イエスが生きたように生きる 

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 章 1
神が人を造られた目的

神は奉仕する者を必要とされて、人をお造りになったわけではありません。神にはすでに、何百万もの御使いが仕えていました。神は、ご自分の性質を表すことのできる存在を必要として人を創造されたのです。

 私たちがこの事実を忘れてしまうと、キリストによる救いの主な目的が、神への奉仕であると勘違いしてしまいます。これが信仰者の多くが犯している過ちです。

 神がアダムを創造された時、こう言われました。

「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

(創世記1:26)

 アダムが罪を犯した時、神はアダムが陥った罪の穴から人を救い出す手段をすでにご用意されていました。アダムが創造される以前に、キリストの受肉と十字架の死は神によって計画されていました。

 キリストの贖いにある神の意図は、私たちを神の本来の目的を果たす者に変えることです。私たちは、キリストへの信仰によって救いにあずかります。しかし、その信仰は、人として世に来られたキリストによる神の啓示に基づくべきであり、この信仰の中でのみ、私たちは聖霊によってキリストに似た者へと変えられます。

 しかし、この神の啓示とは別に、キリストについて知的解釈や偏った知識を持つことは私たちを盲目にします。イエスの時代の律法学者がまさにその例です。彼らは聖書を熟知していましが、ナザレのイエスとは異なる、別のキリストを求めるようになりました。

 聖句の中で私たちが見るイエスは、父と同等の神であり、且つ「ご自分を無にして」、人としての性質をもっておられた方です(ピリピ2:6、7)。

 私たちはイエスに関する事実を注意深く理解していかなければいけません。

 イエスは、私たちと同じ肉体にある時も神でおられました。神は常に神であり続けるお方です。その最も明確な証拠は、人々が彼を礼拝したという事実に見られます。福音書の中に、人々が七回イエスを礼拝したことが書かれてあります(マタイ8:2; 9:18; 14:33; 15:25; 20:20;マルコ5:6;ヨハネ9:38)。御使いや敬虔な信仰者であれば礼拝を受け入れません(使徒10:25、26;黙示録22:8、9)。しかし、イエスは礼拝をお受けになりました。なぜなら彼は神の子であったからです。

 では「ご自分を無にして」とはどういう意味でしょうか。神としての特権を放棄されたということです。二つの例を考えてみましょう。

 「神は悪に誘惑されることのない方」(ヤコブ1:13)です。 しかし、聖書はイエスが誘惑を受けられたと述べています(マタイ4:1-11)。

 神は全知全能の神です。 しかし、聖書ではイエスが遠くにあった実のないイチジクの木に、何か実がなっていないかを見る為、その木に近づかれたと言っています(マルコ11:13)。イエスは、ご自分の再臨の日がいつか知らないとも言われました(マルコ13:32)。

 このように、イエスが人としてこの世におられた時、神としての特権を用いておられなかったことは明白です。

 「ことばは神であった。」 (ヨハネ1:1)

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)

 私たちは、キリストという方の、神と人としての両方のご性質を同じように信じなければなりません。このことを信じないのならば、それは異端です。

 聖書に書かれている真実を疎かにすることは、霊的な損失につながります。ですから、私たちの聖書読解と働きにおいて、キリストの神性と人間性に平等に重点を置かなければ、私たちは不完全なキリスト、つまり聖書が明らかにするイエスとは「別のイエス」を信じることになります。そしてこれは、私たちの信仰生活や働きにおいても大きな損害です。私たちは、神としてのキリストを礼拝するだけでなく、人としてのキリストにも従うように召されてるからです。

 イエスは彼の死を通して、私たちを贖ってくださっただけでなく、ご自身の生涯を通して、神のみこころに沿った人の生き方を示してくださいました。イエスは私たちの救い主、そして先駆者です(ヘブル6:20)。彼はいかなる状況下にあっても、常に神に従う生き方の模範となってくださいました。

 罪の赦し、御霊の満し、そして神が与えてくださったすべての恵みはすべて、私たちが神の子に似た者に変えられるという、神の最終的な目標を達成するためのものです。私たちがその神の永遠の目的に焦点をあてると、神のみことばを正しく理解できます。

 聖霊の主な働きは二つあります: 

 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(2コリント3:18)

 聖霊は常に、聖書(鏡)の中で主イエスの栄光を私たちに示し、そして私たちをそのイエスに似た者へ変えてくださいます。

 すべての主権者でおられる父なる神は、私たちのすべての状況をこの目的に従わせられます。

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めたれたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28、29)。

 神は、私たちに与えてくださる聖霊と共に力を注いで、人生に起きるすべての困難や状況を通して、私たちをより一層イエスの似姿に作り変えてくださいます。

 このようにして私たちが主の性質にあずかると、私たちは主が歩まれたように歩むことができます。これが霊に満ちた人生です。

 イエスは御使いとしてではなく、私たちのような肉体を持って、人として地上に来られました。聖書は、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」といっています。(ヘブル2:17)(イエスの弟子が彼の兄弟です-マタイ12:50)

 もし、イエスが私たち(彼の兄弟たち)と全く同じように造られていなかったら、彼は私たちの模範になり得なかったでしょう。例えば、重力を経験したことのない御使いは、私たちに彼らのように漂う術を教えることはできません。

 ましてや、無限の神が「私に従いなさい」とお命じになっても、限界のある私たちは従うことができません 。

 パウロもイエスのように生きることは不可能だったはずであり、「私がキリストに従ったように私に従いなさい」という1コリント11:1の言葉も無意味になってしまいます。私たちはキリストの生涯を誉め称えても、決して従うことはできなかったことでしょう。

 しかし、キリストが私たちと同じ肉体を持って来られ、その肉の限界を経験されて、私たちが従うべき模範となってくださったのは本当に素晴らしいことであり、神に感謝します。聖い人生を送られたのは、このイエスという人です。ですから、私たちもイエスのように歩むことができるはずです。(1ヨハネ2:6)

 神は、世で人として暮らしておられたイエスにお与えになった御霊を、弱く未熟な私たちにも与えてくださいます。「神はイエスを愛したように私たちを愛しておられる」(ヨハネ17:23)ので、神は喜んで私たちにも同じことをしてくださいます。

 しかし、聖霊の力は「信じる者」にのみ働きます(エペソ1:19)。ですから、多くの信仰者が今日、罪とサタンに対して全く無力であるのは、神のみことばを信じていないからです。「罪を犯されなかったイエスの足跡に従う」(1ペテロ2:21、22)よう召された私たちに、サタンは「人間は度々罪を犯すものだ」いう言い訳を持ち出します。

 しかし、イエスが私たちと同じ肉体で世に来られ、罪を犯されなかったという事実に目を向ければ、私たちの中に以下の二つのことが起こります。

⒈ 罪に対する言い訳をしない

⒉ イエスのように罪に打ち勝って生きることができると信じる

そして、以下のパウロの祈りは私の祈りでもあります。

 「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あたながたの内なる人を強くしてくださいますように。」(エペソ1:17, 3:16)

 キリストに関する完全な知識を通してのみ、私たちは聖霊の力を知ることができます。イエスは霊に満ちあふれた人の完全な模範です。彼が実際、この地上でどのように生きておられたかを見れば、霊に満ちた人生を必ず理解できるでしょう。

 章 2
へりくだって生きる

私たちは、創造物の素晴らしさに神の偉大さを見ることができます(詩篇19:1)。宇宙は広大で、人間の頭脳では把握することはできません。銀河は、数十億光年離れて、宇宙全体に広がっています。同時に、この宇宙の物質の各ビットは原子で構成されていて、非常に小さくて肉眼では見えず、またその中で何百もの電子が回転しています。私たちの神はなんと素晴らしい方でしょう。

 しかし、イエス・キリストの弟子にとっての神の偉大さは、これらの宇宙の不思議よりも、むしろ神の子であるご自分を無にして、私たちのような堕落してしまった人間と同じ「人」となって世に来てくださったという、イエスのへりくだった姿です。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」とヨハネは言いました(ヨハネ1:14)。そして、私たちは次のように続けることができるでしょう-「その栄光は、創造物に見る神の栄光をはるかに上回っています。」

 天の偉大な王である神が、人としてこの地上に来られました。彼は全く高ぶることなく、真にへりくだり、あらゆる点で私たちと同じ姿になられました。主イエスが起こされたすばらしい奇跡よりも、彼のへりくだった姿に現れる主イエスの栄光は、はるかに優れています。

 聖霊が私たちに語っておられるのは、特にこのへりくだりの道であり、私たちは日々その道を学ぶべきです。これが「イエスに従う」ということです。

 イエスは、人として聖く愛に満ちた人生を生きる前に、まず、ご自分を低くされました。イエスが取られた最初のステップです。そして、それは私たちにとっても同じです。

 神は、イエスが地上に来られる何千年も前に、知恵と美しさにおいて完璧なルシフェ(イザヤ14:12 英語聖書参照)と呼ばれる御使いを創造し、彼を御使いの長として任命されました。しかし、ルシフェは高慢になり、与えられた地位に満足できず、さらに上へ上ろうとしました。(エゼキエル28:11-17;イザヤ14:12-15)

 このようにして、ルシフェは神の被造物に罪をもたらしました。そして神はルシフェをすぐによみに落とされ、彼はサタンになりました。したがって、高慢はこの宇宙のすべての罪と悪の根源です。

 アダムが罪を犯した時も、彼に邪悪な自尊心が入りました。

 アダムのすべての子はこの高慢と共に生まれます。

 この毒から人を贖いだすために、イエスは無になられました。

 罪はルシフェの高慢に端を発していますが、私たちの贖いはイエスのへりくだりから得られます。キリストのへりくだりとキリストの心を持つこと、これらは私たちの霊的な成長にとって欠かせない要素です。

 天の栄光から地上にイエスが来られたこと自体が、イエスのへりくだった御姿の素晴らしい表れです。しかし、聖書はさらに次のように言っています。

 「人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし」(ピリピ2:8)。

 「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」(ヘブル2:17)

 イエスは神の御前にすべての人と同じ姿になられました。神がすべてになるために、彼は無になられたのです。これが本当のへりくだりです。

 世俗的な栄光は、人の立場、富、業績、家族の地位などによって測られます。しかし、イエス・キリストに見られる神の栄光はそれらとは全く違います。

 イエスはご自分が生まれてくる家族を選ぶことができた唯一の人物です。しかし、私たちにはそのような機会がありません。では、イエスはどの家族をお選びになりましたか。ナザレと呼ばれる場所に住む無名の大工の家族です。町の人々は「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とさえ言っていたところです。 (ヨハネ1:46)。またヨセフとマリヤは、全焼のいけにえのための子羊を買う余裕がなかったほど、貧しい暮らしをしていました(ルカ2:22-24とレビ記12:8を参照)。

 さらに、イエスはご自分が生まれる場所も選ぶことができたお方です。そうでありながら最終的に選ばれた場所はどこでしょうか。イエスは家畜小屋の飼い葉桶を選ばれました。

 では次にイエスの家系図に注目してみましょう。

 マタイ1:3-6にあるように、四人の女性の名前がイエスの家系図にあります。最初は、タマルで義父のユダとの間に息子をもうけた女性です。 二番目のラハブはエリコで有名な売春婦でした。 三番目のルツは、ロトが自分の娘と姦淫した結果生まれたモアブの子孫です。 四人目はダビデが姦淫を犯したウリヤの妻バテシバでした。

 なぜイエスはそのような恥ずべき家系をお選びになったのでしょうか。それは、アダムの堕落した子孫と同じになるためでした。そこにもまたイエスのへりくだった姿があります。イエスは立派で誇らしい家族や系図など望んでおられませんでした。

 イエスは、私たちと変わらない「人」となられました。イエスにとって人種、家族、生活の中での地位などに関係なく、人はみな同じであるので、彼は自ら社会階層で最も低い者となられました。彼はすべて人のしもべになるために、すべての人の下に身を置かれました。他の人を高く上げることができるのは人の下に来る者だけです。そのようにして、イエスはこの世に来られました。

 聖霊は私たちの心の一新を通して私たちを変えてくださいます。(ローマ12:2)。 そして、真のキリストのようなへりくだりの種は、私たちの思いや考えの中に蒔かれま す。

 自分自身をどう捉え、また人と自分をどう見比べているかという点で、自分がキリストのように変われたかどうかを判別するのは、人前での言動ではなく、心の内にある思いや考えです(自分一人の空間で)。

 純粋に「人を自分よりもすぐれたもの」(ピリピ2:3)、または自分は「すべての聖徒たちのうちで一番小さい」(エペソ3:8)と思うことができるのは、自分を誰よりも劣った者だと捉えている人だけです。

 イエスは一人の人として、いつも神の御前に無となられました。ですから、父の栄光は完全にイエスの中に満ちていたのです。そして、イエスは父が彼の人生で命じられたことをすべて喜んで受け入れ、父のすべての戒めに心から従われました。

 「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピへの2:8)。

 神への完全な従順さは、真のへりくだりの紛れもない表れです。これほど明確な指標はありません。

 三十年間、イエスは未熟な両親に従われました。なぜなら、それが父のみこころだったからです。イエスは、ヨセフとマリヤよりはるかに多くのことをご存知でした。また、彼らとは違って、罪を犯されたことはありませんでした。

 普通、人が知的または霊的に自分より劣っている人に従うことは容易ではありません。しかし、真のへりくだりの心があれば、それは可能です。神の前に自分は何ものでもないと本当に自覚している人にとって、神が自分よりも上の立場に置かれた人に従うことは難しいことではありません。

 イエスは華やかな職業ではなく、大工の仕事を選ばれました。 そして、イエスは公に宣教に出向く時も、ご自分の名前には、「牧師イエス」、「イエス牧師」などの特定の接頭辞や接尾辞をつけられませんでした。イエスは、仕えるべき一般の人々の上に、ご自分を持ち上げるような世俗的格付けや地位などを嫌っておられたからです。

     「聞く耳のある人は、聞ききなさい。」

 群衆がかつてイエスの後に群がり、イエスを彼らの王にしようとした時、彼はひとりで山へ退かれました。なぜなら、イエスはただ一人の人の息子として知られている他、何も望んでおられなかったからです。

 イエスは決して、人からの名誉をお求めになりませんでした。彼は人に無視され軽蔑されても、天の父の御前に生きることを心から喜ばれました。天の父に喜んでもらうことだけが彼にとっては大切なことでした。

