霊的な指導者

筆者 :    ザックプーネン カテゴリー :   教会 リーダー
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 章 1
召命

霊的指導者は、最初に神からの召命を受けます。それは職業ではなく召しです。

誰も自分を霊的指導者に任命することはできません。「彼はこの仕事のために神に召されなければなりません」(ヘブル 5:4 - リビングバイブル 訳)。これは不変の原則です。次の節には、イエスでさえご自身を大祭司に任命されなかったと書かれています。父がイエスを任命されました。ですから、私たちの使命も、なおさら召しに寄らなければなりません。

今日、インドのほとんどの「クリスチャン奉仕者」が生計を立てるために、それらの働きを行っているのは本当に悲しいことです。彼らの働きはあくまで自分の生活のための仕事にすぎません。彼らは神によって召されたわけではありません。

「職業」と「召し」には大きな違いがあります。例えば、病院に病気の子供がいて、看護師が交代勤務で八時間ごとに看護するとしましょう。看護師は自分のシフトが終わり次第家に帰りますが、テレビを見たり、映画を見に行ったり、他にやることがあるので、一旦その子のことを忘れます。次の日仕事に戻るまで、常にその子のことを考えているわけではありません。しかし、その子の母親には八時間のシフト勤務などありません。母親は子供が病気の時、映画に行ったりはしないでしょう。それが職業と召しの違いです。

この例えを教会の信仰者への心遣いに当てはめてみると、自分が'看護師'なのか'母親'なのかがわかります。

パウロは1テサロニケ 2:7でこう言いました。

「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」

 パウロは周りの信仰者たちに神の福音を伝えただけでなく、自分の人生そのものも捧げました。このような奉仕でなければ、本当のクリスチャンの奉仕ではありません。パウロがそのように神に仕えたのは、働きの召命があったからです。彼はそれを職業として捉えてはいませんでした。

主に仕えることは素晴らしいことです。それはこの世で最も偉大なことであり、これに匹敵するものはありません。しかし、それはあなたが召しを受けた場合に限ります。それを職業に引き下げることはできません。

私がインド海軍の士官だった1964年5月6日、神は神に仕えるよう(フルタイムで)私を召してくださいました。そこで私は、海軍当局に辞表を提出しました。しかし、それはモーセがパロにイスラエル人を解放するよう頼んだ時と同じでした。インド海軍は私の退職になかなか同意してくれませんでした。その後、二年間申請を繰り返し、ようやく神の完璧なタイミングで奇跡的に私を解放してくれました。

 神から召命を受けたことで、私の人生は大きく変わりました。

 まず第一に、自分や自分の働きについて人がどう思うかは、私にとって関係なくなりました。なぜなら、私の主人は別におられ、私はその主人にだけ答えれば良いのです。

 第二に、奉仕の中で試練や反対に直面する時はいつでも、神が私に寄り添い、恵みを与えてくださると神に信頼しています。それは実際に頻繁に起きていることです。

第三に、金銭や食べものの授受は、私には全く関係ありません。お金や食べ物がもらえないからといって、主への奉仕をやめません。神が私を呼んでくださったからです。

 召しから逃れることはできません。私は給料が未払いで仕事を辞めるサラリーマンではありません。母親と子供の関係のようです。看護師は給料が一ヶ月支払われないと仕事を辞めてしまいます。しかし、母親は決して辞めることはできません。母親には給料が支払われるわけでもありませんし、たとえ食べ物やお金が手に入らなかったとしても、母親は赤ん坊の世話をします。このようにして使徒たちは主に仕えていました。

 神の召しを受けることはなんと光栄なことでしょうか。

 もしあなたが、職業として奉仕をしているなら、神が望まれる方法で主の働きを行うことはできません。それは召命でなければなりません。世の他のすべての仕事は職業として行うことができます。しかし、母親業、父親業、あるいは主のしもべは違います。これらはすべて召命による働きです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、たとえ一万人の教師がいたとしても、父親は一人しかいないと言いました(1コリント4:15)。パウロは群れにとって霊的な父であると同時に母でもありました。それは職業ではなく召しです。

主は私に「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」と言われました(出エジプト記2:9)。

 神はまず第一に、私自身の子供たち、そしてその次に、霊に属する子供たちについてこのように言ってくださったのです。私たちが神の子供たちを養う時、賃金を与える責任があるのは人ではなく神です。もし私たちが人に仕えるならば、人がその賃金を払ってくれます。しかし、私たちが主に仕えるなら、神ご自身がふさわしいと思われる方法で、私たちの必要を満たしてくださいます。そして、私たちが毎月いくら受け取るべきかについても、神が決めてくださいます。主の真のしもべには尊厳があるからです。

もしあなたが教会の長老であるなら、教会の人々に対してそのような責任感を持っていますか。あなたは、毎週日曜日に聖書を教えてそれで満足しているかもしれません。

 しかし、イエスが再臨してあなたの奉仕を評価され、それらがすべて木、草、わらに過ぎず、燃やされるに値するだけだったと知る時、それは大きな衝撃となるでしょう。(1コリント3:12、13)。この先に待ち受けるこの悲劇を想像してみてください。今、この警告を真剣に受け止めるならば、キリストの裁きの座でそれほど後悔はしないはずです。

 キリストが再臨される時、私たちは皆、自分の生き方や主への仕え方について、ある程度後悔することになるでしょう。しかし、私たちは今、自分の道を見直し、自分自身を裁くことで、その後悔を減らすことができます。私たちは自分たちの奉仕を見直して、その裁きの日の光に照らした時にどのように映るか見極めなければなりません。

「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。」と言われた主が「私があなたの賃金を払いましょう。」と言われたのです。

 この賃金という言葉は、ただ金銭ということではありません。主は、私たちに日々の糧のために祈るよう教えて下さり、また、福音を宣べ伝える者は福音に生きるよう定められたので、私たちの生活の必要を満たしてくださると信じています。またそれと同時に、はるかに大きな霊的な報いをも与えてくださるのです。

 パウロはテサロニケのクリスチャンに、主が戻られたとき、彼らがパウロの冠となり、彼の喜びとなるだろうと書きました(1テサロニケ2:19)。父親が子供たちを喜ぶのと同じように、パウロは彼らのことを喜びました。

  長老(霊的な父親)は、自分の教会にやって来た普通の人が変えられ、今、神の人となったのを見て喜ぶはずです。これは、彫刻家がただの石を人間の形に造った時の喜びに似ています。彫刻家は、その石から人の顔と姿が出てくるまで、何ヶ月も何年もその岩を削り続けなければなりません。それこそが、神が私たちに与えてくださった仕事です。

 私たちは、人々を正しく導くことだけに満足してはなりません。キリストの似姿が彼らの生活に現れなければ、私たちは何も成し遂げていないのと同じです。

 この世の父親も、自分の子供が自立できると喜びます。父親は、子供がいつまでも自分に依存し続けることを望みません。真の霊的父親もそのような人です。父親は、霊に属する子供が成熟するにつれて、自分を必要としなくなるように育てます。

 十二人の子供がいる家庭を考えてみましょう。妻が子供二人でさえ大変なのに、十二人の子供をどうやって育てられるかと不思議に思うかもしれません。しかし、驚くべきことに、長い目で見れば、十二人の母親は二人の母親よりも仕事が少なくなります。それは、十二人の子供の母親が、年上の子供たちに家事を手伝わせるからです。そして子供たちがすべての仕事をこなし、母親は自由になります。私たちも教会の羊飼いとして、このようにしなければなりません。つまり、委任するということです。

 しかし、ほとんどの教会でどのような光景を目にしますか?牧師たちが、自分で全てを引き受け、過剰な負担を抱えながら神経をすり減らしています。(十二人の子供の母親も、もし一人で子供全員の世話をしなければならなかったら疲れて果ててしまうでしょう。)

 多くの教会は、何百人もの赤ん坊が床に横たわり、足を蹴り、泣き叫び、哺乳瓶にしがみついている孤児院のようなものです。これはワンマン牧師の働きの結果です。信仰者は成長しません。各人に責任が与えられていないからです。キリストのからだでは、皆に果たすべき役割があります。

 イエスはたった十二人しか弟子にしませんでしたが、一度にそれ以上の人数の人を効果的に扱える人はいないと私は思います。ですから、その計算によれば、百二十人の教会には、その群れの世話をする牧者が少なくとも十人必要であることになります。「牧者」とは、フルタイムで働く人ではなく、羊を世話し、励ますのに十分な羊飼いの心を授かった、そして社会でも自分の職に就いている兄弟のことです。

 今日、収穫は多いのですが、真の羊飼いの数は少数です。あなたが主に仕えるなら、それは神に召されたからであって、自分の生計あるいは人からの名誉のために主に仕えるのではないのです!

 章 2
神を知る

本当に神のことを知っていて、直接神との関係がある霊的指導者は、他の人を神の道に導くことができます。ダニエル11:32、33 は、終わりの日に地上に現れる二種類の説教者について語っています。巧みな言葉を話し、人々を不信心に導く者が多くいる一方で、神を知り人々に洞察力を与え、神のために偉大な功績を挙げる者は少数です。

 今日、キリスト教世界には、この両方の種類の説教者がいます。聞き手を喜ばせるために巧みな言葉を話す人が多くいます。しかし聞く人が喜ぶか激怒するか、褒め称えるか罵るかにか変わらず、本当に神を知っている者は真実を語ります。

 人間は羊のようなものです。群衆に従う傾向があり、他と違うことを恐れます。もし群衆が間違った方向に進めば、誰もが道を踏み外してしまいます。これが今日の状況です。ですから神は、神に忠実であり、神の道に沿って人々を導く人を求めておられます。しかし、群衆との違いを厭わない勇気を持つためには、神と神の心、つまり神の考えと神の道を知らなければなりません。

 過去三十年間にインドで出会ったほとんどのキリスト教の「リーダー」たちは、神を個人的に知らず、また神ご自身や神の考えも知らないように見受けられます。彼らは単に、欧米のキリスト教雑誌や本で読んだことを繰り返しているだけです。

 アメリカのキリスト教界の指導者の間では、何十年に渡って、特定の事柄を重視する傾向がみられます。1980年代もそうでしたが、今日では違います。こうした傾向は、インドやその他の第三世界の国々の偽善者たちによって、山間で反響するこだまのように着実に繰り返されています。

 特に、伝道に関する会議で「論文」を発表する時です。アメリカの「リーダー」が「教会の成長」について書くなら、インドのキリスト教「リーダー」は同じように「教会の成長」を強調し、アメリカ人が「10/40 の窓」について話すなら、インドの説教者は忠実に「10/40 の窓」を唱え、欧米のキリスト教徒が「教会の患難前の携挙」を教えるなら、インドの聖書教師はそれを教えます。彼らは、決して欧米のキリスト教徒に疑問を持つことさえしないのです。

 神は、インドで誰にも直接語りかけてはくださらないのでしょうか。神は欧米の人にのみ話しかける方でしょうか。

 このような模倣が広がっている原因は、第三世界の国々の信仰者の間に見られる奴隷という観念です。私たちインド人は、二百年以上にわたってイギリスに支配されてきました。そして、この「奴隷精神」から自由になるのは困難です。ほぼすべてのインド人クリスチャンは、欧米人が自分たちより優れ、自分たちより霊的であると感じています。なぜなら、欧米の人々は大胆で、自己主張ができ、経済的にも恵まれているからです。

 昔、ある黒人のアメリカ人の兄弟に会ったことがあります。彼は、米国の黒人は1世紀以上前に法的に奴隷から解放されたが、今でも彼らのほとんどに奴隷の精神が残っていると言っていました。彼らは白人男性を見ると、自分は白人より劣っていると感じます。私は、ほぼすべてのインド人クリスチャンにもまったく同じ態度が見られると感じています。

 正直に言うと、インドに来たほとんどの欧米の説教者(私が会った人)は非常に浅薄で世俗的だと感じました。彼らは神を知りません。しかし、彼らには資金がたくさんあるので、どこに行っても有名人になります。インドでのキリスト教大集会の広告を見てください。ほとんどの場合、メインの講演者はいつも欧米の説教者です。私たちの国のキリスト教はなんと悲しい状態になってしまったのでしょう。これがいわゆるクリスチャンという人の間でのことであるなら、まだ理解できます。しかし、「生まれ変わった」とか「聖霊の洗礼を受けた」と自負する信仰者の間でも同じことが起きているのは悲劇です。

 私たちはこの奴隷という精神から解放されなければなりません。しかし、白人の人があなたの給料を払っているなら、難しいかもしれません。しかし、人に仕えるのをやめて、主に仕えることを心に決めましょう。

 あなたは誰のしもべになってしまっていますか。聖書は、私たちは代価を払って買い取られたのだから、人の奴隷になってはならないと言っています(1コリント 7:23)。

 神を個人的に知ることに情熱を燃やしてください。そうすれば、欧米の「リーダー」の、またはインドの「リーダー」の「こだま」にもならないでしょう。誰かの奴隷になってはいけません。神の人となるべきです。

 霊的な権威は、神を個人的に知ることによってのみ得られるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、神を知る人にどうかなってください。そうすれば、あなたの私生活は栄光に満ち、あなたの奉仕は権威あるものになります。これこそ、今日、私たちの国が何よりも必要としているものです。

 聖書を知ることは神を知ることよりはるかに簡単です。なぜなら、聖書を知るために代価を払う必要がないからです。勉強するだけでよいのです。

 私生活では不道徳で、思考生活では不純でも、聖書をよく理解することができます。有名な説教者でありながら、同時に金銭をこよなく愛する人でもありえます。

 しかし、神を知りながら不道徳な人生を送ることはできません。神を知りながら金銭を愛することはできません。それは不可能です。だからこそ、ほとんどの説教者は神を知るよりも聖書を知るという楽な道を選ぶのです。

 兄弟の皆さん、お聞きしたいのですが、聖書を知っているだけで満足していますか、それとも主を知りたいという切実な願いが心にありますか。パウロはピリピ3:8〜10で、自分の最大の願いは主をより知ることだと述べています。パウロは主を知ることに比べれば、他のすべてのものはちりあくただと考えていました。パウロはこの高価な真珠のために、自分のすべての真珠を手放しました。パウロの宣教の秘密は、ガマリエルで聖書を学んだ年月ではなく、彼の個人的に得た主に関する知識にあります。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

 私たちは、永遠の命を「天国で永遠に生きること」と定義しているかもしれません。しかし、イエスはそう定義しませんでした。永遠の命は天国に行くことや地獄から逃れることとは関係ありません。永遠の命、それは主を知ることです。

 神を個人的に、そして親密に知ることは、私の人生の情熱であり心の願いでした。私は、個人的に神を知ることによってのみ、私の奉仕に神の権威があると知っています。ですから、私たちのすべての教会で、人々を神ご自身についての知識に導くよう努めてきました。

 今日、聖書に関する知識は歴史上かつてないほど増えています。ペンテコステの日以降、ほぼ千五百年間、聖書という印刷物はどこにもありませんでした。聖書がこれほど自由に入手できるようになったのは、過去二世紀です。今日、私たちは非常に多くの訳、用語索引、手引きを手にすることができます。

 しかし、聖書に関する知識が増えたからといって、聖いクリスチャンがより生まれたと思いますか。 いいえ。もし聖書の知識が聖さを生み出すことができるなら、今日、歴史上最も敬虔な人々がたくさんいるはずです。しかし、実際はそうではありません。聖書の知識によって聖さが得られるならば、サタン自身も聖い存在になっていたでしょう。なぜなら、サタンほど聖書をよく知っている人はいないからです。

 今日、何千人もの学生に聖書を教えている神学校がたくさんあります。

 しかし、今日世界の中でもとても敬虔な人々は、そういった神学校にいるでしょうか。いいえ。今日の神学校卒業生の多くは、異教徒ほど状態はよくありません。

 数年前、私はインドのトップ福音派神学校の一つを卒業した人に会いました。彼は首席で卒業しました。彼は、その神学校に三年間通った後、自分の霊的状態は入学した時よりも悪くなったと私に言いました。一体、その神学校は彼に何を教えたのでしょうか。聖書とキリスト教についての知識を与えただけです。そのような神学校からサタン自身も首席で卒業できたでしょう。

 聖書の解釈学や「高等批評」(聖書の起源や意味の研究)、ギリシャ語の語源を学んだその若者は、怒り、憎しみ、汚れた思い、金銭欲などを克服できていなかったら、何の役に立つでしょう。新たに取得した資格で、すぐに教会の牧師になるでしょう。しかし、彼の教会に来る人々は主に、神学的なことではなく、道徳的なことで多くの問題を抱えています。このような兄弟姉妹に、彼は何を教えることができるでしょうか。どのような分野においても、彼はまったく人々を助けることができないでしょう。このように、インドにおける神の働きは妨げられているのです

 あなた自身が神を知って初めて、あなたの群れを神を知るように導くことができます。あなたが自分の人生で罪に打ち勝てば、あなたの群れをも罪に打ち勝つように導くことができます。そうすれば、彼らもまた、権威と力をもって主に仕える備えができるはずです。

 サタンは聖書の知識や学位証明書に慄くと思いますか。全くそんなことはありません。サタンは神を知る、聖いへりくだった人々だけを恐れるのです。

 若い兄弟姉妹が神を知るように導びけるよう、私たちを神が助けてくださいますように。

 章 3
神を恐れる

霊的指導者は神を大いに恐れます。

私たちは、神を知れば知るほど、神を恐れるようになります。神を怖がるのではなく、神を敬うようになります。

 詩篇 34:11で、ダビデは「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。」と言っています。

 人々に神を恐れることを教えるのは簡単なことではありません。ローマ書やエペソ書の読解を教える方がはるかに簡単です。

 神を恐れることを他の人に教えるには、まず私たち自身が神を恐れなければなりません。 主を恐れることは知恵の始まりです。神を恐れる人は、聖書を知っているだけの人よりも、自分の群れに多くのことを教えることができます。神を恐れない人は、知識を伝えることはできますが、知恵を伝えることはできません。知識で人は高慢になります。1コリント 8:1に書かれているとおりです。しかし、知恵は人を成熟させ、その知恵を「日常生活の問題」に適用する方法を教えます。知恵のある人だけが、イエス・キリストの教会を建てることができます。

 主への恐れは、クリスチャン生活の基本です。あなたが信仰者に主への恐れを教えていないなら、他の科目をどれだけ教えたとしても、主な任務を果たせていません。それは、生徒が読み書きもできないうちに、彼らに地理や歴史を教えようとする教師のようなものです。そのような教師は世界中どこにもいないでしょう。

 主への恐れを学ぶことは、読み方を学ぶようなものです。しかし、ほとんどの教会の長老は、信仰者に主を恐れることを教えません。ここに、この世の子供たちが光の子供たちよりも賢いという証拠があります。

 神学校を卒業した皆さんに質問します。そこで主への恐れを学びましたか、それとも単に学位証明書を取得しただけですか。

 二つ目の質問です。その神学校に入学した理由はなんですか。仕事を得るためですか、それとも神への恐れを学ぶためですか。

 なぜ他の神学校ではなく、その神学校を選んだのでしょうか。より有名な神学校だったからでしょうか。また、その教義が福音主義ではなく自由主義だと知っていたにもかかわらず入学したのですか。イエスが弟子たちをそのような神学校に送り、ご自分の奉仕に備えるようにさせた姿を想像できますか。神への恐れを学ぶために神学校を選んだと正直に言える人は何人いますか。おそらく一人もいないでしょう。それは悲劇です。

 インドでは、高収入を得るためにアメリカに行く第一歩として、神学校に入学する人も多くいます。中には、アメリカに定住するためにアメリカの神学校に入学する人もいます。そのような人がどうして主に仕えることができるでしょうか。

 今日、自分は間違った動機で聖書学校に入学したと認めることができますか。あなたが今、正直になれるならば、大きな希望があります。神は正直な人を愛されるからです。あなたと同じ間違いをしないように他の人に勧めましょう。そして主を恐れることをまず教えましょう。私たちの子供たちも同じ過ちを繰り返してはいけません。

 箴言24:3, 4 には、家は知恵によって建てられ、その部屋は知識によって、多くの貴重なもので満たされると書かれています。ここでの知恵と知識の対比に注目してください。私は聖書の知識を軽視しているわけではありません。まったくそうではありません。私は四十年以上聖書を研究しており、他の誰よりも聖書をよく知っていると思っています。

