新しいぶどう酒と新しい革袋

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 章 1
新しいぶどう酒と新しい革袋

イエスは、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れることについて語りました。

(ルカ5:37)新しいぶどう酒はイエスのいのちであり、新し革皮袋はイエスが建てる教会です。

新しいぶどう酒

 イエスが出席していたカナの婚礼で、古いぶどう酒がなくなってしまいました。古いぶどう酒は人間の努力によって、何年もかけて造られましたが、この婚礼では結局足りませんでした。

これは律法、つまり旧約の下での生き方のたとえ話です。古いぶどう酒は尽きます。主は、古いぶどう酒が尽きるのを待って、それから新しいぶどう酒を与えてくださいます。

 「主なる神はこう言われる。『わたしの助けをを待ち望みさえすれば、おまえたちは救われる。』…あなたがたは言います。エジプトの力を借りよう。(人間の力)しかし実際に見るのは、あなたがたを追いかける敵の速さだけです。… 主は、あなたがたを愛し、いつの日か、みもとに帰って来る(自分の力に終止符を打ち)のを待っています。…祝福しようと待ちかまえています。 主の助けを待ち望む人は皆幸いです。」(リビングバイブル イザヤ 30:15-18)

 私たちが勝利のうちに生きようと何度も試み、何度も失敗する時、神が私たちに教えようとしているのは、「自分の力では勝利を得ることはできない」ということです。

律法の下にある限り、あなたは罪に支配されます。神が、子どもたち一人一人になさろうとする主な御業は、自我の強さを完全に打ち砕くことです。イエスはカナで奇跡を行う前に、古いぶどう酒がなくなるのを待ちました。そして今、私たちの力が尽きるのを待っておられます。

 私たちのすべての失敗と敗北は、神が私たちを終わりへと導くためのものです。なぜなら、私たちの弱さの内に、その御力が完全に現されるからです(2コリント12:9)。

 誘惑や挑発を受けた時の苦々しい言葉、怒りの表情、自己正当化、他者への批判や裁き、容赦のない態度、物質への執着、権利や評価を狙った争い、復讐心などに私たちが反応する瞬間に、自我の強さが分かります。こうした態度や類似した態度は、私たちの中にまだ自己が強く残っていることを示しています。古いぶどう酒はまだ空になっておらず、イエスは私たちのためを思い、ただ静かに待っていてくださいます。

 もし私たちが、神に打ち砕かれることを許し、へりくだって、喜んで権利や名誉に対して死を受け入れるなら、神はどれほど早く私たちを新約の下に置いてくださるでしょう。私たちが経験するすべての困難な状況、挫折、失望、心痛などは、神が私たちの自己の強さをゼロにするために意図されたものです。

 神はまさにヨブをこのように扱われました。最終的にヨブはそのゼロ点に達し、地面にうつぶせになってこう言いました。「ああ、私はつまらない者です。(私はゼロです。)あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました(間接的に)。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ40:4; 42:5, 6)

 これは、神が私たちを打ち砕き、ご自身の啓示を与えてくださる時に起きることです。かつて(40歳の時)自分は有能だと思っていたモーセは、神の幻によって打ち砕かれ(40年後)、こう言いました。「私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重いのです。…どうか他の人を遣わしてください」(出エジプト4:10, 13)

 偉大な預言者イザヤも神の栄光を見た時、同じことが起こり、彼は「私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者」(イザヤ書 6:5)と言いました。ダニエルは、主が与えられた幻を見た時、力が尽きたと述べています。彼は完全に力を失い無力になったのです(ダニエル書 10:8)。

 聖霊に満たされた使徒ヨハネは、65年間神と共に歩んだ後、パトモス島でイエスを見た時、死人のようにイエスの足元に倒れました(黙示録 1:17)。

 主の栄光を見た人は皆、常にこのような経験をしてきました。彼らの顔は塵に覆われ、口は閉じられます。神が私たちをその場所に導くことができる時、新しいぶどう酒、イエスのいのち、神のご性質、イエスの血によってもたらされる新約の比類なき祝福を私たちに与えるのは、神にとって容易なことです​​。​​
 ああ、私たち皆が一刻も早くそこへ行き、神の前に顔を土につけて、生涯をそこで生きることができますように。この生き方において、私たちは光から光へ(箴言4:18)、栄光から栄光へ(2コリント3:18)と発展していきます。

 ヨハネは「光の中を歩む」(1ヨハネ1:7)と語っています。光の中に立っているのではなく、むしろ歩むこと、すなわち、暗闇のない主にますます近づいていく歩みです。こうして光は私たちをますます明るく照らし、私たちは以前は気づかなかった、肉に潜む隠れた罪をますます意識するようになります。そして、イエスの血は、私たちをそれらのすべての罪から清めます。

 このように、私たちが主に近づくほど、さらに自分の肉の罪に気づき、周りの人々の罪を気にとめなくなります。私たちはもはや、姦淫の罪を犯した女性に石を投げつけたいとは思わなくなります、なぜなら、イエスの御前にいる自分自身の肉の罪を自覚し、「ああ、この女は惨めな女だ」と他者に叫ぶのではなく、「ああ、私は惨めな人間だ」と叫ぶからです(ローマ7:24)。アダムは神の御前に立ちながら、妻を指差しました(創世記3:12)。しかし、主は彼に彼自身の罪を気づかせました(3:17)。

 主は私たちにも同じようにしてくださるのです。私たちが単なる宗教や何かしらの教義を持っているのか、それとも神ご自身の御前に生きているのかが試されます。

 私たちの個人生活、結婚生活、あるいは集会生活において、ぶどう酒は尽きてしまいましたか。そうならば、主の御顔を求め、私たちの必要を正直に認め求めましょう。主だけが私たちに新しいぶどう酒を与えることがおできになります。

 カナの新しいぶどう酒は、人間の努力によって作られたものではありません。それは神の超自然的な御業でした。それは私たちの人生においても同じです。神は私たちの心と思いに御自身の律法を書き記し、私たちを御自身の完全な御心とご意志に従わせてくださいます(ヘブル8:10、ピリピ2:13)。

 神は私たちの心に割礼を施し、神を愛し、神の戒めに従って歩ませてくださいます(申命記30:6、エゼキエル36:27)。これは、カナで作られた新しいぶどう酒が神の御業であったのと同じように、神の御業です。これが恵みの意味です。

 私たちは、たとえ一生かけても、イエスのいのちを生み出すことはできません。しかし、もし私たちが「イエスの死」(日々十字架を背負うこと、私たちの自我、自己意志、権利や名誉に対して死ぬこと)を私たちのからだに負うならば、神は私たちの内に、イエスのいのちという新しいぶどう酒を生み出すと約束しておられます。(2コリント 4:10)

 私たちはこの競争を、常にイエスを見つめながら、ただイエスと自分を比べながら走らなければなりません。そして、私たちの心からは「私はなんとみじめな人間なのだろう」という叫びが絶えず上がって来ます。なぜなら、たとえ罪を克服して勝利したとしても、自分がいかにイエスとは似ても似つかない者かを常に自覚するからです。

 また、自分を他の信仰者と比べる者は、霊的な愚か者です(2コリント10:12)。なぜなら、それは霊的な高慢と多くの悪に陥る最も確実な道だからです。

 私たちがイエスに目を留め、常に自分をイエスと比較している限り、霊的な傲慢に陥る危険はありません。聖霊は神のみことばという鏡を通して、イエスの栄光を示してくださいます。そして初めて、私たちをイエスの栄光から栄光へと同じ姿へ変えてくださいます(2コリント3:18)。

 パウロは、自分が目指すのはただ一つ、失われた人々の回心ではなく、「(キリスト・イエスに似た者となるようにという)キリストにおける神の召命」(ピリピ3:13, 14)であると述べています。そして彼は言いました。「(良心において意識的な罪に打ち勝った)成人である者は皆、このような考え方を(イエスのように完全な者となることを目指して進むこと)を持ちましょう」(ピリピ3:15)。これは霊的に成熟したクリスチャンの特徴です。神への奉仕、伝道などはすべて、神の成熟した人の人生において、この目標に比べれば二の次です。

 ヨハネはまた、神の光の中を歩むことによってのみ、私たちは互いに交わりを持つことができると教えています(1ヨハネ1:7)。それは神との交わりだけでなく、他の信仰者との完全な一致における交わりでもあります。その理由は非常に単純です。神の光の中を歩み、神の御前に生きる人は、常に自分の欠点を自覚し、絶えず自己を裁きながら生き、他の兄弟を非難することはありません。ですから、この道を歩む兄弟の間には、決して争いは起こりません。これが、イエスが言われた、ほとんどの人が見いだせない、いのちに至る狭い道です(マタイ7:14)。

 神の家から、義人から、裁きが始まります。なぜなら、神は、神の家の近づきがたい光の中に住んでいるからです(1ペトロ4:17, 18; 1テモテ6:16)。

 「誰が焼き尽くす火に耐えられよう。… 正義を行う者(自己を真理に照らし合わせて生きる人)」(イザヤ書33:14, 15)。

 常に自己を裁きながら生きることができなかった、ラオデキアの教会の指導者達はこの点で躓きました(指導者になると、この誤りに陥りやすいものです)。彼らは、自分達が「みじめな者」(黙示録3:17)であることを知りませんでした。

 私たちも、生涯、神の御前でこのように生きることができますように。そして、絶えず砕かれ、自分を裁く中で、「私はなんとみじめな人間なんだろう。」と嘆きながら生きることができますように。

 ですから、救われた罪人が世で到達できる聖さにあずかったとしても、私たちは(うわべだけのへりくだりではなく、誠実にそして正直に)「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私に…私はその罪人のかしらです」(エペソ3:8; 1テモテ1:15)と言いましょう。

 こうして私たちは、同じ道を歩む他の信仰者との交わりを持つようになり、その交わりは天の父と御子が互いに持つ交わりにますます似たものになります(ヨハネ17:21)。これがイエスが私たちに与えたいと願っておられる新しいぶどう酒です。

新しい革袋

 普段メッセージを聞いて喜んでいるだけの人の多くは、新しい革袋を得るために代価を払うことをためらうかもしれません。しかし、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れられなければならない」(ルカ5:38)と言われました。そして、ここで私たちの従順さが試されるのです。

 新しいぶどう酒を得るには、罪との戦いが必要です。しかし、新しい革袋を得るには、神の御言葉を無効にしてしまう宗教的伝統との戦いが必要です。多くの人にとって、人間の伝統から抜け出すことは、罪から抜け出すことよりもはるかに困難です。しかし、激しく奪う者だけが神の国を手に入れるのです(マタイ11:12)。宗教的伝統は、そういった強い願望、熱意がなければ取り除くことはできません。

イエスが十字架につけられたのは、罪を非難したからではなく、ユダヤ人の間で神の御言葉に取って代わった、宗教的伝統を非難したからです(マルコ7:1-13)。

 イエスは宗教指導者たちの偽善と宗教的伝統の空虚さを暴露し、宗教の名の下に金儲けをする者たちを神殿から追い出しました。神の家を清めようとするイエスの熱意こそが、宗教指導者たちを激怒させ、イエスの十字架刑を求めたのです。

 もし私たちが、心砕かれることと新しいぶどう酒についてを説教するなら、私たちを十字架刑にかけろと人々が要求することはないでしょう。しかし、新しいぶどう酒は今や新しい革袋に入れられなければならないという、神の全ご計画を宣べ伝えようとすると、キリスト教界のあらゆる宗派の指導者たちの怒りを覚悟しなければなりません。

 なぜイエスは、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないと言われたのでしょうか。それは、古い革袋はこれ以上伸びることができず、破れてしまうからです。古い革袋はかつては役に立っていました(古いぶどう酒を入れるために)が、新しいぶどう酒には役に立ちません。

 ユダヤ人の宗教制度(古い革袋)は、かつて、神によってモーセを通して、古いぶどう酒を入れるために定められました。しかし、イエスが来られ、新約を結ばれると、新しい革袋が必要になりました。古い革袋は捨てられなければなりませんでした。イエスは、古い革袋に新しい革袋を継ぎ接ぎすることさえできない、と言われました。そんなことをすれば、革袋が破れてしまいます。(ルカ5:36)

 私たちはクリスチャンとして、ユダヤ人の古い革袋は捨てられ、今、キリスト教会には新しい革袋があると思っているかも知れません。しかし、あなたがクリスチャンの集会と呼んでいるものをよく見てみると、そこには旧約の特徴が数多く見られることに驚かれるでしょう。

 例は他にもたくさんありますが、ここでは三つだけ考えてみたいと思います。

 まず第一に、旧約の時代では、ユダヤ人には特別な部族(レビ人)がいて、彼らは祭司としてすべての宗教的務めを担っていました。

 すべてのユダヤ人が祭司になれるわけではありませんでした。しかし、新約の下では、すべての信仰者が祭司です(1ペテロ 2:5; 黙示録 1:6)。これはほとんどの信仰者が理論的に信じている真理ですが、実際にはごく少数の人しか実践していません。

 ほとんどすべてのキリスト教徒のグループには、古代のレビ人のような「司祭」や「牧師」、あるいは「神のしもべ」、あるいは「フルタイムの働き手」がいて、神の民の礼拝を導きます。これらの「レビ人」だけが、新しい回心者に洗礼を施したり、パンを裂いたりすることができます。そして、これらの「レビ人」は、神の民の什一献金によって支えられています。集会では、彼らがショーを牛耳って、一つのからだとしての奉仕の機会を与えません。一人の話し手によるショーは、古い革袋の一部です。

 新約の下では、すべての信仰者が新しいぶどう酒を飲み、聖霊の注ぎ、賜物を受けることができます。二人か三人の預言者が集会の冒頭に立つべきであり、一人か二人は異言を語り(それぞれに解釈を与えて)、信仰者は皆集会で自由に預言し、教会を築き上げることができます。これが新しい革袋です(1コリント14:26-31)。

 新しいぶどう酒は1コリント13章で愛のいのちとして描写されています。新しい革袋は1コリント 12章と14章にその描写があります。しかし、神の御心によって物事が成し遂げられることを望む信仰者はどれほどいるでしょうか。残念ながら、ごくわずかです。ほとんどの信仰者は古い革袋と、給料を得ている「レビ人」たちに満足しています。

 第二に、ユダヤ人には預言者がおり、彼らは様々な事柄において神の御心を見出すことができました。預言者だけが聖霊を持っていたからです。しかし、新約の下では、預言者は全く異なる役割を担います。それは、教会を築き上げることです。(エペソ4:11、12)

 全ての信仰者は今や聖霊を受けることができるので、神の御心を知るために預言者に頼る必要はありません(ヘブル 8:11;1 ヨハネ 2:27)。しかし、多くの信仰者は依然として、何をすべきか、誰と結婚すべきかなどを知るために神の人に相談するという、古い革袋の中で生きています。

 第三に、ユダヤ人は広大な地域に散らばる大きな共同体でしたが、エルサレムにその本部があり、世の大祭司が指導者でした。新約の下では、イエスだけが私たちの大祭司であり、私たちの唯一の本部は神の御座です。また、ユダヤ人は中央から七つに枝分かれした燭台を持っていました(出エジプト 25:31, 32)。これが古い革袋でした。新約の下では、それぞれの地方教会は枝のない独立した燭台です。これは黙示録 1:12, 20に明確に示されています。

 そこでは、小アジアの七つの地方教会がユダヤ教の燭台とは異なり、七つの別々の燭台があります。教会の頭であるイエスは、それらの燭台の間を歩いておられます。当時、世の教皇、またはどの教派の総監督や会長もいませんでした。また、世のどこにも、あらゆる事柄の最終決定権を持つ長老もいませんでした。各地方教会は、地元の長老によって統治されていました。これらの長老たちは、彼らの頭である主に直接責任を負っていました。

 しかし、今日私たちの周りには、名前の有無にかかわらず、宗派制度(古い革袋)の中にいるクリスチャンがたくさんいます。宗派ではないと主張しているグループもありますが、それでも実際は、その内部に宗派のすべての特徴を持っています。これらすべてが古い革袋です。 神は、腐敗の蔓延を防ぐために地方教会の新しい革袋を定められました。 もし、小アジアの七つの教会が互いに枝分かれしていたら、バラムとニコライ派の堕落した教義、そしてイゼベルの偽りの預言(黙示録 2:14、15、20)は七つの教会すべてに広まっていたでしょう。しかし、それらはすべて別々の燭台であったため、スミルナとフィラデルフィアの二つの教会は自らを清く保つことができました。ですから、もしあなたがたが会衆を清く保ちたいのであれば、宗派主義という古い革袋を捨て去りましょう。

 私たちを束縛する人の伝統に真剣に立ち向かい、其々の地方教会でキリストのからだを建て上げる者を、主が私たちの国にたくさん起こしてくださいますように。

 章 2
神は男性を必要としておられる

神が今日必要としてられる男性は以下のような人です。

・日々神の御前に立ち、神の声を聞く人

・神以外の何者も、何事も望まない人

・神を深く畏れ、あらゆる罪を憎み、あらゆる道において義と真理を愛する人

・怒りと性的にみだらな罪深い思いを克服し、考えや態度においてさえ、罪を犯すよりは

 むしろ死を選ぶ人

・日々十字架を背負い、完全を目指して歩み続ける人、常に恐れ慄いて自らの救いを達成

 しようと努める人

・聖霊に満ち、愛に深く根ざし、どんなに大きな挑発を受けても、他者に対し

 て愛のない態度を取ることのできない人、

・へりくだりを土台にして、人からの称賛や霊的成長、神に認められた奉仕、

 その他何によっても、聖徒の中で自分が最も小さい者であることを自覚することができ

 る人

・神のご性質と目的を神の御言葉によって理解し、そしてその御言葉に恐れ慄いて、たと

 え小さな戒めにも背いたり、他の人に教えることを怠ったりしない人

・神の全ご計画を宣べ伝え、宗教的姦淫や非聖書的な人間の伝統を暴露する人

・敬虔さの奥義、すなわちキリストが肉体を持って地上に来られ、肉体を通して新しい生

 きた道を開かれたことについて、聖霊の啓示を受ける人

・勤勉で働き者でありながらも、ユーモアのセンスがあり、平安の中子供たちと遊び、自然

 の中で神の恵みを楽しむ方法を知っている人

・禁欲主義者ではないが、規律正しい生活を送り困難を恐れない人

・高価な衣服や豪華な旅行等に興味がなく、無益な活動に時間を無駄にしたり、不必要な

 買い物にお金を浪費したりしない人

・高級な食事への欲求もなく、音楽やスポーツ、その他の健全な活動にさえも虜にならな

 い人

・苦難、暴力、試練、偽りの告発、肉体の病、経済的困難、そして親族や宗教指導者から

 の反対などに置いて、神によってしっかりと訓練され鍛えられた人

・自らを罪人の中でも最も罪深い者とみなし、慈悲深く、罪人の中でも最も罪深い者に

 も、信仰者の中でも最も罪深い者にも同情し、彼らに希望を抱くことができる人

・天の父の愛にある平安があり、何事にも不安を感じず、サタンや邪悪な人

 困難な状況など、何事にも恐れを抱かない人

・神の安息に入り、すべてのことにおいて神が主権的に働き、最善を尽くしてくださると

 信じ、それゆえ常にすべての人、すべてのもの、すべての状況に感謝する人

・神のみに喜びを見出し、それゆえすべての苦悩を克服し、主の喜びに満たされる人

・生きた信仰を持ち、自分自身や自分の生まれ​​持った能力に頼らず、すべての状況におい

 て必ず助けてくださる神に全幅の信頼を置く人

・自分の理性の促しではなく、聖霊の導きによって生きる人々。

・キリストご自身によって真に聖霊と火のバプテスマを受けた人

 (感情的な偽りに心を躍らせたり、神学的な議論に納得したりした人々ではない)

・聖霊の注ぎの下に常に生き、聖霊が備えてくださった超自然的な賜物を授けられた人

・教会がキリストのからだであり(会衆や宗派ではない)、その教会を建て上げるために

 すべてのエネルギー、物質的な富、そして霊的な賜物を捧げる人

・聖霊の助けによって舌を制することを学び、その舌が神の御言葉で燃えている人

・すべてを捨て去り、もはや金銭や物質的なものに惹かれず、他人からの贈り物を一切望

 まない人々

・地上のあらゆる必要を神に委ねることができ、会話の中でも手紙やレポートの中でも、

 物質的な必要についてほのめかしたり、自分の奉仕の功績を讃えたりしない人

・頑固ではなく、温厚で批判を受け入れ、目上の賢明な兄弟からの指摘を熱心に求める人

・他人を支配したり助言したりする欲求を持たず(求められれば喜んで助言を与える

 が)、年長者や指導者と見なされることを望まず、ただすべての人の普通の兄弟であ

 り、しもべでいることを望む人

・付き合いやすく、他人に迷惑をかけられたり、利用されたりすることをいとわない人

・大富豪と物乞い、肌の白い人と黒い人、博学な人とそうでない人、教養のある人と無学

 な人を区別せず、皆を平等に扱う人

・妻、子供、親戚、友人、他の信仰者の影響で、キリストへの献身や神の戒めへの従順

 が冷めてしまうということがない人

・サタンがどんな報酬(名誉であれ、金銭であれ、何であれ)を与えても、決して妥協さ

 せられることのない人

・恐れを知らずキリストの証人となり、宗教指導者も世俗指導者も恐れない人

・世のいかなる人にも気に入られようとせず、神のみに気に入られるためなら、必要な

 らばすべての人を怒らせることもいとわない人

・神の栄光、ご意志、御国を、単なる人間の必要や自分の安楽よりも常に優先する人

・神のためと称した無駄な「死んだ行い」をするように、他人や自分の理性によって自分

 に圧力をかけず、自分のいのちのためだけに、神に啓示された御心を行うことに熱心で

 満足する人

・信仰の働きにおいて魂的なものと霊的なものを見分ける聖霊の識別力を持つ人

・世の視点ではなく天の視点から物事を見る人

・神のために働くことに対して、与えられる世俗的な名誉や称号をすべて拒む人

・絶えず祈ること、また必要に応じて断食し祈ることを知っている人

・惜しみなく、喜んで、隠れて、知恵を用いて、そして献身的に与えることを学んだ人

・何とかして幾人かでも救われるように、全ての人にとって、すべてのものになることを

 厭わない人

・人々が救われるだけでなく、キリストの弟子となり、真理を知り、神のすべての戒めに

 従うようになることを切望する人

・あらゆる場所で神の純粋な証しが確立されることを切望する人

・教会でキリストの栄光が与えられることを願う、燃えるような情熱を持つ人

・いかなることにおいても自分の利益を求めない人

・霊的な権威と霊的な尊厳を備えた人

・必要であれば、この世で一人になっても神のために立ち向かうことのできる人

・昔の使徒や預言者のように、全く妥協しない人

 今日、この世での神の御業は、上記のような人々が少ないために妨げられています。罪深く姦淫に満ちた時代、そして妥協を強いられるキリスト教界のただ中で、あなたは心から、そのような神のための人となることを決意してください。神には偏見はありませんから、あなた自身が真剣にそうありたいと願うなら、そのような人になることができます。 

 神は私たちの人生の意識的な範囲においてのみ、献身と従順を求められるので、たとえその範囲が限られていたとしても、あなたもそのような人になることができます。(その領域は、あなたが光の中を歩み、完全を目指して進むにつれて、ますます広がっていきます。)

 ですから、あなたがそのような人にはなれないという言い訳はありません。肉には善が宿らないので、上記の本質が与えられるように神の恵みを求めなければなりません。ですから、この終わりの時代にそのような人となるための恵みがあなたに与えられるよう、日々神に叫び求めましょう。

 章 3
神は女性を必要としておられる

神は今日、エバを創造された際に女性を通して示そうとされた栄光を、自分の人生を通して忠実に体現する女性を必要としておられます。

助け手としての彼女の栄光

 神は、人にふさわしい助け手としてエバを創造されました(創世記 2:18)。この働きの栄光は、イエスがその「助け手」という名称を聖霊を指して用いられたことに気がつくと見えてきます(ヨハネ 14:16)。

 聖霊が目に見えない形で、静かに、しかし力強く信仰者を助けるように、女性も同じ様に男性を助けるために創造されました。聖霊の働きは「舞台裏」で行われます。女性の働きも同様です。

 イエスの生涯もまた、女性にとって模範です。神のみことばは、男性は女性の頭であり、それはまさに神(父なる神)がキリストの頭であるのと全く同じであると述べているからです(1コリント11:3)。イエスは常に、父なる神に従って行動されました。神を畏れる姉妹たちも、夫に対しても同様の行動をとるでしょう。エデンの園におけるエバの過ちは、決断を下す前に夫に相談しなかったことでした。こうしてサタンは彼女を欺いたのです(1テモテ 2:14)。

 神は今日のクリスチャンの妻たちに、エバが失敗した夫への従順という領域で、神の栄光を現すよう召しておられます。それはまさに、イエスが父なる神に対して、そして教会がキリストに対してそうであったようにです(エペソ 5:24)。

 罪はルシファーの反逆を通してこの世に入り込みました。救いはキリストの従順を通してもたらされました。

 神の権威にへりくだり従う霊は、宇宙で最も偉大な力です。なぜなら、それはキリストの霊だからです。この霊は、十字架の上ですべての反抗の霊を打ち負かしました。妻が夫に従う時、彼女は実際には、そうするように命じている神の御言葉の権威に従っているのです。そして、彼女は宇宙で最も偉大な力の影響を受けるのです。たとえ回心していない夫でさえ、その力によって勝ち取ることができるのです(1ペテロ3:1, 2)。もし妻がこの世の人生において、その従順な霊で生きるなら、彼女は勝利者となり、イエスと共に永遠の世を治める資格を得るでしょう(黙示録 3:21)。

 しかし、ここでもサタンは再び女性を欺きます。御使いたちを惑わしたように、サタンは反抗の霊を通して女性を惑わします。反抗的な妻は、自分の家をどんな砂漠よりもひどい不毛の荒れ地に変えてしまいます(箴言 21:19が暗示しているのはそういうことです)。

 一方、徳高く従順な妻は、王のように夫を立て、自分の家を宮殿に変えます(箴言 12:4)。霊的に言えば、あなたの家は宮殿にも砂漠にもなり得るということです。それはすべて、あなたがどのような妻であるかによって決まります。神が最も高く評価されるのは、柔和(穏やか)で「静かな霊」(1ペテロ 3:4)です。

 箴言 31:10-31は、良き妻の特徴のいくつかを描写しています。彼女の心、手、舌は素晴らしいと書かれてあります。彼女の肉体的な美しさや女性的な魅力については何も述べられていません。なぜなら、それらは価値がなく、人を欺くものであると宣言されているからです(30節)。この事実を、すべての女性と少女、そして特に結婚を考えている若い男性によく理解してもらいたいと思います。​​​​​​​​

​​​​​​ ここで描かれている徳の高い女性は、神を畏れる心を持っています(30節)。これが彼女の全生涯の基盤です。彼女は手を使って働き、衣服を縫い、料理を作り、木を植え、貧しい人々を助けます(13-22節)。彼女は常に親切で賢明な言葉を用います(26節)。彼女は美しくなくても、神を畏れ、勤勉で親切です。神の栄光は、彼女の清い心、荒れてしまった手、そして柔らかな言葉を通して現れます(対照的に、世俗的な女性には汚れた心、柔らかな手、そして荒々しい言葉があります)。神は今日、これらの分野において、ご自身の栄光を現す女性を求めています。

 良い妻は夫の真の助け手です。彼女は人生の終わりまで、断続的にではなく、一貫して夫に尽くします(12節)。言い換えれば、彼女は夫への最初の愛を決して失いません。彼女はまた、夫の職業と人生の使命に適応し、静かに家事をしながら夫の収入を補い、出費に気を配り、お金を無駄遣いせず、倹約に努めます。

 夫がその地域で主のために奉仕できるよう、家事の責任から夫を解放します(23-27節)。夫がこのような妻を称賛し、世界中の女性(女性首相や女性説教者も含む)の中で彼女は最高の女性だと言うのも不思議ではありません(29節)。このような女性は、女性としての召命の栄光を理解しているので、公に称賛されるに値します(31節)。

 新約聖書は、家庭で「聖徒たちに仕える」ことに大きな重点を置いています。

 「食事や泊まる場所に困っている人に、喜んで家を提供しなさい。 …そして、夕食に客を招く習慣を身につけなさい」(1ペトロ 4:9; ローマ 12:13- TLB)。

 家庭におけるもてなしは、主に妻の責任です。妻は自分が預言者でなくても、預言者を家に迎えるだけで、預言者と同じ報いを受けることができます(マタイ10:41)。イエスの弟子の中でも最も小さい者にもてなしをすることで、妻は報いを受けます(マタイ 10:41)。 使徒を家に迎えることは、イエスご自身を迎えることと同じです(マタイ10:40)。同様に、イエスの名において子どもを迎えることも、イエスを迎えることと同じです(マタイ18:5)。おもてなしという素晴らしい奉仕は、すべての姉妹に開かれています。初期のクリスチャン(パウロとペトロがもてなしについて手紙を書いた相手)は、概して非常に貧しかったのですが、聖徒たちに提供するように求められたのは、質素な食事と床に寝る場所だけでした。名誉を求めるような信仰者は、豪華な食事と豪華な宿を提供できなければ、おもてなしができていないと感じます。1テモテ5:10は、一世紀の貧しい未亡人でさえ、聖徒たちの家で仕えていたことを示しています。

 神の栄光は、主婦としての召命が認められた女性に現れます。

母としての召命

 アダムは妻を「エバ」と呼びました。彼女は母だったからです。エデンの園における神の臨在の純粋な光の中で、アダムは妻の務めが何であるかをはっきりと理解していました。エバも同様にそれを知っていました。しかし現在、罪と人間の伝統(サタンの影響を受けたもの)が女性の理解力を曇らせ、もはや母親としての栄光を見ることができなくなっています。

 神は子供たちを「賜物」(詩篇127:3)と呼ぶのに、今では子供たちはサタン的な「事故」と呼ばれます。また、神は子供たちを「祝福」とみなしておられるのに、「厄介者」とみなされています。 (詩篇127:5; 128:4)。これは、いわゆるクリスチャンでさえ、どれほど神から遠ざかり、思考においてサタン的になっているかを示す、一つの兆候に過ぎません。

 しかし、テモテの母ユニケは全くそうではありませんでした。 彼女は自分の召命をはっきりと理解していました。夫が未信者であったにもかかわらず(使徒 16:1)、彼女の信仰は揺るぎませんでした。彼女は「誠実な信仰」(2テモテ 1:5)を持ち、神の御言葉を知っていた女性でした。彼女はテモテに神の御言葉を教え(2テモテ:14、 15)、さらに、彼女自身の誠実な信仰を彼にも伝えました。

 テモテの家庭は、不信仰という有害な煙で満ちた世の中で、母親が彼に「信仰」の清らかな空気を吸わせてくれた場所でした。彼はおそらく、母親が頻繁に祈り、神を賛美し、困難な状況でも神を信頼し、決して愚痴や不満を言わない姿を見ていたことでしょう。これらは「誠実な信仰」の特徴の一部です。ですから、テモテが成長して使徒となり、使徒パウロの親しい同労者となったのも不思議ではありません。彼の母親の働きはついに実を結んだのです。

 これは21世紀のすべての母親にとって励ましです。テモテの母、ユニケは16から20年の間、家庭で最高の母親として、主と教会のために尽力しました。たとえ説教者として百年間世界中を旅していたとしても、到底成し遂げられなかったことです。 近年では、15人の子供を持つスザンナ・ウェスレーの証しがありますが、貧困で彼女の家庭はひっぱくし、子供たちの何人かは幼少期に亡くなりました。

 しかし、彼女は他の子供たちを神への畏敬の念をもって育て、一人一人を個人的に教えました。彼女の息子の一人、ジョン・ウェスレーは、神の御手の中で、力強い器として成長しました。過去2世紀にわたり、世界中で何百万もの人々が彼の働きと著作を通して祝福を受けてきました。もし、スザンナ・ウェスレーが家庭をないがしろにして、もっとお金を稼ぐために働きに出たり、聖書教師や宣教師として世界中を旅していたら、息子がやり遂げたことのほんの一部さえなし得なかったでしょう。

 パウロは、男性と女性の奉仕について語る中でテモテに、女性は教師としての奉仕も長老としての奉仕もできないが、「母としての奉仕」はできると告げています(1テモテ 2:12, 15)。この手紙の文脈から、パウロが母性という奉仕が教会には必要だと考えていたことは明らかです。これは、神が女性に召された第二の奉仕、神を畏れる母親として子供たちを教えるということです。テモテは幼少期に家庭で、その素晴らしさを目の当たりにしました。そして、彼はエペソで他の人々にそれを教えることになりました。

 男性は人生のあらゆる職業において女性よりも優れています。女性が際立っている唯一の分野、それは「母親」としての奉仕です。このこと自体が、神が女性をどのような存在として創造されたかを示しています。より多くのお金を稼ぐため(より贅沢な暮らしのため)、あるいは、説教者になるために子供をないがしろにする母親は、必ず後年、子供が何らかの形で苦しむのを自分の目で見なければならなくなり、それは耐え難く辛いことです。ただ後悔するしかありません。

 これは若い世代の母親たちへの警告となるはずです。母親が家族の経済的な生存のために働くなら、神は必ずそのような家族に特別な恵みを与えてくださいます。しかし、動機が贅沢やより高い生活水準であるならば、彼女は破滅を招くことになります。なぜなら、神は決して欺かれる方ではないからです(ガラテヤ6:7,8)。すべての母親の目が開かれ、彼らの召命の栄光を見ることができますように。

キリストの証人としての彼女の栄光

 これまで見てきたように、女性がキリストのために行う主な証しは、男性の助け手であり、子供たちの母となることです。しかし、神はまた、女性を口によっても証人となるように召しておられます。

 新約時代において、神は女性を使徒、預言者、伝道者、牧者、教師として召されたことはありません。旧約時代にも女預言者は存在し、最後の一人はアンナでした。しかし、新約時代(ペンテコステの日以降)に入ってからの唯一の女預言者は、偽預言者イゼベルです(黙示録 2:20)。したがって、今日、女預言者や説教者を自称するすべての女性は、イゼベルの信奉者です。この事実を誤解してはなりません。神のすべての「エリヤ」は、そのような「イゼベル」に抵抗し、彼らを暴かなければなりません(1列王記 21:20-23)。

 新約聖書において、女性は時折預言をすることができました。ピリポの娘たちはそうしました。しかし、これらの姉妹たちが預言者ではなかったことは明らかです。なぜなら、使徒パウロがピリポの家にいる間、神が彼にメッセージを伝えたいと思われた時、神はピリポの四人の娘の誰をも用いず、預言者アガボを八十キロも離れたところから連れてこられたからです(使徒21:8-11)。

 また、イエスは女性を使徒の一人に召されたことはありません。女性が男性の上に権威を持つことを意図されたことはなかったからです(1テモテ2:12)。これらの奉仕のどれも女性には開かれていませんが、それでも他の多くの方法で主の証人となることができます。

 マグダラのマリアは復活したキリストの最初の証人でした。彼女は伝道者ではありませんでしたが、自分が見て経験したことを話した忠実な証人でした。すべての女性は、聖霊と火による洗礼を受けるべきです(ペンテコステの日にマリアと他の女性たちが受けたように)。そうすることで、キリストの証人となることができるのです(使徒1:8、14)。 

 インド文化の制約により、多くのインド人女性はなかなか男性の口から福音を聞くことができません。聖霊に満たされた女性だけが、彼女たちに福音を伝えることができるのです。したがって、キリストにあって神を畏れるすべての姉妹は、親族、友人、隣人、メイドなど、自分が接する人々に福音を伝えるという「責任」を担うべきです。

 新約聖書は、女性も頭を覆う限り教会で祈りと預言をすることができると教えています(1コリント11:5)。祈りは、教会を建て上げるために、すべての姉妹が携わる主要な奉仕の一つです。神は今日、神の目的が成就するために、密かに祈る女性を確かに求めておられます。

 女性も預言することができます。使徒2:17, 18は、聖霊が注がれると、男性も女性も「預言する」と明確に述べています。これは、新約における女性の特権の一部です。女性は、教えようとしない限り、教会の集会で従順な霊をもって神のみことばを分かち合うことができます(1テモテ2:12)。しかし、年長の女性は、若い姉妹たちに、家庭での奉仕に関してアドバイスをすることが勧められています(テトス2:4, 5)。「助ける」ことは、神が教会に与えられた賜物の一つです(1コリント12:28)。すべての姉妹は、若い人も年長の人も、教会において様々な実際的な方法で助けることができるように、この賜物を求めましょう。初代教会には、このような敬虔な姉妹がたくさんいました(フィベは多くの人の助け手でした―ローマ16:1, 2、3、6、12節も参照)。神は今日の教会にも、このような姉妹が数多くいることを望んでおられます。

 女性の頭を覆うこと(1コリント11:1-16で教えられている)は、次のことを象徴しています。

a 男性の栄光は教会において覆われるべきである(7節)。

b 女性の栄光もまた教会において覆われるべきである(15節)。

  女性の長い髪は彼女の栄光であるからである。

c 女性は夫、父、あるいは年長者といった男性の権威(10節)に従うべきである。

 女性は服装を通しても、キリストの忠実な証人でなければなりません。聖霊は女性に慎み深く控えめな服装をするよう促しています。

 クリスチャンの女は、髪型や宝石、あるいは派手な服装ではなく、親切で善良な人として注目されるべきです。(1テモテ2:9, 10; 1ペテロ 3:3)衣服は女性の体を覆うものであり、露出させるものではありません。神を敬う姉妹は、仕立て屋が世の女性の流行に合わせて服を裁断し仕立てることに同意しません。ずり下げて着るサリーや胸元の開いたサリーのブラウスは世俗的な女性の特徴であり、イエス・キリストの弟子のものとは言えません(イザヤ書 3:16-24をよく読んで、神がシオンの世俗的な娘たちの服装をどのように非難しているかを見てください。)サタンは神が定められた男女の区別を破壊しようと躍起になっています。そして、二十一世紀の女性たちに、多くの点で男性のように振る舞わさせようとしています。横暴な妻や女性説教者は、キリスト教界の女性が神と神の言葉からますます遠ざかっていく一因となっています。

 こうした中で、神は、御言葉の中で定められた境界に留まり、生涯を通じて女性の真の栄光を示す女性を必要としています。ですから、罪深く姦淫に満ちた時代、そして妥協するキリスト教界の真っ只中にあるこの終わりの日に、神の心にかなう女性となることを、心から決意してください。あなたが真剣にそれを望むならば、神は必ずそのための恵みをあなたに与えてくださいます。

 章 4
宗教的か霊的か

クリスチャンが聖い生活を追い求める中で直面する最大の危険の一つは、霊的ではなく宗教的になってしまうということです。分別のない信仰者は、宗教性を霊的であると勘違いしがちです。しかし、この二つには大きな違いがあります。

 前者は人間的なものであり、後者は神的なものです。律法は人々を宗教的にすることはできますが、霊的ではありません。宗教性は外面的な、目に見えるものにとらわれます。霊性は主に心の問題です。

 神の御言葉は、終わりの日に、見かけは敬虔であっても、力も何も持たない人々が多く現れると警告しています。言い換えれば、彼らは宗教的であっても霊的ではないのです(2テモテ 3:5)。彼らは集会に熱心に出席し、毎日祈り、聖書を読み、徹夜の断食と祈祷会に出席し、収入の十分の一を納めます。しかし、それでもなお、人から名誉を求め、自分のために生き、金銭を愛し、噂話などに夢中になります。そのような人々は宗教的であって、霊的ではありません。彼らは見かけは敬虔であっても、その力を持たないのです。これらはほんの一例です。