 イエスが人々を癒したり、彼らの間で奇跡を行ったりする度に、癒された人々に誰にも言わないようにと強く忠告されました。なぜなら、彼は霊に貧しく哀れな人々を憐れみ癒されたのであって、ご自分の宣伝活動をしておられたわけではなかったからです。ヤイロの娘を死からよみがえらせた時でさえ、彼はそれについて誰にも言ってはならないと厳しく注意されました。(マルコ5:43)イエスがこの地を去った後初めて、彼の人生の記録が使徒たちによって公になったのです。

 イエスが十字架につけられる前の最後の夜に、弟子たちの足をお洗いになりましたが、それはイエスの生涯の真実をすべて語っていました。彼はすべての人のしもべとなられたのです。イエスは他の誰かが洗うのを待つのではなく、すぐに弟子たちの足が汚れているのに気づき、たらいを持ってきて足をお洗いになりました。そのイエスのお姿は、人々へ仕え続けた彼の生涯の象徴です。イエスは、何かを頼まれるまで待つお方ではありません。彼は必要性を見つけると直ちに、行動に移されたました。

 イエスは社会の最下層の人々とも触れ合い、彼らと同じように行動を共にされていたことも事実です。そして、イエスは罪のない完全な方でしたが、周りの不完全な人々に不快感を与えたことは一度もありませんでした。彼が弟子たちと一緒に移動していた時も、イエスは高慢になられませんでした。 

 イエスは弟子たちと気軽に接しておられたので、彼らは自由にイエスを諌めたり、助言を与えることさえできたのです。(マタイ16:22;マルコ4:38; 9:5)。

 また、イエスが弟子たちとの交わりを祈り求めていた場面でも、イエスのへりくだり見られます。ゲッセマネの園で、彼の魂は「死ぬまで深く悲しんでいた」ので、彼はペテロ、ヤコブ、ヨハネに一緒に祈るよう頼まれました。(マタイ26:38)この時イエスは、ご自分の肉の究極の弱さをよく理解しておられたので、祈りの中で弟子との交わりを切にお求めになったのです。

 私たちは、自分の無力さを認められるほど正直者ではないので、私たちを通して現れる神の力も限られてしまいます。しかし、イエスはこのようにして、私たちに肉の弱さ、そして人間の無力さを認めるという、へりくだりの道を教えてくだいました。イエスはご自身を低くされたので、神は全世界で最も高い位置にイエスを引き上げられました(ピリピ2:9)。私たちがへりくだりの道に沿って歩めば歩むほど、栄光に輝くイエスの座の右と左により近づくことができます。

 イエスは生涯を通じてへりくだりの道を貫かれました。

 彼は天から降りて来られ、十字架にかけられるまで常にへりくだり、一度も逆方向に、上に向かって上ろうとはされませんでした。

 今日、世界を動かしている霊は二つだけです。一つは、一般社会であろうとキリスト教世界であろうと、人々に上へ上るよう促すサタン(ルシフェ)の霊と、イエスのように身を低くすることを導くキリストの霊です。とうもろこしの穂のように、イエスはその身を低くされましたが、まさにこの性質にあずかっている人がイエスの真の弟子である証しです。

 イエスのへりくだりは彼の死のなかにも光り輝いています。イエスがお受けになった試練ほど、不当なものはないでしょう。それでも、彼は沈黙の中で、侮辱、不正、嘲笑に耐えその身を捧げられました。 イエスは敵をのろったり、復讐を盾に脅かしたり、御使いの助けを求めたりされませんでした。 彼は神の子としてのすべての権利を完全に放棄されました。

 「握りこぶし」は人間の性質の象徴であり、自分の権利、権力、所有物を保持したいという願望と、攻撃されたときに反撃したいという願望の両方を意味します。

 一方、イエスは喜んで手のひらを開き、十字架の釘をお受けになりました。 彼の手のひらは常に開き、ただ人々に与え続け、 ついに彼は自分のいのちさえもお与えになりました。 これが真のへりくだりの姿です。 そして、これは神が望まれた人のあり方です。

 神のご性質を現したいと願うイエスの弟子は、何も言わず不正に苦しむことも甘んじます。

 聖書は言っています。

「あなたが正しいことをしたのに、不当な苦しみに耐えなかればならない場合、それは神に受け入れられ喜ばれることです。あなたがたはこのためにさえ召されているのです。…それは召命から取り除くことはできません。 キリストもまた苦しみを受けられました。あなたがたが彼の足跡をたどることができるように模範を示してくださいました。…イエスは罵倒されて侮辱された際、彼らに同じように反撃はしませんでした。 彼が虐待されて苦しまれた時も、彼は復讐しませんでした。 しかし、イエスは彼自身とすべてを正しく裁かれる神を信頼し、全てをその方に委ねられました。」(1ペテロ2:20-23 詳訳聖書)。

 イエスはへりくだった方であったので、一度も人を裁かれたことはありません。神だけがすべての人を裁くことができる方です。ですから、他の人を裁く人は、神の地位を自分の物にしようとしていることになります。しかし、イエスはこの世におられた時に「私はだれも裁かない」と言われました(ヨハネ8:15)。 彼はすべての裁きを御父に委ねられました。ここにも彼のへりくだりの美しさがあります。イエスは父がご計画された屈辱的な死にさえも、進んで従われました。十字架の刑を計画し実行した人々の策略よりも、彼は父の御手にある意図を理解し、「父が下さった」杯を喜んで飲まれました。(ヨハネ18:11)「実に十字架の死にまでも、従われたのです。」(ピリピ2:8)

 これが聖書が語るイエスの本来の姿です。現代の伝道者たちの姿とはまったく異なります。また、イエスは有名人や映画スターのように、名誉名声を望まれませんでした。しかしながら、彼は人々に軽蔑され拒絶されました。そして、イエスの時代の世は彼を十字架に釘付け、彼を追い払ったのです。 今日のキリスト教界も例外ではありません。弟子は主人の上に来ることはありません。人気を集めたり、世の名誉を獲得しようとするキリスト教は偽りです。イエスの生涯(誕生から死まで)は、「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれます。」というみことばの事実を示しました(ルカ16:15)。

 イエスは言われました、「わたしは心優しくへりくだっているから…わたしから学びなさい」(マタイ11:29)。

 イエスが弟子たちにご自分から直接学ぶよう求められたこと、それはへりくだりです。そして、私たちも学ぶべきことです。

 章 3
聖さに生きる

神は光であり愛です(1ヨハネ1:5; 4:8)。

 神は近づくこともできない光の中に住んでおられます(1テモテ6:16)。神は聖なる方なので、私たちも聖く生きるよう求められています。

しかし、私たちはその聖さを、試練を通じてのみ得ることができます。善悪の知識すらない、純真なままのアダムを神は創造されました。神はアダムが聖い者でいることを望まれたので、彼を試されました。

 善悪の知識の木は神によって造られたものであり、それ自体は悪ではありませんでした。それは、神が造られ「非常によかった」と表現されたその世界の中に存在していました(創世記1:31)。この木はアダム自身が誘惑と戦うことによって聖い者でいるチャンスを与える「非常によい」木だったのです。

 誘惑や試練を通して、私たちは少しずつ神の神聖さにあずかり(ヘブル12:10)、神の「完全」なご性質に近づくことができるので(ヤコブ1:4)、聖書は、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)と述べています。

  私たちがイエスの神聖さを見る時、神としての神聖さを見るべきではありません。なぜなら、それは私たちが見習うことができないからです。 「すべての点で兄弟たちと同じように」なられ、そして「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」人としてのイエスを私たちは見るべきです(ヘブル2:17; 4:15)。

 イエスは私たちの先駆けとなって(ヘブル6:20)、私たちが走らなければならない同じ競走を走り、私たちが従うべき道を築いてくださいました。その上で、イエスは私たちに「私についてきなさい」と言われました(ヨハネ12:26)。 そして、私たちがそのイエスを見れば、私たちも気を落としたり、疲れ果てることなく、忍耐強く走り抜くことができます(ヘブル12:1-4)。

 イエスは、私たちと同じように、あらゆる点で試みを受けられ、どんな人にも起こりうる、すべての誘惑や試練に耐えられました。これはヘブル4:15に明確に書かれてあり、私たちにとっては大きな励ましです。今日、私たちたちは父から聖霊の力が与えられますが、イエスも同じ聖霊の力で一人の人として、すべてを克服されました。

 サタンはいつも人に、神の律法は重荷であり、それに従うことは無理だと主張します。しかし、イエスは人として来られて神に完全に従い、そのサタンの偽りを暴かれました。もし、イエスが経験されなかった克服すべき試練や従うべき神のみことばがあるならば、その時点で私たちは罪の言い訳をすることができます。また、イエスが肉の弱さを持たず、神としての偉大な力で完璧な人生を送られたとしたら、私たちは彼に従うことは不可能であり、望みはなかったでしょう。しかし、イエスは世の人としての生涯を通して、神が私たちに与えてくださる聖霊の力は、私たちが神の律法を満たすのに十分であることを示してくださいました。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)。

 私たちが聖霊の力によって罪に打ち勝ち、神に喜んで従うことができるということを、神は罪のないイエスの人生を通して明らかにされました。 私たちがイエスにとどまるならば、私たちは「キリストが歩まれたように歩む」ことができます(1ヨハネ2:6)。

 イエスは、誰もが毎日直面するすべての誘惑を経験され、それらの試練を乗り越えた後、父によって引き上げられました。 これはすべて、イエスが私たちのリーダー、そして大祭司となるためでした。(ヘブル2:10、17、18; 5:7-9)。 どのような状況においても、イエスは、罪を誘発する肉の欲望に苦しみ、ご自分を捨ててそれと戦い、打ち勝っておられました。

 聖句は次のように、イエスは私たちの模範であると言っています。

 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」(1ペテロ4:1,2)

 イエスは、死まで従うという彼の生涯を通して、一点でも神に従わないよりも、どんな苦しみにも耐えることの方が幸いであることを示されました。

 すべての罪の本質は、自分の意志を行うことにあります。しかし、人間の聖さの本質は、自分の意志を否定し、神の意志を行うことにあります。 これがイエスの生き方です。

「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。… わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。…わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(ヨハネ5 :30; 6:38;マタイ26:39)。

 イエスは、たとえ激しい苦しみを伴っても、人としてのご自分の意志を永遠のささげものとして父にお渡しになりました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)。

 イエスはゲッセマネで三人の弟子に、人の肉は弱いので試練を克服するために、ただ目を覚まして祈りつづけなさいと(神からの助けを求める)忠告されました。そして、イエスご自身も祈り克服されました。

 イエスはゲッセマネに行く直前に弟子たちに、父が彼らに聖霊を「助け主」として与えてくださるため、(ヨハネ14:12、 16)彼らもイエスと同じ働きができる日がすぐに来ると言われました。

 イエスは、私たちを奇跡を起こす者にするためではなく、私たちを聖い者にするために来られました。イエスの行いは 聖さと父への従順から来る行いであり、私たちも同じ行いができることを約束してくださいました。イエスは聖霊に満たされた人として、すべてのわざを成し遂げられました。

 ペンテコステの日に弟子たちが聖霊に満たされた時、彼らもイエスのように従順の働きを行う力を受けました。 イエスが世におられた間、彼らは病人を癒し、死者をよみがえらせ、悪霊を追い出す力を受けましたが(マタイ10:8)、罪を克服する力はありませんでした。 そのため、彼らはペンテコステの日に聖霊に満たされるまで待たなければなりませんでした。

 私たちが聖霊に満たされることは「イエスがなされたわざ」、つまり「神のみこころ」を行うことができるということです。(ヨハネ4:34)

 これは神が新約において私たちに与えてくださった素晴らしい生き方です。

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3,4,)

 イエスが試みに会い、それらを克服されたということは、私たちが従うべき道をご用意してくださったということです。この道は、ヘブル10:19、20で「新しい生ける道」と呼ばれています。

「私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために新しい生ける道を設けてくださったのです。」

 神の栄光が満ちたのは神殿の聖所でした。私たちがイエスに従うために開かれた道はこの聖所へと通じています。そして私たちはイエスの神聖さにあずかります。イエスは、肉という幕からそこへ入られた先駆者であり(ヘブル6:20)、私たちは今、そのイエスにならって同じ競争を走り抜かなければなりません。(ヘブル12:1、2)。

 幕は私たちの主により、たった一度で引き裂かれたので、私たちは自分で幕を引き裂く必要はありません。しかし、私たちは引き裂かれた幕としての十字架の道、つまり肉の思いに対して死ぬとともに、イエスに従わなければなりません。

 イエスの人生は神の神聖さの栄光で輝いていました。他に方法はありません。私たちがこの「イエスの死」を私たちの肉にも適用するならば、聖い「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」でしょう(2コリント4:10)。

 私たちの内におられる聖霊は、イエスを導いたように、常に十字架の道に沿って私たちをも導き、私たちをますますイエスの聖さに近づけてくださいます。聖霊がイエスと共におられたように、イエスに従うすべての人も助けてくださるのです。

 イエスは、ご自分のいのちを私たちにも授け、私たちを神の性質にあずかる者にしようとこの世に来られました。

「イエスの、神としての御力、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」(2ペテロ1:3、4)

 神は、私たちをこの地上で罪のない完璧な人間にすると約束されたわけではありません。もちろん、私たち完全な者になることを目指すべきです。ですが、私たちは意識的な罪には打ち勝つことができます。

 イエスは私たちと同じように、あらゆる点で誘惑されました。私たちはまず、思考において誘惑を受けます。そして、それはイエスも同様に経験されたことです。しかし彼は決して罪を犯されませんでした。ですから、私たちは思考においても罪を克服することができるはずです。

 イエスの説教はとても純粋なものでした。汚い言葉や怠惰な言葉は彼の口から出たことはありませんでした。また、イエスはいつも真実を語り、彼の口には偽りはありませんでした。 また、財産(必要以上の)の増やし方などの話にイエスを誘う人は誰一人いませんでした。なぜなら、イエスはそのような話題に興味を持っておられなかったからです。イエスの心は世のものではなく、上にあるものに向いていました。もちろん、彼は生活の為に必要な物資を用いておられたはずです。しかし、彼はそれらに全く執着されませんでした。

 イエスの聖さは内面にあります。それは、食生活、服装、または組織活動に現れるような外側の敬虔さではありません。また彼は、禁欲的でも隠者でもありません。彼は労働の世界の真っ只中に住み、社会一般の人と同じ身なりをし、普通に食べたり飲んだりして(ルカ7:34)、神がこの世界で楽しむために人に与えてくださった良いものを楽しんでおられました(1テモテ6:17。)しかし、四十日間の断食の後でも、神としての力で石をパンに変えないように自分を制し、食欲に決して甘んじることはありませんでした。イエスは宗教家だけでなく、罪人とも交わりもっておられましたが、常に聖さを保っておられました。このようにイエスの神聖さは内面的なものです。