 しかし、私が何よりも求めているのは知恵です。神の愛は世界で最も偉大なものです。しかし、神の愛は常に神の知恵によって導かれます。知恵のない愛は危険です。愛はバスのガソリンに例えられ、知恵はバスの運転手に例えられます。群れを導くには確かに愛が必要です。しかし、彼らをどの方向に連れて行くかを決めるには知恵が必要です。

 知恵は基本です。聖書の知識は 100% なのに、知恵はゼロということもあります。それは、体育は 100% なのに数学はゼロという学生のようなものです。数学は 100% なのに体育はゼロという学生のほうがよいのです。なぜなら、長い目で見れば、数学は体育よりも重要だからです。そして同じように、長い目で見れば、知恵は知識よりも重要です。

 上記の箴言で知識が部屋を満たすとありましたが。知識は、私たちが部屋に置く椅子、テーブル、ベッドなどの家具のようなものです。ですから、知恵のない知識は、空き地に高価な家具をただ並べていることに過ぎないのです。もしあなたに知恵がなくて、知識だけがあるなら、高級家具を空き地に並べている人です。高価なテーブルやソファはたくさんあるのに、家だけがありません。そのような人が周囲の人々から笑いものになることは、容易に想像できるでしょう。しかし、今日のキリスト教界のほとんどの指導者や説教者はまさにそのような人なのです。

 章 4
神に聞く

霊的なリーダーは毎日、神の声を聞く時間を取ります。

 聖書の最初の方の章によく出てくるフレーズは、「神は言われた」です。

 神は混沌とした地球を作り直すまでの六日間、毎日何かを言われました。そして神が語る度に、地はより良い場所になっていきました。

 聖書の冒頭には、非常に重要な真実が書かれてあるのです。それは、毎日、神の言われる言葉を聞かなければならないということです。そして、神が毎日語られることに従うなら、私たちはより優れた、より有益なクリスチャンに生まれ変わるでしょう。

 神が私たちに語ろうとしていることを聞くことと、ただ聖書を読むことの間には大きな違いがあります。覚えておいてください。実際、主を十字架につけたのは、毎日聖書を学んでいた人々でした。彼らは熱心に聖書を勉強していましたが、神が彼らの心に語りかけることに決して耳を傾けませんでした(使徒13:27 参照)。それは、私たちにも起こりうる危険です。そして、私たちも彼らと同じように盲目になる可能性があります。

 創世記 1 章では、神は毎日私たちに話したいと願っておられると書かれてあります。 しかし、ほとんどのキリスト教指導者は、毎日神の声に耳を傾けません。彼らは人間の書いたものだけを読んでいます。

 自分が聞いた他の人の話を説教するのは本当に悲しいことです。なぜなら、人間の言葉は決して永遠のものを生み出すことはできないからです。永遠の実を生み出すことができるのは、神が語る言葉だけです。イザヤ書 55:11 に書かれているとおりです。

 創世記 1 章には、神が語る時はいつでも、超自然的なことが起きたことが書かれています。神が最初に私たち自身の心に語られたことを説くなら、私たちの宣教でも同じことが起きるでしょう。

 パウロはテモテに、もし自分と人を救いたいなら、教えることよりもまず自分の生活に注意を払うように言いました(1テモテ4:16)。自己欺瞞から逃れる唯一の方法は、神が私たちに語っていることを聞くことです。

 神の言うことに耳を傾けないなら、次の三つの方法のいずれかで説教することになります。

⒈ 現在、世界のいわゆる「偉大なキリスト教の説教者」が何を言っているかを調べます。特に、インドでのキリスト教活動のための資金のほとんどが、アメリカから来ていますが、(「いわゆる偉大な説教者」と言う表現は、これらの説教者は神の目には「偉大」ではないからです)、彼らの本を読み、彼らの説教を繰り返します。また、特定の主題がキリスト教界で人気があると知ると、その主題を主に取り上げて説教します。そして、分別のない群衆はあなたのスピーチに感銘を受け、あなたを博学で霊的な心を持つ人だと褒め称えます。

⒉ あなたは、化学を研究し教える大学の教授の如く、聖書を学術的に勉強し、教えます。そして、化学の博士号よりもはるかに簡単に取得できる、聖書研究の博士号を手にします。 今日、三流の神学校から「肩書きに飢えた」説教者や牧師に、数百ルピーで名誉「博士号」が数多く授与されています。好きなだけ取得できます。しかし、たとえ神学の博士号を取得したとしても、それはあなたが賢い人であることを証明するだけです。

 あなたはまだ神も神の言葉も知らないかもしれません。

⒊ また、自分の信徒たちに一番何が受け入れられるかを探ります。なぜなら、信徒たちに受け入れられたいからです。そして、多くの人が何を望んでいるかを知ろうと、市場調査を行うビジネスマンのようになります。これが今日のほとんどの牧師の説教の仕方です。

 そして、旧約聖書の偽預言者たちも皆同じように説教し、繁栄しました。偽預言者は皆、イスラエルの民が聞きたがっていることを察知し、それに沿って説教しました。そして彼らは人々の間でもてはやされ富を手にしました。

 今日のキリスト教界には、そのような偽預言者が数多くいます。しかし、イスラエルの真の預言者は皆、ユダヤ人に彼らが聞きたいことではなく、彼らが聞く必要のあることを語ったため、人々に受け入れられませんでした。

 イエスはかつて、座ってイエスの話に聞き入るマリアでなく、仕事で忙しくしていたマルタを叱責しました。私たちの主は、マリアのしたことは人生で唯一必要なことだと言われました(ルカ10:42)。私たちは皆、「主よ、お話しください。しもべは聞いています」と言ったサムエルのような態度を持たなければなりません。

 聖書の最初のページには何が書かれてありましたか。神が話される度に、何かが成し遂げられました。光が生まれ、地は水から現れ、木々、魚、動物が創造されました。

 イザヤ55:10、11には、神の口から発せられる言葉は、神のみこころを成し遂げずに、また「語られた」事柄を成功させずに、むなしく帰ることは決してないと語っています。

 これらの節にある、世界中のすべての人々から高く評価されている二つの言葉、「達成」と「成功」に注目してください。

 私たちは皆、人生で何かを成し遂げたいと思っており、成功したいと思っています。しかし、人生は短く、成功や達成のためにさまざまな方法を試す十分な時間はありません。霊的な事柄においてはなおさらです。主の働きを行う方法を試してみて、二十年後にそれが神のやり方ではなく、間違った道だったと気づくようなことがあってはいけません。神の言葉に耳を傾ければ、時間を無駄にしなくても済むのです。そうすれば必ず成功と達成がもたらされます。

 私は神の言葉に耳を傾ける人の話を聞きたいと思っています。なぜなら、そのような人は、神学者(長い学位を持つ)が何時間もかけて教えてくれるよりも、五分で多くのことを教えてくれるからです。洗礼者ヨハネは、神学者ガマリエルやユダヤ最高自治機関サンヘドリンのどの学者よりも、神について人々に教えることができました。

 神の声を聞くならば、キリスト教の本や雑誌で読んだこと、またキリスト教の動画や音声から聞いた話を説くことはありません。神の声を聞く人は、学問的な知識や研究からではなく、啓示から語るからです。そのような人は、まず自分が読んだことを経験し、自分の人生そのもので語ります。

 頭で教えることは、他の人の頭にしか入りません。しかし、心からそして人生経験から説教することは、彼らの心に直接入り、彼らの人生を変えることができます。私は、メッセージを準備するべきではないとか、メモを使って説教するべきではない、と言っているわけではありません。メモを使うかどうかは、霊性の問題ではなく記憶力の問題です。私は、何を話すにしても、心と人生からでなければならないと言っているのです。

 今日、自由主義神学校と福音主義神学校があります。しかし、この二者の違いは何でしょうか。いずれにしても、知識、情報が話者の脳から傍聴者の脳へ伝達されるわけですが、前者では、神学的に誤った情報が、後者では神学的には正しい情報が教えられます。

 しかし、霊的に言えば、福音派の神学校も自由主義派の神学校も同じです。どちらの神学校でも、講師も学生も拝金主義者や欲の奴隷になっている可能性があるからです。

 イエスは弟子たちにそのように教えませんでした。イエスは私たちに神学を教えるためではなく、私たちを人格においてご自分に似た者にするために来られたのです。

 イエスは弟子たちに、神学よりも人の本質について多くを教えておられました。あなたはどうですか。肉の欲望、目の欲望、プライドを克服するすべをあなたの信徒たちに教えていますか。

 私たちの教会には、神が語ってくださることを聞きたくて、私たちを待ち望んでいる人がたくさんいます。毎週日曜日、彼らに説教するのは厳粛な責任です。私なら恐れ慄きます、なぜなら、私たちは人々に何を話すかを神に対して弁明する責任があるからです。私たちは、自分が説教したすべてのメッセージについて、いつの日か神に説明しなければなりません。何を語ったか、なぜ語ったか、どのように語ったかです。ですから、自分の語る言葉にある責任を真剣に受け止めるなら、あなたの奉仕は劇的に変わるでしょう。

 二十年以上もの間、私は自分の奉仕を主の光に照らして吟味してきました。神のみことばを説教した後、私は主に、自分が言ったことに不必要なことがあったかどうか、人々の時間を無駄にしなかったか、自分の名誉を求めて話していたかなどを教えてくださるよう求めます。こうして、私は徐々にこれらの悪から、また、人々の「頭の上」に教える退屈な説教から自分を清めてきました。

 メッセージを説教した後、あなたは神の声に耳を傾けていますか。もっとうまく話せたかどうか、神に聞いていますか。たとえ人々が良い説教だと思っていても、まったく意味がありません。神がどう思われたか、それが肝心です。

 あなた方の多くは、毎週日曜日に教会で大勢の人々があなたの説教を聞いています。あなたの説教は、彼らの永遠の人生に影響を与えていますか。彼らがもはや世の者ではなく、御国の者となるように、彼らの価値観を変えましたか。これは、あなたが自分自身に常に問いかけなければならないことです。

 何か重要な決断をしなければならない時は、特に神の声に耳を傾けなければなりません。神は様々な方法で私たちに語りかけてくださいます。

 神は主に、聖句を通して私たちに語ってくださいます。神の御言葉にはっきり明記されている事柄に関しては、神の御心を見つけるために祈る必要はありません。それはすでに示されているからです。

 神はまた、私たちの状況を通しても語りかけます。私たちの主はすべての扉の鍵を持っておられます(黙示録 1:18)。そして主が扉を開けば、誰もそれを閉じることはできませんし、主が扉を閉めれば、誰もそれを開けることはできません(黙示録 3:8)。

 ですから、私たちの状況は、神が私たちに特定の道を歩んでほしいかどうかを示すものです。神が開かない扉をたたき続ける必要はありません。扉が閉まっているのを見たら、もちろん祈らなければなりません。しかし、何度も祈ったのに扉がまだ閉まったままなら、それは、私たちがその扉を通ることが望まれていないことを意味するのかもしれません。これが本当かどうか、あるいはその扉を開くために私たちが粘り強く祈り続けることを神が望んでいるかどうか、私たちは神に示していただくよう求めなければなりません(ルカ11:5-9)。

 神はまた、成熟した敬虔な兄弟たちの助言を通して私たちに語りかけます。神を恐れる兄弟たちは多くの経験を経ており、私たち自身では気づかない落とし穴について警告してくれるでしょう。盲目的に従う必要はありませんが、彼らの敬虔な助言は私たちの助けになるでしょう。

 私たちが他の信仰者と交わっている時も、神はしばしば私たちに語ってくださいます。神は、キリストのからだに属する他の人からも神のみことばの啓示が得られることを教えてくださるでしょう。

 私たちが試練や病気にかかっている時は特に、神は常に私たちにとても大切なことを語られます。

 神はまた、他の人の失敗を通しても私たちに警告を与えてくださいます。例えば、神のしもべである兄弟姉妹が何か罪を犯したという話を耳にしたら、その人の失敗からどんな教訓を学べるか(私たちは皆弱いので)、そしてどのように自分を守ることができるかを神に尋ねるのは良いことです。

 神は、どこかで事件事故が起こったというニュースを聞いた時にも、私たちに教えてくださるでしょう。ピラトがユダヤ人を虐殺したことや、シロアムで塔が倒れて何人かが亡くなった事故を聞いたイエスは、当時の人々に悔い改めるように言われました。なぜなら、そのようなことは誰にでも起こり得るからです(ルカ13:1-4)。

 しかし、聖書を無作為に開いて最初に目についた節を読んで、神の言うことを聞こうとするのはやめましょう。

 特定の女性と結婚したいと心から願い、聖書を無作為に開いて、何か確証となる節を探すかもし​​れません。そして、もし見つからなければ、思い通りの節が見つかるまで聖書を開き続けるでしょう。そうやって自分を欺くのです。

 神の御心をこのようにして見つけようとしていた人の話があります。ある人が聖書を無作為に開いた時、そこには「外に出て行って、首を吊った」(マタイ 27:5)と書いてありました。聖書をもう一度開いて見ると、「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ 10:37)と書いてありました。三度目に開いた時、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(ヨハネ 13:27)と書いてありました。そして結局この人は、神の御心をこの方法で見つけようとしなくなりました。

 しかし、大きなプレッシャーを抱えて、ただ聖書を開き、主がある節を通して私たちを励ましてくださることがあるでしょう。励ましを求めてこの方法を用いるのは構いませんが、導きを求める方法ではありません。

 親愛なる兄弟の皆さん、神の声を聞く習慣を身につけてください。これは、あなたが身につけることができる最も重要な習慣です。

 章 5
キリストのからだとの調和

霊的指導者は、自分の奉仕だけでは成り立たないという自覚があります。ですから、キリストのからだの他のメンバーの奉仕と調和します。

 キリストのからだは病院にたとえることができます。人が病気で病院に行くと、病院にはその人を助けるためのさまざまな部門があります。注射や理学療法、手術が必要な場合もあります。眼科医や耳科医の診察が必要な場合もあります。つまり、病院にはさまざまな部門があるのです。眼科医は、人の目を見るだけで、他のことは何もしません。それは、人体の他の部分が重要でないと感じているからではなく、眼が専門だからです。

 キリストのからだでも、信仰者はそれぞれ異なる賜物と召命を持っています。そして、それぞれが単独で、不十分です。この世を歩いた人の中で唯一、完全に調和が取れていたのは、主イエス・キリストです。私たちの中で優秀な人でさえ、不完全です。私たちは他の兄弟姉妹、つまり主の病院の他の部門と協力して初めて、調和を保つことができます。ですから、この病院には個人主義はありえません。

 良い病院には、人々のさまざまなニーズに応えるために多くの診療科があります。同様に、キリストのからだにも、人々を助けるための様々な奉仕と多くの霊的賜物があります。どの教会やグループも、全ての聖霊の賜物が揃っているというわけではありません。しかし、キリストのからだ全体には、それらすべてが揃っています。

 私たちは、キリストのからだの中での自分の召しが何であるかを知らなければなりません。

 世は霊的に病んでいる人々で満ちています。しかし、皆に希望があります。誰もが主によって完全に癒されることができます。これが、私たちが宣べ伝える福音の良い知らせです。最悪の罪人や最も邪悪な人でも、主の病院で癒しを得ることができます。良い病院は、重病の人を拒否することはありません。悪い病院は、重症患者を扱う十分な設備が整っていないため受け入れないでしょう。

 同様に、良い教会は「この世で一番の罪人」に対しても、絶望的だと告げることはありません。良い教会は、罪人に治療を受け入れる意思があれば、最悪の罪人を最も偉大な聖人に変えることができます。

 また、教会を人体に例えることができます。人体には、それぞれの器官に機能があり、その機能だけに従事します。しかも、他の異なる機能を持つ器官を介することなく、その働きに協力します。キリストのからだの中で他の奉仕者と協力する時も、そうあるべきです。

 1 コリント 12 章では、聖霊は目、耳、手、足を例に挙げて、聖霊の賜物がキリストのからだの中でどのように発揮されるかを描写しています。

 私の説教を聞いていただくと、私が聖書の特定のことを何度も繰り返し強調しているのに気付かれるかと思います。なぜなら、それが、主が私に与えてくださった役割だからです。私は、主から召された奉仕によって、主の役に立つことができると知っています。ですから、ずっとその奉仕に忠実であり続けました。他のことをしようとすると、主が私に立ててくださった計画を台無しにしてしまうでしょう。

 しかし、私は他の奉仕に反対しているわけではありません。むしろ、私はそれらを重んじています。例えば胃は手を尊びますが、決して手と同じ動きをしようとはしません。胃が皿から食べ物を取ろうすることはありません。胃は、手の働きを見守り、その後手が取って胃に送り込んだ食べ物を消化するという独自の仕事をします。これは、ちょうどキリストのからだの中で私たちが互いに補い合う様子を表しています。

 ほとんどの信仰者は、キリストの体内の奉仕の多様性を理解していません。しかし、これを理解しなければ、神が望まれるすべてのことを成し遂げることはできないでしょう。ですから、神が私たちに具体的に何に召してくださったのかを、自分の心の中で明確にしておくのが良いでしょう。

  主が私たちの心に与えてくださる重荷は、通常、私たちのために備えられた、キリストのからだの中で担うべき奉仕を示しています

 私のキリストのからだの中での奉仕が何であるか、また神が私の奉仕で強調して欲しいと望んでおられることは、私の中で何年も前からはっきりしていました。そしてそれが、私の人生に大きな安らぎと自由をもたらしました。

 今や誰も私を奉仕から引き離すことはできません。たとえ私の奉仕が偏っていると非難されてもです。

 旧約聖書の預言者でも、奉仕において完全な人は一人もいませんでした。外交的な説教者だけが完全を求めます。預言者の奉仕は、同じことを何度も繰り返して強調するなど、偏っていました。なぜなら、それが彼らの世代のイスラエルやユダに必要なことだったからです。そして、神はそれを重荷として、預言者たちの心に置かれました。

 私は、主に仕え始めるとすぐに、自分の賜物と召命が何であるか、誰もが知りうると言っているのではありません。私が新生してから自分の使命が何であるかわかるまで、約十五年かかりました。あなたにはそれほど長くかからないかもしれません。もっと短い時間で済むかもしれません。タイミングは神に委ねましょう。しかし、キリストのからだの中で、他の誰にも果たせない、独特でユニークな使命をあなたが担っていることを、はっきりと理解しなければなりません。

 そして、その奉仕は決して単独では完成しません。あなたは、教会内で異なる奉仕をしている人々と交わりながら働き、互いに協調します。このように、他の人にも頼ることで、神は私たちをへりくだる者に変えてくださいます。主をほめたたえます。

 私たちは皆、人生のある分野では強いですが、他の分野では弱いのです。ちょうど、ある生徒が英語は得意でも、数学は苦手であるのと同じです。しかし、私たちは自分の弱点を知り、その部分を強くすることができます。あなたの教会は、伝道に力を入れているかもしれませんが、神聖さを求めていないかもしれません。このような場合、あなたの教会がどのような奉仕に取り組む必要があるかがわかるでしょう。

 決して、あなたの働きの成功をあなたの人気や評判で判断してはいけません。イエスは、人々に「人気がある」すべての人に災いを宣告しました。なぜなら、それが偽預言者の証しだったからです(ルカ6:26)。ですから、あなたが非常に人気のある説教者であれば、あなたは偽預言者である可能性があります。一方、イエスは弟子たちに、皆に反対される時は喜ぶようにとおっしゃいました。なぜなら、それが真の預言者のしるしの一つだからです(ルカ6:22、23)。

 ここでイエスが言われたことを本当に信じますか。

 イスラエルと教会の歴史における真の預言者は皆、当時の宗教指導者に追い詰められ、憎まれ、不当に非難された、「物議を醸す人物」だったことを思い出してください。

 この法則に例外はありません。旧約聖書時代のエリヤとエレミヤで、一世紀のバプテスマのヨハネとパウロ、そして近代のジョン・ウェスリーやウォッチマン・ニーであってもです。

 ですから、私たちは自分たちの働きの永遠の成功を、自分たちの人気度で測るべきではありません。

 また、働きの成果を統計で判断するべきではありません。集会で何人の人が手を挙げたか、何人の人に説教したか、などです。

 もしあなたが統計で判断するならば、イエスの宣教は完全な失敗だったと言うことになります。なぜなら、宣教の終わりに、イエスが父なる神に差し出したのはたった十一人だけだったからです(ヨハネ17章)。しかし、イエスの宣教の成功は、その十一人の弟子がどのような人々であったかに表れています。彼らは神にとってはるかに価値があり、神のために多くのことを成し遂げることができました。