​​ ​​もしあなたが、肉も思いを十字架につけることよりも、集会に行くことに関心があるなら(ガラテヤ5:24)、あなたは宗教的であって、霊的ではありません。

 もしあなたが、一日中舌を制することよりも毎朝聖書を読むことに関心があるなら、あなたは宗教的であって、霊的ではありません。

 もしあなたが、金銭への愛から解放されることよりも、断食と祈りに関心があるなら、あなたは宗教的であって、霊的ではありません。

 もしあなたが、個人の聖化よりも伝道に関心があるなら、あなたは宗教的であって、霊的ではありません。

 上記の例で挙げた宗教的な人々の活動はすべて良いものです。しかし、それは優先順位の問題です。人を霊的にするのは、正しい優先順位です。

 宗教的な人々は、書かれた言葉(「文字」)だけに興味を持ち、最終的には律法の義を得ます。しかし、霊的な人々は、言葉が肉と血に現れることに関心を持ち、その結果、神の義、すなわち神の性質を得ることになります。

 宗教的な人々は、神の人の言葉や行動を引用して、自分の行動を正当化します。しかし、霊的な人は決して人の前で自分を正当化しようとはしません。

 宗教的な人は、神の意見よりも人の意見に関心を持ちます。霊的な人は神の意見だけを気にします。

 宗教的な人は、ある兄弟が自分を褒めてくれた時の賞賛の言葉を何年も思い巡らしますが、霊的な人はイエスのように、人からの証言を受け入れることを拒みます(ヨハネ5:34)。なぜなら、他の人は自分の内にある腐敗している部分を知らないので、その人からの賞賛は無価値であるとわかっているからです。

 宗教的な人は律法主義的で、律法の下にあります。彼らは神を喜ばせるために、必要な最小限のことだけを考えます。収入の十パーセントがいくらになるかを正確に計算し、それを渋々神に捧げるのです。

 旧約聖書においては、同じようにイスラエル人は盲目の羊や病気の雄牛を主に犠牲として捧げるに至りました(マラキ書 1:8)。

 新約聖書の戒めに対しても、同じ態度をとる可能性があります。例えば、姉妹も必要最低限のことだけ考えて、「夫に従う」という戒めの御言葉を、文字通り守ろうとするかもしれません。集会で頭に被り物をするにしても、美しい髪を完全に覆おうとしないこともあるでしょう。男性も女性も、すべてを完全に手放すことなく、最低限必要なことだけをして「霊的」になろうとすることもできるのです。「この世において、私が諦めなければならない最低限のことは何か。」という問いは、そのような人々の心に常に浮かびます。そのような人は決して霊的になることはできず、宗教的になることしかできないのです。

 イエスの態度は全く異なっていました。父を喜ばせるための最低限の条件は何かを探ろうとはしませんでした。むしろ、父にすべてを捧げるために、最大限の条件は何かを探ろうとしたのです。イエスは一つ一つの戒めの背後にある霊を探ろうとしたのです。ですから、肉体における姦淫を避けるだけでは十分ではないことをイエスはご存じでした(たとえそれが律法で求められている最低限の条件であったとしても)。

 その戒めの背後にある霊は、心の中で情欲(貪欲)さえ抱いてはならないということだとイエスは認識しておられました。同様に、怒りは殺人と同じだということもイエスは知っておられました。こうしてイエスは一つ一つの戒めの背後にある霊を理解したのです。

 花婿を深く愛するこの世の花嫁は、最低限のことだけして花婿を喜ばせようとはしません。むしろ、自分にできる最大限のことを考えます。これはキリストの花嫁の態度でもあります。ここに、しもべと花嫁の違いが見られます。律法の下にある者はしもべでしかあり得ません。雇われ人は賃金のために働くので、自分の仕事において非常に打算的です。彼は自分の仕事を時間で測ります。もし残業するなら、追加の賃金を期待するでしょう。 一方、息子(あるいは妻)は、報酬のためではなく、愛のために、どんなに長くても働きます。ここに宗教心と霊性の違いがあります。

 『私は主から何を得られるだろうか』と考える心の態度は、宗教心につながります。一方、『この世で私のたったひとつの命から、主は何を得られるだろうか』と考える態度は、真の霊性につながります。そうすれば、最低一マイルを歩くことが求められているときでも、二マイルを歩くことが自然になります。

 アダムはイチジクの葉で身を覆いました。これは宗教心、つまり人々の前、そして神の前にさえ、自分を立派に見せることの象徴です。イエスはイチジクの葉で覆われたイチジクの木を呪いました(マルコ11:13, 14, 21)。なぜなら、すべての宗教心には呪いがあるからです。神はそれを憎まれます。神はアダムに別の覆い、つまり革を与えました。これは真の霊性の象徴です。神が私たちに与えてくださった本質であり、人間が作り出したものではありません。

 イエスがいちじくの木に来られた時、それは実りの季節ではありませんでした。旧約は霊の実の季節ではなかったと言えるでしょう。人を束縛へと導いたあの律法主義的な制度は、今や廃止されました。神は、人にとっての必要性を示そうと、ある期間、それを定められたのです。律法は聖化の手段として与えられたのではありません。ヘブル8:7は、律法は人を霊的にすることはできず、ただ宗教的にするという点で欠けがあったと述べています。霊的になるためには、新約に入らなければなりません。

 人が人々の名誉をもたらす外面的な義で満足するのか、それともそれ以上のものを求めるのかを見るために神は律法を与えられました。ほとんどの信仰者は外面的な義で満足しているため、律法と葉で覆われたもの、つまり人間の宗教心で満足し続けています。

 福音は救いに至る神の力です。福音は木を呪い、枯らし、神が人間に与えようと意図された真の聖化を与えます。

 しかし、この福音を受け入れるためには、まず抜本的に悔い改めなければなりません。「抜本的に」は、根元から改め向上するという意味であり、真の悔い改めです。イエスの先駆者として、このメッセージを携えて来た洗礼者ヨハネは、悔い改めについて、イエスは木の根に斧を振り下ろすと言われました。すべての罪は根から生じます。罪(実)だけを悔い改めるだけでは、根本的な悔い改めとは言えません。

 例えば、陰口は兄弟に対する間違った態度という根から生じます。根本的な悔い改めは、陰口だけでなく、間違った態度そのものをも取り除きます。外的な行為を取り除こうとすれば、それはハサミで実を切り落とすことに等しいでしょう。

 しかし、イエスはハサミではなく、斧(根を切るための斧)を持って来られました。イエスは葉だけではなく、真の実を探しておられます。葉しかない者は、今日でもイエスが(人々がイエスにそうさせていますが)その木を枯らします。そうすることで、イエスは豊かな実を実らせることができます。私たちの内にある他の多くの罪も、自分の利益を求めたり、金銭を愛するといった間違った態度の結果です。

 霊的な人とは、神の光の中で自分の内にある罪の根を裁く人です。ただ実を切り落として、人々の感銘を受けるだけでは満足しない人です。

 信仰深い人は簡単に騙されてしまいます。夫が妻に対して六ヶ月間間違った態度を取りながらも、決して妻を傷つけることは言わないよう自制心を保つことはできます。しかし、ある日突然、怒りが爆発します。もし彼が六ヶ月間克服していたと思い込み、ほんの一瞬で(カッとなった時)罪に陥ったなら、それまで自分を欺いていていたということです。彼は六ヶ月間、ダイナマイトを積み上げてきました。そしてついに小さなマッチに火がついた途端、すべてが爆発したのです。彼は常に罪の中で過ごしていましたが、長い間、それが外に現れることはありませんでした。爆発を引き起こしたのはマッチではなく、六ヶ月間蓄積されたダイナマイトだったのです。

 他者に対する態度において「神の愛」を保つ戦いをしないなら(ユダ21)、たとえ外面には良い証を持ち続けていたとしても、私たちは罪を犯します。ほとんどの信仰者は霊的な「識別力」を持っていないため、そのような私たちを霊的だとさえ見なすかもしれません。彼らの意見に満足するのは、音楽について全く知識のない人に私たちの音楽的才能を評価してもらうのと同じくらい愚かなことです。

 徹底的に悔い改め、宗教心から解放されるためには、罪を「罪」と呼ばなければなりません。怒りは真の名で呼ばなければなりません。怒りは「殺人」(マタイ5:21、22)です。もしあなたがそれぞれの罪について「罪」と認識しなければ、あなたは生涯「宗教的」な人生を送る運命にあります。あなたは決して真に霊的になることはないでしょう。 宗教的な人は、外面的な義に関しては非常に厳格です。パリサイ人はミント、ディル、クミンの十分の一税さえ納めていました。彼らは外面的な正義からは一ミリたりとも外れようとしませんでした。しかし、愛、慈悲、そして善良さからは遠く離れてしまいました。

 今日、正義を追い求める人々にも同じことが起こり得ます。うわべの正義は百パーセントであっても、愛の道を完全に見失ってしまうことはあり得ます。新約の正義の道は愛の道です。私たちはこの道から一ミリたりとも離れないよう、常に注意を払わなければなりません。これが霊的な道です。

 偽りの宗教を通して地獄に行く人は、外面的な世俗性を通して地獄に行く人よりも多くいます。だからこそ、私たちは宗教性と霊性を注意深く区別しなければなりません。私たちの外面的な行いは、たとえそれが良くても、主への熱烈な愛によらなければ、形だけになってしまいます。そのような行いは死んだ行いです。なぜなら、そこには愛の力が働いていないからです。私たちは死んだ行い、つまりキリストへの献身の心から出ていない宗教的行いを悔い改めるように命じられています(ヘブル6:1; 2コリント11:3)。

 神は喜んで与える人を愛されます。金銭だけでなく、従う心も含まれます。神への従順さが重荷になる時、私たちは霊性の道から迷い、宗教性の道を歩んでいます。新約の下で私たちが神に捧げるすべてのものは、愛から、そして喜びと自発性をもって捧げなければなりません。そうでなければ、私たちは律法主義的になり、旧約のもとに戻ること、つまり、神の子ではなく、しもべの霊と態度で神に仕えるということです。

 ユダは手紙の中で、宗教的でありながら霊的ではない三人、カイン、バラム、コラ(ユダ11)」について語っています。彼らについて一人ずつ考えてみましょう。

 カインは不信心な人ではありませんでした。彼は神に犠牲を捧げることを信じていた、非常に信仰深い人でした(創世記4:3)。アベルも神に犠牲を捧げました。しかし、この二つの犠牲、そしてカインとアベルの違いは、地獄と天国、宗教性と霊性の違いでした。

 カインとアベルは、人々が歩んできた二つの道、すなわち宗教性の道と霊性の道を象徴しています。カインは、神に外的な物、つまり金銭、奉仕、時間などを捧げるタイプの人です。一方、アベルは子羊を屠り、それを祭壇に置くことで、象徴的に自らを祭壇に横たえました。

 宗教的な人々は、贈り物をしたり、祈りを捧げたり、多くの善行を行ったりすることはできますが、自分自身を捧げるとはどういうことか理解していません。什一献金をきちんと納めても、誘惑に駆られると自己に対して死ぬことができません。これが旧約と新約の違いです。自己を捨てることなく旧約に入ることはできましたが、自己を捨てることなく新約に入ることは不可能です。

 イエスは什一献金を捧げるために来たのではなく、神に受け入れられ、喜ばれる捧げ物として自らを捧げるために来られました。カインとアベルは、神に近づく広い道と狭い道、すなわち宗教心の道と真の霊性の道を象徴しています。自己を捨てることなくしもべとなることはできますが、自己を捨てることなく神の子となることはできません。

 神はアベルの犠牲に天からの火で応えられました。しかし、カインの捧げ物には何も降りませんでした。人が日々自己を捨て続けると、その人の人生と奉仕の上に天からの火が降り注ぐでしょう。これこそ、イエスがまず根を切り落とされた者たちに与えるであろうと洗礼者ヨハネが言われた、真の霊と火のバプテスマです。

 一方、表面的に正しい行いをするだけの兄弟は、良い人生を送るかもしれませんが、その人生には天の火と油注ぎが欠けています。感情を昂らせるサタンの偽りの「バプテスマ」(今日多くの人が享受しているもの)は、十字架の道を選ぶ弟子たちにイエスが送る真の霊と火のバプテスマと比べれば、無価値なゴミです。

 バラムもまた、信仰深い人でした。彼は神に仕えることを願う説教者でしたが、同時に金儲けと世の偉人たちにも興味を持っていました(民数記22章)。彼は主の名において、名誉と金銭的利益を求めました。今日、バラムのような偽預言者は数多く存在します。彼らの教義は、文字通りの意味において、どれも基本的に正しいのです。しかし、分別のない信仰者は、自分たちがバラムの霊(金銭と名誉を愛する)に突き動かされていることに気づきません。パウロはピリピ2:21で、こうした人々について、「彼らはみな自分の利益だけを追い求めている」と述べています。ペルガモンの教会にも、バラムのこの教えに従って生きていた人々がいました(黙示録2:14)。教会において、名誉を求めるか、金銭を求めるかに違いはありません。どちらも同じバラムの霊の異なるバリエーションに過ぎません。

 コラもまた敬虔な人でした。彼は祭司レビ族の出身でした(民数記16章)。しかし、彼は主から与えられた務めに満足していませんでした。モーセのように、もっと目立つ存在になりたいと願っていました。この貪欲さ(宗教的な装いで覆い隠されていた)こそが、最終的に彼の破滅を招いたのです。

 聖書に記録されている中で、生きたまま地獄に落ちたのは、コラと、彼と共に反逆したダタンとアビラム、そして彼らの家族だけです(民数記16:32、33)。主は、ご自身が民の上に立てた権威に対する彼らの反逆の罪を、非常に重く受け止められました。

 今日の長老、説教者、牧師のほとんどは、自ら任命した人々です。彼らに反抗することは、それほど深刻なことではないかもしれません。時には、必要なことでしょう。

 しかし、神によって任命された者に反抗することは、神の最も厳しい裁きを受けることになります。霊的な人なら、そのようなことを夢にも思いません。しかし、宗教的な人は反抗します。それは宗教心に伴う霊的な愚かさです。

 コラは、教会内で他の人々と不健全な競争をしている人々を象徴しています。神を畏れる兄弟を称賛したり感謝したりするのが難しいと感じるなら、それはあなたの中にコラの霊があることを示しています。あなたが彼を批判する時、コラの霊が満ちています。また、彼を批判する他の人々に耳を傾けるなら、あなたはコラに加わり、神によって裁かれた250人の反逆者たちのようです。

 宗教心と霊性を見分けなければ、私たちは決して霊的になることはできません。これは今必要なことです。なぜなら、終わりの日には、多くの人が敬虔な外見を持ちながら、力(十字架の言葉)を持たないと記されているからです。聖霊はまた、多くのクリスチャンが、神が私たちに定められた敬虔な生き方から離れ、結婚や特定の食物を避けるなど、他の宗教的な手段に頼るようになるだろうと、特に警告しています。

 人は他にも多くの偽りのものを作り出してきました。例えば、(『謙遜になるため』)罪を公で告白すること、(『信仰を増す』ため)病気のときに薬を飲まないことなどです。これらはすべて悪魔の教えに過ぎず、クリスチャンを敬虔さの真の奥義から遠ざけようとするものです(1テモテ3:16-4:5 をお読みください)。

 真の霊性に至る唯一の道は、イエスがなさったように、日々自らを死に捧げることです(ローマ8:36;2 コリント 4:10-12)。その他の道はすべて偽りです。

 章 5
新約の霊

旧約聖書において、十戒が与えられた後(出エジプト20章)、神はイスラエル人に美しい律法を与えました。それは、旧約と新約の違いを的確に表しています。出エジプト記21:1~6には、ヘブル人の奴隷が奴隷として六年間仕え、その後、別の方法で主人に仕えたことが記されています。なぜなら、その奴隷が主人に仕えることを愛していたからです(出エジプト21:5)。これは律法に対する神の追記であり、来たるべき新約の霊を預言的に描写しています。

 六年間の強制的な奴隷生活は、神に法的に仕えることに相当します。七年目以降は、神がその民のために定められた「安息日」に相当します(ヘブル4:9)。

 律法の下では、人々は六日間働いた後にのみ、七日目に休むことができました。しかし、神はアダムを創造した時、彼にまず一日の休息を与え、その後六日間働かせました。 (神の第七日はアダムの存在の最初の日であったからです。)これは、主のために人が行うすべての労働は、主との愛と交わりの関係から生まれるべきであることを教えるためでした。そうでなければ、それは律法主義的で無価値なものとなるでしょう。

 私たちが新約の時代に生きているという事実は、私たちが新約の霊によって生きているということではありません。「罪に対する勝利」の重要性を理解していても、律法主義的に生きることは可能です。ローマ7:1〜6を読むと、前章の6章(勝利の福音を提示する章)を読んだ人でさえ、依然として律法主義の束縛を受けている可能性があることがわかります。実際、これは事実です。正しく道徳的な生活を送っている多くの人が、依然として律法の原則に従って生きています。

 間違った動機で、外見上義にかなった生活を送ることもできます。旧約の下では、イスラエル人は律法を守りましたが、その動機は律法によって判断できませんでした。ほとんどの人が裁きを恐れて、また、報いを期待して律法を守っていました。しかし、これらの動機はどちらも新約の霊とは相容れません。新約においては、文字よりも霊が重要なのです(ローマ7:6)。

 すべての戒めを守っていても、主が「あなたに対して非難することがある。あなたは以前のように、わたしへの愛から戒めを守っていない。」「だから、悔い改めなさい」(黙示録2:4 - パラフレーズ)と私たちを戒めることもあり得ます。

 それらの行いの動機が愛でなくても、律法の下では、それは罪ではありませんでした。しかし、新約の下では、これは非常に深刻なことであり、この黙示録2章のエペソの指導者は悔い改めなければ、油注ぎを失うと警告されています。

戒めを守る動機が正しくなければ、戒めを守るだけでは十分ではないことを、私たちは理解しているでしょうか。

 肉の汚れから身を清める時、私たちは人々の前で良い証しができます。しかし、霊の汚れから身を清める時、神が私たちについて証ししてくださいます。2コリント7:1が明らかにしているように、これが聖さを完成させる道です。

 「私たちの聖なるもの…咎がある」(出エジプト28:38)。この咎、罪とは、義を追い求める私たちの誤った動機にほかなりません。この罪の根底には、人の名誉を求めるという、はるかに深刻な悪が潜んでいます。私たちが人(特に教会)の名誉を求める時こそ、私たちは生活の外側に注意を払います。これは、私たちの律法主義の背後にある悪であり、それを素早く見抜かなければなりません。さもなければ、それは私たちを滅ぼすでしょう。

 十人の娘のたとえ話(マタイ25:1-13)では、彼女たちの誰一人として「娼婦」ではなかったことが明らかです。彼女たちは皆処女でした。皆、肉の汚れから身を清めていました。それゆえ、彼女たちは人々の前で良い証しをしていました。彼女たちのランプは灯り、人々は彼女たちの善行を見て褒めていました(マタイ 5:16参照)。人々は、これらの処女の中に、内側のいのちを持たない者がいたことに気づいていませんでした。

 識別力のない未信者の目には、十人全員が霊的な存在に見えましたが、神は、たった五人の娘だけが、内なる心に真理を持っていることをご存じでした(詩篇 51:6)。残りの五人は律法主義者で、律法の文言に固執し、人々の前で証しすることで満足していました。彼らは携挙の際に取り残されることを知りませんでした。

 花婿は彼らに「私はあなたたちを知らない」と言いました。しかし、主は彼らをマタイ7:23である人たちに言われたように、「不法を行う者」とは呼ばれませんでした。なぜなら、この五人は、事実、不法を行う者ではなかったからです。しかし、彼らの内には、キリストの霊はありませんでした。

 主は彼らに(いわば)こう言われたのです。

 「私はあなたたちの霊とは何の交わりもありません。あなたたちの霊は律法主義の霊です。外見は正しくても。あなたたちは新約のパリサイ人です」。

 これが「私はあなたたちを知らない」という言葉の背後にある意味です。新約聖書の戒めを文字どおりに守りながらも、キリストの霊が反映されないことはあり得るのです。

 例えば、誰かに悪事をされた時、私たちは悪に対して善をもって報いなければならないという御言葉に従います。そして、その人のところに、高価なギフトを持って行き、愛を示し、戒めに従って善行をすることができます。しかし、その人に近づくにつれて、私たちの霊は、心の中でこうささやくかもしれません。

 「ここに立派な聖人が来ましたよ。罪深いあなたに善行をするために。」

 この場合、たとえ贈り物を買うために多額のお金を使い、その「善行」をするために多大な労力を費やしたとしても、私たちの捧げ物は神にとって芳しい香りではありません。なぜなら、私たちの「自己」が犠牲にされていないからです(エペソ5:2参照)。

 別の状況を考えてみましょう。ある兄弟の妻が、彼に対して腹を立てているとしましょう。夫である兄弟が口を開かずに静かに座っているとします。全く関係のない、何も知らない部外者がこの状況を見たら、夫が「聖人」で妻が「罪人」だと決めつけるでしょう。

 しかし、人の霊を量る神は、両者について、この人とは全く異なる見解を持っておられます。夫の心は、たとえ口を閉ざしていても、「主よ、私は妻とは違い、怒りに打ち勝つことができたことを感謝します」と心の中で思っているかもしれません。夫は、打ち負かされた妻が、独善的なパリサイ人である彼自身よりも、神に受け入れられる可能性があるという事実に気づいていません。確かに、娼婦や泥棒はパリサイ人よりも、先に御国に入るでしょう。怒りを爆発させるのは確かに信仰者らしくありませんが、パリサイ主義もまた同じです。私たちは、このような状況で、パリサイ人の汚れから私たちの霊を清めなければなりません。これこそが救いの道です。

 放蕩息子のたとえ話には、キリストとパリサイ人の態度が、父親と長男という人物像を通して明確に描かれています。父親は、弟がまだ罪に打ち勝っていなかったとしても、悔い改めて戻ってきたのを見て喜びました。しかし、パリサイ人の兄は、同じように弟を迎えることはできませんでした。もしこの時、彼が思いのままにできたならば、弟の悔い改めが本物かどうかを試すために、少なくとも一年間は使用人宿舎に入れていたでしょう。

 私たちの肉体に宿るこのパリサイ人の霊は、今までに自分を傷つけた人々に対する態度に最も顕著に表れます。たとえ彼らが謝って来ても、私たちは彼らの悔い改めを確かめるために、しばらくの間「使用人宿舎に入れておく」ことができます。しかし、イエスは、たとえ一日十二時間労働のうち、二時間ごとに罪を犯し、その度に悔い改めたと言って戻ってきたとしても、私たちはその真偽を疑うことなく、その人を許すべきだと教えました(ルカ17:4)。

 私たちはイエスの御言葉を額面通りに受け入れるべきです。もしかしたら、その人の悔い改めは本物ではないかもしれません。しかし、それは神が裁くべきことであり、私たちが裁くべきことではありません。私たちを見ることはできません。私たちは外見しか見ることができません。神だけは心を見ることができます。

 裁きの日に、私たちは何をしたかよりも、なぜそれをしたかの方がはるかに重要であることを知るでしょう(1コリント 4:5)。兄は「戒めを破ったことは一度もありません。」(ルカ15:29)。しかし、物語の終わりに、この兄は父の家(教会)の外にいます。なぜなら、彼の霊が律法主義の霊だったからです。彼は前例の処女と同じで、彼の器には油がありませんでした。彼の動機はついに暴露されました。彼は報酬のために仕えていたのです。そして父に言いました。「私はあなたのすべての戒めを守りましたが、あなたは私に報酬を与えませんでした。」

  金持ちの若い役人がイエスから背を向けた後、ペテロがイエスに尋ねました。「(金持ちの若い役人と違って)すべてを捨てた私たちには、何が得られるでしょうか。」しかし、イエスは弟子たちにこの態度に対して警告しました。 (マタイ19:27)。

 イエスは、地主が労働者を雇うたとえ話をします。この地主は五組の労働者を雇いました。そのうち四組は具体的な契約に基づいて雇われました。最後の組だけは契約なしで雇われました(マタイ20:1-16)。これがこのたとえ話の要点です。最初の組は提示された一デナリで働きました(2節)。二番目、三番目、四番目の組も報酬を得ましたが、金額は明記されていませんでした(3-5節)。これら四つの労働者の組はすべて、戒めを守り、神に仕え、神のために外的な犠牲を払う人々を象徴しています。しかし、彼らはそのすべての犠牲に対して、ひそかに何らかの報酬を望んでいます。それは、千年王国で王座に座るという肉欲的な喜び、あるいは頭に「冠」をかぶることかもしれません。あるいは、「霊的な」願望のように見えるかもしれませんが、キリストの花嫁となることかもしれません。このようなクリスチャンは皆、報酬のために働いています。そして、それが旧約の霊です。

 真に霊的な人が望む唯一の報酬は、神の聖なる愛のご性質にさらにあずかり、神とのより親密な交わりを得るという報酬です。これが彼が待ち望んでいる「冠」であり、イエスが持って来られる報酬です(黙示録22:12)。そして、この報酬は、人が救いを成し遂げ、肉の汚れだけでなく、霊の汚れ、特に霊におけるパリサイ主義の汚れから自らを清めた忠実さ、熱心さに正確に比例します。

 だからこそ、私たちが復活する時、私たちの栄光の度合いは、星の輝きのようにそれぞれ異なるのです(1コリント15:41, 42)。義なる神は、一人ひとりの「処女」に、義にかなって、つまり、人々が見たものではなく、イエスが見たものに従って(2コリント 5:10)報いてくださいます。

 上記のたとえ話では、最後の労働者グループだけが、いかなる契約も「報酬」(マタイ20:7)の約束も期待もせずに働きに来ました。彼らは新約の霊をもって来ました。それゆえ、彼らは最初に報酬を受け、(割合で言えば)他のすべての人々よりもはるかに多くの報酬を受け取りました(マタイ20:16参照)。

 一方、最初の労働者グループは、放蕩息子のパリサイ人の兄と全く同じです。独善的で律法主義的で、報酬を期待していました。

 イエスは、新約の時代において、私たちの模範であり、先駆者です。そして、イエスは、今であれ永遠​​の世界であれ、何らかの報酬や地位や名誉を得るために父の戒めを守られたのではありません。ましてや、父から罰を受けることを恐れて戒めを守られたのではありません。

 イエスが十字架に耐えられたのは、御自身の前に置かれた喜び、すなわち父との交わりという至高の喜びを思い描いていたからだと記されています。父の御前にのみ、喜びが満ち溢れます(詩篇16:11)。父との交わりは、イエスが生涯を通して強く望んだものでした。それゆえ、イエスは、父との交わりを断絶を意味する「死」から救われたいと、大声で叫び、涙を流して叫ばれました(ヘブル5:7)。世での33年間、イエスは「死」からご自身を守られました。そしてついにゲッセマネの園で、十字架上で御父との交わりが三時間も断ち切られることを悟られた時(私たちの罪のために神に見捨てられるという苦しみを味わわなければならない)、イエスは再び叫び、何か他に道があるのではないかと探し求めましたが、他に道はありませんでした。そして私たちへの愛ゆえに、イエスは十字架に向かい、自らが払える最大の代価を払われたのです。

 父との交わりを熱心に求めるキリストの霊に預かってはじめて、私たちは律法主義から解放されます。律法主義からの自由、つまりブヨを濾し、ラクダを飲み込むようなことからの自由は、いかなる技術や方法によっても決して達成できません。唯一の道、2コリント3:18に記されている道しかありません。パウロは、この章全体を通して(6節から17節まで)、旧約と新約を対比させた後、聖霊が神の御言葉という鏡を通して、イエスの栄光を示し、そして私たちをイエスの似姿に変えるために来られたと述べています。

 聖霊はまず第一に、イエスがこの地上でどのように生きておられたかを私たちに示したいと願っておられます。イエスは律法のもとに生まれました(ガラテヤ4:4)。しかし、イエスは、律法の戒めについて黙想され、それ以前のどのイスラエル人も見たことのないほど多くのことをそれらの戒めの中に見出しました。

 前の章で考察したように、姦淫してはならないという戒めが、心の中で女に情欲を抱いてはならない、殺人を犯してはならないという戒めは心の中で怒ってはならない、などといったことをイエスはご存じでした。 地上におられたイエスの魂には、律法の文字どおりに従うだけでなく、父なる神に完全に従うという強い願いがありました。ですから、イエスは律法の下にお生まれになったにもかかわらず(ガラテヤ4:4)、新約を結ばれたのです。この方こそ、聖霊が聖書を通して私たちに示される方です。

 このように私たちがイエスに従って聖書を黙想すると、私たちも神の戒めの中に、他の人々が見出す以上のものを見出すでしょう。

 イエスが語られた言葉は霊であり命でした(ヨハネ6:63)。ですから、イエスが生きておられた時、多くの人がイエスを理解できず、今日でも多くの人がイエスを理解できていません。神は真理を愛する者にのみ光を与え、他のすべての人が欺かれるままにされます。これが2テサロニケ2:1-12の明白な意味です。心から真理を愛し、神の御言葉を黙想するなら、私たちはもはや律法の文字を守ったことを自画自賛するのではなく、「正しい霊」で律法を守らなかったと自分で自分を裁くようになります。

 十戒のうち、人は九つを守ることができましたが、十番目の戒めを守ることは不可能でした。なぜなら、それは貪欲に関するもので、これは内面的な問題だったからです。

 律法は、人が心の中で貪欲を抱いているかどうかを見抜くことはできず、たとえ貪欲を抱いていたとしても、人を罰することもできませんでした。

 だからこそ、パウロは律法の義においては罪のない者だと言いながらも、十番目を守ることができないことを認めたのです(ピリピ3:6とローマ7:7~10を比較してください)。

 彼は、それを認めることができる、数少ない正直な人の一人でした。こうして神は彼を新約へと導くことができたのです。

 十番目の戒めは、人の正直さを見るために、神によって定められました。正直な者は十番目の戒めを守ることができないと認識できるので、律法は彼らをキリストと新約へと導く「教師」となるのです(ガラテヤ3:24)。

 残りの者、すなわち内なる罪を隠す者たちは、旧約の下に留まります。これが、今日多くのクリスチャンが敗北したままでいる主な理由です。彼らは正直になれないので、内なる過ち、罪を認めることができません。彼らは人々の名誉に甘んじて、彼ら自身の真実を愛しません。こうして神は、彼らが欺かれるままにしているのです。

 人が規則や規定に従って生きることは、神の意図ではありませんでした。律法は人をいのちに導くために与えられたのではなく、人にその無力さを示し、正直さを試すために与えられたのです(先ほど見たように)。それゆえ、キリストの来臨後、律法は廃止され、新約がもたらされました(ヘブル8:7, 8, 13)。

 神はアダムをエデンに置いた時、善と悪を知る知識の木の実を食べてはならないと命じました。言い換えれば、善だけを行い悪いことを避ける、というように「善悪」の規則に従って生きるべきではないということです。真のキリスト教は、偽りのキリスト教、そして他のすべての宗教ともこの点で異なります。

 神は人がいのちの木に従って生きることを意図されました。

 聖霊の導きによって、神に喜ばれることとそうでないことを教えてくださるのです(1コリント6:12と10:13参照)。善悪の知識に従って生きることは、律法に従って生きることであり、私たちは律法の背後にある霊を理解することなく、ただ束縛に陥るだけです。

 私たちは、外面的に戒めを守ることによって、外面的に義にかなった生活を送ることができます(「処女になる」)。しかし、私たちが器に油を注いでもらう唯一の方法は、外からは見えない霊の汚れから自分自身を清めることです。

 パウロがエペソのクリスチャンに新約の真理を書き送った時、自分の言葉では、彼らには啓示が与えられないことを知っていました。そこでパウロは、聖霊によって彼らの目が開かれるように祈りました(エペソ1:17, 18)。私たちも同じように祈るべきです。

 章 6
新約ー イエスとのパートナーシップ

神を見た者は誰もいません。しかし、イエスは神を父として明らかにするために来られました(ヨハネ1:18)。イエスは神の名を「父」と呼びました(ヨハネ17:6)。その名において(そしてその名に隠されたすべてのものにおいて)、弟子たちは父の守りを知りました(ヨハネ17:11, 12)。

 旧約聖書の時代、神は幕屋の厚い幕(カーテン)の後ろに住まわれました。誰も神がどのような方であるかを正確に知りませんでした。パリサイ人は人々に、神が無慈悲で要求の厳しい暴君であるかのように教えました。

 しかし、イエスが来て幕を引き裂き、その中に住まわれるのは愛に満ちた父であることを示されました。しかし、サタンは再び活動し、信仰者にも未信者にも神の偽りの姿を描いています。今日、教会はイエスがなさったことを行うよう、すなわち、愛に満ちた父としての神の真の姿を示すよう召されています。私たちが神を父として知ることによってのみ、私たちは神のすべての善にあずかることができるのです。それが新約です。

 神はすべての恵みの神と呼ばれています(1ペトロ 5:10)。そして「恵み」とは「必要な時の助け」(ヘブル 4:16)を意味し、これは神が常に私たちの助け手であるということです。神は、常に悪魔に対して私たちの味方です。だからこそ、イエスは聖霊を「助け手」(ヨハネ14:16)と呼びました。

 律法はモーセによって与えられ、その目的は私たちの罪と(ローマ 7:13)と、罪に対する私たちの無力さを明らかにすることでした(ガラテヤ3:24)。しかし律法は、人を罪に打ち勝つ助け手を与えず、人を内なる清さへと導くことができませんでした。神は常に内なる清さを望んでおられます(詩篇 51:6)。しかし、律法の下では誰もこれを得ることができませんでした。

 しかし今、イエスはより優れた契約を結ばれました。この点において、律法は戒めを与えるだけでしたが、恵みのもとでは、神は戒めだけでなく、模範(地上での生活におけるイエス)と助け主(聖霊)も与え、戒めを守れるようにしてくださいます。これが旧約と新約の違いです。

 サタンは、イエスが肉体を持って来られたことを、キリスト教界のほとんどの人々から隠し、私たちが模範であるイエスから励ましを受けられないようにしてきました。

 また、サタンは、聖霊のバプテスマを偽造したり否定したりすることで、助け主である聖霊の力も奪ってきました。今日、多くの人々が偽りの「聖霊のバプテスマ」を受けており、肉の欲望と戦う力も、サタンに抵抗する勇気も与えられていません。サタンはなんとうまいこと偽りの業を成し遂げたことでしょうか。

 律法は法のもとでは、人は神を喜ばせようとしますが失敗します。恵みのもとでは、神は私たちの内に働き、私たちが神を喜ばせることができるようにしてくださいます(ピリピ2:12, 13)。神を喜ばせようと努力しながらもうまくいかない人々は、たとえ誠実であっても、依然として律法の下にあります。ほとんどの場合、戒めを守ろうと苦闘し、疲れ果て、重荷を背負っています。そのような疲れ果て、重荷を背負っている人々こそ、イエスが御自分のもとに来るように、そして重いくびきを軽いくびきと取り換えるように招いておられる人々です(マタイ11:28-30)。

 くびきは、結婚生活においても、ビジネスにおいても、パートナーシップの象徴です。 イエスは、ご自身が元手を用意してくださり、私たちが利益を得るというパートナーシップへと招いておられます。

 ヨハネはイエスの奇跡を「しるし」と呼んでいます(ヨハネ2:11)。言い換えれば、それぞれの奇跡は、メッセージを含むたとえだったのです。ヨハネの福音書に記録されている奇跡を通して伝わってくる唯一のメッセージは、イエスが私たちとパートナーシップを結びたいと願っているということです。

 カナの婚礼において、イエスは何もないところから、お一人で水がめにぶどう酒を満たすこともできました。しかしそうしてしまったら、パートナーシップは成立せず、それは一人芝居になってしまいます。ですから、しもべたちは奇跡に加わるよう呼ばれ、水がめに水を満たすという簡単な役割を果たしました。それからイエスは、それをぶどう酒に変えるという難しい役割を担いました(ヨハネ 2:1-11)。

 同様に、五千人に食事を与えた時も、イエスは何もなかったところから食物を生み出すこともできました。しかし、そうされませんでした。小さな男の子に持っていたものを手渡すように頼み、その男の子と協力して五千人に食事を与えました(ヨハネ 6:1-13)。小さな男の子はできる限りのことをし、イエスもできる限りのことをされました。

生まれつき目の見えなかった人も、まずできることをするように求められ(ヨハネ 9:1-7)、言われた通り、シロアムの池で身を清めました。それからイエスは、彼の目を開きました。

 ラザロの復活にも、同じ原則が見られます。彼の友人たちは、墓を覆っていた石を取り除きましたが、それは容易なことでした。それからイエスは、ラザロを死から蘇らせるという困難な役割を担いました。そして、友人たちは再び、ラザロの縛めを解き解放するという、自分たちにできることを行う機会を与えられていました(ヨハネ11:38-44)。

 復活後、弟子たちが夜、漁に出かける場面があります。「その夜は何もとれなかった」(ヨハネ21:3)。これは、律法の下で奮闘する人間の姿を描いています。そこにイエスが来られました。イエスは、彼らが海に網を投げ込まなくても、舟を魚で満たすことができるお方です。彼は、この湖の魚にペテロの舟に近づき、その舟に飛び込むように命じることもできたでしょう。しかしそうなれば、二人の間に協力関係は築かれなかったでしょう。ですから、彼らは海に網を投げこみ、人の役割を果たさなければなりませんでした。 

 このようにして、イエスとの協力によって奇跡が起こりました。人は容易な部分を、イエスは難しい部分を担いました。これが、パウロがローマ1:5で語る信仰の従順です。

 これは使徒たちが宣べ伝えた新約の福音です。この福音が理解されていないと、人は一方的な極論、つまり律法主義(永遠に夜通し努力するが、船は空っぽで勝利はない)か、偽りの恵み(奮闘も勝利もない)に傾いてしまいます。

 多くの忠実な魂は、自ら作った戒めに苦しみ、疲れ果て、重荷を背負っています。パロ

の監督官たちが、イスラエルの民に煉瓦をもっと作らせるために鞭打ったように、悪魔(「義の説教者」に変装している ― 2コリント11:14, 15)は、多くの誠実な信仰者を鞭打ち、「あなたたちは聖書を十分に読んでいない。断食と祈りが不十分だ。伝道が不十分だ」などと言います。多くの説教者もまた、無意識のうちにサタンの側に立って、そのような説教を通して神の民を罪に定めてきました。このような罪の非難はすべて、新約の福音を知らないことの結果です。

 イエスは羊飼いであり、羊の群れの先頭に立って羊を導きます。雇い人のように鞭を使って後ろから追いかけるようなことはしません。羊の群れを鞭打つ説教者はすべて雇い人です。真の羊飼いとは、自ら模範を示して導く人です。雇い人の言うことに耳を傾けたために、多くの人が束縛に陥りました。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、救うためです(ヨハネ3:17)。ですから、他人を裁く者は神から遣わされたのではありません。神のしもべたちは常に人々を救いへと導きます。

 私たちの人生において、イエスは私たちのパートナーでありたいと願っておられます。ペテロが神殿税を徴収するためにイエスのもとに来た時、イエスはペテロに海に釣り針を投げ入れ、最初に上がった魚を捕まえるように言われました。その魚の口には一シェケルが入っており、それはイエスとペテロの両方の税金を払うのに十分な額であると言われました。イエスがペテロに「わたしとあなたとの分」と言われたのです(マタイ17:27)。

 「わたしとあなたとの分」という言葉について考えてみてください。これがパートナーシップです。イエスは私たちが税金を払うのを助けることにも関心を持っておられます。 地上での私たちの日々の生活にあるありふれた事柄から、永遠に残る事柄に至るまで、イエスは私たちに「あなたとわたし」の原則に従って生きるよう呼びかけておられます。

 イエスは、私たちがイエスとの協力関係というくびきを負うと、私たちの魂に安息を見いだすことができると言われました(マタイ11:28-30)。これは、私たちが自分の力による行いをやめることによって、この安息に入ることができます(ヘブル4:10, 11)。

 自分の行いをやめるのは容易ではありません。なぜなら、私たちの自我は非常に強いからです。だからこそ、神は私たちが砕かれるように、私たちの状況を整えなければなりません。神は私たちの計画が挫折し、希望が打ち砕かれることを許されます。私たちの陰謀や計画は破綻し、何度も罪に陥ります。このように、神は私たちに自分の行いをやめ、神の行いを行うように教えておられます。