 イエスが避けておられたのは罪だけではありませんでした。彼が手伝わなければならない父の家業をおろそかにしてしまうような、何も益にならない快楽も拒まれました。 (1コリント6:12)。

 イエスの聖さは、神のみことばを黙想する生活から生まれました。御霊の光を求めてみことばについてじっと考え、それらに思いを巡らして暮らしながら、一二歳までにすべてのを聖句を完全に習得されました。

 御霊の啓示だけを求められたイエスは、神学を学んだ学者以上にみことばを知っておられました。イエスは聖書学校や神学校に行かれたことはありません。 モーセ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、洗礼者ヨハネなどの旧約時代の真の預言者たちと同じように、彼は天の父の御手の下で学ばれたのです。もう一度言いますが、聖書に出てくる真の預言者たちは誰も聖書学校や神学校を出ていません。それをよく覚えておいてください。

 イエスはみことばを学び、それに従われました。これは彼にとってサタンとの戦い(マタイ4:1-11)だけでなく、宣教においても強力な武器となりました。イエスの説教は律法学者が公言していた当時のならわしに相反するものでしたが、権威をもって説教しておられました。

 彼はパリサイ人の偽善と世俗性を暴き、彼らが教義的原理主義にもかかわらず、ゲヘナの刑罰は免れないと彼らに告げられました(マタイ23:33)。同時に、彼はサドカイ派が保持していた教義上の誤りと(聖書の)誤った解釈を明らかにしました(マタイ22:23-33)。

 イエスは名誉のために説教をされていたわけではありません。彼は、真実を少しでも疎かにするよりも、むしろ拷問と苦痛を喜んで受け入れることをお選びになりました。彼にとって「平和が一番」ではありませんでした。彼の敵でさえこう言いました。「あなたがたいへん正直なお方で、だれをも恐れず、また人をえこひいきもなさらず、いつも堂々と真理を教えておられることは、よく存じ上げております。」(マタイ22:16-)

 イエスの神聖さは、神の家の神聖さに対する熱心な思いにも見られました(ヨハネ2:14。)イエスが神殿に入られ、人々が宗教の名の下にお金を稼いでいるのを見られた時、イエスは怒りを覚え、彼らを追い出されました。

 聖書は私たちに、たとえ怒りをおぼえても罪を犯してはいけないと言っています(エペソ4:26)。ローマの兵士がイエスを殴り、ピラトの前で彼を鞭打ったとき、彼は辛抱強く耐えておられました。イエスはご自身に関わることには一度もお怒りになったことはありません。そのような怒りは罪に値するからです。しかし、それが神の家の神聖さに関する場合、そうではありません。そこでは、怒りを控えることは罪だったでしょう。

 この場面で、イエスはご自分が「ついに自制心を失い、肉の思いに屈した」と人々に誤解されることも恐れず、鞭を使って彼らを追い払われました。イエスが人の顔色を窺われるようなことはありませんでした。また、イエスは剣をもたらすために来られ(マタイ10:34)、それを惜しみなく用いられ、分裂をもたらしました。しかし、このようにして父の栄光が現れたのでした。

 イエスの人生は、この世界がこれまでに見た中で最も美しく、最も正しく、最も平和で、最も幸せな人生でした。これは彼の完全な従順によるものです。

 宇宙に構造を物理的に考えてみましょう。星や惑星は宇宙の完璧な構造の中で動いているので、私たちは時間をマイクロ秒単位で正確に設定することができます。それらの正確性によって、天文学者は未来の特定の日付の星や惑星の位置を計算できます。そのような完璧な宇宙の仕組みに隠された秘密は何でしょうか。

 それはただひとつです:星や惑星が創造主である神の意志に正確に従い、彼らのために定められた軌道の上で、また、彼らのために設定された速さで動いているということです。

 神への従順には、常に完全さと美しさが伴います。そして、神への不従順には、混沌と醜さが伴います。

 星でさえ、神のみこころが私たちにとって最善であり、決して重荷ではないと無言で証ししています。

 イエスの人生も、今だけでなくやがて来るいのちにおいても、神聖さは有益であることを証ししました(1テモテ4:8)。神を恐れる人ほど、幸せで平和で、満ち足りた生き方ができるのです。

 主を恐れることはいのちの泉です(箴言14:27)。そしてイエスは「ただ主をいつも恐れていよ。」というみことばに従われました(箴言23:17)。イエスはへりくだって、いつも神を恐れておられたので、天は常に彼の上に開かれ、神は彼の祈りを聞かれました(ヘブル5:7)

  イエスはある時「私は父を敬っています。」(ヨハネ8:49-AMP)とも言われました。そして、彼はご自分の人生を通して「主を恐れることは知恵の始まりである」(箴言9:10)という聖句の真意を示してくださいました。

 イエスの祈りは、彼が神の子であったからではなく、神を恐れるそのへりくだった姿勢があったからこそ聞かれたのです(ヘブル5:7)。

 イエスは聖霊の喜びと権威、つまり「喜びの油」を注がれた方でした。それは、イエスが神の子であったからではなく、義を愛し罪を憎んでおられたからです(ヘブル1:9)。神は、清く正しい人にご自分を委ねられます。これが霊的権威の奥義です。

 しかし、イエスの時代の宗教的な世界は、神がみこころとされたイエスの神聖さを受け入れませんでした。イエスは彼らの罪を恐れることなく指摘されたので、イエスの神聖さは彼らの憎しみを引き起こしました(ヨハネ7:7)。そして、イエスはユダヤ人の宗教指導者による敵意、拒絶、憎しみ、批判、非難、そして最終的には死そのものに苦しまれました。なぜならイエスが神聖さを説いたからです。

 もし、イエスが単に聖い生活を送っていたら、彼らはイエスを十字架につけなかったでしょう。しかし、イエスは彼らの偽善を非難し、説教を通して彼らの罪を明らかにしました。したがって、彼らはイエスを黙らせようと決めたのでした。

 イエスは次のように言われした。「その裁きにあったのは、天からの光が世に来ているのに、行いが悪く、光りよりも闇を愛したからです。彼らは天からの光りをきらい、罪が暴露されるのを恐れて、光りのほうに来ようとしません。」(ヨハネ 3:19、20リビングバイブル)

 今日の「クリスチャン」の宗教世界もまったく同じです。弟子は主人にまさることはありません。私たちが聖さを求めて歩めば、生ぬるいクリスチャンの歓喜に引き込まれることはありません。 「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」-時と場所に関わらず(2テモテ3:12)。そして、その迫害は、イエスご自身が経験されたように、主に宗教の社会から始まります。

「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(ヘブル13:13)。

 章 4
愛に生きる

私たちは、神が光であり愛でおられることを見てきました。光と愛に満ちた主イエスは、神の栄光で輝いています。光と愛は切っても切れない関係にあります。神聖さは愛に満ちており、本当の愛は純粋です。

 信仰者が神聖さを主張しながら、神の愛を現せていないないならば、それは真の神聖さではなく、パリサイ人の「義」です。一方、すべての人を愛するという人が、聖く正しく生きていないなら、ただの脆い感情を神聖な愛と取り違えているだけです。

 パリサイ人の「義」は堅苦しく冷淡で、彼らは忌まわしい骸骨のようなものです。彼らはある程度の真理は知っていましたが、すべてがねじ曲げられ誇張されていました。

 しかし、一方イエスはすべての真実をご存知でした。むしろ彼はパリサイ人よりも、神の律法のすべてに立ち向かわれました。イエスはパリサイ人のようなただの骸骨ではなく、神が望まれたように、彼の骨はすべて肉で覆われていました-光は愛に包まれていました。彼は真理を話す時も愛をもって話されました。(エペソ4:15)。彼の言葉には権威があり、恵みがあふれていました(ルカ4:22、36)。

 このイエスのご性質こそ、聖霊が私たちに期待しておられることです。

 神は愛です。それは、神がただ心優しいお方だという意味ではありません。神は神の本来の愛の中におられます。イエスに見られる神の栄光が、これをはっきりと表しています。イエスは、ただ人々にやさしく振舞っておられただけではありません。彼は「良いわざ」をするために出て行かれました(使徒10:38)。しかし、それは神の愛がイエスの全存在に満ちあふれていたからです。

 愛は、人の内側にある聖さや謙遜さからはじまります。 いのちの川も、霊に満ちた人の心の中から流れます(ヨハネ7:38、39)。 私たちの考えや思いは(たとえ表現されなかったとしても)言動、性格などにに現れます。 周りの人はそれを容易に感知できます。

 ですから、 他人に対する私たちの考えが、利己的で批判的ならば、愛の言葉や行いは何の価値もありません。 神は「心のうちの真実」(詩篇51:6)を望んでおられるからです。

 イエスはすべての人間を高く評価し、それゆえ、すべての人を敬っておられました。敬虔で教養があり、知的な人を尊重するのは簡単です。普段、私たちはキリストにある仲間の信仰者を愛する時、私たちはなにか大きなことをしたかのように感じるでしょう。

 しかし、神の栄光は、すべての人に対するイエスの愛に見られます。イエスは、貧困、無知、醜さ、教養の欠如などによって、誰一人見下されることはありませんでした。全世界とそこに含まれるものは、一人の人間の魂ほどの価値はない(マルコ8:36)と述べられたように、イエスにとって、一人一人の人間は大変尊い存在であり、すべての人が彼にとって喜びでした。イエスは人がサタンにだまされ、とらわれの身となっているのをご覧になり、彼らが自由になることを心から望まれました。

 自ら究極の代償を払ってでも、人々を罪から解放し救ってあげたいというイエスの強い思いは、まさに神の愛でした。それゆえ、イエスは人々に対して罪について力強く説教されたのです。

 私たちが罪を説教していながら、自分の罪を裁かず克服しようとしない場合、または人をその罪から救うために自分を捨てることができない場合(必要不可欠な際に)、私たちには罪を説教する権利はありません。これが「愛をもって真理を語る」という意味です(エペソ4:15)。

 神の栄光のために実を結ぶよう人々に促すことは、愛の温かみです。北極と南極にはたくさんの光がありますが、気温が低いのでそこでは何も育ちません。

 イエスは人と物の相対的な価値をはっきりと見ておられました。彼は人々は愛される存在であり、物は使われる存在であることをご存知でした。罪が世に邪悪な影響を及ぼし、すべてが逆転して物は愛され、人々は(個人の目的のために)使われる存在になっています。

 イエスは、物よりもはるかに尊い人間をとても愛しておられたので、一人一人を理解され、望まれた存在であることを伝えられました。イエスは彼らの重荷を分かち合い、虐げられた人々に親切な言葉を、そして人生の戦いで挫折した人々には励ましの言葉を与えられました。イエスにとって、誰もが価値のある人間であるので、粗雑で横暴な人であっても、彼らは贖われるべき存在です。

 一方、イエスは物に関して全く興味を持っておられませんでした。物は人のために使用されないならば、何の価値もありません。もし、近所の子供がイエスの大工小屋に足を踏み入れて、高価なものを壊したとしても、イエスにとっては、子供は壊れた物よりもはるかに尊い存在なので、何も問題ではありませんでした。イエスは、物ではなく人を心から愛しておられました。物はあくまで人々を助けるためのものです。

 聖霊は私たちの心を新たにし、「神の視点から物事を見る」ように私たちを変えてくださいます(コロサイ1:9 フィリップス現代英語新約聖書)。人を愛するということは、私たちが神と同じように、思いやりを持ってその人を見るということです。

 神は高らかに歌ってご自分の民を喜ばれます(ゼパニア3:17)。そして、神の霊に満たされておられたイエスは、天の父とともに神の子たちを喜んでおられました。心を新たにされたすべての人は、神の視点から人々を見ることができます。

 人々へのイエスの思いは、常に愛に基づくものであり、変わり者、横柄な人といった批判的な見方は決してイエスにはありませんでした。そのため、イエスは常に豊かな御霊の香りを放っておられました。「そして人々は彼に喜んで聞きいった」(マルコ12:37-KJV)。これが、私たちが聖霊に満たされている時、神が私たちの心に注いでくださる愛です(ローマ5:5)。

 イエスは常に、病人、貧しい人、空腹の人、導く人のいない途方にくれた人々に憐れみの心を持っておられました。イエスは彼らの痛み、苦しみをご自分のものにされ、彼らを励まされました。私たちは、人の痛みや苦しみを自分に当てはめた時に、その人を慰めることができます。イエスは人々の状況の中にご自分を置き変え、その問題を理解し、人々の言葉の背後にある彼らの心情を敏感に読み取っておられました。そしてイエスは、苦しんでいる人への思いやりがない、無情な人々をご覧になった時、大いに悲しまれました(マルコ3:5)。

 人間関係においてイエスは絶えず、ご自分を否定しておられました。彼は、ご自分に対する人々の言葉や振る舞い、また、人の善意による行動の失敗などに腹を立てられたことはありませんでした。なぜなら、彼は人に何も望んでおられなかったからです。イエスは仕えられるために来られたのではなく、仕えるために来られました。

 イエスは、毎日十字架を背負っておられたので、人の無礼さ、鈍さ、雑さ、不注意などによって苛立たれることはありませんでした。完全な人は、不完全な人に寛容になれます。不完全な人だけが他人の不完全さに耐えられません。忍耐は、人々への愛の大きな現れの一つです。

 イエスの愛の栄光が、彼の説教の中にも輝いています。

 イエスは決して他の人を軽蔑したり、彼らを傷つけるような発言や冗談を決して言われませんでした。勿論、イエスは弟子たちの背後で彼らの欠点について話されたことはありません。 三年間、イエスが他の十一人の弟子の前で、ユダの本来の姿を暴かれず、最後の食卓でさえ、十一人の弟子が誰が主を裏切るのかを全く推測できなかったことは本当に驚くべきことです。

 イエスはご自分の口をいのちに導く道具として、人を励ますために用いられました。彼は疲れた人をなだめようと話しかけ(イザヤ50:4)、また剣のように高慢な人を鋭く叱責されました(イザヤ49:2)。

  ローマの百人隊長とスロ・フェニキアの女性はイエスに自分の信仰を褒めてもらった時、どれほど勇気づけられたことでしょう(マタイ8:10; 15:28)。愛を賞賛された罪深い女性(ルカ7:47)と、捧げ物を賞賛されたベタニヤのマリヤ(マルコ14:6)も、イエスの言葉を決して忘れなかったことでしょう。自分のために祈ってくださるというイエスの約束は、わずかな言葉でもどれほどペテロを力づけ励ましたことでしょう(ルカ22:32)。