 今日の中途半端で、金銭好きで、妥協的で、世俗的な「信者」1100万人よりも、弟子たちはずっと価値のある人々でした。

 私は、自分の人生で初期の使徒たちのような人を十一人生み出すことができれば、私の宣教は輝かしい成功となると思ってきました。しかし、そのような人を数人生み出すことさえ容易なことではありません。「イエスを信じる」が、心からイエスを愛していない世俗的な妥協者の集団を集める方がはるかに簡単です。

 過去二十世紀の間に、神がキリスト教界で始められたすべての動きは、第二世代に入る頃には衰退し始め、創始者が始めたときのような活気に満ちた情熱的な運動ではなくなりました。なぜでしょうか。

 理由の一つは、第二世代が数にこだわり始めたことです。彼らは、数が増えていることが神の祝福の証拠であると考えていました。

 しかし、近年、世界で最も急速に成長している集団は、他の宗教のカルトや原理主義グループです。これは何を意味しているでしょうか。それは、数の増加は神の祝福の証拠ではないということです。

 神は、キリストのからだの中で神が私たちに与えてくださった奉仕に集中し、同時に、異なる奉仕を行っている他の人々と協力して働くよう私たちに呼びかけておられます。私たちはチーム、つまりキリストのからだの一部であるため、私たちの奉仕の結果を正確に評価することは不可能なはずです。

 したがって、私たちがしなければならないこと、それは、神が私たちに果たすように与えてくださった任務に忠実であることです。

 章 6
献身を通して砕かれる

霊的指導者は、打ち砕かれた人です。

 神は、私たちが若い頃に従わなければならない権威を私たちの上に置き、私たちを打ち砕かれます。イエスでさえ、神から奉仕の務めを与えられるまで、三十年間、両親であるヨセフとマリアの権威に従わなければなりませんでした。

 服従の法則は、キリストからだにおける重要な法則です。それは、人体で機能する法則に似ています。

 たとえば、右手は右腕の「チーム」の一部であり、右腕の「リーダーシップ」に従います。しかし、左手はこのチームの一部ではありません。左腕に従います。キリストの体においても、神は一部のメンバー(地方教会のメンバーや奉仕するチームのメンバーなどのように)を部外者の人よりも、メンバー同士互いに密接に結び付けます。

 神は、個と集団の二つの方法で私たちを導きます。

頭は、右腕をまったく動かさずに、右手だけを動かすように指示できます。それが頭からの個別の指示です。私生活、結婚、仕事、住む場所など、私たちの頭であるキリストから個々に導きを受けるべき事柄はたくさんあります。私たちはからだの他のメンバーからアドバイスを受けることもできますが、主から直接導きを受けなければなりません。

 しかし、頭が右腕を上に動かすように指示すると、右手は腕と一緒に上に動きますが、頭から個別に指導を受けることはありません。それが集団指導です。右手は、頭から個別に指導を受けていないので、自分は動かないと言うことはできません。

 人は、集団指導を受ける時、個別の指示は必要ありません。あなたがキリストのからだの特定の部分とつながっているなら、神はその部分のリーダーを導かれるので、あなたはただ彼らに従うだけでいいのです。

 ここで私が言っているのは、キリストのからだ内であなたが属している部分に関する、集団としての事柄についてだけで、個人的な事柄についてではありません。神があなたを特定のチームに置いてくださったと確信しているなら、そのリーダーたちと一緒に行動しなければなりません。

 この例は使徒の働き16:9 にあります。パウロと彼のチーム (神によって共に集められた) がトロアスにいた時、パウロに幻が現れ、その幻の中である人が彼にマケドニアに来て自分たちを助けてほしいと頼みました。10節には、パウロだけがその幻を見たのですが、彼のチーム全員が、マケドニアで宣教を確信したと書かれています。

 誰も神から個々に指示を受けていなかったのに、彼らはどのようにしてそれを確信することができたのでしょうか。それは、彼らがチームのリーダーとしてパウロを信頼していたからです。チーム単位の事柄に関しては、神はチームの全員に個別の指導を与える必要はありません。神はリーダーのみを導きます。

 あなたがリーダーに頼れないならば、もちろん、そのようなチーム(またはそのような教会)からすぐに離れなければなりません。しかし、教会やクリスチャンの組織に留まって、そこで反抗や争いの原因になってはなりません。そのリーダーに反抗するなら、たとえリーダーが間違っていたとしても、神は決してあなたを祝福しません。グループを離れて別のグループに参加してください。それが最善の策です。

 しかし、人間によって任命された教会組織の権威と、神によって任命された霊的権威を区別しなければなりません。今日、多くの信仰者は、使徒パウロのように、神によって任命され霊的な子供や教会を育てた人という理由ではなく、人間の権威による選挙と任命に基づいてリーダーシップの地位に就いています。

 教区司教は特定の教区に司祭を派遣し、監督教会は特定の教会に牧師を派遣します。そのような人々は霊的権威ではなく、教会組織の権威です。

霊的権威を受ける人は神ご自身によって任命されます。彼らは教会組織の権威者のように他人に自分自身を押し付けたりしません。自発的に人々が自分の権威を受け入れるのを待ちます。そして人々はその権威に神の注ぎを認め、彼に従うようになります。霊的な指導者とは、このようにして人からの信頼を勝ち得た人のことです。

 敬虔な人に服従することは、多くの愚かな事から私たちを守るだけでなく、その人から多くの知恵を学ぶこともできます。私たちはまだ経験がないけれども、その人はすでに直面したことのある危険について、私たちに警告してくれます。ですから、子が親の下で暮らすのと同じように、私たちにとっても霊的な権威の下に留まることは安全なことなのです。

1ペテロ 5:5には、神は高ぶる者には敵対するが、へりくだる者には恵みを与えてくださるので、若い者は年長者に従うべきであると書かれています。ここに神から霊的な権威を得る大きな秘密があります。私は、神から霊的な権威を与えられなかった多くの兄弟たちを知っています。その理由はただ一つです。彼らは、生涯を通じて誰にも従うことを学ばなかったのです。そして、彼らの強い意志は決して折れることはありませんでした。

 権威は、心が砕かれていない人の手にあると非常に危険なものです。まず砕かれたことがないのに、人に対して権威を振るおうとすると、その人を破滅させ、その過程で自分自身も破滅させてしまいます。神は、私たちに霊的な権威を委ねる前に、まず私たちの強固なプライドを砕かなければなりません。

 夫や父親として、敬虔に家庭内で権威をもつためにも、あなたはまず砕かれた人でなければなりません。妻や子供たちに従って欲しいと願うなら、まず自分自身が霊的な権威に従うことを学ばなければなりません。そして初めて、神はあなたが家庭で行うことを支えてくださいます。

 私自身の経験を簡単にお話ししましょう。二十歳から三十歳の間に、神は様々な教会で私の奉仕に嫉妬した長老たちから、公然と辱められることをお許しになりました。しかし、そのような時も、主は私に、口を閉ざし、長老たちに疑問を持たずに従うようにと言われました。そして私はその通りにしました。私は彼らの集会にいた時も、集会を去った後も、彼らと良い関係を保っていました。

 その頃、神が将来私にどんな奉仕をさせてくださるのか、私は全く知りませんでした。しかし、神は何年もかけて私を打ち砕くことによって、霊的権威を行使できるように私を準備しておられました。神は何度も私を打ち砕き、その年月の間に人々が私にしたことを完全に支配しておられたことを教えてくださいました。その結果、何年も経って神が私に人々への霊的権威を与えてくださった時、私はそれを独裁者のようにではなく、慈しみを持ってその権威を用いることができました。

 神は私を打ち砕くことを終えられたわけではありません。過去数年間、神はこれまでになかったような新しく、そしてユニークな試練を私に経験させてくれました。しかし、私の人生における神の目的は変わりません。それは、私をさらに打ち砕き、神がご自身のいのちと権威をさらに私に委ねられるようにすることです。

 神が私たちの強さとプライドを打ち砕くもう一つの方法は、私たちのリーダーを通して私たちを正すことです。ほとんどの信仰者にとって、正されることは容易なことではありません。二歳の子供にとっても同じです、特に公共の場で正される時は。

 あなたが最後に公で正され、喜んでそれを受け入れたのはいつですか。人生で一度でも正されましたか。もしそうでないなら、あなたに霊的な権威が欠けているのは当然のことです。

 主にあって上に立つ権威のある人によって正される時、それが厳しいやり方であったとしても問題ではありません。たとえあなたが正されるに値しなかったとしても、それがあなたのせいでなかったとしても、あなたは指導者が正すことをお許しになった神の手の下に、へりくだらならなければなりません。

 イエスは公に辱められ、多くのことで敵から不当に非難されました。しかし、イエスは一度も不平を口にせず、私たちの従うべき模範を示してくださいました。

 たとえ神が敵にあなたを批判することを許されたとしても、その批判に真実があるかどうか自問してください。それがすべてです。敵は、実はあなたに無料検査をしてくれているのです。彼がどのように「検査」をしたか、その検査の背後にある理由は何だったかなど気にしないでください。そのようなことは重要ではありません。あなたが自分自身に問うべきことは、その「検査」であなたの中にキリストらしからぬ部分が見つかったかどうかだけです。

 私は自分の奉仕において人々から多くの批判を受けます。私は主の真の僕が常に批判され、不当に非難されてきたことを知っています。ですから、私は批判に動揺しません。私はただ主に、批判の言葉の中に事実があるかどうか示して下さいとお願いするだけです。

 私たちの敵は、しばしば友人よりも私たち自身について多くの真実を語ります。ですから私たちはすべての批判を偽りだと無視すべきではありません。

 もし私の顔に黒いしみがあり、敵がそれを私に指摘したなら彼に感謝すべきです。なぜなら、彼は自分では見ることができない何かを教えてくれたからです。

 そして私はそのしみを洗い流しに行けます。敵が悪意を持って私に言ったとしても、私を辱めるために言ったとしても、それは問題ではありません。彼はそれでも私を清めるのを助けてくれたのです。

 これがペテロとイスカリオテのユダの大きな違いでした。ペテロが愚かにも十字架に架かるべきではありませんと主に言った時、主は彼を厳しく叱責して「下がれサタン」と言われました。これは、イエスが人に言われた叱責の中でももっとも厳しい言葉でした。パリサイ人に対してでさえ「まむし」と呼ばれただけです。しかし、ペテロは「サタン」と呼ばれました。イエスの最も強い叱責は、主に最も近い人々に対してのみ与えられました。イエスは最も愛する人々を最も強く叱責します(黙示録3:19)。

 その後すぐに、多くの弟子たちが主の教えに腹を立てて主のもとを去ろうとしていた時、主は弟子たちに離れたいかどうかと尋ねられました。その時ペテロは「主よ。私たちがだれのところに行けましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:60、66-68)。ペテロが聞いた永遠のいのちの言葉とは何だったでしょうか。「下がれサタン」です。

 私たちは、叱責の言葉を永遠の命に導くための言葉として見ているでしょうか。

ペテロはイエスの叱責をそのように捉えたので、この言葉が後のペテロを作り上げました。

 ペテロは他の個所でも主からの矯正を受け入れています。ペテロは最後の晩餐で、他の弟子が主を否定しても、自分は否定しないと言い切りました。主はすぐに、ペテロが十二時間以内に三度主を否定するだろうと答えました。しかし、ペテロはその答えに反抗しませんでした。主はこのようになったペテロを取り上げ、ペンテコステの日に主の真の使徒および代弁者にしました。

 ペテロがは正されることでへりくだったので、神は彼を引き上げてくださいました。ペテロも自分の経験から学んだので、ペテロは今、1ペテロ5章5ー6で、私たちに常にへりくだるように勧めています。へりくだることで失うものは何もありません。いつの日か、神は私たちを高めてくださるでしょう。

 正された時のペテロの態度とは対照的なイスカリオテのユダの態度を見てみましょう。ある女性がイエスに高価な香油を塗った時、ユダは「貧しい人々に施すことができたのに、そのようなお金を使うのは無駄だ」と言いました(ヨハネ12章5節、マタイ26章10〜13節)。 イエスはユダをとても優しく正し、この女性は良いことをしたのでそのままにしてあげなさいと言われました。しかし、ユダはこの言葉に腹を立てました。

 次の節(マタイ26:14)では、ユダがすぐに祭司長たちのところに行き、イエスを裏切ることに同意したと書かれています。このタイミングは非常に重要です。ユダはイエスに叱責されて心を痛めました。

 イエスがユダに言われたのは、ユダの女性の行動に対する見方が正しくなかったということだけでした。しかし、ユダは腹を立てました。あなたが心砕かれていないと、些細なこと一つで簡単にあなたは怒りを覚えるのです。

 しかし、ユダの反応はどのような永遠の結果をもたらしたでしょうか。そしてペテロの場合も見てください。ユダもペテロも叱責によって試されました。一方は失敗し、もう一方は成功しました。

 今日、私たちは同じように試されています。

 公で正されて私たちが腹を立てるなら、それはただ、自分が人からの名誉や評判を求めているということです。もしそうなら、今このことをよく理解しておけば、名誉への欲から自分自身を清めることができます。神は、私たちがどれほど人間の意見の奴隷になっているかを示すために、そのような状況を許されたのかもしれません。今、私たちは自分自身を清めて自由になることができます。

 ですから、主が直接聖霊によって私たちを正してくださるか、また他の誰かを通して正されるのかにかかわらず、いかなる場合も常にペテロの態度を持ちましょう。これが私たち皆にとっての永遠の命への道です。へりくだれば、神から恵みを受け、神は適切な時に私たちを高めてくださるでしょう。

 心折れない人は孤独な人、つまり孤独なリーダーや孤独な信仰者になりがちです。彼らは誰にも従おうとしません。行きたいところに行き、やりたいことをします。そのような砕かれない信仰者は、自分に従い、自分の言うことをきく人々としか働くことができません。そのような信仰者はたくさんいます。彼らは教会から教会へ、組織から組織へと、まるで花から花へと飛び回る蝶のように飛び回っています。彼らは人生を無駄にし、何も達成しません。彼らはカインのようにさすらい人になります。なぜなら、カインと同様、主の矯正を受け入れようとしないからです(創世記 4:12)。

 神はそのような「孤独な人」に霊的権威を委ねることはできません。なぜなら、神は個人主義的な信仰者の集まりではなく、一つのからだをおつくりになるからです。

 章 7
人への責任

霊的指導者は、自分の群れの中の命を見守ります。なぜなら、いつの日か、その人たちの命について神に弁明しなければならないからです(ヘブル 13:17)。

 私はインドの教会の同志たちに、彼らが私を兄のように慕ってくれるので、彼らの命に対して責任を持つつもりだと言いました。ですから、たとえそれが彼らにとって苦痛であっても、私は彼らにとって何がよいかを彼らに伝えます。ちょうど、家庭で自分の子供たちを養い育てるのと同じです。すべての牧師と長老は、自分が責任を持つ人々に対して神に説明する責任があります。

 神は、家庭で子供たちに世の父親を与えるのと同じように、ご自分の子たちに霊的リーダーを与えてくださいます。私は四人の息子の父親です。息子たちが家にいた間、私は彼らを導き、多くの事柄についてアドバイスしてきました。彼らは私に従いました。そのおかげで、多くの危険から守られました。彼らが成長した今でも、私は時々彼らに助言します。なぜなら、私は彼らの父親だからです。同じように、私たちは神が私たちの心に置かれた人たちの霊的な父親になるべきです。

 あなたがあなたの群れの父親になりたいと思うなら、神は彼らへの預言の言葉を与えてくださいます。神が彼らに必要な言葉を与えてくださる前に、あなたは彼らを心にかけていなければなりません。パウロは、彼らを心に覚え(ピリピ1:7で言うように)、定期的に彼らのために祈っていたので、各教会に必要な言葉を手紙に書きました。あなたが自分の群れに対してそのような配慮と重荷を持っていないなら、あなたは給料のために働く、職業としての牧師にすぎません。

 人々の命について「弁明」するとはどういう意味でしょうか。「弁明」という言葉は財務用語です。貸借対照表を作成しているときに、左側の収入の合計が5,000ルピーで、右側の支出の合計が4,999ルピーしかない場合、何かが間違っています。差額はたった 1 ルピーかもしれませんが、それでも帳簿上の誤りです。その1ルピーについても説明しなければなりません。会計は精密科学の一種だからです。

 したがって、神に説明することは、自分の群れの霊的な状況を非常に正確に把握しなければならないことを意味します。私たちはこのことを真剣に受け止めなければなりません。なぜなら、これは永遠の命に関わることであり、霊的リーダーシップは病院で複雑な外科手術を行うよりも深刻な仕事だからです。

 あなたは教会のメンバーに対して責任があります。彼らを霊的にすることはできません。しかし、彼らが主との生きた関係を構築することができるよう、全力を尽くさなければなりません。あなたの目標は「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせる」でなければなりません(コロサイ 1:28)。彼らが逆戻りするのを防ぐことはできませんが、その前に警告しておくことはできます。

 かつて、私たちの教会の若い兄弟がそうなってしまった時、私は心を痛めました。私は主に、なぜ起こったのか、私の側に何か不備があったのか、彼の人生の出来事に関して私の感受性が欠けていたのではないかと尋ねました。彼に警告や励ましの言葉をかけるべきだったのではないだろうか。私は自分自身を裁きました。なぜなら、私はその若い命について神に責任があるからです。

 私たちは、自分の責任下にある誰かが、そのことを通して私たちに何か伝えたいことがあるかどうか主に尋ねなければなりません。私たちはサタンに「罪の旅」に引き摺り込まれるのを許すべきではありません。しかし、私たちは未来のために、失敗から教訓を学ぶべきです。

 神は、人間の理性では決して示せないことを私たちに示してくださいます。神の声に敏感であれば、神は前もって、失敗している人々を助けるよう促してくれます。ある日、神は、何の理由もなく、私たちに誰かを訪ねるようにと言われるかもしれません。そのような経験が何度かあります。大抵の場合、その人を訪ねる理由もわかりません。なぜなら、神は私に他の人の罪や問題を明らかにされないからです。(私は、人の罪を知ることで自分の心を汚したくないので、そのことにとても感謝しています。)主は、その時、その「兄弟」と何かを分かち合うよう私に促します。私が彼の問題が何であるかを知らなくても、自分の話す言葉が彼を助けることになります。そして、彼を助けたことさえ自分では気づかないのです。

 私たちが神の声に耳を傾ける習慣を持っているなら、神は、私たちが困っている人々と接触し、彼らの必要を満たす言葉を伝えることができるように、状況を整えてくださいます。

 それがイエスの生き方でした(イザヤ書 50:4 に書かれています)。父なる神は毎日イエスに話しかけ、弱り果てた人々に語る言葉をイエスに与えられました。イエスは私たち全員が見習うべきリーダーの模範です。

 私が海軍にいた頃、「当直」と呼ばれる船のシフト勤務がありました。一人の士官が「当直」し、四時間ごとに交代して、船上で起こるすべてのことの責任を任されていました。私が海上で真夜中から朝の四時まで「当直」していた時、数人の船員と一緒に「ブリッジ」(船の上部)に立っていなければなりませんでした。船上の船員は皆、眠っていました。

 私は航路を横切る他の船に気を配り、自分たちの船が正しい方向に向かっているか確認しなければなりませんでした。風と波で漂流する場合は、進路の修正もしなければなりませんでした。その四時間の間、船の安全と航路はすべて私の責任でした。私はその「当直」の勤務の間、一分たりとも眠ることはできませんでした。

 ですから、聖書が他を見張ることについて語る時、これは真摯に受け止めなければなりません。人々の生活を見張り、彼らが道に迷ったり、流されたり、行方不明になったりしないようにするには、霊的指導者の側が用心深くなければなりません。

 良い病院には必ず「回診」と呼ばれるものがあり、医師が巡回して患者の状態をチェックします。医師は単に病棟全体を全体的に見て、すべての患者が健康そうに見えればよいと判断するわけではありません。いいえ、彼らは患者を一人一人診察します。

 しかし、多くの牧師は何をしていますか。彼らは日曜の朝に教会員全員を見て、皆霊的に健康そうだから大丈夫と判断していないでしょうか。

 病院においても教会においても、外見上は健康そうに見えても、実は内面はひどく病んでいる人がたくさんいます。とても健康そうに見えても、内面を蝕んでいる「ガン」を患っている人がいるかもしれません。あなたの教会で拍手して「ハレルヤ」と叫んでいる幸せそうな人の中には、家庭生活で深刻な問題を抱えている人がいるかもしれません。