 旧約聖書の安息日は、新約における神の民の安息の象徴でした(ヘブル4:9, 10)永遠の価値を持つ何かをする前に、まず神の安息に入らなければなりません。神は六日目にアダムを創造し、その翌日を安息の日として聖別されました。時系列的には七日目でしたが、アダムにとってはまさに最初の日でした。二千五百年後に制定された律法は、「六日間働き、七日目に休め」と定めました。

 しかし、アダムのために神はまず安息と交わりの日を定め、それから六日間働くようにされました。これが神の恵みです。恵みの下では、「安息日」が最初に来ます。私たちは主に仕える前に安息に入らなければなりません。そうすれば、世での人生のすべての日が安息日となります。そしてそれこそが、神が私たちに意図されたことです。

 パリサイ人がモーセが律法の下で離婚を許した理由をイエスに尋ねた時、イエスは、それは人の心が頑固な間のための一時的な規定であると答えました(マタイ19:8)。しかしイエスは、それは神の完全な御心ではなく、はじめからそうではないと言いました。

 律法には、神の完全な御心ではなく、神の許容的な御心が含まれていました。しかし、新約が成立した今、私たちが神の完全な御心、つまり「初めから」(マタイ19:8)神が人に意図された生き方を生きることを神は望んでおられます。ですから、アダムと同様に、私たちにとっても、この休息が何よりも優先されるべきです。人生は、神における永遠の安息でなければなりません。

 安息に入って初めて、私たちは神の戒めが重荷ではないことを喜びをもって証しすることができます(1ヨハネ5:3)。神の戒めが重荷と感じ、自分を否定しすべての戒めに従うというメッセージが束縛であるとみなすなら、明らかにその人はまだイエスのくびきを受けていません。その人は依然として律法という自身のくびきの下で苦労しているのです。

 幕屋の外庭や聖所でさえ、多くの活動が行われています。しかし、垂れ幕の内側にある至聖所には、活動はなく交わりだけです。神への奉仕さえも、その交わりから生まれます。これが旧約聖書と新約聖書の奉仕の違いです。

 これは、ルカ10:38~42に記されている出来事の中で、マルタとマリアによって明確に示されています。マリアは(象徴的に言えば)至聖所にいて主と休息し、交わりを持っていました。マルタは外庭で(「主のために」)忙しく奉仕をしていました。イエスは、マリアが選んだものこそ、すべての人にとって唯一必要なことであると言われました。

 今や幕はイエスによって引き裂かれ、私たちは大胆に至聖所に入り、父とその子イエス・キリストとの交わりの中で生涯を過ごすことができます。神が人にまず望んでいるのは奉仕でも、聖書を読むことでも、断食や祈りなどでもなく、交わりであることを理解できればよいのですが。

 アダムは神によって自分の姿に似せて造られました。神がエデンに庭師を置きたかったからではなく、神と交わりを持てる人を望んだからです。神が私たちを罪の穴から救い出されたのは、私たちが神に仕えるためではなく、神との交わりを持つためです。このことを理解していないために、今日、多くの信仰者がマルタのように疲れ果て、重荷を負っているのです。

 65年以上神と共に歩んできた使徒ヨハネは、95才の時、聖霊に導かれて手紙を書くことを決意しました。その手紙のテーマは「交わり」(1ヨハネ 1:3)でした。

 最初の愛を捨て去り(黙示録 2:4)、「生きている」(様々なキリスト教活動を行っているという意味合いで)という名声を持ちながらも、実際には神の目には死んでいる(黙示録 3:1)教会や指導者たちを見て、ヨハネは、裂けた幕の内側にある父とその御子イエス・キリストとの交わりにある喜びへと、信仰者を導くことの重要性を確かに理解していました。

 喜びは様々な活動の分野で見出されるかもしれません。スポーツ、音楽、職業、そしてキリスト教の活動に喜びを見出す人もいます。しかし、この世で最も純粋な喜びは、父との交わりの中にのみあります(1ヨハネ1:4)。詩編作者は「あなたの御前には喜びが満ちています」(詩編 16:11)と言っています。

 日々イエスが、十字架に耐え忍ぶことを望まれたのは、この御自身の前に置かれた喜びのためでした(ヘブル12:2)。父との交わりはイエスにとって最も大切な財産でした。イエスにとって、他の全てのこの宇宙に存在するものは、それに比べたら何も価値がありませんでした。この交わりこそが、カルバリの丘でイエスが断ち切られると覚悟された交わりであり、それでもなおイエスは、失われた人類のために永遠の地獄の苦しみを三時間耐え忍ばれました(マタイ27:45)。そして父は、イエスを見離さなければならず、永遠にイエスの喜びであった父との交わりは「三時間の間」断たれることになりました。イエスはその断絶を非常に恐れ、ゲッセマネで血の汗を流されました。イエスがご自身から取り去るよう祈られた杯とは、まさにこれでした。父との交わりの断絶です。

 もし私たちがこのことを理解し、真剣に受け止めることができたならなんと素晴らしいことでしょうか。 私たちはイエスに従うことについて、なんと軽々しく語り、歌っていることでしょう。 イエスに従うということは、イエスがなされたように父との交わりを大切にすることです。そうなれば、罪は私たちにとって極めて罪深いものとなります。なぜなら、それは父との交わりを断ち切るからです。他の人に対する愛のない態度さえも、父との交わりを断ち切ることになるからです。

 主が私たちに啓示を与え、真のキリスト教が愛に満ちた天の父との途切れることのない交わりの人生にほかならないことをはっきりと理解させてくださいますように。

 章 7
イエスー私たちと同じように試練を受けられた

イエスは、肉体をも​​って地上に生きていた時も、その人格においては神でおられました。神は決して神であることをやめられないからです。肉体をもっていた時、イエスの神性を最も明確に証明するのは、イエスが礼拝を受け入れたという事実です。福音書には、イエスが人々から捧げられた礼拝を受け入れたと七回記されています(マタイ8:2、9:18、14:33、15:25、20:20、マルコ5:6、ヨハネ9:38)。御使いや神を敬う人々は礼拝を受け入れません(使徒10:25、26、黙示録22:8、9)。しかし、イエスは受け入れました。なぜなら、イエスは神だったからです。

 イエスはまた、自らの権威によって人々の罪を赦しました(マルコ2:10)。これは、イエスが地上に生きていた時でさえ、神であったことのもう一つの証拠です。

 しかし同時に、イエスが地に来られた時、「ご自分を無にして」とも記されています(ピリピ2:7)イエスは何を捨て去られたのでしょうか。先ほど見たように、ご自身の神性ではなく、神として持っていた特権を捨て去られたのです。イエスが捨て去られた特権の一つは、誘惑を受けない特権でした。

 神は誘惑されることはありません(ヤコブ1:13)。しかし、イエスは誘惑されることを許されました(マタイ4:1-11)。それは、誘惑された時にどのように克服するかについて、私たちの模範となるためです。敬虔な生活を送る秘訣は、私たちと同じようにあらゆる点で誘惑されながらも、思い、言葉、行い、態度、動機、その他のあらゆる点で、一度も罪を犯さなかったイエスを見ることです。(1テモテ3:16、ヘブル4:15参照)。

 神の御心にかなった生き方に至った者だけが、キリストにあって一つのからだとなり、争いなく共に生きることができます。信仰者は皆、その中で初めて主イエスを見出すことができ、このようなキリストのからだの表れに地方教会がなり得るのです。この真理の柱と土台に、教会がなるべきです(1テモテ3:15、16)。

 誘惑は罪とは異なります。ヤコブ1:14と15はそれを明確に示しています。

 私たちは罪を犯す前に、誘惑に心で同意しなければなりません。マタイ4章から、イエスが誘惑されたことは明らかです。しかし、イエスの心は一度たりとも誘惑に同意することはありませんでした。ですから、イエスは決して罪を犯さなかったのです。イエスは心を清く保ちました。

 イエスは聖霊によって生まれました。私たちが生まれながらに持っている「古い人」を持っていませんでした。私たちは罪深い肉を持っていますが、イエスは罪深い肉を持っていませんでした。イエスは「罪深い肉と同じような形で」(ローマ8:3)来られました。 しかし、聖書は私たちの主が「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)と教えています。私たちは神が人となられたという神秘を分析する必要がないのと同じように、このことを分析する必要はありません。ただ信じるだけでよいのです。アダムとは異なり、あらゆる点において、あらゆる誘惑において、イエスは父に従いました。神の御言葉はイエスについてこう述べています。

「従順を学び、完全な者となり…」(ヘブル5:7-9)

「学んだ」という言葉は教育用語です。ですから、この聖句が言っているのは、イエスが人間として従順を学ぶ教育を受けたということです。イエスはそれぞれの状況において父に従い、それによって人としての教育を完了されました。こうしてイエスは私たちの先駆者となってくださったので、私たちも誘惑を克服し、神に従うことによってイエスの足跡をたどることができるのです。(ヘブル6:20)

 主は、誘惑に苦しむ私たちに共感してくださいます。なぜなら、主も私たちと同じように誘惑に遭われたからです(ヘブル2:18; 4:15; 12:2-4)。

 イエスの人としての清さは、簡単に得たものではなく、戦いを通して獲得されたものです。しかし、それらの戦いは終わりのないものではありません。あらゆる誘惑は、一つずつ克服されました。このように、主は生涯を通じて、私たちが会う全ての誘惑に立ち向かい、克服されました。

 私たちは皆、長年罪の中で生きてきました。私たちの罪深い肉体は、毒蛇でいっぱいの箱にたとえることができます。毒蛇は、私たち自身によって十分に養われています。これらの蛇の名前は、汚れ、怒り、悪意、争い、苦々しさ、金銭欲、利己心、高慢などです。 この箱の上部には穴が開いており、誘惑に遭うたびに蛇が頭を出します。私たちは、回心しない日々、これらの蛇に十分な餌を与えてきました。その結果、彼らは十分に栄養を与えられ、健康で強くなっています。蛇の中には、他の蛇よりも多くの栄養を与えられた蛇もいます。そのため、それらの欲望は他の蛇よりも強く私たちを捕らえるのです。

 私たちはキリストと共に罪に対して死んだので、これらの蛇は依然として存在しますが、それらに対する私たちの態度は変わりました。

 私たちは今や神のご性質にあずかる者となり、「​キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)。昔とは異なり、今は蛇が箱の口から頭を出すと(私たちが誘惑される時)、棒で頭を叩きます。蛇は箱に戻ります。再び誘惑されると、蛇はまた頭を出し、私たちは再び叩きます。そして徐々に弱っていきます。

 もし私たちが、蛇に餌を与えるのではなく、打ち負かすことに真剣になれば、誘惑の力がすぐに弱まっていくことに気づくでしょう。肉体は『撃たれ』たり『吊るされ』たりして一瞬で死ぬことはできません。十字架につけられるしかないのです。十字架刑はゆっくりと、そして確実に死をもたらします。だからこそ私たちは、誘惑にあう時、それをすべて喜びと考えるのです(ヤコブ1:2)。なぜなら、それが蛇を打って弱める絶好の機会だからです。そうでなければ、誘惑を克服することは不可能でしょう。

 汚れた思いについて考えてみましょう。私たちがこの点においても忠実であれば、いずれこの「死」が実現します。もし、私たちが回心していない時代に何年もこの蛇に餌を与えてきたとしたら、それは数年かかるかもしれません。しかし、忠実になれば「死」は必ず訪れます。その結果、私たちの夢もより清らかになり、汚れた夢はますます減少します。しかし、汚れた夢を見る頻度が増えるなら、それは再び思考生活において不忠実になっていることを示しています。これは、私たちの思考生活における忠実さを測る良いテストです。汚れた夢は無意識の罪であり、それについて罪悪感を抱く必要はありません(ローマ7:25; 8:1)。1ヨハネ1:7は、私たちが光の中を歩むなら、イエスの血によってそのようなすべての罪から自動的に清められると教えています。

 完全な忠実さは完全な勝利をもたらします。しかし、性的な面で完全に忠実になれば、例えば、そこに性的な思考が伴わなくても、(異性の)美しい顔をほめることさえしなくなります。これは箴言6:25(「彼女の美しさを欲しがってはならない」)が私たちに呼びかけている忠実さです。この面で誠実に向き合う人が非常に少ないため、夢の中で清さに至る人は非常に少ないのです。

 私たちの潜在意識は、目覚めている間に意識的に考えていることに大きく影響されます。 心に浮かぶ誘惑ではなく、それらの誘惑に対する私たちの反応です。もし私たちの潜在意識が、思考や態度においても罪を憎み、神の御前に生きるというメッセージを受け取るなら、それは私たちの清さへの思いに従ってくれるでしょう(詩篇51:6参照)。

 ですから、大切なことは「信仰者の仲間たちは私がどれほど清いと思っているだろうか」ではなく、「私の潜在意識はどんなメッセージを受け取っているだろうか」ということです。たいていの場合、あなたの夢が答えを与えてくれるでしょう。

 完全な清さを求めない人は、ここで私たちが言っていることを理解することはできません。汚れた夢を軽く見る人は、それが意識的な思考生活における不忠実さの兆候であることに気づいていません。そのような信仰者は、私たちの言っていることを極端で非現実的だと思うでしょう。なぜなら、普通の考え方で霊的な事柄は理解し得ないからです。

 あなたの思考生活がどれほど汚れていたとしても、イエスの歩んだ道を歩みたいと真剣に求めるなら、完全に清くなることができる、それが福音です。そしてあなたの夢も清められるでしょう。ただし、これには時間がかかります。必要な時間は、回心していない時代にどれだけ肉を養っていたかによって異なります。しかし、どんなに強い蛇であっても、徹底的な忠実さによって死滅させることができます。

 イエスは、疲れ果て、重荷を負っている者だけを招きました。敗北した人生にうんざりした時だけ、あなたは勝利を求めてイエスのもとに来る資格があるのです。世のほとんどの人は、他人や他人の自分に対する態度に嫌気がさしています。クリスチャンの中にも、教派に見られる妥協や世俗主義にも同じように感じている人がいるでしょう。しかし、これらは勝利の条件ではありません。自分自身にうんざりしている人だけが、主から招かれます。

 勝利を強く求める人だけが、主のもとに来ることができます(マタイ11:28、ヨハネ7:37)。思考生活で失敗するたびに涙を流し、隠れた罪を嘆く人は、神の真理をすぐに理解するでしょう。一方、その教義を異端と見なす人もいます。霊的な真理は自然な理解ではなく、隠れた罪を嘆く心に与えられる神の啓示によって理解されるからです。神は、神を畏れる者にのみ、その奥義(敬虔な生活の秘密も含む)をささやかれます(詩篇25:14)。

 敗北した人生に疲れ果ててしまった人々にイエスが約束した「安息」とは、罪に対する完全な勝利による安息でした。

 ヘブル4章では、安息は、カナンの地の所有と同じことだと見なされています。巨人たちは長い時間をかけて一人ずつ倒されました。こうして、主のために所有された地域に、安息と平和がもたらされました。カナンの巨人たちは、私たちの肉の欲望、意識的な罪の象徴です。その地の洞窟に隠れていた巨人たちは、無意識の罪の象徴です。

 ヘブル4章は、神がご自分の民のために用意された「安息日」についても語っています。彼らは六日間働いた後、神の安息に入ることができました。同様に、神は私たちが「六日間」自分の力で奮闘し、何度も何度も失敗することをお許しになります。私たちが自分の能力に自信を持てなくなった時(「自分のわざを終えて」― ヘブル4:10)、私たちは神の安息日、つまり聖霊の力による生き方に入るのです。どんなに努力しても、 (「肉を殺すこと」でさえ)私たちの罪深い心を聖くすることはできません。聖霊だけが、私たちを神の性質にあずからせて下さるのです。私たちが忠実であれば、この安息の休息の中で生涯を過ごすことができます。私たちが忠実でなければ、再び「労働」に戻ります。

 私たちが特定の罪と生涯戦うことは神の御心ではありません。神は「カナンの地のすべての巨人」が倒されることを望んでおられます。私たちは肉体的にも霊的にも、成長の各段階で新たな方法で誘惑されます。四歳児は怒りの誘惑を受けますが、性欲によるものではありません。それは十代になってからやって来ます。しかし、人が性的な領域で何年も敗北したまま、いつか勝利するという希望を告白するだけというのは神の御心ではありません。心から本当に願うならばすぐに勝利することができます。この領域にも死が入り込む可能性があります。しかし、神のご性質だけがそれを征服できるのです。

 ローマ6章は、勝利の人生の順序について語っています。

 私たちはキリストと共に死んだことを知っている(6節 ― たとえ理解できなくても、信仰によってこの事実を受け入れる)ので、今や私たちは、常に自分自身を罪に対して死んだ者とみなし(11節)、従順と義のために、私たちのからだを神のみに差し出します(13~18節)。その結果、聖化が増し加わり(22節)、最終的には永遠のいのちに至ります。これは「神の性質」の別の表現です(22節)。

 ですから、私たちの究極の目標は、神の性質にあずかることです。しかし、これは、十字架上でキリストと共に死んだという自分の立場を受け入れ、その後も常に自分自身を罪に対して死んだ者とみなすことによってのみ始まります。

 イエスの生涯ではどうだったでしょうか。イエスは私たちと同じようにあらゆる点で誘惑をお受けになりました。イエスは、永遠に同じ誘惑と戦っていたわけではありません。もしイエスが、私たちと同じように誘惑されたのであれば、性的な面でも私たちと同じように誘惑をお受けになったでしょう。しかし彼は、ご自身の忠実さによって十代でこれらの誘惑を終わらせたに違いありません。その結果、公の宣教に赴く時まで、この分野で誘惑されることはありませんでした。女性たちがイエスの足を拭いた時も誘惑されませんでした。この分野で誘惑との戦いに忠実でない者は、この真理を理解することはできません。

 荒野での40日間の厳しい誘惑の終わりに、サタンがイエスを誘惑した時、サタンは性とお金の分野でイエスを誘惑するのは無駄であることをよく知っていました。なぜなら、イエスは何年も前にそれらの分野を徹底的に克服しておられたからです。荒野での最後の三つの誘惑は非常に高度な誘惑であったため、私たち自身がイエスの歩んだ道を忠実に歩むことによってのみ、その微妙な意味を理解することができるのです。

  誘惑の学校は他の学校と何ら変わりません。私たちは皆、幼稚園から始めなければなりません。私たちの主も、まず最も基本的な誘惑にあいます。しかし、主はどの授業にも、必要最低限​​の時間しか費やされませんでした。33歳で十字架上で亡くなる時には、主は「完了した」と言うことができました。イエスは、すべての誘惑を克服し、学校のすべての試験を「無事」合格し、完全に成し遂げられました。人としての教育課程を見事に終えられたのです(ヘブル5:8、9)。

 幼稚園の誘惑クラス(例えば、性的に汚れた考え、怒り、嘘など)に不誠実な人が、博士課程のイエスが、どのような誘惑に直面したかを理解しようとするのは、ばかげているだけでなく、おこがましいことです。

 もしあなたが自分自身に忠実であれば、理解できるはずです(これはイエスがヨハネ7:17ではっきりと述べていることです)。しかし、誘惑の瞬間に不忠実であれば、どんなに多くの本を読んだり、メッセージを聴いたりしても、決して理解することはできません。神の奥義は音声や本を通してではなく、神ご自身の口から直接、御言葉を通して語られるのです。

 イエスは罪を犯さなかったにもかかわらず、私たちの罪深い肉体を持って来られ、その肉体に罪があったと教える人がいます。これは異端です。いかなる罪、たとえ肉体に罪があったとしても、神の前に立つことはできません。なぜなら、神は非常に聖いお方なので、罪を見ることができないからです。もしイエスが肉体に罪を持っておられたなら、世での生涯において一日たりとも父との交わりを持つことはできなかったでしょう。これは、イエスが罪深い肉体を持っていなかったことの最も明白な証拠です。

 神が私たち(肉体に罪を持つ者)と交わりを持つことができる唯一の理由は、決してご自分に罪を犯されなかったキリストの義を身にまとっているからです。

 イエスは無意識のうちに罪を犯したかもしれないと教える人もいます。これもまた異端です。

 旧約では、たとえ無意識の罪であっても、人が罪に気づいた時点で、いけにえを捧げなければなりませんでした(レビ記 4:2、13、27、28)。ですから、無意識の罪であっても償わなければなりません。

 新約では、意識的な罪に関して光の中を歩むならば、イエスの血は無意識の罪を清めます(1ヨハネ1:7)。このようにして、父との交わりは保たれます。

 しかし、イエスの生涯に一つでも無意識の罪があったなら、その罪に対して捧げる血は存在しませんでした。これは、イエスが無意識にさえ罪を犯さなかったことの最も明白な証拠です。

 無意識の罪は、私たちが長年、利己主義と傲慢さの中で生きてきた結果です。

 イエスは一瞬たりともそのような生き方をされませんでした。汚れた夢を見ることもありませんでした。なぜなら、彼の意識的な思考はすべて純粋だったからです。彼の意識的な生活にも、無意識の中にも、罪は一つも見つかりませんでした。

 一方、私たちは無意識の罪を抱えています。なぜなら、過去の人生における私たちの態度、習慣、行いが、私たちの魂を利己的でうぬぼれの強いものにしてしまったからです。  今、聖霊が私たちの曲がった魂をまっすぐにするために来られました。罪に打ち勝った人生に至った人は、ここで注意して正直にならなければなりません。

  残念ながら、ある程度の勝利を経験した人の中には、自分の行動や言葉などで、キリストにふさわしくない多くの部分を、単に「過ち」や「肉体の行い」と呼んで許してしまう人が数多くいます。もし彼らが、それらの「肉体の行い」の原因を分析すれば、根本的な原因が彼らの高慢と利己心にあることに気づくでしょう。しかし、サタンは彼らを欺きます(そして神はサタンがそうすることをお許しになります)。なぜなら、神はそのような信仰者が、たとえ外面的には非常に正しく、教会で良い証しをしていても、自分自身についての真理を愛していないことをご覧になるからです(2テサロニケ 2:10, 11)。彼らは常に自分の行いを弁解するので、人生における光はますます明るくなることはありません(箴言 4:18)。私たちは皆、砕かれた心と正直さをもって歩むべきです。そうしなければ、私たち自身もそうなってしまいます。

 神は私たちが今イエスのようになることを求めてはおられません。イエスのようになることは不可能です。なぜなら、それは、私たちの全人格に関わるからです。私たちは、イエスが再臨された時にのみ、イエスのようになることができます。今日、神が私たちに求めておられるのは、イエスの歩み方だけです(1ヨハネ 2:6と3:2を比較してください)。歩くことは意識的な行為であり、私たちの意識的な生活にのみ当てはまります。この領域においてのみ、私たちはイエスに従うことができます。

 福音の良い知らせは、イエスが人間となり、私たちと同じようにあらゆる面で試練を受け、克服されたので、私たちもイエスのように克服できるということです(黙示録3:21)。私たちはもはや、意識的な生活の中で罪を犯し続ける必要はありません。

ハレルヤ、この栄光に満ちた福音よ!

 章 8
真の霊性ー神の関心を求める

「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(2コリント11:3、14、15)

「 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。」(ローマ9:31)

 イスラエルのパリサイ人は義を追い求めていましたが、サタンに惑わされました。これは今日、義を追い求めているすべての人々への警告です。私たちが騙されることはないと考えるのは高慢です。私たちを欺きから守ってくれるのは、光の中を歩みながら神の御言葉とイエスの世での生き方に見出される真理を愛することだけです(2テサロニケ 2:10, 11)。

  神の御言葉を導きとしないなら、誠実さだけでは欺きから自分を守ることはできません。ペテロは非常に誠実でしたが、イエスに誤った行動を勧めることで、サタンの代弁者となりました(マタイ 16:21-23)。イエスが弟子たちに初めて十字架について語った時、彼らはそれを神の道として理解できませんでした。彼らは旧約聖書、すなわち神の民に繁栄、健康、多くの子孫、そして地上の祝福を約束する福音に慣れていました。苦しみと死はこの旧約聖書の福音にはそぐわないものでした。

 旧約聖書は個人の祝福と世俗的なものを中心に据えられていました。新約聖書の福音は神の目的と天にあるものを中心に据えられています。

 洗礼者ヨハネがこの新約聖書の福音の道を備えて来た時、彼のメッセージは「悔い改めよ(立ち返りなさい)…天の御国(地上の御国とその祝福とは対照的に)、神の御国(個人の祝福とは対照的に)は、近づいている」(マタイ3:2、マルコ1:14, 15)でした。

 イエスは、洗礼者ヨハネの時代以降、天の御国と神の御国が宣べ伝えられていると言われ(マタイ11:12、ルカ16:16)、またこの御国に入るためには、私たちが激しく攻め奪いとる者にならなければならないとも言われました。

 自己愛、地上の安楽、名誉、便利さ、富などへの愛は、私たちの肉体に深く根付いています。これらへの執着に対して攻撃的になる覚悟のある者だけが神の御国を手に入れることができるのです。

 ペテロはイエスに安らぎと慰めの道を示しました。しかしイエスはペテロを叱責してこう言われました。​​

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

​​ 私たちが自分の利益ばかりに心を奪われると、イエスと神の御国にとってのつまずきの石となってしまいます。その時こそ、サタンは私たちを惑わすことに成功するのです。

 罪からの救いの本質は、「自分の利益を求める」ことから救われることです。ルシファーは自分の利益を求め、その結果、罪が全世界に入りました。

 一方、イエスは決して自分の利益を求めず、それゆえに救いをもたらしました。自分の利益を求めるままにしておく義は、偽りの義です。しかし、聖さを説く多くの団体の中にさえ、この偽りの義が見受けられます。

 人間は基本的に「ビジネス志向」であり、自分の不便性を最小限に抑えながら、御国で最高のものを手に入れようとします。そのため、自分の快楽や利益を損なわない都合の良い神学を作り出そうとするのです。

 怒り、性的な罪、憎しみを克服し、過去のすべての事柄において償いをしたにもかかわらず、自己利益、つまり自分や家族の生活の快適さや利便性(1コリント7:33は、妻を喜ばせようとすることも「この世のもの」に気を取られていると言っています)、あるいは自分の名誉(この世ではなく、教会、特に長老たちからの名誉と尊敬)、あるいは自分の利益(職業上の野心の追求など)などをまだ求めている人もいます。

 敬虔の奥義を信じ、理解し、説明することさえできるにもかかわらず、不義の奥義を理解していないということはあり得ます。

 すべての不義の根源は、自分の利益を求めたいという欲です。これは私たちの肉における最も欺瞞的な欲望の一つです。人は、いくつかの罪を克服したというだけで、自分が霊的であると思い込み、自分の利益を求める欲望がまだ、自分の決断や行動に影響しているのです。これが、サタンが「義」の使者としてやって来る時の欺瞞であり、これが不義の奥義です。

  現代において、聖書の知識が不足することはありません。実際、私たちの中にいる賢い人たちは、新約の教義を、最初の啓示を受けたパウロ自身よりも巧みに説明できるかもしれません。しかし、私たちの人生は、自己利益への欲から解放されているかという点では、パウロの人生から何千マイルも遅れている可能性が非常に高いのです。

 真の神の人を見分ける唯一の点は、特定の教義を持っていることではなく、自分の利益を求めないことです。パウロはピリピ2:19〜21で、仲間のほとんどが依然として自分の利益を求めていたため、彼らをピリピに派遣できなかったと述べています。

 しかし、テモテは違っていました。パウロの仲間たちの、それぞれの教義が全く正しかったことは間違いありません。しかし、彼らは自分の利益を求めていました。彼らは、自分たちが義人であり、周りの人々よりも霊的に優れていると考えていたのかもしれません。しかし、パウロは彼らの「義」の浅薄さを見抜いていました。同じ状況が今日も続いています。

  何世紀にもわたるキリスト教の歴史を通して、真に偉大な神の人に共通する唯一の点は、彼らが利己的ではなかったことです。彼らを神の人たらしめたのは、教義の細かな点ではなく、むしろこの共通の要素、すなわち彼らが自分の利益を求めなかったことです。彼らの中には、私たちほど真理を正確に理解していなかった人もいたかもしれません。しかし、彼らの霊性は、彼らがそれぞれの時代、それぞれの世代において、自らが持っていた光に従い、無私無欲に神の国を求めていたという事実にありました。

 今日、私たちが聖書の真理について、敬虔な人々よりも多くの光を得ているのであれば、より多くを与えられた者からは、より多くが要求されるということを忘れてはなりません。 ですから、もし私たちが、義とは怒りや性的な罪などを克服することだけにあると考えるなら、私たちは大きな危険にさらされています。

 他の宗教の敬虔な人々の中には、これらの罪を(外面的に)克服した人もいます。ある有名な宗教指導者は、他人が自分を怒らせることは不可能だと述べました。しかし、それはキリストの義ではありません。単なる抑制です。多くの隠者もまた、物質的なものへの執着がないと主張しています。彼らは確かに多くの「信仰者」を恥じ入らせるでしょう。

 私たちは、これらの肉の罪すべてを、ペリシテ人がゴリアテと共にイスラエルに立ち向かった姿に見ることができます。しかし、ゴリアテ自身は「自己利益追求型」という巨人です。もしダビデがペリシテ兵を一人ずつ殺しただけなら、勝利はなかったでしょう。あるいは、せいぜい何年もかかる、長引く勝利だったかもしれません。しかし、ダビデがゴリアテを殺した時、他のペリシテ人は皆逃げ去ったと書かれています(1サムエル記 17:51)。これが秘訣です。真の勝利を得るためには、自己利益追求という巨人を集中的に攻撃しなければなりません。そうすれば、他の罪は自然に克服されるでしょう。

 イエスは木の根元に斧を据えるために来られました。木の実は数多くあります。嘘、盗み、貪欲、怒り、苦々しさなどです。しかし、これらすべての根源は、我が利益を求めることです。ここに斧を据えなければなりません。さもなければ、私たちは欺かれてしまいます。

 決して怒ったりせず、特定の宗教的な言葉を話したりしているというだけで、聖さのうちに自分は歩んでいると思い込むことはあります。しかし、私たちは、家の物を購入したり、妻や子供たちを喜ばせようとしたり、快適な生活をどこまでも求めることに、心やエネルギーを使い果たし、時間を過度に費やしてしまうことがよくあります。このように生きながら自分が聖なる存在だと思い込むことは、自己欺瞞の極みです。

 パウロは、コリントの人々がキリストへの純粋な献身から迷い出てしまうことを恐れていました。妻への献身がキリストへの献身を超えてしまうという、真の危険があるのです。

 第一の戒めは、隣人を自分自身のように愛することではなく、心と魂と力と思いを尽くして神を愛することです。このように神を愛して初めて、私たちは隣人(妻も含む)を正しく愛することができるのです。

 義を追い求めるクリスチャンは、片方の極端に振れ、そして自分の誤りに気づくと、もう一方の極端に振れてしまう振り子のようなものです。狭い道の両側には崖があります。そして、サタンはあなたがどちらの崖から落ちようと、実際には気にしません。

 しかし、私たちは聖霊の働きによって神を賛美します。

「もしあなたが神の道を離れて(右へ、あるいは左へ)迷うなら、あなたの後ろから声が聞こえる。『​​いや、これが道だ。ここを歩め』と。」(イザヤ書 30:21 リビングバイブル訳)これが教会における預言的働きの主な目的です。その声は私たちに語りかけ、狭い道の真ん中に私たちを引き止めてくださいます。教会における預言の働きと、神の御言葉は、神が私たちを命へと導く狭い道の中心に留めておくために用いられる手段です。

 外面的な活動を重視し家庭生活を軽視するという現実が、今日のキリスト教界に見られますが、逆に、キリスト教とは妻や子供、そして小さな集まりの中の、自分と同じ「言語」を話す特定のクリスチャンだけを愛することだ、という偏った考えへと傾いてしまうこともあります。

 私たちは確かに家族や教会の仲間と愛し合い、私生活においても罪を克服しなければなりません。しかし、キリストへの献身は、たとえ個人的な犠牲を払ってでも、神の御国を広めようと努めることにも表れなければなりません。内なる清さと外なる犠牲は互いに矛盾するものではありません。なぜなら、イエスは生涯においてその両方を経験したからです。

 使徒パウロはタルソスでクリスチャンの実業家として、聖い信仰者として、平穏な生活を送ることもできました。しかし、彼はそうしませんでした。キリストへの献身が彼を駆り立て、この世ですべてを犠牲にしてでも主に捧げたのです。

 二百年前、モラヴィア派の兄弟二人は、西インド諸島のある島に奴隷植民地があることを知り、そこで残りの人生を奴隷として過ごし、そこで奴隷たちに福音を宣べ伝えることを決意しました。別の二人は、アフリカにハンセン病患者のためのコロニーがあることを知りました。そこは病気の蔓延を恐れて、誰も出入りを許されていませんでした。彼らは、そのコロニーの住人たちにキリストを伝えるために、残りの人生をそのコロニーで過ごすことを自ら申し出ました。私はこれらの人々が信じていた教義の細部までは知りません。しかし、彼らは決して自分の利益を求めず、すべてを犠牲にしてでも主に捧げたのです。

 今日の私たちの些細な自己犠牲は、このような主のために身を捧げた人々の光の中では取るに足らないものです。永遠の世界で、私たちは、キリストの花嫁はキリストと同じ性質、つまり「利得を求めない」性質を持つ男女に出会うでしょう。私たちの中には、教義的な理解があってキリストの花嫁となれると考える人がいます。しかし、そうではありません。それは、自分の利益ではなく神の利益を求める生き方です。

 上記のような人々の生き方と比べれば、私たちの生き方と働きはなんと浅はかなものでしょうか。真理を多く知っているというだけで、これらの人々よりもイエスに従っていると考えるのは、なんと途方もない思い上がりでしょう。神に仕えるために、私たちはどれほどの代償を払ってきたでしょうか。金銭、安楽、便利、健康を失うことなどです。おそらくほんのわずか、あるいは全く失っていないでしょう。このことは私たちを謙虚にさせ、考えさせるはずです。もしかしたら、私たちは都合よく犠牲の人生を避けてきたのかもしれません。

 英語を読めるすべてのクリスチャンは、ハドソン・テイラー、C・T・スタッド、デイビッド・ブレイナード、ウィリアム・ケアリー、ウィリアム・ブース、ジム・エリオットといっ​​た人物の伝記を読み、刺激を受けるべきです。聖霊は、ヘブル11章で多くの人物を、そして2コリント11章でパウロを例に挙げて、私たちの信仰を励ましてくださいました。そして、これらの現代の英雄たちの例は、私たちを自己中心的で家族中心、安楽を愛する物質主義的なキリスト教から脱却させ、キリストへの献身的な生活へと導いてくれるのです。

 イエスの時代には、宗教の名の下に羊や鳩を売り、神殿で金銭のやり取りをする人々がいました。イエスは彼らを追い出しました。彼らにとって、信心深さは利益を得るための手段となっていました。信心深さが、金銭、快楽、安楽など、自分自身の利益を得るための手段となる時、たとえ自分が義を追い求めていると思っていても、私たちは間違った道を歩んでいます。

 イエスにとって、敬虔さとはこの世が大切にしているすべてのものを手放すことを意味しました。もし私たちが本当に心から神に仕えるなら、同じ代償を払うということです。(例えば、マタイ19:29を読んで、イエスがそこで述べたものを、あなたも手放さなければならなかったことがあるかどうか考えてみてください。)

 イエスは、「高価な真珠を見つけたら、すべてのものを売って手放さなければ得られない」と言われました(マタイ13:46、ルカ14:33)。パウロは「キリストを得るために」すべてを手放さなければなりませんでした(ピリピ3:8)。もし今日、私たちがすべてを捨てることなくキリストを得ることができたとしたら、私たちが「得た」のは別の「キリスト」です。これは、パウロがコリントのクリスチャンに対して抱いていた恐れです。

 つまり、彼らがすべて捨てなくてもいいと説く「別のイエス」に従ってしまうのではないかという恐れです(2コリント11:4)。また、私たちは「すべてを捨てる」ことを都合よく神学的に定義することで、実際には何も捨てる必要がないと錯覚し、自分自身を欺く可能性があります。この問題の現実と向き合わなければ、私たちは惑わす霊に惑わされてしまうでしょう。神は私たちが欺かれるままにされるのです。

 神の人を褒め称えるだけで、私たちは霊的にはなれません。イエスが地上におられたとき、多くの人々が彼を称賛しましたが、霊的になリませんでした。イエスを信じる者も大勢いましたが、イエスは彼らにもご自身を委ねられませんでした(ヨハネ2:24, 25)。なぜなら、イエスは誰が心からの者で、誰がそうでない者かを知っておられたからです。イエスは今日でもそれが誰だかご存じです。

 ですから、ゴリアテがまだ堂々と立っているのに、あちこちで小さなペリシテ人を倒したからといって、喜ぶのはやめましょう。私たちの投げる石は、自分の利益を求める巨人に向けられなければなりません。真の勝利を得るためには、この巨人を完全に倒さねばなりません。イエスが私たちに憎むように言われたのは、自分の利益を求めるこのいのちなのです(ヨハネ12:25)。

 もし私たちが光の中を歩み、自分の行動や決断のほとんどを汚している自己中心性を見極め、それらの点において容赦なく自分自身を裁くなら、少しずつこの巨人が打ち負かされ、倒れるのを見るでしょう。

 イエスはかつて、教会を建てることについて話した直後、ペテロに、彼の言ったことがサタンからだと諌めました(マタイ16:18-23)。ハデスの門も打ち破ることができない教会とは、自分の利益ではなく神の利益を求める人々の上に築かれる教会です。ただ福音の教理の知識だけがあり、取るに足らないペリシテ人を数人倒しただけの者たちの上に築かれる教会ではありません。

 章 9
聖化と交わり

『交わり』という言葉は新約の言葉です。新約で語られている交わりは、イエスが地上にいた時の、父なる神との交わりを模したものです。イエスは、弟子たちの間の交わりがそれと同じものとなるようにと祈られました。

 旧約の下では、人々は聖性の高みに達することができましたが、それでもなお、互いに交わりを持つことができました。モーセ、エリヤ、ダニエル、洗礼者ヨハネなどはほんの数例ですが、旧約の下には敬虔な人々がいました。これらの人々には、今日のほとんどの信仰者をはるかに超える聖さがありました。なぜなら、今の時代の信仰者は新約の生き方に入っていないからです。新約はイエスの弟子たちを内なる聖化へと導き、それがひいては互いの交わりへと導きます。ヘブル11章で信仰の偉人たちについて読むと、彼らは皆孤独な人々であったことが分かります。それが旧約の時代でした。

 しかし、新約聖書を読むとすぐに、イエスが弟子たちを二人ずつ遣わされたことが分かります。これは新しいことでした。イエスは、私たちを内なる聖化だけでなく、交わりへと導くためにも来られたのです。

 もし信仰者が内なる罪に打ち勝った生活を送っていても、他の人々との交わりを持たないなら、その人の聖化には何か重大な欠陥があります。交わりのない聖化は偽りです。今日、世界中を旅して聖さを説く人は多くいますが、彼ら自身は旧約聖書の時代の人々と同じように孤独な人々です。そのような説教者たちは依然として旧約の下にいます。彼らは必ず、自分が住んでいる場所で交わりを築いていません。

 しかし、一世紀の使徒たちはそうではありませんでした。ペンテコステの日のすぐ後、ペテロとヨハネが一緒に出かけたことが記されています。ペテロは宮で足の不自由な人に「私たちを見なさい。」と言いました(使徒 3:4)。ペテロとヨハネはチームとして働いていました。ペンテコステの日、ペテロが説教したにもかかわらず、彼は11人の弟子たちと共に立ち上がったと記されています(使徒 2:14)。使徒 2章から4章では、彼らの交わりが際立っています。

