素晴らしい真実

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 章 1
第一章 驚くべき宇宙の事実

私たちは今、科学による進歩の時代に生きています。祖先にとって不可能だと思われていたことを、人間は次々と実現してきました。

 科学は目まぐるしい速さで進歩を遂げ、人類の創造から1750年までに人類が極めた科学の知識量は、それから1900年までの150年の間に、2倍に増えたと推定されています。そして、それから1950年までの50年間で、さらに1960年までのわずか10年で倍増しました。その後は、2年半毎に倍増していると考えられます。

 科学の進歩を示す例として、移動速度の変化を考えてみましょう。

 200年前、人は何千年も前の先祖と同じように馬で移動していました。そして1900年には、高度な技術のガソリン自動車が誕生し、当時では高速であった時速約80kmで移動するようになりました。その後、1945年までにはジェット機による時速1000kmの空の移動が可能になり、現在、人類は時速4万km以上で宇宙を旅しています。

 私たち人間は、月面着陸を果たしたことで宇宙を制覇したかのように思っています。しかし、月は宇宙の中のほんの一角にすぎません。宇宙自体は、私たちが想像できないほど広大です。

 ではここで、さらに宇宙と惑星について考えてみましょう。

 地球から月までの距離は約40万kmです。地球から太陽までの距離である約1億5千万kmと比較すると、月はかなり近いところにあります。この太陽までの距離はかなり長く感じられますが、実際には、最も近い星の距離と比較すると極わずかです。

 星までの距離を計算する時、その数値があまりにも大きいので、通常の測定単位は用いることができません。そのため、科学者や天文学者は光が1年間に移動する距離である「光年」を測定単位として使用します。光は1秒間に約30万km(または地球7周分)移動するので、1年で移動する距離は9兆kmを超えます。では、いくつかの星までの距離を実際に見てみましょう。

 肉眼で見える一番近い星「アルファケンタウリ」までの距離は4光年半ですので、太陽までの距離の25万倍です。

 もし、あなたが光の速度で移動するならば、1秒半で月に到達しますが、太陽へは8分半、「アルファケンタウリ」に到達するには、その速度で4年半かかるということです。

 次の宇宙模型で考えてみましょう。

 地球が一粒の砂の大きさであるとすると、そこから90cm離れたところにあるのが、小石くらいの大きさの太陽です。太陽系のすべての惑星は、その太陽から半径30m以内にあります。しかし、最も近い星は、この宇宙模型の地球から241km離れたところにあるということになります。

 肉眼で見える最も遠い星はアンドロメダ銀河にあり、150万光年以上離れています。望遠鏡で見ることのできるさらに遠くにある銀河系は 65億光年離れています。

 次に、星の大きさに注目してみましょう。星は肉眼ではとても小さく見えるので、子供たちは「きらきら星」と呼びます。また、私たちが地球上で遠距離を移動する際、何時間も要するので、地球は非常に大きいと感じます。しかし、太陽は遥かに大きく、太陽の中を空洞と仮定すれば、地球の大きさの球体が実に100万個も入る大きさです。それでも、太陽は星と比べると遥かに小さい球体です。 星の中には巨大なものがあり、その大きさは空洞ならば太陽の大きさの球体が5億個その中に収まる程です。

 地球から520光年離れた星、ベテルギウスは、オリオンベルトの明るい星の1つです。 その直径は5億kmです。つまり、それが空洞ならば、地球はこの星の内側で太陽の周りを公転できます。 (太陽の周りの地球の軌道は直径わずか3億kmです。) 

 次に、星の数を考えてみてください。私たちの太陽系は、「天の川」と呼ばれる銀河の一部です。天文学者は、この銀河に少なくとも1000億の星があると推定しています。太陽はその星群の一つにすぎません。そして、天の川は存在する多くの銀河のうちの一つです。天文学者によれば、天体望遠鏡を覗いた時、そのレンズの向こうに見える銀河の数は少なくとも1億あるので、実際の銀河の数は計り知れません。

 これらの天体の軌道移動の精巧さも考えてみてください。人の手で作られた最高品質の時計でさえ、その精巧さを超えることはできません。 

 この広大な宇宙の背後には、無数の星と惑星を創造し、それらを完璧に設計された神という存在がおられるに違いないのです。

 なんと宇宙は広大なことでしょうか、そして人はなんてちっぽけな存在でしょうか。聖書には次のような言葉があります。

 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。」

 この広大な宇宙の創造者である神は、私たち一人一人を愛しておられます。そしてこれは、聖書に書かれてある素晴らしい真実です。物の価値は、その大きさによって決まるものではありません。

 例えば、広大な敷地を所有している億万長者の人にとって、自分の幼い子供たちは、所有地よりも遥かに大切な存在です。 それは神も同じです。宇宙は広大であり、星の大きさも巨大かもしれません。しかし、神はどんな創造物よりも、人間を第一に愛しておられるのです。 