 医者が患者を一人一人診察するように、霊的指導者もまた、一人一人の魂を「診察」(「見守る」)しなければなりません。

聖書は、すべての羊飼いに「羊の様子をよく知る」ように勧めています(箴言 27:23)。

 教会の人数が増えたとき、指導者が自分の管理下にある魂を「見守る」唯一の方法は、そうするように訓練された、他の忠実な人にこの責任を委任することです。

 ある人数を超える人々を一人の人間が個別に世話することは不可能です。私は個人的に、一人の人間が見ることのできる数は十二人だと思っています。なぜなら、イエスが弟子にした数が十二人だからです。どんなに優れた医者でも、多くの病棟を世話できる医者はいません。私たちは皆、身体的な限界があります。

 使徒的奉仕をし、多くの教会の責任を負っている人は、すべての教会の長老たちの状態を知るべきです。長老たちが霊的なら、教会も霊的になります。

残念ながら、ほとんどの牧師や長老は「外来診療」で患者を治療する医師のようで、処方箋を書いて患者を帰すだけで、患者の生死もわかっていないでしょう。

 しかし、霊的なリーダーは、自分の責任下にある魂に責任をもち、そのことを非常に真剣に受け止めます。

 章 8
人生を通しての証し

霊的指導者は、知識ではなく、自分の生き方を通して人々に証しします。

 旧約の下では、神は人々の私生活が不道徳であっても彼らを用いました。サムソンは罪深い生活を送っていたにもかかわらず、イスラエル人を救うことができました。彼が姦淫を犯した時でさえ、神の霊は彼を離れませんでした。神の油注ぎは、彼が髪を切って神との契約を破った時に彼を離れました。ダビデには多くの妻がいましたが、神の注ぎは彼に残り、聖句をも書いています。

 しかし、新約での奉仕はまったく異なります。2コリント3章は、旧約と新約での奉仕の違いを示しています。基本的には、旧約では、祭司は律法を注意深く研究し、神がみことばで言われたことを人々に教えました。しかし、新約では、私たちは、内なるいのちによって神のみことばを語られたイエスに従い、父なる神と共に歩みます。私たちの人生から説くことと知識から説教することの間には大きな違いがあります。

 今日のインドのほとんどの信仰者の人生に深みがないのは、彼らのリーダーの人生が肉欲的で浅薄だからです。リーダーの生活、つまり彼の思考生活、妻や子供、同僚との関係は肉欲的です。そのようなリーダーの奉仕は、知識の普及に過ぎません。これは旧約の奉仕です。

 知識だけを伝える説教者は、旧約の説教者です。彼が与える情報はすべて正確かもしれません。しかし、彼が命そのものを伝えていないなら、彼は新約の奉仕者ではありません。旧約は文字の契約でしたが、新約は命の契約です。文字は人を殺しますが、聖霊は命を与えます。

 旧約では、神はイスラエルに守るべき律法を与えられました。しかし、新約では、神はイエスという方を通して、私たちに倣うべき模範を示してくださいました。イエスの命は人々の光です。今日の光は教義や教えではなく、私たちを通して現れるイエスの命です。これ以外のものはすべて暗闇です。たとえそれが福音主義の教義であってもです。

 旧約聖書では、詩篇 119:105 に書かれているように、神の書かれた律法が光でした。しかし、その後、言葉は肉となり、イエスご自身が世の光となりました (ヨハネ 8:12)。イエスの命は人々の光でした (ヨハネ 1:4)。しかし、イエスは弟子たちに、自分が世の光になれるのは、地上にいる間だけだとお告げになりました (ヨハネ 9:5)。イエスは天に召された今、私たちを世の光として残されました (マタイ 5:14)。ですから私たちには、その光を自分の命によって示すという大きな責任があるのです。

 教会は必ず、その指導者に倣います。黙示録 2 章と 3 章では、七つの教会において、主が御使い(長老)に対して語ったメッセージを、教会に宛てても語られたことがわかります。  それぞれのメッセージは、聖霊のいうことを聞きなさいという言葉で終わっています。五人の御使い (長老) が肉的であった場合、彼らの教会も肉的でした。そして、二人の長老が霊的であったなら、彼らの教会も霊的でした。ラオデキアの長老は生ぬるく、彼の教会もそうでした。フィラデルフィアの長老は忠実であり、彼の教会もそうでした。

 創世記 1 章には、「種類にしたがって」というフレーズが頻繁に登場します。そこには、種類ごとに実を結ぶ果樹、種を生む植物、魚や鳥、獣や這うもの、家畜について書かれています (11、12、21、25 節)。創造において、すべてのものは種類ごとに実を結びます。

 神は「神の似姿に」アダムを創造されました (創世記 5:1)。しかし、アダムは神の似姿ではなく、自分の似姿にしか息子を作ることができませんでした。

 霊的にも同じことが言えますが、私たちからは、自分と同じような考えや志向を持つ子が生まれます。もし私たちが知識によるなら、自分の奉仕によって、同じように知識を重視する人が育ちます。私たちが利己的ならば、奉仕を通して利己的な人が、また、私たちが傲慢でプライドが高いなら、傲慢な人が生まれます。一方、もし私たちがしもべの霊を持っているなら、私たちの霊的な子供たちもしもべの霊を持って育ちます。

 しかし、稀に、自分のリーダーが肉欲的であるにもかかわらず、その型を破り、自分自身で神を求め、霊的になる兄弟がいます。しかし、そのようなケースは稀です。一般的に言えば、ほとんどの信仰者は、リーダーがどこへ行っても盲目的について行く羊のようです。説教者も人々もそうです。そして羊とリーダーの両方が霊的に盲目なら、二人とも穴に落ちてしまいます。

 あなたの教会の信仰者も世に出て、彼らと同じ類の子たちを産み出すことを忘れないでください。そして、彼らはあなたに似た孫を儲けるでしょう。ですから、どのような子孫が今後生まれるのか、今から気を付けておかなければなりません。なぜなら、この世襲はイエスが再臨するまで続くからです。

 ですから、初期の段階で、あなたの教会において改宗者だけでなくイエスの弟子を作ることが重要です。そのためには、まずあなたがイエスの弟子とならなければなりません。他に受け渡すことのできる生き方があなたになければなりません。

 改宗者は出て行って他の改宗者をつくり、その改宗者も出かけて行ってさらに多くの改宗者をつくります。彼らは救いのメッセージは理解するかもしれませんが、主に従いたいという思いはありません。知識はあっても命がありません。しかし、弟子をつくれば、彼らは出かけて行ってさらに弟子をつくるでしょう。ですから、命そのものを他の人に伝えることが基本なのです。

 旧約聖書の幕屋は教会の象徴でした。ご存知のように、その幕屋には外庭、聖所、至聖所(神が住まわれる場所)の三つの部分がありました。外庭にいる人々は、罪を赦された信仰者を表します。彼らは地元の教会で何の責任も負うことなく、集会に来てメッセージを聞き、献金をし、聖餐式を行って家に帰ります。聖所にいる人々は、何らかの形で教会に奉仕しようとする人々です。燭台に火を灯し、祭壇に香をたいたレビ人のように。しかし、最も神聖な場所にいる人たちこそが、新約に入る人たちであり、神との交わりを切に求め、一つのからだとして他の弟子たちとつながります。

 彼らは自分の生き方、人生を通して証し、真の教会、機能的な教会を構成し、サタンと戦い、キリストのからだを清く保つ人々です。しかし、多くの教会にはそのような中心核がありません。

 どの教会でも、最高の教会でも最悪の教会でも、外庭に座っている人々は皆同じです。中途半端で、世俗的で、自分の利益を求め、金銭を愛し、安楽と快楽を愛する人々です。しかし、良い教会には、敬虔な指導者たちの強い内核があります。この核が教会が進む方向を決定します。

 中心核は通常、二人の人が互いに結びついて一つとなることから始まります。神は彼らと共にいてくださり、中心核は大きくなり、一体性も強くなります。人間の体も、母親の子宮の中で二つの異なる個体が一つになることから始まります。その小さな胚は大きく成長しますが、細胞はすべて結びついたままです。しかし、それらの細胞がバラバラに離れてしまったら、その赤ちゃんは生まれません。

 キリストのからだの象徴としての地方教会も同じです。中核が分断してしまったら、たとえ外部構造が組織として存続したとしても、真の教会ではなくなります。

 ヘブル書は新約聖書の中で、新約と旧約を対比する書です。ローマ書、エペソ書、ピリピ書とは違い、ヘブル書はクリスチャンの中でもあまり好まれていません。それは、ヘブル書の内容が"乳"ではなく"肉"だからです。ほとんどの信仰者には、まだ「歯」がありません。彼らはまだ、霊的に赤ん坊なのです。ヘブル書の最初の文には、昔は神は預言者を通して語られたが、今は御子を通して語られると書かれてあります。

 旧約は、主に、「汝はなすべき」や「汝はなすべきでない」という神からの戒めの言葉であり、新約は御子を通して語られる、神の命のメッセージです。

 父なる神が、イエスを赤ん坊として世に送られたのはそのためです。神が成人のイエスを世に送っても何も問題はありませんでした。しかし、イエスが赤ん坊として来られたのは、私たちと同じように、幼少期から誘惑、試練に直面するためでした。

 しかし、ほとんどのクリスチャンは、イエスについては、三年半の宣教とカルバリの丘での死しか考えません。信仰者の99%は、どのようにイエスが、ナザレで三十年間生きていたかについては考えたことがないと言っても過言ではありません。

 彼らはイエスの生誕、イエスの死と復活を覚え、それぞれ毎年祝います。また、イエスが行った奇跡についても思うでしょう。しかしそれだけです。

 イエスの生涯の主要部分について考える人はほとんどいません。イエスの宣教は地上での生涯のわずか10%、三十三年半のうちの三年半に過ぎません。そして、イエスの誕生と死は、一日の出来事でした。イエスの生涯の主要部分は、ナザレで過ごした三十年間でした。 イエスの宣教はすべて、その三十年間に基づいていました。宣教中の説教のために準備するのに、三十年を要しました。

 イエスが説かれた「山上の説教」は今日の説教者が、書斎に座って本や用語索引を調べ、ノートを書き、"同じアルファベットで始まる重要な三つのポイント"のような軽いものではありませんでした。その「山上の説教」はイエスの人生から生まれたものです。イエスはそれを準備するのに三十年かかりました。だからこそ、それはとても力強く、イエスが語る権威に人々は驚嘆したのです(マタイ7:28、29)。

 旧約聖書には、神がエレミヤに語られたのは特定の日だけだったと書かれています。エレミヤは神が語られたことを書記バルクに伝え、バルクはエレミヤから聞いたことをそのまま書き留めました。同じように、神はエゼキエルに特定の時だけ語り、ユダの人々に何を言うべきかをお告げになりました。そしてエゼキエルは行って、神の言葉をそのまま人々に伝えました。今日も、そのような説教があったらなんと素晴らしいことでしょう。

 しかし、新約の宣教はさらに素晴らしいのです!神は旧約聖書の預言者たちと違って、特定の日だけイエスに話しかけたのではありません。神は毎日イエスに話しかけ、イエスは毎日ご自分の人生から人々に語っておられました。イエスの宣教は彼の人生、生き方から溢れ出たのです。これこそが、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)という聖句の意味です。

 このことを踏まえて、あなたが教会で新約の弟子を育てているのか、それとも旧約の改宗者を育てているのか自問してみるといいでしょう。その答えは、あなた自身が新約のしもべなのか、それとも旧約のしもべなのかによって異なります!

 旧約聖書の預言者は単なる使者でした。メッセージを伝えるために必要なのは、良い記憶力だけです。しかし、新約では、神は私たちに他の人に伝えるメッセージではなく、ご自分の命を与えてくださいます。そうすると、必要なのは良い記憶ではなく、良い生き方、つまり神の命そのものです。

 違いを説明しましょう。蛇口から水を汲んで(神からのメッセージを受け取り)、それをこぼし、戻って蛇口からさらに水を汲んで(神からの別のメッセージを受け取り)、またそれを注ぎ出す、これは旧約の図です。

 しかし、新約では、私たちの中に水の泉(イエスご自身の命)が与えられています。そして、それは絶えず私たちの内側から流れ出ています。ですから、私たちはメッセージを得るために、毎回神のもとに戻る必要はありません。神は私たち自身をメッセージにしてくださいます。私たちの人生自体がメッセージであり、私たちはそれに基づいて語るのです!

 ほとんどの人は"注ぐ"奉仕をしています。注ぐ際に、何も与えられる人もいれば、与えられない人もいます。しかし、どちらもまだ注ぎ続け、枯渇してしまいます。

 しかし、イエスはサマリアの女性に、彼女の中に永遠の命の泉を与え、絶えず流れ出させると言われました。(永遠の命とは、神ご自身の命を意味します。)

 この命は、主が私たちの中からも流れ出ることを望んでおられるものであり、単なるメッセージではありません。これが新約の奉仕です。

 章 9
神の力によって仕える

霊的指導者は、神の御心に従って、神の力によって、そして神の栄光のために、すべての働きをします。ですから、その働きは金、銀、宝石のように、精錬の火に通されます(1コリント 3:12-15)。

 2コリント3:5、 6 でパウロは、神が私たちを備え、資格ある者とされない限り、私たちは決して新約のしもべにはなれないと言っています。霊的指導者は、神から与えられた資格によって仕えるので、その働きを自分の功績として受け取ることはできません。

 もし本当に神の命が私たちを通して流れ、人を祝福するのであれば、それを自分の功績として受け取ることはできません。なぜなら、自分がそれを生み出していないからです。

 たとえば、もし私が誰かの焼いたケーキを持ってきてそれを皆さんに配り、そして皆さんが「ザック兄弟、美味しいケーキですね!」と言って褒めてくれても、私は自慢しないでしょう。なぜなら、私が焼いたケーキではないからです!私は誰かが焼いたものを配っていただけです。でも自分で焼いたら、いい仕事をしたと自慢できるでしょう。しかし、他の人が作ったものを自分の手柄にできるでしょうか。

 これは、私たちが人に渡しているものが、神が私たちの中に生み出したものなのか、私たちが自分で生み出したものなのかを知る方法の一つです。

 自分の奉仕(ケーキ)を誇りに思っていますか。もしそうならば、その奉仕(ケーキ)はあなたが自分で作り上げたものに違いありません! そしてそれは神にとって何の関係もありません。もし神が作ってくださったのなら、私たちはそれを誇りに思うはずがないからです。

 イエスの弟子たちは、群衆に配ったパンと魚を自分の手柄にできたと思いますか。 いいえ。イエスに少しの食料を差し出した少年でさえ、自分の手柄にしなかったでしょう。弟子たちはイエスが生み出したものを配っただけです。

 私たちは生産業ではなく、分配業だけに携わっているのです。そのことを神に感謝します。ですから私たちは、いつも休んでいることができます。生産作業の時には緊張が伴いますが、分配作業の時ではありません。分配作業で疲れるのは事実です。しかし、そのような重圧はありません。私たちの力、資格は神からのものです。これほど価値あるものを私たちが生み出すことは不可能であり、それを私たちもわかっています。

 聖霊の助けなしに成し遂げたことはすべて人間的なものであり、永遠の価値はないということを覚えておいてください。祈りや聖霊の力もなしに、また神の助けを求めずに説教し、多くのことを成し遂げることができます。

 あなたは素晴らしい人間的能力を持っていて、それを使って色々なことができるでしょう。しかしある日、あなたはそれがすべて神の目には木や干し草やわらでしかないことに気づくのです。

 あなたは、人々の心を感情的に揺さぶることに長けているので、自分は優れたコミュニケーターだと思っているかもしれません。しかし、ロックミュージシャンも同様に人々を感動させています。彼らはどんな説教者よりもうまく人々に感動を与えています。しかしそれはただの虚しい感情です。

 あるいは、あなたは知識が豊富なので、あなたの話に人々は刺激され、何時間も耳を傾けるかもしれません。しかしそれも人間の魂の力です。神の命によるものではありません。

 聖霊の助けなしにあなたが宣教で成し遂げたことはすべて、この世とともに滅びます。本当にこのことが起きる時が来ます。あなたが私の言うことを信じるかどうかはわかりませんが、もし信じてくださるなら、もう人間のやり方で時間を無駄にしなくて済むでしょう。

 私は永遠に滅びゆく何かのために時間を費やしたくありません。私は神によって与えられる力、神からの資格によって仕えたいのです。

 パリサイ人はイエスの時代の偉大な聖書学者でした。彼らはリベラルなサドカイ派とは異なり、教義において根本主義的でした。イエス自身が弟子たちにパリサイ人の言うことをすべて行うようにと命じ、彼らの教義の正しさを承認しました(マタイ23:3)。

 パリサイ人は、当時の聖書神学校の主任教授であり、ガマリエルは、タルソのサウロが通っていたエルサレムの聖書神学校の校長でした。パリサイ人の多くは、立派な宣教指導者でもありました。そしてイエスは、彼らはただ改宗者を作るために陸と海を飛び回っていると指摘されました(マタイ23:15)。彼らの宣教には犠牲と献身が伴ったかもしれません。しかしイエスは、ご自分の宣教活動の大半を、この原理主義的な神学校の教授や宣教指導者との対立に費さなければなりませんでした。

 なぜでしょうか。私たちがその理由を知っておかなければ、私たちも彼らのようになり、主が私たちとも敵対されることになりかねません。

 指導者たちは、イエスとその弟子たちはなぜあれをしないのか、これをしないのかといつも非難していました。自分たちの口承伝授を引き合いに出して、イエスとその弟子たちがどこでそれを破ったのかを指摘していたのです。

 私に敵対し、このような批判的な態度を取る「信仰者」たちを、私は数多く見てきました。彼らは、私があちらこちらで用いたちょっとした表現や言葉について揚げ足を取ります。彼らは「言葉について論争する」の が大好きです(1テモテ 6:4)。まさにパウロが避けるようにとテモテに促したことです。

 彼らは自分たちに神の命がないことをあまり気にしていないようです。彼らは、死んだ人の手の指を数えて、すべての指があるかを確認する人々のようです。そして、指の爪が一本でも欠けていると、彼らは大騒ぎするのです!