 ペテロとヨハネの気質は似ていませんでした。二人は人格も大きく異なっていました。ペテロは短気で活動的なタイプで、主を決して否定しないと豪語し、岸辺で主を見るや否やガリラヤ湖に飛び込みました(ヨハネ 21章)。一方、ヨハネは静かに瞑想するタイプで、一人でいることを好み、天の幻を見るのを好みました(パトモス島でのように)。神は常に、教会において(人間的に言えば)異なる人々を一つにします。それは、似た者同士が一つになるよりも、多様性の中にある一致をはるかに輝かしい形で示すためです。

使徒13:2には、アンティオキアの教会の指導者たちが断食し、主を礼拝した様子が記されています。

 聖霊は彼らに、奉仕に置いてサウロとバルナバから別れるようにと告げました。旧約聖書時代とは異なり、聖霊が召されたのは一人ではなく二人であることに改めて注目してください。これは新約の時代であり、個人主義的な奉仕の場はもはやありませんでした。キリストのからだとしての表れが必要であり、そのためには最低でも二人が必要でした。

 ここでも聖霊は、気質の異なる二人を共に働くように召されました。パウロは厳格で妥協を許さない人であり、中途半端な姿勢を許しませんでした。使徒15:36~39で、パウロとバルナバが、二度目の旅に来るようマルコに聞くべきかを話し合いましたが、パウロはそれを断固として受け入れませんでした。なぜなら、マルコは最初の旅の途中で彼らのもとを去ったからです。

 一方、バルナバ(彼は励ますという点で傑出した働きをしたため、その名が付けられました。使徒4:36)は、マルコにもう一度チャンスを与えたいと考えました。パウロとバルナバはこの問題に関して自分たちの見解に固執しすぎて、二人は互い離れ離れになりました。

​​ 二人はまだ非常に意志が強く、(霊的成長において)「進んで従う」(ヤコブ3:17)という天からの知恵を習得するところまでには至っていませんでした。

 使徒たちは生まれながらの聖徒ではありません。彼らも私たち皆と同じように成長し、少しずつ肉体に光を得ていかねばなりませんでした。後にパウロ、バルナバ、マルコは互いに輝かしい交わりを持つようになりました(2テモテ4:11より)。

 聖霊は、性格の全く異なるパウロとバルナバを召し寄せられました。しかし、彼らは互いにどのように付き合っていけばよいかわかりませんでした。これは今日の多くの信仰者も同じです。未熟な者の間ではこのような状態は許容できますが、十年以上信仰者として生きてきた人々の間でさえ、このようなお互い相容れない状態があるのを見ると、私たちは何と言えばよいでしょうか。控えめに言っても、それは哀れなことです。

 パウロは「真理」を重視し、バルナバは「恵み」を重視しました。もし互いに相手の必要性を理解し、感謝し合っていたなら、神の栄光は彼らの中に現れていたでしょう。恵みと真理に満ちていたはずです(ヨハネ1:14)。二人が共にいれば、二人だけでは成し遂げられなかったことを成し遂げることができたでしょう。だからこそ聖霊は共に二人を召されたのです。

 もし、教会内で信仰の若いパウロのような人だけしか働いていなかったら、皆が追い出され、パウロだけが残っていたでしょう。一方、若いバルナバのような人物の働きだけしかなかったら、クラゲのような、芯のない、中途半端で妥協してしまう者ばかりの集まりになっていたかもしれません。しかし、パウロとバルナバは共に真の教会を築き上げることができました。使徒15章では、サタンは彼らにこれを見せませんでしたが、後になって彼らも知ることができたのは感謝です。

 バルナバがパウロのもとを去った時、聖霊はパウロのためにもう一人の協力者を用意しておられました。使徒15章の出来事の後、16:1にこの人物、テモテについて記されています。 聖霊はパウロを独りで奉仕させるつもりはありませんでした。パウロのために神がご用意された同労者テモテも、性格的にはパウロとは正反対でした。

 テモテは内気で引っ込み思案で臆病なタイプで、外交的なパウロとは対照的な内向的な人物でした。二人は主への献身、真摯な心、そして「自分の利益を求めない」(ピリピ 2:19-21)という点において全く似ていましたが、性格は全く正反対でした。それでもパウロは他の同労者よりもテモテを高く評価するようになりました。気質は違っていたものの、二人は共に輝かしい交わりを育んだのです。ついに聖霊は、パウロの人生において、御心であったことを成し遂げられました。

 他人の奉仕を真似するのは愚かなことです。なぜなら、教会での彼ら自身の奉仕が妨げられるからです。多くの若者がこのように模倣しようとすることは本当に愚かなことです。彼らは神のしもべたちの奉仕に感銘を受け、自分は同じ召命を受けていないのに、それを模倣しようとするのです。その結果、彼らは肉欲と魂の海に溺れてしまいます。ヘブル11:29には、イスラエル人は神の召命によって紅海を難なく渡ることができたのに、エジプト人はイスラエル人に倣おうとしたために溺れたことが書かれてあります。これは、他者の奉仕を模倣しようとするすべての人への警告です。

 いくつかの例を考えてみましょう。エレミヤのような、引き抜き、引き倒し、滅ぼす奉仕に召されている人はごくわずかです(エレミヤ1:10)。その召しを受けていない人が、それを真似しようとすると、彼の教会での神から与えられた奉仕が壊されるだけでなく、彼自身の魂もだめになってしまう可能性があります。

 同様に、私たちは教師になってはならないと警告されています(ヤコブ3:1)。教会において教師となるよう神から特に召されている人たち(1コリント12:29、エペソ4:11)は、その奉仕を勝利のうちに果たす恵みを受けます。彼らに倣う者は、自分自身が溺れるだけでなく、混乱と誤った教えの海に他の人々を溺れさせることになるかもしれません。

 新約は、人々をキリストのからだへと導くためのものです。旧約には「体」はありませんでした。これは、聖霊が当時人々に宿っていなかったためです。それゆえ、いかなる二人の人間も互いに交わりを持つことは不可能でした。旧約の下では、彼らの行動は「人間的」であり、したがって互いに交わりを持てませんでした。新約の下では、私たちの行動は神からのものでなければなりません。なぜなら、私たちは今や神の性質にあずかることができるからです(2ペテロ 1:4)。こうして栄光のうちに交わりが生まれ、からだを建て上げることができるのです。

 今の時代に生きる人々が、依然として互いに交わりを持つことができないならば、彼らがまだ肉的で霊的に幼子であり、「人間的」であることは明らかです。

 パウロはコリントのクリスチャンをこのことで叱責してこう言いました。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。…そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」 (1コリント3:3)。人は「人間」であるとき、自分と似た者同士と交わろうとします。

 マラヤヤム語の人たちは自分たちの教会を作るために集まり、アングロ・インディアンは別の教会を作り、タミル語の人たちはまた別の教会を作ります。これらはクラブであり、イエス・キリストの教会ではありません。

 しかし、神はからだを設計する際に、異なる背景、コミュニティ、国籍、気質、知的能力、社会的・経済的地位を持つ人々を一つにまとめられました。それは、互いの交わりを通して、それぞれの粗悪な部分が擦り落とされるためです。こうして、聖化と交わりが同時に発展するのです。

 ヘブル 12:4は、交わり(「すべての人との平和」)と聖化を追い求めるようにと教えています。新約において、この二つは切り離すことはできません。私たちの両足のようなものです。歩くときに左足を前に出すなら、次の一歩は右足を前に出さなければなりません。聖化と交わりはそうあるべきです。

 聖化のメッセージに心を奪われるけれども、交わりの必要性には全く関心のない信仰者が多く見られます。彼らはまるで、片足が不自由な人が片足、つまり聖化だけで前に進もうとしているようなものです。彼らは、思い、言葉、行い、そして場合によっては態度や動機に至るまで、汚れから自分を清めることに関心があります。しかし、彼らは教会内の他の人々との交わりを大切にしたり、育んだりしていないようです。ですから、彼らの聖化への追求は利己的な追求であり、最終的には彼らを誤った目的地へと導きます。交わりのない聖さは偽りです。私たちはこのことを決して忘れてはなりません。

 また、逆に、交わりを求めるものの、私生活においては聖化を求めないというケースもあるかもしれません。聖化のないそのような交わりも偽物です。

 正しく歩むためには、両足が強くなければなりません。前の節(ヘブル12:12、13)では、足の不自由な方(どちらであれ)を強くし、癒すようにと教えられています。私たちは皆、まさにこの点において神の光を求めるのであり、自分自身を調べ捌くことができるようになります。

 私たちが保つべき一体性とは、イエスが地上で御父と一体であったような一体感を持つことです。それは霊における一体性です。

 父と子、聖霊は、私たちの救いにおいてそれぞれ異なる働きをなさっています。父なる神は御子を遣わされました。御子は肉体を取り、「私たちの罪のために」死なれました。聖霊は今、私たちを御子に似た者とするために、私たちの内に働いておられます。これらの働きには何の混乱もありません。しかし、この三つは完全に一つです。教会においてもそうあるべきです。

 神は、その主権において、キリストのからだであるすべてのメンバーそれぞれに、特定の働きを与えておられます(1コリント 12:7, 8)。神は各人の周りに円を描いておられると言えるかもしれません。その円が非常に大きい人もいれば、非常に小さい人もいます(マタイ 25:15)。自分の円の中にこそ、神を見出すことができます(使徒17:26, 27)。円の外では、他人のことに干渉することで、自分自身を破滅します。ペテロは、他人のことに干渉して苦しむ代わりに、自分自身を裁き、自分の肉において苦しむべきだと言っています(1ペテロ4:15、17、1)。

 例えば、他の兄弟がどのように子供を育て、お金をどのように使うかは、私たちには関係のないことです。それは私たちの関係の外にあります。神は私たちに他人の関係においていかなる権威も与えておられません。ですから、私たちは自分自身のことだけに気を配るべきです(1テモテ 4:16)。

 私たちが世俗に生きていた間、多くの人々や事柄について意見を持ちながら、自分のために非常に大きな円を持っていたでしょう。しかし今は、神が私たち個人の周りに引いてくださった円の中に留まるように注意しなければなりません。ほとんどの場合、その円にはただ一人、つまりあなた自身だけがいなければなりません。

 もしあなたが親であれば、その円にはあなたの家族も含まれます。もしあなたが教会の長老であれば、その円にはあなたの教会の人々も含まれます。しかし、それ以外のほとんどの場合、各人は自分自身のみを裁くべきです。私たちが罪を犯し、自分の仲間の境界を越えると、他者との交わりが破壊され、私たち自身の聖化も妨げられます。

 私たちは「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(エペソ5:21)と命じられています。これは、キリストを畏れるがゆえに、他者の円に踏み込むことを恐れるべきであるという意味です。私たちは、自分に関係のないことに干渉しないよう、互いの交わりにおいて自制心を持つべきです。

 好奇心は、多くの信仰者の生活において、致命的でありながらほとんど気づかれない罪であり、他への干渉の初期の兆候と言えます。子供たちはたいてい、他人の会話を盗み聞きすることに興味を持ちます。パウロは「おとなになったときには、子どものことをやめました。」(1コリント13:11)と言いました。

 しかし、ほとんどの信仰者は大人になってもこの悪い習慣を捨てません。こうした好奇心は、最終的に彼らをさらに邪悪なゴシップへと駆り立てます。年配の女性でこれが習慣化している人は、自分を律することができず、神の御心に沿った生活が送れません。(1テモテ4:7参照)。ポルノグラフィーもまた、他人の裸を見たいという肉欲的な邪悪な好奇心を満たすためのサタンの手段です。

 イエスも私たちと同じように好奇心を抱くように誘惑されました。しかし、イエスは父がご自身の周りに引かれた円の外に出ることを断固として拒まれました。

 ですから、世での33年半の間、この分野で一度も罪を犯されませんでした。 私たちがこの好奇心に対していかに弱いかを知る時、それに打ち勝たれたイエスの偉大さを痛感します。誰が誰と結婚するのか、誰が次に子供を産むのかなど、好奇心を持つことは、不敬虔な人々の娯楽です。本当に信心深い兄弟姉妹は、そのような娯楽に決して手を出さないでしょう。

 自分の円の境界を越えることは、長老、夫、親が、従うべき人々に対して威圧的な態度を取ることにもつながります。私たちは決して子供を怖がらせたり、妻や教会の他の兄弟たちに圧力をかけたりしてはなりません。エリフの言葉はまさにこの場面に当てはまります。「あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない。」(ヨブ記 33:7)

 私たちはそれぞれ、何らかの形で自分の権威の下にある人々(子供、妻、召使い、信者など)が、決して恐怖や圧力、脅威を感じないように注意すべきです。私たちが他者に対して権力を持っている時、自分の境界を越えることは非常に簡単です。そうなると、円は破壊されてしまいます。

 夫は妻を支配し、その人格を踏みにじってしまうことがあります。これは愚かなことです。神は夫と妻を互いに異なる存在として創造し、互いに助け合うようにされました。何かの問題が起きると、夫であるあなたはある角度から、妻は別の角度から見ているかもしれません。それは、あなたが建物の写真を北側から撮り、妻が同じ建物を南側から撮っているようなものです。二枚の写真を並べてみると、全く違って見えるかもしれません。しかし、そうして初めて、建物の全体像が見えてくるのです。妻の個性を破壊し、あなたの視点だけで写真を撮らせようとするなら、あなたは愚かな夫です。そうすれば、損失はあなたのものになります。もしあなたが妻をありのままにさせていたら、あなたはその問題に対する別の見方を得ることができ、理解を深め、より賢明になれたでしょう。多くの夫はここで、自らの愚かさを清めなければなりません。 聖化と交わりは切り離せない関係にあります。

 聖化という左足で一歩踏み出すなら、交わりという右足がそれに続くべきです。夫婦、兄弟、姉妹など、あらゆる関係においてです。

 神の光の中を歩む者(1ヨハネ 1:7)は、両足で歩みます。こうして、自分の肉に宿る悪がますます明らかになります。そして、そこで自らを裁き清めることによって、同じ道を歩む他の人々との交わりもまた、ますます栄光に満ちたものとなるでしょう。こうして、教会はキリストの栄光を世界に輝かせるのです。

 章 10
反キリストの霊に打ち勝つ

私たちは、反キリストが世界に現れる直前の時代に生きています。しかし、彼がサタンの代表として地上に現れる前に、世界情勢は徐々に整えられ、彼への道が開かれるでしょう。 それはまるで山の頂上へと続く坂道のようなものです。この坂道は一世紀にすでに始まっていました。ヨハネが1ヨハネ2:18で述べているように、「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」

 聖霊はそこで、この手紙が書かれた時、つまり西暦百年頃は既に午後十一時であったと述べています。私たちは今、この時代の終わりの瞬間にいます。事態はほぼ頂点に達した段階に達しています。私たちは、自分が生きている時代を理解している者として生きるべきなのです(マタイ16:3)。

 反キリストの国は政治的、経済的、そして宗教的なものです。私たちはその宗教的な側面だけを考察したいと思います。悪魔は、無神論的な政府よりも偽りの宗教を通して、そして偽りのキリスト教を通して、はるかに多くの目的を達成してきました。また、ヨハネは反キリストが一世紀のキリスト教会にいたと述べています。しかし、彼らは使徒たちの力強い説教によって追い出されました。「彼らは私たちの中から出て行きましたが…」(1ヨハネ 2:19)

 この反キリストの霊は、今日のキリスト教界に蔓延しています。私たちはそれが何であるかを明確に見極める必要があります。そうして初めて、私たちはそれを自分の肉から、そして教会から追い出すことができるからです。

 反キリストの特徴は、2テサロニケ 2:3-12 に簡潔に記されています。

彼は不法の人と呼ばれています(3節)。

彼は自分を高め、神のようになりたがる者です(4節)。

彼は偽りを言い、欺く者です(9、10節)。

 これらは、ヨハネの時代のように、今日のキリスト教会に集う反キリストたちに見受けられることです。

 

 反キリストは罪(不法)の人と呼ばれています。その霊は、キリスト教界において罪を軽く見る態度として現れます。キリストの再臨前のこの最後の世代において、罪を非難する説教者は人気を失うでしょう。社会的な平等、貧しい人々や読み書きのできない人々への配慮、洪水被災者への救済など、どれも良いことばかりです。しかし、金銭や物質への愛、性的に罪深い考え、許すことができない態度、怒りの爆発、名誉の追求、陰口、噂話など(マタイ5章から7章でイエスが言及した事柄)といった罪についてはほとんど強調されません。人々が罪の中で生き続けているにもかかわらず、一度「キリストを受け入れた」というだけで永遠が保証されたという偽りの恵みが、『不法の秘密』(2テサロニケ 2:7)として蔓延ります。そのような説教は人々の耳に心地よく響くので、信仰者は喜んで耳を傾けるでしょう(2テモテ4:3, 4)。

 黙示録13章では、反キリストの支配について描写されていますが、彼は追随者たちに、公然と従うか、密かに従うかの選択肢を与えています。彼らは額に刻印を受けるか(公に彼に仕えたい場合)、右手のひらに刻印を受けるか(キリスト教会で信仰者としての評判を保ちつつ、『獣』の刻印を受け反キリストとして得られる特権を望む場合)です(黙示録13:16, 17)。

 しかし、次の節で描写されているイエスの追随者たちには、そのような選択肢はありません。彼らの刻印は額に押されなければなりません(黙示録14:1)。

 反キリストの支配においては、『獣の刻印』がなければ、生活必需品さえも買うことができなくなります。私たちはまだその頂点には達していませんが、かなりその時が近づいています。獣の刻印は、彼らの右手のひらに刻まれています。今日のインドでは、賄賂(獣の刻印の一つ)で右手を汚さずに就職や入学をすることは困難です。毎年行われる「アユダ・プージャ」の祭りに寄付をしない工場労働者は、一部の工場で罰として辛い仕事が課せられます。いわゆる信仰者の大半は、このような状況の中でも妥協しながら日曜日の集会に出席し、「霊的な」信仰者として主を礼拝します。どうしてこのようなことが可能なのでしょうか。なぜなら、集会の参加者は、彼らが平日に行う不義と罪を誰も知らないからです。獣の刻印は彼らの右手のひらには見えません。彼らは、生き残るためには多少の妥協はやむを得ないとさえ言って、自分の行動を正当化するかもしれません。彼らは、証しを失わない程度に秘密裏に行われる限り、サタンに屈服することを正当化できると考えているのです。

 今日、新約に則った集会の長老たちでさえ、秘密裏に右手に獣の刻印を受けています。このように、反キリストの霊がそのような集会を支配しています。ここに多くの教会における争いと対立、そして死の理由があります。

 あらゆる形の罪に対して徹底した態度を持ち、イエスが罪を憎まれたように罪を憎もうとする者(ヘブル1:9)だけが、信仰者の集会から罪を暴き、追い払う力を持つことができます。

  自己顕示

 ルシファーは、仲間の天使から崇められ、神のようになりたいと、自分を高めようとすることでサタンになりました。崇拝への欲求は今日、政治界、ビジネス界、そして宗教界など、あらゆる場所に見られます。偽りの宗教にも、いわゆる神のような存在が実際に崇拝されています。

 キリスト教界にも、「神父」「博士」「牧師」といった称号で他者よりも優位に立とうとする人々がいます。イエスが非難したユダヤ教の「ラビ」と全く同じです。こうした称号の根底には、他者から崇拝されたいというサタン的な欲求があります。これは、反キリスト者が、「自分を高く上げ、…自分こそ神であると宣言」する霊と同じです(2テサロニケ2:4)。

 他者からの崇拝への欲求は、より巧妙な形でも現れます。例えば、自分の活動に関する報告書に統計や写真(たいていは、指導者が説教や祈りをしている写真など)を添えて送るといったことです。

 仲間の信仰者よりも自分を高く上げたいという欲望は、実に様々な場面で見受けられます。例えば、自分の名を上げようとする集会で長老になろうと企むこと、有名な説教者として世界中を旅すること、様々な事柄について他の人に助言すること(人々が助言を求めていなくても)、自称検閲官(ヤコブ3:1 - AMP聖書より)、人々の名誉のために美しく構成された説教をすること、自分が他の人よりも優れた説教者であることを証明しようとすること、他の人の賜物や奉仕を真似ること、罪に陥ったときに自分を正当化すること(ルカ16:15)などです。

 私たちは、これらすべての欲望、そしてさらに多くの醜い欲望が私たちの肉の中に潜んでおり、それらから自由になるためには、厳しく裁かれる必要があることをはっきりと理解しなければいけません。そうして初めて、私たちはこの反キリストの霊を教会から追い出す権威と力を持つことができるのです。

偽り

 反キリストは「偽りの力、しるしと不思議と、悪の欺き」によって世を惑わします。(2テサロニケ 2:9, 10)。

 サタンはすべての偽りの父です(ヨハネ 8:44)。舌で偽りを語る神の子は、実際には偽りを宿すための胎として、自分の舌をサタンに差し出しているのです。偽りは、私たち皆が熟知している唯一の罪です。私たちは、生まれたときから偽りを語り、迷っています(詩篇 58:3)。

 偽りには様々な形があります。例えば、半分しか真実を語らない、物事の片面だけを伝える(自分を正当化したい時)、自分の仕事に関する報告を誇張したり、出来事を空想的に語ったり(最近の多くのキリスト教者の自伝に見られるように、単純な信仰者は何の識別力もなく鵜呑みにしてしまう)、同情を得るために痛みや病気を装ったり、寛大さや内面の清さを装ったり(実際にはそうではないのに)します。 あるいは、祈りや断食、悪霊払いに関連した出来事を語って、自分がこれらの事柄に精通しているという印象を与えようとするかもしれません。嘘をつく可能性は無数にあります。

 もしあなたが罪に負けてしまっても、そのことに正直で、素直に悲しむなら、あなたには大きな希望があります。しかし、もしあなたが罪に打ち勝ったと主張したり、説教を通して他の人にその印象を与えたりしても、内心では、ひそかに罪に負けているなら、イエスの次の御言葉があなたにも当てはまります。 「おまえたちは(偽善者たち)、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」 (マタイ23:33)たとえあなたが聖霊のバプテスマを受けた信仰者だと主張していてもです。

 偽る度に、確固たる態度でその罪に立ち向かわない限り、偽りが私たちの生活から無くなることはありません。聖さの言葉を口にしながらも、偽りに対してそのような強い態度をとっていない人はたくさんいます。

 反キリストの霊は、そのような人に力を持っています。なぜなら、彼らは人々の前で自分を正当化するものの、すべての秘密を裁きに導かれる神を恐れていないからです。私たちの集会は、あらゆる種類の虚偽が、御言葉の説教を通して容赦なく暴かれる場所でなければなりません。ヨハネの時代にはまさにそのようにして、反キリストが追い出されました。そして、私たちの時代にも、反キリストを同じように追い出すことができるのです。

騙し

 私たちは、反キリストが偽りのしるしや不思議を通して人々を欺くことを見てきました。超自然的な奇跡は、人々を欺く大きな力を持っています。インドでは、異教の宗教指導者たちが偽りの行いを通して、信仰者を増やしてきた例が数多くあります。悪魔の力による奇跡です。

 しかし、超自然的な奇跡や癒しは、神が世での使命を果たすために、教会に与えられた手段の一部でもあります。イエス、ペテロ、パウロは、今日では誰も聞いたことのないほどの、非常に大きな奇跡を行いました。これは彼らの信仰によるものでした。使徒の働きの記述は、常に現代の私たちの信仰の小ささを指摘します。

 聖霊の賜物を持たない教会は、1コリント12章にあるように、生きているにもかかわらず、盲目で、口がきけず、耳が聞こえず、麻痺している人のようなものです(そこでは、賜物は目、耳、手などに例えられています)。私たちは、奇跡の時代は過ぎ去ったと言う不信仰な信仰者のようになりたくありません。彼らにとって、その時代は確かに過ぎ去っています。それは彼らの不信仰のためです。 しかし、信じる者にとってはまだ過ぎ去っていません。

 しかしこれは、イエスの名において奇跡を行うすべての人に盲目的に従ってよいという意味ではありません。そのような奇跡を行う人の中には、最終的には主ご自身から拒絶され、追放される人もたくさんいます。(マタイ7:22, 23)では、なぜ神は、そのような人々がイエスの名において奇跡を行うことをお許しになるのでしょうか。

 その答えは申命記13:1-5に明確に示されています。神がそれをお許しになるのは、私たちがしるしや不思議によって惑わされるのか、それとも聖書の明白な戒めに従うのかを見極めるためです。

 ですから、あなたの霊的指導者が、終末の日に主によって見放される人でないことを確認することが重要です。(この時点で黙示録13:13, 14を注意深く読んで、小羊のように見える(黙示録13:11)イエスの弟子である偽預言者が、しるしや不思議によってどのように人々を欺くかを見てください)

 では、どうすれば私たちは欺かれずに済むのでしょうか。クリスチャンの奇跡を行う者を、前述の反キリストの三つの特徴によって見極めなければなりません。次の質問を自問してみてください。そうすれば、答えが得られるでしょう。

 1 その人の生き方と奉仕は、人々を罪の力から解放へと導いているか、それとも罪の赦しへと導いているだけか。心と生き方の清さを強く訴えているか。

 2 その人は、イエスや使徒たちのようにへりくだり、控えめな人か。それとも自己主張が強く、彼自身や彼の助言、彼の預言に自分を依存させ、かしらであるキリストとの繋がりを阻もうとしているか。しもべの霊か、それとも周りの人にただ命令する上役のような霊か。

3 その人の生き方に正直さや誠実さが見受けられるか。(公正で実直な)

 特に金銭に対する態度において(常に什一献金や献金に拘る人には注意してください。)

 イエス、ペテロ、パウロはこれらの試練に打ち勝ちますが、今日のいわゆる「癒し」の説教者の多くはそうではありません。

 サタンは反キリストの霊を通してキリスト教界を汚しました。神が使徒の力を持った多くの人々を私たちの国に起こされ、インドの教会からこの霊を追い出してくださいますように。

 章 11
賛美を通しての勝利

イエスの弟子としての私たちの召命は、信仰によって生きることです。信仰の最大の印は賛美と感謝です。「​​そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。」(詩篇106:12)。しかし、この節のイスラエル人たちは、エジプト人が紅海に飲み込まれるのを見て初めて神を賛美しました。そして彼らは神を信じ、賛美しました。彼らは見えるものによって歩みました。

 しかし、私たちは信仰によって歩みます。敵が紅海で溺れるのを見る前から神の御言葉を信じることができ、敵が私たちの前にいる時も神を賛美することができます。私たちは、神の方法と神が定められた時に彼らを裁いてくださると信じています。だからこそ、新約の下にある私たちは、どんな状況でも、どんな時にも神を賛美できるのです。

 ヘブル2:12、13には、私たちが「神に信頼を置く」ので、イエスご自身が教会の中で私たちを導き、父なる神への賛美をささげてくださると書かれています。信頼と賛美はコインの表裏です。賛美と感謝のない信仰は、それは偽りの信仰、死んだ信仰です。

 イエスの「弟たち」(ヘブル2:11-12でイエスは私たちをそう呼んでおられます)として、私たちは長兄であるイエスの模範に倣い、個人的にも、そして「教会の中で」も、父なる神を賛美するよう召されています。

 神は偉大な王ですが、その座られる玉座は銀や金でできているのではありません。そのような玉座は神にとってあまりにも安っぽいものです。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」と詩篇作者は述べています(詩篇22:3)。

 賛美こそが、神が王として座られる玉座を形作るのです。だからこそ、天は絶え間ない賛美の場所なのです。御使いたちは常に神を賛美しています。これが、神が天で座しておられる玉座です。聖霊が私たちの心に入って来られる時、聖霊は天を私たちの心にもたらし、私たちもまた、心の中で、家庭で、そして教会で、神が座られる賛美の玉座を整えることができます。

 だからこそ、私たちはあらゆる不平不満を捨て、恐れおののきながら、救いを全うすることが非常に重要なのです。なぜなら、神(聖霊)は私たちの心の中で働き、父なる神のために御座を整えてくださっているからです(ピリピ2:12-14参照)。また、私たちの外側、つまりあらゆる状況においても、神は働いてくださり、それらすべてを私たちの益となるように導いてくださいます。ですから、ローマ8:28の御言葉を信じるならば、不平不満を言うべきことは何もないのです。

 家庭や職場で常に不平不満を言っているようでは、教会で効果的に神を賛美することはできません。真の賛美は、十字架につけられた生き方からのみ生まれるのです。

 聖書の中で、神が民の賛美の御座に着座されると述べている唯一の箇所が、十字架刑を鮮やかに描写している詩篇の中に書かれているのは興味深いことです(詩篇22:3)。

 この詩篇は、十字架上のイエスの叫びから始まり、イエスの手足が釘で貫かれたことについて書かれてあります(16節)。そして、この詩篇の途中で、イエスは私たちを兄弟と呼び、父なる神のために賛美の玉座を築くことに共に加わるよう招いておられます(22、23節参照)。私たちもまた、イエスと共に同じ十字架にかけられています。そこで、世と私たちの欲望に対して、イエスと共に十字架につけられながら、私たちは父なる神を賛美するのです。

 多くの教会で見られるプレイズ&ワーシップの空虚さは、まさにここにあります。そこでは、十字架の言葉が中心的な位置を占めていません。この空虚さに気づいた人々の中には、プレイズ&ワーシップそのものに反発し、新約の礼拝にはそのようなものは必要ない、と考える人もいます。しかし、これは崖の反対側から落ちてしまうようなものです。

 私たちは、キリストと共に十字架につけられることによって、父なる神のために賛美の玉座を準備します。詩篇118篇もまた、十字架とキリストについての詩篇です(11~14節、22節参照)。私たちは自分自身を祭壇の上に捧げ、縄で十字架に縛り付けます(27節)。そして、そこに横たわりながら、「私はあなたに感謝します」(28、29節)と述べ、「これは、主が設けられた日である。この日を喜び楽しもう。」(24節)と言います。

 イエスは私たちの頭として油注がれ、重く暗い霊の代わりに、「喜びの油と賛美の衣」を与えてくださいます(イザヤ書61:1-3)。もしあなたが落ち込む霊に支配されているなら、それはサタンの仕業であると確信できます。イエスはあなたの人生からその霊を永久に追い出し、あなたを賛美の衣で覆い、包んでくださるために来られました。私たちが塞ぎ込んだり、失望したり、不機嫌になったりすることは、決して神の御心ではありません。なぜなら、イエスは決して憂鬱になったり、落胆したり、不機嫌になったりすることはなかったからです。そして、私たちはイエスが歩まれたように歩むように召されているのです(1ヨハネ2:6)​​​​​​しかし、私たちがイエスのように、日々自分の十字架を背負うことによって、イエスのように歩むことができるのです。

 詩篇8:2には、幼子や乳飲み子の口から、神が敵を打ち負かすための力を確立されると記されています。イエスは、祭司長たちが、叫びながら神を賛美している子供たちを叱った際に、この聖句を引用されました(マタイ21:15-16)。

 多くの現代人と同じように、祭司長たちは、神の家では誰も叫んだり、賛美や礼拝のために声を上げたりすべきではないと考えていました。彼らは、神の前では人々は真面目な顔をして静かにしているべきだと考えていたのです。しかし、イエスは賛美の響きを聞いて大いに喜ばれました。なぜなら、それはイエスに、天使たちが雷鳴のような大声で神を賛美している天の故郷を思い出させたからです。

 これがサタンとその配下の者たちが天国に住むことができない理由の一つです。彼らは心からの神への賛美の叫びに耐えられないからです。地上にある教会でそのような賛美が捧げられる時も、彼らはそれに耐えることができません。そのため、彼らは二つの方法のどちらかを試みます。一つは賛美から誠実さを奪うこと、もう一つは賛美の声を完全に止めることです。様々なキリスト教の教派を見渡してみると、サタンはこれらの二つの方法のどちらかで、あらゆる場所で成功を収めていることが分かります。

 なぜサタンは神への心からの賛美を憎むのでしょうか。イエスは詩篇8:2を引用し、その詩篇で語られている「力」は実際には「賛美」であると言われました(マタイ21:16)。賛美は敵を追い払う力なのです(詩篇8:2)。

 しかし、聖い生き方からではない空虚な賛美の声には、何の力もありません。出エジプト32章には、イスラエル人が金の仔牛を作り、それを「エホバ」と呼び(5節)、その「エホバ」に向かって踊り、叫び声を上げたことが記されています。その声はあまりにも大きかったので、モーセとヨシュアは数マイル離れた場所からでも聞こえたほどでした(17~19節)。しかし、サタンはそのカリスマ的な賛美の真っ只中にいたのです。彼らの間には不道徳がありました。今日、「イエス」の名のもとに叫び、踊る多くの人々の間にも、同じように不道徳が存在するのです。

 先に述べたように、私たちの賛美は、十字架につけられた聖い生き方から生まれて初めて力強いものとなるのです。

 ルカ19:37、38には、イエスの弟子たちが皆、喜びにあふれて大声で神を賛美し始めた時、パリサイ人たちは動揺し、イエスに弟子たちを静かにさせるように求めました。しかしイエスは、もし弟子たちが黙っているなら、石が叫び出して神を賛美するだろうと答えられました(40節)。このように、大声での賛美に対するイエスの見解とパリサイ人たちの見解が対照的に示されています。あなたの教会ではどうでしょうか。

 あなたはパリサイ人たちの考えでしょうか、それともイエスの考えでしょうか。私たちは人々の(特にキリスト教指導者たちの)意見を気にしすぎて、集会で大声で神を賛美することを恐れているのです。ある特定のグループで守られている宗教的伝統は、大声での賛美を好まないかもしれません。そのため、そのグループの人々は皆、そのような伝統に盲目的に従っています。しかし、もし私たちがイエスの弟子となり、神の国を受け継ぐのであれば(マタイ11:12)、そのような伝統を打ち破らなければなりません。

 イエスは、賛美と礼拝に満ちた中で、父なる神の御前で何百万年も過ごされました。そして、この地上に来て、陰気で不機嫌な顔をした根暗な宗教者たちの間で生きておられた時、それは天国の雰囲気とは全く異なるものでした。ですから、御国の賛美を少しでも感じさせる人々を見ると、イエスは心から喜ばれたのです。

 黙示録には多くの『七』が登場しますが、そこには天国での賛美の場面が七つ描かれています。もし忍耐強くこれらの箇所を読んでいただければ、天国に対するあなたの考えは全く変わるでしょう。その箇所は、黙示録4:8~11、5:8~14、7:9~12、11:15~18、14:1~4、15:1~4、そして19:1~6です。私たちがそこで垣間見る未来の故郷の光景はどれも、雷鳴のような力強い賛美の響きに満ちています(19:6)。彼らはそこで、神の主権、聖さ、正義などを賛美しているのです。

 そこでは、不平不満の声は一切聞こえません。そして、憂鬱な顔をした御使いも、一人もいません。もし私たちが今、この空気に慣れておかなければ、主の御前に立った時、「ハレルヤ」や「アーメン」という言葉が繰り返し聞かれるのを聞いて、カルチャーショックを受けることになるでしょう。しかし、天におけるハレルヤとアーメンは無意味なものではないことに注目してください。彼らは「…だからハレルヤ」と言っているのです(黙示録19:1、2、6参照)。それは聖なる美しさの中での、意味のある礼拝と賛美です。聖霊は、私たちの人生と教会の中に、まさにこのことを再現するために来られたのです。

 14万4千人は地上にいる間にこの新しい歌を学んだと記されています(黙示録14:1-4)。地上にいるすべての人が歌う古い歌は、人や状況に対する不平不満の歌です。

 しかし、子羊がどこへ行ってもついて行く少数の人々(4節)――すなわち、日々十字架を負う人々――は、自分自身を憎むことを学び(ルカ14:26)、それゆえ、人生から不平や不満を完全に排除しました。そして、神の主権を信じ(ローマ8:28)、あらゆることにおいて(1テサロニケ5:18)、すべてのことについて(エペソ5:20)、すべての人々のために(1テモテ2:1)、感謝することを学びました。地上で直面したあらゆる困難な状況の中で、彼らはイエスの死を身に負い、あらゆる状況において、またすべての人々に対して、賛美と礼拝の新しい歌を学びました。こうして、彼らは終わりの日にシオンの山で子羊と共に立つことができるのです。

 心の中で神を賛美するだけでは十分ではありません。私たちは唇を通して、神に賛美のいけにえ(すなわち、十字架につけられた人生から生まれる賛美)を捧げなければなりません。これは新約聖書の中で、私たちが絶えず行うように命じられている数少ないことの一つです(ヘブル13:15)。イエスは、「​​心に満ちていることを口が話す」と言われました(マタイ12:34)。ですから、もし私たちの唇から賛美があふれ出ないなら、それは賛美が私たちの心を満たしていないという明確な証拠です。「口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)。

 詩篇50:23には、「感謝のいけにえを捧げる者はわたしを敬い、わたしに救いの道を示させる」(直訳)とあります。

私たちが神を賛美し始めると、神は多くの状況から私たちを救い出してくださいます。なぜなら、賛美こそが信仰の証だからです。祈りだけでは、多くの状況から救われることはできません。

 私たちは、祈りが聞き届けられたという聖霊による確信が心に与えられるまで、祈り続けなければなりません。そうして初めて信仰が生まれ、たとえまだ答えが見えなくても、『受け取ったと信じる』ことができるのです。イエスは、その時になって初めて、私たちが祈り求めたものを受け取ることができると言われました(マルコ11:24)。

 では、そのような信仰が私たちの心に宿っていることの証拠は何でしょうか。私たちは神を賛美し始めます。それこそが、信仰の最も明確な証拠です。こうして私たちは、神が救いを示してくださる道を開くのです。

 2歴代誌20章に、その例を見ることができます。そこには、ヨシャパテが敵の大軍に囲まれている様子が描かれています(2節)。ヨシャパテは、そのような問題に直面した時、誰でもできる最も賢明なことをしました。彼は断食し、祈り、主の御顔を求めました。彼の祈りは6~12節に記されており、私たちはそこに七つの事柄を見出すことができます。

彼は神の主権を賛美しました(6節)。

彼は神が過去になさったことを思い起こしました(7節)。

彼は神の御言葉にある約束を神に思い起こさせました(9節)。

彼は自分たちが神ご自身の嗣業であることを神に思い起こさせました(11節)。

彼は、自分たちにはこの状況に対処する力が全くないことを神に告げました(12節)。

彼は、自分たちには知恵もないことを神に告げました(12節)。

彼は、自分たちが神に頼っていることを神に告げました(12節)。

 これは、私たちの祈りにとっても良い模範となります。神はすぐに答え、ご自身がこの状況に対応すると言われました。ヨシャパテは神を信じ、軍隊の前に、大声で歌を歌って神を賛美する聖歌隊を送り出しました。敵陣の目の前でこの賛美のいけにえを通して、ヨシャフパテは神が救いを示してくださる道を開いたのです。そして神はまさにそのようにされました。神は敵を完全に打ち破られたのです(22節)。

 ヨナ書には、もう一つの例があります。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいましたが、その間一度も祈りませんでした(1:17)。2:1(つまり三日三晩の後)には、「それから」ヨナは祈り始めたとあります。おそらく最初の三日間、ヨナは魚の口から這い出ようと必死だったのでしょう。私たちも、問題から抜け出すためにあらゆる手段を試みるのと同じです。あらゆる人間の手段が尽きた時、初めて多くの人は神を求めます。ヨナもまた、自分のあらゆる努力が失敗に終わった後になって初めて神を求めました。

 そして神は、私たちが自らの力に限界を感じるまで待っておられます。ヨナはその後、祈りに祈りました。彼が「感謝のいけにえ」を捧げ、救いは主からのみ来るのだと告白するまで(2:9)は何も起こりませんでした。ヨナがまだ解決されていない問題の真っ只中にいながら神を賛美し始めた時、彼は神が救いを示してくださる道を開いたのです。すぐに(2:10)、主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。

 私たちは、感謝のいけにえを捧げる前に、どれだけ長く「魚の腹の中」(私たちの抱える問題)に留まり続けているでしょうか。私たちがすべてのことにおいて神を賛美し、神を敬わないので、神は私たちを救うことができません。そして、私たちは、神が自分たちを救ってくださることを妨げているのです(詩篇50:23)。