 多くの人々の疲れた霊は、イエスの口からでるみことばによって力を与えられていました。なぜなら、イエスは、ご自分が出会う人々に適切な励ましの言葉を与えてくださるよう、彼は日々父の声に耳を傾けられていたからです。(イザヤ50:4)

 イエスの義は、彼に憂鬱な表情をもたらすことはありませんでした。なぜなら、イエスは喜びの油を注がれておられたからです(ヘブル1:9)。十字架に向かわれる前夜でも、喜びに満ちあふれておられたので、彼は弟子たちに「わたしの喜びがあなたのうちにあり…」と言われたのです(ヨハネ15:11)。イエスはいたるところに出て行かれ、疲れ消沈した魂にその喜びを広められました。

 イエスはすべての人に優しく、「いたんだの葦を折ったり、くすぶる燈心を消したり」されませんでした(マタイ12:20)。彼は弱く罪深い人々の長所に目をやり、いつも人々にとって最善のことを望まれました。

 イエスは、親切で優しく、理解のある方だったので、人々はイエスと一緒にいたいと心から願いました。ただ高慢で密かに罪を犯していた人々だけはイエスを避けていました。

 また、イエスの愛は感傷的ではありません。イエスの愛は、常に人にとっての最善を求めました。ですから、彼は警告の言葉が必要な時には、躊躇なく人を諌められました。イエスは、ご自分の道から十字架を取り除こうとしたペテロを叱責されました。それもまた、「下がれ、サタン」(マタイ16:23)といった強い言葉でした。

 名誉を求め、サマリヤ人に復讐したいと言ったヤコブとヨハネも同様に戒められました(マタイ20:22、23;ルカ9:55)。そして彼は弟子たちを彼らの不信仰のために七回も責められました。

 イエスは、たとえ人を傷つけるとしても、真理を話すことを恐れませんでした。なぜなら、イエスの心が愛に満ちていたからです。彼は強い言葉によって、ご自分の評判が失くなることを恐れませんでした。彼はご自分よりも人々を愛していたので、彼らを助けるために喜んでご自分の評判を犠牲されました。ですから、人が永遠に滅びることがないように真理をしっかりと語られたのです。イエスにとって人々の永遠のいのちは、人の彼に対する意見よりもはるかに重要でした。

 ペテロは、イエスの働きを「善いわざをなされた」と表現しました(使徒10:38)。これはまさにイエスの人生の要約といってもいいでしょう。彼はただの素晴らしい説教者でもなく、霊を救うことに興味を持っておられただけでもありませんでした。彼は人の全人格を愛し、どこに行かれても人のからだと魂のために善を行われました。

 イエスを罵倒する人々は、彼を「取税人と罪人の仲間」と呼びました(ルカ7:34)。それは社会で最も軽蔑されていた人々の仲間ということを意味します。

 人がよい行いをしながら、社会に見放された人と親しくなるのは普通のことではありません。これを実践している場合でも、そこに自己中心的な動機が介在することがあります。しかし、そのような人々へのイエスの愛は、無私無欲で純粋でした。

 私たちは文化的な教養によって、キリストの性質を証しすることはできません。しかし、既存の本質を捨てて聖霊から神聖なものを受け取ることによってのみ、それは可能です。

 イエスは愛によって弟子たちに喜んで仕え、足を洗うなどの不潔な作業も行われました。これは、へりくだりを見せるためではなく、イエスの愛から自然に表れた行為でした。

 人間の善と愛には、名誉やその他の利己的な理由など、常に隠れた動機があります。その動機の時点で、私たちはすでに不誠実です。しかし神の愛はそうではありません。イエスは個人的な利益を考慮して、よいわざを行われたことはありません。彼の良いわざは、「悪人にも善人にも太陽の光を注ぎ、正しい人にも正しくない人にも分け隔てなく雨を降らせてくださる」(マタイ5:45-TLB)天の父のご性質の現れでした。

 神のご性質は、善を行い、与え、そして与えることです。それは、太陽が私たちを照らすのと同じくらい、神にとってごく自然なことです。これがイエスの生涯に現れた栄光でした。イエスは常に善を行い、人々に仕え、人々を助け、彼らに与えられるものは何でもお与えになりました。

 ヨハネ13:29では、イエスの宣教におけるお金の使い方について、弟子たちの証言が記されています。彼らは、イエスが必要なものを買うこと、そして貧しい人々に与えることの二つの目的のためだけに、お金を使っておられるのを目にしていました。 そして、イエスは弟子たちに「受けるより与えるほうが幸いである」と教えています(使徒20:35)。

 人にとってこの地上での最も幸せで祝福された人生は、自分自身と自分の所有物を人々を祝福するために与え、神と人々のために生きる人生であることを、イエスはご自身の生涯を通して示してくださったのです。

 イエスは、彼の教えを聞いていた人々のために涙を流し祈られました。また、神のみことば受け入れなかったエルサレムを嘆かれました。彼は、宮で偽善者たちのことを悲しみ嘆かれてから、鞭を使って偽善者たちを追い出されました(ルカ19:41、45)。嘆き悲しむ人だけが鞭を使うことができます。

 地球上で、イエスほどの偉業を遂げた人は誰もいません。 三年間の宣教で彼ほど労力を注いだ人も誰もいません。イエスは昼も夜も本当に忙しくしておられたことでしょう。それにもかかわずイエスは、ご自分に次々と近寄ってくる人々を制止しようと誰にも指示されませんでした。それどころか、弟子たちが彼のアシスタントのように振る舞った時、彼らを叱責されました(マルコ10:13-15)。

 イエスは誰よりもよりもはるかに優れた奇跡を行われた方ですが、いつでも人々が自由に彼と接することができるよう配慮されていました。(奇跡によって、人々はますますイエスとの時間を求めるようになりました。)

 イエスの親戚は、彼が食事を抜いてまで、困っている人々に奉仕しているのを見て、彼は狂っているのではないかとさえ思いました(マルコ3:20、21)。しかし人々は、イエスが非常に親しみやすい方であることを知っていました。ですから、ニコデモは、イエスが説教で忙しく一日を終えられた後も、夜遅く気軽にイエスを訪ねることができたのです。ニコデモはイエスが喜んで自分を歓迎してくださることを十分に知っていました。

 人々の目に映るイエスは、昼夜を問わず助けを求めていっても喜んで迎えてくださる方でした。

 ある日、病気の人々が日没の後にイエスのところに連れて来られました。かなり多くの人が連れてこられましたが、イエスは彼ら全員に手を置いて祈られました(ルカ4:40)。これには何時間もかかったに違いありません。しかしイエスは、大衆に向けて一度祈って時間や労力を節約しようとはされず、そこに集った一人一人に興味を持ち注意を払っておられました。このような中で、イエスは食事を取れなかったり、寝る時間もなかったことでしょう。しかし、イエスは全く気になされませんでした。

 イエスは自分の時間を自分だけのものにせず、完全に人々に身を捧げておられました。困っている人々は、イエスご自身と彼の時間、所有物などイエスのすべてから力を得ていました(イザヤ58:10)。イエスは不便、不快と思われることも喜んで受け入れ、プライバシーが侵害されるような時も決して動揺されませんでした。

 イエスにある神の力は、神の愛と憐れみによって包まれています。そして、イエスを通して現れた聖霊の力は、多くの人を祝福しました。しかし、慈愛のない奇跡的なわざは、非絶縁電線のように霊的な死をもたらす可能性があります。

 イエスの愛と憐れみは、彼の肉親にも広がりました。「両親よりも神を愛さなければならない」という理由で、貧しい両親を無視して「フルタイムの宣教」に入るよう勧めるようなパリサイ人の歪んだ「主の働き」の考えはイエスには全くありませんでした。(マルコ7:10-13)十字架の上でもイエスは、母親の将来を案じておられました(ヨハネ19:25-27)。

 イエスは息を引き取られる時でさえも、傍にいる強盗を救いに導こうとされました。このようにして彼は、神と人のために生きられました。十字架にかけられたイエスは、自分の苦しみや他人の嫉妬、憎しみを全く考えずに、ご自身を十字架にかけた人たちの罪が赦されることだけを望んでおられました(ルカ23:34)。

 イエスは常に善をもって悪に打ち勝った方です。人々のイエスに対する、洪水のように押し寄せる指導者たちの嫉妬の波は、彼の燃えさかる愛の炎を消すことはできませんでした(雅歌8:7)。これこそ、神が聖霊によって私たちに与えてくださる愛です。その愛によって、神が私たちを愛してくださるように、私たちはお互いを愛することができます。(ヨハネ13:34、35;ローマ5:5)。そのようにして私たちも神のご性質を表すことができます。

 章 5
霊に生きる

前の三章では、イエスがこの世でへりくだり、聖さ、愛の中どのように生きておられたかを見てきました。

 しかし、私たちがこの三つの領域でイエスにならえば、イエスのようになれると考えてしまっていはいけません。神の栄光は、イエスを模倣することではなく、私たちが神の性質にあずかることによって初めて、明らかにされるべきだからです。

 世界の長い歴史の中で、たくさんのノンクリスチャンの人が、イエスを敬い、彼のへりくだり、聖さそして愛を模倣して素晴らしい功績を残したかもしれません。しかし、それは絵に描いた炎のようで、そこには暖かさがありませんでした。

 偽物のダイヤモンドは本物そっくりに作られているので、専門家だけが違いを見分けることができます。しかし、それらはただのガラス片であり、本物に比べたら全く価値がありません。そして、人間は模倣のプロです。 イエスのまねをすることさえも長けています。

 では、どのようにしてそのような虚偽を避けることができるでしょうか。単にイエスをまねているのか、それとも実際に神の性質にあずかっているか、どのようにそれを判別できるのでしょうか。

 その方法は一つしかありません。聖霊に、みことばによって私たちの中の魂と霊の違いをはっきりと示し、それらを切り離していただくことです(ヘブル4:12)。私たちが魂と霊を区別しなければ、私たちは完全にだまされ、それどころか、だまされていることさえも気づかないでしょう。

 今日、信仰者が何よりも理解しなければならないのは、心、感情、そして意志の力がどのように聖霊の働きを妨害するかということです。私たちが魂によることと霊的なことを区別しないと、私たち自身の心だけでなく、神の働きを模倣する悪霊にもだまされる可能性があります。 ほとんどの信仰者が、この魂による行いと霊的な行いの違いについて何も知りません。なぜなら、彼らが、その区別の重要性を理解するまで霊的に十分成長していないからです。

 九年生の学生は、微分積分の違いがわからないかもしれません。(おおよそ、これらは同じこととして捉えられますが)なぜなら、彼らの学習力が微分積分の違いを理解するまでに達していないからです。

 あなたが人に正直で、親切で、平和的で思いやりがあると思われて満足するなら、あなたは単にイエスの真似をしている魂に属するクリスチャンです。

 パウロはクリスチャンを三つのカテゴリーに分けています。

霊的な人(1コリント3:1);

魂に属する人(1コリント2:14-YLT)

肉欲の人(1コリント3:1)

 これは、1テサロニケ5:23に書かれている人間の三つの存在、つまり霊、魂、体に呼応しています。

 私たちが肉体の欲望に支配されているならば、私たちは肉欲の人です。私たちはこの肉の欲求を克服できますが、それでもまだ魂に属していて、心と感情の欲求によって支配されています。

 霊的な人とは、聖霊によって支配され、その魂もからだも聖霊の支配下にある人です。

 魂に属する人は、肉欲の人のように必ずしも「神に対して反抗」するとは限りませんが(ローマ8:7)、霊的なことを理解したり、受け入れたりすることができません。なぜなら、御霊に関することは、魂に属する人にとって愚かだからです(1コリント2:14)。魂に属する人は、自分に対する人の評判がいいので、魂に留まっていることに満足します。そのため、霊と魂の違いを言われても、それは彼にとっては取るに足らないことです。人の名誉を求める人は、魂に頼っている以上先に進むことはできません。

 今日、キリスト教会ではいたるところで虚偽が横行し、彼らの言葉や証しがすべてが神からのものだと言っています。私たちは、これらのだましから自分たちの身を守るために、これまで以上に、霊的な行いと魂による行いをはっきりと区別していかなければなりません。

 「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書かれてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(1コリント15:45)。

 最初の人アダムから切り離され、キリスト(最後のアダム)に連なる者になった私たちは、魂に属して生きるのではなく、霊に生きるということがどういう意味かを理解しなければなりません。

 私たちの肉欲の本質を収めるだけでは十分ではありません。魂から来る要素は、肉欲ほど醜いものではありませんが、霊的な成長にとって、肉欲と同様に危険であり対処する必要があります。

 私たちは、罪の力だけでなく、私たちの魂による行いからも救われるよう毎日ますます努めなければなりません。

 魂に属する人は、イエスが特定の場面で、なぜそのように語られたのかを理解することができません。例えば、ある日イエスは群衆の真っ只中にいて、親戚が彼に会いたがっていることをお聞きになった時、イエスは弟子たちを指差して、彼らが「わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われました。(マタイ12:49、50)

 彼の親戚や他の人たちは、イエスの言葉をなんとも家族に対してひどい思いやりのない言葉だと思ったに違いありません。しかし、イエスはご自分の家族親戚に、魂による、感情的な愛着を持つことを望んでおられませんでした。

 イエスがペテロに、「下がれ、サタン」と叱責された時も弟子たちは、なぜそれほどひどく言わなければならないのかと理解に苦しんだことでしょう。魂に属する人は決して、イエスのように発言することはできません。なぜなら、常に自分に対する人の意見を気にするからです。

 私たちは肉欲の罪を克服したかもしれません。しかし、次の課題は私たちがイエスのようになることを願いながら、人間の魂によって生きるか、それともただ神の力によって生きるのかということです。

 「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:3)。

 魂による生き方は霊的な成長の妨げにもなります。ペテロがイエスを十字架から遠ざけようとした時、彼はイエスのためにと、人間的な愛から行動をとりました。しかし、イエスはそれを悪魔の声と見分けられ、イエスはペテロにこう言われました、