 私は、指と爪が全部揃っている死んだ人よりも、指が五本なくてもしっかり生きている人を好みます。多くの神学者は教義においてすでに死んでおり、それと同時に彼らは"正しい"のです。

 私は、正しい方法で洗礼を受けているが、完全に霊的に死んでいる人よりも、洗礼の教義は間違っていても聖霊に満たされている兄弟と一緒に働くことを選びます。

 誤解しないでください。私はクリスチャンとして教義を大切にしてきました。多くのキリスト教団体を離れましたが、それは彼らが神の教え全体を説いていなかったからです。ですから、教義を軽視しているわけではありません。私が言いたいのは、教義よりも命と霊性の方がはるかに重要だということです。

 ある日、イエスがパリサイ人たちを叱り、正された後、弟子たちがイエスのもとに来て言いました。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」イエスは弟子たちに、パリサイ人たちのことは気にしないようにと言われました。なぜなら、彼らは盲人の指導者であり、「天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされ」るからです(マタイ15:12、13)。

 この最後の言葉について少し考えてほしいと思います。私たちが説教するときはいつも、「種」を植えているのです。植えたものが神からのものでなければ、いつかは引き抜かれます。

 聖霊によって与えられた力で行えば、私たちの奉仕は永遠に残ります。しかし、祈りもせず、神に頼らず、聖霊の助けも受けずに神のために奉仕をするなら、それはいつか必ず根こそぎにされるでしょう。

 クリスチャンの奉仕には、聖霊の力は必要なく、十分なお金と優れた管理者さえあればよいと言うような側面が数多く見受けられます。

 たとえば、クリスチャン集会を企画する場合、多くの作業が伴います。会場を借り、招待状を送り、宿泊施設や食事の手配などを行う必要があります。しかし、これらすべては、クリスチャンでなくても、優れた管理者であれば誰でも行うことができます。実際、会議と言われるものの多くは、クリスチャン集会よりもはるかに優れた方法で運営されています。しかし、クリスチャン集会で永遠に残るのは、みことばであり、それは聖霊の注ぎの下で行われなければなりません。

 私は、集会のための準備の必要性を軽視しているわけではありません。どんな会議でも成功するためには準備が必要です。しかし、聖霊の力で行われたことだけが永遠に残ると言うことを忘れないでください。

 これを私たち自身の奉仕に当てはめてみましょう。私たちの奉仕の中で、これはただの人的資源と訓練の賜物に過ぎないと言える部分があるか自問してみましょう。自分に正直であれば、その答えに驚かれるかもしれません。

 イエス・キリストは昨日も、今日も、そして永遠に同じです。

 今日でも、イエスが対立しているのは、命はないが知識があり、聖霊の注ぎなしに情報だけを伝える聖書神学校の教授や宣教指導者です。使徒たちは当時そのような人々と対立していましたが、私たちもイエスの足跡をたどるなら、現代でもそのような人々と対立するでしょう。

 私は、彼らを喜ばせ主を悲しませるよりも、主と共に歩み、そのような人々と対立するほうがいいと思います。実際、もし、全世界を敵に回すことが主に喜ばれる、払うべき代償であるならば全世界と対立する覚悟もあります。

「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1:10)

 ですから、私たちの奉仕のために神に頼りきり、聖霊の油注ぎが私たちの上にあることを常に待ち望みながら歩んでいきましょう。

 章 10
霊的権威を用いる

霊的指導者は霊的権威をもって奉仕します。

 群衆はイエスの説教に驚きました。なぜなら、イエスの教え方とパリサイ人が長年教えてきた教え方との違いに気がついたからです。パリサイ人には多くの知識がありましたが、イエスには彼らよりもはるかに多くの知識がありました。しかし、聴衆に感銘を与えたのはイエスの権威であって、知識ではありませんでした(マタイ7:29)。

 いくら私たちに知識があっても、奉仕において霊的権威がなければ、私たちはパリサイ人のようになります。神はその権威によってイエスの語られた言葉を裏付けました。これが霊的権威をもって語るということです。

 イエスはヨハネ15:26、27で弟子たちに、聖霊が彼らと共に証しをすると言われました。これは、彼らが説教する時はいつでも、聖霊が彼らの言葉の後ろ盾になるということです。私は自分の奉仕が常にそのようであってほしいと願っています。

 私がイエスを証しする時、聖霊も私の語ることを証しします。聖霊は「これを聞きなさい。これは神からの言葉である」と言って聞く人々の心に語ってくださるのです。そうすれば、私は神の権威をもって話すことになります。

 私がイエスについての正確な知識をただ伝えるならば、聖霊は私の言葉を裏付けしてはくださらないでしょう。また、私の教義はすべて福音主義なので、異端者とは見なされる事はありません。しかし、私は依然として命ではなく死に仕えていることになります。

 私たちが人々に対して権威を行使する方法はたくさんあります。人的な方法、宗教的な方法、霊的な方法があります。そして、この三つには大きな違いがあります。イエスの権威は人間的でも、宗教的でもありませんでした。イエスは決して世の王や、宗教的指導者のようには振る舞ったり話されたりしませんでした。イエスの権威は神からの神聖なものであり、霊的なものでした。

 人的な権威の良い例は、映画スターやロックミュージシャンのもつ権威です。人々が彼らを崇拝し、熱狂する様子を見てください。人々は彼らを一目見るために、雨の日も日が照りつける日も何時間も立って待ち続けます。これらのスターやミュージシャンは人々に対して大きな権威を持っています。彼らは、人間の能力を使って人々の心と感情を支配し、さらに彼らに金銭も支払わせます!この種の権威は、キリスト教界の多くの説教者にも見られます。それは人間の魂の力であり、聖霊の力ではありません。

 人間の権威を行使するもう一つの方法は、お金を使うことです。今日、世界は武器を持つ者ではなく、お金を持つ者によって支配されています。お金は戦争や選挙でも非常に重要な要素です。どの国でもビジネスで成功するためには、政治的指導者に気に入ってもらわなければなりません。

 そして政治的指導者は、権力を握るためのお金を得るために、今度はビジネス界に気に入ってもらわなければなりません。つまり、お金にはとてつもない力があるのです。そしてこの力はキリスト教界でも広く使われています。お金は確かに多くの善をもたらします。しかし、お金の力は非常に強いので、多くの損害ももたらします。

 もしどこかのキリスト教の活動が金銭的な力によって支配されているなら、それは決して霊的な活動ではありません。イエスはお金は神と真っ向から対立する存在であり、神と物質的な富が、世で人々の注目を引く二つの主人だと言われました(ルカ16:13)。

 キリスト教の指導者が人にお金を与えることで持つ権威は、霊的な権威ではありません。世界でもキリスト教界でも、裏で糸を引くのはお金を持っている人です。

 人々はお金を持っている人に屈服します。あなたが誰かにお金さえ払えば、彼らはあなたの言うことに同意し、あなたが言うことなら何でもやるでしょう。これは会社や世俗的なキリスト教の組織でも同じです。

 ほとんどの牧師は教会の役員によって支配されています。役員が給料を決めるからです。そのような牧師は役員を怒らせるようなことは決して言いません。教会の役員にはたいてい裕福な人がいます。そして、これらの裕福な人こそ最も叱責される必要がある人です。しかし、口に詰め込まれたお金でいっぱいの牧師が、どうして彼らを叱責できるでしょうか。できません。ですから、牧師は裕福な人の耳をくすぐり、彼らが聞きたいことを正確に言わなければなりません。もし牧師が彼らの機嫌を損ねれば、年間昇給がもらえないばかりか、職さえも失うでしょう。そして彼は、快適な牧師館を退去し、子供たちを良い学校から転校させなければならなくなる家族のことを哀れに思います。

 結局彼は、理事会に服従し、公式の方針に黙って従うのです。これが、今日のインドに預言者がほとんどいない主な理由です。多くの「説教者」はお金の誘惑の餌食になっています。そのような説教者がどうして霊的権威を行使できるでしょうか。

 他の人に対して権威を持っている兄弟たちにぜひ言っておきたいことは、お金で誰かを支配するなら、あなたが行使しているのは霊的権威ではないということです。

 イエスはお金で誰かを支配することはありませんでした。彼の弟子の誰一人としてお金のためにイエスに従いませんでした。なぜなら、イエスには彼らに与えるべき富がなかったからです。イエスは世の退職金ではなく、ただ苦難と苦しみだけを彼らにお与えになりました。イエスは彼らに神の国と神の義を第一に求めるように教え、彼らが必要とする物質的なもの(最低限の食べ物と衣服)は天の父によって彼らに与えられると言われました。

 イエスは、使徒たちを世界に伝道するために派遣しましたが、金銭は持たせませんでした。それは、使徒たちが金銭で誰かを引き寄せたり、支配したりできないようにするためです。しかし、彼らは当時の世界で、私たちが金銭や道具、会議によって成し遂げた伝道よりも、はるかに優れた伝道活動を行いました。

 神の仕事において、お金の力は非常に注意しなければならないものです。なぜなら、それが私たちから霊的権威を奪いかねないからです。

 音楽の力も、私たちが警戒しなければならない力の一つです。ロックミュージックは、人々を自殺に追い込むほどにまで、人々の心を動かすことができます。今日の世界には、そのような力の形態がたくさんあります。私たちは、これらを霊的な力と取り違えないように注意しなければなりません。霊的な力と魂の力を区別できなければ、簡単に宣教において自分自身を欺くことになります。

 私たちの中には、金銭的な力や音楽の力だけではなく、知的な力を使う人もいます。これもまた「魂の力」であり、霊的な権威を持つこととはまったく異なります。私たちは、人々に私たちの話を聞いてもらうために、自分の資格で人々を感心させようとします。おそらく、あなたは神学的な資格を持っているので、ペテロが手紙の中で使ったギリシャ語の語源などは説明できるでしょう。ペテロ自身も知らなかったようなことさえもです。

 しかし、霊的な人は、聖書をまったく異なる方法で教えます。そして、結果も異なります。聖書は、人間の知性の力によっても、聖霊の力によっても教えることができます。そして、この二つの教え方とその結果には大きな違いがあります。

 今日の教会に最も必要なことの一つは、指導者の奉仕における霊的権威の実証です。

 霊的権威は宗教的権威とは非常に異なります。今日のキリスト教界でよく見られるのは、強い指導者が信仰者を支配する宗教的権威です。

 地方教会が、誰もが指導者を選ぶ投票権を持つ民主主義として運営されることを、または、貧しい信仰者を支配し、ひれ伏して従わせる強い指導者による独裁主義として運営されること、どちらも神は意図されませんでした。

 神のみことばを説教する時、人々に対して権力を持つことは簡単です。人々は、私たちの奉仕が自分たちのためになるので感謝します。そのようにして、人々は私たちを崇拝し、私たちは小さな神のようになります。私たちは、常にその危険性を恐れて生きなければなりません。私たちは自分の賜物によって、人々に対して持っている権威を決して利用してはなりません。私たちは決して人の人生を支配しようとしてはいけません。もし人々が私たちに執着しているようなら、そっと彼らを主に委ねなければなりません。なぜなら、それは彼らにとっての益になり、霊的成長にもつながるからです。

 私たちの使命はキリストのからだを築くことであり、私たち自身の小さな帝国を築くことではありません。これが霊的権威の道です。

 パウロは神から与えられた霊的権威を持っていたので、コリントの教会の一人をサタンに引き渡して肉を滅ぼし、その人を救うことさえできました(1コリント5:5)。その人は後に救われ、悔い改めて教会に戻ってきました。パウロはその教会の創始者であり、そのような父たちには、他の誰にも行使できない霊的権威があります。当時の使徒たちは、人々を築き上げるために、主から与えられた神聖な権威を持っていました。これは私たちも必要とする愛に満ちた権威です。使徒パウロの生涯にはそのような霊的権威の多くの現れが見られますが、それは私たちにとっても大きな励ましです。

 弟子たちは三年半イエスを観察し、イエスが会堂で見てきた指導者や説教者とはまったく違うことを知りました。彼らは、彼のように生きる人や、彼のように話す人に出会ったことがありませんでした。

 イエスは、ご自分の生活と宣教において権威を持っていました。イエスに出会うまで、彼らは、会堂にいる祭司や聖職者にみられることが霊的な宣教だと思っていました。イエスに会わなかったら、祭司や聖職者をロールモデルにしていたでしょう。しかし、今や彼らには従うべき新しいロールモデルができたのです。

  私たちの若者に必要なのは、従うべきより良いロールモデルです。霊的な権威を持つ人として、そのようなロールモデルになるのは私たちの責任です。

 章 11
全ての恐れから解放される

霊的指導者は決して人や状況に対する恐れに応じて決断しません。

 私の家の居間には「神を畏れるなら、他に何も恐れる必要はない」と書かれた大きな聖句が掛かっています。これはリビングバイブルのイザヤ8:12と13です。この聖句は過去二十五年間私を助けてくれました。

 恐れに関して主から学んだ真理のいくつかを皆さんにお話ししましょう。

まず第一に、恐れはサタンの武器庫にある主要な武器の一つであるということを学びました。

第二に、恐れの気持ちが時々湧いてきても、罪悪感を感じる必要はないということを学びました。なぜなら、私はまだ肉体の中にいるからです。

 私たちはこの恐れについて、現実的かつ正直でなければなりません。使徒パウロは正直者で、ある時には自分の中に「恐れ」があったことを認めました(2コリント7:5)。

 私が学んだ三つ目のこと(これが最も重要です)は、たとえ恐れがあったとしても、恐れに基づいて決断してはいけないということです。私の決断は常に神への信仰に基づいていなければなりません。恐れとは正反対のものです。そして、それが私が長年求めてきた生き方です。そして神は私を大いに助け、励ましてくださいました。

 イエスが「恐れるな、恐れるな、恐れるな」と頻繁に言われた理由が今、本当によくわかります。

 これは新約聖書の中で他に強調されている点と同じくらい重要なことです。

「罪を犯してはならない、罪を犯してはならない、罪を犯してはならない」。

 イエスは常に罪に、また恐れに反対しました。イエスは神のみを恐れ、他の誰も恐れてはならないと教えました(マタイ10:28)。これは私たちが学ぶべき非常に重要な教訓です。なぜなら、霊的指導者は恐れに基づいていかなる決定も下してはならないからです。

 私が長年居間に掛けているもう一つの聖句はガラテヤ1:10です。

「人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」

人を恐れ喜ばせようとするなら、あなたは決して主の僕となることはできません。そして、人に気に入られようとすることから抜け出すのは容易ではありません。

 インドから欧米に送られるキリスト教活動に関する多くの報告は、基本的に、人々に感銘を与え、ここでの活動のための経済的な支援を得るためのものです。活動に関する報告を書く時は、動機について非常に注意する必要があります。

 同様に、多くの説教は、人々に感銘を与え喜ばせるという動機で準備されています。しかし、そのような動機で説教する人は、決してキリストのしもべにはなれません。教会の未熟で識別力のない集まりを、自分が偉大な神の人だと騙すのは簡単です。しかし、神を騙すことも、悪魔を騙すこともできません。神も悪魔も、あなたがどのような人であるかを正確に知っています。

 もしあなたに、誰かを不快にさせたら仕返しされるかもしれないというような恐れがあるなら、あなたは常にその人を喜ばせようとします。ですが、あなたは決して神の僕にはなれません。恐れに基づいて行動するなら、あなたを導いているのはサタンであり、神ではないことを知らなければなりません。

 私たちの人生を振り返ってみると、私たちは過去に多くの決断を恐れに基づいて下してきたことに気づくでしょう。それらの決断のすべてにおいて、私たちは神に導かれていませんでした。それらの決断の結果はそれほど深刻ではなかったかもしれません。しかし、私たちは神の最善を逃しました。今後、私たちは違う行動を取るべきです。

 私たちが恐れを感じるのは自然なことです。なぜなら私たちは人間だからです。例えば、あなたが今座っている場所に突然コブラが現れたら、当然ショックを受けて飛び上がり、アドレナリンの分泌が増えるでしょう。それは自然なことです。しかし、あなたが行くところどこでも、椅子の下にコブラがいるのではないかと恐れて生きているわけではありません!

 私たちは誰かを恐れて生きてはいけません。

 私たちは決して人やサタンへの恐れに基づいて決断を下してはなりません。私たちが下すすべての決断は、神への恐れと天の父への完全な信仰に基づいていなければなりません。そうして初めて、私たちは聖霊に導かれていると確信できるのです。

 ヘブル13:6 は、主に仕える私たち皆にとって非常に重要な聖句です。

「 私たちは確信に満ちてこう言います。主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 しかし、用心深さと恐れを区別しなければなりません。この世では、蛇のように賢くなければなりません。しかし、男も女も悪霊も、サタン自身も恐れる必要はありません。

 イエスは用心深いお方でした。ユダヤで人々が自分を殺そうとしていると聞かれた時、イエスはそこに向かわれませんでした(ヨハネ7:1)。それは実に賢明なことでした。しかし、イエスには誰に対しても恐れがありませんでした。

 夜に森に入るなら、たいまつを持っていくでしょう。それは用心深さであって、恐れではありません。どこかで人々があなたを殺そうとしているなら、神ご自身が行くように命じない限り、そこに行くべきではありません。イエスは、聖霊に導かれて最終的にエルサレムに行き、そして殺されました。しかし、それは神の御心であり、神の時でした。

 私たちは誰に対しても恐れを抱きません。もし私たちが神の意志を行い、「全能者の陰に宿って」生きているなら(詩篇 91:1)、人が私たちにどんな害を及ぼすことができるでしょうか。

 聖書は「だれがあなたに害を加えるでしょう」(1ペテロ3:13)と問いかけています。神は、人々が私たちに行うすべてのことを、私たちの益となるように働かせることができます(ローマ 8:28)。それが真実であるなら、なぜ私たちは恐れる必要があるのでしょうか。私たちが人を恐れたり、人を喜ばせたり、人に感銘を与えたり、人の前で自分を正当化しようとしたりするために、私たちの霊的権威の多くは、サタンによって奪われています。私たちはこういった態度を完全に捨て去らなければなりません。

 しかし、これは簡単なことではありません。絶え間ない戦いです。ある集合体で A、B、C に気に入られようとするのをやめると決めたら、自分は大丈夫だと思うかもしれません。しかし、すぐに別の集合体で D、E、F を喜ばせようとしている自分に気づくでしょう。そして、これは終わりのない戦いです。すべての人から解放されたいのであれば、最後までこの戦いに忠実に取り組まなければなりません。この罪に対して常に警戒し、戦わなければなりません。決して人からの承認を求めてはいけません。

 誰の意見も気にしないと傲慢に言う信仰者もいます。しかし、そのような人は霊的ではありません。ただ傲慢なだけです。信心深い兄弟の意見は非常に貴重です。兄弟は、私たち自身では見えない、私たちの中にあるものを教えてくれる可能性があります。そのような人を尊敬し、敬い、その権威に従うことは、実際に大きな助けになります。

 大切なのは、信心深い人の奴隷になるのではなく、彼に従う方法を学ぶことです。

 教会のメンバーが神だけを恐れ、人間や悪魔への恐れから解放されてほしいと望むなら、まず私たち自身がそのようにならなければなりません。

 神がこの地上のすべてを支配しておられるからこそ、私たちは誰も、何も恐れないのです。

かつて、ある国(福音を説くことが禁じられている国)に行く計画を立てていましたが、主は私にマタイ28:18、19を思い出させてくれました。その時、主は天と地のすべての権威を持っておられるからこそ、すべての国に行って弟子を作るようにと私たちに命じられたのだと分かりました。その根拠に基づいて出かけなければ、どこへ行っても問題に直面するでしょう。

「それゆえ」という言葉は、マタイ28章の大宣教命令の中で最も重要な言葉です。ほとんどの説教者は「行って」という言葉を強調します。それは良いことです。しかし、私たちはどのような根拠で出かけるべきでしょうか。私たちの主は、この地上のすべての人々とすべての悪魔に対しても権威をお持ちです。本当にそれを信じないなら、どこにも行かないほうがいいでしょう。

 マタイ28章のこの聖句は、当時、新たに示された啓示でした。そして、私は何のためらいもなくその国に行くことができました。当然、その国に入った時、私の中には恐れがありました。しかし、私はその恐れに基づいて決断を下しませんでした。

 もしあなたが、主イエスが権威を持っておられない国がこの世界にあると思うなら、そこへ行かないように私はアドバイスします!私自身、そこへは行かないでしょう。怖いですから。しかし、神に感謝します、この地球のどこにもそのような場所はないのです!この地球の隅々まで私たちの主の権威の下にあります。

 同じように、もしあなたが、主の権威の下にない人がいると思うなら(その人がどんなに強力であっても)、あなたは常に彼を恐れて生きなければなりません。しかし、ありがたいことに、そのような人はどこにもいません。私たちの主は、すべての人間に対して権威を持っています。ダニエル書4:35に書かれているように、ネブカドネザル王でさえそれを理解していました。

 もしどこかに、カルバリーの丘で主によって打ち負かされず、どういうわけか敗北を免れた悪魔がいるなら、私たちは常にその悪魔を恐れて生きなければなりません。しかし、十字架で敗北しなかった悪魔は存在しません。サタン自身もそこで永久に打ち負かされたのです

。この事実こそ、サタンと悪魔に対するすべての恐怖から私たちを解放し、私たちの宣教に大胆さを与えてくれるのです。

 ですから、私たちは神が召してくださる所ならどこへでも行きます。場所によっては危険が伴うかもしれません。しかし、私たちの知る限りでは、主が私たちをそこに導いてくださっていると感じれば、行くことを恐れる必要はありません。問題は、特定の場所でキリスト教徒が迫害されているかどうかではありません。唯一の問題は、主が私たちにそこに行くように命じたかどうかです。もし命じたなら、主の権威が私たちを全面的に支援してくれるでしょう。私たちはまったく恐れる必要はありません。

 しかし、神が私たちをどこかに行くように召しておられないのであれば、どんなに人に行くように説得されても、あるいは私たちの中にある冒険心がどんなに行きたがらせようとしても、私たちは行くべきではありません。

 私たちはなぜその場所に行くのか自問しなければなりません。私たちが弟子を作りたいから行くのであって、他の野心がないのであれば、主が約束されたように「世の終わりまで」常に私たちと共にいてくださると確信できます。しかし、私たちには他の動機があるかもしれません。主は「私の心を試され」(エレミヤ12:3)、私たちの動機をお調べになります。

 主は、信仰者と自称するすべての人にご自身をお任せになるわけではありません。ヨハネ2:24にそのことが書かれています。

あなたがもし、次のことを正直に言えるなら、必ず主の権威があなたを常に支えてくださるでしょう。

「主よ、私がこの場所に行くのは、あなたが私をそこに行くように召されたと感じたからです。弟子を作り、父と子と聖霊の名において彼らに洗礼を授け、あなたが命じられたすべてのことを行うように教えるためです。私は金儲けや名声のため、あるいはその他の個人的な理由でそこに行くのではありません。」

