、「地上での天国のような日々」を少しずつ体験してきました。

 福音のメッセージは、私たちは 二つの天国を持つことができるということです。今、地上で味わうことのできる天国のような日々、そしてキリストが再臨される時に訪れる、実際の天国です。

 また、地獄も二つあります。一つは今、もう一つは永遠に存在します。 主イエス・キリストは私たちをそこから救うために来られました。

土台

 サンジェイとキャシーが住むことになる家は二階建てのようですが、それはちょうど、結婚のあり方にもあてはまります。 家にはまず土台があり、その上に一階と二階が建てられます。

 住宅の最も重要な部分は家の土台です。すべての結婚にまず必要なものは良い基盤、つまり、神の完全かつ無償の愛です。 神の愛は、聖書全体に見られる最大の真実です。 私たちがつまずき、失敗し、人生を台無しにしてしまったとしても、私たちへの神の愛は決して変わりません。

 神はご自身の愛を私たちに説明される時、生まれたばかりの子供に対する母親の愛を例に挙げられました。 母親が赤ちゃんに何も見返りを期待していないことは明らかです。

 一方、テレビや映画で描かれる愛は利己的な愛です。 若い男性は女性に「愛している」と言うかもしれません。 しかし、彼は自分のために、彼女の何かを望んでいます。 また、女性の方も自分のために彼から何かを望んでいます。

 しかし、神の愛は違います。 それは、新生児の赤ちゃんに対する母親の愛情に似ています。 母親は子供に何も望んでいません。 実際、小さな赤ちゃんは母親に何も与えることができません。 母親の愛は地球上で最も無私無欲な愛です。 イザヤ書 49:15 で、神は、この例を用いて私たちへの愛を説明しておられます。全く利己的でなく、何も見返りを期待しない愛です。 神は母親のように、子供たちのために尽し、苦しみます。 母親が病気の子供の世話をする様子を見たことがありますか。神はそのようにして私たちも愛して下さっているのです。

 あなた方二人への神の完全な愛を認識することは、新しい家の基礎を作る上で必要なことです。その土台の上に二つのフロアを建てることができます。

 もし、あなたたち一人一人が神の愛の中に安住していなければ、二人の間に多くの問題が生じるでしょう。私たちが抱える問題の多くは、不安から来るものです。

 私たちは天の御父の無条件の愛に安心感を見出していません。そして、天の父の愛の中にしっかりと止まっていないと、私たちは他の人を愛することができなくなります。 人間関係において嫉妬、競争心、その他多くの問題が起こってくるでしょう。 しかし、一度神の愛の中に休むことができれば、私たちは自由になり成長することができます。

一階

 誰かがイエスに最も重要な戒めは何かと尋ねた時、イエスは、それは二つあると答えられました。 一つ目は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛すること、 二つ目は、神が私たちを愛してくださったように、人を愛することです。

 これは、ちょうど家の一階と二階に当たります。一階を建てる前に二階を建てることはできません。 多くの人がこの部分で間違いを犯します。彼らは、神を愛さずに、人を愛そうとします。彼らはメーカーの指示書を読んでいないので、しばらくすると人への愛も枯れてしまいます。

  私たちは、まず神を愛さなければなりません。そしてはじめて、人を愛することができます。

 神がアダムとエバを造られた時、彼らを同時に造られたのではありません。もしそれが御心であったならば、神は簡単に二人同時にお造りになったでしょう。神は粘土の塊を一個ではなく、二個取って男性と女性を同時に作り、両方に息を吹き込むこともできたはずです。

 しかし、なぜ神はアダム一人だけを創造されたのでしょうか。それは、アダムが目を開けたとき、最初に目にするのがエバではなく、神でなければならなかったからです。その後、神はアダムを眠らせました。なぜでしょうか。脇腹から肋骨を抜くためだけではありません。 神が庭内の別の場所でエバを造られ、彼女が目を開けた時に、最初に見る人がアダムではなく、神であるようにするためでもありました。 彼女はアダムの存在すら知らなかったのです。 彼女は最初に神だけを見ました。

 それが、神が二人に教えたかった最初の教訓です。

「あなたの神である私は、あなたの人生において常に第一でなければなりません。」 それは私たちも皆学ばなければならないことです。

 木材を接着するために使用される有名な工業用接着剤、フェビコルは皆さんもご存じでしょう。 一度その広告を見たことがありますが、その広告では、フェビコルでくっついた二つの木片と、それを引き離そうとする二頭の象が描かれていました。 そして、それらのゾウはその二つの木材を引き離すことができません。

 キリストが夫と妻の中心におられ、人を結びつけてくださる時、真のクリスチャンの結婚もこのフェビコルようになります。

 地上でも天でも、どんな力もそのような夫婦を引き離すことはできません。 しかし、もしキリストが第一でなく、夫と妻を結びつけるものが何もなければ、接着剤を使わずにただ組み合わされた二枚の木片のようなものであり、なんの力が加わることなくバラバラになってしまいます。

  今日、世界で離婚が非常に多く見られるのも不思議ではありません。 多くの夫婦は、結婚した当時は、お互いを深く愛し合っていたと心から思っていました。 しかし、彼らが気づいていなかったのは、キリストが彼らの人生の主ではなかったために、彼らの愛が利己的な愛にすぎなかったいうことです。 こうして、数か月後、彼らはお互いに激しく衝突していることに気づくのです。

 「互いに愛し合う」というのは、よく使われる素敵な表現です。 しかし、まず神を愛さなければ、それは本当に「互いに愛し合う」ことはできません。 キリストがあなたの私生活の主でなければ、伴侶への愛を最後まで持ち続けることはできないでしょう。

 しかし、神を愛するという一階部分を築くことができたなら、次はお互いを愛するというを二階部分を建てることができます。​​

二階

 お互いを愛することについて三つのことを述べたいと思います。

 まず第一に、愛は感謝を表します。 神は結婚愛に関する書を聖書に収められました。「雅歌」です。すべての夫婦に、この本をお互いに読み合ってほしいです。全能の神が夫婦にどれほど互いに話し合ってほしいと望んでおられるかが、この書には書いてあります。 そしてこの書は、聖書の他の書と同じように、神の霊によって書かれているのです。

 私たちみなが「夫と妻」としてお互い感謝し合えるように、この本から幾つか抜粋して読んでみましょう。 感謝の気持ちを表現することに関しては、私たちは皆とてもけちです。  私たちはすぐに批判したがりますが、なかなか感謝することができません。私たちは人々を見て、多くの欠点を見つけます。それが人間の本性なのです。 そして告発者である悪魔が、私たちの中に足がかりを得ます。

  その一方で、私たちが人を見て感謝すべき点を見つけた時、神は私たちに目を留め働いてくださいます。 私たち一人ひとりがここで自分の行動を吟味することができます。

雅歌(メッセージ聖書より)で夫が妻に何と言っているかを見てみましょう。

 「あなたは美しい、私の愛する人、頭からつま先まで、他に類を見ないないほど美しく、完璧です。 あなたの美しさは私を夢中にさせるほど魅力的です。 あなたの声はなめらかで、あなたの顔は私を魅了します。 あなたの美しさは、内側も外側も完璧。私の友。 あなたは私にとって楽園です。」

(これは私が書いた文章ではありません。聖句に書かれてあることです。)

「あなたは私の心を捉えました。 あなたは私を見て、私はすぐに恋に落ちました。 一目見ただけで、私はどうしようもなくあなたに恋をしてしまいました。 私の心は喜び躍ります。 ああ、あなたを見た時に私が感じる感情、欲望の動揺。 誰かをこれほど欲するとは。」

(これがすべての夫に当てはまればよいのですが。)