「あなたは、神の性質(霊的)ではなく、人の性質(魂の)の方を気にしている」(マタイ16:23-詳訳聖書)。

 魂に属するクリスチャンは、考え方が「アダムのいのち」のままです。強い人間愛や正義感があるかもしれませんが、それは神からのものではありません。

 神は霊と魂とからだと共に(1テサロニケ5:23)、人を神の神殿として造られました。そして、神がモーセに幕屋の構図を与えられた時、それは人と同じように三つの部分から成っていました。なぜなら、その幕屋は神が住まわれる場所としての人を象徴していたからです。

 幕屋には三つの部分がありました。一つ目は外庭ですが、これは人の目に見える外観であり、人間の体に当たります。他の二つの部分、至聖所と聖所は覆われおり、人間の目に見えない部分、つまり魂と霊を表しています。

 神の臨在は常に聖所にあり、そこで神は人に語られました。回心すると聖霊は私たちの霊を生かしてくださり、主と一つの霊になることができます。(1コリント6:17)( ちょうど夫と妻が一つのからだになるように。)この新生にある神の意図は、神が聖霊を通して、贖われた私たちの魂と体を治められるということです。

 私たちのために立ててくださった神の目的と意図を理解した上で、神に完全に身を委ねるならば、私たちは霊的な人になることができます。

 人間の魂は、心(思考能力)、感情(感情能力)、そして意志(決定能力)で構成されています。

 神は霊であるため(ヨハネ4:24)、人は自分の体で神に接することができないのと同じように、人はこれら三つのどれを用いても神と交わることはできません。

 物質世界は体で触れることで、直接感じることができるように、非物質世界である霊の世界は、霊を通してでなければわかりません。私たちが魂と霊を区別しなければ、サタンは私たちの魂を使って、聖霊の働きを装い、私たちを巧妙にだまします。

 私たちは、魂によって神を知ることはできません。神を知ることに関して、賢さや鈍さは関係ありません。なぜなら、人間の魂の許容量は霊が受け取ることとは無縁だからです。霊と魂は完全に異なります。ですから、自分の魂を通して神を知ろうとすることは、自分の耳で何かを見ようとすることと同じくらい愚かなことです。

 私たちが聖書を普段どのように読み解くかを考えてみましょう。 聖書を読む時、私たちは大抵、自分の体(目)と魂(心)を使うと思います。 しかし、聖霊によるみことばの意味の啓示がなければ、私たちの霊は真夜中のような暗闇のようです。その場合、聖書に関する知識量は、聡明な思考力や強靭な魂の表れにすぐません。しかし、あなたの霊はまだ何も見えていません。

  神は真理を賢くて知的な人には隠し、へりくだった人に明らかにしてくださいます(マタイ11:25)。 イエスの時代の神学者たちが霊的に盲目であったことはその例です(1コリント2:7、8)。

 私たちの感情も魂の一部です。感情によって神を感じることはできません。感情的な高揚は霊からくるものではなく、単に魂の高揚です。優れた知性が罪と共存するように、高ぶる感情も奥深い罪と密接に関わりあって共存しています。

 カルメル山のバアルの預言者たちは非常に感情的で、叫び、怒鳴り、踊ったりしていただけで(1列王記18:26-29)、彼らは霊的ではありませんでした。この光景は、今日でも感情的なクリスチャンの集会でも見られますが、真の霊性とは何の関係もありません。

 イスカリオテのユダはおそらく弟子たちの中で最も賢い人でしたが、彼の魂は神の真理を知るのに何も役に立ちませんでした。エルサレムの学者たちも、教養のないシモン・ペテロが神の啓示によって、何を理解できるだろうと見下していました(マタイ16:17)。

 魂に属するクリスチャンは一見、へりくだった人のようにに見えます。彼は常に自分のへりくだった態度を意識しているからです。本当のへりくだりは意識するものではありません。彼らはまた、一生懸命へりくだった人のように振舞いますが、真のへりくだりは内から自然にあふれでるものであり、そこに努力は一切必要ありません。

 魂に属するクリスチャンは、正義感がとても強いように見えることもあります。彼は自分が預言者であると信じ、鞭を取り、教会から人々を追い出し、罪に対して激しく非難します。彼らは、常に人からの意見を気にかけているので、その行動によって、人からの名誉を求めようとします。また、彼らが「人が自分のことを何と言おうと気にしない」と言う場合も、人にそれを認知してほしいというその思いが、魂に属していることを表しています。

 魂に属するクリスチャンは、非常に思いやりがある人物にも見えます。しかし、それは常に人間的で賢明ではありません。

 例えば、魂に属するクリスチャンは、神から戒めを受けている放蕩息子のような立場の人に、その人に対する愛から定期的に必要な物質を届けるかもしれません。しかし、そのような人助けは、実際その人が神に立ち返るのを妨げます。このようなクリスチャンは、自分が神に仕えていると思い込み、その慈善活動によって自己満足感を得ながら、実際にはサタンの目的達成に協力していることに気づいていません。

 上記はほんの一例ですが、魂による行いと霊的な行いを区別する重要性を十分に示しているかと思います。

 魂によって成る実は御霊の実のように見えることがあり、多くの人がだまされています。同じように、私たちも自分自身を騙すことになります。

 プラスチックでできたオレンジとバナナをテーブルに置くと、そこに座る人たちは本物と勘違いするかもしれません。しかし、それらは装飾であり、栄養価はありません。キリストの美徳の魂による模倣も同じことです。

 しかしながら、私は、私たちの魂が無益だと言っているのではありません。神が人間の魂を創造され、神はその働きも備えてくださいました。もちろん、私たちは心(思考)と感情を用いるべきです。しかし、本当の霊性は、神の大きな御手の下でへりくだり、私たちの自己意志を神に完全にあずけること(霊性への扉)から始まります。私たちの自己意志という扉の外で、イエスは待っておられ、そのドアを叩いておられます(黙示録3:20)。

 「わたしの意志ではなく、あなたのみこころを成し遂げてください」というイエスの言葉を私たちも喜んで言えるならば、私たちはイエスのように生きることができます。なぜなら、神が私たちの霊を完全にご支配してくださるからです。そして、私たちの魂も神の霊に仕え、そして、私たちの体も聖霊の下に置かれます。そのような人だけが「霊的な人」または「霊に満ちた人」です。

 コリントのクリスチャンの例にみられるように、回心、聖霊のバプテスマ、そして聖霊の賜物などが霊的であるという証拠にはなりません。彼らは御霊の賜物をすべて用いていましたが、それでも彼らは肉の罪に縛られており、彼らの崇高な知識と感情的な歓喜に酔いしれていただけでした。彼らは全く霊的ではありませんでした。

 神の臨在が幕屋の中の聖所にあったことを私たちは学びました。聖所と至聖所の間には厚いカーテン(ベール)が掛けられ、神の栄光が至聖所に洩れるのを防いでいました。このベールは私たちの肉のことです。(ヘブライ10:20)神の栄光が私たちの人格(私たちの魂)を通して輝きを放つためには、肉が十字架につけられ(ベールが引き裂かれる)なければなりません。

 イエスが私たちのために先駆けとなって見せてくださった、肉を通してあらわれる新しいいのち道を歩むと、神のいのちが私たちの人格、品性に表れ、ますます輝いていきます。

 そして聖書のみことばが、私たちの中で実現していきます。

 「妥協しない義人の道は、夜明けの光のように、ますます明るく、はっきりと輝き、終わりの日(キリスト再来の時)に完全な力と栄光に達するでしょう。」(箴言4:18-詳訳

 ですから、イエスが再来される日に、私たちが完全にイエスのようになるまで(1ヨハネ3:2)聖霊は私たちを栄光から栄光へと変えて(2コリント3:18)くださいます。

 私たちは、イエスがご自分の意志を決して選ばれなかったことも学びました。それは、イエスが心や感情によって生きておられなかったということです。彼は聖霊に導かれて生き、彼の魂は聖霊に仕えていただけでした。イエスは心や感情を使われましたが、それらはあくまで、彼のいのちの主である御霊のしもべにすぎませんでした。このように、神の栄光はイエス通して、彼の完全さの中に光り輝いていました。

 聖書は、イエスが地上に戻って来られる日、私たちのすべての人生と働きが火によって試されるといっています。(1コリント3:10−14)それは、私たちの行いが魂によるものか霊的かが問われるということです。私たちは、灰になってしまう木、干し草、わらではなく、その火に耐えうる金、銀、宝石で建てられなければなりません。

金、銀、宝石で建てられるとはどういうことでしょうか?

 ローマ11:36にその答えがあります。そこでは、すべてのものは「神か発し、神を通して、そして神へ」

 すべての創造物は神によって造られ、神の力によって維持され、そして神に栄光を返します。しかし、サタンと人間はこの原理を冒涜しています。

 神から発し、神の力で完成され、神の栄光のためにあるものだけが永遠です。残りはすべて滅び、キリストの裁きの座の火で灰になります。

 ですから、人間の魂(人間から)から発し、人間の力によって成り、人間の名誉のためにあるものは、それがクリスチャンとしての活動と呼ばれていても、木、干し草、わらにすぎないのです。

 その一方、神に発し、神の力によって成り、神の栄光のためにあるものは、さばきの日に金、銀、宝石であることが証明されます。

 私たちが試される最後の日、建物の大きさではなく使用した材料、つまり、私たちの行いの量ではなく行いの質が問われます。その日、私たちの行いの動機や力は、その功績や犠牲の大きさよりも、はるかに重要なことです。

 イエスは、魂によって生きるのではなく、霊によって生きることの模範となってくださいました。彼はご自分の考えや人間的な能力に基づいて行動されていませんでした。また彼の行動は名誉のためではありませんでした。イエスは神に発することを神の力で、神の栄光のために行っておられました。

 イエスは繰り返し、弟子たちにこう言われました。

「自分のいのち(魂)を救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」

 魂による生き方を憎む(または失う、あきらめる)ことについての、イエスのこの言葉は、四つの福音書で七回繰り返されています(マタイ10:39; 16:25;マルコ8:35;ルカ9:24; 14:26; 17:33;ヨハネ12:25)。

 このみことばが四つの福音書で七回繰り返されることを、聖霊が望んでおられるということは、イエスが教えておられる最も重要なことの一つであることは間違いありません。しかし、実際、イエスの言われていることを理解している信仰者はほとんどいません。

私たちの生活の中で、魂によるものと霊的なものをどのように区別したらよいでしょうか。

 それは、聖句を通して聖霊が明かしてくださる生きたみことばでおられるイエスを見ることです。

 私たちは自分の魂の光ではなく、神の光によって自分自身を裁くべきです(詩篇36:9)。そして、その光はイエス(ヨハネ8:12)と神のみことば(詩篇119:105)に現れています。

 みことばが肉となられた主イエスは、こう言われます、

「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)

また、次のようにも書かれてあります。

「神のことばは生きていて、…たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、…判別することができます。」(ヘブル4:12-言い換え)。

 ですから、私たちが求めるべき光は、私たちの模範であるイエス(先駆者)と導き手である神のみことばです。この世でのイエスの生き方と神のみことばは完全です。このことをさらに注意深く見ていきましょう。

 章 6
神のみこころに生きる

「すべてのことが、神から発し、…」(ローマ11:36)

 イエスは、天の御国は霊的に貧しい人のものであると言われました(マタイ5:3)。 彼はまた、父のみこころを行う者だけがその王国に入ることができると言われました(マタイ7:21)。 天の御国は永遠であり、神のみこころによって成されたものだけが存在します。 霊に貧しい人とは、人間の無力さを認識し、神のみこころに完全に委ねる人のことです。

 この意味で、イエスは生涯ずっと霊的に貧しくおられた方です。彼は、神から離れてご自分の力を用いることなく、神が望まれるように日々過ごされ、常に神に身を委ねられておられました。イエスのみことばを考えてみましょう。

 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」(ヨハネ5:19)

「わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5:30)

「また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを…」(ヨハネ8:28)

「わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」(ヨハネ8:42)

「わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」(ヨハネ12:49)

「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10)

 イエスは、人々の必要性を十分考慮されていました。しかし、その必要性によってではなく、天の父からの命令によって行動されていました。

 イエスは、世が救い主を心から待ちわびていた、少なくとも四千年もの間、天の御国で待っておられました。そして、父がイエスをこの世にお遣わしになったので、イエスはこの世に来られました(ヨハネ8:42)。

  「しかし、定めの時が来ると、神は自分のひとり子を、一人の女から生まれさせ、ユダヤ人として律法の下にお遣わしになりました。」(ガラテヤ4:4-リビングバイブル)

 神はすべてに決まった時を定められました(伝道者3:1)。神だけが時を知っておられるので、私たちがすべてにおいて、イエスのように父のみこころを求めるならば間違いはありません。

 またイエスが世に来られた後も、彼はご自分の思うままには行動されませんでした。イエスの心は全く神聖でしたが、それでも心に浮ぶどんな考えも実行されませんでした。イエスはご自分の心を完全に聖霊のしもべにしておられたのです。

 イエスは十二歳までに聖書を完全に熟知し、その後の十八年間は母親と同居しながら、大工としてテーブルや椅子を作っておられました。たくさんの人が彼の説教を必要としていたのに、当時宣教にでかけられなかったのはなぜでしょうか。なぜなら、天の父の定めた時がまだ来ていなかったからです。

 イエスは待つことを厭わない方でした。「これを信じる者は、あわてることがない。」(イザヤ28:16)。

 そして、父の時が来た時ようやく、大工の作業所を出て説教を始められました。その後も、イエスはご自分の行動の基準を踏まえて「わたしの時はまだ来ていません。」と発言されています。(ヨハネ2:4; 7:6)。イエスの人生のすべては、父の定めた時とみこころによって決まっていました。

 人々のニーズは決してイエスの行動につながりませんでした。なぜなら、それがイエスご自身、つまりイエスの魂からの行いになるからです。人々のニーズは考慮されるべきですが、成し遂げられるべきなのは神のみこころだけです。 

 イエスはそれをヨハネ4:34、35で明言されています。

必要性(35節):

「回りをよく見なさい。人のたましいの畑は広々と一面に実り、刈り入れを待つばかりです。」(リビングバイブル)

行動の原則(34節):

「わたしの言う食べ物とは、わたしの遣わされた神のお心にかなうことをし、神の仕事をやり遂げることなのです。(リビングバイブル)

 イエスは、仲間たちの提案も実行されませんでした。なぜなら、イエスは、人に言われるがままに行動してしまったら、それが明らかに良い事であっても、最善である神のみこころを見逃してしまうことをご存知だったからです。