 人は、神と交わりを持つ、神の子になるために造られました。人間の存在に意味と目的を与えることができるのは、神との交わりだけです。

また、あらゆる創造物の中に、私たちは神の偉大さを見ることができます。 この神が、私たちを愛しておられると聖書は明らかにしています。


 章 2
第二章 驚くべき人体の事実

人間は、神の創造物の中でも最高傑作であり、宇宙の星よりも遥かに優れた創造物です。私達のからだを見てみると、神がどれほど素晴らしく私たちを創造されたかを理解することができます。


 医学者によれば、人間の脳には300億個の神経細胞があり、それぞれが0.1V近くの電位を発生していると言われています。また、 35歳以上の人の場合、毎日これらの神経細胞のうち1,000個が失なわれ、これらの細胞が新たに補われることはありません。それでも脳は、五感の感度に僅かな鈍りが生じたとしても、死を迎える時まで基本的な機能を維持し続けます。

 私たちのそれぞれの目には、白黒で画像を認識する1億3,000万個の桿体細胞と、色で認識する700万個の錐体細胞があることをご存知でしょうか。これらは、30万の神経線維によって脳に接続されています。

 そして人間の目は、一度に150万の情報を受信できます。片目の機能を機械で表現するならば、25万台のテレビの送信機と受信機に値します。

 次に、耳の構造を見てみましょう。 聴覚神経の長さはわずか2cmで、その直径は一般的な鉛筆の芯と同じです。 そしてその中には、3万本の伝導路があります。人間の耳をピアノと比べてみると、ピアノに88の音域があるのに対して、内耳には同じ周波数範囲内で約1,100個あります。つまり耳は、ピアノの鍵盤間の12音も聞き分ける程、繊細であるということになります。

 では、心臓や血管はどうでしょうか。私たちは通常、心臓や血管に何らかの支障がない限り、それらの存在を意識しないかもしれません。しかし、神が体内に備えてくださった心臓は、休みもせずひたすら鼓動し続け、その数は一年で4,000万回です。 昨日一日でも、私たちが知らない間に、心臓は体内で10万回鼓動し、頭から足まで実に10万kmの血管に血液を送り出しました。それによって、損傷し消耗した赤血球を補うために1,720億個以上の赤血球が新たに造られたのです。

 あなたが今日生きているのは奇跡だと思いませんか。

 次に甲状腺ですが、毎日1/5,000gmの僅かなヨウ素を必要とします。それ程の微量であっても、新生児にその微量なヨウ素が欠けると、知能の発達に影響が生じます。

 下垂体は、さらに優れた器官です。ホルモンの1日あたりの分泌量は、わずか1/100万gmです。しかし、成長期のわずかな分泌量の変化さえも、身体的および精神的な異常を引き起こします。

 これら体内の完璧なメカニズムによって、今日私たちが健康でいられるのです。

 聖書の中のある著者は、次のように言っています。

「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。」

 人体の構造と、その中に神が作られた完全な調和は、実に驚くべきものです。もちろん、これらの神秘は動物の体内にもいくつか見受けられます。

 しかし、人の体内には魂があります。魂は人の個性を作り、個性は、考え判断する思考力、感受性、そして意志決定力などの要素から成り立っています。

 動物には脳がありますが、論理的に考えることはできません。人は考え、書面に自分の考えを書き留めることができるため、知識を次世代に引き継ぐことができます。それは、動物にはできないことです。(しかしながら、鳥は、何千年も前の祖先と同様の方法で巣を作ります。)

 人間の知性とは、人に内在しておられる神の御姿と崇高な知性のほんの一部であるのです。


 人にはさらに、体や魂よりも遥かに超越した霊というものがあります。これが、地球上の他の創造物と人間との間にある違いです。

 私たちは、心の奥深くにある霊によって、道義的に従うべき神の存在を自覚します。創造物の素晴らしさだけではなく、私たちに内在する霊も、神がおられることを証ししています。神の存在を教えてくれるのは、文明でも教育でもありません。そして宗教でもありません。世界の文明化されていない未開人の人たちの間にも、神らしき存在が認められます。彼らの中の霊が、特定の物や人物の中に従うべき神の存在を示すので、彼らはそれらを崇拝します。また、彼らには自分の誤りを自覚できる良心もあります。

 このように、生まれながらに罪悪感を感じることができる動物はいません。あなたは、罪悪感を感じるように動物を訓練することができるかもしれません。しかし、罪を自然に意識できる動物はいないのです。

 人間が罪悪感を覚えるのは、人間だけに霊と良心があるからです。そして、これが世界中の人々が何らかの形で宗教を信仰する理由です。しかし、信仰心のある猿や犬は存在しません。


 人間は、人生という限られた時間を遥かに超えた、永遠のいのちのために創造されました。神は、私たち一人一人の内に、地球上で得ることよりも、遥かに高く、優れた物を求める心を備えてくださっています。