「地球上にあなたのような人はいませんし、これまでも存在しませんでした。そしてこれからも存在しません。 あなたは比類のない女性です。」

 (神はここで少し詩的な要素を含ませておられます。ここでは科学的にどうこうよりも、夫がどのように感じるかが問題です。)

 そして今度は妻の言うことを聞いてください。 これが彼女の答えです。

「私の愛する恋人、あなたはとてもハンサムな方。かけがえのない人。 あなたのような人はいません。 あなたは金です。あなたは険しい山のよう。 あなたの言葉は、温かくて心が和みます。 あなたの言葉は口づけ、あなたの口づけはあなたの言葉。 あなたに関するすべてが私の喜びです。 あなたは私を完全に虜にします。私はあなたを欲し、なにがなんでもあなたを私のものにしたいのです。 あなたがいないと私の心は痛みます。 あなたに会ったら、腕を回してしっかりと抱きしめます。 そして、私はあなたを手放しません。 私はあなただけのもので、あなたは私の唯一の恋人であり、あなたは私の唯一の人です。」

 神はなぜこのような文言を聖書に記されたのでしょうか。それは、 神ご自身が愛のお方だからです。

 サンジェイとキャシー、ぜひこのように愛する者同士になってください。神は、あなたが、このように互いに愛し合うことを望んでおられます。お互いに感謝することを学べば、あなたたちの毎日は天国のような日々になるでしょう。

 イエスはどの領域においても、私たちにとって素晴らしい模範となってくださいました。

イエスは、感謝の気持ちを人々へ本当に惜しみなく表現されました。

 真実の愛についての二番目のことは、愛は許しであるということです。責めるのに遅く、許すのに早い、これが愛です。どの結婚でも、夫と妻の間に問題は起こります。 しかし、それらの問題を後回しにすると、収拾がつかなくなります。 ですから、すぐに相手を許し、すぐに自分の許しを求めてください。日暮れまで待ってはいけません。朝、足にトゲが刺さったらすぐに取りますよね。 夕方まで待てないはずです。 配偶者を傷つけたら、相手にトゲを刺したことになります。 すぐに取り出しましょう。すぐに許しを求め、すぐに許しましょう。

 そして最後に、愛は、一人ではなく、パートナーと一緒に何かをしたいと思うことです。 悪魔が楽園でエバを誘惑した時、「決断を下す前にまず夫に相談させてください」とエバ言っていたら、人類の歴史はどれほど変わっていたでしょうか。

 エバが決断を下す前に、神が彼女が相談できる相手を与えてくださっていたにもかかわらず、彼女が自分で決断を下してしまったために、この世の多くの問題が起こったことを思い出してください。

 真実の愛は物事を一緒に行います。二は常に一よりも優れています。

最後に、神のみことば、雅歌8:6 と7 (メッセージ聖書より) をもう一度読んでみましょう。

「愛の炎はすべてを焼き尽くします。 洪水が打ち消すこともできません。 真実の愛は買うことができません。 市場にも売られていません。」

 神の愛だけがこのようなものです。 だからこそ、この愛は6節で「主の炎」と呼ばれているのです。このような愛を私たちに与えてくださるのは神だけです。

サンジェイとキャシー、お互いの間にそのような愛を与えてくださるよう、神に求めてください。

 あなたたち二人に神の祝福がありますように。 アーメン。

 章 2
「結婚における三つの選択」

次男サントッシュとメーガンの結婚式のメッセージ

 神は、私たちにただ一冊の書物を与えてくださいました。 もし、私たちが本当にそれ信じるなら、人生のあらゆる事柄について、その本の中に答えを探そうとするでしょう。 聖書には、人間に結婚を定めたのは神であると書かれています。 イエスはそれを最初に考えた方であり、一緒に結ばれたいという願望を男性と女性に備えて創造されたました。そして神は、夫婦が共にどのように生きるべきかについて、聖書の中で私たちに警告と指示を与えてくださいました。

 創世記 3 章には、アダムとエバの結婚について書かれています。 神は結婚で二人を結びつけるとすぐに、彼らを美しい楽園に送りました。楽園には三つの出来事、三つの選択がありました。神が人間のために計画された幸せな結婚を夫婦が望むのなら、これらの選択しなければなりません。サントシュとメーガン、あなたたちも同じです。

 実際、このような幸せな結婚生活は世ではほとんど見られません。なぜなら、多くの人は聖書を読まず、聖書を読んでいるとしても、聖書を黙想して思い巡らすことをしないので、神がどのような結婚生活を望んでおられるかを正確に知ることがないからです。

 神はアダムとエバをこの楽園に送られた時、彼らに十分な自由をお与えになりましたが、一つの制限を設けられました。神は彼らに一本の木から食べることを禁じました。

 しかし、そこには理由があったのです。 私たちは、自分で選択しなければ、誰も神の子になることはできません。そして、個人の意志がなければ、聖い人にもなれません。

 ですから、もし神がアダムに選択の機会を与えられていなかったら、アダムは決して神が望んでいた子にはなれなかったでしょう。 私たちは、自分の選択が、世での人生にとって、どれほど重要であるかを理解していません。ましてや永遠においてはなおさらです。

 神が私たちに与えてくださった最大の贈り物の一つは、選択する力です。 そして、神はその力を決して誰からも奪われません。 神の子になることも、自分のために生きることも、どちらも選ぶことができます。

 しかし、何を選択しても、人生の終わりには、それらの選択の結果を受けることになります。聖書には次のように書かれてあります。

「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、…」

しかし、神はその最後の日に人間を恣意的に裁かれません。 神の裁きは各人が行った選択に基づいて下されます。

 この原則は結婚生活にも当てはまります。 幸せな結婚生活を送りたいか、不幸な結婚生活を送りたいかは自分で選ぶことができます。 その選択はあなたのものであり、神のものではありません。 アダムも、自分のいのちをサタンか神のどちらに委ねるかを選択することができました。

 先ほど述べましたが、ここで結婚生活においてしなければならない三つの選択についてお話ししたいと思います。

1. 自己中心ではなく、神中心

 まず第一に、人生のあらゆる面で神を中心とすることを選択してください。

 エデンの園には二本の木があり、それらは二つの生き方を表していました。

  いのちの木は、人間があらゆる事柄を神中心で決めていくような神中心の人生を象徴しているのに対して、もう一本の木である善悪の知識の木は、自己が中心となり、人が神に相談せずに生き、何が善で何が悪かを自分で決める人生を象徴していました。

神はアダムとエバをその園に送り、こう言われました。

「この二つのどちらによって生きたいか今すぐ選びなさい。」

 私たちは皆、アダムがこの時何を選んだかを知っています。 彼は自分中心に生きることを選んでしまいました。

 私たちが世界で目にするすべての悲惨、悲しみ、殺人、その他あらゆる出来事は、人間が何が善で何が悪であるかを、自分で決めようとした結果です。人は神に指示されたくないのです。 またそれは、クリスチャンの間でさえもあらゆる不幸な結婚をもたらしています。多くのクリスチャンは、自己を人生の中心として生きており、自分で蒔いたものを刈り取っているのです。

 神はアダムを創られた時、彼が地を支配することを望んでおられました。アダムは奴隷としてではなく王として、エバはアダムの隣に並ぶ女王のような存在になるはずでした。

 しかし、今日状況はどうでしょうか。 男性も女性も、どこにいても奴隷であり、自分の感情とこの世の朽ちていくものの奴隷となっています。

 神がこの地球を創造された時、神はすべてのものを美しく造られました。 禁断の木も非常に美しい木でした。アダムとエバがその木の前に立った時、彼らは選択を迫られました。神が創造した美しいものか、それとも創造主である神ご自身か。

 それは私たちみなが、毎日しなければならない選択です。もし、私たちが自分自身を中心に人生を送っているなら、私たちは神ご自身ではなく、神の賜物(被造物)を追い求めることになります。 家庭内で起こる口論のほとんどは、この世的な事柄が原因です。