 ある日、群衆はある場所に留まるようイエスに頼みましたが、彼は天の父が別の場所に向かうよう言っておられるのを聞いたので、彼はその申し出を断られました。人間的に考えれば、人々はイエスの説教に対して非常に共感していたので、彼がそこに残ることはできたでしょう。しかし、神の思いは人間の思いとは違い、神の道は人間の道よりもはるかに超えています(イザヤ55:8)。その朝早く、イエスは一人で出て行って祈り、ペテロや他の人たちの助言よりも、父の声に耳を傾けられました(マルコ1:35-39)。イエスは全く人間の推論に頼っておられせんでした。

 イエスは次のみことばに従い通されました。

「自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5、6)。

 イエスはすべての事柄について父の導きを頼りにされました。

 イザヤ50:4の主イエスへの預言的な言及の中で、「朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」という聖句があります。それがイエスの習慣でした。彼は早朝から夜まで、一日中父の声を聞き、父が言われる事だけを行っておられました。ご自分がすべき事を人には尋ねず、ただ神との交わり、祈りの中で決めておられたのです。魂に属するクリスチャンは人と相談した上で物事を決めていきます。霊的なクリスチャンは神の声を待ち続けます。

 イエスは天の父に導かれてこの世を生きておられました(ヨハネ6:57)。イエスにとって、神のみことばは食べ物よりも大切なものでした。毎日何度も父のみことばを聞いてはそれを行う、それがイエスの生き方です。父への従順がイエスにとっては日々の食事より重要なことでした。彼は完全に天の父に頼って生きておられました。

 イエスが両替人を神殿から追い出した時のことを考えてみてください。イエスはそれまでに、同じ場所で両替人をご覧になった事が何度もあったはずですが、彼らを追い出されませんでした。ただ父のみこころを確認された時、彼らを追い払われました。

 魂に属するクリスチャンは、常時両替人を追い払うか、または全く関わらないかのどちらかです。しかし、神に導かれる者は、いつ、どこで、どのように行動するかを知っています。

 イエスが成し遂げられたけれども、なされなかったことはたくさんあります。なぜなら、それらは父のご意志ではなかったからです。イエスはいつも最善を尽すことに身を捧げ、それで十分でした。イエスは良いことをするために世に来られたのではなく、父のみこころを行うために来たからです。

 「わたしが父の仕事をしなければならないことを知らなかったのですか」とイエスは十二歳のときにヨセフとマリヤに言われました(ルカ2:49-YLT)。イエスが興味を持っておられたのは父のみこころ、それだけでした。イエスが三十三年半の生涯を終えられる時、彼は心から満たされて「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」と言われました(ヨハネ17:4)。

 イエスは世界中で宣教したこともなく、本をお書きになったこともありません。また、彼を信じる人々が少数であった一方で、世界の至る所では多くの人が彼を必要としていました。しかし、イエスは父が与えた仕事をすべて終えられました。最終的にはそれが一番大切なことなのです。

 イエスは神のしもべとなられました。「家臣にとって一番大切なのは、主人の命令に従うことです。」(1コリント4:2-リビングバイブル)。イエスは父の声を聞いて人生を過ごし、父の意志をすべて達成されました。イエスには疲れや苛立ちはありませんでした。そして彼は人間的な関心を全て死に至らしめました。彼は、魂によってではなく霊的に生きた人です。

 イエスは祈りをなによりも優先しました。彼はしばしば祈るために荒野に出て行かれました(ルカ5:16)。彼は、誰を十二人の弟子に選ぶかを父に伺うために一晩中祈られました(ルカ6:12、13)。魂に属するクリスチャンは、神の御声待ち続ける時間を時間の無駄と感じ、ただ自分の良心を和らげるために祈る傾向があります。このような人は自分に自信があるので、祈りは絶対的に必要というわけではありません。しかし、霊的な人はすべてのことを神に頼るっているので熱心に祈ります。

 イエスは、必要なことはただ一つ、みことばをを聞くことであると言われました(ルカ10:42)。ベタニヤのマリヤがその一例です。一方、マルタは人々への給仕で忙しくしていたので、マリヤに対して不快感を抱きます。この二人の姉妹には、霊的な行いと魂による行いの対比が見られます。マルタは主とその弟子たちに給仕していただけで、罪は犯していませんでした。それでも彼女は落ち着きを失ってマリヤに批判的になりました。これが、魂による奉仕の典型的な例です。

 魂に属するクリスチャンはすぐに苛立ち、「自分の働き」をやめず、神の休息に入ろうとしません(ヘブル4:10)。その人の意図は正しいのですが、例え彼の回心後の奉仕がどんなに優れていても、神の目にはまだそれが「不潔な着物」であることに気づいていません(イザヤ64:6)。

 アマレクの良い羊(肉)は悪い羊と同じように神に受け入れられません(1サムエル15:3、9-19)。しかし、人間の理論でこれを理解することはできないでしょう。神に捧げるには最高の羊を捨ててしまうのは愚かなことのように見えます。しかし、神は犠牲ではなく従順を要求されます。 「従うことは犠牲よりもましです」(1サムエル5:22)。神の言われることを聞かずに、どうして従うことができるでしょうか。従うことよりも聞くことが優先されなければなりません。ですから、イエスは、必要なことは神の声を聞くことであると言われたのです。他のことはそれに付随します。

  マルタのように「奉仕」する人々は、誠実であっても、実際には自分自身に奉仕しているだけです。彼らは主のしもべとは呼ばれません。しもべは仕える前に、主人の言うことを聞くからです。

 私たちが無力さを自覚する時、ソロモンように祈ります。「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。…善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべにあたえてください。」(列王第一3:7、9)。イエスは、(高次レベルでの)良いことと悪いこと、つまり父の意志とそうでないことを区別するためには、父の言われることを聞かなければならないと知っておられました。

 エルサレムの神殿の「美しの門」の外で、イエスはしばしば足の不自由な人が物乞いをするのをご覧になっていました。しかし、父からの導きがなかったので、イエスは彼を癒されませんでした。イエスが天に昇られた後、ペテロとヨハネがその人を癒し(天の父が定めた完全な時に)、その出来事によって多くの人々が主に立ち返りました(使徒3:1-4:4)。その人が癒されたのは父の時であり、それ以前ではありませんでした。

 イエスがそれ以前に彼を癒されていたら、イエスは父の意志を妨げてしまったことでしょう。イエスは父の時こそが完璧であることをご存知だったので、彼は何をするにも忍耐強く待っておられました。

 イエスの人生は完全な休息の中にありました。彼は毎日二十四時間のうちに、父の意志を十分に終えられていました。しかし、もしイエスがご自分の考えで毎日を決めていたら、二十四時間では足らず、せわしい日々を送っておられたことでしょう。

 イエスは、天の主権者でおられる父が、彼の日々を計画しておられると知っておられたので、どんな不都合や困難にも悩まされませんでした。イエスの生涯は、私たちの内なる人に完全な休息をもたらします。これは、私たちが何もしないという意味ではなく、父が私たちに立てくださったご計画にあることだけを行うという意味です。そして、私たちは自分で決めたことよりも、父のみこころをやり遂げることを重視するようになります。

 魂に属するクリスチャンは「自分のこと」をするのに夢中で、気が立って不安になることがよくあります。それらは最終的に精神的または身体的障害を引き起こすこともあります。イエスの内なる人は完全な休息の中におられたので、精神的に病むことはありませんでた。イエスは私たちにこう語っておられます。

「わたしのくびきをあなたに負わせ、わたしの模範から学びなさい。そうすれば、あなたもあなたの魂に安らぎを見いだすでしょう」(マタイ11:29)。

 これが、神の御霊がみことばの中で私たちに示し、私たちに与え、私たちを通して現れることを望んでおられる、イエスの栄光です。

 主は私たちの羊飼いであり、羊を休息の牧草地に導いてくださいます。羊は自分で予定を立てたり、次に行く牧草地を決めたりしません。彼らはただ自分の羊飼いに従うだけです。しかし、彼らのように羊飼いに従うには、自分が空にならなければいけません。イエスは黙ってただ父に従いました。しかし、魂に属するクリスチャンは羊になろうとしないので、彼らの知性によって迷い出てしまいます。私たちの知性は神からのすばらしい、そして最も有益な賜物ですが、私たちの生活を支配し始めると、それはすべての賜物の中で最も危険なものになります。

 主は弟子たちに、「みこころが天で行われるように地でもおこなわれますように。」と祈るように教えられました。

 では神のみこころは天国でどのように成されるのでしょうか。もし、御使いたちが、「神のために何をしようか」と言って動き回っているとしたら、天の御国は混乱するでしょう。御使いは、ただ神の臨在の中で神の命令を待ちます。そして、其々が神から言われたこと正確に実行します。御使いガブリエルのザカリヤへの言葉を見てください。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。」(ルカ1:19)主イエスも同じです。彼は父の前で待ち父の声を聞いて、父の意志を行いました。

 魂に属するクリスチャンは一生懸命働き、多くの犠牲を払っているでしょう。しかし、永遠のまばゆい光は「一晩中何もとれなかった」ことを明らかにします。しかし、毎日十字架を背負い、(魂による生き方を否定し、それを死に至らしめる)そして主に従う人々は、その日、網が魚でいっぱいなるでしょう(ヨハネ21:1-6)。

イエスは言われました。

「ほんの片時でも、自分のために計画された仕事から目をそらす者は、神の国にふさわしくありません」とイエスは言いました。」(ルカ9:62-TLB)

「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」(コロサイ4:17)

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」(マタイ15:13)

 問題は、良い木かどうかではなく、誰がそれを植えたかです。神がすべての作り主であり、すべての起源は神です。聖書は「初めに、神が」という言葉で始まります。ですから、私たちのすべての行動も神から発していなければなりません。私たち行いが心ではなく神から始まっているならば、それは永遠に残ります。

「神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:17)

他はすべて滅びます。自分に聞いてみてください。

「私は神のみこころの中で生きているだろうか。

 章 7
神の力によって生きる

「すべてのことが…神によって成り、…」(ローマ11:36)

 アダムが神によって造られた時、彼の魂の中には素晴らしい力が与えられました。彼は、神が創造されたすべての動物や鳥に名前を付けることができました(創世記2:19)。私たちは、それら何千もの名前の中の幾つかを思い出すことも難しいと感じます。しかし、アダムはそれぞれに異なる名前を付けることができました。これが、アダムの魂の中に秘められた力でした。

 神が彼にお与えになった力は、神への従順のもとに使われるべきものでした。しかし、アダムは神から離れてその力を用いることを選びました。そのエデンでの致命的な選択の後、彼は自分の魂によって生きはじめました。

 私たちがサタンに騙されないために、聖霊の力と魂の力の違いを理解し、霊的な行いと魂による行いを区別する必要があります。

 今日、キリスト教界で人間の魂の力が主に使われている領域、癒しについて考えてみましょう。

 十九世紀以来、科学は人間の頭脳の途方もない力を発見し続けています。催眠の科学は大きな進歩を遂げ、精神的な力によって繰り広げられるその技には驚かされます。そして、この催眠術の原理が、「聖霊の賜物」という名前でキリスト教会の中で使われています。

 これは、教会の構築と神の栄光を常にもたらす聖霊の真の賜物を軽視するものではなく、むしろ、人の人格を褒めたたえ、彼らの王国(巨大組織)や富を築くための「騙し」です。

 最近の「信仰治療者」(クリスチャンと非クリスチャン)の手による癒しのほとんどは、単に人間の精神力によって行われています。

 症状がまだあるのに、癒されたと自分に言い聞かせるというような方法です。今日ある疾患のなかでも、心身症(つまり、精神、または感情に起因する身体的病気)を患っている方がたくさんいらっしゃいますが、「前向きな思考」と病気に対する態度の変化が、しばしば身体に癒しをもたらすことは事実です。しかし、これは単に、体と心の自然の法則がもたらす結果です。それは超自然的な癒しではありません。

 イエスは今でも奇跡的に人々を癒しておられますが、そのような心理的なトリックによってではありません。癒しの真の賜物があるところでは、治ったと信じこもうとする精神的な苦痛や圧迫はありません。なぜなら、信仰は「前向きな思考」の産物ではなく、神の賜物であり、神のみことばの約束に基づいているからです。

 催眠術の原則(故意に行わないとしても)を利用して、人は神の意図ではない方法で、人々の上に力を持つことができます。人はこれを、個人に与えられた聖霊の権威と勘違いして、信仰者の間で使っています。

 神から離れて自分の魂の力を成長させようとすることは大変危険なことです。

 神は私たちに、神の目的のために、神に従う力を与えてくださいました。

 イエスはご自分の魂を死に至らしめ、人として魂の力によって生きることを拒否されました。彼は完全に天の父にご自分を委ね、生活やミニストリーのための聖霊の力を常に求めておられました。

 イエスが祈られるために、荒野に頻繁に退いておられたことはすでにご存知かと思います(ルカ5:16)。十字架に向かわれる前、残された最後の日々に、イエスは日中神殿で教え、夜はオリーブ山へ帰っておられました。誰にも邪魔されずに、長い間祈られていたはずです。(ルカ21:37、38)

 信仰によって生きるということは、常に天の父に委ねて生きるということです。

 神の力によってなされることだけが永遠に残ります。他のすべては滅びます。聖書では、神に信頼して生きる人が、地下を流れる水から栄養をとって成長する木に例えられています(エレミヤ17:5-8)。それがイエスの生き方であり、一人の人として、聖霊(神の川)から霊的な糧を得て生活しておられました。

 イエスはご自分の決心によってではなく、その都度天の父が与えてくださる力によって、すべての試練に打ち勝っておられましたした。

 イエスが教えてくださる自己否定、自制という生き方は、魂によって自分自身を支配するということではありません。それは仏教とヨガの世界であり、地球が天国と異なるように、聖書が語っていることとは違います。

 イエスは、人間として生きながら神に仕える力が私たちにはないことを教えてくださいました。彼は、私たちが実をならせるために、完全に木の栄養分に頼っている無力な枝のようだと言われました。

 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることできないからです」(ヨハネ15:5)。

 ですから、聖霊の助けがなくては私たちは何もできないのです。「霊で絶えず満たされる」ということは極めて重要なことです(エペソ5:18)。

 イエスご自身が聖霊に満たされ(ルカ4:1、18)、その御霊の力で、天の父のために生き、働いておられました。しかしこれは、イエスが一人の人間となり、霊的に貧しくなられたからこそ実現したのです。

 イエスは、ご自分がお受けになった人間の弱さをよく理解しておられました。そのため、彼は一人で祈る機会を絶えず探しておられたのでしょう。

 私は、観光客がある場所に旅行に行くと、良いホテルやみどころ観光スポットを必死に探すように、イエスは祈ることができる閑静な場所を一生懸命探しておられたのではと誰かが言ったのを覚えています。