 そして、妻や子供たちはどうなるのか、経済的必要はどうやって満たされるのかと不安に思う必要もありません。重要な唯一の質問は、「神はあなたを召されたのか、召されなかったのか」ということです。神があなたをそこに送っているのか。それとも誰かがあなたをそこに送っているのか。それとも冒険心があなたを駆り立てているのか。

 あなたが神の計画以外の計画を持っているなら、あなたを納得させる聖句の約束はありません。しかし、あなたの計画が神の計画と同じなら、つまり弟子を作り、父、子、聖霊の名において洗礼を施し、イエスが命じたすべてのことを行うように教えるなら、私はあなたに保証します。あなたは人や悪魔を恐れる必要はありません。

 神のすべてのしもべは、私たちの主イエス・キリストの名にある権威を用いて、悪魔に取り憑かれた人々を救う方法を知らなければなりません。悪魔はあなたや私を恐れません。彼らが恐れるのは、十字架上で彼らを打ち負かした主だけです。だからこそ、イエス・キリストが十字架上でサタンの力をすべて取り除いたことをはっきりと知ることが重要です(コロサイ2:14、15)。これは、私たちがまず経験し、次にすべての人に宣べ伝えなければならない福音の良い知らせです。私たちがそれを信じるなら、私たちは他の人をサタンの力から救うことができます。

 悪魔が私たちに何をしようとしているのか、私たちは恐れるべきではありません。なぜなら、悪魔は神の許可なしに私たちの頭の毛一本にも触れることができないからです。しかし、インドの多くの信仰者は、いつか誰かが自分たちに黒魔術をかけるかもしれないと恐れています。なぜ彼らはそのような恐れを抱くのでしょうか。それは、悪魔が十字架で打ち負かされたことを知らないからです。

 私はかつて、長い間病気だった牧師に会ったことを覚えています。彼は自分の病気は敵が自分にかけた魔術のせいだと言っていました。どうしてそんなことが起こり得るのでしょうか。主は黒魔術や魔術の力よりも弱いのでしょうか。いいえ。牧師がそう感じたのは、その不信仰のせいでした。地上でも、悪魔が活動する天界でも、いかなる悪魔の力も主の権威と力に対抗することはできません(エペソ6:12)。

 あなたがそれを信じないなら、主に仕えるのをやめて、何か他のことをすることをお勧めします。説教者になるのをやめなさい。あなたの恐れと不信仰を他の人に伝えてしまうからです。 恐怖はサタンの武器です。決してあなたに対して使わせないでください。

 悪霊は、神の許しによって、信仰者を悩ますことがあります。ヨブの場合がそうでした。神はサタンの使者が使徒パウロをも悩ますことを許されました(2コリント 12:7)。それはパウロにとって、体のとげと同じくらい苛立たしいことでした。パウロがどこへ行っても、絶えず彼を悩ませていたのは病気か人物だったかもしれません。もし私たちの体にとげがあり、自分ではそれを引き抜くことができないなら、神に取り除いてもらうようお願いすべきです。しかし、神がパウロに言われたように、そのとげが私たちをへりくだらせるというより大きな目的を果たしているのを、神がご覧になれば取り除かれはしないでしょう。

 サタンは、パウロがテサロニケに行くのを一度妨害することさえ許されました。しかし、テモテが代わりに行くことができ、神の目的はそこでも果たされました(1テサロニケ 2:18; 3:2)。

 しかし、新生したクリスチャンが悪魔に支配されることは決してないということをもう一度強調しておきたいと思います。残念ながら、最近の多くの説教者は、信仰者が悪魔に取り憑かれる可能性があるという非聖書的な教義を説いており、その結果、多くの信仰者が恐怖と非難にさらされています。

 そのような説教者は、自分の教えを正当化するために、聖句を一つも引用できません。しかし、彼らは自分の経験でそのような事例に遭遇したと言います。したがって、彼らは自分の経験を神のみことばよりも高く掲げます。このこと自体が彼らが偽りであることを証明しています。

キリストと悪魔が同じ心の中に共存することは決してできません。光と闇は同じ場所に共存できないのです。イエスが説教した会堂のユダヤ人の中には悪魔に取り憑かれた人がいたのは事実です。しかし、生まれ変わった信仰者(使徒2章以降)が悪魔に取り憑かれたという例は一つも書かれていません。

 パウロやヨブのように、クリスチャンは外部から悪魔に悩まされる可能性がありますが、それも神の許可があるからです。そして、神がそのような嫌がらせをお許しになるなら、ヨブやパウロの場合のように、それがあなたの霊的な益のために働くことを絶対に確信できます。

 もし誰かが悪魔に支配されているかどうか疑わしい場合は、心から次の三つの告白をするようにその人に頼んでください。

⒈イエス・キリストは私の主です。

⒉イエス・キリストは肉体となって来られ、罪を克服されました。

⒊サタンよ、あなたは十字架の上で主イエス・キリストに打ち負かされた。私はもうあなたのものではない。

悪魔に取り憑かれている人は、霊でこの三つのことを告白することはできません。

 私たちは病気のたびに、癒されるように祈るべきです。しかし、もし主が病気を通して私たちに霊的な益をもたらし、主の名を讃えようとしておられるなら、私たちは喜んでそれを受け入れると主に告げることができます。

 旧約のもとで、神は両親を敬うすべての人に長く健康な人生を約束しました。それは何を意味していたのでしょうか。それは、神がそのような子供たちが成長するのを見守り、彼らに致命的な事故や病気が起こらないようにするという意味でした。

 神は両親を敬う子供たちを特別に見守っておられたのでしょうか。そうです。それは神が守った、現実的で意味のある「約束」でした。神は状況をコントロールし、両親を敬う子供が地上で長生きできるようにしました。

 同じように、神は私たちの人生の状況もコントロールできるので、私たちが神の意志を成し遂げる前に死ぬことはありません。それが三十三歳であろうと九十歳であろうと。

 新約の下では、長生きが全てではなく、短くても長くても、神のみこころを成し遂げるために費やされた人生が最高のものであることを知っています。イエスご自身は三十三歳までしか生きませんでしたが、父から与えられた使命を成し遂げました。

 デイビッド・ブレイナードは二十九歳まで、ウォッチマン・ニーは七十歳まで生きました。しかし、重要なのは(私たちの知る限り)彼らがこの世を去る前に、神から与えられた使命をそれぞれが成し遂げたことです。そして神は、それまで彼らの人生のすべての状況を主権的にコントロールし、地上での使命が果たされるまで、病気や事故で彼らの命が短くなることがないようにされました。

 この地球には、私たちの体に侵入する細菌やバクテリアがたくさんあります。その中には、私たちを殺すことができるものもあります。しかし、神はそれらの細菌を制御して、私たちを殺さないようにするほどの力を持っておられます。

 神は道路を走る飲酒運転者を制御して、彼らが私たちをはねて殺すこともないようにするほどの力を持っています。

 神は私たちを常に見守っていて、眠ったり休んだりすることはありません。それを信じれば、状況への恐れ、病気への恐れ、事故への恐れ、その他あらゆる恐れから解放されます。

神を恐れるなら、他に何も恐れる必要はありません。

 章 12
他者を恐れから解放する

霊的指導者は、決して人々を服従させる手段として恐怖を利用しません。逆に、人々を恐怖から解放しようと努めます。

  恐怖はサタンの武器庫にしかない武器です。イエスは人々を恐怖から解放するために来られました。すべての霊的指導者は同じ任務を負っています。

ヘブル2:14−15には、イエスが「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」と書かれています。

 ローマ8:15には、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」と書かれています。

 ここでパウロは、私たちを神の子とする聖霊と私たちを恐れさせる奴隷の霊を対比しています。恐れは常に奴隷状態をもたらします。世界中の人々は恐れの中で生きています。残念ながら、信仰者も恐れの中で生きています。

 誰かがあなたを十分に怖がらせるならば、あなたはその人の奴隷です。これがすべてのカルトが機能する法則です。強い魂の力を持つ人々は、恐怖という武器を使って人々を脅し、グループを抜けたら自分や家族に何か恐ろしいことが起こると脅します。これはまったくのナンセンスです。しかし、人々はそのような脅しを長期間にわたって何度も聞くと、それを信じ始め、怖がってカルトから抜け出せなくなります。たとえグループ内のすべてが間違っていることに気付いたとしても、彼らは恐怖のためにそこに留まるしかないのです。

 たとえリーダーが不倫生活を送っている可能性があっても、カルト信者は恐れから、あえて彼に異議を唱えることができません。そのような恐れは彼らを奴隷状態に陥れるのです。

クリスチャンの指導者が、恐れという武器を使って信仰者を脅して権威に服従させたり、什一献金を払わせたり、何かを強制するときはいつでも、彼はサタンの武器を使っています。

 私たちは決して「恐怖」という武器を使って、人々に私たちの思い通りのことをさせてはいけません。誰かがこの武器を使うなら、そのグループはカルトに他なりません。

 神の真の教会では、すべての兄弟姉妹が自分の選択をする完全な自由を与えられなければなりません。教会内で人々が罪を犯しているなら、私たちは彼らを戒める必要があります。しかし、呪いや裁きで脅してはいけません。

 教会に什一献金を納めなければ、結局そのお金を医者代や病院代に消えていくと信徒たちに告げる牧師たちがいます。これはまったくのナンセンスです。私たちは人々をそのような恐怖から解放するよう求められています。人々は心から喜んでお金を捧げなければなりません。罰や裁きの脅しを受けてはいけません。神はそのような方法で搾取されたお金を誰からも望んでおられません。そして人々から「お金を強要する」牧師は遅かれ早かれ神の裁きを受けるでしょう。

旧約の下では、人々は恐れから神に仕えました。申命記28章では、イスラエル人は神の戒めに従わなければ貧困、病気、狂気、その他の悪で罰せられると警告されました。それで彼らは恐れから神に従いました。マラキはイスラエル人に十分の一税を納めなければ呪われると告げました(マラキ3:10)。しかしそれは律法の下でのことでした。

 イエスは、そのような律法主義的な服従から私たちを救うために来られました。洗礼者ヨハネの父であるザカリヤは、新約の時代について預言し、私たちは今や真の畏敬の念をもって「恐れることなく神に仕えることができる」と言いました(ルカ1:74)。

 あなたの人生で、恐れから行っていることはありますか。読まなければ災難に見舞われるかもしれないという恐れから、毎朝聖書を読んでいますか。それは単純な迷信です。そして、神はあなたがそのような迷信的な方法で聖書を読むことを望んでおられません。

 神は、あなたが神の強い愛を知り、すべての恐れから解放されることを望んでおられます。神がイエスの血で私たちを清め、私たちを義と認めてくださったのは、私たちがいつでもサタンに非難されていると感じないようにするためです。

 神の民を非難の下に追い込むいかなる奉仕も、決して神からのものではありません。主は人々を解放するために来られたのです。彼らをさらに束縛するために来られたのではありません。

 ほとんどの信仰者は、すでに多くの問題で苦しんでいます。彼らが教会の集会に来る時、非難というさらなる苦痛を与える必要はありません。彼らは解放され、助けられるために来ているのです。

ー叱られ、非難され、落ち込んで家に帰されるために来るのではありません。

主は喜びの叫びでその民を喜ばれます。

ーそして、私たちはそれを神の民に宣言しなければなりません。

 教会の集会で主を賛美する目的は、私たちに対する主の愛を祝い、主が私たちを喜んでくださるという事実を喜ぶことです。私たちが善良だったからではなく、主が私たちを愛してくださったから、神は私たちを赦してくださいました。私たちには善が何もなかったのに、主はキリストにおいて私たちを選んでくださいました。私たちが悔い改めた今、主はどれほど私たちを愛してくださっているでしょうか。

 しかし、サタンは自分の子たちよりも、神の子たちの間で多くの非難を生み出すことに成功しました。実際、非難されるべきなのは私たちではなく、サタンの子供たちです。しかし、彼らは偽りの世界に生き、幸せに暮らしています。しかし、神の子供たちのほとんどは 世で最も幸せな人々に属するはずであるのに、非難や無価値さに囲まれて生きています。これはへりくだりでもなんでもありません。ただの不信仰です。

多くの信仰者は聖霊に満たされていると主張しますが、彼らは依然として恐怖の奴隷です。聖霊に満たされているのに、どうして恐怖の奴隷でいられるのでしょうか。偽預言者が現れて、災難が降りかかると告げると、彼らはすぐに恐怖に満たされます。そして偽預言者は「神の加護」を祈ってもらうために彼らからお金を集め、その後、さらに他の家族を訪ねて彼らを騙します。私たちはそのような偽預言者に警戒しなければなりません。今日、世界中をさまよい、人々の心に恐怖を植え付ける偽預言者がたくさんいます。

 一万人の偽預言者が私たちに対して悪を預言するかもしれません。しかし、悪は私たちに触れることはできません。彼らに跳ね返るだけです。私たちは人々にこの真実を教え、彼らを勇気づけなければなりません。

 もし私たちが何らかの恐れを抱いているなら、神の前で自信を持つことも、サタンの前で大胆になることも決してできません。神を恐れるなら、何も恐れる必要はありません。恐れは悪魔の武器です。宣教活動で「恐れ」を使う人は、サタンとの交わりがある人です。

 イエスは人々に地獄について警告しましたが、恐ろしい話や地獄の詳細で人々を怖がらせたりはしませんでした。また、イエスは、自分から去った弟子たちを恐ろしい結果で脅したりもしませんでした。

 聖書は、主人はしもべを決して脅してはならないと命じています(エペソ6:9)。

 恐れが悪魔の武器であるなら、神のしもべである私たちがどうしてそれを使うことができるでしょうか。しかし、クリスチャンの指導者の中には、恐れを使って信徒を支配する人が大勢います。

 たとえ人々が私たちをののしっても、私たちは彼らを裁いたり、神の怒りで脅したりしてはなりません。パリサイ人はイエスを悪魔の子と呼びました。しかしイエスはこれに対して彼らを脅したりせず、彼らを許しました。私たちも、このイエスの例に倣いましょう。

 私たちが人と話す時、言葉とともに霊が発せられます。私たちはそれに気づいていないかもしれませんが、霊はそこにあるのです。口から口臭が出ているとしたら、私たちが口を開くたびに他の人はそれを感じますが、私たち自身は気づいていないかもしれません。霊から発散する臭いもまったく同じです。

 私たちは神聖さについて説教するかもしれませんが、私たちから発せられる霊は聖くないかもしれません。

 私たちはへりくだりについて話すかもしれませんが、私たちから発散される霊は謙虚ではないかもしれません。二人の兄弟が謙虚さについて同じ説教をする時、一人は謙虚な霊を持ち、その霊を聴衆に伝えることができるでしょう、しかし、傲慢な霊を持っているもう一人は、そのままその傲慢の霊を伝えるでしょう。どちらの説教も同じテーマであるにもかかわらずです。この二人の説教者には多くの違いがあり、私たちはそれを見極めなければなりません。

 同じように、私たちも自分の中に恐れがあれば、恐れの霊を他の人に伝えてしまう可能性があります。また、神のみことばを説く方法によっては、信仰者を非難する可能性もあります。私たちは誠実に行っていても、私たちから出てくる霊は、人々を束縛する霊である可能性があります。

 私たちのメッセージの有効性は、私たちの心から出てくる霊にかかっており、理解から出てくる知識だけではありません。私たちは、メッセージだけでなく、命を人に伝えています。

 あなたが何らかの恐れの奴隷であれば、その恐れの霊はあなたから出て、あなたと話す他者を汚し、彼らもその恐れの霊に縛られるでしょう。それは人体と同じです。血液中になんらかの病気を持って入れば、その病気を子供たちに感染させます。だからこそ、人生からあらゆる恐怖を取り除くことが重要なのです。人への恐怖、サタンへの恐怖、病気への恐怖、死への恐怖、悪環境への恐怖、交通事故への恐怖、貧困への恐怖(私たちのような貧しい国では、それは非常に現実的な恐怖です)、子供たちが良い教育や良い仕事に就けないかもしれないという恐怖、その他多くの恐怖です。

 そのような恐怖を私たちから追い払うことができるのは、神への恐れと神への信仰だけです。神を恐れるなら、他の何ものも、誰も恐れません。

 神に信頼するなら、神は熱心に求める人々に報いてくださり、神を敬うすべての人を敬ってくださることを私たちは知っています。信仰が私たちの心に宿っている時、たとえ時々恐怖を感じることはあっても、恐怖はそこに宿ることはできません。

 重要なことは、私たちの思考を支配しているのは何かということです。それは恐怖か、それとも信仰か。私たちは、恐怖という武器を使って人を支配しようとしているかどうかも自問しなければなりません。

 章 13
へりくだる

霊的指導者は常にへりくだる思いがなければなりません。

 神は高慢な者に敵対し、謙虚な者に恵みを与えてくださいます。私たちが神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はしかるべき時に私たちを高めてくださいます。(1ペテロ5:5、 6)。

 高められるということは、この世やキリスト教界で偉人になり、人々の名誉を得るということではありません。それは霊的な高みを意味し、そこで私たちは、人生と奉仕において神のご意志をすべて果たす霊的な権威を与えられるのです。しかし、それは私たちがへりくだることにかかっています。

 世界中は、人から見てより優れた、大きな者になりたいと願う人々で溢れています。すべての政治家やビジネスマンはもっと偉大になりたいと願っています。残念ながら、キリストのしもべと自称する人々も同じ願いを持っています。

 彼らは「牧師博士」のような大仰な称号を持ち、組織の「会長」のような役職を得ることを望んでいます。悲しいことに、今日のキリスト教界は世界のどの企業と何ら変わりません。

 今日の若い信仰者は、彼らのリーダーたちがまるで映画スターのようにスポットライトを浴び、公の集会で大きな壇上に立ち、高級ホテルや家に寝泊まりし、高級車を運転しているのを見ています。彼らは神の道について、まだあまりよくわかっていないので、そのようなリーダーを尊敬し、自分たちもその高みに達したいと、その日を待ち望んでいるのです。

 彼らは、そのような説教者たちが、何年もの間忠実であったから、神がこのように報いてくださったのだと思っています。そして、自分も忠実であれば、いつかスポットライトを浴びながらそのような壇上に立つことができると想像しています。

 青年たちは、アメリカや中東諸国からの贈り物を受け取り、説教者たちが大金を得ているのを見て、自分たちも彼らのように裕福になれると夢見ています。これらの若者のロールモデルはイエス・キリストではなく、裕福な映画スターのような説教者たちです。これが今日のキリスト教界の悲劇です。

 私たちは、主に従うなら裕福になったり有名になったりするのではなく、敬虔になるということを、若者に私たちの生き方で示し、言葉で教えていかなければなりません。そのような生き方においては、誤解され、拒絶され、迫害されることがあるでしょう。しかし、私たちは、私たちを憎む人々を愛し、私たちを呪う人々を祝福することができます。これこそ、私たちが次の世代に示さなければならないことです。そうしなければ、彼らは「別のイエス」、つまり今日の肉欲的な説教者に見られる別のイエスに従うことになるでしょう。

 神の力強い御手の下にへりくだるということは、神が私たちの人生に許されるすべての状況を喜んで受け入れることを意味します。私たちは、それらの状況によってへりくだることができ、私たちが小さくなり、神が偉大になるのです。私たちが教会の人々の目に小さくなれば、彼らは私たちではなく、主に信頼するようになります。

 主のしもべとして言いますが、私は私を批判する人よりも、私を高く評価してくれる人の方を恐れています。私をとても尊敬する人の中には、自分のための神の御心を私に見つけてほしいと期待する人もいます。私は、いつもお断りして、人々が神のご意志を見つけるために預言者のもとに行くのは、旧約時代のことですと伝えます。新約の下では、神のすべての子供(末っ子も含む)が神に直接行き、神のご意志を個人的に知ることができます。ヘブル8:11 では、これは新約のもとでの私たちの特権の一つとして具体的に書かれています。今、私たちはみな聖霊を受けることができ、聖霊は私たちの導き手です。

 だから私は、兄弟たちにアドバイスできますが、神のご意志を見つけることはしないと伝えます。私は宣教を初めてから、ずっとこのことを強調してきました。その結果、今日私たちの教会の人々は、主を自ら知っており、私に頼りません。彼らは彼らの頭であるキリストに直接つながっています。このようにして、キリストのからだは、長年にわたり私たちの間で築かれてきました。