 人間は、永遠の創造物です。進化論者は、人と動物の間に違いはないと言っているかもしれません。しかし、どの国においても、赤ん坊を殺めることは象を殺すことよりも遥かに大きな犯罪であることは明らかです。象は巨大かもしれませんが、小さな赤ちゃんは神のかたちに作られた、遥かに尊い存在だからです。人間は、神の創造の中でも最高傑作であり、神との交わりを持つために造られました。


 章 3
第三章 真の改革

今日、世界中で自分の霊が満たされないと感じている人は多く、それは若い人の間で顕著に現れています。人々は既成観念を覆し、より良いものを得たいと願ってます。

 改革は、今日よく使われる言葉で、物事を一変して、新しく改めることを意味します。私たちは、社会的、経済的、そして政治的な改革の時代に生きています。ファッションも同様に常に変化しており、ある年の流行は、次の年になると時代遅れになってしまいます。ビジネスの分野にも改革があります。今日、世界市場で入手可能な全製品のうち65%は、5年前まで製造されていなかったものです。

 私たちの周りの全てのことに改革があり、人々はより優れたものを求めています。多くの国で武力による革命が起きていますが、事態はさらに悪化しているのが現状です。新聞は、飢饉と餓死、失業と暴力、戦争と破壊のニュースで満ちています。

 私たちが、社会のためにより良いものを求めるならば、現状に不満を抱くことは悪いことではありません。私たちが、人々のためにより良い生活環境を願うのは当然のことです。私たちは、自分の国や世界の人々が皆、衣食住の貧困から解放され、豊かな自由の中で生きて欲しいと願います。実際、現状に妥協し沈黙することは、死を意味します。現状に無反応でいるのは、改革の起こり得ない墓地に眠る亡くなった人たちだけです。

 イエス・キリストは、この世が見てきた中でも、最大の改革者でした。唯一の違いは、他の改革者が外的な改革を打ち出すのに対し、イエス・キリストは内的な改革を訴えておられたことです。彼は問題の根元を打ち、人間には内面の改革が必要だと語られました。


 人が内面の変化を経験すれば、外面はそれに相応します。まず、問題の根本原因から対処していかなければなりません。

 医者は患者を治療する時、外的症状だけを治療するわけではありません。彼は病気自体を治療します。

 例えば、癌を患っている人は食欲不振を訴えますが、医者が癌の治療をせずに食欲不振のみでその患者に診断を下すとしたら、その医者はかなり愚かな医者です。

 自分自身の悩みを解決しようとして、外側を変えようとする人も、この医者と同じです。両者とも症状を取り除こうとしますが、病気自体はまだ体内に残っているのです。

 取り除かれるべき人間の本質は何でしょうか。それは今日、人が神から完全に独立してしまっているということです。宗教に熱心な人でさえ、あらゆる面で私利私欲に目がくらんでいます。そして、人が人生の計画を立てる時も、神が考慮されることはありません。

 この性質を取り除くということは、神に一切を委ね、神に信頼して生きるということです。これはイエス・キリストがもたらした霊の改革です。そして、今日、世界中で多くの人が実際に経験していることです。

 さらに、次の領域でも大きな改革が必要です。私たちは皆、両親から信仰または宗教を受け継ぎ、また長年にわたって私たちの中に培われてきた固定観念も受け継いでいます。宗教に関しては、残念ながら、ほとんどの人が、自分で考えようとしません。なぜなら、司祭や牧師などの宗教家が彼らに代わって考えてくれるからです。

 しかし、霊的なことについて自分で考えることは、実際、どんな人でも実践できる大変有意義なことです。正しく神についての真実を知り、途中で道を外さないように注意しなければなりません。

 科学の世界において、人間が自分で考えることをやめてしまったら、状況はどうなっていたでしょうか。私たちの先祖が信じていたことをそのまま鵜呑みにしていただけであったら、科学の領域には全く進歩がなかったに違いありません。

 例えば、何千年もの間、人は地球が宇宙の中心であり、太陽と星がその周りを公転していると信じていました。しかし450年前、コペルニクスという人が、祖先が信じていた事に疑問を投げかけ、その誤りを証明しました。

 科学者は、私たちの祖先が信じていたことを、必然として受け入れようとしないので、科学は進歩し続けているのです。 一世紀前、人々は機械が飛行することは非現実的だと思っていました。 しかし今日、人々は飛行機で世界中を旅しています。 以前は、原子核が分裂できるとは誰も信じていませんでしたが、 今日、実際に原子核は分裂しています。また、 着陸は不可能と思われていた月にも人間は着陸することに成功しました。

 しかし悲しいことに、宗教的なことに関しては、人は親や宗教家が教えてくれることをそのまま受け入れています。 あなたの場合はどうでしょうか。 あなたの宗教的信念は何ですか。 あなたが信じるものは先祖から引き継いだものでしょうか。それとも、あなたが、神と永遠について自問自答していく中で得た信念でしょうか。

 イエス・キリストは、世界が見てきた中でも最も改革的な人でした。 なぜなら、人を内側から変えられるために来られたからです。人が内側から変えられれば、世界と社会に蔓延する病もまた癒されます。 人間自体が変わらなければ、世と社会が直面する問題が解決されることはないのです。


 章 4
第四章 私たちの必要性について

人間にとって最大の必要性は何でしょうか。

そのことについて考えたことはありますか?