 イエスは誘惑を克服し、魂の力を死に至らしめる力を切望しておられました。イエスのように、肉の完全な弱さを意識して天の父に助けを求めた人はイエスの他に誰もいませんでした。

 イエスは「大きな叫び声と涙とをもって」祈りながら、この世で肉として生涯を送られました。その結果、彼は父によって、どの人よりもはるかに大きな力が与えられました。このようにして、イエスは一度も罪を犯すことなく、ご自分の魂によって生きることもありませんでした(ヘブル4:15; 5:7-9)。

「祈る」または「祈り」という言葉が、福音書の中で二十五回、イエスに関連した箇所で使われていることは注目すべきことです。そこにイエスの人生と働きの奥義があるからです。

 イエスは大きな奇跡を行われる前だけでなく、後にも祈られました。奇跡的に五千人に食事をお与えになった後、彼は祈るために山に向われました。イエスはそこで、ご自分がなされた奇跡に対してプライドや自己満足を抱かないよう、その誘惑に打ち勝ち、そして父から新たに力を得るために祈っておられたにちがいありません(イザヤ40:31)。

 私たちは通常、主のために何か大切なことをする前にのみ祈ります。しかし、私たちがそれを終えた後父の元に帰るというイエスの習慣を身につけるなら、自分をプライドから守り、主のためによりよいわざができる器になります。

 イエスは忙しくなればなるほど、彼はより頻繁に祈られました。食事をしたり、休んだりする時間もありませんでしたが(マルコ3:20; 6:31、33、46)、常に祈る時間は作っておられました。イエスは御霊の声に従っておられたので、寝る時間や祈る時間も十分に把握しておられたのです。

 霊的な貧しさは効果的な祈りの前提条件です。祈りは人間の無力さの表れだからです。信仰者として生きるにしても、もしくは神に仕えるにしても、祈りが単なる儀式ではなく意義あるものならば、人の無力さを完全に認識しているということです。

 イエスは決して気力を失うことなく、神の力を絶えず祈りの中で求めておられました。イエスにとっても、物事を成し遂げるための手段は祈り以外にありませんでした。

 自信がある人は、罪を克服するために、自分の「肉の腕」に頼り続けます。そのような人は、勝利を導く神の力を知る以前に、自己が砕かれなければなりません。人が「ゼロポイント」に到して、自分の無力を認めるまで、何度も挫折という経験を神はお与えになります。そして神は、その人の上に恵みの御霊を注がれ勝利へと導いて、神の栄光を彼の人生を通して表してくださるのです。

私たちが本当に強くなるのは、私たちが弱くなるときです(2コリント12:10)。

 アブラハムは自分の力でイシュマエルを授かりましたが、神はイシュマエルを受け入れず、アブラハムに彼を追い出すように言われました。(創世記17:18-21; 21:10-14)。私たちが神に頼ることなく、人間の能力で行った善意の努力をキリストの裁きの場で示す時、神はそれらを受け入れられません。ただ、それらの木材、干し草、わらはすべて灰になってしまうだけです。「神を通して」行われたことだけが残ります。

 アブラハムが年老いて生殖不能になった時、イサクは神の力によって生まれました、そしてこの息子は神に受け入れられました。

 神にとっては、一人のイサクにはイシュマエル千人分以上の価値があります。火で鍛錬された後の一グラムの金は一キログラムの木よりも価値があります。

 聖霊の力で成される小さなことは、私たち自身の力で成し遂げた多くのことよりもはるかに価値があります。

 自分の良い行いや努力によって主に仕えようとすることは、回心の前であっても後であっても、常に"不潔な着物"です。しかし、信仰によって生み出された義と、聖霊によって行われた働きは、子羊との結婚式の日に、私たちがまとう服を作り上げます(黙示録19:8)。汚いぼろきれか美しいウェディングドレスのどちらか、なんという違いでしょう。それはすべて、私たちが自分の魂の力で生きるか、それとも神の力で生きるかによって決まります。

 イエスはまた、宣教においても完全に御霊の力に頼っておられました。彼が聖霊の注ぎを受けずに、説教に出かけられることはありませんでした。

 天の父が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われたように(マタイ3:17)、イエスは宣教の前の三十年間、すでに御霊の力によって、完全な神聖さの中に生きておられました。しかし、それでもまだ、彼はミニストリーのために御霊が注がれなければなりませんでした。そしてイエスは祈り、御霊の注ぎをお受けになりました(ルカ3:21)。

 神はだれよりも義を愛し、罪を憎んでおられたイエスに、御霊をあふれるばかりに注がれました(ヘブル1:9)。その結果、彼のミニストリーを通して、多くの人がサタンから解放されたのです。これが御霊の注ぎの主な目的であり現れでした。(ルカ4:18と使徒10:38を参照)

 神の働きは人間の才能や能力を通して行われるのではありません。なにか才能がある人が回心すると、自分の知的および感情的な力を使って、神のために、人々へ何か影響を与えれるのではないか考えます。

 多くのクリスチャンが事実、自分の説教の雄弁さ、理論、明確さを聖霊の力と取り違えています。しかし、これらは単に魂の力であって、それらに依存すると神への奉仕の妨げになります。人間の魂の力による働きは決して永遠ではなく、キリストの裁きの席で滅びます。

 イエスは、ご自分の雄弁さや感情の力によって、人々の心を神に向けさせようとはなさいませんでした。彼は、魂の力によるわざは聴衆の魂に届くだけであり、決して彼らを霊的に助けることはできないことをご存知でした。同様に、音楽による高揚感、歓喜によって人々を神に引き付けようともされませんでした。

 イエスは、聴衆を神に従わせるために彼らの感情を煽ったり、熱狂的な興奮に駆り立てたりされませんでした。これらのことは実際、今日の福音主義者や説教者がごく普通に行わっていることです。彼はまた、人々に影響を与えるために、過剰な情熱や異常な熱心さをアピールされることもありませんでした。これらは、政治家や営業マンがとる手法です。しかし、イエスはどちらでもありませんでした。

 神のしもべとして、イエスはすべての働きを聖霊に完全に委ねておられました。その結果、イエスに従った人々は、神にあって奥深い人生を歩み始めました。

 イエスは魂の力でご自分の考えに人々を誘導したり、ご自分の考えを人々に押し付けたりされませんでした。常に他の人に対して選択の自由をお与えになっていました。

 魂に属するクリスチャンの指導者たちは、彼らの強い個性で集まってくる人々や仲間を支配します。人々はそのような指導者に服従すべきだという恐怖感を抱き、彼らを崇拝し、彼らの言葉のいいなりになります。

 多くの人がそのようなリーダーの周りに群がり、彼ら全員が団結しますが、それはリーダーへの献身にすぎません。そのような指導者たちは、魂と霊を区別できていないため、自分たちには聖霊の力があると勘違いしています。彼らの信者も同様です。しかし、裁きの座のまばゆい光は、それがすべて人間の魂に他ならず、それが神の働きを妨げていたことを明らかにします。

 政治的指導者や非キリスト教指導者も、そのような人間的なカリスマ性を持っており、自分の個性や演説などの力で大勢の人を自分に引き込むことができます。

 しかし、イエスはそのような指導者ではおられませんでした。クリスチャンもそのような指導者になるべきではありません。私たちは自分の魂の力を行使することを恐れるべきです。なぜなら、それは神が人間のために定めた原理に反しており、神の働きの妨げになってしまうからです。

 魂の力は私たちに表面的な変化、ある種の敬虔さをもたらすかもしれませんが、私生活では神への深い献身も罪に対する勝利もありません。

 本当の霊的な働きというのは、人間の魂の力ではなく、聖霊の力によって成し遂げられます。イエスはこのことをよくご存知だったたので、いつもご自分の魂、自己意志を否定し続けておられました。イエスは非常に短い人生の中でも、人々の間で確実にご自分の務めを果たしておられました。

 イエスが人々にご自分の性格を押し付けたり、誰かを支配したり、言語や知性によって人々を驚かせたりされたことはありません。彼は人を感動させるのではなく、人を助けることを目指しておられました。

 魂に属するクリスチャンは、人を助けることよりも、人を感動させることに関心があります。また、魂に属するクリスチャンの指導者たちは、人々をかしらであるキリストではなく、自分に引きつけようとするので、真の教会を建てることはできません。

 特に強い魂の力がある人は、人々が神の力ではなく、話者である自分の人間的な知恵を信仰してしまわないように、恐れおののいてみことばを伝えなければなりません(パウロのように- 1コリント2:1-5)。

 イエスは常に人としての弱さを意識して「子は自分で何もできない…」(ヨハネ5:19)と言われました。そして、彼は一生懸命祈りに専念されたので、父はイエスの中で、すべての働きを成し遂げられました(ヨハネ14:10)。

 私たちが神に頼り、全てを委ねる心構えでいれば、神が禁じ、イエスが私たちに憎むように言われたもの、つまり私たちの魂とその力を使うことはありません。そうすれば、聖霊は私たちを通して主の栄光を現してくださいます。

 私たちが(主に信頼して)信仰によって生き、私たちの働きが信仰の賜物であるならば、私たちは金、銀、宝石で建てられるでしょう。

 自問してみましょう。

 「私は神の力によって生きて行動しているだろうか。

 章 8
神の栄光のために生きる

「すべてのことが…神に至るからです。」(ローマ11:36)

 神はアルファとオメガ、始まりと終わり、最初と最後です。そして、永遠であるものすべてが神から発しており、神にあって完成します。

 すべてのものは、神に栄光をもたらすために神によって創造されました。しかし神は、私たちからの栄光を期待しておられるのではありません。神は完全にご自身を満たされる方であり、私たちは何も付け加えることはできません。

 神が私たちにご自分の栄光を求めるよう言われるのは、それが私たちにとって最善の道だからです。そうでなければ、私たちは自己中心で惨めな者になるだけです。

 神が中心となることは、神が被造物に組み込まれた原理です。しかしそれは、自由意志を持った人間によって覆されています。他の生き物は喜んで創造主に従い、神を賛美しています。しかし、アダムはそ原理に従いませんでした。そして人間である私たちは惨めな自分の姿を見ることになりました。

 主が弟子たちに教えられた祈りの中で、最初の言葉は「あなたの御名があがめられますように」です。これが主イエスの最初の心の願いでした。彼は「父よ。御名の栄光を現してください。」と祈り、父の栄光へつながる十字架の道をお選びになりました(ヨハネ12:27、28)。主イエスの究極の思い、つまり父の栄光が彼の生涯に満ちていました。

 イエスのすべての行いは父の栄光のためでした。彼の人生には、神聖な部分と世俗的な部分という区別はなく、神聖さで満ちていました。彼は、神の栄光のために病人を教え癒すのと同様に、神の栄光のために椅子を作っておられました。毎日が彼にとって貴重な日々でした。そして、日常生活の必需品にお使いになったお金も、神の働きや貧しい人々に施されたお金と同じくらい尊いものでした。

 イエスは父の栄光を求め、父のみこころだけを気にかけておられたので、彼の心には常に完全な安息がありました。イエスは天の父の前に生き、人の賞賛に全く関心がありませんでした。

「自分か語る者は、自分の栄光を求めます。」とイエスは言われました(ヨハネ7:18)

 魂に属するクリスチャンは、神の栄光を求めるように見えますが、実際は自分の名誉を非常に気にしています。イエスは決して、ご自身の名誉を求められませんでした。

 人間の賢さから始まり、人間の才能によって実行されることは、常に人間への賞賛で終わります。魂の中で始まるものは、その生物自体を賞賛するだけです。

 しかし、天の御国、この世、そして永遠においても人に栄光を与えるものはありません。

 神から生まれ、神を通して、そして神に至るものだけが永遠の中に残ります。

 神に関する限り、行いにその価値を与えるのは、その背後にある動機です。私たちが何を行うかは重要ですが、なぜそれを行うのかははるかに重要です。

 イエスは父に従い、父のご計画を受け、それを実行する神の力を得て、父のすべてのみこころを完了しました。しかし、それだけではありません。前の章で見たように、イエスは大きなわざの後、祈りに出て行かれました。それは天の父に栄光をお与えになるためです。彼はそのわざの実を、父への捧げ物として捧げられました。

 彼は自分自身の名誉を求めたり、それが仮に与えられたとしても受け取られることはありませんでした(ヨハネ5:41; 8:50)。名声が広まった時も、彼は父に栄光をお与えになるために山に退かれました(ルカ5:15、16)。彼はその栄光に決して触れないと決めておられました。

 イエスはその決意を生涯貫かれ、最後に次のように言われました。

「地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ17:4)

 イエスは一人の人間として、天の父に栄光を与えるために地上に来られました。彼はそれを目標として毎日過ごされ、どんな犠牲を払っても、父だけが栄光をお受けになるよう切に祈られました。そして、彼はついに、父が天の御国と同等、地上でも父の御名が高められ栄光を受けるために、死にまで従われました。

 私たちが火で試される日(1コリント3:13)、自分の主への奉仕の動機を知ることになるとパウロは言っています(1コリント4:5-TLB)。

 その日、それぞれの動機が主によって明らかにされ調べられます。

 私たちが魂によって奉仕をするならば、自分の名を挙げ、神ではなく自分に人々を引き寄せることになります。人々は私たちの話を聞き感動し、また繰り返し聞きにきます。そして私たちを褒め称えるでしょう。しかし、私たちがその場を離れると、彼らは以前の霊的な状態に戻ります。彼らが聞いたすべての説教は全く意味を成しません。

 人の奉仕は、自分の死後、または自分が離れた後の奉仕した人々の状態を見れば、その奉仕が魂によるものか、霊的なものかがわかります。

 人を自分自身に引き寄せるような奉仕は、最後には木、干し草、わらであることが証明されます。

 イエスの働きは霊的なものでした。魂ではなく霊によって生きた人々(少人数ですが)を残されたという事実がその証拠です。神の栄光を現すために、私たちはここでイエスの足跡を辿るべきです。

 魂による生き方と奉仕は、ただ魂によって生きる反キリストが全世界で広く受け入れられるという構図を作ってしまいます。この反キリスト者は、人より自分自身を高く評価し、奇跡的な力を使って人々を自分に引き込みます(2テサロニケ2:3-10)。自分自身や自分の仕事に人々の注意を引く行為は、反キリストの霊の本質です。ですから、何をすべきか、どこに行くべきかを人に指示するような、人々の良心に圧力をかける力は魂から来るものです。人にアドバイスを与えることは霊的なことですが、彼らをコントロールすることは魂による行為です。