 もう一つ例を挙げましょう。使徒16章からです。パウロとシラスが福音を宣べ伝えたために投獄されたことが記されています。真夜中、彼らは眠るどころか(ましてや不平不満を言うどころか)、祈り、歌で神を賛美し始めました。彼らには何の不満もありませんでした。 彼らは神の主権を完全に信じ、神を賛美しました。するとすぐに、神は彼らのために牢獄の扉を開かれました。パウロとシラスが賛美のいけにえを通して、神は彼らのために働いてくださることができました。

 すべての魚の口と牢獄の扉の鍵は、私たちの素晴らしい主の御手の中にあります(黙示録3:7)。そして、主が扉を開かれる時、誰もそれを閉めることはできません。そして、主が開かれるまで、あらゆる人間の努力は失敗に終わるでしょう。すべてが私たちの願いや計画通りに進んでいる時は、神を賛美するのは容易です。しかし、物事が私たちの期待に反する時、まさにその時こそ、賛美のいけにえを捧げる機会が与えられるのです。なぜなら、そのような状況で神を賛美するには、私たちにとって何らかの犠牲が伴うからです。こうして、神が救いを示してくださる道を開くことができるのです。

 詩篇149:9は、私たちが寝床に横たわっている時(通常、私たちが横になって心配する場所です!)にも、口に神への最高の賛美があるようにと勧めています。そして、そのような賛美によって、闇の力を縛り、神の御言葉に記されている裁きを彼らに下すことができると述べています(ローマ16:20)。これは、神の子どもたちすべてに与えられた特権です(詩篇149:9)。

 ですから、地上に残された日々、あらゆる状況において、あらゆる人々のために、賛美と感謝の新しい歌を学びましょう。そうすれば、私たちは神を敬い、生涯を通して神の救いを経験することができるでしょう。アーメン。

 章 12
なぜ信仰者は罪に陥るのか

この理由を考察する前に、誘惑されることと罪を犯すことを明確に区別しなければなりません。ヤコブ1:14、15には、人は皆、自分の肉の欲望に引き寄せられて誘惑されると明記されています。そして、心がその誘惑に同意すると、罪が心の中で生まれ、罪が生まれるのです。

 私たちが、古い人(罪を犯したがっていた私たちの心)がキリストと共に十字架につけられたという栄光ある真理を「理解」すると(ローマ6:6)、信仰によって古い人を脱ぎ捨てることができます。そうすれば、故意に罪を犯すことをやめるでしょう。私たちは新しく生まれ変わったのです(1ヨハネ3:9)。私たちは依然として誘惑されるでしょうが、私たちの心(新しい人)はもはや肉の欲望に同意しません。

 しかし、たとえ私たちが罪を犯すことをやめたとしても、それでもなお罪に陥る(あるいは「過ちに捕らえられる」―ガラテヤ6:1)ことがあります。罪を犯すことと罪に陥ることには違いがあります。

 私たちの古い人は十字架につけられたとはいえ(ローマ6:6)、私たちの肉は依然として私たちを誘惑しようとしています。しかし私たちは、花婿であるキリストに忠実であろうと決意しています。そして、肉の欲望に身を委ねるつもりは全くありません。私たちは肉と姦淫を犯しません。もしそうなれば、私たちは姦淫者となり(ヤコブ4:4)、キリストの花嫁ではなく、淫婦(黙示録17:5)の一部となってしまうからです。

 しかし、女性は自ら男性に身を委ねていなくても、無理やり関係を持たされることで妊娠することがあります。そのような場合、女性は自ら身を委ねた場合よりも高潔です。これは、罪に陥ること(肉の欲望に打ち負かされること)と罪を犯すこと(自分が間違っていると知りながら意図的に選び、肉に身を委ねること)の違いの象徴です。罪を犯すことほど悪くはないとはいえ、罪に陥ることも、結局は同じ結果、つまり罪を生み出すという結果をもたらします。

 新約聖書の約束は、イエスは私たちを躓くことからも守ってくださるということです(ユダ24)。これこそが勝利の人生であり、私たちは罪に陥ることから守られるのです。

 もしあなたが罪を犯すことをやめたにもかかわらず、依然として罪に陥ってしまうのであれば、その原因は以下の点にあるかもしれません。

1.神への畏れの欠如

 神への畏れは知恵の始まり(アルファベット)です(箴言9:10)。これは知恵の学校における最初の教えです。アルファベットを学ばなければ、先に進むことはできません。「主を畏れることは悪を憎むこと」です。なぜなら、神ご自身が悪を憎んでおられるからです(箴言8:13)。神が聖なる方であるゆえに私たちも聖なる者となるようにという神の呼びかけを聞き、その呼びかけに心を動かされると、私たちは罪を憎むようになります。

 多くの信仰者は、他の信仰者の前では、評判を失うことを恐れるので、特定の罪(怒り、性的罪など)を克服するのは比較的簡単だと感じています。しかし、一人になると、同じような罪を簡単に犯してしまいます。つまり、彼らが罪に陥るのは、罪を克服できないからではなく、神を畏れるよりも、自分の評判を気にしているからです。

 彼らは神の意見よりも人の意見を重視しているのです。このようなクリスチャンは、「造り主よりも造られた物(人間)を拝んでいる」(ローマ1:25)ことを嘆き、悔い改め、神への畏れを教えてくださるよう、心から神に叫び求めなければなりません。

 あなたが叫び求め、声を上げて、隠された宝を探すように主への畏れを求めるなら、神はあなたに神への畏れを教えてくださる、これが与えられた約束です(箴言2:3-5、マタイ5:6)。神は、心から神を求める者だけに見出されるのです(エレミヤ29:13)。自分の失敗を嘆き悲しむ者だけが、慰め主によって慰められる(力づけられ、助けられる)(マタイ5:4)のです。

 私たちは、常に神の御前で、ただ神だけを意識して生きる習慣を身につけなければなりません。

 神が私たち一人ひとりに内面的な部分、つまり思考活動を与えてくださったのは、私たちが神を畏れているかどうかをご覧になるためです。もし、私たちが他の人々の前での外見的な評判だけを気にしているなら、思考における罪は気にかけないでしょう。このようにして、神は完全な勝利を望む者と、罪に対する外見的な勝利だけを望む者とを区別されるのです。もし私たちが、外見的な罪と同じように、思考における罪についても嘆き悲しむなら、私たちはじきに勝利を得ることができるでしょう。

2.信仰の欠如

 キリスト教人生でのすべての進歩は信仰によるものです。義人は信仰によって生き(ローマ1:17)、そして彼らの道はますます輝きを増す光のようになるのです(箴言4:18)。

 私たちは罪の赦し、さらには古い自分を脱ぎ捨てること、そして罪を犯すのをやめることについて信仰を持つことができます。しかし、イエスが私たちを罪に陥らないように守ってくださるという信仰を持っていないかもしれません。カデシュ・バルネアにいたイスラエル人のように、私たちは不信仰に満ち、地(私たちの肉)にいる巨人たちに目を奪われ、勝利の約束の地に入ることができないのです。

 神の国における最も重要な法則の一つは、私たちは信仰に応じて受け取るということです(マタイ9:29)――それ以上でもそれ以下でもありません。神に偏りはありません。しかし、神は信仰をもって熱心に神を求める者たちに報いてくださいます(ヘブル11:6)。

 このようにして、ある者は勝利の人生に入りますが(カナンの地に入ったヨシュアとカレブのように)、多くの者は敗北したままです。

 命に至る道は狭く、それを見つける者が少ないのは、真に神を畏れる者、また信仰を持つ者が少ないからです。イエスは故郷では、人々の不信仰のために多くの「力ある業」を行うことができませんでした。イエスご自身は彼らを癒したいと切に願っておられました。しかし、彼らの不信仰がイエスを制限したのです。(マタイ13:58)

 信仰とは、知的な信念以上のものです。イエスが人々を罪を犯すことから守る力を持っていることを真実だと認識することと、イエスがあなたをそれから守ってくださるという信仰を持つことは全く別のことです。前者はサタンでさえ持っているような知的な性質です。後者は心の霊的な性質であり、勝利をもたらします。

 神の約束は、「罪があなたがたを支配することはない」です(ローマ6:14)。このことを信じ、たとえ罪に陥ったとしても、約束の言葉は決して変わらないことを覚えていてください。それは揺るぎないものです。

 立ち上がり、神の御言葉に対する希望を告白し、再び前進しなさい。そうすれば、いつか希望が信仰となり、勝利はあなたのものとなるでしょう。

3.肉の弱さに無知であること

 私たちの肉体は、神の御心を行うには全く無力です。イエスはこのことをはっきりと教えられました(マタイ26:41)。パウロはこのことを悟り、自分の肉には良いものが何一つ宿っていないと言いました(ローマ7:18)。このことを深く理解している人は、誘惑から逃げ、神からの助けを求めて熱心に祈ります。この二つを行わない人は、明らかに自分の肉の弱さについてまだ確信していません。

 イエスは私たちに「誘惑に遭わせないでください」と祈るように言われました。(マタイ6:73)私たちは、自分の肉が弱いことを確信しているからこそ、この祈りを心から祈るのです。

 テモテのような傑出した神の人でさえ、若い頃の情欲や金銭欲から逃れるように勧められました(2テモテ2:22、1テモテ6:10、11)。キリスト教生活においてこれほど成長して先を行っていたテモテが、これらの誘惑に遭うはずがないと思う人もいるかもしれません。

 しかし、パウロはテモテが誘惑に遭う可能性があることを知っていました。だからこそ、パウロはテモテに誘惑から逃げるように勧めたのです。自分の肉が弱いことを理解している人は、この勧めをすぐに受け入れます。

 さらに、自分の弱さを理解している人は、その弱さを克服するための恵みを神に求め、叫び求めます。私たちは皆弱い存在ですが、皆が同じように自分の弱さを自覚しているわけではありません。弱い人は危険を見れば逃げますが、強い人は自分自身を過信しているため逃げません。助けを求めないのです。そのため、彼は倒れてしまいます。

 真のへりくだりとは、私たちの肉体の弱さを認識し、それゆえ誘惑から逃れ、助けを求めることです。そのような人だけが神の恵みを受けるのです。なぜなら、神はへりくだった者にのみ恵みを与えられるからです(1ペテロ 5:5)。

4.苦しむ覚悟を持たないこと

 罪には快楽がありますが、それは欺瞞的で短命です(ヘブル 3:13、11:25)。快楽の反対は苦しみです。苦しむとは、肉に罪の快楽を与えないことです。この心構えで武装するなら、罪をやめ、生涯神の御心を行うことができると聖書は教えています(1ペテロ4:1-2)。

 肉における苦しみとは、肉体的な苦痛を意味するものではありません。なぜなら、そのような方法で罪をやめた人はいないからです。それは、肉の欲望を拒むことによって生じる痛みを指します。私たちは、イエスがご自身を喜ばせようとしなかったように(ローマ 15:13)、自分自身を喜ばせることを拒否します。こうして私たちは、イエスの苦しみにあずかるのです。

 ペテロは、肉において苦しむという確固たる覚悟こそが、戦いの日の私たちの鎧であると言います。しかし、戦いが始まる前に鎧を身につけていなければなりません。誘惑の攻撃が始まってから鎧を探しても無駄です。なぜなら、その時には見つけることができないからです。そうです、戦いが始まる前に武装していなければなりません。この鎧(「たとえ罪深い思いで少しでも快楽を得るよりも、自己否定の中で苦しむという確固たる覚悟」)がなければ、誘惑の瞬間に尻込みして負けてしまうのです(ヘブル 10:38)。​​

 しかし、罪を犯すよりも自己に対する死を選ぶ覚悟、つまりイエスのように「死に至るまで従順」である覚悟(ピリピ 2:8)があれば、この鎧は戦いの日の私たちの力となり、守りとなるでしょう。

 例えば、私たちが物質的なものを愛しているなら、物質的な損失に直面したり、誰かが私たちの貴重な持ち物を傷つけたり失ったりしたら、いとも簡単に平静を失って、罪に陥ってしまうでしょう。しかし、神がすべてのことを私たちの益となるように計らってくださると信じて(ローマ 8:28)、『肉における苦しみ』の道を選んでいるなら、たとえ財産を失っても喜んで受け入れることができます(ヘブル 10:34)。

5.前進しないこと

 ペテロは、私たちが前進し続けるなら(「ますます豊かに」)、決してつまずくことはないと言っています(2ペテロ1:5-10)。多くのクリスチャンは、完全を目指してさらに前進するのではなく、自分の霊的な進歩に満足してしまうため、罪に陥ります。

 パウロは生涯をかけて一つのことに徹しました。それは、イエスに似た者となるという目標に向かって前進することです(ピリピ3:13, 14)。これは彼を霊的な停滞から、そして罪から守りました。彼はテモテに、誘惑から逃れるだけでなく、敬虔、愛、柔和などを追い求めるようにと勧めました(1テモテ6:11、2テモテ2:22)。

 多くの人は、自ら罪を犯すのはやめても何度も罪に陥る、そのような状況に甘んじているため、決してそこから脱することができません。

 私たちの肉に潜む悪を見つけるためには、あらゆる状況において、絶えず神の光の中で自分自身を吟味しなければなりません。光の中を歩むと、私たちはますます神の性質にあずかることができます。

 このようにして、私たちは信仰に徳、兄弟愛、愛などを加え続けることができます。このようにして、常に良い考えで心を満たすなら(ピリピ4:8)、罪は容易に私たちの心に入り込むことはできません。空虚な心は誘惑の餌食になりやすいのです。

6.魂による生き方を捨てないこと

 アダムの子孫であるすべての人の支配者は、人間の魂です。人は理性と感情に従って生きています。私たちが回心し、肉の罪深い行いを捨てる時、私たちは通常、この魂による生き方(私たちの人間的な考え方、理性、感情)もまた、排除されなければならないことを知りません。私たちはこれらのことを全く無害で罪のないものと考えています。しかし、多くのクリスチャンを罪に陥らせるのは、この私たちを支配する魂による生き方なのです。

 例えば、クリスチャンの集会で感情を激しく煽り立てることは、多くの異常な行き過ぎや罪につながります。感情に生きることは、御霊に生きることとは異なります。この二つは天と地ほども違います。感情的に高揚した集会は必ずしも霊的な集会ではありません。なぜなら、多くの人がそのような雰囲気から興奮して帰った後、すぐに罪を犯してしまうからです。私たちの感情は欺瞞的です。同様に、私たちの知性もまた欺瞞的です。ほとんどのクリスチャンは自分の知性を崇拝し、人間の理性と論理で神の事柄を理解しようとします。その結果、彼らはすぐに聖書の知識で高慢になり、堕落します(1コリント8:1)。彼らの霊的な堕落は目に見えないかもしれません。なぜなら、高慢は姦淫ほど醜く見えないからです。しかし実際には、高慢は姦淫より深刻です。そして、それは他の多くの堕落にもつながります。

 ですから、自らへりくだり、知性と感情を失脚させ、神の御言葉に単純に疑いなく従う小さな子供のようになりなさい。自分の魂によるいのちとそこから生じるすべてを嫌い、御霊によって、神の知恵と力によって生きなさい。そうすれば、あなたは自分の魂を保ち、堕落からも守られるでしょう。

7.交わりを軽視すること

 新約聖書には、個人主義的なキリスト教などというものは存在しません。旧約聖書の預言者たち(エリヤやバプテスマのヨハネなど)は一人で生活していたかもしれませんが、それは影であって実体がない時代でした(コロサイ2:17)。しかし今、私たちにはキリストのからだがあります。そして、私たちがそのからだの中で自分の場所を見出す時、頭(キリスト)が私たちを堕落から守ってくださるのです。パウロは、私たちが頭にしっかりと結びつき、からだの他の部分へ供給経路を開いておくことによって、私たちは堕落から守られ、信仰者として霊的に成長させられると明確に述べています(コロサイ2:19)。

 ​​イエスが「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と言われたのは、教会に対してです。サタンは、一人で生きようとするクリスチャンには必ず打ち勝つでしょう。しかし、週に二回集会に出席するだけでは十分ではありません。私たちは他の信徒との交わりを大切にし、キリストのからだの一部として結びついていなければなりません。キリストのからだの中で機能する一員として自分の居場所を見出すことによってのみ、私たちは頭であるキリストの勝利にあずかることができるのです。そうすれば、私たちが一人では耐えられないほどの重圧に直面した時、からだの他のメンバーが私たちにとって力となってくれるでしょう(伝道者の書4:9-12)。からだの中での互いの励ましは、私たちが惑わされ、罪に陥るのを防ぐための神の方法です(ヘブル3:13)。このような交わりを大切にすれば、多くの心の痛みや失敗から免れることができます。

 今まで見てきたように、何か一度の経験が二度と罪に陥らないことを保証するということはありません。しかし、私たちが聖霊のこれらの法則に従うなら、それらは私たちを罪の力から解放し、私たちは罪に陥ることから守られるでしょう(ローマ8:2)。そうすれば、私たちは使徒の叫びを繰り返すことができるでしょう。

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加えてくださいます。」(2コリント2:14)

 章 13
死んだ行い

新約聖書は、肉の行い(ガラテヤ5:19)と死んだ行い(ヘブル6:1)について述べています。

 不道徳、争い、嫉妬、怒りの爆発など、肉の行いにふける者は、決して神の国を受け継ぐことはできません。これらの行いはあまりにも明白な罪であるため、信仰者はその際、良心の呵責を感じます。

 しかし、死んだ行いはもっと欺瞞的です。外からはよく見えますが、腐敗した源から生じており(私たちの肉には良いものは何も宿っていないからです)、したがって神の目には汚れた布のようなものです(ローマ7:18、イザヤ54:6)。

 ですから、私たちは罪だけでなく、死んだ行いからも悔い改めるよう命じられています。このような土台を築いて初めて、私たちは完全を目指して前進することができるのです(ヘブル6:1)。

 イエスの血が私たちをすべての罪から清めることができるということを、信仰者は理解しています。しかし、あまり知られていないのは、私たちが生ける神に正しく仕えるためには、キリストの血が私たちの良心を死んだ行いからも清めなければならないということです(ヘブル9:14)。

したがって、死んだ行いが実際に何であるかをまず理解しなければいけません。

1.喜びのない行い

 神は喜んで与える者を愛されます(2コリント9:7)。また、神は喜んで御心を行う者を愛されます。神は義を行うことを喜ぶ者に出会われます(イザヤ64:5)。

 イスラエル人が喜びをもって主に仕えなかった時、敵に仕えることを強いられるという罰を受けました(申命記28:47、48)。神の国は、聖霊の喜びを伴う義から成り立っています(ローマ14:17)。御心を行うことを喜ぶ者だけが、神の心に喜びをもたらすことができるのです。

 例えば、什一献金について考えてみましょう。これは旧約聖書時代の律法でした。しかし、新約の下にある者たちに、イエスや使徒たちが什一献金を命じたことは一度もありません。

 それにもかかわらず、多くの貪欲な牧師たちは、神の報いという約束や神の裁きという脅迫によって、会衆に什一献金を強制します。人々は捧げますが、喜びはありません。それは自発的な献金ではなく、しぶしぶ、不本意な献金です。牧師たちは献金箱がいっぱいになると喜びますが、神はそうではありません。牧師たちは多額の献金をする人を好みますが、神は喜んで与える人だけを愛されるのです。

 新約の原則は、『できる限り多く与えなさい』ではなく、『喜んで与えられるだけ与えなさい』です。神はそれ以上を望んでおられません。もちろん、与えた分と同じ割合で受け取ることになるでしょう(2コリント9:7、ルカ6:38)――しかし、それは別の問題です。神は、喜びのない労力や贈り物を望んでおられません。

 喜びなくして行うことは、死んだ行いです。

2.愛のない行い

 神と人を愛することは、他のすべての戒めが掛かっている二つの杭です。(マタイ22:40)これらの杭を取り除けば、すべてが崩れ落ちます。これが、エペソ教会の指導者が叱責された理由です。エペソの指導者の行いは、神と人への愛によって基づいていませんでした。(黙示録2:2、4)

 もし私たちが神の戒めを、その霊を持たずに守るなら、私たちの行いは死んだ行いとなります。もし、私たちが、主によって群れの羊飼いとして任命されるなら、主はまず私たちを(ペテロにしたように)試され、私たちが主を何よりも愛しているかどうかを見られます(ヨハネ21:15-17)。そうでなければ、私たちの奉仕は無価値なものとなるでしょう。

 同様に、私たちを呪う人々を祝福するだけでは十分ではありません。私たちは心から彼らを愛さなければなりません。そうでなければ、私たちは御言葉の文字は守っても、その霊は守っていないことになります。同様に、教会で兄弟姉妹に仕えるように教えられているからといってそうするだけで、彼らを批判するなら(おそらく私たちに感謝しないという理由で)、私たちの奉仕は死んだ行いの山となります。主の働きのために捧げる私たちのすべての犠牲は、主への愛から生まれていない限り、無価値な死んだ行いなのです。

3.熱意のない行い

「わたしはあなたの行いを知っている…あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもない…だから熱心になって…」(黙示録3:15-19)。

 中途半端な行いは死んだ行いです。私たちは心、魂、思い、力を尽くして主なる神を愛さなければなりません(マルコ12:30)。私たちの礼拝と賛美は心からのものでなければならず、生気のない死んだものであってはなりません。祈りは重荷を、預言は熱意をもって行わなければなりません。私たちは常に「霊に燃えて」いなければなりません(ローマ12:11)。祭壇の火は絶えず燃え続けなければなりません(レビ記6:13)。神が私たちに与えてくださった聖霊の賜物を、多くの人が乱用したからと言って臆することなく、常に燃え上がらせなければなりません(2テモテ1:7)。今日のキリスト教会の多くは、聖霊の燃えるような火がなく、生気のない状態にあります。彼らは熱意が欠けているために、主によって拒まれる所まで来ています(黙示録3:16)。私たちはそのような死んだ行いを悔い改める必要があります。

4.信仰のない行い

 行いのない信仰が死んだものであるように(ヤコブ2:26)、信仰のない行いもまた死んだ行いです。多くの祈祷会は信仰の欠如のために死んでいます。

 信仰に満ちた5分間の祈りは、忍耐の試練のような徹夜の祈祷会よりも、神の目的の達成にはより力強いものです。

 イエスは徹夜で祈られました。私たちも必要であればそうしなければなりませんが、それは決して死んだ行いになってはいけません。信仰とは個人的な確信でもあります(ローマ14:22)。個人的な確信なしに行うことは、死んだ行いです。

 ある偉大な神の人が特定の教義を信じ、教えているからといって、私たちが彼を真似しなければならないという意味ではありません。しかし、キリスト教界は、個人的な確信もなく、盲目的に他の人々に従う信仰者でいっぱいです。模倣は常に死をもたらします。

 イスラエル人は信仰によって紅海を渡りました。エジプト人は彼らを真似た結果、溺死しました(ヘブル11:29)。これは私たちへの警告です。人の行動や働きを真似てはなりません。人の働きや奉仕を真似てもいけません。それもまた死んだ行いとなるでしょう。私たちは、それぞれの信仰の度合いに応じて預言すべきです(ローマ12:6)。

 神は私たち皆がそれぞれ一個人であることを望んでおられます。なぜなら、神は私たちが自分の個性を通して、キリストのからだの一部としてそれぞれ奉仕することを願っておられるからです。

  5.個人的な利益と栄誉のための行い

 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは生きているという評判があるが、実際は死んでいる」(黙示録3:1)。

 ここに、霊的に死んでいるにもかかわらず、自分が霊的な人だという評判があることで満足している人がいました。彼は神の称賛よりも人の称賛を求めました(ヨハネ5:44、12:43)。その結果、彼のすべての働きは死んだ働きとなりました。

 人を感心させるために行うことはすべて死んだ働きです。人に知られたいと思って行うこともすべて死んだ働きです(マタイ6:1-18)。生きた働きは、神の御前でひそかに行われ、人々の目につかないよう努めます。

 私たちが神のために成し遂げたことを誇る時、私たちは、自分の手の業を崇拝しはじめ(使徒7:41)、私たちの働きはたちまち死んだ働きとなります。ダニエル4:30が明らかにしているように、バビロンはこのようにして建てられました。

自分自身や自分の働きに関しての人の意見を気にする誘惑に駆られたら、そのような思いは下水管に投げ込まなければなりません。偉大な神の人々が私たちについて抱く評価でさえ、私たちの心から追い出し、下水管に流し込まなければなりません。「人間の目には正しいとされる私たちの義は、神の目には忌まわしいもの(下水にふさわしいもの)です」(ルカ16:15)。

 このように真剣に取り組む人だけが、死んだ働きから逃れることができるでしょう。同様に、給料のための主への働きは、死んだ働きです。給料のために行う働きはキリスト教の働きではありません。たとえ「キリスト教」という名前がついていても、それは世俗的な働きです。神と富に仕えることは不可能です。

6.良心の呵責を和らげるためだけの行い

 異教徒は、良心の呵責に駆られて、断食、祈り、施しといった行為を行います(ローマ2:15)。

 クリスチャンもまた、良心の呵責を和らげるためだけにそのような行為を行うことがあります。多くの人は、そのためだけに、毎日聖書を読み、祈ります。同じ理由で、集会に行ったり、什一献金をしたり、物乞いに施しをしたりします。こうした行為はすべて死んだ行いです。

 信仰者のこの弱点につけ込み、「キリストを知らない何百万もの人々」のために何かをするよう促す説教者もいます。「与えるか、行くか」と人々は問われます。その結果、お金を出す人もいれば、仕事を辞めてキリスト教の働きに身を投じる人もいます。しかし、どちらのグループも主の導きによらず、罪悪感を和らげたいという一時の感情だけで行動するため、結局は死んだ行いの無限ループに陥ってしまいます。

7.神の裁きへの恐れからくる行い

 神の裁きを恐れて罪を避けることは良いことですが、イエスが罪を避けた動機は決してそれではありませんでした。イエスは父なる神を喜ばせたいという思いから罪を避けました。私たちも同じ動機を持つべきです。

 もし女性に淫らな思いを抱いたり、嘘をついたり、他人に恨みを抱いたりしても罰がないとしたら、私たちはそれらの罪を続けるでしょうか。それとも、神を喜ばせたいという根本的な願いから、それでもそれらの罪を避けるでしょうか。

 一人ひとりがこの問いに答え、恐れおののきながら、死んだ行いから救われるよう努めるべきです。神からの裁きとして病気にかかりたくないから、あるいは神に赦されたいから、という理由だけで他人を赦すのは、死んだ行いです。なぜなら、それは利己的な、裁きへの恐れに基づいているからです。では、日中に事故に遭わないようにするためだけに、朝に聖書を読み、祈る人についてはどうでしょうか。それはとても邪悪な霊であり、異教の迷信と同じ類です。

8.報酬を得るための行い

 イエスが忠実な者たちに報いを与えられるのは事実です(黙示録22:12)。また、私たちの人生の究極の願いは主を喜ばせることであり(2コリント5:9)、いつか主から「よくやった、忠実な良いしもべよ」と言われるのを願うことも事実です。しかし、イエスご自身は、天の報いさえも含む、自己中心的な欲望が、私たちの犠牲や奉仕の動機となることに対して警告されました。

 ペテロが(イエスから離れていった)裕福な若者と自分を比較して、「何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」と尋ねた時(マタイ19:27)、イエスは労働者のたとえ話で答えられました(マタイ20:1-16)。そこには、報酬(報い)のために働いた者たちが最後になり、報酬を全く考えずに働いた者たちが最初になったことが書かれてあります(たとえ彼らが前者のこなした仕事のごく一部しか働かなかったとしても)。

 量と質 -そこに死んだ働きと生きた働きの違いがあります。他の信仰者よりも最終的に昇進し、キリストの花嫁の中に場所を見つけることを期待して行われた働きは、最後の日に死んだ働きとして暴かれるでしょう。

 もしあなたが、いつか将来、自分が高められることを考えて、思考生活を清め、他人に善を行い、妻を愛したり、夫に従ったりするなら、あなたの人生の中心にはまだ「自己」があり、あなたの自己中心的な「良い」働きはすべて死んだ働きです。

 栄光の中で冠を受ける者たちは、すぐにそれを主の足元に投げ出し、「あなただけが受けるにふさわしい方です。」と言います(黙示録4:10)。私たちが神を栄光に帰すること以外の動機から自分を清めると、死んだ働きから解放されるのです。もし私たちが自分が行ったすべての良い働きを記憶にとどめておくなら、それらの良い働きは死んだ働きとなるでしょう。

 イエスは、私たちに最後の審判の日について二つの場面を示されました。一つは、人々が主の御前で地上での人生で行ったすべての善行を列挙する場面です。「主よ、私たちはあなたの御名によって預言し、あなたの御名によって病人を癒しました。」などです。(マタイ7:22、23)。これらの人々は主によって拒絶されました。

 もう一つの場面では、義人たちが、主から地上での人生で行った善行を思い出させられ、驚いている様子が描かれています。「主よ、いつ私たちはそのようなことをしたのですか」と、彼らは驚いて叫びます(マタイ25:34-40)。彼らは自分たちがした善行を忘れていました。なぜなら、彼らは報いを得るためにそれらの行いをしたのではなかったからです。ここに、死んだ行いと生きた行いの明確な対比が見られます。私たちはどちらのカテゴリーに当てはまるでしょうか。

 9. イエスの死を身に負うことのない行い

 生きた行いとは、私たちの中にあるイエスのいのちから流れ出るものだけです。イエスの死、すなわち日々の十字架を身に負うことなく、イエスのいのちを持つことは不可能です。(2コリント4:10)

 もし、私たちが怒って話すのを舌で抑えたり、顔をしかめるのを顔で抑えたりするだけで、内面では依然として怒りや苛立ちに満ちているとしたら、それは勝利ではなく、抑圧です。それはヨガの教えであって、イエス・キリストの教えではありません。イエスは私たちに毎日自分の十字架を負うように言われました。それは、肉を毎日死に渡すということです(ガラテヤ5:24)。

 十字架刑による死は、銃殺や絞首刑とは異なり、長い過程です。肉体は一瞬で撃ち殺されたり、絞首刑に処されたりすることはできません。十字架につけられることしかできません。しかし、私たちが常に罪人(自分)を十字架に架けるならば、やがて死が訪れ、いつか内なる人は罪から解放されるでしょう。(1ペテロ4:1)。そうすれば、御霊の生きた行いが、私たちの内から生ける水の川のように流れ出るでしょう(ヨハネ7:38)。私たちの内側の態度が、外見や行いと一致するようになるでしょう。そうなれば、作り笑いやその他のあらゆる形の表面的な敬虔さは必要なくなります。

10.私たち自身の人間的な理性から生じる行い

 マルタが、主とその民のために行った無私で犠牲的な働きは、死んだ行いである善行の良い例です(ルカ10:38-42)。彼女はただ、それが良いことだと感じたからその仕事をしたのです。しかし、「しもべにとって最も大切なことは、主人が命じたことを行うことであり、自分がしたいことをすることではありません」(1コリント4:2 - リビングバイブル)。

 ですから、マリアはイエスの足元に座って、イエスが自分に何を望んでおられるのかを聞いたという点で、より賢明でした。ヘブル4:10、12には、神の御言葉は魂的なものと霊的なものを区別するとあります。私たちは罪から離れるべきであるのと同様に、自分の行いからも離れるべきです。魂的な行いは死んだ行いです。イエスはご自身の判断で何一つ行いませんでした(ヨハネ5:30)。

 今日でも神は、ご自身の働きをどのように行うかという画期的なアイデアを持っている人を探しているのではなく(そのような人は「イシュマエル」しか生み出せないからです)、知恵と力が不足していることを謙虚に認め、神が御心にかなうように用いてくださるために自分自身を差し出す人を求めておられます。神は能力ではなく、用いられることを願う心を探しておられるのです。

 さて、死んだ行いについ見てきましたが、今、私たちの中には、「死んだ行い」という崖から後ずさりして、狭い道の反対側の崖、つまり「何もしない」という崖から落ちてしまう危険性があるかもしれません。それはもっと悪いことです。御霊による生きた働きは、私たちが御霊と共に規律ある生活を送ってからこそ、私たちを通して生み出されます。律法ではなく、規律です。

 ですから、私たちは肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも自分自身を清めましょう(2コリント7:1)。そうすれば、私たちの義の行いが、小羊の結婚式の日に私たちの婚礼の衣となるでしょう(黙示録19:8)。

 章 14
神の祝福か神の承認か

 信仰者には二つのタイプがあります。神の祝福だけを求める者と、神の承認を求める者です。そして、この二つの間には大きな違いがあります。黙示録7章9~14節には、数え切れないほど大勢の信仰者たちのことが記されています。

 彼らの証言は、救いは神によるものであり(10節)、彼らの衣はキリストの血によって白く洗われた(14節)、つまり神が彼らを祝福してくださったということです。これは確かに良いことです。しかし、これは黙示録14章1~5節に記されている信仰者たちのグループの証言とは全く異なります。

 そこには、数えられるほどの少数のグループが記されています。実際、彼らはわずか14万4000人です。地球上に生きてきた何十億もの人々の中から選ばれたことを考えると、これは少ない数です。彼らの証言は、地上でキリストに完全に従い、口に偽りがなく、また「女たち」(つまり、黙示録17章に記されているバビロンとその娘たち)によって汚されることを避けたということです。言い換えれば、彼らは神の喜びでした。

 この対比に注目してください。最初のグループは神の祝福を受けました。二番目のグループは神の承認を受けました。私たちは求めるものを得ます。もし私たちが神の祝福だけで満足しているなら、それしか得られないでしょう。そして、もし私たちが神の物質的な祝福だけで満足しているなら、霊的な祝福を得るまでには至らないでしょう。

 ほとんどの信仰者は、神に祝福されることで満足します。しかも、そのほとんどは物質的な領域だけです。だからこそ、キリスト教書店には、病気を治す方法や、什一献金によって富を得る方法などに関する本があふれているのです。それらの本の要点は、身体的、物質的な幸福、つまり健康と繁栄に置かれています。これは自己中心的な人生の最も明白な兆候です。

 しかし、神の御言葉には、私たちがもはや自分のために生きるのではなく、ただイエスのために生きるようになるため、イエスは死んでくださったと記されています(2コリント5:15)。言い換えれば、自分自身を喜ばせるためではなく、ただイエスを喜ばせるためです。さらに別の言い方をすれば、イエスは私たちを自己中心的な人生から解放し、神中心の人生へと導くために死なれたのです。

​​ 今日私たちが戸惑ってしまうことの一つは、妥協的なキリスト教の働きを、神が祝福されることです。これは、神が妥協や御言葉からの逸脱に心を痛めておられないという意味でしょうか。いいえ、決してそうではありません。神は、ご自身が完全には認めることができない多くの働きをも祝福されるのです。

 モーセが神の御言葉に背き、岩を打った時(神は彼に岩に語りかけるように命じられたのですが)、神はそれでもその不従順な働きを「祝福」されました。実際、200万人がそれによって祝福されました。しかし、神はその後、不従順なしもべを厳しく罰しました(民数記20:8-13)。神がその働きを祝福されたのは、神がその200万人の困窮している人々を愛しておられたからであり、しもべの行いを承認されたからではありません。今日でも同じです。

 多くの働きが祝福されるのは、神が救いや癒しなどを必要とする困窮した人々を愛しておられるからです。しかし、神は今日イエスの名のもとで行われている多くのことを決して承認しておられません。神は時が来れば、妥協的な説教者たちを必ず罰せられるでしょう。

 神の物質的な祝福は善人も悪人も受けます。イエスは、神は義人にも悪人にも太陽の光と雨を注ぐと言われました(マタイ5:45)。したがって、物質的な祝福は、神がその人の人生を承認しているというしるしではありません。

 200万人のイスラエル人は荒野で40年間、神に背きました。あまりにもひどく背いたので、神は彼らに怒りを露わにされました(ヘブル3:17)。それでも神は、その間ずっと彼らに食物と癒しを与えられました。しかも奇跡的にです(申命記8:2)。したがって、物理的な事に対する祈りへの奇跡的な答えでさえ、神がその人の人生に満足しているというしるしにはなりません。

​ 一方、イエスは、この神の承認を30歳の時に受けましたが、それはただ一つの理由によるものでした。イエスは長年にわたり、誘惑に忠実に打ち勝ってきたということです。

 イエスは自分自身ではなく、父を中心とした人生を送っていました。イエスは決して自分の喜ぶことをしませんでした(ローマ15:3)。イエスのバプテスマの際、父は「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」と言われました。これは「私が祝福した愛する子である」という意味ではありません。後者の証しは何も意味をなしません。神の承認を示す前者の証しこそが、イエスにとってすべてを意味したのです。イエスに従うとは、私たち自身も同じ証しを求めることです。

 アダムの子孫として、私たちは皆、自己中心的に生まれてきます。私たちは、すべてが自分を中心に回り、自分に奉仕してくれることを期待して育ちます。

 回心すると、私たちは神もまた私たちに奉仕し、様々な形で祝福してくれることを期待します。私たちは最初、神の赦しという祝福を受けるために神のもとに行き、その後、癒し、祈りの答え、物質的な繁栄、仕事、住居、結婚相手など、様々な祝福を求め続けます。

 しかし、たとえ自分自身や他人の目には「信仰深い」ように見えても、私たちの人生は依然として自己中心的なままである可能性があります。神は私たちの「軌道」上のもう一人の存在となり、私たちは神からできる限りのものを得ようとします。

 放蕩息子は父親から食べ物を得るために戻ってきましたが、父親はそれでも彼を受け入れました。私たちの動機が完全に利己的であっても、神は私たちを受け入れてくださいます。神は私たちを深く愛しておられるので、たとえ私たちが明らかに自己中心的な動機で神のもとに来ても、私たちを受け入れたいと切望しておられます。

 しかし、神は、私たちが早く成熟し、真の霊性が神ご性質に預かることを悟って欲しいと願っておられます。受けることではなく与えることが神のご性質です。しかし、いまだ、多くの神の子たちの間で、神はその目的を達成することができません。彼らは自己中心的なまま生き、死んでいきます。「私」「私の」「私のもの」そして物質的、肉体的な祝福のことだけを考えています。

 成熟するとは、私たちの心が刷新され、もはや神から何を得られるかではなく、この地上での人生において、神が私たちから何を得られるかに焦点を当てるようになることです。この心の刷新こそが変革をもたらします(ローマ12:2)。これが、黙示録14章に記されている14万4千人がシオンの山で子羊と共に立つ資格を得た理由です。

 真の霊性とは、怒り、苛立ち、不潔な性的思考、金銭欲などに打ち勝つことだけではありません。それは、自分自身のために生きることをやめることです。自分の利益、自分の快適さ、自分の都合、自分の意志、自分の権利、自分の名誉、さらには自分自身の「霊性」さえも求めることをやめることです。

 弟子たちがイエスに祈りを教えてほしいと頼んだとき、イエスは「私」「私の」といった言葉が一度も含まれていない祈りを教えられました(ルカ11:1-4)。イエスはそこで、まず父の御名、御国、御心について思いを巡らし、次に兄弟姉妹(彼らの物質的、霊的な幸福)のことを自分達のことのように思い巡らすべきだと教えてくださいました(「私たち」「私たちの」であって、「私」「私の」ではありません)。

​​ 祈りを『暗記』してオウムのように繰り返すのは簡単です。しかし、その教えを心に刻むには、真にすべてを捨て、神を心の中心に据える必要があります。もし私たちが正直に自分自身を裁くと、私たちがよく気づくからだの中にある律法(ローマ7:23)は、生涯を通して自分の都合や権利を求める自己中心的な律法です。

 イエスは私たちに、まず神の国を求めるように教えられました。それは『自己』を王座から引き下ろし、神とその御心を中心とした生活を送ることです。イエスは父の御心を行うために、天の安楽を捨てて地上に来られました。パウロは、タルソスで裕福なキリスト教徒の商人として贅沢な生活を送る安楽を捨て、主のために苦難に立ち向かう使徒となりました。使徒たちは皆、そのような犠牲的な、神を中心とした生活を送りました。彼らは、今日の多くの『観光伝道者』とは異なり、地上の神の国の拡大のためにすべてを捧げました。