それは食糧ですか、住む場所ですか、それとも仕事でしょうか。


 もちろん、これらすべてが大変必要であることは間違いありません。それらがなければ、私たちは生きていくことができないでしょう。私たちには、健康を維持するための食物、身に着ける衣服、住む場所、そして私たち自身と家族を養うための仕事も必要です。これらの重要性を決して軽視することはできません。

 しかし、私たちが今日生きる物質主義の時代には、人間にとって大きな危険が潜んでいます。それは、人が一時的な創造物ではなく、永遠の創造物であることを忘れてしまっているということです。

 人の内には霊があり、それは私たちの身体よりも遥かに価値があるものです。あなたの家のペットの犬が病気になったら、あなたはその犬を獣医のところに連れて行き、それを治療してもらうでしょう。しかし、ペットと子供の両方が病気になった場合、どちらを医者に連れて行くか決めなければなりませんが、あなたはまず子供を医者に連れて行くでしょう。それはペットの犬が大切ではないからではなく、子供の方がより尊いからです。 同じように、私たちの内なる霊は私たちの体よりも遥かに尊いのです。

 あなたは先入観を持たずに、霊的な必要性について考えたことがありますか。 先入観は、人々の心を盲目にし、神と霊的な必要性を正しく理解すること、そして、人が地球上に存在する理由を正しく理解することを妨げる致命的なものです。   

 殆どの人が多くの問題を解決できないまま人生を送っています。なぜなら、先入観や偏見をもって人生に対処してきたからです。

 そういった先入観に捉われず、信仰や永遠についての真実を知りたいと思いませんか。 その真実は、あなたが普段当然だと思っていることとは異なるかもしれません。今、この書をお読みになっている上で、この書を先に進める前に、あなたはその真実を知りたいと思っておられるでしょうか。もしそうであるなら、あなたは必ず真実を見出すことができます。しかし、そうでないならば、その真実を理解できないかもしれません。


 聖書は、神は熱心に神を求める人々に必ず報いてくださると言っています。どんな宗教のどんな男性、女性、子供でも、心を開いて、必死になって求めれば、神とイエス・キリストについての真実を知ることができます。

 人が死ぬとどうなりますか。死は、全ての存在の終わりでしょうか。いいえ、そうではありません。地上での人生は、永遠への入り口にすぎません。私たちは、この地上で神の観察下にあり、神が私たちを見ておられます。そして、私たちの地上での生き方が、私たちの永遠の行き先を決定します。神は、私たちの人生の全てをご存知です。私たちは、友達を騙すことができても神を騙すことはできません。私たちは、神の完全なる神聖さには到底及ぶことができないので、皆が罪人です。

 しかし、人は神との交わりを持つために造られました。私たちに神との交わりがなければ、この世での存在目的を果たすことができません。そして、私たちの罪が取り除かれない限り、神との交わりを味わうことはできません。


 神はどんな方だと思いますか?

 世界中で、人々は神について各々異なる考えを持っているでしょう。 しかし、誰も実際に神を見た人はいません。 ですから、神についての私たち自身の考えは全て無意味です。 聖書によれば、イエス・キリストは天から地上に降りて来られ、神はどんな方でおられるのかを人々に示されました。また、イエスは人の姿をした神でおられ、イエス・キリストは、神聖さと愛に満ちた神を明らかにされました。これは事実なのです。


 では、どうすれば私たちの人生から罪を取り除くことができるでしょうか。

 誰もが皆、人生の中で罪という大きな問題を抱えており、その解決法を見つけられずにいます。しかし、イエス・キリストにはその答えがあります。それはどういうことでしょうか。

 ただ悔い改めて、悪かったと後悔するだけでは十分ではありません。もし、私が銀行強盗を犯し、父がその法廷の裁判官だったとしたら、私が自分の犯罪を悪いと思っただけでは、父は私を釈放してはくれないでしょう。父は、父親として私を愛しているかもしれませんが、この場合、彼は裁判官として法廷に座っています。ですから、たとえ私が悪かったと悔やんでも、息子が故、父が私を愛しているとしても裁判官である父は、私が犯した犯罪に対して適切に処罰しなければなりません。

 私たちは、人間よりも遥かに公正な正義の神を信じます。では、私たちが悪いと思うだけで、または、神が私たちを愛しておられるというだけで、神は私たちを許してくださるでしょうか。いいえ、神は、完全に正義の神でおられます。そして正義には罰が伴います。

 上記の例の裁判官である父は、法廷で息子である私を助けようとします。裁判官は法律に基づいて「罰金10万ルピー 」と言って私に罰則を科します。 それから彼は、自分が稼いだ給料の中から、10万ルピーを私に手渡しこう告げます。「ここに10万ルピーある。さあ、行って罰金を払い、自由になりなさい。」 この父がしたことがお分かりになりますか。 裁判官として彼は私を罰し、父親として息子である私のために罰金を支払ったのです。