 このような口論が起こるのは、夫婦が神ご自身ではなく、被造物を選択するからであり、その選択の結果を彼ら自身が被るのです。 彼らは肉に種を蒔き、その結果腐敗をもたらします。 人間は創造者より被造物を選ぶと奴隷になるのです。

 イエスは私たちをこの奴隷状態から救い出すために来てくださいました。 今日、人はお金の力、邪悪な性的快楽、人の意見、その他多くのものの奴隷となっています。自由ではありません。 神は人を空高く飛ぶ鷲のように創造されました。 しかし、鎖につながれ、怒りを抑えられず、言葉や好色な目を制御できない人が至るところにいます。

  イエスは私たちの罪のために死ぬためだけではなく、私たちをこの奴隷状態から解放するために来てくださったのです。

 サントシュとメーガン、あなたたちにぜひ伝えたいこと、それは、あなたがアダムしたような選択を拒み、「私たちの人生の中心は自分ではなく、主よ、あなただけです。」と神に言うなら、あなたたちは最高に幸せな結婚生活を送れるということです。

 聖書には、神は光であり、神は愛であると書かれています。神の愛は神の光です。 暗い部屋では、光の力で暗闇を追い払います。それが神の力です。神の力や神の愛のない人生は暗闇でしかありません。

 私たちのこの世の人生は、すべてが愛の律法によって治められる永遠の王国に向けて、私たちを準備するための試練の期間です。したがって、神が今、私たちを導いているすべての状況や環境一つ一つは、神によって計画されたものであり、それぞれの場面で、私たちが愛の律法に沿って生きるかどうかが試されているのです。

 だからこそ、神は私たちの人生にこれほど多くの試練や困難をお許しになるのです。神は全能な方でおられるので、私たちがまったく試練に遭わないような人生を、この地に創造することもおできになったはずです。しかし、神はその偉大な知恵によって、私たちが愛することを学ぶための手段として試練を定められました。

 私たちが自己中心を克服し、愛だけが私たちの人生を導くと決心するなら、神は私たちを来るべき神の王国を司る者となるように備えてくださるでしょう。

  私たちはこれらのことを、今考えなければなりません。そうしなければ、神が世で与えてくださった機会を逃し、学ぶべきことも学ばなかったとを永遠に悔いることなるのです。

 ですから、あなたが結婚生活で選択しなければならないことは、愛の律法に従って生きるか、それとも自己中心の律法に従って生きるかです。神があなたの人生の中心におられるなら、神の愛はあなたがなすべきこと、言うべきことを一つ一つ教えてくださるでしょう。

2. お互いを受け入れあう - 仮面を被らないこと

 二番目に私が言っておきたいことは、お互いを認め合い、仮面を被らないことです。

 罪が起こる前「ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」とあります。彼らはお互いに全てをさらけ出し、正直で隠すことは何もありませんでした。

 しかし、彼らが罪を犯すとすぐに、状況は変わりました。 彼らは、すぐにイチジクの葉で自分たちを覆いました。 なぜ、彼らはそうしたのでしょうか。

  その庭には覗き見する人などはいませんでしたし、また、動物から身を守るための行動でもありませんでした。では、なぜイチジクの葉で体を覆う必要があったのでしょうか。

彼らはお互いから身を隠したのです。

 罪の結果としては、私たちは互いに隠れます。 人は皆、自分の性格の中で醜いと感じる部分を隠します。 人に自分たちの詳細を知られたら、恥ずかしい思いをするでしょう。 そして彼らは仮面をかぶります。 彼らは落ち着いて幸せで何も問題なさそうに見えますが、体裁を繕いながら水面下では惨めで挫折しているのです。

 結婚生活では、決して仮面をかぶらず、お互いが自分らしくいることを心に決めるべきです。 見せかけもイチジクの葉も何も持たないようにしましょう。

 たとえ誰かが自分のことをすべて知っていても、それでも本当に愛してくれる人を見つけたいという願望は誰の心の中にもあります。 私たちが仮面を被るのは、人からの嫌な経験があるからです。 人々が私たちのことをすべて知っていても、私たちを受け入れてくれないことがあるのを私たちは知っています。 そこで私たちは人々に受け入れられようと、人々の前で体裁を繕うのです。 これはクリスチャンにも当てはまります。 イエスが地上におられた時、仮面をつけた多くの宗教家たちがいましたが、イエスが彼らを助けることができなかったのはそのためです。

 私はあなたたち二人に、ぜひ今日決心していただきたいと思います。決して仮面をつけず、常にありのままのお互いを受け入れること。 サントシュ、メーガンに欠点があったとしても、彼女を受け入れますか。メーガン、サントシュに欠点があったとしても、受け入れますか。

 神の素晴らしいところは、私たち全員をありのままに受け入れてくださることです。 神に受け入れられる前に、自分がよくならないといけないと教える宗教は偽りの宗教です。  イエスはそのような宗教をもたらされたのではありません。 イエスは、神はありのままの私たちを愛してくださるというメッセージを携えてやって来られました。 神は、私たちが自分自身を変えることができないことをご存知です。 そして、神は私たちをありのままに受け入れ、私たちを変えてくださいます。 聖書は、サントシュとメーガンの二人にこう勧めています。

「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」

 少し前に、この問題を取り上げた記事を読みました。 作者の名前は覚えていないのですが、 記事にはこう書かれていました。

 「私たちは皆、『かくれんぼ』をしながら人生を生きています。 私たちはありのままの自分が恥ずかしいので、お互いに隠れます。 私たちは、仮面をつけて、自分の中の本当の自分を他人に見せないようにします。 私たちは仮面を通してお互いを見つめ、それを『交わり』と呼びます。 私たちは、人々に自分たちが安泰で平穏であるという印象を与えますが、それは単なる仮面にすぎません。 その仮面の下では、混乱、恐れ、孤独を感じています。

  私たちは他人に自分を見透かされるのではないかと恐れます。 もし、彼らが本当の自分を見たら、彼らは私たちを拒否し笑い飛ばすだろう、そしてその嘲りが、私たちを殺すかもしれないと不安になります。 そこで、私たちは『ごっこ遊び』をします。自信と確信を持っているように見せますが、心の中では常に幼子のように震えています。 見せかけだけの人生です。 私たちは人と話して冗談を言ったり、自分についてたわいの無いことを話したりしますが、心の中の叫びについては何も話しません。」

「私たちは人に受け入れられ、理解され、愛されることを望みます。 しかし、私たちは経験上、本当の自分を他人にさらけ出す度に、自分が拒否されることに気づきました。 私たちは、例え自分の全てを知ったとしても、その自分を受け入れてくれる人を探し続けます。

 しかし、そのような人は決して見つかりません。 回心したクリスチャンが愛について語っているのを耳にすると、彼らは私たちを受け入れてくれるかもしれないという希望が心の中に湧き上がります。 しかし、彼らの仲間に加わってみると、すぐに彼らも仮面をかぶっていることに気がつきます。そして彼らは私たちのあら探しばかりします。

 では、この解決策は何でしょうか。それは私たちが、ありのままの自分が神に受け入れられ、愛されていることを知ることです。 神は愛です。神の愛を経験することは、私たちを大胆にします。 そして、もう取り繕う必要はありません。

 そうすれば、私たちは神に対しても、人間に対しても、自分らしくあることができます。 神の愛は、私たちに何かを強制することは決してありません。 神は、私たちの不完全さをすべて認識しておられ、それでも私たちを非難することなく受け入れてくださいます。