 たとえ怒りや汚れた思いを克服したとしても、なお自分の安楽や都合を求める聖さは偽りの聖さです。多くの人がこのことに気づいていません。そのためサタンは彼らを欺くことができたのです。多くのクリスチャンは、安楽や快適さ、富を貪り、様々な国へ旅行したり移住したりします。彼らは人生において神の祝福を受けることはできるかもしれませんが、神の承認を得ることはできません。なぜなら、神と富(つまり、富、快楽、安楽など)の両方に仕えることはできないからです。

 もし私たちが、人生や子供たちへの神の祝福が、神から承認された証拠だと考えるなら、サタンは私たちを完全に欺いているのです。神の祝福と神の承認は全く異なるものです。地上の人生の終わりに、私たちが持つべき証しは、エノクが地上を去る前に持っていた証しです。「彼は神に喜ばれて」いました(ヘブル11:5)。たった三つの言葉ですが、これほど力強い地上の人生の証しは他にありません。これはイエスとパウロが持っていた証しです。「彼は神に祝福された」という証しだけでは何の価値もありません。なぜなら、何百万もの不信仰者も同じ証しを持っているからです。神は、祝福ではなく、神の承認を求める人々を探しておられます。

 章 15
別のイエスとその奉仕

想像してみてください。1960年以上前、あなたがパレスチナにいて、『ナザレのイエス』という人物が病人を癒しているといううわさを聞いたとします。自分ではまだイエスを見たことがないものの、エルサレムで大勢の人が集まる癒しの集会に出くわし、そこで『イエス』という人物が話をしているのを見て、あなたは喜びます。

 近づいてみると、壇上には『イエス』(話し手)の他に、ピラト、ヘロデ、アンナス、カヤパも座っています。すると『イエス』が前に出てきて、群衆に向かってこう語りかけます。「今日、皆さんはどれほど光栄に思うべきでしょうか。パレスチナで最も偉大な二人の世の支配者、尊敬すべきヘロデとピラトが、この集会にわざわざお越しくださったのですから!」それだけでなく、「二人の偉大な神の人、アンナス大祭司とカヤパ大祭司も、この集会を祝福するために来てくださったのです!」

 これらの紹介の言葉を述べた後、「イエス」はヘロデとピラトに会議の開会を宣言し、短い挨拶をするよう促します。ヘロデとピラトは二人とも、「イエス」がその働きを通して地域社会に多くの善行を行っていることを称賛し、彼がすべての人々の支援を受けるに値すると述べます。アンナスとカヤパもその後、「イエス」から、短い挨拶と「祈りによる開会」をするよう促されます。彼らもまた「イエス」を高く称賛し、自分たちの教派のすべての人々に「イエス」の働きを心から支援するよう呼びかけます。

 次に、「イエス」はイスカリオテのユダに、宣教活動に必要な資金について短い話をするよう促します。ユダは、宣教活動のすべてのニーズを満たすために数万デナリが必要であり、1000デナリ以上を献金する人々のために受付係が「申込用紙」を用意していると述べます。また、「イエス」はそのような人々のために特別な祈りを捧げると約束したと付け加えます。(信仰者であろうと非信者であろうと関係なく、金持ちは皆歓迎され、よりお金を持っているほど高待遇です)。するとヘロデが立ち上がり、この宣教活動に献金するすべての人に税控除を与えることを申し出ます。

 その後、献金が集められます。そして「イエス」は短いメッセージを伝え、質素な人々を驚かせるいくつかの奇跡的な力を見せ、数人の病人を癒します。そして、誰かが彼に会うとする前に、彼はすでに、ヘロデ、ピラト、アンナス、カヤパ、そしてイスカリオテのユダ(と金袋)と共に、ローマの王室の馬車に乗ってエルサレム中心部の大司教宮殿へと急ぎ、そこで彼らと宴会を開きます。

 このすべてが終わった後、あなたはまだ改宗したばかりで、洞察力も経験もほとんどないにもかかわらず、なぜか少し違和感を感じます。あなたが見たすべては、マタイ、ペテロ、ヨハネといった使徒たちから聞いたイエスについての話とはどうも一致しないように思えます。サタンはしかし、あなたの耳元で「『裁いてはならない』と書いてある」(マタイ7:1)と囁きます。しかしあなたは彼に、「『霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。』と書いてある」(1ヨハネ4:1)と答えます。最終的に、あなたは明確な結論に達します。

 「これは私が聞いていたイエスではない。これは確かに『別のイエス』だ」(2コリント 11:4)。

その通りです。それは別の「イエス」だったのです。

 どうやってその結論に至ったのでしょうか。 あなたの内にある聖霊の満たしが、あなたに以下の事実を告げたからです(1ヨハネ 2:19、20、27)。

⒈真のイエスは、世の支配者からの支援や、回心していない宗教指導者からの推薦を、ご自身の宣教のために求めることは決してありませんでした。また、彼らの誰にもお世辞を言うこともありませんでした。ある時、司教がイエスのもとに来た時、イエスは彼に、新しく生まれ変わる必要があると告げました(ヨハネ 3:1-10)。イエスはヘロデ王を「狐」と呼び(ルカ 13:31、32)、会った時でさえ彼と話すことを拒否しました(ルカ 23:8、9)。

⒉真のイエスは、誰からもお金を求めることは決してありません。たとえご自身の宣教のためであってもです。イエスはご自身の必要を父なる神に知らせておられました。すると父なる神は、人々、あるいは(ある時は)魚さえも動かして、イエスの必要を満たしました(ルカ 8:1-3、マタイ 17:27)。

⒊真のイエスは、どんな値段であっても、ご自身の祈りを「売る」ことは決してありませんでした。サマリアの魔術師シモンは、ペテロの祈りにお金を払おうとしましたが、ペテロは、神の賜物を金で買えるなどと考えるような邪悪な考えを叱責しました(使徒 8:18-23)。シモンはすぐに悔い改めました。しかし、悔い改めない彼の追随者は、何世紀にもわたって数多く存在してきました。ローマ・カトリック教会の教皇たち(シモンを叱責したペテロの後継者だと主張している)は、常に金のために祈りを売ってきました。マルティン・ルターは、ペテロのように、当時のこうしたすべての邪悪な行為に立ち向かいました。しかし、ルターの後継者の一部(今日のプロテスタント)は、再び金のために「祈り」や「預言」を売るようになりました。そして、残念ながら、シモンのように、それらにお金を払おうとする人々が多くいるのです!

 イエスは、終わりの日には、惑わしがあまりにも巧妙になるため、選ばれた者でさえ、特にしるしと不思議を通して、多くの人が惑わされるだろうと、私たちに具体的に警告しました(マタイ 24:24)。

 今日、選ばれた者たちが最も警戒しなければならない奉仕活動は、「しるしと不思議」を伴う奉仕活動です。イエスは、人々がイエスが自分の部屋に来て話をしたと証する時、それを信じてはならないと私たちに言われました(マタイ24:26参照)。イエスの復活したからだは、昇天以来1900年以上もの間、父の右の座を離れたことは一度もありません。パウロとステパノは、イエスをそこでしか見ていません(使徒7:53、9:3)。ヨハネでさえ、パトモス島でイエスの肉体を見たのではなく、イエスを表す象徴を見ただけでした(黙示録1:13-16)。イエスが天を離れるのは、地上への再臨の時だけです。ですから、今日、イエスが自分の部屋に来たと言う人がいても、それを信じてはなりません。

 騙されやすい信仰者たちの中で生きる私たちは、識別力を欠いてはなりません。神の御言葉は、この終わりの時代において、それを求めるすべての人に明確な光を与えます。その光だけに従うなら、私たちは決して惑わされることはないでしょう。

 章 16
カルトのしるし

「 あなたがたは、ことさらに偽のへりくだりやカルト伝道者崇拝をしようとする者に、救いがもたらす勝利のほうびをだまし取られてはなりません。…かしらにしっかりとつかまり、からだ全体のなかに神がますます高められるようにしなさい。」(コロサイ2:18、19 バークリーバージョン)

 「​​わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、…『そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている』。」(イザヤ65:2、5)

「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。」(使徒20:30、31)

 カルト的であるとは、主イエス・キリストに加えて、ある人物や教義に献身することです。それは、主のために幕屋を建てるだけでなく、『エリヤ』や『モーセ』のためにも幕屋を建てるようなものです。これは常に、神の臨在を覆い隠す雲をもたらします。神の御心は、私たちの人生がただイエスだけを中心とするものであることです(マタイ17:1-8)。

終わりの日には、キリスト教界においてカルトが増加するでしょう。多くの人がこれらのカルトの餌食となるでしょう。なぜなら、彼らは頭であるキリストとの親密な個人的な関係を持つ代わりに、主の使者たちを崇拝するからです。

 この危険から救われるためには、カルト主義の特徴をいくつか知っておくことが大切です。そうすれば、常に警戒することができます。カルトの一員であることと、カルト的であることには違いがあります。教義が基本的にすべて聖書に基づき、指導者たちが皆敬虔な人々である教会に属していても、指導者やグループ、そして他の教会の信仰者たちに対する態度においてカルト的である可能性があります。カルト主義は、間違った教義だけでなく、間違った態度にも現れます。

 教義が正しく、正しく生活を送っている人々は、自分の態度にカルト主義が潜んでいることに気づかないことが多いのです。

 1. キリストともう一人の人物

 カルト主義の第一の特徴は、指導者(通常はグループの創始者)が非常に尊敬されており、その人の人生が完璧であると見なされ、その教えが神の御言葉と同等であるとされていることです。

 聖霊はベレアのユダヤ人を「高潔な心を持った人々」と呼びました。なぜなら、彼らはパウロの教えが聖書に基づいているかどうかを確認するために、「毎日聖書を調べていた」からです。パウロは偉大な使徒でした。しかし、彼の教えでさえ、聖書と照らし合わせて一致するかどうかを確認する必要があったのです(使徒17:11)。

 聖書は、預言者が集会で語る時でさえ、「ほかの者は、それを吟味しなさい。」(1コリント14:29)と述べています。他の者たちは何を吟味しなければならないのでしょうか。まさにベレアの人々がしたこと、つまり、預言者たちが語っていることが神の御言葉に基づいているかどうかを調べ上げることです。これはカルト主義に対する最大の防衛策です。

 しかし、カルト的な信仰者たちは指導者をあまりにも尊敬しすぎているため、その教えが聖書に基づいているかどうかを確認せずに、すべてをそのまま受け入れます。彼らはベレアの人々のように高潔な心を持っていません。

 カルト的な集団では、教祖の死後、後継者が指導者の地位を引き継ぎ、集団の長として認められます。集団のすべてのメンバーは、その新しい指導者を、生きている神の僕の中で最も偉大な人物として認めなければなりません。このような態度は、指導者の権威と教えに対する無条件の服従につながります。集団のすべてのメンバーに対する彼の権威は、ローマ教皇の権威と同じくらい絶対的であり、彼の言葉は法律となります。

 多くのカルト的な集団では、指導者に息子がいる場合、息子は集団内での指導的責任の一部を引き継ぐように徐々に訓練されます。そして、集団のすべてのメンバーは、父親を尊敬していたのと同じように、息子を尊敬するようになります。

2.聖書ともう一冊の書物

 カルトの特徴の二つ目は、聖書に加えてもう一冊の書物(通常は教団の指導者が書いたもの)があり、それが事実上、聖書そのものと同じくらい絶対的なものとみなされていることです。

 多くのカルト集団は、創始者の著作にそのような地位を与えていることを否定するかもしれません。しかし、その書物に対する彼らの態度は、彼らがそれを聖書と同等に扱っていることを示しています。彼らの行動は言葉よりも雄弁です。

 カルト集団の形成初期段階では、誠実さや主への真の献身があったかもしれません。場合によっては、創始者自身が敬虔な人物だったかもしれません。しかし、通常は後の段階で、創始者の信奉者たちが彼の著作や教えを体系化し、聖書そのものと同じ権威を持つ教義体系を作り上げます。

 こうして、創始者の個人的な意見が、信奉者にとって神の御言葉となるのです。創始者が本当に敬虔な人物であれば、生前にそのようなことが起こるのを決して許さないでしょう。しかし、創始者が神の人でない場合、彼は生前から自分の御言葉に神の権威があると主張するでしょう。

 カルト集団のメンバーは、創始者が書いたその一冊の書物を何度も繰り返し読みます。旅行先にもその本を持ち歩き、集会でも聖書を引用するのと同じ権威をもって、その本から引用します。もしその本が、特定の聖句を解釈したり、特定の教義を説明したりしている場合、それがその聖句や教義についてグループのメンバーが持つべき唯一の理解、解釈となります。

 そのような本を絶えず読むことは、心を洗脳し、徐々に神の御言葉をその本に書かれている方法でしか解釈できなくなるようにします。このように、心の条件付けによって、彼は聖書の多くの箇所について、聖霊からの新たな光を受け取ることができなくなります。なぜなら、そのような箇所を読むたびに、彼はすでにその意味について結論を出しているからです。こうして、彼の心は永遠にプログラムされ、聖霊の働きが及ばない状態になるのです。これは、ローマ・カトリックの司祭たちが信者に、聖書はローマ・カトリックの神学者たちが解釈した方法でのみ解釈されるべきだと教える方法と似ています。 そこではグループの教義や指導者の教えに疑問を呈することは、一切許されないのです。

3.交わりにおける排他主義

 カルト主義の3つ目の特徴は、交わりにおける排他性です。

カルト的な考え方を持つ信者は、自分たちのグループ以外の他の新生した信者との交わりには、霊的な価値がほとんどないと感じています。そのため、彼らは、他の信者との接触を、自分たちのグループに改宗させる目的以外では、一切しないように促します。このようなグループは、通常、自分たちこそが唯一真の教会であると考え、「キリストの花嫁」に属するすべての者は、最終的に自分たちのところにたどり着くと信じています。彼らの傲慢さはまさに想像を絶するものです。

 このような交わりにおける排他性は、多くのカルト的な信者を宗教的な俗物や律法主義的なパリサイ人に変えてしまいます。彼らが主張する「神の御言葉への優れた洞察力」は、他のすべての信者に対して傲慢な「私たち」と「彼ら」という態度を生み出します。 このようなカルト的信者は、通常、自分たちのパリサイ主義に全く気づいておらず、自分たちこそが、真に献身的で謙遜なイエスの弟子であると考えています。人間の心が自分自身を欺く力は、まさに恐ろしいものです。しかし、彼らのグループ以外の人は、彼らのパリサイ主義をはっきりと見ています。

 真の聖さは、神の恵みの産物です(ローマ6:14が非常に明確に述べているように)。そして、神は謙遜な者にのみ恵みを与えます(1ペテロ5:5)。したがって、真の聖さの主な特徴は謙遜さでなければなりません。へりくだりが欠けている場合、カルト信者が持っているように見える「聖さ」は、律法の義(人間の努力によって生み出されたもの)にすぎません。これが、ほとんどのカルト信者が自分の「聖なる生活」や「聖なる家庭」を自慢する傾向がある理由です。もし彼らの「聖さ」が神の恵みの産物であったなら、彼らはそれを誇ることは決してできないでしょう。

 カルト的な信者は、通常、自分たちのグループの指導者によって書かれた本しか読みません。彼らの雑誌には、自分たちのグループのメンバーによって書かれた記事しか掲載されていません。ほとんどのカルトグループは、他の信者によって書かれた文献を読むことを強く警告します。なぜなら、使徒時代以降、自分たちのグループの指導者以外に、神に仕える人は一人もいなかったと考えているからです。カルト主義が人々を欺く力は、まさに恐ろしいものです。

 また彼らは、自分たちのグループのメンバーが作った歌しか歌いません。彼らの歌集には、そのような歌しか載っていません。他の賛美歌は、間違った霊に満ちている、したがって危険なものとみなされます。

 このようにして、カルト集団はメンバーを自分たちが作り出した繭の中に閉じ込め、神が他の時代の敬虔な人々を通して、あるいは同時代の他のキリスト教会の敬虔な人々を通して行われたことを、彼らに全く知られないようにしているのです。

 神を畏れる他の信仰者たちから孤立して生活していると、現実との接触を断ち、自己欺瞞と傲慢の世界に生きるようになるのは容易なことです。

 もし私たちが、天の父なる神が受け入れてくださった神の子どもたちの一人でも、どんな理由であれ、私たちの交わりの輪から切り離してしまうなら、損失を被るのは私たちです。なぜなら、神は「​​すべての聖徒たちと共にキリストの愛を理解し」、「神の満ち満ちた状態に達する」ことができると定めておられるからです(エペソ3:18,19)。

 これは、エキュメニズムや妥協を勧めるものではありません。バビロン的な体制に属している多くの信仰者たちとは、共に働くことができないかもしれません。私たちはそのような体制とは一切関わりを持つべきではなく、信仰者たちには常にそのようなグループから離れるように促さなければなりません(黙示録18:4)。

 しかし、私たちの心は、神を畏れるイエスのすべての弟子たちとの交わりに、いつも開かれていなければなりません。もし主ご自身が誰かを受け入れてくださったのであれば、たとえその人が私たちと意見が一致しなくても、私たちがその人を拒絶する権利があるでしょうか。(ルカ9:49,50)

 パウロとバルナバは、必ずしも同じチームで働く必要はなくとも、個人として交わりを持つことが可能であることを示す良い例です(使徒15:36-41)。彼らはある問題について激しく意見が対立し、もはや一緒に働くことはできないと考えました。しかし、彼らは互いに交わりを断ったり、憎み合ったり、罵り合ったりはしませんでした。もしそうしていたら、彼らはカルト集団になっていたでしょう。しかし、彼らは互いに愛し合い、別々に働き、間違いなく互いのために祈り合いました。カルト集団にとって、このような関係は不可能です。彼らは、自分たちに完全に服従する者としか交わりを持つことができません。

 4. 福音伝道への重荷がない

 カルト集団の4つ目の特徴は、世の未信者の異教徒に福音を伝える重荷がないことです。

 異教徒の間で、限定的な規模で福音伝道を行うカルト集団もあるかもしれませんが、一般的に言って、ほとんどのカルト信者は他のクリスチャンの中でしか活動しません。彼らはイエスが命じられたように(マルコ16:15)、すべての被造物に福音を宣べ伝えたいという願望を持っていません。むしろ、他の信者の中から自分たちのグループに弟子を作ることに専念します。

 カルト的な集団は通常、非常に緊密な共同体であるため、多くの信者はその中で安心感を見出します。カルト集団のメンバーは互いに思いやり、助け合い、多くの面で非常に親切です。愛のないキリスト教に失望し、神ではなく信者の共同体の中に安心と受容を求めている不安定なクリスチャンは、愛と交わりを求めてこうした集団に引き寄せられることがよくあります。しかし、彼らは排他的な集団の中にいるので、後にキリスト教人生において直面する危険に気づいていないことがほとんどです。

 カルト的な信者は、新しい「接触者」をグループの一員にするために、多くの注意と愛情を注ぎます。彼らは、一度仲間入りすれば、新入信者が指導者の「神聖な権威」を含むすべての教えを徐々に受け入れるようになることを知っています。

 そのようなグループに数年いると、ほとんどの信者は、一人ぼっちになり孤立することを恐れて、グループを離れることを考えさえしなくなります。

 この恐怖心と、『真の教会から離れてしまうかもしれない』という考えが相まって、意志の弱い、カルト的な信者は一生涯、その罠から抜け出せなくなってしまうのです。

 カルト的な信者は、何世紀にもわたって神を畏れる宣教師たちが、異教徒の中で原始的な生活を送りながら、彼らをキリストへと導くために払ってきたような犠牲を、通常は払おうとしません。カルト信者は、そのような宣教の歴史を軽々しく話します、当然のことながら、そのような宣教活動は彼らにとって容易ではないからです。

​ カルト的な説教者たちは、もし異教の地に赴くとしても、通常は訪問説教者としてのみです。彼らは、訪問先の異教の地で地元の代表者を任命するという安易な方法を好みます。そうすることで、その地域における自分たちのグループの活動を促進し、年間の訪問時に集会を準備してもらうためです。その見返りとして、そのような地元の代表者たちは贈り物を受け取ったり、時折、グループの本部への費用全額負担の旅行で買収されたりします。

 キリストの使徒たちは貧しかったため、誰にもそのような賄賂を提供することはできませんでした。だからこそ、彼らは異教の地で神のために真の働きをしたのです。

 5. 信仰による義認を軽視する

 カルト主義の5つ目の特徴は、信仰による義認を軽視し、行いを義認の手段として教えることです。聖書は、行いが私たちの信仰の証拠であると述べています(ヤコブ2:24)。しかし聖書はまた、「​​何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」とも教えています(ローマ4:5)。

 ここでは、ただの偏りではなく、異端が生じます。なぜなら、聖書の一つの真理を、他の真理を排除しながら極端に推し進めると、それは異端となるからです。さらに、聖書の教義を信じていても、教会でそれを教えなければ、全く信じていないのと同じことになります。語られない真理は、使われない筋肉のように、徐々にその機能を失い、最終的には教会から完全に失われてしまうのです。真理はどちらか一方にあるのではありません。ましてやその中間にあるのでもありません。真理は、両方が共に保持されているところにあります。

 私たちは、自分たちの教えが、他の人の行き過ぎた極論を誘発することがないように注意しなければなりません。確かに多くの説教者は、信仰によって義と認められることを教え、それが罪を犯すための免罪符に変えてしまいました。しかし、だからといって、この聖書の真理を捨て去り、行いによる義認という正反対の極端な教えに走るべきではありません。

 一般的に言って、カルト的な信者は、善い行いによる義を説きます。すべての非キリスト教の宗教も同様です。もしカルト的な信者がローマ4章について語るとすれば、ローマ4章も行いによる義認を教えていると証明するような形で語るでしょう。

 カルト的な信者は通常、「キリストが私たちの義となられた」(1コリント1:30)という真理を軽視し、「律法の義が私たちの中で成就される」(ローマ8:4)ことを強調しますが、前者が後者の基礎であることを理解していません。

 カルト的な信者はまた、キリストの血を軽視し、神秘的で超霊的な方法で語る以外は、ほとんどそれについて語りません。

 通常、教会で歌われる賛美歌は、その教会の主要な信仰をよく表しています。カルト的なグループの賛美歌集を見てみると、罪の赦し、信仰による義認、イエスの血による罪の清めについての歌はほとんど見当たりません。

 イエスと使徒たちが語った(ルカ22:20、エペソ2:13)、そして私たちが天国で永遠に歌うであろう(黙示録5:9)カルバリの十字架で流された血は、カルト的なグループの賛美歌集にはほとんど、あるいは全く見られません。

 多くのカルト的な信者が外見的には非常に良い生活を送っているのは事実ですが、ほとんどの人は指導者の教えによって課せられた重い重荷に苦しんでいるのも事実です。

 彼らは、神が自分たちを喜んでくださっているかどうか常に不安を感じており、その結果、絶え間ない罪悪感と、兄弟を告発する者であるサタンの非難の下で生きています。しかし、これらの人々のほとんどは、不信仰で信仰がないと非難されることを恐れて、これらの問題を認めません。

 カルト的な指導者は、このような罪悪感を永続させることによって、グループ内のほとんどの信者に対する支配を維持しています。したがって、彼らの説教は、人々に罪悪感を抱かせることを目的としている傾向があります。この罪悪感は漠然としたものであり、具体的な罪が特定されることはありません。

 このような集団の中には、こうした感情を克服できる強い意志を持った信者も多くいますが、弱い人はサタンに囚われてしまいます。これは、信仰による義認に関する教えが軽視されていることの直接的な結果です。

​​6.信条に関する秘密主義

 カルトの特徴の6つ目は、信条に関する秘密主義です。

 カルト信者は、自分たちのグループ以外の信仰者から、聖書に明確な根拠のない彼らの信条について質問されると、たいてい曖昧な答えをします。

 聖書から自分たちの教義を証明できない場合、質問する信仰者に対する彼らの決まり文句は決まって「聖霊の啓示が必要です!」です。このようにして彼らは、聖書には教えられていない、他の信仰者には与えられていない、神からの特別な啓示を受けていると主張します。

 カルト信者は、「聖霊によって自分たちに啓示された」と主張する「神秘」について語ることを喜び、それは「心から信仰する者」にのみ啓示されると言います。もちろん、この「心から信仰する者」とは、彼らの指導者を受け入れ、グループに加わった人々のことです。

 彼らは、自分たちのグループ以外に心から信仰する者はいないと信じています。こうして彼らは、好奇心旺盛な信仰者を、「真理の光」を受けた「エリートグループ」に加わるよう誘惑します。

 自分は神の特別な寵愛を受けている神の側近の一人であり、他の信者には知られていない秘密の「神秘」を神から啓示されていると信じたいという強い欲望が、人間にはあります。

 カルトは、すべての人間の肉体にあるこの欲望につけ込むのです。

 しかし、神のすべての奥義は聖書の中に明確に啓示されています。

エペソ3章4~6節は、キリストの奥義は旧約聖書の時代には奥義であったが、今はそうではないことを明らかにしています。コロサイ1:26、27は、神が今やこの奥義をすべての聖徒たちに現されたと述べています。今や、いかなる奥義にも秘密めいたところはありません。なぜなら、新約聖書はすべてを明白にしているからです。しかし、カルト的な信者たちは、まだ隠された奥義があると信じ込ませようとします。

 新約聖書に記されている二つの大きな奥義は、敬虔と教会に関するものです(1テモテ3:16、エペソ5:32)。これらの奥義はどちらも聖書に明確に記され、教えられています。

 もし人々がそれらを理解していないとしたら、それは聖書を注意深く読んでいないか、あるいはあまりにも傲慢で偏見に満ちているために自分の考えを変えようとしないかのどちらかです。しかし、神が聖書に明確に啓示されていない奥義を誰かに秘密裏に啓示したということは決してありません。

 ですから、カルト信者たちが絶えず語る「奥義」には注意してください。

7.画一性の強調

 カルトの特徴の7つ目は、信者に画一性を要求することです。

 カルト信者は、一致は画一性があってこそ成り立つと信じています。自分たちの主張を正当化するために、1コリント1:10の「​​みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください」(「あなたがたは皆、同じことを語りなさい」 - KJV)という聖句を都合よく引用します。そのため、承認基準から少しでも外れることは許されません。彼らは、この聖句が霊的な一致について述べているのであって、あらゆる細部にわたる一致について述べているのではないことを理解していません。

 また、カルト信者は、「善悪について自分とは異なる考えを持つ兄弟を温かく迎え入れる」方法を知りません(ローマ14:1 - TLB)。彼らの温かい歓迎は、自分たちと100%意見が一致する人にだけ向けられます。実際、カルト集団にはローマ14章の教えが入り込む余地は全くありません。なぜなら、彼らの間には多様性が存在しないからです。

 カルト集団におけるあらゆること、集会の形式も含めて、すべてが本部の型通りでなければなりません。多くのカルト信者は、指導者の文化的習慣さえも模倣します。

 カルト集団のメンバーには、常に無意識のうちに、あらゆる面で本部の定めた、そこで実践されている型に合わせるよう圧力がかけられています。

 質問もせずに、まるで無知なゾンビやロボットのように、そのような型に自分をはめ込もうとする信者は皆、謙遜で心から従順な「選ばれた者」とみなされます。

それ以外の者は皆、傲慢で「光のない者」とみなされるのです。

 集団への忠誠は、指導者へ反抗するとどうなるかという、遠回しな警告を与えることで得られます。集団の指導者に異議を唱えた者たちが「どれほどひどい目に遭ったか」という恐ろしい話が集団メンバーに語られます。こうして、意志の弱い信者は同調圧力にさらされます。そして、彼らは徐々に識別力を失い、集団に奴隷化されていきます。

 イエスは人々を解放するために来られました。しかし、カルトは人々を束縛します。

 多くの信仰者は、カルトの説教者たちが閉じ込めた牢獄から解放されなけれないけません。イエス時代のユダヤ人は、罪だけでなく、宗教指導者たちの伝統や意見の奴隷にもなっていました。イエスは、彼らをこれらの二重の束縛から解放しなければなりませんでした。イエスの罪からの解放というメッセージを受け入れた多くの人々は、依然として宗教指導者たちを恐れていたため、たとえそれが聖書に反していると分かっていても、「長老たちの伝統」から離れることができませんでした。それは、グループから追放されることを恐れていたからです(ヨハネ12:42、43)。

 宗教指導者の意見への、このような束縛がいかに強いものであるかは、聖霊に満たされた生活を20年間送った後でさえ、ペテロが一部のユダヤ人キリスト教指導者を怒らせることを恐れて、ユダヤの伝統から公に離れることをためらったという事実から分かります。当時まだ若い使徒であったパウロだけが、その場でペテロに公然と立ち向かい、ペテロが「長老たちの伝統」に従っていることを指摘しました。年長の使徒であるバルナバでさえ、そのような勇気は持っていませんでした(ガラテヤ2:11-21)。

 神は、個人的な確信なしに、上からの形式的な圧力に押されて従うことを望んでおられません。神が求める唯一の従順は、喜んで自発的に与えられる従順です。「神は喜んで与える人を愛される」からです。それは金銭だけでなく、従順についても同じです(2コリント9:7)。神は強制を嫌われます。

 神は、私たちの自由意志に決して干渉せず、常に私たちに選択の自由を与えてくださいます。神に従うか、従わないかという自由です。それは、エデンの園でアダムとエバに与えられたのと同じ自由です。なぜなら、神は、このような完全な自由の中でのみ、真の聖さが育まれ、花開くことをご存知だからです。

 真の聖さとは、人への恐れではなく、神への畏れの中で完成されるものです(2コリント7:1)。

 神が望まれる従順とは、裁きへの恐れや報いへの希望からではなく、神への愛と感謝によって促されるものです。

 パターンに従うという圧力から生じる服従、あるいはグループの中で受け入れられるための服従は、すべて死んだ行いです。それは神の前には何の価値もありません。それは、グループ内の人々の尊敬を得るだけです。そして、ここで神は私たち皆を試されるでしょう。私たちが何を望んでいるのか――神の承認なのか、それとも仲間の信仰者たちの承認なのかを。

自由であり続ける

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ 5:1)

 クリスチャン生活における最大の戦いは、怒りや不純な思いとの戦いではありません。それは、人々の承認を得ようとする欲望との戦いです。もし私たちが自由であり続けたいと願うなら、今こそ、ただ神の御前だけで生きることを決意しなければなりません。

 たとえカルト的な態度を持っていたとしても、良い人生を送ることはできるかもしれません。しかし、そのような心構えでは、世の人生において、神があなたのために定めたすべての目的を成就することは決してできません。神の国は、カルト的な説教者によって自分たちの周りに築かれた牢獄の鉄格子を打ち破る者だけが手にすることができるのです。

 神の子らの栄光ある自由に入るためには、どんな犠牲を払ってでも、人々の意見へのあらゆる奴隷状態から解放されなければなりません。

 章 17
キリストの再臨のしるし

1939年以来、世界はかつてと同じではなくなりました。当時の大きな出来事が多くの分野で連鎖反応を引き起こし、それはキリストの再臨によってのみ終結するでしょう。

 イエスは、御父以外には御自分が再臨される正確な日時を知る者はいないと言われました。しかし同時に、御父が予言された兆候を観察すれば、キリストの再臨が近づいていることを知ることができるとも言われました(マタイ24:33, 36)。

ですから、私たちはこれらの兆候に注意を払うことが不可欠です。

 1. 戦争

(マタイ24:7) - イエスは、終わりの日はノアの時代のようになると言われました(マタイ24:37)。暴力はノアの時代の顕著な特徴の一つでした。地は暴力で満ちていました(創世記 6:11, 13)。これは、私たちが生きている時代をまさに描写しているように思えます。テロ、ハイジャック、暴動、殺人、放火、そして国家間の戦争は、今や日常茶飯事となっています。こうした出来事が起きています。これには多くの理由があります。多くの国で殺人に対する死刑(創世記9章で神が定めたもの)が廃止されたことで、殺人率が上昇しました。映画館で公然と、そして恥ずかしげもなく描かれ美化された暴力は、人々を幼少期から暴力へ駆り立てました。1950年代のテレビの登場、そして1970年代のビデオテープの登場は、暴力カルトの蔓延を助長しました。「空手」をはじめとする武道(いずれも人々を悪霊に曝すもの)の人気もまた、暴力のメッセージを広めました。これらすべては、1939年、サタンがこの世に第二次世界大戦を引き起こして以来、洪水のように押し寄せてきました。当時解き放たれた憎しみと苦悩により、悪霊は一気に人類を侵略し始めました。1939年以来、世界史において常に戦争はあり続け、1945年の原爆は、核時代とそのあらゆる結果を招きました。

 第二次世界大戦以来、人類の歴史においてこれほどの暴力とこれほどの戦争の多発は、かつて経験したことがありません。

2.飢饉

 (マタイ 24:7) - 人類の歴史を通して、飢饉は常に存在してきました。しかし、世界人口の増加に伴い、第二次世界大戦以降、飢饉によって何百万人もの人々が命を落としました。これは世界史上かつてないほどの規模です。1950年以降、多くの国々で干ばつや農作物の不作が頻繁に発生しています。これらは、終わりが近づくにつれて、さらに頻繁に発生するでしょう。

3.自然災害

(マタイ 24:7) - 地震、洪水、ハリケーン、火山の噴火なども、終わりが近づくにつれて増加すると予想される自然災害です。これらも第二次世界大戦以降、大幅に増加しており、今後さらに増加するでしょう。

4.知識の増加

(ダニエル 12:4) - ダニエルは、終わりの時に知識が増加すると預言しました。アダムの時代から1939年まで(つまり5900年以上)に人類が蓄積してきた科学的知識は、1939年以降20倍に増加しました。人類の知識増加のグラフは、歴史の99%では非常に平坦な勾配を示し、その後、歴史の最後の時期には20倍の高さまで急激に上昇します。ここにもキリストの到来を示唆する明確な兆候があります​​。​​​​​​   ​​                                                          

5.世界旅行

(ダニエル 12:4)- 5800年間、人類はほぼ同じペースで旅をしてきました。主に動物の背中に乗って。1900年でさえ、人類の最高速度は時速わずか80キロでした。しかし今日、人類は時速24,000キロで宇宙を旅しています。世界的な観光と旅行が普及したのは第二次世界大戦後になってからです。ダニエルはこれを終末の兆候の一つとして予言し、「多くの人があらゆる場所へ旅をする」と述べました。

6.快楽への愛

(2テモテ 3:4)- パウロはここで、終わりの日に人々は神よりも快楽を愛するようになるだろうと明確に述べています。ノアの時代の人々にとって、暴力と並んで性行為は大きな関心事でした(創世記 6:2)。これは今日の世界にも見られる現象です。

 人類の間には、太古の昔から常に性的不道徳が存在してきました。しかし、人類史上、これほど公然と、そして恥ずかしげもなく行われてきたことはありません。今日も同様です。第二次世界大戦以降、世界中で道徳基準が徐々に低下しています。汚れた悪霊が大量に地上に侵入しました。テレビ、映画、動画はすべて、サタンの目的である「快楽追求のカルト」を助長してきました。

 パウロは、終わりの日の悪霊の教えの一つは結婚を禁じることであると述べています(1テモテ 4:1-3)。これは今日、二つの極端な形で現れています。一つは、聖なる者となるためには「独身でいなければならない」と教える一部のグループの極端な禁欲主義です。もう一つの極端な例は、もはや結婚ではなく、ただ同棲することだけを信じる人々です。終わりの日に人は「自然な愛情を持たない」状態になるので、中絶もまた全く正しいと人々が感じるのも不思議ではありません(2テモテ 3:3)。今日のほとんどの医師の手は、ベツレヘムのヘロデ王の手よりも、中絶によって殺された赤ん坊の血で染まっています(マタイ 2:16)。

 イエスは、終わりの日は(ソドムの)ロトの時代のようになると言われました。同性愛関係は今や普通のこととして受け入れられています。「彼らは罪を、ソドムのように現して、それを隠そうとしない」のです(イザヤ3:9)。ですから神は彼らを見捨てられました。エイズという恐ろしい病気は、この罪に対する神の裁きの一部です(ローマ1:26-28)。

 何百万もの若者が麻薬によって破滅させられていることは、快楽を愛するこの世代が破滅の淵へと突き進んでいることのもう一つの証拠です。

7.反逆の霊

(2テモテ 3:2)第二次世界大戦以降、世界はかつてないほどの規模で、子供たちが親に、学生が教師に、そして雇用者が(職場や工場などで)雇用主に反抗する霊を目にしてきました。高等教育の普及により、現代の若者は親や年長者に対して傲慢で反抗的になっています。この反抗的な霊はキリスト教界にも浸透しています。そのため、牧師や長老たちが教会の若者たちの言いなりになり、あらゆる面で彼らを喜ばせなければならないという光景が世界中で見られます。

 第二次世界大戦以降、家庭の外で働く女性は、人類史上かつてないほどに増えています。女性は自力で稼ぐようになり、その結果、現代の女性は独立心が強くなって高ぶり、男性の指導の下で神から与えられた地位を受け入れることを拒んでいます。この霊はキリスト教界にも広がっています。しかし、これらすべては、反逆がどれほど広範囲に及び、深く根付いているかを示しています。権威に対する反抗の霊です。

 今日の女性にとって、母親になることが第一の望みではなくなっています。第二次世界大戦以降、世界中で女性が首相になったように(当時はほとんど考えられなかったことですが)、キリスト教界においても女性が長老、祭司、教師になっています。これはイゼベルの霊であり(黙示録2:20)、旧約聖書の時代と同様に、教会においてはエリヤの霊と力によってこれに対抗しなければなりません(1列王記20:21-23)。

8.信仰からの離反

(1テモテ4:1) - これは、特に文脈の中で読むと非常に重要な節です。聖霊は、終わりの時代に信仰から離れる人々がいると強調して述べています。

 前の節は敬虔の奥義について述べています(1テモテ3:16)。キリスト教界がまず第一に離反したのは、敬虔です。その結果、キリスト教界はイエスの戒め(特にマタイ5章から7章に挙げられている戒め)への従順さを失いました。そして、偽りの恵みの説教が広まるに至りました。こうしたことは1世紀にも見られましたが、第二次世界大戦以降、飛躍的に増加しました。

 エキュメニカル運動、偽りであるカルト、偽りの聖霊の賜物などは、すべて過去40年間で急増しました。イエスは終わりの日に関して、欺きについて三度語られました(マタイ24:5、11、24)。そこでイエスは、偽預言者たちがしるしと不思議によって選民さえも欺こうとするであろうと言われました。

 1945年以降、キリスト教界では、いわゆる「癒しの働き」と呼ばれる様々な団体によるしるしと不思議が相次いで起こっていますが、その多くは、イエスが特に警告しておられたこの偽りの働きの一部です。今日、多くの信仰者でさえ、これらのしるしと不思議に惑わされているのを目にします。なぜなら、それらはイエスの名において行われるからです。彼らは、それらを行う人が神を畏れ、使徒たちのようにイエスのすべての戒めに従うよう人々を導いているかどうかを確かめようとはしません。だからこそ彼らは惑わされるのです。(申命記 13:1-4を読んでください)

9.イスラエル

(ルカ 21:29-32)― ここでイエスは、すべての木が葉を出す(諸国が独立する)ことについて語られました。それは、 1945年以来、それまでの世界の歴史に類をみないほど実現しました。インドは1947年に独立しました。他の多くの国も1945年以降に独立を獲得しました。

 しかし何よりも、イエスは私たちにイスラエルのいちじくの木に目を留めるように言われました(ルカ21:29)イエスはイスラエルに行き、そのいちじくの木の実を探されました。しかし、彼がご覧になったのは、むなしい宗教儀式の"葉"ばかりでした。そこで、イエスはそのいちじくの木を呪われると、それは枯れてしまいました(マタイ21:19)。