 これが神のなされたことです。 神は全ての人に言われます。「あなたは罪人であり、あなたが受ける処罰は死に値する。」  

 裁判官として、神は私たちを罰せられます。 しかし、神は私たちを愛しておられるので、イエス・キリストという人として、天から地上に降りて来られ、私たちが受けるべき処罰を身代わりとなって負ってくださったのです。キリストが十字架にかかり、命を捧げられたのは、まさに私たちの罪に対して課せられた処罰を支払うためでした。そして、 キリストが葬られた三日後に、彼が墓から蘇られたという事実がその証拠です。 イエス・キリストは死を克服し、今日も生きておられます。

 これらは、私たちが信じるべき事実です。 しかし、私たち自身も成すべきことがあります。裁判官の父が、法廷で私にお金を差し出した時、私が彼の手からそれを受け取らなければ自由になることはできません。 同様に、神がイエス・キリストを通して与えてくださる赦しも、私たちが自分で受け取らなければなりません。 私たちが手に取らないならば、その恩恵に預かることができません。 神は、今日、イエス・キリストを通して私たちを赦してくださいます。 しかし、それを受け取るかどうかはあなた次第です。


 章 5
第五章 依存と欲求不満

私たち人間は、この世において、快楽、名声、富そして力、この四つの欲の中、一つは少なくとも追い求めて生活しています。

 しかし、これらには必ず収穫逓減の法則があることを忘れてはいけません。

 この法則を理解するために、依存症について考えてみましょう。

 まず、快楽依存症にはタバコ、アルコール、ロック音楽、ドラッグ、反倫理的な性欲等があり、これらによって人は、初期段階では僅かな刺激でも満足感を覚えます。 しかし、一端その快楽に溺れてしまうと、その快楽の刺激無しでは生きられない程の常習者になり、それらの悪癖から逃れられなくなります。その後、常習者は、当初の悪癖の量では以前と同等の満足感が得られないことに気がつきます。そして、その満足感を取り戻すために、益々、悪癖に没頭するようになります。これが収穫逓減の法則です。

 アルコールや薬物依存症の場合、最終的には個人の心身まで破壊されます。性欲においては、常習者は異常な性行動へと進み、その悪癖は人間以下、場合によっては動物以下にもなります。

 いずれの場合も、悪癖の餌食となった中毒者は、まるで大工工具の万力(バイス)のような強力な悪癖によって完全に捉えられ、そこから逃れることはできません。

 その一方、科学や音楽等の洗練された分野での自己達成感においても、収穫逓減の法則は働くので、人は決して満たされることはありません。この法則は、名声、富、権力への依存においても全く同じように働きます。それらに依存すれば破滅に繋がります。勿論、麻薬や性欲中毒者のように醜いものではありませんが。

 名声に依存する人の場合、 これは主に学校生活の中で、友人の関心を得ようとすることから始まります。 その後、名声への欲は、競技、映画、スポーツ、その他いずれの分野であっても、さらに増していきます。名声に依存する人が地元で名を上げると、次に全国的に、さらには世界的に有名になりたいという野望を抱くようになります。その後、名声への欲がエスカレートすると、身体に影響をもたらし、次第に当初の信念を失って不正行為によって頂点に立とうとします。しかし、例え頂点を極めたとしても、最終的には欲求不満以外何も手にすることはありません。多くの映画スターや他の著名人が自殺を図るのは、このように名声があるにもかかわらず、内面の欲求不満が蓄積されるためです。


 では、この法則は、富への依存ではどう働くのでしょうか。当初、人は純粋に生計を立てるため事業を始めますが、徐々に収益は家族のニーズを超え、事業をもっと拡大、成長させたいという欲が生まれます。 この富への欲望には終わりがありません。なぜなら、この世界には、全ての人間の必要を満たすのに十分な物質的資源はありますが、それらが人間の貪欲さを完全に満たすことは出来ないからです。

 お金と物は人の心を掴む一方で、人の満足度をますます下げる力を持っています。 以前は、物質的繁栄によって幸せを感じていたけれども、今ではいくら物質的に恵まれたとしても、同様の幸福感を得ることができません。ここでも収穫逓減の法則が成り立っています。経済的繁栄によって手に入れた電子機器、豊富な食べ物、旅行のスリル、高級な社交生活等によっても、決して満たされることはありません。これら全ては、空虚で虚しいものです。人は、自分に何もなかった時の方が、不安や焦りも無く幸せだったと気付きます。また、夫婦間の幸福感も減ってしまったと感じるかもしれません。

 次の、主イエス・キリストの言葉は真実を語っています。

 「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」

 では最後に、政治、その他の権力と地位について考えてみましょう。たとえば、かつて国会議員として選出されたいと願っていた人が、議員となった今では物足りず、次に大臣という位に目を向けます。この人が、たとえ国で最高の地位に就いたとしても、満ち足りることはなく、欲求不満から解放されることはありません。