 その一方で、神は私たちを完全にすることを望んでおられます。神が、私たちの内側をご覧になり全てを知っておられるにもかかわらず、私たちをそのまま受け入れてくださったことを知ることは、幸せなクリスチャン生活の根源です。 これが、イエスが来て与えてくださった豊かな命です。」

 「神の愛を知ることは、承認要求にまつわる私たちの行動に永遠の終止符を打ちます。 私たちは自信に満ち溢れます。 私たちの罪悪感はなくなり、恐怖も追い払われるでしょう。 私たちは時々孤独になるかもしれませんが、決して孤独ではありません。なぜなら、神は決して私たちを離れたり、見捨てたりしないと約束しておられるからです。」

 あなたの結婚相手の心の中には、受け入れられたいという願望が叫んでいます。 ですから、パートナーが話す言葉だけでなく、語られずに残っている言葉、つまり決して口にされることのない心の中の沈黙の言葉にも耳を傾けることが重要です。

 神がありのままの私たちを受け入れてくださったことを信じないのは、本当に残念なことです。そして、私たちは神からも身を隠そうとします。それこそが、アダムとエバがしたことに他なりません。彼らは、神の目から隠れようとして、木の後ろに走っていきました。

 多くの夫や妻は、神に受け入れられたという喜びを見つけられていないので、お互い愛し合うことができません。 彼らには、宗教がありますが、キリストがおられません。サタンの傑作の一つは、キリストのいないキリスト教という抜け殻を人々に与えることであり、それで人々を不幸にしてきました。

  多くの人が真のキリスト教ではないそのような宗教から顔をそむけます。 真のキリスト教はキリストご自身です。

 イエス・キリストが中心であるすべての家庭には平和があります。それは、夫と妻がお互いを理解し、神が二人を受け入れてくれたという事実に安住し、自信を持ってお互いを受け入れる家庭となるからです。 それこそが、あなたたちの建てるべき家庭です。

 あなたがまだ醜くて破滅していた時、イエスはあなたを愛してくださいました。それも、あなたがイエスを喜ばせた時ではなく、あなたが悪だった時、イエスに苦痛を与えた時です。 神は今、あなたに、パートナーに愛の根幹を期待するのではなく、イエスと同じように、そのままのパートナーを愛するよう願っておられます。

 一緒に暮らしていくと、自分では気づかなかったお互いの欠点にすぐに気づくようになります。 そして、あなたたちがお互いを愛するのを助けてくれるのは、神があなたのすべてをご覧になったにもかかわらず、あなたを受け入れてくださったという確信です。

 神は今日もあなたの内側を、あなた自身もまだ見えていないものを見ておられ、それでもあなたを受け入れてくださっています。

 このように愛し合えば、お互いが隠れているあらゆる牢獄の壁を打ち破ることができるでしょう。 あなたの内にある神の愛は、それらの壁よりも強く、すべてを優しく打ち破ってくれるでしょう。 そして二人は真に一つになるのです。

 それでは、この記事の結びの言葉を読んでみましょう。

「あなたの愛と優しさ、そしてパートナーの気持ちを理解しようとする十分な気遣いが、あなたのパートナーに翼を与えます。最初は小さな翼で弱々しい翼ですが、翼が育ちます。 そして、もしあなたが諦めなければ、その翼は成長し、いつかあなた方二人とも鷲として空に飛び立つでしょう、それが神のご計画です。」

3. 一緒に行動すればサタンに打ち勝つことができる

 あなたがしなければならない三番目の選択は、一緒に物事を行うことです。

 神は、アダムとエバを一緒に園へ送りました。 しかし、サタンがやって来て、エバを引き離し、一人で彼女に話しかけました。 アダムはそこに立っているだけで、妻が一人で致命的な選択をするのを許してしまいました。

「エバ、待って、神が私たちに告げられたことを忘れたのか。私たちはその木の実を食べてはいけないはずだろう。」ともしアダムが言っていたら、どれだけ違う話になっていたでしょうか。

 夫と妻がお互いに独立して行動し始めると、多くの問題が発生します。 一人でサタンに立ち向かうことはできません。 サタンは、あなたの人生と家庭を台無しにする機会を狙っています。家庭は彼が最初に攻撃した場所であり、今日でもサタンはそこを狙います。 イエスが言われたように、サタンは盗み、殺し、滅ぼすためにやって来るのです。 しかし、二人が力を合わせればサタンに打ち勝つことができます。

伝道者の書 4:9-12 には次のように書かれています。

「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。

どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

 これらの聖句は、マタイ 18:18-20 の素晴らしい約束と密接に関係しています。 しかし、ほとんどの夫婦が、お互い硬く結びついて一つになっていないので、この約束をはっきりと言い表すことができません。私は、この約束の聖句をお二人に送りたいと思います。なぜなら、この約束は、私たちが結婚して三十八年間、アニー(妻)と私の祈りに素晴らしい答えをもたらしてくれたからです。

 この聖句には、もしあなたたち二人が心を一つにし、霊において一致しているのであれば、あなたは何でも求めることができ、天の御父はあなたの願いを叶えてくださると書かれてあります(19節)。なぜならイエスご自身があなたのただ中におられるからです(20節)。 あなた方二人(そしてあなたの真ん中にいる第三者としてのイエス)も、サタンの活動を縛り付け、彼の策略も全て完全に閉ざされるでしょう(18節)。 そうすれば、三人は切れることのない三重編みの紐のようになるのです。

 神はあなたの人生のあらゆる問題を解決できます。人間には解決できない問題がたくさん出てくるかもしれません。 ですが、神に解決できない問題はありません。 神があなたの問題を解決してくださるには、二人が団結しなければなりません。全てのことを夫婦で共に取り組みましょう。

 もし、パートナーを傷つけたことに気づいたら、すぐに許しあいましょう。待ってはいけません。すぐに許しを求めてください。 この地上で他に何を失う必要があるとしても、どんな犠牲を払ってでも、一つになることを心がけてください。 そうすれば、祈る時も、すぐに神からの答えが得られるでしょう。 そして、サタンは決してあなたの家に侵入することはできません。 それが神の約束です。

 最後にもう一つ言わせてください。結婚生活で愛に基づかない考え、言葉、行動はいつか砕かれます。あなたのうちに神の愛があれば、あらゆる困難を乗り越えることができます。  神の愛は、閉ざされたドアを開け、壁を破壊します。この愛を追求すれば、あなたの結婚生活は世界で最も幸せな結婚生活になるでしょう。

 適切な人を選ぶだけでは十分ではありません。お二人はもう既に選ぶことができました。 今、あなたは結婚生活を通して、正しい選択をしていかなければなりません。

 今日、この愛の原則を受け取るなら、結婚生活にむけての最高のスタートとなります。 そして、この道を毎日歩み続ければ、神の愛はすべてを克服し、決してすたれることがないことを不敬虔なこの世代に証明するでしょう。 そして神は、あなたの人生において栄光をお受けになるでしょう。

 あなたの家庭が主への素晴らしい証しとなるよう祈ります。 そして、今日聞いた言葉が、単に聞いた言葉ではなく、あなたの人生の中で肉となり、あなたの家がまわりの人々にとって、光となることを祈ります。

 世界は愛に飢え渇いている人々で溢れています。 神が、あなたの人生で働かれ、あなたを通して神の愛を明らかにされるでしょう。そのようにして、神はあなたの周りの必要とする多くの家庭を助けてくださいます。神の祝福がありますように。

 章 3
「楽園のような結婚」

三男サンディープとローラの結婚式のメッセージ

 最初の結婚は、神によって園で行われました。 ですから、今日、私たちがこのような庭園で結婚式をあげれることはとても素晴らしいことですね。 エデンはこの庭園のようでしたが、もっと美しいものでした。 ですから、私たちはこの結婚式をここで行えることを神にとても感謝しています。