 これがキリストのからだを築く第一の原則です。できるだけ早く人々を頭に結びつけ、私たちから独立させなければなりません。

 私たちはへりくだって、この点での過去の失敗を深く悔い改めるべきです。私たちの中で「キリストが盛んになり、私たちが衰える」と言うことを切望しなければなりません。神は私たちの人生の様々な状況を通して私たちを小さくし、キリストが私たちの中で高められるように導いてくださいます。そのような状況で私たちがへりくだれば、神の目的は私たちの中で成し遂げられるでしょう。

 へりくだるということは、私たちが不当に扱ったすべての人に謝罪することです。主の僕として、私たちはすべての人々の僕であるべきであり、彼らを祝福するために、彼らの下に身を置く覚悟が必要です。間違いを犯した時は、すぐにそれを認め、必要な場合には謝罪しなければなりません。間違いを犯さない唯一の存在は神です。

 私は、子供、召使い、物乞い、誰に対しても謝る覚悟があり、この点に関して、決して自分の尊厳や名声を主張しませんと主に伝えました。そして私はそうしました。そして神は私を祝福してくださいました。

 あなたの群れの前で、偽りの尊厳や名声に頼ってはいけません。何か間違ったことをしてしまったら、彼らに謝罪し、自分が間違っていたこと、そして自分がしたことについて悔いていることを伝えてください。

 そうすることで、あなたに対する彼らの尊敬と敬意は増すばかりで、減ることはありません。何も間違ったことはしていないと言い張る必要がどこにあるでしょうか。

 かつて、ある大学生が教授に非常に難しい質問をした話を聞いたことがあります。教授は、三つの言葉で答えられると言いました。「I don't know」その日、学生たちの教授に対する尊敬は急上昇しました。教授のへりくだりを見ただけでなく、知らないことは何も教えないという教授の誠実さを見たからです。

 私は教会の人々に、人生の終わりまで過ちを犯し続けるだろうと公言しました。理由はただ一つです。私は神ではないからです。この地球に生きている限り、間違いを犯すでしょう。願わくば、それらの間違いは十年か二十年前のものほど愚かなものではないでしょう。 なぜなら、私はそれらの以前の間違いからいくつかの教訓を学んだからです。私は自分の失敗からいくらかの知恵を得ました。しかし、私はまだ完璧ではありません。

 皆さんの中には結婚されている方も多くいるでしょう。いとも簡単に、うっかり妻を傷つけてしまうこともあるかと思います。良かれと思って何かを言ったとしても、妻はあなたを誤解するかもしれません。その逆も、つまり、あなたが妻の言ったことを誤解することもあります。そのような場合、あなたはどうすべきでしょうか。これだけは言わせてください。家庭に平和を取り戻すには、苦労して動機を説明したり、誰のせいだったかを分析したりするよりも、謝る方がずっと早いのです。

 また、同僚があなたのことを誤解しているとしましょう。彼らに説明しても聞こうとしないかもしれません。あなたに完全に非がないならばどうすべきでしょうか。自分を哀れむべきでしょうか。いえ、そうではありません。神と人々の前であなたの心にやましいことがないとわかれば、神にただ委ねましょう。あなたがすべきことはそれだけです。これは、私が長年従ってきた方針であり、本当に祝福されました。あなたにもお勧めします。

 主に仕える者は誰でもサタンの攻撃の標的になります。御心にかなう者は、敵から攻撃される可能性が高くなります。そしてそれを避けることはできません。サタンは中傷、虚偽の告発、作り話で私たちを攻撃します。そして、私たちの妻や子供たちも攻撃します。

 イエスの生涯で人々がイエスについて言った陰口、そして今日でも聞かれる悪口を考えてみてください。彼らはイエスを大食漢、大酒飲み(ルカ7:34)、気が狂った人(マルコ3:21)、悪霊にとりつかれた者(ヨハネ8:48)、悪霊のかしら(マタイ12:24)など、多くの邪悪な名前で呼びました。彼らはイエスを、聖書とモーセの教えに反する教義を説く異端者だと言いました(ヨハネ9:29)。そのようにして、彼らは主の教えから人々を遠ざけていました。しかし、イエスはそのような人々に決して口答えされませんでした。イエスは個人的な非難に一度もお答えにならなったのです。私たちも同様に反論して答える必要はありません。イエスは教義上の質問にのみ答えておられました。今日、人々は私たちの「主」について不道徳なことさえ言います。しかし、神は彼らを裁きません。

 人々はパウロを、至る所で非難されている宗派に属する詐欺師、偽預言者と呼びました(使徒 24:14; 28:22)。こうして、彼らは、人々がパウロの話を聞かないようにしました。

 教会の歴史を通じて、ジョン・ウェスリー、チャールズ・フィニー、ウィリアム・ブース、ウォッチマン・ニー、そして他のすべての真の神の預言者、すべての偉大な神の人に同じことが起こりました。

 ヘンリー・スーソは、数百年前にドイツに住んでいた神の人でした。彼は聖人のような人で独身でした。彼は、イエスご自身のように、主に打ち砕かれへりくだる者にしてくださるようにと、よく祈っていました。神は次のように彼の祈りに答えられました。

 ある日、スーソはドアをノックする音を聞きました。ドアを開けると、赤ん坊を腕に抱いた見知らぬ女性がそこに立っていました。

 彼女は生まれたばかりの赤ん坊を誰かの下に捨てようとしていた女性で、それにはヘンリー・スソがいいだろうと考えました。そこで彼女は、大通りにいる人皆に聞こえるほど大きな声で、スソに「これがあなたの罪の実です」と言い放って、赤ん坊をスソの腕に残して立ち去ってしまいました。スソはただ呆然としました。町での彼の評判は一瞬にして打ち砕かれました。

 彼は赤ん坊を家に連れて行き、ひざまずいて主に言いました。「主よ、あなたは私が無実であることをご存じです。私は今何をすべきでしょうか。」主はお答えになりました。「私と同じことをしなさい。人の罪のために苦しみなさい。」スソは主の言葉を受け入れ、誰の前でも自分を正当化しませんでした。彼はその子供を自分の子供として育て、神が真実を知っておられることを喜び、全ての人が彼を誤解しても構わないと思うほどでした。

 何年も後、その女性は罪を認め、スソの家に戻ってきて、スソは無実で自分が嘘をついたと近所の人たちに伝えました。しかし、その何年間に何が起こったのでしょうか。ヘンリー・スソの祈りが聞かれ、主のように打ち砕かれ、へりくだることができました。

 神はスソの人生において聖化の業を成し遂げることができ、彼を人間の意見から解放し、それ以降は神の意見だけが彼にとって重要になりました。

 イエスのようになるためにはそのような代価を払う覚悟はありますか。それとも、まだ人間の名誉を求めていますか。

 神は、私たちが誤解され、誤って判断され、不当に非難され、公に辱められることを許すことによって、私たちを打ち砕きます。そのような状況では、私たちは自分を悩ませる人を見ないようにしなければなりません。彼らは私たちの兄弟かもしれないし、敵かもしれません。それは問題ではありません。すべてのイスカリオテのユダの'手'の後ろには、私たちにその'杯'を与えてくださる天の父がいてくださるからです。状況がどんなに苦しいものであっても、父の御手をみたら喜んでその'杯'を飲むでしょう。しかし、ユダだけを見ていたら、剣を抜いて(ペテロがしたように)人々の耳(または評判)を切り落としたりするでしょう。

 私たちが攻撃されたり、不当に非難されたりする時、神は私たちが神の力強い御手の下にへりくだることを望んでおられます。そこに人の手ではなく神の御手があることがわかれば、それは簡単なことです。

 過去数年の間、私は「信仰者」の方々が、私と私の教えについてあらゆる種類の悪口を言っているのを聞いてきました。彼らは私と私の家族に対して不当な非難をし、私に対して記事や本を書きました。しかし、主は常に私に、彼らに決して返事をしてはならないとおっしゃいました。ですから、私は沈黙を貫きました。

 その結果、主は私と私の家族の中で、聖化という大きな働きをしてくださいました。神は悪を私たちの利益のために働かせてくださいます。

 主の時が来れば、主が雲を払い除け、太陽を輝かせてくださることを私は知っています。しかし、その時を決めるのは主であり、私ではありません(使徒1:7 に書かれているとおり)。しかしその時が来るまで、主の力強い御手の下に謙虚になることが私の役目です。誰の前でも自分を正当化することではありません。それをやり始めると、他のことをする時間がなくなってしまいます。

 パウロが銅細工人アレクサンダーについて言ったように、主ご自身がいつの日か私たちの敵に、彼らの行いに応じて報いてくださいます(2テモテ4:14)。ですから、私たちはそのような裁きを神の手に委ねることができます(ローマ12:19)。

 すべての問題を神に委ねるのが最善です。神は自分が何をしているかをご存じであり、すべてを支配される方です。神は岩を削って、私たちの中にイエスの似姿を彫り込んでいます。岩の一部は非常に固く、神はその部分を削り取るために、不当な告発と迫害を使わなければなりません。私たちが神の彫刻のわざに従うなら、最終的に霊的な権威を持つキリストに似た者となるでしょう。

 ユダがイエスを裏切った時、イエスは父の手をはっきりと見ていたので、ユダを「友」と呼ぶことができました。私たちが自分のすべての状況の中に神の主権を見るなら、へりくだることは容易です。そして、神にとっても適切な時に私たちを高めてくださることも容易になります。神は私たちの肩から重荷を取り除き、権威を与える適切な時を知っておられます。ですから、神を待ちましょう。神を待つ人は、失望したり、恥をかいたりすることはありません。(イザヤ書 49:23)

 前にも言ったように、高められるということは、神がこの世で私たちを昇進させるということではありません。神は私たちを大きなキリスト教団体のトップに立たせることもありません。個人的には、大きな団体はおろか、どんな団体のトップにもなりたくありません。

 私はただ主と人々のしもべになりたいのです。主が私にするように言われたことを正確に実行し、主が私に託した人々、それが十人であろうと一万人であろうと、責任を持って従事したいのです。その数を決めるのは神であり、私ではありません。そして、キリスト教界での肩書きや地位を持つことにもまったく興味がありません。人々やお金や財産を支配することにも興味がありません。私は、この困窮した世界でみことばを宣べ伝え、他の人々に奉仕することに専念したいのです。

 イエスの足跡をたどりましょう。人々が私たちについてどんな悪口を言ってもかまいません。私たちが神を敬うなら、神もいつか私たちを敬ってくださいます。私たちが主に従うことに真剣であれば、神が私たちを多くの辛い経験に導いてくださることに気づくでしょう。 しかし、それらすべてにおいて神が意図しているのは、私たちを人間の意見や世に縛り付けようとする鎖から解放することです。そうすれば、私たちは「鷲のように翼をかって上ることができる。」のです。(イザヤ書 40:31)

 神は私たちの状況に命令して、人々の前で私たちをへりくだらさせ、最終的に私たちは神の意見だけを気にするようになるのです。そのとき、私たちの霊的権威は本当に強力になります。私たち皆にとってそうでありますように。

 章 14
メルキゼデクの位

霊的指導者は、メルキゼデクの位に等しい祭司であるべきです。彼の前には主がおられました(ヘブル 6:20-7:7)。

 メルキゼデクの祭司職は、レビの祭司職とは非常に異なっています(ヘブル7 章を​​参照)。レビの祭司職は、多くの儀式と外面的な事柄から成っていました。アロンの子らは、神の前で奉仕するときにどんな下着を着るべきかさえ決まっていました(レビ記 6:10; 16:4)。しかし、メルキゼデクの祭司職は、衣服や儀式とはまったく関係がありません。

 メルキゼデクは聖書全体で三節しか登場しないのに、私たちの主は彼の名にちなんで大祭司と呼ばれています(創世記 14:18-20)。では一体、メルキゼデクはどのような偉業を成し遂げたのでしょう。

 アブラハムは、十四人の王とその軍隊を打ち負かし、王たちが捕らえていた甥のロトとその家族を救出した戦いから戻るところでした。アブラハムは間違いなく疲れ果て、勝利を誇りに思っていたに違いありません。なぜなら、兵士など一人もいない三百十八人の召使いだけで戦いに勝ったからです。また、当時は戦いの勝者が戦利品を分け合うのが慣例だったため、大量の戦利品も手に入れていました。三百十八人の召使いたちは、それによって金持ちになるのを心待ちにしていたことでしょう。

 アブラハムはその日、肉体的に疲れ果て、傲慢と貪欲という二つの危険に直面してそこに立っていた。しかし、これらの危険について警告してくれる人は誰もいませんでした。彼には三百十八人の召使いしかいなかったのです。アブラハムは間違いなく偉大な神の人でしたが、同時に孤独な人でもありました。彼は、今日の多くのキリスト教指導者たちと同じように孤独でした。彼らは組織のピラミッドの頂点に座り、その下には「イエスマン」しかおらず、彼らを正したり、反論したりする人は誰もいません。そのような人はサタンの格好の標的であり、サタンは彼らを一人ずつ摘み取ります。

 しかし神はアブラハムを気遣い、彼を助けるために別のしもべ、メルキゼデクに話しかけられました。彼は、アブラハムの三つの必要すべてを満たしました。彼自身はそれらの必要について何も知りませんでしたが、ただ彼は神が命じたことを行っただけでした。

 まず、彼はアブラハムのために食べ物を持っていきました。メルキゼデクは思慮深い人でした。彼は、霊的な人は禁欲主義であるべきだと考えるような超霊的なタイプの人ではありませんでした。彼はアブラハムに断食と祈りを命じず、おいしい食事を与えたのです。

何年も後、神はエリヤが疲れて落ち込んでいた時にも同じことをしました。神は御使いを彼のもとに遣わし、アドバイスではなく、栄養のある食べ物を持っていかせました(1

列王記19:5-8)。 疲れ果てた兄弟姉妹のために食事を提供するということは、私たちが従うべき良い例です。信仰者が落ち込んだり、落胆したりしている時、必要なのは励ましではなく、ただのおいしい食事かもしれません。なぜなら、信仰者は霊と魂だけでなく、肉体も持っているからです。そのことを忘れてはなりません。

 メルキゼデクはアブラハムに食事を与えた後、霊的にも彼を助けました。説教ではなく、アブラハムの勝利についてただ短い二文で神に賛美したのです。

 メルキゼデクは言いました。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された。いと高き神に、誉れあれ。」(創世記14:19、20)

 メルキゼデクはおそらく、アブラハムとその家来たちに二時間かけて食事を与え、その後十五秒間神を賛美しました。しかし、メルキゼデクの短い賛美の言葉の中で、アブラハムは二つのことに気が付きました。

 まず第一に、アブラハムは自分が天と地を所有する神に属していることに気づいたのです。それによって、彼は取り戻したばかりのソドムの王の財産をむさぼるのをやめました。ソドムは非常に裕福な場所だったので、ソドムの富は相当なものだったに違いありませんが、アブラハムは、その戦利品はすべて、神が所有する天と地に比べれば価値のないゴミのようなものだと分かりました。メルキゼデクは、アブラハムが自分が誰のものであるかをはっきりと理解できるように助けました。

 ここでメルキゼデクの知恵に注目してください。彼はアブラハムに、「あなたが貪欲になっているという主からの警告の言葉を持って来ました。」と説教したわけではありません。いいえ。常に「主からの言葉」を持っていると主張する自称「預言者」に注意してください。そのような「預言者」は偽預言者です。メルキゼデクは、アブラハムの注意を戦利品から神へと向けただけです。そして、アブラハムの目にはもはや、この世のものはなんとも儚く朧げに写りました。これこそが人々を助ける方法です。メルキゼデクの「憐れみ深い間接的なアプローチ」から、私たちは多くのことを学ぶことができます。このアプローチは、アブラハムが直面していた深刻な霊的危機からアブラハムを救いました。

 第二に、アブラハムは、それらの王たちを打ち負かしたのは自分と召使たちではなく、神であることをはっきりと理解しました。これはまた、アブラハムを傲慢さから救った新鮮な啓示でした。再びメルキゼデクは、アブラハムの注意を勝利から神へと向けることに成功しました。

 最高の説教者とは、私たちの注意を自分自身や自分の業績から主ご自身へと向けることができる人です。

 メルキゼデクは、ヨブに説教した独善的な説教者、エリファズ、ビルダデ、ツォファルとはまったく対照的です。この三人はパリサイ人の「先祖」でした。今日、キリスト教界にはパリサイ人の「子孫」が数多くいます。しかし、私たちに必要なのは、もっと多くのメルキゼデクです。

 さて、この物語の最も素晴らしい箇所に移ります。メルキゼデクはアブラハムを祝福した後姿を消しました。彼についてこれ以上聖書には書かれていません。彼の名前はキリストの型としてのみ登場します。

 メルキゼデクは、その朝、天幕で祈っていたに違いありません。そのとき、神は彼に語りかけ、何をすべきかを告げました。彼はアブラハムを知りませんでしたが、神を知っていました。それで十分でした。神はメルキゼデクに何をすべきかを告げ、彼を多くの人々の祝福にしました。

 メルキゼデクの位の祭司である私たちは、なんと素晴らしい奉仕に召されているのでしょう。私たちは、肉体的にも霊的にも人々を祝福し、そして感謝される前に姿を消すのです。

 あなたは、自分が偉大な神の人だと人々に思ってもらいたいですか、それとも、自分に偉大な神がおられることを人々に知ってもらいたいですか。そこに、宗教的な奉仕と霊的な奉仕の違いがあります。そこに、アロンの祭司職とメルキゼデクの祭司職の違いがあります。アロンは常に人々の前に現れ、彼らから名誉を受けました。メルキゼデクは人々に仕え、姿を消しました。

 イエスご自身も実にこのように世で奉仕をされたのです。イエスは、人生の戦いで打ちのめされた人々の霊的、肉体的な必要を満たすためにあちこち歩き回りました。しかし、イエスは、自分の癒しが広められること、癒し主として知られることなど決して望んでおられませんでした。イエスは、他の人々に仕え、彼らのために命を捧げるために来られました。王になること、有名になることも彼の望みではありませんでした。復活後、ヘロデやピラト、アンナス、カヤパの誰かの前に姿を現すことによって、自分が神の子であることを証明することさえ望んでいませんでした。復活後、パリサイ人やサドカイ人の一人の前に姿を現すこともありませんでした。人々の前で自分を正当化することを望まなかったからです。イエスは、人々の意見がゴミ箱に捨てられるにふさわしいものであることを知っていました。

悲しいかな、今日のキリスト教界でそのような説教者や指導者をどこで見つけることができるでしょうか。

 私たちが、メルキゼデクのような生き方を選び、毎日神の御声に耳を傾け、何をすべきかを神に求めるように努めたらどうなるか考えてみてください。この生き方こそ、この世で最も有益な生き方なのです。詩篇作者は「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」と言っています(詩篇 23:6)。それが生き方です。どこへ行こうとも、赦しと慈しみの言葉や行いが伴わなければなりません。

 ペテロがコルネリオにイエスの生涯と奉仕について語った時、使徒10:38 で一文に要約しています。「イエスは聖霊に油を注がれ、巡回して善を行い、悪魔に苦しめられている人々を解放されました。神がイエスと共におられたからです。」これは、真に聖霊に油を注がれた結果です。神は私たちと共におられ、私たちは行く先々で人々を祝福し、解放します。

 イエスがこの世で生きておられた際、霊的にも肉体的にも私たちが祝福されるような力がイエスから発せられていたからこそ、人々はイエスに出会い、触れ合うことができました。十二年間長血を患っていた女性は、イエスの衣の裾に触れた時にそれを体験しました。

 私たちも、私たちと出会う人々が肉体的にも霊的にも祝福されるような人生を送るよう召されているのではないでしょうか。

 私たちは皆、メルキゼデクの例にならって祭司となるよう召されているのです。

 章 15
模範

霊的指導者は、他の人々にとって模範となり、彼らに「私がキリストに従うように、あなたも私に従ってください」と言うことができる人であるべきです。そして、人々が彼らの頭であるキリストにだけつながるように導きます。

 しかし、多くのキリスト教指導者は、信仰者を自分に結びつけようとします。そして、彼らが他の指導者よりも自分に結びついていることをこよのほか喜びます。そして、彼はその群れにとって小さな「神」のようになり、長老への服従に関する聖書の教えを自分の利得のために悪用します。