「王冠を戴く者に安穏はなし」という諺があります。それは、王位にある者が無名の時には暗殺される危険はなく、その日々は穏やかだったという意味です。

 収穫逓減の法則が、なぜこれら全ての領域に当てはまるのでしょうか。

 私たちの内側には、神だけが満たすことができる空白があります。 人は絶えず、その空白を快楽、名声、富または力で満たそうとします。 しかし、それは無駄な試みです。 私たちはこれらによって決して満たされることはなく、欲求不満が増えるだけなのです。


 神は、人間の心に永遠を与えられたと聖書は言っています。 次のように表現した人もいます。「私たちの心は神に安息を見つけるまで、休まることはない」。

 収穫逓減の法則は、人間自身が永遠の創造物であることを知ることができるようにと、神がこの世の魅力的な物への人間の欲求の上に作られた法則です。 神の聖霊以外のものでは決して満たされない、霊的な空白と共に人は創造されたのです。

 コップに飲み物を入れる時、まずコップをきれいに洗わなければなりません。それと同じように、私たちの心も神の霊で満たされる前に、罪から聖められる必要があります。

 キリストは、私たちが罪の性質から清められるために死んでくださいました。

 私たちの心の、あらゆる不満を払拭する、永遠に続く真の満足感は、私たちが、人生の全ての領域で主イエス・キリストを主であると認める時、初めて得ることができます。


 章 6
第六章 最後の裁き

この世の人生が全てではありません。私たちの人生は、死へのカウントダウンです。私たちが最終的に墓に入る日まで、残された日々は少なくなっていきます。そして、死を迎える時には、私たちは宇宙ロケットのように旅立つのです。

 死とは何でしょうか。それは、私たちの魂と霊が体から切り離されるということです。その時の最大の課題は、私たちが「どこに行くのか」です。あなたは自分の行き先をご存知ですか。


 死後のいのちは、この世の人生よりも重要です。

 永遠は、限りある時間より遥かに優れています。

 永遠に私たちが居る場所は、この世で生きている場所よりも遥かに重要です。


 愚かな人は、近視眼であり、この世の人生のことだけを考えてしまいます。賢い人は、未来に目を向け、永遠へ向かう準備をします。

 例えば、ある青年が数百万ルピーの財産を受け継ぎ、バンガロールに定住すると決めたとします。しかし、バンガロール へ向かう途中、ボンベイに数日立ち寄ることにしました。彼はその二日間で、ギャンブルに惜しみなくお金を注ぎ込み、財産を全て使い果たしました。 彼がついにバンガロールに着いた時には一銭もなく、彼の残りの人生六十年を住むところもなく、通り沿いで物乞いをして過ごすことになってしまいました。

 あなたはこの青年のことを愚かだと思うかもしれません。しかし、同じように、この世の人生のみを考え、永遠のいのちを省みない人も同様に愚かではないでしょうか。私たちの寿命が、たとえ百年であっても、永遠と比較すれば、それはほんの一瞬です。 

 聖書は、神が私たち一人一人に世で送っていた人生について問われる日が来ると言っています。

 人類の歴史の何世紀にもわたって、この地球に住んでいた何十億人もの人々のことを考えれば、全ての人類の言動、行動、思考を神はどのようにして記録されるのだろうかと疑問に思われるかもしれません。この記録は、各人の記憶によって残されるのです。

 記憶は、私たちの言動や考えを全て正確に記録するビデオテープのようなものです。また、私たちの心の思いや真意も記録します。人が死ぬ時、体は地上に残されますが、記憶はその魂と共に死んだ霊の所へ行きます。裁きの日、人は神の御前で自らの人生の全てを弁明しなければなりません。

 その日、裁きの順番が来ると、神は各人の記憶のビデオテープを再生し、それぞれの記録をご覧になります。その記録が示す内容は、 世での人生の詳細を物語る自分自身の記憶であるため、その正確さは疑う余地もありません。


 今日、人々が持っている良識や宗教などの外的要素は、その裁きの日に取り除かれ、そして人々の真意が明らかにされます。その日、宗教は誰をも救うことができません。なぜなら、どの宗教の家に生まれようが、どの宗教を信仰していようが、すべての人が罪人であることが明らかになるからです。いかなる宗教活動も、私たちの罪の記録を消し去ることができません。良い働き、貧しい人々や教会、寺院、モスクに捧げた献金等も、決して私たちを救うことは出来ないのです。

 裁きの日、私たちの行動、言動や思考の醜い記録がビデオテープで流されずに、神の目から永久に消し去ることができる唯一の道があります。

 私たちの善良な行いは、悪い行いを帳消しにすることは出来ません。私たちが犯した罪に対しては、正義と公正な処罰が下されます。そして、聖書によると、神の律法には罪に対する処罰がただ一つしかありません。それは、永遠の死です。この死は、私たち皆の罪に値するものです。