 イエスが十字架にかけられてから40年後、神はティトゥス将軍率いるローマ軍がエルサレムに入城し、ユダヤの神殿を破壊することをお許しになりました。ユダヤ人はその後、地の果てまで散らされました。ほぼ1900年間、このいちじくの木は枯れたままでした。

 しかし、イエスは、同じ枯れたいちじくの木が再び葉を出す時を待つようにと言われました。第二次世界大戦で何百万ものユダヤ人が虐殺されたことで、ユダヤ人への世界の同情が燃え上がり、その後1948年5月の祖国帰還をもって終結しました。1967年6月にはエルサレムも奪還されました。いちじくの木は葉を出し始めていました。イエスは、「異邦人の時」(ルカ 21:24)が満ちるまで、エルサレムは異邦人(非ユダヤ人)の支配下に置かれると述べられました。私たちは今、イエスが語ったまさにその時代に生きています。

  神の時間表

 神は人に六日間労働を与え、七日目を休息の日と定められました。主にとって一日は千年と同じです(2ペテロ 3:8)。これは、人が6000年間働くことができることを意味します。第七千年期(1000年)は、イエスが王として地上を統治する休息の千年期となります。アダムからキリストの到来までは約4000年でした。今、私たちはキリストの到来から2000年の終わりに近づいており、それによって人の「六日間」は完了します。

 イスラエル人は荒野で二日間を与えられ、自らを聖別し、三日目に主が彼らの中に降りて来られました(出エジプト19:10, 11, 16)。教会もまた、主の到来に備えて自らを聖別し、備えるために2000年(2日間)を与えられました。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。」(ホセア 6:2)。

私たちの責任

 キリストの再臨に備えるには、まず自分が知っているすべての罪から離れ、自分が罪深い者であることを神に認めなければなりません。そして、主イエス・キリストがあなたのすべての罪の罰を受けるために死なれ、そして「死からよみがえり、今日も天で生きておられる」ことを信じてください。主があなたの人生に救い主、主として来られ、あなたの罪を赦し、あなたを神の子としてくださるように、主に祈り求めてください。

「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(1ヨハネ 3:3)

 この聖句によれば、私たちがキリストの再臨を信じている唯一の証拠は、私たち自身が清くあることです。そして、私たちは主の清さの基準に達するまで、自らを清め続けるのです。だからこそ、ペンテコステの日に聖霊が与えられたのです。聖霊は、神の言葉という鏡を通してキリストの栄光を私たちに示し、私たちを栄光の度合いを段階的に高め、キリストの姿へと変えてくださるのです(2コリント 3:18)。

聖霊の二つの呼びかけ

聖書は(最後の書において)、聖霊の二つの呼びかけで締めくくられています。

未信仰者へ:「来なさい」(黙示録 22:17)、悔い改めてキリストを信じなさい。

信仰者へ:「勝利を得なさい」(黙示録 2:7~3:21)、キリストの花嫁となりなさい。

 章 18
キリストの再臨への準備

 キリストの再臨について考える時、重要なのは正確な日付を知ることではなく、再臨のために霊的に備えることです。キリストの再臨に関する預言をよく知っている人の多くは、日々キリストの清さの基準に沿って自らを清めていません。それは、キリストの再臨への希望が彼らにとって死んだ希望であり、生きた希望ではないことを示しています(1ヨハネ3:3)。

 一方、聖書の預言の詳細や黙示録の象徴の解釈をすべて理解していなくても、イエスが私たちに心がけるように言われたことに集中するならば、キリストの再臨に100%備え、準備を整えることは可能です。

 マタイ24章でイエスは弟子たちに再臨について語られた際、警戒を怠っていてはならないことを何度も強調しました(マタイ 24:42, 44; 25:13)。ですから、常に霊的に警戒し、備えを怠らないことが何よりも重要であり、預言的な事実を知ることではないのです。​​

 マタイ25章(マタイ24章の預言に続く)において、イエスは私たちが召されている3つの領域について語っておられます。​​​     

内側の忠実さ

(マタイ 25:1-13) - このたとえ話の中で、イエスは10人の処女について語られました。彼女たちの中に娼婦は一人もいなかったことに注目してください(霊的な娼婦の定義についてはヤコブ4:4を参照)。彼女たちは皆処女でした。言い換えれば、彼女たちは人々の前で良い証しをしていました。彼女たちの灯火は皆燃えていました(マタイ5:16)。他の人も皆彼女たちの良い行いを知っていました。しかし、これらの処女の中で賢いのはたった5人だけでした。しかし、これは最初から誰もが理解していたわけではありません。5人だけが油を瓶に入れて持っていました(4節)。

 夜、瓶の中の油は見えませんでした。そして、それは闇であるこの世では人々には見えない、神の前に秘められた内なるいのちを物語っています。私たちは皆、瓶を持っています。問題は、そこに油が入っているかどうかです。

 油は聖書全体を通して聖霊の象徴として用いられており、ここでは聖霊が伝えようとしている神のいのちを指しています。霊です。そのいのちの外的な現れは光です(ヨハネ1:4)。中身は油です。多くの人は上部の証しだけに心を奪われています。これが彼らの愚かさです。試練や試みの時に、外的な光だけでは不十分であることが分かります。人が勝利を収めるために、神のいのちという中身が必要なのです。

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(箴言24:10)。人生の危機は、私たちがどれほど強いか、あるいは弱いかを示します。このたとえ話では、花婿が来るのを遅らせたことが危機でした。苦難の時こそ、私たちの本当の霊性が証明されます。信仰を持つ者は最後まで耐え忍び、救われます。また、いのちに中身を持つ人と持たない人を証明するのです。すぐに芽を出した種のように、内なるいのちを持たない人は多くいます。彼らの心には土の深さがありません(マルコ4:5)。

 だからこそ、新しく信仰を抱く人の霊性や真摯さを評価するのは難しいのです。忍耐強く待つなら、時がすべてを明らかにしてくれるでしょう。ですから、キリストの来臨に備えるには、周りの人には見えない、私たちの思い、態度、動機において、神の御前に清く忠実な生き方を送ることです。自分にこの内なるいのちがないのに、キリストの来臨に備えられていると考えるのは、自分自身を欺いていることになります。

奉仕における忠実さ

(マタイ 25:14-30)- 二つ目のたとえ話では、神から与えられた能力を忠実に用いることが強調されています。それは、物質的な財産、金銭、生まれ持った能力、人生における機会、霊的な賜物などです。

この点において、すべての人が平等なわけではありません。

 たとえ話の中で、ある人は5つ、ある人は2つ、ある人は1つしか持っていなかったことが分かります。しかし、すべての人は、自分が受けたものに忠実であるために、等しく時間を与えられました。より多く与えられた者には、より多くが要求されます。ですから、2を4にした者は、5を10した者と同じ報いを受けました。

 しかし、自分の能力を「地に埋めた」(18節)者、つまり、神から与えられた才能を神ではなくこの世のために用いた者には、裁きが下りました。

 誰も何も受けていないと言うことはできません。なぜなら、誰もが神から何らかの能力を受けているからです。問題は、私たちがそれを何のために用いるかということです。私たちが自分のために用いることは、地に埋めたのと同じです。神の栄光のために用いるものだけが、永遠の富とみなされるのです。

 この基準から見ると、信仰者の大多数がいかに貧しくなっているかが分かります。私たちのモットーは「すべては自分のためではなく神のために」であるべきです。そうすれば、キリストの再臨に備えることができるでしょう。私たちが持っているものをすべて捨て去らなければ、イエスの弟子となることはできません。

 神から与えられたすべての財産と賜物を主のために用いていない人が、キリストの再臨に備えると公言しているなら、それは自分自身を欺いているに過ぎません。

仲間の信仰者に仕えることへの忠実さ

(マタイ25:31-46) - 最後の部分でイエスが扱われるのは、困っている仲間の信仰者に対する私たちの態度です。その領域は霊的、また物質的なものなど様々です。

 ここでは、主に仕えるように、仲間の信仰者に仕えたからこそ、神の国を受け継ぐ人がいることが分かります。彼らの奉仕は人知れず、左の手が右の手が何をしているかさえ知らなかったほどでした(マタイ 6:3)。主が彼らの行った善行を思い起こさせても、彼らはそれを思い出すことさえできないほどです。(マタイ25:38)

 イエスはまたここで、兄弟の中で最も小さい者への奉仕は、すべて主への奉仕とみなされると教えられました(マタイ25:40)。ここでイエスが最も小さい者について語っていることは重要です。なぜなら、私たちは最も重要な信仰者に仕え、貧しい人や軽蔑されている人を無視しがちだからです。食べること、飲むこと、買うこと、売ること、自分のために建てること、植えることにのみ気を取られている者は、イエスの再臨の時に必ず取り残されます(ルカ17:28, 34)。主への奉仕において、仲間の信仰者に仕えるという愛に満ちた心遣いを伴った者だけが、迎え入れられます。

 別の箇所で、イエスはこのグループとは対照的な別のグループの人々について語られました。彼らは主の御名によって行ったすべての善行を覚えている人々です。彼らは裁きの座にもおり、イエスの御名によって悪霊を追い出し、福音を宣べ伝え、病人を癒したことを主に思い出させます。しかし、これらのすべての善行を行ったにもかかわらず、彼らは主から拒絶されます。なぜなら、彼らには最初のものが欠けていたからです。誰にも知られない、神の御前での清い生き方です。彼らは自分の賜物の偉大さを誇るのです。この対比を見るのは興味深いことです。

 病人を癒した者は追い出されます(マタイ7:22, 23)。しかし、ただ病人を見舞っただけの者は神の国を受け継ぎます(マタイ25:34, 36)。神は、癒しの賜物という「能力」を与えられていないなら、病人を癒すように私たちに求めてはおられません。しかし、私たちは病人を見舞い、主の御名によって彼らを励まし、祝福することができます。そうすれば、私たちはキリストの再臨に備えている一方で、病人を癒したけれども取り残されている人が多くいることに気づくでしょう。

 このように他の人に仕えることが、自分にとっては不都合になることも覚悟しなければなりません。困っている人に邪魔されて日々の計画が乱れることを好まないような人は、イエスが来られる時に必ず取り残されるでしょう。主の御名において他者に仕えるためには、時間、お金、そして何よりも自分自身の計画と意志を犠牲にしなければなりません。

 利己心は私たちの肉に深く根付いているため、たとえ目で欲望を抱く罪、怒り、貪欲から自分を清めたとしても、自分のためだけに生きることは依然として可能です。パリサイ人の聖さのように、自分自身のことばかり考え、自己中心性から解放されない聖さも存在します。これは真の聖さの偽物であり、それに騙されやすいのです。

 イエスは私たちに、「私たちに与えてください…私たちを赦してください…私たちをお救いください…」(マタイ6:11-13)と祈るように教えられました。罪と困窮の中にいる他の人々への思いやりを示さない聖化は、価値のない偽物であり、ゴミ箱に捨てられるだけのものです。

 私たちは考え方を改める必要があります(「心を一新する」ローマ12:2)。そうすることで、「他の人の立場に立って」、彼らが経験していることを理解しようと努めることができます。これは、キリストのような思いやりであり、来るべき御国を受け継ぐための備えとなります。自分と家族の必要だけを考える人は、どれほど「聖なる」人であっても、キリストの来臨に備えていると考えるなら、それは自分自身を欺いているに過ぎません。

 章 19
福音宣教と弟子の育成

神が私たちを置かれたこの国の様々な地域において、教会として私たちに与えられている特別な召命とは何でしょうか。

 もし私たちが神の御言葉に妥協することなく忠実であり続けるならば、キリスト教界の多くの地域で、現在一般的に行われていることと異なる点が少なくとも7つあり、注目しなければなりません。

1.偉大さではなく聖さ

 バビロン(偽りの教会)は黙示録の中で11回「大いなる者」と呼ばれています。一方、エルサレム(キリストの花嫁)は「聖なる都」と呼ばれています(黙示録12章から21章参照)。

 もし私たちが『教会』として世間の目から見て偉大であろうとするなら、私たちはバビロンへと流れていくでしょう。イエスは、人々が高く評価するものは神の目に忌まわしいものだと言われました(ルカ16:15)。ですから、私たちは常に「教会の中に(たとえ音楽であれ説教であれ)人々に感銘を与えるような言動がないか」を注意深く見守らなければなりません。数字は常に人々の目に印象的です。もし、私たちが教会の成長の統計を他の人々に見せびらかせるなら、それはバビロンの確かな兆候の一つです。これは、神が私たちの数を増やすことに関心がないという意味ではありません。神は確かに関心を持っておられます。私たちが、(心から従う)神の羊たちに推薦できる群れだと神が受け入れてくださるならですが。しかし、数の増加は必ずしも神の祝福の兆候ではありません。異端のカルトも数を増やしているし、異教も同様です。そして、彼らの統計は多くのキリスト教団体よりも感銘を与えるものです。

 真の教会(エルサレム)の特徴は聖さです。ですから、エルサレムにおける成長は、互いへの愛を含む聖さの成長によって測られます。イエスは、命に至る道は狭く、それを見出す者は少ないと言われました。イエスが狭くされたように、狭い門を宣べ伝える者は、自分の教​​会に加わる者がほとんどいないことに気づくでしょう(マタイ7:13, 14)。

 一方、もし私たちがイエスが造られたよりも広い門を造るなら、私たちは容易に数を増やすことができるでしょう。今日のキリスト教界が誤った道を歩んでいるのは、まさにこの点です。イエスは『山上の説教』(マタイ5章から7章)の中で、狭い門と狭い道について語られました。ですから、これらの章の内容こそが、狭い門と狭い道を構成するものなのです。

 1コリント3:13は、終末の日に主が評価するのは私たちの働きの質であり、量ではないことを明確にしています。質の高い奉仕は、常に自己批判の中で生きる人、つまり「焼き尽くす火と永遠の燃えさしと共に生きる」(イザヤ33:14)人からのみ生まれます。

 ここで、教会は周囲のすべての教派とは異なる存在であるべきです。この区別が失われれば、私たちはまた別の死んだ教派になってしまうでしょう。

2.外側の生き方ではなく、内側の生き方

 旧約では、常に外面的な生き方が重視されていました。人の心の頑固さゆえに(マタイ19:8)、律法は外面的な清さを重視しました。一方、新約では、まず「杯の内側」の清さが重視されました(マタイ23:25, 26)。イエスはこの聖句(26節)で、内面が清められれば外面も自動的に清くなり、外面を清める必要は全くなくなると語られました。これはマタイ5:21-30から明確に分かります。

 怒りから心を清めれば、外面的に殺人を犯す危険はありません。同様に、性的に汚れた思いから心を清めれば、外面的に姦淫を犯す危険はありません。杯の内側を清めれば、外面も自動的に清くなります。

 教会では、世俗的な映画、喫煙、飲酒、賭博、装飾品の着用など、主に外面的な生活が重視されますが、そのような教会は旧約の教会にしかならないのです。外的な悪を取り除く方法は、まずそれらに目を向けるのではなく、むしろそれらの外的な悪を生み出す世俗的な内側の生き方に集中することです。

 自己を裁かずに内面の清めはあり得ません。この内面の清めが絶えず宣べ伝えられなければ、教会を建て上げることは不可能です。聖書は、罪の欺きによって心をかたくなにしないよう、教会の中で日々互いに励まし合うようにと教えています(ヘブル 3:13; 10:25)。ほとんどのキリスト教「教会」は、そのような説教には関心がありません。ましてや毎日など考えられないでしょう。ですから、彼らは外側だけが清い杯を持つパリサイ人を育てているのです。キリストの花嫁はこの点で異なっていなければなりません。

3.休むことなく活動するのではなく、従順であること

 キリスト教の教派では常に「活動」が強調されます。街頭伝道、戸別訪問、宣教活動などです。これは良いことです。しかし残念なことに、ほとんどの信仰者の心の中で、それが神の御言葉への完全な従順に取って代わってしまっているのです。

 イエスは、すべてのクリスチャンに、イエスが教えられたすべてのことに従うように教えるべきだと言われました(マタイ 28:20)。神は犠牲よりも従順を求められます(1サムエル 15:22)。神への愛を証明するために、様々な肉体的な苦しみを経験することを神が要求するというのは、異教的な考えです。これはインドの異教文化に非常に蔓延しており、残念ながら我が国のキリスト教にも浸透しています。したがって、霊性は仕事を辞めて困難な場所に出かけ、様々な苦難を経験することなどと見なされています。これらはすべて多くの犠牲を伴うかもしれませんが、神の御言葉への従順の代わりになることはできません。

 イエスへの愛は、犠牲によってではなく、イエスの戒めに従うことによって証明されます。これはイエスご自身がヨハネ14:15で言われているように。マタイ5-7章に従うことは、私たちの愛を証明するはるかに大きな証拠です。 給料の50%を神に捧げたり、仕事を辞めて宣教師になったりするよりも、神への愛を捧げる方がはるかに大切です。

 宗派主義的なキリスト教は、マルタの忙しい行動と同じです(ルカ10:39-42)。彼女は台所で主のために誠実で、犠牲的、無私で、熱心に仕えていました。しかし、主は彼女を叱た。マルタは、明らかに犠牲を払って主のために何もしていない姉妹のマリアのことを辛辣に批判していました。マリアは主の足元に静かに座り、主のために何かをする前に、主の御言葉を聞くのを待っていました。

 これが私たちのあるべき姿勢です。忙しい活動ではなく、主が私たちに語られることを聞き、それに従うこと。自分の理性に従うのではなく、神の御心を行うことです。

4.弟子を育てない伝道は誤り

 信仰者の中には、神の御言葉の命令は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)、これだけだと考える人がいます。この命令は、世界中のキリストのからだ全体が従うべき命令ですが、特にキリストによって教会に与えられた伝道者たちは必ず従わなければなりません(エペソ4:11)。しかし、キリストのこの戒めが、「行ってすべての国の人々を弟子としなさい」というもう一つの戒めと釣り合わなければ、その奉仕は未完成のままとなるでしょう。

 私たちは、多大な犠牲を払って世界中に出て行き、イエスの名を聞いたことのない人々に福音を宣べ伝えたすべての人々に神に感謝します。しかし、20世紀の伝道の悲しい事実として、マタイ28:19、20の三つの戒め――弟子を作ること、父と子と聖霊の御名によって彼らを水に浸すこと、そしてイエスのすべての戒めに従うように教えること――がほとんど完全に無視されています。多くの信仰者が弟子を作ることを無視した伝道を強調する傍ら、その見過ごされた最も大切なことを取り戻し、未完成の奉仕を成し遂げることが私たちの役目です。

 多くの人は、福音がまだ到達されていない世界の様々な地域における未完の任務のことばかり考えています。神はその重荷を伝道の召命を受けた人々に与えます。しかし、他の者たちには、神は同様に重要な任務、より困難な任務、これらの改宗者を弟子にすることを与えられます。

 これは、大工の作業場で大工がテーブル作りに励んでいるけれども、大勢の大工が4本の脚を作るのに忙しく、誰も天板を作ってテーブルを完成させようという人はいないことと同じです。その結果、作業場には未完成のテーブルが山積みになり、大工たちは未完成のテーブルを次々と作り続けなければなりません。ナザレの木工所で、イエスが次のテーブルに移る前に、必ず1つのテーブルを完成させていたと私たちは確信できます。イエスは常に、始めた仕事を最後までやり遂げることを信じていました(十字架上で「成し遂げられた」と叫んだ時でさえ)。そして、今日も同じです。私たちはイエスの同労者であり、仕事が完成することを目指さなければなりません。すべての改宗者はイエスの弟子とならなければなりません。

5.旧約の献金ではなく、新約の献金

 ほとんどの信仰者は、旧約と新約の違いを全く理解していません。そのため、説教者たちは旧約の「什一献金」を命令として押し付け、信仰者たちを欺いてきました。

 イエスは、まだ旧約の下にあったパリサイ人に対して、モーセが命じたように十分の一を納めるように告げました(マタイ23:23)。しかし、弟子たちに新約のいのちを語られた時には、献金の割合については一切触れず、献金の動機についてのみ語りました(マタイ6:1-4)。新約聖書では、献金の質が強調されており、量ではありません(2コリント9:7も参照)。今、残る唯一の問題は、私たちがパリサイ人になりたいのか、それともイエスの弟

子になりたいのかということです。

 最近のキリスト教雑誌には、信仰者たちに什一献金を強いて、説教者や様々な奉仕活動を支援するよう勧める記事が溢れています。ほとんどすべてのキリスト教雑誌は、キリストの名において、様々なプロジェクトのために金銭を乞うという、バビロンの商業的な霊に汚染されています。

 使徒たちは、自分の奉仕のためにこのような金銭乞いを一度もしたことがありません。イエスもそうです。今日私たちが目にする光景は、イエスと使徒たちの模範とは正反対です。しかし、ほとんどの人はこの事実を全く気に留めず、この物乞い行為を盲目的に支持し続け、自らも汚しています。

 新約聖書は、金銭よりも私たちのからだを主に捧げることについて多く語っています。(ローマ12:1)そして、これは私たちが教会において常に強調しなければならないことです。私たちが神の国を第一に求めるなら、私たちの経済的必要は主によって満たされます。(マタイ 6:33)

6.人の力ではなく、神の力

 今日のキリスト教世界において、人間の魂の力は聖霊の力を欺く偽物となっています。今日のカリスマ派キリスト教の多くは、聖霊の力を装った魂の力に満ちています。欺瞞から逃れるためには、魂と霊を識別することが今最も求められることであり、今の時代に教会において、私たちはそこに神の御言葉の光を。

 神は人間の弱さを通して働きます。神は知者を辱めるために、この世の愚かなものを選ばれました(1コリント1:27)。神の真理は、賢い者や聡明な者には隠され、幼子に啓示されます(マタイ11:25)。神学者が人間の知恵で説教するところには、確かにバビロンがあります。たとえその神学者が福音主義的な教理を説いていたとしてもです。バビロン的キリスト教は、愚かな人々を用いて神の御業がなされるという神の方法を排除します。

 人間の知性を昂ぶらせることは、バビロンを築く最も確実な方法です。知的な考えを持つ人々が、自分の魂を死に至るまで注ぎ出す必要性を理解せず、神の御業を行うために自分の知恵に頼ると、この危険は教会にも常に蔓延します。教会において、自分の知恵に頼る者は実際には邪魔者です。神は高慢な学者を通してではなく、謙って神を畏れる人々を通して御業を行われるからです。

 教会の長老職はしたがって、常に私生活に基づいているべきであり、他のいかなる基盤にも基づいてはなりません。神の力は常に聖霊と十字架の言葉を通して現れます(1コリント 1:18、2:4参照)-4) 支配的な人間の人格を通してではありません。

 教会が神の聖霊の力と十字架の道を強調しないなら、人間の魂の力が現れる扉は必ず開かれたままです。聖霊の啓示と力ではなく、人間の知恵と能力が舞台に上がり、たとえ聖潔を説いていても、バビロンが築かれてしまうのです。

7.会衆を集めるのではなく、キリストのからだを築き上げる

 旧約聖書において、神の民であるユダヤ人が一つの体となることは不可能でした。それが可能になったのは、イエスが天に昇り、聖霊を注いで人に宿らせた後のことでした。今、二人が一つになることができます。旧約時代において、イスラエルは一つの会衆でした。国家は規模を拡大しましたが、依然として会衆でした。しかし、新約時代では、教会はからだであり、会衆ではありません。

 もし二人が一つにならなければ、それはただの会衆です。キリストのからだにおいて重要なのは、規模ではなく一致です。そして、この基準に照らすと、会衆ではない「教会」を見つけるのは困難です。どこを見ても、規模は拡大しているものの、一致していない会衆ばかりです。指導者レベルでさえ、争い、嫉妬、競争が見られます。

 神は、世界中の様々な場所でキリストのからだが現れることを望んでおられます。バビロンのキリスト教はこれを成し遂げることができません。しかし、イエスの弟子の特徴は互いへの熱烈な愛であり、数の多さではないことを理解している残りの民を通して、神の御業は今も続いています。

 キリストのからだにおいては、たとえ特別な才能がなくても、一人一人が尊重されます。人はからだの一部であるがゆえに尊重されるのです。実際、神は賜物のない部分に、より大きな栄誉を与え、からだの一致を保つようにと教えられています(1コリント 12:24, 25)。 教会においては、神の模範に倣い、賜物のない人であっても、神を畏れ謙遜であれば、敬うべきです。バビロンでは、才能のある説教者、才能のある歌手、改宗した宇宙飛行士が尊敬されます。しかし、教会(神の幕屋)においては、主を畏れる者が尊敬されます(詩篇 15:1, 4参照)。バビロンとエルサレムの間には大きな違いがあるのです。

 今日、神は私たちをバビロンから出てエルサレムを建てるように召しておられます。(黙示録 18:4)

 章 20
教会としての私たちの特別な召命

神が私たちを置かれたこの国の様々な地域において、教会として私たちに与えられている特別な召命とは何でしょうか。

 もし私たちが神の御言葉に妥協することなく忠実であり続けるならば、キリスト教界の多くの地域で、現在一般的に行われていることと異なる点が少なくとも7つあり、注目しなければなりません。

1.偉大さではなく聖さ

 バビロン(偽りの教会)は黙示録の中で11回「大いなる者」と呼ばれています。一方、エルサレム(キリストの花嫁)は「聖なる都」と呼ばれています(黙示録12章から21章参照)。

 もし私たちが『教会』として世間の目から見て偉大であろうとするなら、私たちはバビロンへと流れていくでしょう。イエスは、人々が高く評価するものは神の目に忌まわしいものだと言われました(ルカ16:15)。ですから、私たちは常に「教会の中に(たとえ音楽であれ説教であれ)人々に感銘を与えるような言動がないか」を注意深く見守らなければなりません。数字は常に人々の目に印象的です。もし、私たちが教会の成長の統計を他の人々に見せびらかせるなら、それはバビロンの確かな兆候の一つです。これは、神が私たちの数を増やすことに関心がないという意味ではありません。神は確かに関心を持っておられます。私たちが、(心から従う)神の羊たちに推薦できる群れだと神が受け入れてくださるならですが。しかし、数の増加は必ずしも神の祝福の兆候ではありません。異端のカルトも数を増やしているし、異教も同様です。そして、彼らの統計は多くのキリスト教団体よりも感銘を与えるものです。

 真の教会(エルサレム)の特徴は聖さです。ですから、エルサレムにおける成長は、互いへの愛を含む聖さの成長によって測られます。イエスは、命に至る道は狭く、それを見出す者は少ないと言われました。イエスが狭くされたように、狭い門を宣べ伝える者は、自分の教​​会に加わる者がほとんどいないことに気づくでしょう(マタイ7:13, 14)。

 一方、もし私たちがイエスが造られたよりも広い門を造るなら、私たちは容易に数を増やすことができるでしょう。今日のキリスト教界が誤った道を歩んでいるのは、まさにこの点です。イエスは『山上の説教』(マタイ5章から7章)の中で、狭い門と狭い道について語られました。ですから、これらの章の内容こそが、狭い門と狭い道を構成するものなのです。

 1コリント3:13は、終末の日に主が評価するのは私たちの働きの質であり、量ではないことを明確にしています。質の高い奉仕は、常に自己批判の中で生きる人、つまり「焼き尽くす火と永遠の燃えさしと共に生きる」(イザヤ13:14)人からのみ生まれます。

 ここで、教会は周囲のすべての教派とは異なる存在であるべきです。この区別が失われれば、私たちはまた別の死んだ教派になってしまうでしょう。

2.外側の生き方ではなく、内側の生き方

 旧約では、常に外面的な生き方が重視されていました。人の心の頑固さゆえに(マタイ19:8)、律法は外面的な清さを重視しました。一方、新約では、まず「杯の内側」の清さが重視されました(マタイ23:25, 26)。イエスはこの聖句(26節)で、内面が清められれば外面も自動的に清くなり、外面を清める必要は全くなくなると語られました。これはマタイ5:21-30から明確に分かります。

 怒りから心を清めれば、外面的に殺人を犯す危険はありません。同様に、性的に汚れた思いから心を清めれば、外面的に姦淫を犯す危険はありません。杯の内側を清めれば、外面も自動的に清くなります。

 教会では、世俗的な映画、喫煙、飲酒、賭博、装飾品の着用など、主に外面的な生活が重視されますが、そのような教会は旧約の教会にしかならないのです。外的な悪を取り除く方法は、まずそれらに目を向けるのではなく、むしろそれらの外的な悪を生み出す世俗的な内側の生き方に集中することです。

 自己を裁かずに内面の清めはあり得ません。この内面の清めが絶えず宣べ伝えられなければ、教会を建て上げることは不可能です。聖書は、罪の欺きによって心をかたくなにしないよう、教会の中で日々互いに励まし合うようにと教えています(ヘブル 3:13; 10:25)。ほとんどのキリスト教「教会」は、そのような説教には関心がありません。ましてや毎日など考えられないでしょう。ですから、彼らは外側だけが清い杯を持つパリサイ人を育てているのです。キリストの花嫁はこの点で異なっていなければなりません。

3.休むことなく活動するのではなく、従順であること

 キリスト教の教派では常に「活動」が強調されます。街頭伝道、戸別訪問、宣教活動などです。これは良いことです。しかし残念なことに、ほとんどの信仰者の心の中で、それが神の御言葉への完全な従順に取って代わってしまっているのです。

 イエスは、すべてのクリスチャンに、イエスが教えられたすべてのことに従うように教えるべきだと言われました(マタイ 28:20)。神は犠牲よりも従順を求められます(1サムエル 15:22)。神への愛を証明するために、様々な肉体的な苦しみを経験することを神が要求するというのは、異教的な考えです。これはインドの異教文化に非常に蔓延しており、残念ながら我が国のキリスト教にも浸透しています。したがって、霊性は仕事を辞めて困難な場所に出かけ、様々な苦難を経験することなどと見なされています。これらはすべて多くの犠牲を伴うかもしれませんが、神の御言葉への従順の代わりになることはできません。

 イエスへの愛は、犠牲によってではなく、イエスの戒めに従うことによって証明されます。これはイエスご自身がヨハネ14:15で言われているように。マタイ5-7章に従うことは、私たちの愛を証明するはるかに大きな証拠です。 給料の50%を神に捧げたり、仕事を辞めて宣教師になったりするよりも、神への愛を捧げる方がはるかに大切です。

 宗派主義的なキリスト教は、マルタの忙しい行動と同じです(ルカ10:39-42)。彼女は台所で主のために誠実で、犠牲的、無私で、熱心に仕えていました。しかし、主は彼女を叱た。マルタは、明らかに犠牲を払って主のために何もしていない姉妹のマリアのことを辛辣に批判していました。マリアは主の足元に静かに座り、主のために何かをする前に、主の御言葉を聞くのを待っていました。

 これが私たちのあるべき姿勢です。忙しい活動ではなく、主が私たちに語られることを聞き、それに従うこと。自分の理性に従うのではなく、神の御心を行うことです。

4.弟子を育てない伝道は誤り

 信仰者の中には、神の御言葉の命令は、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)、これだけだと考える人がいます。この命令は、世界中のキリストのからだ全体が従うべき命令ですが、特にキリストによって教会に与えられた伝道者たちは必ず従わなければなりません(エペソ4:11)。しかし、キリストのこの戒めが、「行ってすべての国の人々を弟子としなさい」というもう一つの戒めと釣り合わなければ、その奉仕は未完成のままとなるでしょう。

 私たちは、多大な犠牲を払って世界中に出て行き、イエスの名を聞いたことのない人々に福音を宣べ伝えたすべての人々に神に感謝します。しかし、20世紀の伝道の悲しい事実として、マタイ28:19、20の三つの戒め――弟子を作ること、父と子と聖霊の御名によって彼らを水に浸すこと、そしてイエスのすべての戒めに従うように教えること――がほとんど完全に無視されています。多くの信仰者が弟子を作ることを無視した伝道を強調する傍ら、その見過ごされた最も大切なことを取り戻し、未完成の奉仕を成し遂げることが私たちの役目です。

 多くの人は、福音がまだ到達されていない世界の様々な地域における未完の任務のことばかり考えています。神はその重荷を伝道の召命を受けた人々に与えます。しかし、他の者たちには、神は同様に重要な任務、より困難な任務、これらの改宗者を弟子にすることを与えられます。

 これは、大工の作業場で大工がテーブル作りに励んでいるけれども、大勢の大工が4本の脚を作るのに忙しく、誰も天板を作ってテーブルを完成させようという人はいないことと同じです。その結果、作業場には未完成のテーブルが山積みになり、大工たちは未完成のテーブルを次々と作り続けなければなりません。ナザレの木工所で、イエスが次のテーブルに移る前に、必ず1つのテーブルを完成させていたと私たちは確信できます。イエスは常に、始めた仕事を最後までやり遂げることを信じていました(十字架上で「成し遂げられた」と叫んだ時でさえ)。そして、今日も同じです。私たちはイエスの同労者であり、仕事が完成することを目指さなければなりません。すべての改宗者はイエスの弟子とならなければなりません。

5.旧約の献金ではなく、新約の献金

 ほとんどの信仰者は、旧約と新約の違いを全く理解していません。そのため、説教者たちは旧約の「什一献金」を命令として押し付け、信仰者たちを欺いてきました。

 イエスは、まだ旧約の下にあったパリサイ人に対して、モーセが命じたように十分の一を納めるように告げました(マタイ23:23)。しかし、弟子たちに新約のいのちを語られた時には、献金の割合については一切触れず、献金の動機についてのみ語りました(マタイ6:1-4)。新約聖書では、献金の質が強調されており、量ではありません(2コリント9:7も参照)。今、残る唯一の問題は、私たちがパリサイ人になりたいのか、それともイエスの弟

子になりたいのかということです。

 最近のキリスト教雑誌には、信仰者たちに什一献金を強いて、説教者や様々な奉仕活動を支援するよう勧める記事が溢れています。ほとんどすべてのキリスト教雑誌は、キリストの名において、様々なプロジェクトのために金銭を乞うという、バビロンの商業的な霊に汚染されています。

 使徒たちは、自分の奉仕のためにこのような金銭乞いを一度もしたことがありません。イエスもそうです。今日私たちが目にする光景は、イエスと使徒たちの模範とは正反対です。しかし、ほとんどの人はこの事実を全く気に留めず、この物乞い行為を盲目的に支持し続け、自らも汚しています。

 新約聖書は、金銭よりも私たちのからだを主に捧げることについて多く語っています。(ローマ12:1)そして、これは私たちが教会において常に強調しなければならないことです。私たちが神の国を第一に求めるなら、私たちの経済的必要は主によって満たされます。(マタイ 6:33)

6.人の力ではなく、神の力

 今日のキリスト教世界において、人間の魂の力は聖霊の力を欺く偽物となっています。今日のカリスマ派キリスト教の多くは、聖霊の力を装った魂の力に満ちています。欺瞞から逃れるためには、魂と霊を識別することが今最も求められることであり、今の時代に教会において、私たちはそこに神の御言葉の光を。

 神は人間の弱さを通して働きます。神は知者を辱めるために、この世の愚かなものを選ばれました(1コリント1:27)。神の真理は、賢い者や聡明な者には隠され、幼子に啓示されます(マタイ11:25)。神学者が人間の知恵で説教するところには、確かにバビロンがあります。たとえその神学者が福音主義的な教理を説いていたとしてもです。バビロン的キリスト教は、愚かな人々を用いて神の御業がなされるという神の方法を排除します。

 人間の知性を昂ぶらせることは、バビロンを築く最も確実な方法です。知的な考えを持つ人々が、自分の魂を死に至るまで注ぎ出す必要性を理解せず、神の御業を行うために自分の知恵に頼ると、この危険は教会にも常に蔓延します。教会において、自分の知恵に頼る者は実際には邪魔者です。神は高慢な学者を通してではなく、謙って神を畏れる人々を通して御業を行われるからです。

 教会の長老職はしたがって、常に私生活に基づいているべきであり、他のいかなる基盤にも基づいてはなりません。神の力は常に聖霊と十字架の言葉を通して現れます(1コリント 1:18、2:4参照)-4) 支配的な人間の人格を通してではありません。

 教会が神の聖霊の力と十字架の道を強調しないなら、人間の魂の力が現れる扉は必ず開かれたままです。聖霊の啓示と力ではなく、人間の知恵と能力が舞台に上がり、たとえ聖潔を説いていても、バビロンが築かれてしまうのです。

7.会衆を集めるのではなく、キリストのからだを築き上げる

 旧約聖書において、神の民であるユダヤ人が一つの体となることは不可能でした。それが可能になったのは、イエスが天に昇り、聖霊を注いで人に宿らせた後のことでした。今、二人が一つになることができます。旧約時代において、イスラエルは一つの会衆でした。国家は規模を拡大しましたが、依然として会衆でした。しかし、新約時代では、教会はからだであり、会衆ではありません。

 もし二人が一つにならなければ、それはただの会衆です。キリストのからだにおいて重要なのは、規模ではなく一致です。そして、この基準に照らすと、会衆ではない「教会」を見つけるのは困難です。どこを見ても、規模は拡大しているものの、一致していない会衆ばかりです。指導者レベルでさえ、争い、嫉妬、競争が見られます。

 神は、世界中の様々な場所でキリストのからだが現れることを望んでおられます。バビロンのキリスト教はこれを成し遂げることができません。しかし、イエスの弟子の特徴は互いへの熱烈な愛であり、数の多さではないことを理解している残りの民を通して、神の御業は今も続いています。

 キリストのからだにおいては、たとえ特別な才能がなくても、一人一人が尊重されます。人はからだの一部であるがゆえに尊重されるのです。実際、神は賜物のない部分に、より大きな栄誉を与え、からだの一致を保つようにと教えられています(1コリント 12:24, 25)。 教会においては、神の模範に倣い、賜物のない人であっても、神を畏れ謙遜であれば、敬うべきです。バビロンでは、才能のある説教者、才能のある歌手、改宗した宇宙飛行士が尊敬されます。しかし、教会(神の幕屋)においては、主を畏れる者が尊敬されます(詩篇 15:1, 4参照)。バビロンとエルサレムの間には大きな違いがあるのです。

 今日、神は私たちをバビロンから出てエルサレムを建てるように召しておられます。(黙示録 18:4)

 章 21
パンを裂くこと ― 契約

イエスが「パンを裂くこと」を定められた際、それまで使われたことのない言葉、すなわち「契約」という言葉が用いられました。主の食卓に意味深くあずかるためには、この言葉を正しく理解しなければなりません。

神との契約関係

 「契約」という言葉が初めて使われるのは創世記6章18節で、神はノアと契約を結ぶと約束されています(創世記9:9、11)。神は人の罪のために全世界を裁かれましたが、ノアと契約を結び、かつてのように洪水で世界を裁くことは決してないと約束されました。

 神は、その時結ばれた契約を示すしるしを与えました。それは、私たちが現在「虹」と呼んでいるものです。しかし、神は「雲の中のわたしの弓」と呼ばれました(創世記9:13 KJV 他英語聖書 )。

 ここで使われている「弓」という言葉は、聖書の他の箇所で武器である弓に翻訳されている言葉と全く同じです。弓は常に、矢で射られる人の方向に向けられます。雲の中の弓が下ではなく上を向いているのは、天に住む神ご自身がその弓から放たれた矢を受け取り、人の罪に対する裁きを受けるという意味です。弓は人ではなく、神ご自身に向けられるのです。それ以来、世界は洪水によって裁かれることはありませんでした。詩篇69:1、2には、神の裁きの洪水が十字架上のイエスを襲ったと記されています。これは雲の中の弓のしるしが成就したのです。

 ​​聖書の中で神が次に契約を結んだ人物はアブラムです。この人物は創世記15:18で初めて言及されています。そこで、神がアブラムとどのように契約を結んだかに注目してください。

 アブラムは三頭の動物と二羽の鳥を連れて来て、それらを屠り、地面に広げるように命じられました(15:9、10)。動物は二つに切り分けられ、それぞれの半分が向かい合って置かれました。夜、神は降りて来られ、煙を上げる火鉢と燃える火が、死んだ動物の半分の間を通り過ぎました。こうして主はアブラムと契約を結ばれたのです。その意味は再び明らかになりました。神ご自身が(死んだ動物たちとして)アブラムのために命を捧げるということです。ノアとの契約のしるしの場合と同様に、死によって契約が成立しました。神ご自身が主導権を握った死です。