 サンディープとローラ、イザヤ 58:11の約束をあなたたちと分かち合いたいと思います。そこには「あなたは、潤された園のようになり」と書かれてありますが、

「あなたの結婚生活は、水が注がれた庭園のようなものになるでしょう」と付け加えさせてください。

 創世記2章には「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」と記されています。 しかし、神はアダムとエバにも耕すように与えた別の園がありました。それは、アダムとエバの相互関係です。 しかし、彼らはそれを耕さず、悪魔が彼らの間に入るのを許してしまいました。

 今日、主はあなたたち二人に、耕すための園を与えられました。園は放置すると、あっというまに荒てしまいます。 箴言 24:30から34には、怠慢な人の園が藪になっていたことが記されています。 それは、実際多くの結婚生活で起こっていることですが、決してあなたたちの結婚で起きてはいけません。

  あなたたち二人に対する神の約束は、「あなたは、潤された園のようになる」です。

 今日は、聖書に出てくる三つの庭園について話したいと思います。

エデンの園

ゲツセマネの園とカルバリ

花婿の庭 (雅歌)

 罪が園にやって来ました。救いも園に訪れました。

そしてあなたの結婚生活はキリストを讃える庭園のようなものになります。

1. エデンの園 

 罪はどのようにしてその園にやって来たのでしょうか。それは基本的に、アダムとエバの 誤った態度に原因がありました。

 その一つは高慢です。 彼らは自分たちが神よりも知識があると考え、神に背いて立ち去ろうとしました。今日も、世界中で多くの人がそう考えています。

 二つ目の原因は自己中心でした。 彼らは、その果物を食べて得られるものだけを考えていました。 そこには、「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」と書かれています。

 高慢と利己主義が当初の罪の原因でした。 そしてこれらは、今日の人類のすべての罪の根本原因であり、社会で蔓延しています。

 基本的に人間は自己中心的で、神から独立した人生を送りたいと考えています。 そうやって罪がやって来るのです。

2. ゲツセマネの園とカルバリ

 罪が庭にやって来ました。 しかし、イエスは私たちの救いを園で成し遂げてくださいました。

 ゲツセマネの園については多くの人が知っています。 しかし、イエスが園で十字架につけられたこと、また園に埋葬されたことはあまり知られていません。

 ヨハネ 19:41にはこう書かれています。

「イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

 イエスは園で裏切られ、園で十字架につけられ、園に埋葬され、園で死からよみがえられました。 そして、園であなたたち二人に救いがもたらされました。 イエスがあの園でなさったすべての恩恵は、今日あなたのものなのです。

 イエスの世での生涯を見ると、そこにはアダムの家系に見られる高慢や利己主義とは正反対の姿が見られます。

 キリストの生涯には、たとえそれが十字架で死ぬことであっても、御父が望まれたとおりに自ら進んで行うへりくだりの姿が見られます。 彼は何の迷いもなく、すぐにその道をお選びになりました。

 キリストはまた、自分ではなく他の人の必要を無私無欲に考え、彼らを助けるために自らを犠牲にすることをいとわれませんでした。これが、神があなたたち二人に期待されていることです。

3. 花婿の庭

 私が述べたい三番目の園は、ほとんどのクリスチャンにはあまり知られていない庭園です。 この園は雅歌(花婿と花嫁、夫と妻の関係を描いた歌)の中で言及されています。

 雅歌 4 :12 で、花婿は「 花嫁は、閉じられた庭、…」と述べています。 ここでの花婿はキリストです。 そして、神の花嫁である私たちは、神専用の庭園となるのです。

まず、私たちが知っておくべきことは次のことです。

 結婚生活において、二人で一緒に庭を作らなければなりません。 しかし、その園は、あなたのためではなく、あるいは他の人のためでもなく、主のためであるべきです。 このことを常に心に留めておいてください。

 あなたの結婚は主のためのプライベートガーデンであるということです。 そうすれば、副産物として、他の人もあなたの結婚を通して祝福されるでしょう。

 イエスは次のように教えられました。 誰かがイエスに、律法の中で最も重要な戒めは何かと尋ねた際、イエスはこう言われました。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ 22:37-40 )

 私たちの人生はまず神から始まらなければなりません。 それが、神がアダムとエバを同時にではなく、別々に創造された理由です。アダムが目を開けた時に最初に目にするのがエバではなく、神でなければなりませんでした。 そして、後にエバが創造され、彼女が目を開けた時、最初に見えたのは神、そしてアダムでした。

 あなたの結婚生活を水が注がれた庭園にしたいのであれば、あなたの人生においも、このようでなければなりません。

 どの園にも雨は必要です。 そして新約において、私たちは聖霊、つまり天の雨に満たされることができます。 ですから私は、心からこの聖霊の満たしを求めるよう、あなたたちにお願いしたいのです。

 聖霊に満たされるということは、人生のあらゆる領域を聖霊の制御下に置くということです。 一生涯、毎日天の雨にあなたたちの心を開いてください。

 私は、東洋文化と西洋文化の間には多くの違いがあることに気づきました。 しかし、プライドはどちらの文化でも同じです。 東洋文化では、例としてインドの結婚式では、「花嫁が来た」とは歌いません。 彼らは「花婿が来た」と歌います。 インドの結婚式では、花婿が重要なので、花婿が馬に乗ってやって来る場合もあります。 そして花嫁は馬の後ろを歩くだけです、なぜなら花嫁は劣った存在と扱われているからです。それが東洋文化です。

 西洋文化の場合は逆です。 ここでは、式では誰もが花嫁のために立ちますが、花婿のために立つ人は誰もいません。 なぜなら、ここでは花嫁に重点が置かれているからです。「花嫁が登場します」ではじまります。

 しかし、キリスト教文化であるならば、「主が来られます」から始まらなければなりません。東洋文化も西洋文化も罪によって汚されてきました。 一方は男性、他方は女性が重要視されます。 しかし、主がまず何よりも優先されるなら、「主が来られます!」と言えるでしょう。

 さらに、東洋文化では、男性は誇らしげにこう言います。「私は彼女を求めに行ったわけではありません。彼女の父親が来て、私を求めてきました。」この高慢がわかりますか。  しかし、西洋文化では、花嫁はこう言います。「私は彼を探しに行ったわけではない。彼はやって来て私を口説き、私を勝ち取りました。」 そこにも高慢があります。

 しかし、キリスト教文化では、私たちは共にへりくだって「主が私たちを一つにしてくださいました。 私たちは主を愛し、主の目には私たち二人は平等です。」と言えるのです。

 私はあなたたち二人に、それぞれの文化の誇りを超えて、信仰者であるよう勧めます。 毎朝、「主が来てくださる」をあなたの心の歌として、あなたたち二人が主のへりくだったしもべになれますように。 そうすれば、あなたの結婚生活は、水が注がれた庭園のようになるでしょう。

 プライドとともに、利己主義もすべての文化に共通です。 男性が結婚相手の女性を探す時、彼は利己的に美しさやかわいさを女性に求めます。 そして、女性が結婚相手を探す時も、彼女は利己的に裕福な男性を探します。 これは世界中どこでも共通する現実です。

 しかし、キリスト教文化では、主を愛し、主を敬うという理由で人を選びます。 そこで私は、あなたたち二人にも、人間の利己主義を乗り越えるよう努めてください。

 お二人の文化は、どちらが優れているということは決してありません。 東洋人は自分たちが西洋人より優れていると考えており、西洋人は自分たちが東洋人より優れていると考えているかもしれません。しかし、どちらも間違いです。 キリスト教文化は、何よりも優れたものであり、それこそまさに、神があなたが大切にするよう望まれていることです。