 神の子イエスキリストが、天から地に人として降りて来られ、1,950年以上前に、エルサレムの外れで十字架にかけられたのは、まさにこの処罰から私たちを救うためでした。全ての宗教の、全ての人の罪に対する神の処罰を受けられ、近くの墓に葬られました。 しかし、イエスは三日後、死から蘇り、生きた体で出て来られて、人間の最大の敵である死に打ち勝ち、ご自身が神の子であることを証明されました。 四十日後、多くの人が見守る中、イエスは、全ての人を裁く定められた時に、再び地に戻ってこられることを約束され、天に昇られました。イエスがその約束をされてからすでに1,950年以上が過ぎました。今、イエスが地に戻ってこられる時が近づいています。近々、私たちはイエスが天から来られるのを見るでしょう。

 人類の罪のために死を受け入れられ、そして、死から蘇られたのは歴史上、イエス・キリストだけです。


 今日、私たちが罪から立ち返り、悔い改めて、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれた後、死から蘇えられたことを信じてイエスの御名によって赦しを乞うならば、私たちの罪は赦され、自分のビデオテープからをも消すことができます。

 そして、神はさらに私たちを助けてくださいます。裁きの日には、私たちの記憶のビデオテープにある記録が、清く神聖なものになるために、神が御霊として私たちの心の中に住まわれ、罪深い性質や習慣を克服する力となってくださることを約束してくださいました。

 これが、神が人類にお与えになった唯一の救いの道です。私たちに残されたその他の選択肢は、記憶のビデオテープにある罪の記録のみです。 私たちは、この真実を理解し、全ての罪人が受けなければならない、火の海における永遠の裁きという現実を受け止め、唯一の解決策を、皆に、愛を込めて警告しなければなりません。

 章 7
第七章 歴史上の驚くべき事実

主イエス・キリストの死と復活は、世界の歴史において最も重要な二つの出来事です。 また、キリスト教の信仰が築かれている二つの中心的な事実でもあります。

 カルバリーの十字架でのキリストの死から学べる、四つの明らかな真実をご紹介したいと思います。


1.死後のいのちがある

 この世の人生が全てだったら、イエス・キリストが死を迎えることはなかったでしょう。

 イエスには、神としての力があったので、敵の手から容易に逃れることができたはずです。さらには、十字架につけられるために、喜んで自らの身を彼らに差し出す必要はありませんでした。

 実際に、死後のいのちがあり、死の直後から魂が永遠に入るという事実は、イエスが彼と共に十字架につけられた強盗に言われた、「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいるでしょう」という言葉で明らかにされています。イエスとその悔い改めた強盗は、その日のうちにパラダイスに入りました。

 そして、イエスはこの三日後によみがえられたので、イエスのこれらの言葉には信憑性があります。そしてよみがえられたという事実は、死後のいのちがあることの最も明白な証拠です。


 この世の人生よりも大切な、死後のいのちがあるということを忘れないでください。


2. 神聖な神

 神は、無限で、そして絶対的な神聖であり、決して罪に対して妥協を許されないお方です。

  十字架上で、罪のない神の御子であるイエス・キリストに、世の全ての罪が科された時、神はイエスの顔を直視することができず、彼を見捨てられました。 なぜなら、神は罪をご覧になることができなかったからです。

 聖書は「神の目は清く、悪を見られない」と言っています。 神の愛する御子が世の罪を負った時、神の裁きがその御子に下されました。 神は、愛によって罪を見逃すことはできません。 このことは、神の目に映る罪の恐ろしさを示唆しています。 神は、あなたをとても愛しておられるかもしれませんが、あなたの人生に罪が残っていれば、神はあなたを裁かれます。カルバリーの十字架の御子と同様に、神は私たちを見捨てられます。

 神は、自分(わたし)を愛してくださっているので、神は自分(わたし)の罪を見逃してくださるだろう思っている人も多くいます。 しかし、誰に罪があろうと、罪は罪としてどうすることもできないのです。

 神は、焼き尽くす炎のような方です。 罪のある人は、神によって焼き尽くされます。私たちが聖なる神の御前に立ち、自分の人生が問われる時、 自分は他の人程悪くないという思いは全く役に立たないのです。 罪は、ハンセン病、悪性の癌よりも深刻なものです。 それは、私たちを永遠に破壊してしまうからです。


3.神は愛です


 神は、また、無限の愛の方でおられます。 神の愛は、神の温かい言葉や慈しみだけでなく、私たちの罪と惨めさから私たちを救うために、御子を捧げられたという事実にも現われています。 他の人のために自分の命を捨てる程の愛は、この地上にはありません。

 イエス・キリストは、十字架の全ての苦しみを乗り越えられました。なぜなら、イエスは私たちを愛し、私たちの罪に対する裁きを受けて、私たちを罪から救いたいと願っておられたからです。 イエスは、非情な肉体的、精神的、感情的な苦しみを体験されましたが、実は、ご自身の霊において最も苦しまれたのは、父によって見捨てられ、父との交わりが断たれたことでした。