 イエスは彼に従った人々に何かをするよう強制されたことはありません。なぜなら、イエスは神が人々にお与えになった選択の自由を尊重しておられたからです。

 そしてイエスは、人々にあれこれ指図する者ではなく、すべての人に仕える者となられました。

 仕える者の霊ではなく、支配者、指導者としての霊で説教するのは非常に簡単です(2コリント4:5)。私たちは魂の力を使って、自分の意見を他人に押し付けることができます。そのようにして人々は束縛されます。

 非常に熱心で、自分の魂の強い力を自覚していない人は、人々をキリストではなく、自分自身に引きつけていることにさえ気づきません。神の働きは人間の力ではなく、聖霊によって成就します。そして、御霊の働きの現れの一つは自由です(2コリント3:17)全ての人に与えられる完全な自由です。

 しもべが家でどのように行動するかを考えてみてください。彼は言いつけられた仕事を黙ってこなし、その後台所で一人静かに待機します。しもべは物々しい、横柄な態度で現れることはありませんし、ましてやテーブルに座った人たちに指示しません。このしもべのように、主に仕えたいと思っている人はどれだけいるでしょうか。

 ある人が次のように言ったことがあります。

「しもべが持っている権利はたった一つだけであり、それは肉の思いを支配することです。彼が肉の思いをより支配できていれば、霊的な面で人々を導くことができます。霊的なしもべは、人々の必要に奉仕するためだけに、神から与えられた力によって人々に仕えます。

 しかしながら、私たちがその力を使って人を支配して、何かを強制する場合、その人は失望し、結局は自分の道を歩むという結果を生んでしまいます。しもべの働きは、魂がすべてを働かせる神との生きたつながりに取り込まれた中で働くことであり、しもべ自身とのつながりではありません。(1コリント12:6)」

 イエスは、ご自分の死後もそれまで以上に大きなわざを使徒たちが行える道を築こうと、神の栄光を求められました(ヨハネ14:12)。

 この大きなわざというのは 紛れもなく教会の構築であり、天の父と子が一つでおられるように、それに属する人々が一つになる教会を築くことです(ヨハネ17:21-23)。イエスが世で生きておられる間、父と子が一つでおられたにも関わらず、弟子のうちの二人でさえ一つのからだにはなっていませんでした。彼らは皆自己中心でした。しかし、ペンテコステの日の後、イエスの弟子の多くは、イエスの望まれたように一つになることができました。これが「大きなわざ」です。

 イエスは他の人がより大きなわざを行うための道を作ってくださいました。彼は死にまで従われ、土台を築いてくださったので、弟子たちはその上に築き上げることができました。

 イエスは個人的利益に全く興味がありませんでした。他の誰かが彼の功績を横取りして、父に栄光を帰したとしても、イエスにとってはなにも問題ではありませんでした。

 今日、私たちがキリストのからだである教会に自らを捧げて奉仕し、キリストのみからだとしての教会を建てようとするのであれば、私たちはこのキリストの霊に倣うことができます。

 イエスは完全に父の御顔を前にして生きておられたので、死からよみがえられた後も、十字架につけた人々の前でご自分の嫌疑が晴らされることなど望んでおられませんでした。 

 世界とユダヤの指導者の目には、イエスの宣教は完全な失敗として写っていました。もし、イエスが魂によって生きる人ならば、復活された後、彼らの前に姿を現し困惑させ、ご自分の真実を立証したいと思われたことでしょう。しかし、イエスはそうされませんでした。復活の後、彼を信じた人々にのみご自身を現されました。

  イエスが立証されるための父の時はまだ来ていませんでした-そしてイエスは待っておられます。その時はまだ来ていません。

 イエスはまだ世の中で誤解されており、多くの人がイエスの人生は失敗に終わったのではと考えています。彼の人生は、家畜の餌箱という不名誉から始まり(人として)、最後は落ちぶれた二人の犯罪者と共に、十字架の上で屈辱的な死を受けられました。そして、その死はこの世が最後に見たイエスの御姿でした。イエスは、父が栄光を受けるためならば、人の前でどんな屈辱も受ける準備ができていました。彼は、人に賞賛されるために生きたり奉仕したりしなかったので、いつの日か天の父が、大いなる栄光と名誉でイエスを公に立証されるでしょう。そしてその日、すべての人が跪き、イエス・キリストが主であることを告白します。しかし、それは父なる神が栄光をお受けになるためです(ピリピ2:11)。

 では、ここで三つ目の質問です。自分に問いかけてみてください。

「私は神の栄光のために生きているだろうか。

 章 9
キリストの花嫁

聖書の最後のページには、聖霊の働きによる結果であるキリストの花嫁について、また、サタンの偽りの結果の大淫婦の教会についても書かれてあります。

ヨハネは次のように述べています。

「また、私ヨハネは、神のもとから出て天から下って来る、聖なる都、新しいエルサレムに目を奪われました。その眺めのすばらしさは、まるで美しく着飾った花嫁のようでした。…そこで私は、すばらしい都、きよいエルサレムが神のもとを出て、天から下って来るのを見ました。…都は神の栄光に包まれ、宝石のように光り輝き、碧玉のように(水晶のように)透き通っていました。」(黙示録21:2,10,11リビングバイブル)

 このキリストの花嫁のビジョンを見る前に、ヨハネには、神を愛すると主張しながら、実際にはこの世を愛してやまない(ヤコブ4:4)霊的な不品行者、淫婦のビジョンが与えられました。これは、敬虔さらしきもの(教義の正しさ)を持っていますが、全く力(神から来る、神聖ないのち)のない偽りのキリスト教界を指しています(2テモテ3:5)。

 ヨハネは言います。「すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た…『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』…倒れた。大バビロンが倒れた。私は女性、大いなるバビロン、大いなる母、そして「大いなるバビロンが倒れた。…彼女が火で焼かれる煙りを見ると…彼女の煙は永遠に立ち上る。」(黙示録17:3、5; 18:2、9; 19:3)。

 このヨハネの対照的な二つのビジョンは実に衝撃的です。花嫁は高価な宝石のように輝きながら裁きの火を通り抜けますが、淫婦は朽ちるものでできているため、完全に灰になり、その煙が空に昇っていきます。

 花嫁のエルサレムと淫婦のバビロンは二つのシステムを意味します。前者は神からのもので、後者は「地(世)に属し、肉(魂)に属し、悪霊に属する」ものです(ヤコブ3:15)。

 まずバビロンを見てみましょう。

バビロンは、人間の計画に従って、人間の力によって、人間の栄光のために建てられたバベルの塔から始まりました。

「彼らは互いに言った。(人から)…『さあ、われわれは町を建て(人によって)、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。(人のために)』」(創世記11:3、4)。

 数年後、世界帝国の中心である大バビロンを建設したネブカドネザル王は、ある日、町を見渡して自慢げにこうつぶやきました。

「この大バビロンは、私の権力によって(人によって)、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために(人のために)、私が(人から)建てたものではないか。」(ダニエル4:30)。

 バベルの塔は神の裁きで終わりを迎えます。ネブカドネザルの高慢は、すぐに神の裁きをもたらしました(ダニエル4:31-33)。人間の知恵と力によって、人間の栄光のためによって作られるすべてのものが神によって裁かれます。人間の魂の力によってなされることは、たとえそれが「クリスチャンの働き」と呼ばれても滅びます。

「バビロンの厚い城壁はくずれて平らになり、高い城門も無残に焼け落ちます。多くの国から呼び集められた建築士は、(「クリスチャン」の働き人)造った物が焼かれるため、むだ骨を折ったことに気づきます。」(エレミヤ51:58-リビングバビブル)。

 一方、エルサレムは神の都です(ヘブル12:22)。旧約聖書では、神の神殿があった場所です。神の住まわれるエルサレムは、モーセが建てたに幕屋に起源があります。(出エジプト記25:8)その幕屋は神のご計画通りに建てられました。

 「すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。」(出エジプト記40:16)(神から)。

 幕屋は神の力を授けられた人によって建てられました。

「ベツァルエルを名ざしで召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。」(出エジプト記31:1-5)(神によって)。

 また、それは神の栄光のために建てられました。

「主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40:34)(神のために)。

 神に端を発し、神の栄光のために、神の力によってなされることは、永遠に残ります。それは金、銀、宝石でできているので、宝石のように輝き、火の中を通り抜けます。

 聖書の初めと終わりのページを比較すると、二本の木(いのちの木と善悪の知識の木)が、最後にはエルサレムとバビロンという二つのシステムを生み出していることがわかります。

 御霊から生まれたもの(神から、神によって、神のために)は永遠に残り、肉から生まれたもの(人から、人によって、人のために)は永遠に滅びます。

 今日、私たちは創世記と黙示録のページの間に住んでいます。その認識の有無にかかわらず、私たちはこれら二つのカテゴリーのうち、どちらかに捕らえられます。神を讃え神に栄光を与えるのか、人を讃え人に栄光を与えるのか、また、キリストに従うのか、アダムに従うのか、そして、霊に生きるのか、それとも肉と魂に生きるのかということです。

 イエスとアダムはどちらも神の声を聞きました。両者の違いは、その御声にイエスは従い、アダムは従わなかったということです。イエスはまた、これが彼のみことばを聞く人にも当てはまると言われました。イエスのことばを聞いて従う人は、岩の上に自分の家を建て、永遠に揺るぐことはありません。しかし、聞くだけで従わない人は、砂の上に自分の家を建て、永遠に滅びます。(マタイ7: 24-27)

 イエスが語られたこれらの二つの家とは、エルサレムとバビロンです。

 今日、信仰によって真に義とされ、イエスの血によって新約のいのちに入り、イエスが歩まれたように神のみこころに従って歩み(特にマタイ5から7で説明されているように)、「岩の上」に自らを築く人はエルサレムの一部となります。マタイ5章から7章を読むだけで、自分がこの家に属しているかどうかがわかるでしょう。

 同様に、マタイ5章から7章でイエスの言葉を聞いてはいるけれども、正義、信仰、恵みについて誤って理解している人々(圧倒的に大多数の人がそうですが)が、イエスのみことばに従うことを気にも留めず、偽りの平安の中で生きています。そして、砂の上(バビロン)に自らを築き、永遠に滅びてしまいます。

 彼らは、自分はクリスチャンだ信じています。なぜなら、イエスは、砂の上に建てられた人も、彼の声を聞き(異教徒ではない、つまりクリスチャンであることは明確)、聖書を読み、「教会」に行く人であると言われているからです。しかし、彼らはみことばに従わないので、イエスに従うすべての人に約束された永遠の救いを受けることができません(ヘブル5:9)。彼らの信仰は本当の信仰ではありません。なぜなら、彼らにはみことばに従った行いがなく、彼らの信仰が全うされることがないからです。(ヤコブ2:22、26)

 アダムの下にいる人々は、神が示されるみこころに背いて、彼らの頭に従います。それでも「キリストを救い主として受け入れた」と主張するので、「死ぬことはない」(創世記3:4)とサタンによって納得させられます。これがバビロンにある偽りの安心感です。

 同様に、キリストの下にある人々は、神のご意志に従って「イエスが歩いたように歩き」(1ヨハネ2:6)ます。彼らはキリストの兄弟姉妹であり(マタイ12:50)、エルサレムの一部です。

 マタイ5章から7章の終わりにイエスが語られたたとえ話で、非常に興味深いのは、雨と洪水が来るまで、賢い人の家も愚かな人の家も、どちらもそこに建っているということです。それは、バビロンとエルサレムのどちらも、今しばらくの間共存しているということです。

 このたとえ話の愚かな人は家の外観(人の評判)だけに関心がありましたが、賢い人は主に土台(神の御顔の前に誠実に生きる、心の奥深くに隠されたいのち)に関心がありました。

 しかし、洪水と雨が来た時(神の裁き)に問われたのは家の土台でした。

 「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりはどうなることでしょう。義人が困難を伴って救われるならば、敬わない者や罪人たちにはどのようなチャンスあるでしょうか。」 (1ペテロ4:17、18-バークレー)。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない(罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。- 1ヨハネ3:6)。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』(マタイ7:21-23)。」

 これらの聖句は、心(イエスを「主」と呼ぶ)と感情(「主、主よ」とイエスを呼ぶ)の中だけでクリスチャンであり、生活において神のみこころを全く行おうとしない人々が多くいると言っています。主は、彼らが誰だか知らないと言って拒まれるのです。

 エルサレムは「聖なる都」(黙示録21:2)と呼ばれているように、神聖さがその象徴です。一方、バビロンは「偉大な都市」と呼ばれているように、その壮大さが重要視されます(黙示録18:10)。黙示録では、バビロンに関して、十一回「偉大な」という言葉が出てきます。

 真の聖さ、神への従順、そして信仰による恵みによって、キリストの性質にあずかる人々は、エルサレムの中で共に築き上げられていきます。一方、この世での偉大さ(人々への証と名誉)を求めている人々はバビロンの中で成長します。

 千九百年の間、神の民に対する呼びかけがあります。

「クリスチャンよ。あの女(バビロン)から遠ざかりなさい。その罪に連なってはなりません。そうでないと、いっしょに罰を受けることになります。」(黙示録18:4-リビングバイブル)

 世の終わりに近づくにつれて、この呼びかけは今日より一層切実になっています。神の民でさえも、この神の呼びかけに注意を払わなければ、バビロンにのみ込まれ、バビロンと共に裁きにあう可能性があるということは本当に残念な結末です。聖句に呼応した生活を送らず、真の信仰の表れである従順な行いがなければ、いくら福音主義の教義を元にキリストを受け入れたと口で言っても、裁きの日には何も意味がありません。

 神が人をお造りになった時、神はどれほどご自分の性質を受けて、神の栄光を現して欲しいと人間に願われたことでしょうか。

 そして人間が罪を犯しても回心して贖われ、神の目的を果たす場所へ帰る道を作ろうと、神は喜んで代償を払ってくださいました。「ご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:3)。

 父、子、聖霊は、人を贖い造り変えようと共に働いておられます。ほとんどの人があさはかにも神に対して無反応ですが、イエスのように神に従い、今だけでなく永遠にキリスト・イエスに似た者へと私たちを変えてくださる豊かな神の恵みを受けて、神の栄光を表す人々(いのちに至る狭い道を見つける少数の人)の中で、神の目的は果たされます。

 主イエスに、今も、そして永遠に、すべての栄光がありますように。

 聞く耳のある人は、聞きなさい。