 良い庭を作る方法を調べるために「Google」検索を行ったところ、次の五つのルールが見つかりました。

 ⒈ 病気に強い種を使用しましょう。病気を適切に管理する鍵は予防です。

 私たちは口(話す言葉)で種を蒔きます。 お互いに話す言葉によって、病気が蔓延しないように注意してください。 話す時は、病気に抵抗できる言葉を使いましょう。 病気によっては、植物を保護するために、頻繁に化学薬品を散布する必要があります。同じように、 あなたの庭に雑草を生えさせたくなかったら、常に口に気をつけなければなりません。 あなたの結婚生活に雑草が生えないことを願っています。

⒉ 肥料を使って土壌の質を良くします。 幸せな結婚生活を望むなら、お互いを励まし合い、感謝し合いましょう。 このような肥料を地面に植えると、本当に良い作物が得られます。

⒊ もう手の施しようのないような病気にかかってしまった植物は、すべて抜き取り処分しましょう。 これは、過度なテレビ視聴など、自制できないような、依存性が高い行動を指します。すぐにそのような悪循環を断ち切りましょう。テレビ視聴に何も問題はありませんが、テレビの前で何時間も無駄にするのはよくありません。そのような行動を管理しましょう。 もし、それらを自制できていれば、大丈夫です、何も問題はありません。 しかし、そのような活動は自分でコントロールすることが重要です。

⒋ 病気にかかっている葉があったら、すぐに切り取りましょう。 これは、自分が相手を傷つけたことに気づいたら(病気の葉)、すぐにそれを切り取ること、つまり、すぐに許しを求めましょう。また、すぐに許してください。 このようにして、葉を切り落とします。 そうしないと、このような問題が深刻になる可能性があります。 そしてもう一つ、その切り取った病気の葉は捨ててください。過去のことは思い出さず、忘れましょう。

⒌ 手入れが行き渡らないほど植物を植えないでください。 植物を密集させないようにしましょう。 過密状態では、良好な空気の流れが妨げられ、十分な日光が受けられなくなります。 つまり、一日二十四時間でたくさんのことをやろうとしすぎて、結婚という庭が放置され、家族が後回しになる事態は避けるべきです。 あなたの「家族」という庭は常に最優先されなければなりません。植物が密集すると、十分な日光(神の光)にさらされず、空気の動き(二人の間の良好な交わり)も妨げられます。

 これらは神ご自身が世界中の庭に定められた法則です。ですから、家庭を最優先にしてください。では、ここで、雅歌 4:16を見てみましょう。

「 北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。」

 どの結婚でも、私たちは逆境という冷たい北風と、繁栄という暖かい南風に直面します。 しかし、イエスを私たちの頭とし、私たちが人生をイエスに明け渡すならば、逆境や繁栄、試練、慰めに直面しても、これら両方の風が私たちを通してキリストの香りを世界中に広げてくれるでしょう。

 世はこのようなことができません。 世は、あらゆることに不平不満をもらし、 逆境の時には神に対してさえ不平を言います。世界中の誰もが、繁栄の南風に耐えることができても、逆境の北風には耐えられません。

 しかし、キリストの花嫁は、逆境にも繁栄にも対処でき、勝利を収めることができます。 それはあなたたち二人にとっても、そして結婚している私たち全員にとっても言えることです。

 最後に、雅歌のこの箇所には「私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように」と書かれています。 逆境におけるあなたの勝利は主だけが見るものであり、他の人に誇示するものではありません。 主は、他の人が見ていない時でも、あなたの人生を密かに見ておられます。 そして、神がご自分の庭に来られる時は、ご自分が喜ばれるものが何かないかを求めておられます。

神様の祝福がありますように。

 章 4
「家庭ー神の聖所ー」

四男スニルとアヌグラの結婚式のメッセージ

 神のみことばは、私たちの人生、家庭、そしてこの世界のすべてのものの土台です。なぜなら、神はみことばによってこの世界を創造されたからです。 したがって、神のみことばだけを土台として歩むなら、問題はありません。

 出エジプト記 25 章で、神はご自分が人の内に住まわれるというご意志を、初めて明らかにしておられます。神は出エジプト記25:8でこう言われます。

 「 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」

それは神の火、つまりイスラエルの民と世界の他の人々との違いを示す神の栄光が満ちる幕屋を指していました。

 出エジプト記で読んだものとまったく同じ幕屋を作るのは簡単です。なぜなら、そのすべての寸法がそこに示されているからです。 私たちは、その幕屋の正確な複製を作ることができますが、そこには複製できないものが一つあります。それは、幕屋に宿る神の栄光です。この聖所で最も大切なものは、神の栄光であり、これは神の民の中にある神の臨在を示していました。

 スニルとアヌグラ、あなたたちが結婚した今日、しなければならない最も重要なことは、自分の家庭を神のための聖所にすることです。お互いが喜ぶよう心がけるべきですが、あなたたちの聖所はそのための場所でもなく、また、他の人を祝福するべきですが、そのための場所でもありません。この聖所は第一に、神がご自身の臨在が明らかにされる場所であり、イエスが喜んでいてくださる場所です。 神は「彼らに私の住む場所を作らせよう」と言われます。

 ですから、私はあなたたち二人にぜひ言いたいのです。神はあなたたちに、神がお住になる家庭を築くように命じておられます。

 中に入った瞬間、居心地が悪いとすぐ感じる家がよくあります。また、入った瞬間から、まるで自分の家にいるような気分にさせてくれる家もあります。 この感情を説明するのは難しいですが、誰もが経験することだと思います。

  クリスチャンホームはイエスが完全にくつろいでくださる場所でなければなりません。 それは、神がそこで見るものすべてを喜ばれるということです。例えば、私たちが読む本や雑誌、夫婦の間で交わされる会話、話す話題、見るテレビ番組等です。

 多くのクリスチャンホームの家の中に、よく聖句の壁掛けがかけてありますが、イエスは居心地よく思われない家もあります。

 神が、どれほどの大きな期待を抱いて、アダムとエバを引き合わせたか想像できますか。  父としてアダムとエバのために、何とすばらしい計画を神は持っておられたことでしょうか。 私も父親ですが、今日息子が結婚するのを見てそれがわかります。 しかし、神がアダムとエバを結びつけた時に抱かれた思いのほんの一部にすぎませんが。

 神は、いつもご自分を第一とするような幸せな家庭を、アダムとエバの二人に築いて欲しいと望まれました。 しかし、残念なことに、神はすぐに失望されました。 神は二人に対して怒っていたのではなく、悲しんでおられました。今日神は、平和がなく言い争いだけがあるような信仰者たちの家庭をたくさんご覧になって、同じように大きな悲しみを抱いておられると思います。彼らは、困った時だけ神に頼るのです。世の人々は、何らかの問題に直面した時だけ神に頼りますが、私たち信仰者はそうではありません。

 神は、何か困難に陥った時にかける緊急連絡先ではありません。 いいえ、神は常に私たちの生活の中心でなければなりません。

 神のみことばは、購入するあらゆる機器に付属する「取り扱い説明書」のように、私たちに与えられています。 私たちは皆、電子機器を購入した後、その指示に正確に従うよう細心の注意を払います。 あなたの機械に何らかの問題があり、それをメーカーに持っていくと、メーカーは最初に「取り扱い説明書を読んでやってみましたか。」と聞いてくるでしょう。 実際、ほとんどの保証書には、説明に従わなかった場合、保証が無効になると明記されています。

 しかし、荒んだ人生にある私たちがいつ神の元に戻っても、神は喜んで私たちの人生を正して下さることは本当に素晴らしいことです。神の保証はたった一年ではないのです、 それは一生です。

  あなたが、挫折した人生と共に神の元に来るなら、神はあなたの人生を立て直してくださいます。それが神の素晴らしいところです。神は愛情深い父です。そして、あなたの家庭に神のための聖所を作るよう、あなたに求めておられる方が、愛に満ちた父