 神の御子が十字架上で体験されたその苦しみは、神が人をどれほど愛し、人が神にとってどれほど尊い存在なのかを示しています。 この世の人、他人にとって、人の価値はそれほど高くありません。 しかし、あなたが自分の本当の価値を知りたいならば、神の御子イエスが、あなたのために命を捧げられた十字架を見るべきです。 神にとって、それがあなた自身の価値となるのです。

 聖書は、神の人への愛と母親の子供への愛を比較しています。 子供が病気を患っているなら、その子が元気で自由になれるよう身代わりになりたいと母親が強く望むように、神は、人が自由になれるように、人の罪に値する処罰を受けられました。

 完全な神聖さと、神の完全な愛が十字架の上にあります。 完全な神聖さによって、人は死という処罰を受けなければなりません。罪に対する罰です。 しかし、神は完全な愛によって、私達の身代わりとなってその罰をお受けになってくださいました。

4. 他に救いの方法はありません

 もし、他に救いの道があるとしたら、神はその方法を選択し、愛する御子を苦しめる必要はなかったはずです。

 もし、私たちが正しく生きるだけで、天の神のみもとに行けるならば、神が御子を十字架で苦しませたをことは無意味なことになってしまいます。


 私たちには神のような知恵はありません。計り知れない神の知恵は、神聖さと義の要求を満たすと同時に、人間を窮地から救う手段を生みだしました。 それは、神にとって、本当に心苦しい選択ではありましたが、神は、無限の愛によって私たちを救うためにその道を選んでくださったのです。他に救いの方法があると考えることは、自分は神より賢いと捉えているということであり、それは愚かなことです。

 キリストの死の意味がご理解いただけたでしょうか。

 キリストの死を理解した今、私たちが選ぶべき答えは一つです。それは、この世と永遠において、私たちのいのちを完全にキリストに委ねることです。しかし、 知識的解釈や認識だけでは意味がありません。 神は、私たちが自分の意志によって、神に委ねることを求めておられるのです。


 章 7
第八章 最も素晴らしい真実

私たちは皆、砂漠を彷徨い、喉が渇いて瀕死の状態と言えます。

 誰かがどこかで水を見つけたとしましょう。他人に無理やり水を飲ませることは出来ませんが、オアシスの場所を知らせてあげることはできます。

 それが、私たちの目指していることであり、私は、永遠の命を望む人に、それが自由に得られる場所をお伝えしたいのです。

 世界で最も驚くべき事実は、極悪の罪人さえ必死になって神を探し求めるならば、神の子になることができるということです。

 ある夜、道を歩きながら50パイサ(約1円)のコインを失くしたとしたら、どの位探すでしょうか。 おそらく1分も探さないでしょう。 しかし、100ルピーの札束をどこかに置き忘れた場合はどうでしょうか。おそらく見つかるまで探すと思います。 多くの人は、神を50パイサのコインのように扱っているので、神を見つけられません。神は、100ルピーの札束とは比べられないほど、遥かに尊いお方です。


 神はロボットではありません。ご自分の子を求めておられます。それが、神が私たちにあらゆる自由意志をお与えになった理由です。私たちは、神に従うか、従わないかを選ぶことができます。私たち全てが迷い出てしまったのは、神に従いたくないという自由意志が働いているからです。

 罪は、私たちの人生を台無しにするだけでなく、私たちの家族も破壊します。また、罪はこの世において、私たちを哀れなものにし、ついには私たちを永遠の地獄へと引きずり込むのです。

 しかし今、神は、私たちが悔い改め、(つまり、私たちの自己中心という罪深い性質、生き方に背を向け、神の方を向くこと)イエス・キリストの死によって、過去の罪に対する完全な無償の赦しを受けることを待っておられます。


 神は、私たちに、悔い改めるよう強いることがお出来になるお方であり、私達が従うようになるまで、罪を犯す度に、何らかの方法で私たちを罰することがお出来になられるでしょう。しかし、それでは私たちが神の子ではなく、ロボットや奴隷になってしまいます。ですから、神は、私たちが自分の意志で、罪から立ち帰るのを待っておられます。

 皆さん、神の子になる決心をしてみてはどうでしょうか。まだ、よくお解りにならないかも知れませんが、これは、実に、生と死の問題なのです。


 今すぐ、次の祈りを神に祈ってみませんか。

「主イエス・キリスト様、私は自分が罪の裁きに値する罪人であることを認めます。私の罰を取り除き、私の罪のために死に、そして死後に墓から生き返ってくださり、ありがとうございます。

 私は、自分の罪深い生き方から立ち返りたいと思います。 イエス様、私の心にどうか入ってください。 私を清めて、今日、私が新しい人生を始められるように、どうか手伝ってください。 あなたの名のために、私が残りの人生を生きられるように、私にあなたの力を与えてください。 私の祈りを聞いてくれてありがとうございます。


 章 9
第八章 ご存知ですか?

最も近い星は、地球から40兆km離れています。

あなたの目には、1億3,000万個の桿体細胞と700万個の錐体細胞があります。

体内の血管は10万kmの長さがあります。


 私たちは、これらの不思議を創造した神と交わることができます。