 聖書は、反キリストがいつの日か神の宮に座り、人々に神として現れると述べています(2テサロニケ 2:4)。教会は神の宮であり、使徒ヨハネは、彼の時代にさえ、教会には反キリストの霊を持つ人々がいると言いました(1ヨハネ2:18、19)。今日、そのような人はたくさんいます

 罪は、創造されたものが自分を引き上げ、人の目にもっと偉大で目立つ存在に、神のようになりたいと望んだ時に、この世界に入り込みました。サタンに成り下がった堕天使ルシファーです。私たちは決してそれを忘れてはなりません。もし私たちが自分の中にそのような霊があることに気づいたら、それが何か、つまりサタンの霊であることをしっかり認識すべきです。

 一方、神の子がへりくだり、人々には見出されない小さな存在になった時、救いが訪れました。私たちはそれを忘れてはなりません。

 罪はルシファーの傲慢から、救いはイエスのへりくだりから来ました。

 今日のキリスト教指導者が公共の場や雑誌で自分を宣伝しているのを人々が見る時、彼らは果たして、謙虚でへりくだったイエスの真の姿を理解できるでしょうか。このような指導者たちの姿に決してイエスの姿を見ることはできません。

 今日の改心して間もない信仰者が見なければならない例は、自分を知られないように隠し、高く評価されることを望まず、静かに奉仕をして姿を消すような謙虚でへりくだった人です。これは私たち皆が切望すべき奉仕の姿です。

あなたが主のために何かの働きをし、誰もそのことを知らなかったとしましょう。それはとてもワクワクすることではないでしょうか。また、あなたの働きの功績が他の誰かに与えられたなら、さらに喜ばしいことです。もしあなたがこう思えるなら、あなたは本当にメルキゼデクの例に習う祭司です。

 私がまだクリスチャンになって間もない頃、当時私が通っていた教会のクリスチャンの指導者や長老たちをよく観察していたのを覚えています。 残念ながら、私は彼らの誰にもイエスの霊を見ることはできませんでした。 私は彼らを裁いていません。なぜなら、私は彼らの裁判官ではないからです。 私はただ、彼らを信心深い敬虔な模範として従うことができないと言っているのです。

 私たちは誰かを裁く必要はありません。 しかし、私たちは人々を見分けることができなければなりません。 イエスは、他の人を裁いてはならないと言われた直後に、豚、犬、偽預言者を他の人から注意深く見分けるように弟子たちに言われました(マタイ7:1と6節と15節を比較してください)。この識別力がないと、犬や偽預言者に惑わされてしまうのは間違いありません(ピリピ3:2参照)。

ですから、私は長老たちを批判はしませんでしたが、イエスのような奉仕の霊がなかったため、彼らを模範として見なしていませんでした。彼らは聖徒たちの足を洗おうとするような人々ではありませんでした。そして、私が従うことができるような指導者に出会うまで、私はイエスだけを見ようと決めました。

 私たちには、キリストに似た者が本当に何を意味するのかを次の世代に示すという非常に大きな責任があります。私たちの生き方、説教、奉仕の仕方を見る人たちが、主の真の僕とはどういうことかを私たちの中にはっきり見出さなければなりません。それが、二十世紀の昔の使徒や預言者たちの姿であり、二十世紀の映画スターのような伝道者の姿ではありません。

 お気づきかどうかわかりませんが、通常私たちはどこへ行くにしても、何かの印象を人々に残しています。それは、私たちが去った後も、また、彼らが私たちの説教したメッセージを忘れた後も、それはずっと人々の心に残ります。

 パウロがエペソの教会の長老たちを呼び、別れを告げた時、使徒20:17〜3でパウロが彼らに語ったことに注目してください。パウロは、三年間彼らと一緒にいたこと(31節)、夜も昼も彼らに説教したことを思い出させました。三年間は千日以上です。ですから、ここで示唆されているように、パウロが実際に毎日二回説教していたとしたら、彼はそこで二千回以上の説教をしたことになります。

 エペソはかつて大規模なリバイバルが起こり、キリスト教徒が五十万ルピー近くもする古い魔術書を燃やした場所でした。また、パウロの体に触れたハンカチが病人を癒し、悪霊にとりつかれた人々を解放するために使われた場所でもあります。神はエペソでパウロを通して、他のどこにも見られなかったような規模の驚くべき奇跡を起こしました(使徒19:11、12、19参照)。

 しかし、最終的にパウロは長老たちに何を思い出させましたか。説教のことでしょうか、それとも奇跡のことでしょうか。いいえ、どちらでもありません。

 パウロは、彼らと初めて会った日から、彼らの間で自分が謙虚に生きてきたことを思い出すようにと言いました(19節)。たとえパウロの説教を忘れたとしても、パウロが彼らと共にどのように生きたかは決して忘れられないでしょう。パウロの人生は、後に残るべき強い影響をエペソの人々に与えました。パウロの思いやりと素朴さは決して忘れられないでしょう。パウロがテント職人として自分と同僚を養うために、自分の手で一生懸命働いていたことを彼らは覚えていたに違いありません。それはパウロが彼らの重荷にならないように、また他のクリスチャンの働き人の模範となるためでした(34、35節)。彼らは、この三年間ずっと、パウロが誰からもお金や贈り物、新しい服さえも期待しなかったことを決して忘れないでしょう(33節)。

 パウロはまた、妥協することなく神の教えのすべてを彼らに宣べ伝えたことも彼らに思い出させました(使徒20:27)。パウロは、自分の人気を求めて、人に媚びるような人間ではありませんでした。彼は悔い改めについて、また、聞き手に嫌がられても彼らにとって有益になるなら、そのような主題も説いていました。(使徒 20:20, 21)。

 パウロが彼らに指摘したのは次のようなことです。

 もしあなたが、エペソでパウロがしたように三年間教会の牧師を務め、その後去ったとしたら、あなたの群れはあなたの何を覚えているでしょうか。彼らはあなたを印象的な説教者として記憶するでしょうか、それともあなたの人生を通してイエスの似姿を彼らに示したへりくだった神の人としてでしょうか。

 彼らはあなたを、彼らを神に近づけ、よりキリストに近づくよう促した人として、それともトラクトの配布方法を教えてくれた人として思い出すでしょうか。

 私たちの賜物や召命が何であれ、それはキリストのいのちの内なる泉から流れ出るものでなければなりません。

 癒しの賜物を持つ人は、イエスと同じようにその賜物を用いなければなりません。イエスはへりくだった人でした。質素に暮らし、すべての人と自由に交わり、病人に対して深い同情心を持ち、彼らを癒す前も後も誰からもお金を受け取らなかったのです。彼は人々を無償で癒しました。

 しかし、私は生涯でそのような「癒し手」に出会ったことはありません。もしそのような人に出会ったら、ぜひ教えてください。会ってみたいです。でも、私はまだそのような人に会ったことがありません。その代わりに、癒しの賜物があるふりをして、心理的なトリックで人々を騙す、金に目がない説教者にはたくさん出会いましたが。

  最も悲しいことは、分別力のない若者たちがこれらの欺瞞者に従い、自分たちもそのような奉仕を求め始めてしまうことです。こうして次の世代も堕落してしまうのです。このことを私は本当に悲しく思います。

 使徒的奉仕、預言的奉仕、伝道的奉仕、牧者的奉仕、教師的奉仕、どんな奉仕に召されているとしても、私たちはキリストと同じように行わなければなりません。すべての召しがキリストの御霊によらなければなりません。

 もしあなたが神から教会の牧者として召されていると感じるなら、イエスと同じように教会を牧するよう努めてください。そして、あなたの群れに残る自分の印象が、イエスの栄光に輝いていた人という印象となりますように。

 最後に、私たちの過去の失敗について一言お話ししましょう。

 私たちは過去を変えることはできません。私たちの人生のその部分は終わったのです。私たちはみな失敗しており、私たちにできるのは失敗を悔い改め、告白し、主の尊い血によって私たちの罪を清めてくださるよう主にお願いすることしかできません。

 私は人生で多くの間違いを犯しました。しかし、間違いから多くの教訓も学びました。  ですから、私の失敗は私にとって無駄ではありませんでした。また、他の人の間違いを研究することで、多くの貴重な教訓を学びました。こうして、自分自身で間違いを犯さないようにすることができます。

 私たちは、過去に犯した多くのことを恥じるかもしれません。しかし、一度悔い改めて(必要な場合は)償いをすれば、過去の失敗から教訓を学び、過去を永遠に忘れることができます。

 私たちは、過去の失敗のせいで、サタンに「罪の意識」や「非難の旅路」に連れて行かれることがあってはなりません。キリストにある者は非難の下にいないからです。

 神がキリストの血によって私たちを義と認めてくださった時(ローマ5:9)、その後、神は、私たちが一生罪を犯したことがなかった者として私たちを見てくださるのです。 その時、私たちも、神が私たちを見るように、自分自身を見なければなりません。

 ですから、過去に失敗したというだけで、サタンや他の人に、自分は役立たずだと言わせてはいけません。あなたは悔い改めたので、あなたは神の御手の中にある尊い器です。残りの人生を神の栄光のために生きることができます。

 私たち長老にとって、これからの長い人生が待っている若者を弟子に育てることは、非常に大きな特権です。私たちの教会の若者一人一人が秘めている大きな可能性を考えてみてください。同時に、サタンが彼らを捕まえようと待っていることも忘れないでください。サタンが彼らを捕らえる前に、私たちは彼らを神と神の御国のためにしっかりとつかんでいなければいけません。

 若者たちの心の中には様々な葛藤があります。若者の救いを止められないとサタンが思ったとしても、彼らが真理に対して妥協することを待っています。しかし、若者たちが「妥協者」ではなく、主の確かな弟子になれるように、神はあなたを彼らの上に置かれたのです。ですから、ぜひあなたの召しを真剣に受け止めるようお願いします。

 私たち皆が悔い改めにひれ伏し、次の世代の信仰者にとって、悪い見本となって神の御名を汚してしまったことを赦してくださるよう求めましょう。

 これからの時代に、私たちがへりくだった敬虔な神の民の指導者になれるよう主が助けてくださいますように。アーメン。

聞く耳のある者は聞きなさい。

 章 15
模範

霊的指導者は、他の人々にとって模範となり、彼らに「私がキリストに従うように、あなたも私に従ってください」と言うことができる人であるべきです。そして、人々が彼らの頭であるキリストにだけつながるように導きます。

 しかし、多くのキリスト教指導者は、信仰者を自分に結びつけようとします。そして、彼らが他の指導者よりも自分に結びついていることをこよのほか喜びます。そして、彼はその群れにとって小さな「神」のようになり、長老への服従に関する聖書の教えを自分の利得のために悪用します。

 聖書は、反キリストがいつの日か神の宮に座り、人々に神として現れると述べています(2テサロニケ 2:4)。教会は神の宮であり、使徒ヨハネは、彼の時代にさえ、教会には反キリストの霊を持つ人々がいると言いました(1ヨハネ2:18、19)。今日、そのような人はたくさんいます

 罪は、創造されたものが自分を引き上げ、人の目にもっと偉大で目立つ存在に、神のようになりたいと望んだ時に、この世界に入り込みました。サタンに成り下がった堕天使ルシファーです。私たちは決してそれを忘れてはなりません。もし私たちが自分の中にそのような霊があることに気づいたら、それが何か、つまりサタンの霊であることをしっかり認識すべきです。

 一方、神の子がへりくだり、人々には見出されない小さな存在になった時、救いが訪れました。私たちはそれを忘れてはなりません。

 罪はルシファーの傲慢から、救いはイエスのへりくだりから来ました。

 今日のキリスト教指導者が公共の場や雑誌で自分を宣伝しているのを人々が見る時、彼らは果たして、謙虚でへりくだったイエスの真の姿を理解できるでしょうか。このような指導者たちの姿に決してイエスの姿を見ることはできません。

 今日の改心して間もない信仰者が見なければならない例は、自分を知られないように隠し、高く評価されることを望まず、静かに奉仕をして姿を消すような謙虚でへりくだった人です。これは私たち皆が切望すべき奉仕の姿です。

あなたが主のために何かの働きをし、誰もそのことを知らなかったとしましょう。それはとてもワクワクすることではないでしょうか。また、あなたの働きの功績が他の誰かに与えられたなら、さらに喜ばしいことです。もしあなたがこう思えるなら、あなたは本当にメルキゼデクの例に習う祭司です。

 私がまだクリスチャンになって間もない頃、当時私が通っていた教会のクリスチャンの指導者や長老たちをよく観察していたのを覚えています。 残念ながら、私は彼らの誰にもイエスの霊を見ることはできませんでした。 私は彼らを裁いていません。なぜなら、私は彼らの裁判官ではないからです。 私はただ、彼らを信心深い敬虔な模範として従うことができないと言っているのです。

 私たちは誰かを裁く必要はありません。 しかし、私たちは人々を見分けることができなければなりません。 イエスは、他の人を裁いてはならないと言われた直後に、豚、犬、偽預言者を他の人から注意深く見分けるように弟子たちに言われました(マタイ7:1と6節と15節を比較してください)。この識別力がないと、犬や偽預言者に惑わされてしまうのは間違いありません(ピリピ3:2参照)。

ですから、私は長老たちを批判はしませんでしたが、イエスのような奉仕の霊がなかったため、彼らを模範として見なしていませんでした。彼らは聖徒たちの足を洗おうとするような人々ではありませんでした。そして、私が従うことができるような指導者に出会うまで、私はイエスだけを見ようと決めました。

 私たちには、キリストに似た者が本当に何を意味するのかを次の世代に示すという非常に大きな責任があります。私たちの生き方、説教、奉仕の仕方を見る人たちが、主の真の僕とはどういうことかを私たちの中にはっきり見出さなければなりません。それが、二十世紀の昔の使徒や預言者たちの姿であり、二十世紀の映画スターのような伝道者の姿ではありません。

 お気づきかどうかわかりませんが、通常私たちはどこへ行くにしても、何かの印象を人々に残しています。それは、私たちが去った後も、また、彼らが私たちの説教したメッセージを忘れた後も、それはずっと人々の心に残ります。

 パウロがエペソの教会の長老たちを呼び、別れを告げた時、使徒20:17〜3でパウロが彼らに語ったことに注目してください。パウロは、三年間彼らと一緒にいたこと(31節)、夜も昼も彼らに説教したことを思い出させました。三年間は千日以上です。ですから、ここで示唆されているように、パウロが実際に毎日二回説教していたとしたら、彼はそこで二千回以上の説教をしたことになります。

 エペソはかつて大規模なリバイバルが起こり、キリスト教徒が五十万ルピー近くもする古い魔術書を燃やした場所でした。また、パウロの体に触れたハンカチが病人を癒し、悪霊にとりつかれた人々を解放するために使われた場所でもあります。神はエペソでパウロを通して、他のどこにも見られなかったような規模の驚くべき奇跡を起こしました(使徒19:11、12、19参照)。

 しかし、最終的にパウロは長老たちに何を思い出させましたか。説教のことでしょうか、それとも奇跡のことでしょうか。いいえ、どちらでもありません。

 パウロは、彼らと初めて会った日から、彼らの間で自分が謙虚に生きてきたことを思い出すようにと言いました(19節)。たとえパウロの説教を忘れたとしても、パウロが彼らと共にどのように生きたかは決して忘れられないでしょう。パウロの人生は、後に残るべき強い影響をエペソの人々に与えました。パウロの思いやりと素朴さは決して忘れられないでしょう。パウロがテント職人として自分と同僚を養うために、自分の手で一生懸命働いていたことを彼らは覚えていたに違いありません。それはパウロが彼らの重荷にならないように、また他のクリスチャンの働き人の模範となるためでした(34、35節)。彼らは、この三年間ずっと、パウロが誰からもお金や贈り物、新しい服さえも期待しなかったことを決して忘れないでしょう(33節)。

 パウロはまた、妥協することなく神の教えのすべてを彼らに宣べ伝えたことも彼らに思い出させました(使徒20:27)。パウロは、自分の人気を求めて、人に媚びるような人間ではありませんでした。彼は悔い改めについて、また、聞き手に嫌がられても彼らにとって有益になるなら、そのような主題も説いていました。(使徒 20:20, 21)。

 パウロが彼らに指摘したのは次のようなことです。

 もしあなたが、エペソでパウロがしたように三年間教会の牧師を務め、その後去ったとしたら、あなたの群れはあなたの何を覚えているでしょうか。彼らはあなたを印象的な説教者として記憶するでしょうか、それともあなたの人生を通してイエスの似姿を彼らに示したへりくだった神の人としてでしょうか。

 彼らはあなたを、彼らを神に近づけ、よりキリストに近づくよう促した人として、それともトラクトの配布方法を教えてくれた人として思い出すでしょうか。

 私たちの賜物や召命が何であれ、それはキリストのいのちの内なる泉から流れ出るものでなければなりません。

 癒しの賜物を持つ人は、イエスと同じようにその賜物を用いなければなりません。イエスはへりくだった人でした。質素に暮らし、すべての人と自由に交わり、病人に対して深い同情心を持ち、彼らを癒す前も後も誰からもお金を受け取らなかったのです。彼は人々を無償で癒しました。

 しかし、私は生涯でそのような「癒し手」に出会ったことはありません。もしそのような人に出会ったら、ぜひ教えてください。会ってみたいです。でも、私はまだそのような人に会ったことがありません。その代わりに、癒しの賜物があるふりをして、心理的なトリックで人々を騙す、金に目がない説教者にはたくさん出会いましたが。

  最も悲しいことは、分別力のない若者たちがこれらの欺瞞者に従い、自分たちもそのような奉仕を求め始めてしまうことです。こうして次の世代も堕落してしまうのです。このことを私は本当に悲しく思います。

 使徒的奉仕、預言的奉仕、伝道的奉仕、牧者的奉仕、教師的奉仕、どんな奉仕に召されているとしても、私たちはキリストと同じように行わなければなりません。すべての召しがキリストの御霊によらなければなりません。

 もしあなたが神から教会の牧者として召されていると感じるなら、イエスと同じように教会を牧するよう努めてください。そして、あなたの群れに残る自分の印象が、イエスの栄光に輝いていた人という印象となりますように。

 最後に、私たちの過去の失敗について一言お話ししましょう。

 私たちは過去を変えることはできません。私たちの人生のその部分は終わったのです。私たちはみな失敗しており、私たちにできるのは失敗を悔い改め、告白し、主の尊い血によって私たちの罪を清めてくださるよう主にお願いすることしかできません。

 私は人生で多くの間違いを犯しました。しかし、間違いから多くの教訓も学びました。  ですから、私の失敗は私にとって無駄ではありませんでした。また、他の人の間違いを研究することで、多くの貴重な教訓を学びました。こうして、自分自身で間違いを犯さないようにすることができます。

 私たちは、過去に犯した多くのことを恥じるかもしれません。しかし、一度悔い改めて(必要な場合は)償いをすれば、過去の失敗から教訓を学び、過去を永遠に忘れることができます。

 私たちは、過去の失敗のせいで、サタンに「罪の意識」や「非難の旅路」に連れて行かれることがあってはなりません。キリストにある者は非難の下にいないからです。

 神がキリストの血によって私たちを義と認めてくださった時(ローマ5:9)、その後、神は、私たちが一生罪を犯したことがなかった者として私たちを見てくださるのです。 その時、私たちも、神が私たちを見るように、自分自身を見なければなりません。

 ですから、過去に失敗したというだけで、サタンや他の人に、自分は役立たずだと言わせてはいけません。あなたは悔い改めたので、あなたは神の御手の中にある尊い器です。残りの人生を神の栄光のために生きることができます。

 私たち長老にとって、これからの長い人生が待っている若者を弟子に育てることは、非常に大きな特権です。私たちの教会の若者一人一人が秘めている大きな可能性を考えてみてください。同時に、サタンが彼らを捕まえようと待っていることも忘れないでください。サタンが彼らを捕らえる前に、私たちは彼らを神と神の御国のためにしっかりとつかんでいなければいけません。

 若者たちの心の中には様々な葛藤があります。若者の救いを止められないとサタンが思ったとしても、彼らが真理に対して妥協することを待っています。しかし、若者たちが「妥協者」ではなく、主の確かな弟子になれるように、神はあなたを彼らの上に置かれたのです。ですから、ぜひあなたの召しを真剣に受け止めるようお願いします。

 私たち皆が悔い改めにひれ伏し、次の世代の信仰者にとって、悪い見本となって神の御名を汚してしまったことを赦してくださるよう求めましょう。

 これからの時代に、私たちがへりくだった敬虔な神の民の指導者になれるよう主が助けてくださいますように。アーメン。

聞く耳のある者は聞きなさい。