であることを覚えておくことは非常に重要です。

  神は、あなたの人生に初めから、あなたに非常に関心を持っていてくださり、イエスが再臨される日まで、あなたが幸せに暮らすことを望んでおられます。

 私は何十年にもわたる結婚生活の中で、妻と一緒にその幸せを少しだけ味わってきました。 そして、私が言えるのは、あなたがたにとって最も素晴らしい人生とは、イエスがあなたの人生の中心であり、あなたの家庭の中のことが、例えば、時間やお金の使い方、その他すべてのことにおいて、イエスに喜んでいただけるかどうかが基準となる生き方です。

  もしあなたがそのように生きるなら、あなたが人生の終わりを迎える時、あるいはその前にキリストが再臨してキリストの前に立つ時に、キリストは「よくやった」と言ってくださるでしょう。 そうすれば、他の人があなたについてどう思っているかは問題ではなくなります。

 人の特徴の一つは、人を外見で判断することです。 私も律法主義者であった何年もの間、人を外見で判断していました。 しかし、神が見ているのは心であることが、よりはっきりと分かってきました。 常に純粋で清くあるべきなのは、自分の心だということを、お二人に覚えておいていただきたいと思います。

 あなたの家が宮殿であろうと小屋であろうと、外見は二の次です。 神が見ているのはあなたの心です。 ですから、あなたの心が一つとなり、神が住まわれる聖域、つまり聖なる場所であることを常に確認してください。

 1. 平和な家

 神はどこに住んでおられるでしょうか。平和がある家庭です。イエスは、弟子たちを説教のためにさまざまな場所に送り出されましたが、ルカ10:5−7で、平和のある家を探すように言われました。 そして、そのような家を見つけたら、そこにだけに滞在し、他の家を探さないようにしました。 なぜイエスはそんなことを仰ったのでしょうか。それは、平和な家はそう簡単には見つからないということを神はご存じだったからです。

 神は争いのない家に住まわれます。 夫婦は大抵、何について争うのでしょうか。ほとんどが物質的な事柄、つまりこの世での問題についてです。

 この世では物事がうまくいかないことがあります。 しかし、何か問題が起こった時、深刻なのは罪だけであることを覚えておいてください。 他のすべての事柄は二の次であり、重要ではありません。二人ともこのことをはっきりと理解してほしいと思います。問題なのは罪だけです。 地上の問題を理由に、いつでも恨みを抱き、お互いに話し合わなくなるなら、それは神の心を悲しませるでしょう。

 私があなたたちと分かち合いたい知恵、それは罪を憎むことです。それがあなたの結婚生活を破壊する唯一のものだからです。

 あなたの家は神の聖所であることを忘れないでください。 そして、家の平和を乱す何かが起きたら、そこはもはや聖所ではなくなります。 私は主があなたに対して怒ったり、呪ったりすると言っているのではありません。 いいえ、主は決してそのようなことはされないお方です。しかし、主は悲しまれるでしょう。

今、あなたは結婚の初日である今日から、自分たちの家庭の中でイエスに喜んでもらいたいと心から願っておられると思います。

 あなたが行うすべてのことにおいて、次のように祈りましょう。

「主よ、私たちは人に喜ばれているかどうかには興味がありません。 主よ、喜んでおられますか。私たちの生活、考え方、お互いに対する態度の中に、あなたを悲しませている部分はありませんか。 私たちはあなたに私たちの家で喜んでいただきたいのです。 私たちは自分たちの人生を、いつも『主は喜ばれるだろうか。』と問いながら歩んでいきたいです。」

 あなたの家庭が、その後どのようになるか想像できますか。 それは幕屋の上に輝いていた神の栄光と同じ栄光が輝くのです。 そして人々は、あなたの家庭を通して、生ける神に引き寄せられるでしょう。

 夫と妻の両方が、平和のために自らの権利を喜んで放棄する場所に神は住まわれるでしょう。 ある時、電車に乗ろうとしていた若い夫婦が私のところに来て、「ザック兄弟、二分以内になにか助言していただけませんか。」と言いました。 そして私は次のように答えました。「どちらも、常にお互いに許しを求め、許しあうことができるような夫婦でいてくださいね。」

 もし、あなたが何か間違ったことをした時、すぐに許しを乞い、また反対に、相手が許しを求めたら、すぐに許すという心構えができているなら、あなたの家庭には日々平安があるはずです。あなたの家庭は、既にそのような家庭かもしれません。 いずれにせよ、私たちは、夫婦間の関係に関しては、常に敏感でなければなりません。

 足にトゲが刺さった時、一秒も待てずにすぐにそれを取り除きますよね。 同様に、心に何らかの混乱を感じたら、すぐにそれを取り除かなければなりません。 それはとげです。  その棘はあなたを滅ぼしかねません。 とげが足に感染症を引き起こす以上に、この棘は心に悪影響を引き起こします。 いかなる犠牲を払ってでも、平和を追い求めてください。 お金であろうと何であろうと、他に何を失っても気に止めないでくださいしない。そのようなものは平安ほど大切ではありません。

平和とお金を天秤にかけて、平和はお金よりもはるかに重いということを、お二人とも認識していただければと思います。 このことを決して忘れないでください。

 家の中で何がありましたか。 食べ物が焦げてしまいましたか。 そんなことはどうでもいいことです。 食べ物が焦げてしまい食べられず一食抜いたからといってどうなりますか。 一食抜いたらより肉体的にも霊的にもより健康になるでしょう。 しかし、そのことで腹を立てたらサタンの勝ちです。

 神が最初に築いた家庭に何が起こったかを思い出してみてください。サタンはただ傍観してアダムとイブの間に割り込もうと待っていました。 そして実に彼は見事に成功しました。 彼はヨブと妻の間に、イサクとリベカの間にも入りこむことができました。

 サタンが夫と妻の間に入るというのは決して神の御心ではありません。 あなたがたの間に決して起こりませんように。 神がいつもあなたの家を喜ばれれ、いつでもあなたに平安を与えてくださいますように。

  2. 夫と妻が悔い改め、心砕かれる場所

 私が言いたい二つ目のことは、イザヤ書 57:15 にあります。

「神は高き聖所に住まわれると同時に、悔い改める霊の卑しい者とともにおられる。」

 神は悔い改め、霊的に打ち砕かれた人々とともにおられます。 砕かれた人は、他の誰よりも自分の未熟さと過ちを認識している人です。 世界には、他人の失敗だけを認識している人で満ちています。 今日の一般的な家庭では、会話のほとんどが、他人やその家族の過ちについてです。 私たちは他人の失敗にすぐに気づきます。 しかし、私たちは大抵人々の良い点を見ようとしません。 私たちは皆、この点において罪を犯しています。 私自身も過去にその罪を犯していました。 しかし、神はこの悪について、私に光を与えてくださり、私は悔い改めることができました。

 私たち自身も神の恵みによって救われた罪人であるので、誰かに石を投げる権利は誰にもありません。 他人の欠点や過ちを話題にするという同じ罪を何度も繰り返したくないという思いが私たちにみなにあってほしいものです。

 バスルームのミラーと車のミラーの違いは誰もが知っています。 バスルームの鏡では自分の顔を見ます。 車のミラーでは他の人を見ます。 ヤコブ 1:23ー25には、神のみことばは鏡のようなものであると書かれていますが、果たしてそれはバスルームのミラーでしょうか、それとも車のミラーでしょうか。その中で見るのは誰の顔でしょうか。 この鏡に書かれてるのはあなた以外の人向けのメッセージでしょうか。 それとも、その鏡の中に自分が従っていない事柄が書かれてありますか。

ヘブル10: 7 には、「聖書のある巻に、わたしについてしるされている」とあります。

 私は、人生の何年も愚かに過ごしてしまい、神のみことばを車のミラーのように見つめ、他の人たちに説教する聖句を探していました。 実際、その数年間、私は惨めでしたし、他の人たちを苦しめてしまいました。

 しかし、私は今、そのすべてから解放されました。 私は今でも自分の信念を持っていて、また、それらを他の人と分かち合いますが、それを他の人に押し付けることは決してありません。それは私のすべきことではないからです。 私は、ただ神の御顔の前に生きなければなりません。

 神が私に与えてくださったのと同じ知識を皆が持っているわけではないという素晴らしい真実を私は今、知っています。 このことは、過去二十年以上にわたって私を大いに助けてくれました。

  それまでは、周りの誰もが、私と同じように罪についての知識を持っており、同じように理解していると思っていました。 しかし、私は何年も経った時、皆誰もが其々の認識と理解を得ていることに気づいたのです。全能の神は、其々が「他の人が持つ見解」に従ってではなく、自分自身の知識に従ってのみ生きることを望んでおられるのです。

 私たちは、神がどれほどの理解を自分に与えてくださったかを知っています。 しかし、他の人についてはわかりません。 ですから、私たちは憐れみ深くあるべきなのです。

[この時点で一瞬停電のハプニング]

 たった今、電気が消えてしまいましたね。 非常に明るい光の中ではっきりと見える人もいれば、薄暗い光の中で見える人もいます。 この真理を今、私たちの目の前で、その光を消して実際にデモンストレーションしてくださったのは、神の恵みです。

 スニル、アヌグラには、彼女の中には、あなたにある光がないということを認識してください。

そしてアヌグラ、スニルには、彼にも、あなたにある光がないということを認識してください。

 あなた方はそれぞれが自分の持つ見解に従って生きなければならず、他の人に関しては、其々の見解に従って生きるのに任せなければなりません。

普通の六年生の子供は二年生よりも多くのことを知っています。 ですから、六年生が二年生に自分と同じくらいの知識を求めるならば、それは大変愚かなことですし、六五歳の私が二十六歳の若者に私と同じくらい神の道についての理解を求めるのも愚かなことです。 しかし、私は愚かにはなりません。

 しかし残念ながら、多くのクリスチャンは愚かです。 彼らは、自分たちが三十年かけて獲得した知恵を、他の人には一年で得るよう要求します。

 私はこの若いお二人に期待していること、 二十代の人の知恵、それだけです。

 そして、スニルとアヌグラ、これがあなたたちへの励ましになればいいのですが。あなたたちはおそらく、あなたの年齢だった頃の私に比べれば、愚かなことをしてしまうのはたった十分の一にすぎないでしょう。しかし、それでも神は私に憐れみを与え、私のあらゆる過ちにも関わらず励ましてくださいました。

 父親として二人に一言、言わせてください。 アヌグラ、私はあなたの義父ではありません。 私はずっと前から、律法の下ではなく恵みの下にいるので、私には義理の娘ではなく、娘がいると思っています。 今後、数年間私を見て、私があなたを娘として扱うか、義理の娘として扱うかどうか見ていてくださいね。私が過ちを犯した時には、今日私が「娘のように接する」を言ったことをどうか思い出させてくださいね。

 あなたの父親として、私があなたたち二人に言いたいのは、繰り返しになりますが、私は、あなたたちのどちらにも、私と同じ認識や知恵を決して求めてはいないということです。 あなたが 六十五歳になるまでに、もしくは四十五歳になるまでに、私と同じくらい多くの知恵を身につけてほしいと願っています。そして、あなたが六十五歳になる頃には、私が今持っているよりもずっと多くの知恵を身につけていることを願っています。

 ですから、自分が四十年間かけて得た知恵をあなたに求めるような人がいても気にしないでください。 イザヤ書 42:19 には、主の真の僕は目が見えず、耳も聞こえないという素敵な聖句があります。このような周りの人々の意見には目を瞑り、耳を傾けないでください。 この聖句によって私は本当に助けられました。あなたたちも同じです。人々の意見に目を止めず、耳を傾けなければ、神の僕として神の御前に生きることができるのです。

 ですから、あなたを批判する人ではなく、自分自身の問題は何なのかを模索してください。もし人があなたを批判して彼ら自身が滅ぶならば仕方のないことです。しかし私は、何年も前に、そんなふうに自滅したくないと心に決めました。 私は若い頃、たくさんの愚かなことをしました。 しかし、今では少し知恵がつきました。

パウロはこう言っています。

「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」(1コリント13:11)

 二人にも早く霊的に成長してほしいと心から願っています。

3.夫婦が聖である場所

 夫婦が毎日、聖さの内に歩むような家庭には神が住まわれます。

エゼキエル書 43:12にはこう書かれています。

「 宮に関する律法は次のとおりである。山の頂のその回りの全地域は神聖である。これが宮に関する律法である。」

 幕屋には外庭、至聖所、聖所の三つの部分がありました。 そして、その中でも聖所は最も小さい空間でした。

 しかし、ここにあるように、新約時代では外庭や至聖所は存在せず、 この地域全体が聖所となると書かれてあります。 それは、新約の下での神の栄光は旧約の幕屋の一角ではなく、幕屋全体に光り輝くことを意味します。

 それがあなたの人生にとって何を意味するかというと、日曜日だけでなく毎日、そして、聖書を読む時だけでなく、何をする時にも聖い者になるということです。

 あなたの生活や家の隅々までが神聖になります。 そして聖さとは、特定の宗教的儀式に従うことではなく、自分にある知恵に応じて、神を悲しませるものすべてを避けることです。 あなたたちの人生もそうでありますように。

 あなたたちが夫婦として共に生きていくために、神は素晴らしい計画を持っておられます。  神が最初にアダムを作られた際、エバはいませんでした。 神はアダムに命を吹き込み、アダムが目を開けると、最初に見えたのは神でした。 スニル、あなたが毎日の生活で、最初に目にするが神ご自身であることを願っています。

  それから、神はアダムを眠らせ、肋骨の一本を取り出してエバを造られました。 そして、彼女が目を開けた時、最初に見えたのも神でした。 アヌグラ、あなたも毎日最初に見るのが神ご自身であってほしいと願っています。 エバは神を見た時、アダムがいることさえ知りませんでした。その後になって初めて、神はエバとアダムを会わせて、「これで二人とも結婚できます。」と言われました。 当時、二人は本当に愛し合っていました。なぜなら、二人とも初めに神を見たからです。 これが愛のある結婚生活が続いていく秘訣です。二人ともまず神を見なければなりません。

 そして、神がアダムにされたことは、スニル、あなたにもしてくださったのです。 二十六年前、あなたが生まれた時、私たちはあなたの両親としてとても幸せでした。 しかし、神はその日のずっと前から、あなたの誕生を知っておられました。 あなたの名前は、あなたの母と私が結婚するずっと前から、いのちの書に書かれていました。

 素晴らしい真実は、神はあなたが生まれる前に、あなたの結婚についても計画しておられたということです。 そして、あなたが生まれてから数年後、インドの別の場所で小さな女の子が生まれました。あなたもアヌグラも知りえない神のご計画によって。

  神は素晴らしい仲人であり、あなた方二人のためにこの素晴らしい計画を持っておられたのです。 そして、この小さな女の子が成長するにつれて、神はいつもスニル、あなたのことを思ってくださっていたのです。 そしてある日、神はアダムとエバを結びつけられたように、あなたたち二人を結び付けてくださいました。 神があなたがたにどれほど良くしてくださったことでしょうか。

 ですから、お二人への私の祈りは、あなたたちの人生をが神に喜ばれ、二人共に聖所としての家庭を建てることです。

 神の祝福があなたたち二人にありますように。 アーメン。