 この契約の成立と確認の方法は、後にイスラエルで慣習となりました(エレミヤ書に見られるように)。 (34:18, 19)二人の者が契約を結ぶときはいつでも、子牛を屠り、それを二つに分け、その間を歩くというように、それぞれが契約に忠実であるために、相手のために命を捧げる覚悟があることを象徴的に示しました。

 このような象徴的な誓いを立ててそれを守らないことは重大な罪でした。それゆえ、神はエレミヤを通してユダの人々に、このような契約を結び、それを破った彼らを厳しく裁くと告げました。

 創世記17章では、神がアブラハムとの契約を再確認しています。神は再び契約のしるしを与えました。今回は割礼です。割礼とは肉体を断ち切ることであり、(ピリピ3:3とコロサイ2:11で明確にされているように)肉体の死を象徴しています。

 契約の象徴が再び死を象徴していることに気づきます。今回は、アブラハムとその子孫が、死に至るまで契約に忠実である意志を示す必要がありました。外面的な割礼は、イスラエルの民が心から神を愛するように心を割礼したいという神の願いのしるしに過ぎませんでした(申命記30:6、ローマ2:28、29参照)。これは、肉体の死なしには神への心からの愛はあり得ないことを教えています。

 次に契約について読むのは、神がイスラエルと契約を結んだ時です。モーセを通してイスラエルの民に与えられた契約、つまり私たちが「古い契約」あるいは「旧約」と呼ぶ契約です。これは出エジプト24:4~7に記されています。モーセは神の御言葉を書物(契約の書)に書き記し、若い雄牛を主への供え物として屠り、その雄牛の血を民に振りかけて言いました。「見よ、主があなたたちと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8)。この契約は屠られた動物の血によって結ばれました。

 聖書の中で「契約の血」という表現が使われるのはこれが初めてです。これは、イエスが最後の晩餐で弟子たちに杯を回した際に使ったのと同じ表現です(マタイ26:28)。旧約では、血は民に振りかけられただけでした。新約では、イエスは私たちに杯を飲むように招いておられます。これは、旧約では律法は、人の外面的な生活だけを清めましたが、新約のもとでは、内面から清められることを象徴しています。

 繰り返しますが、この契約は死を通して結ばれます。ヘブル9:13から22では、雄牛の血とキリストの血のこの対比が強調されています。そして、そこには「契約があれば、必ずそれを結んだ者の死が伴わなければなりません。…それを結んだ者が生きている限り、それは効力を持ちません」(16節と17節)と記されています。だからこそ、神が人と結ばれたあらゆる契約の象徴は、すべて死を象徴しているのです。

 イエスが私たちと新しい契約を結ぶことができた唯一の方法は、ご自身の死を通してでした。そして、私たちがその契約と特権に入る唯一の方法は、私たち自身の死を通してです。これが、「パンを裂く」時にパンを食べ、ぶどう酒を飲むことの意味なのです。

 ヘブル13:20には、神が永遠の契約の血によってイエスを死からよみがえらせたと記されています。これはどういう意味でしょうか。カルバリの十字架上でイエスが流された血は、死に至るまで罪に抵抗した結果として流されたのです(ヘブル12:4)。イエスは父に従い、決して罪を犯さないと決意されました。父に対するイエスの態度は、「父よ、小さなことでもあなたに背くくらいなら、むしろ死んだほうがましです」(ピリピ2:8「死に至るまで従順」参照)というものでした。これがイエスと父との契約でした。

 今、イエスは私たちを、この新しい契約の血である杯を飲むよう、ご自身の食卓に招いておられます。私たちは喜んでそうするでしょうか。イエスが飲まれた杯を、私たちも飲むことができるでしょうか。使徒パウロのように、「(私たちも)死人の中からの復活に達するために、イエスの死と同じ苦しみを受けたい」と願っているでしょうか(ピリピ3:10, 11)

 ほとんどの信仰者は、主の食卓に軽々しく臨みます。それが何を意味するのか、また契約とは一体何なのかを全く理解していないからです。

 血に至るまで罪と闘う決意を持つ者だけが、主の食卓にふさわしく参加できるのです。

 「契約」という言葉は、法廷で署名される厳粛な契約にたとえることができます。法廷で契約書に署名する人は、契約内容を注意深く読み署名するのであって、理解しないまま署名する人はいません。しかし、信仰者たちはなんと軽々しく主の食卓のパンとぶどう酒に臨むのでしょう。1コリント11:30のように、今日でも多くの信仰者が弱り(肉体的にも霊的にも)、病気になり(肉体的にも霊的にも)、そして神の定められた時よりも早く亡くなる人もいます。(1コリント11:30)それはすべて、軽々しく主の食卓に臨むためです。

 レビ記 26:14-20で、神はイスラエル人に、もし神と契約を結び、それを破るならば、彼らは病気にかかり、敗北し、労働も事業も利益を生まないでしょう。

 契約を破ることは重大なことです。

「​​神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。…神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことを果たせ。

誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。」(伝道の書 5:2-5)

 病気や衰弱に繰り返し悩まされている人は、神との契約を軽率に破っていないか、よく考えてみるべきです。だからこそヤコブは、癒されるためには罪を告白するようにと教えているのです(ヤコブ 5:16)。

 私たちが裂くパンはキリストのからだを象徴しています。まず第一に、イエスが地上に来られた際に着られた肉体を象徴しています。イエスは、その肉体において、決してご自身の意志ではなく、父の御心のみこころを行われました(ヘブル10:5-7参照)。イエスのからだは、少しでも触れると簡単に砕けてしまうパンのようでしたが、世での生涯を通して、彼は砕かれ従順でした。

 これほどまでに、イエスはあらゆる点で父の御心にどこまでも従われました。私たちがパンを裂き、それをいただく時、私たちは厳粛に、同じように従順で砕かれた道を歩みたいという私たちの願いを証ししているのです。

 ですから、主の食卓で主にそう言いながら、まるで神と契約を結んだことがないかのように生きるのは、深刻なことです。私たちは、完全である必要はありませんが、主は、最も新しい信仰者であっても、自己に対して死の道を選び、もはや自分のためでなく神のために生きることを望んでおられます。(2コリント5:15)そうでなければ、私たちは主のからだを正しく理解せず、ふさわしくないままパンにあずかることになります。

兄弟間における契約関係

 私たちが裂くパンは、キリストの肉体だけでなく、キリストのからだである教会も象徴しています(1コリント 10:16, 17)。なぜなら、パンは一つであり、私たちは大勢いますが、「一つの体」だからです。

「供え物を食べる者は、祭壇にあずかる」と聖句にあります(1コリント10:18)。主の食卓で食事をするなら、私たちは十字架(祭壇)での主の死、すなわち自分自身の死にあずかることになります。これは、神との関係だけでなく、キリストのからだである他の人々との関係においても当てはまります。

「私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(1ヨハネ 3:16)。

 これは、主の食卓における私たちの証しのもう一つの側面です。私たちは主と契約を結ぶだけでなく、仲間の信仰者とも契約を結びます。ここでも、契約は自己の死を通して結ばれます。

 イスラエルで契約を結ぶ二人が、屠られた(「砕かれた」)子牛の二つの半分の間を通ったように、今日も私たちは裂かれたパンを通して互いに契約を結びます。これは、先ほど考察した神との契約という最初の側面と同じくらい重大なことです。

 1サムエル18:1-8には、ヨナタンがダビデと契約を結んだことが記されています。これは、キリストのからだにおける契約関係がどうあるべきかを示す美しい描写です。

 ヨナタンの魂はダビデの魂と結びついたと書かれています。ここで使われている「結びつく」という言葉は、ネヘミヤ4:6で使われている言葉と同じです。ネヘミヤ4:6では、城壁が全く隙間のないほどに築かれたことを示しています。同様に、ヨナタンの心はダビデの心と結びついていました。二人の心の間には、敵が通り抜ける隙間はありませんでした

 。さらに、ヨナタンはダビデを自分自身のように愛していたと書かれています。これはキリストのからだにおける私たちの召命でもあります。一つに結ばれ、私たちの間に隙間(誤解、嫉妬、疑念などの隙間)がなく、敵が入り込んで分裂をもたらすことのないようにすることです。

 ヨナタンはイスラエルの中でダビデに最も嫉妬するべき人物でした。なぜなら、ダビデは、サウルの後を継いでイスラエルの次の王となるヨナタンにとって脅威だったからです。しかし、彼は嫉妬を克服し、ダビデを自分のように愛しました。ヨナタンの生き方を見て、新約の信仰者たちはどれほど恥いることでしょうか。

 そしてヨナタンはダビデと契約を結びました。そして、契約の象徴として、自分の王衣を脱いでダビデに着せました。これは、イスラエルの次の王として自分自身を捨て、ダビデを王にするというヨナタンの願いを象徴していました。

 キリストのからだにおいて、私たちは「互いに尊敬し合いなさい」(ローマ12:10 - 欄外)ように命じられています。私たちは自分自身を捨てて、兄弟たちが自分よりも偉大で、高く、尊敬されるようになることを心から切に願います。そして、兄弟の裸が見られる時はいつでも、必要であれば衣を着けて覆います。こうして、兄弟を他の人々の目に輝かせることができるのです。

 これが、キリストのからだである兄弟たちと契約関係を結ぶことの意味です。

自己を絶えず捨てることなく、このような契約を結ぶことは不可能です。ほとんどすべての信仰者の集会を悩ませるすべての問題は、彼らが互いにこのような契約関係を結んでいないために生じます。誰もが自分の利益を求めます。その結果、サタンが勝利するのです。しかし、そのような集会は、イエスが建てておられる教会ではありません。イエスは、地獄の門も、ご自身が建てておられる教会に打ち勝つことはできないと言われたからです(マタイ16:18)。

 イエスは今日、この世にご自身の教会を建てておられます。私たちがその教会の一員となり、その教会の建設に携わるなら、契約関係を心に留め、兄弟を栄光に輝かせるとはどういうことかを心から学ぶよう努めなければなりません。

 そして、ヨナタンも自分の武具、剣、弓、帯を取り、ダビデに与えたと記されています。兄弟との契約において、私たちは彼らにいかなる形であれ害を及ぼす可能性のあるあらゆる武器を放棄します。これがヨナタンの行動の意味です。

 キリスト教界において最大の被害をもたらしてきた武器は舌です。私たちは兄弟との契約関係において、この武器を捨て、二度と悪口を言ったり、陰口を言ったり、噂話をしたりしない覚悟ができているでしょうか。この武器の放棄は、兄弟への信頼も意味します。兄弟が私たちを傷つけることは決してないと知っているので、私たちは兄弟の前で無防備でいられるのです。このような信頼と確信を通して、兄弟愛が築かれるのです。

 1サムエル19章20章には、ヨナタンが実の父に反抗するという犠牲を払ってでも、ダビデへの揺るぎない忠誠を貫いたことが記されています。ヨナタンは肉親の前でも兄弟ダビデの側に立っていました。真に彼は私たち皆が従うべき立派な模範です。私たちは兄弟愛を血縁者よりも愛すべきです。

 アモス1:9、10には、神が兄弟愛の契約を破ることをいかに深刻に受け止めていたかが示されています。ツロはヒラムの時代にイスラエルと契約を結んでいました。しかし、イスラエルが窮地に陥った時、彼らはイスラエルを裏切り、敵に引き渡し、結んだ契約を破ってしまいました。神はアモスに、このことに対してツロを厳しく裁くと告げられました。

 2サムエル21:1、2には、このことに関するもう一つの例が記されています。イスラエルでは3年間飢饉が続きました。ダビデが主にその原因を尋ねると、主はイスラエルがヨシュアの時代に、ギブオン人と結んだ契約を破ったためだと告げられました。

 サウル王は、その厳粛な契約を無視してギブオン人を殺したのです。サウル王の死後、ずっと後になってから、イスラエルに裁きが下りました。神は裁きを遅らせることもありますが、悔い改めが見られない場合は必ず裁きが下ります。なぜ神は飢饉をそれほど遅らせたのかと疑問に思う人もいるかもしれません。それは間違いなく、イスラエルに悔い改める時間をお与えになったからでしょう。彼らが悔い改めなかったので、裁きは彼らに下りました。

 パウロはコリント人に対し、もし彼らが自分自身を裁くなら、神は彼らを裁かないだろうと言いました。しかし、彼らが自分自身を裁かなかったため、多くの人が病気になり、弱り、多くの人が早死にしました(1コリント11:30、 31)

 絶えず弱り、病んでいるすべての信仰者は、その原因が兄弟愛の契約の破り、つまり主の食卓にあずかりながら、兄弟姉妹を陰口などで裏切ったことにあるのではないかと、神に問いかけるべきです。イスカリオテのユダの最大の罪は、イエスとの契約の食事にあずかりながら、出て行ってイエスを裏切ったことでした。詩篇作者はこう預言しました。

「 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(詩篇41:9)。

 主が私たち一人一人に、自分自身を省み、将来、主の食卓に意義深くあずかることができるようにしてくださいますように。主と兄弟姉妹との契約を破った罪を心から悔い改め、私たちに臨む御霊の声に耳を傾けましょう。

 章 22
教会と患難

エペソ3:10には、新約において、神は教会を通して天の支配者と権威者たちにご自身の知恵を現したいと願っておられると記されています。エペソ6:12から、天の支配者と権威者たちとは、第二の天に住むサタンとその邪悪な軍勢であることがわかります(彼らは神が住まわれる第三の天から落とされて以来、そこに住んでいます。2コリント12:2)。

 私たちはすべての人に対してキリストの証人となるべきであることを知っています。しかし、ここでは悪霊たちに対しても証しをしなければならないと言われています。これはどのような証しでしょうか。それは神の知恵の証しです(エペソ3:10)。

 それは、神が私たちの人生におけるすべてのことを、その完全な知恵に従って整えてくださったという、霊の喜びに満ちた告白です。それは、上からの知恵にあずかった人生の証しです。

 この書の中で、ヨブ記には、ヨブがその生き方によってサタンに証しを与えたことが記されています。サタンが地上を巡り巡った後、神の前に現れた時、神はヨブの生き方の正しさを見たかと尋ねました(ヨブ記 1:8)。サタンは、神がヨブの周りに張られた三つの垣根のゆえに、ヨブは神を畏れていると答えました。サタンは、ヨブの身の周りに一つの垣根、ヨブの家族の周りにもう一つの垣根、そしてヨブの所有物の周りにもう一つの垣根があることを知っていました(10節)。

 多くの信仰者は、神がイエスの弟子たちの周りに張られたこの三つの垣根について知りません。ルカ 14:26-33に記されている弟子としての三つの条件を満たす者は、神が主に委ねられたそれぞれの領域、すなわち所有物、愛する人、そして自分自身の命の周りに垣根を張られることを知るでしょう。

 しかし、神はヨブの周りの垣根を一つ一つ開き、サタンがそれらを通り抜けてヨブの所有物、愛する人々、そして体を攻撃できるようにしたと書かれています。これは、神がヨブの人格をサタンに示すためでした。

 このことから、サタンは神の許しを得なければ、イエスの弟子やその持ち物に触れることができないことがわかります。これは私たちがしっかりと理解すべき非常に重要な真理であり、これからの時代には、この必要性がさらに増すでしょう。

 イエス・キリストの真の教会は、初期の世紀と同様に、これからの時代にも苦難を受けるでしょう。その時が来る前に、私たちはまずこの真理をしっかりと理解しなければなりません。すなわち、イエスの心からの弟子たちの周りには三重の垣根があり、神ご自身がその垣根を開き、サタンに許さない限り、誰も通り抜けることはできないということです。

 ヨブから学べるもう一つの教訓は、愛する人や敬虔なクリスチャンが私たちを批判し、非難するということです。ヨブの場合、彼の妻と三人の宗教指導者(エリファズ、ビルダデ、ツォファル)は彼を誤解し、批判しました。それも神によって許されたことです。私たちの愛する人は私たちの敵となり、宗教家たちは私たちを誤解し、批判するでしょう。なぜなら、神は垣根を開き、彼らにそうすることを許されたからです。

 ヨブはへりくだり、​​「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記 1:21)と言いました。

 彼は真の弟子でした。彼は何も所有していませんでした。彼は自分が所有するものはすべて主の正当な所有物であり、主は奪い去るのと同じくらい、与える権利も持っていることを認識していました。弟子でない人は、祝福を神から与えられることだけを考えます。弟子である人は、神が奪い去ることも、同じくらい、あるいはそれ以上の祝福であることを認識しています。こうして、私たちは自分が弟子であるかどうかを知ることができるのです。

 悲しいことに、ヨブはこの大胆な告白を最後まで耐え抜くことができませんでした。しばらくすると、彼は試練の絶え間ない圧力に耐えかねて弱り果て、神に不平を言い始めました。3章から31章にかけて、ヨブの浮き沈みのある、悲しい光景が描かれています。ある時は信仰告白において大きな高みに達し、ある時は絶望の淵に沈み、不平を言い、自己正当化に陥りました。これは旧約の民の経験です。

 しかし今、神は新約において、より良いものを約束してくださいました。ヘブル11:40に記されているように。ヘブル12:1~13に続く箇所で、最後まで勝利のうちに耐え抜いたイエスに従うことができるとあります。

 今日、私たちはヨブに従う者ではなく、イエスに従う者です。そして、どんな試練が与えられようとも、神の恵みの力によって、最後まで勝利者となり、サタンに対して証人となることができるのです。私たちはヨブを批判することはできません。なぜなら、彼は、恵みが来ず、聖霊が与えられず、新約が確立されていなかった時代に生きました。彼の時代の限界を考慮すると、ヨブの生き方は素晴らしいものであり、 神は彼を三度称賛するほどでした。(ヨブ 1:8、2:3、42:7)。

 しかし、私たちは、信仰の創始者であり完成者であるイエスに従うことができるのです。 イエスは苦しみの"大学"を通過し、そこで完全な従順の"証明書"を得ました。そして今、彼は同じ大学の"教授"となり、入学を希望するすべての人に従順を教えています(ヘブル 5:8、9)。

 ここには、旧約の「汝は~しなければならない」という強制はありません。聖霊と花嫁はこう言います。「さあ、この大学に入りなさい」。この大学に入らない者は、弟子になることはできません。なぜなら、ここが弟子が訓練される唯一の場所だからです。イエスは弟子たちに、この世では苦難に遭うことをはっきりと告げました。しかし、彼らはそれを恐れてはいませんでした。なぜなら、イエスは既に世とその支配者に打ち勝ったからです。ですから、彼らも勝利者となることができたのです(ヨハネ16:33)。

 今日、イエスを崇拝する人は多くいますが、弟子はわずかです。イエスは人々に自分を崇拝するよう呼びかけたのではなく、ただ従うよう呼びかけたのです。もし私たちがイエスに従うなら、もはやこの世に属する者ではなくなります。そうなれば、世は必ず私たちを憎むでしょう。

 イエスは、世は世に属する者だけを愛すると言われました(ヨハネ15:19)。私たちがイエスの弟子であることの明白で紛れもない特徴の一つは、世が私たちを憎むことです。『もし人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害します。』とイエスは言われました(ヨハネ15:20)。

 イエスの弟子の二つ目の明白な特徴は、自分たちを憎み迫害する者を愛することです(マタイ5:44-48)。これら二つの特徴によって、神の真理を聞く耳を持つ人は皆、自分自身の立場を吟味し、自分自身に関する真理を知ることができます。

 もしあなたが世俗的な人々や、(心からの弟子ではない)宗教的なクリスチャンに人気があるなら、あなたは間違いなく妥協者です。もしかしたら、あなたは回心していないのかもしれません。

 なぜ世はイエスを憎んだのでしょうか。イエスが税金を払い、人々の足を洗ったからでも、聖なる生活を送ったからでもありません。世がイエスを憎んだのは、イエスが世の偽善を暴露したからです。また、神の民の間にある非聖書的な伝統も暴露しました。ですから、「長老たちの伝統」を守ろうとした人々もイエスを憎んだのです。

 もし私たちがイエスのように語るなら、私たちも同じ運命を辿るでしょう。もし私たちが人々や宗教的長老たちの名誉を求めるなら、私たちはただ黙り、人気を保ち続けるでしょう。私たちはそれぞれ自分の歩みたい道を選ぶことができます。

 黙示録12章には、サタンが特定の人々に対して激怒したことが記されています。そこでは、サタンがまず、女(イスラエル)がこの世に産み落とした男の子(イエス・キリスト)を食い尽くそうとしたことが記されています。サタンは成功しませんでした。そこで男の子は成長し、その使命を終えて神の御座に昇りました(黙示録 12:4、5)。

 サタンの怒りは今、この男の子の弟たちに向けられています。彼らは「神の戒めを守り、イエスの証しを固く守る者」として描かれています(黙示録12:17 b)。彼らはイエスの弟子であり、彼らの人生は、神の戒めへの完全な従順を特徴とし、イエスの証しを大胆に固く守る者たちです。彼らは口を開き、イエスご自身が証しされたすべてのことについて語ります。これが「イエスの証し」です。

 今日、地上にこのような者はほとんどいません。なぜなら、神の戒めへの完全な従順を説く教会は世界中にほとんどないからです。

 黙示録12章は、この時代の終わりの日に、イエスが再臨される直前の最後の3年半の間、サタンが第二の天から地上に投げ落とされることを示しています(9節)。その時、地上には神の戒めを守り、イエスの証しを大胆に行い、サタンに打ち勝った者たちがいます(11節)。彼らは神の「コマンドー」、つまり地上における神の軍隊の精鋭部隊です。

 彼らの中にいることは、この上ない特権であり、栄誉です。彼らのほとんどは、イエスのために肉体の命を捧げなければなりません。黙示録13:7は、反キリストが神によってイエスの弟子たちを殺すことを許されることを明確に示しています。しかし、垣根を開けるのは神であることを忘れないでください。そうでなければ、誰も私たちに触れることはできません。だからこそ、私たちは恐れないのです。

 ヨブはこう言いました。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。」(ヨブ23:10)。新約の下では、私たちはさらに一歩進んで、「神は私のことをことごとく計画しておられる」と言えるでしょう。これはローマ8:28の明白な意味です。また、そのような時でさえ、神は忠実な方なので、私たちが自分の能力を超えた試練を受けることを決してお許しにならないことも事実です。あらゆる試練において、神は私たちが克服し、罪を犯し神を否定することから逃れる道を備えてくださいます(1コリント 10:13)。 その時でさえ、神の恵みは十分であることが証明されます(2コリント 12:9)。そうでなければ、私たちは誰も耐えることができません。その日に立ち向かうのは、生まれつき勇敢

な者ではなく、生まれつき恐れを抱き、主に頼って力づけられる者です。

 それは、反キリストが支配する大艱難の時代です。しかしイエスは、神がその期間を「選民のため」に限定されたと言われました(マタイ 24:21, 22)。ですから、神の選民(教会)は明らかにその時地上にいて、主のために証しをしているでしょう。大艱難の後すぐに、人の子は天に現れ、大きなラッパとともに御使いたちを遣わし、選民たちを集める(マタイ24:29-31)とイエスは言われました。

 イエスがここで言及したラッパとは、1テサロニケ 4:16、17に述べられているラッパのことです。その時、キリストにあって死んだ者たちは復活し、イエスの生きた弟子たちと共に携挙されて空中で主と会うのです。イエスは、教会(選民)がこの携挙を経験するのは大艱難時代の後であることを明らかにされました。そして私たちは、主の再臨の時に空中で主を迎え、主と共に地上に戻り、千年間主と共に統治するのです。

 神の御言葉は、誰がキリストと共に千年間統治するかを明確に示しています。それは「獣とその像を拝まず、額と手に刻印を受けなかった者たち」(黙示録20:4)です。これは、勝利者(キリストの花嫁)が反キリストの統治の間、地上で主に忠実に立つことを明確に示しています。

 艱難時代は、教会に対して、サタンに唆され仕向けられた人々から来るものです。これは、不信心な者たちに与えられる神の怒りとは区別されなければなりません。私たちは神の怒りに直面するのではなく、私たちは必ず人々から大きな苦難を受けるでしょう。旧約の下で神の民が得た祝福は繁栄と安楽でした。新約の下では逆境、つまり苦しみと苦難です。

 イエスは死に直面した時、「父よ、この時から私をお救いください」とは言われず、「父よ、御名の栄光を現してください」と言われました(ヨハネ12:27, 28)。娼婦の歌は「父よ、苦難から私をお救いください」です。花嫁の歌は「父よ、御名の栄光を現してください」です。「患難さえも喜んでいます。」「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」(ローマ5:3; 使徒14:22)

 イエスは父なる神に、私たちがこの世から取り去られるのではなく、罪から守られるように(ヨハネ17:15)と祈られました。イエスは、花嫁が苦難から逃れるために携挙されることを決して望んでいませんでした。

 約150年前、キリスト教界に新しい教義が生まれました(使徒の時代には考えられていなかったことです)。それは、キリストが密かに来られ、すべての信仰者を連れ去って、彼らが大きな苦しみ、患難に直面しなくて済むようにするというものです。

 この教義は、人々からの迫害が神からの罰であるかのような印象を与えました。当然のことながら、この教義は、キリスト教徒が迫害されていた国々ではなく、何世紀にもわたってキリスト教徒への迫害を経験していなかった西洋の国で生まれました。そして、多くの人々によって聖書はこの教義に合うように歪曲されました。こうしてサタンは、キリスト教徒を偽りの慰めに陥れ、患難が実際に彼らに降りかかった時に備えができない状態にすることに成功したのです。

 ほとんどのクリスチャンの祈りは基本的に「主よ、地上での生活をもっと楽にしてください」というものです。ですから、世界中の多くのクリスチャンが苦難を逃れるというこの教えを喜んで受け入れたのも、全く驚くべきことではありません。しかし、イエスの教えを深く理解した人々は、迫害や苦難を逃れることに何の美徳もないことをはっきりと理解しています。それどころか、イエスは弟子たちに、この世で苦難と迫害に直面することを繰り返し告げていました。

 キリストは真摯な者を奪い去り、中途半端な者は反キリストに直面させられると教える人もいます。これは、迫害を逃れることが、忠実な者に与える報いであるかのように示唆しています。分別のある軍の隊長なら、二流の兵士を戦場に送り、一流の兵士を国内に留めておくようなことはしないでしょう。神が彼らの証しを最も必要としている時に、神が最も精鋭の兵士を地上から奪い去るなど、想像もできません。

 聖書から明らかなように、反キリストに反対する者たちは「神の戒めを守り、イエスの証しを保っている者」(黙示録12:17)です。彼らは決して中途半端な者ではありません。むしろ、勝利者であり、その名はいのちの書に記されています(黙示録13:8、2:5)。

 サタンは中途半端なクリスチャンではなく、心からのクリスチャンに激怒します。今日、サタンは神の戒めへの完全な従順を説く者たちに激怒しています。彼の主な標的は、神の戒めのすべてに従い、他の人々にもそのような従順を説き、教える者たちです。だからこそ、パウロはすべての信仰者に、自分のために祈るよう熱心に求めたのです。彼は自分がサタンの主要な標的の一人であることを知っていたからです。私たちも今日、神への完全な従順を説く者たちが守られるように、彼らのために祈らなければなりません。

 最初の3世紀、キリスト教徒に対する激しい迫害が激しかった時代、神は彼らを苦難から救い出しませんでした。彼らはライオンに食べられ、火あぶりにされました。イエスの弟子たちが殺されたローマの闘技場では、神秘の携挙は起こりませんでした。

 ダニエルの時代にライオンの口を閉ざし、燃える炉の力を取り除いた神は、最初の3世紀における、イエスの心からの弟子たちにはそのような奇跡を起こされませんでした。彼らは火の中で神に栄光を帰すべき、新約のクリスチャンだったからです。イエスが来られる前の最後の世紀におけるイエスの弟子たちにも同じことが起こります。

 神のトップクラスの軍隊は、最初の世紀において、最後の最後まで神に忠実に従いました。彼らは十二軍団の天使が来て自分たちを連れ去ることを求めたり、期待したりしませんでした。神は御子の花嫁がライオンに引き裂かれ、火あぶりにされるのを見守り、彼女たちの証しによって栄光をお受けになりました。彼女たちは小羊の行く所にはどこへでも、暴力的な肉体の死に至るまで従ったからです。

 イエスが彼らに語った唯一の言葉は、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、命の冠を与えよう」でした。これは、イエスが今私たちにも語っておられることです。

 しかし、将来の反キリストの時代に忠実であるためには、今日私たちが直面する小さな誘惑や試練において忠実であることを学ばなければなりません。だからこそ、私生活において、つまり、人の目には見えない場所、考え、態度、動機、金銭問題などで誘惑される時に、忠実であることを学ぶことが不可欠なのです。これらは小さなことですが、小さなことに忠実であるならば、いつの日か大きなことにも忠実になれます。小さなことに不忠実であれば、苦難の日にも主に不忠実になるでしょう。

 今、人と走ることができないなら、その時どうして馬と走れるでしょうか。平穏な時に忠実でないなら、苦難の時にどうして忠実でいられるでしょうか。(エレミヤ書 12:5)神は今日、私たちを訓練し、間もなく来る未来のその日に神の精鋭部隊となるよう望んでおられます。

 章 23
私たちが信じる真理

聖書は、私たち自身と私たちの教えに細心の注意を払うように命じています。そうして初めて、私たち自身と、私たちが説教する人々の救いを確かなものにすることができるからです(1テモテ4:16)。

 私たちの生き方と教義は、クリスチャン生活に安定をもたらす2本の脚のようなものです。両脚は同じ長さですが、一般的にキリスト教界では、ほとんどの信仰者がこの2本の「脚」のどちらか一方を過度に重視していることが見られます。

 教義に関しては、「真理の言葉を正確に扱う」ように命じられています(2テモテ 2:15)。多くの人は聖書の学びに不注意で、教義の理解が偏っています。

 神の真理は人体のようなものです。人体は、すべての部分が正しい大きさにあるときのみ完全です。聖書のすべての真理が同じように重要なわけではありません。

 一つだけ例を挙げましょう。異言を話すことは、他の信仰者を愛することほど重要ではありません。もし一つの教義が他の教義を犠牲にして過度に強調されるならば、私たちが宣べ伝える真理は、特大の目や耳を持つ体になってしまいます。 さらに、そのような過度の強調は、私たちの信仰を異端に導くことにもなります。それゆえ、神の真理を正確に扱うことが重要です。

 もし私たちが、神の言葉(聖書を構成する66巻)に記された真理を信じていると言えば、話は簡単です。しかし、神の御言葉の真理はサタンと人間の狡猾さによって歪められてきたため、聖書が正確に何を教えているのかを詳しく説明することが必要になりました。

 神の御言葉は、数学や科学とは異なり、聖霊の啓示なしには、単なる知的な研究だけでは理解できません。イエスは、この啓示は幼子(謙虚な者)にのみ与えられ、高慢な知識人には与えられないと言われました(マタイ11:25)。だからこそ、イエスの時代の聖書学者たちは、イエスの教えを理解できなかったのです。今日の聖書学者のほとんども同じ状況にあり、その理由も同じです。

 同時に、私たちも知性を働かせなければなりません。なぜなら、私たちは「理解力において成熟する」ように命じられているからです。(1コリント14:20)

 ですから、聖霊に完全に従順な心だけが神の言葉を正しく理解できるのです。

 神はすべての神の子たちが、あらゆる面で完全に自由になることを望んでおられます。しかし、多くの信仰者は多くの罪深い習慣や人間の伝統に縛られています。その理由の一つは、彼らが神の御言葉をあまりにも不注意に読んでいることです。

 神の御言葉を理解することに熱心であればあるほど、真理は人生のあらゆる面で私たちを自由にしてくれます(ヨハネ8:32参照)。

 ほとんどの信仰者は、お金の投資には非常に慎重です。しかし、聖書の学びとなると、非常に不注意です。これは、彼らが神よりもお金を重視していることを示しています。そのような信仰者は、明らかに神の御言葉の理解において誤った道を歩んでしまうでしょう。

 聖書はすべて私たちを「完全」にするために与えられたと、私たちは明確に教えられています(2テモテ3:16, 17 - KJV聖書)。ですから、クリスチャンとしての完全さに関心を持たない人は、神の御言葉も理解できないと言えるでしょう。神の御言葉を正しく理解すること(ヨハネ7:17も参照)。主を恐れることは知恵の初めです。神は、主を恐れる者にのみ、その秘密を明らかにされます(詩篇 25:14)

  神に関する真理

 聖書は、神は唯一であり、またこの唯一の神には三位一体があると教えています。

 数は物質世界に属し、神は霊であるため、私たちの有限の知性では、小さなカップに海の水を入れることができないのと同じように、この真理を完全に理解することはできません。

 犬は掛け算を理解できません。三つの1を掛け合わせても、なぜ一つになるのか、1x1x1=1。私たちも、神が三位一体でありながら唯一の神であることを理解できません。犬は犬同士のことを理解できても、人間を完全に理解することはできません。同様に、私たち人間の理性で説明し理解できる神は、あくまで私たちが思う神にすぎません。

 聖書の神が、私たちの理性を超越しているという事実自体が、この真理を示す最も明確な証拠です。

 三位一体の真理は、聖書の最初の節から明らかです。そこでは、「神」はヘブライ語で複数形である「エロヒム」です。また、創世記1:26の「私たち」や「私たちの」という言葉にもそれが見られます。

 イエスの洗礼において、光はより明確に焦点を合わせられます。そこには父(天からの声)、子(イエス・キリスト)、そして聖霊(鳩の姿で)が共に臨在されます(マタイ3:16, 17)。

 イエスご自身が父、子、聖霊であると主張する人々は、イエスがどのようにして地上において父の御心を成就しながら、ご自身の意思を否定できたのかを説明できません(ヨハネ6:38)。神は唯一の位格であると信じ、「イエスのみ」の御名によって洗礼を行うユニテリアン主義の人々は、実際にはイエスが人として来られたことを否定しているのです。

 聖書は、正しい教えを持つ者は父と子の両方を持ち、父と子のどちらかを否定する者は反キリストの霊を持つと述べています(2ヨハネ 9章、1ヨハネ 2:22)。

 キリスト教の洗礼において、イエスは私たちに、父、子、聖霊の三位一体の御名によって洗礼を施すよう明確に命じられました(マタイ 28:19)。そして、子は主イエス・キリストであるとあります。(使徒 2:38)

キリストに関する真理

 聖書は、イエス・キリストが神として存在し、永遠の昔から神と同等であったこと(ヨハネ 1:1)と教えています。そして、人間として地上に来られたとき、神として持っていた力の一部を行使しないことを自ら選択されました。これが、「ご自身を無にされた」(ピリピ 2:6、7)という表現の意味です。

 これを証明するいくつかの例を考えてみましょう。神は悪に誘惑されることはありません(ヤコブ 1:13)。しかしイエスは誘惑に身を委ねられました(マタイ4:1-10)。神はすべてをご存知です。しかし、地上にいた時、イエスはご自身の再臨の日付を知らないと言われました(マタイ24:36)。また、実があるかどうか見ようと、いちじくの木に近づいて行かれました(マタイ21:19)。もしイエスが神としての力を行使していたなら、木に実がないことが遠くからでも分かったはずです。神の知恵は不変であり永遠です。しかし、私たちの主イエスについて、「彼は知恵が増した」と二度記されています(ルカ 2:40、52)。

 これらの聖句はすべて、イエスが地上に来られた時、神の力の多くを「空にした」ことを示しています。

 しかし、それにもかかわらず、ご自分の人格においては依然として神でした。明らかに、たとえ神がそう望んだとしても、神であることをやめることはできません。王は王としての権利を放棄してスラム街に住むことができます。しかし、それでも彼は依然として王です。イエスも同じです。

 地上にいたときのイエスの神性に関する最も明確な証拠は、イエスが他の人々からの崇拝を受け入れた7つの記録された例に見られます(マタイ 8:2、9:18、14:33、15:25、20:20、マルコ5:6; ヨハネ9:38)。天使や神を敬う人々は礼拝を受け入れません(使徒10:25, 26; 黙示録22:8, 9)。しかし、イエスはそれを受け入れました。なぜなら、イエスは神の子だったからです。父なる神はペテロに、イエスが「地上にいる間も」神の子であることを明らかにされました(マタイ16:16, 17)。

 イエスの人間性について、ヘブル2:17は、イエスが「すべての点で兄弟たちと同じになられた」と述べています。イエスはアダムの子孫のようには作られませんでした。もしそうだったならば、イエスに他の人類と同じような「古い人」があったことでしょう。(「古い人」とは聖書の言葉ですが、残念ながら多くの人が「罪の性質」の非聖書的な表現に、この古い人という言葉を使っています。)

 イエスは罪の性質を持っていませんでした。なぜなら、イエスには人間の父親がいなかったからです。イエスは聖霊によって生まれ、受胎の時から聖なる存在でした(ルカ1:35)。

 イエスの霊的な兄弟とは、神の御心を行う者(マタイ12:49, 50)であり、御霊によって生まれ(ヨハネ3:5)、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着た者(エペソ4:22, 24)です。しかし、イエスの兄弟である私たちには、自分の意志がありますが、イエスは「すべての点で」私たちと同じようになられたので、イエスにもご自身の意志がありましたが、それを否定されました(ヨハネ6:38)。

 アダムの子として生まれた時、私たちには、古い人がありました。この古い人は、私たちの心の扉を、肉の欲望(強盗団に例えることができます)に開いてしまいます。肉の欲望は、私たちの心の扉に入り込もうとするものです。私たちが新しく生まれる時、この古い人は神によって殺されます(ローマ 6:6)。しかし、私たちは依然として肉を持ち、それを通して誘惑されます(ヤコブ1:14, 15)。古い人は今や新しい人に置き換えられ、肉の欲望に抵抗し、この「強盗団」に対して心の扉を閉ざそうとします。

 イエスは私たちと同じようにあらゆる点で誘惑され、そしてそれを克服されました(ヘブル 4:15)。しかし、イエスは「罪深い肉」ではなく、「罪深い肉の姿」で来られたのです(ローマ 8:3)。私たちは長年罪の中で生きてきました。

 私たちが罪深い習慣を身につけたことで、長年にわたる罪は、私たちが新しく生まれ変わった後も、無意識のうちに罪を犯してしまう原因となります。

 例えば、過去に多くの汚い言葉を使った人は、プレッシャーを感じると無意識のうちにそのような言葉が口から出てしまうかもしれません。一方、改宗する前は汚い言葉を一度も使ったことがない人は、無意識のうちにそのような言葉を使うことはありません。同様に、ポルノグラフィーをたくさん目にしてきた人は、それほどまでに耽溺しなかった人よりも、卑猥な考えや夢に悩まされることが多いことに気づきます。

 イエスは決して罪を犯さず、その生涯において無意識の罪も犯しませんでした。もしイエスが一度でも無意識のうちに罪を犯したなら、その罪のために犠牲を捧げなければならなかったでしょう(レビ4:27、28)。そうであれば、イエスは私たちの罪のための完全な犠牲となることはできなかったでしょう。

 イエスの人格に関する教義は、教会の歴史を通して論争の的となり、多くの異端が宣言されてきました。中にはイエスの神性を過度に強調し、彼らは、イエスが私たちと全く同じように誘惑された人間であることを認めることができません。他の人々はイエスの人間性を強調しすぎて、イエスの神性を消し去ってしまいました。

 ​​これらの異端を避ける唯一の方法は、聖書における神の啓示全体に固く立ちつつ、止まるところで止まる、そうしなければ、「行き過ぎ」てしまうでしょう(2ヨハネ 7, 9)。

 イエスが人間として地上に来られたことは神秘です。聖書に記されている以上の真理を分析しようとするのは愚かなことです。そうすることは、イスラエル人が神の箱(キリストの型)を好奇心から覗き込んだのと同じくらい愚かで不敬な行為です。神は彼らを打ち倒しました(1サムエル6:19)。

 イエスは、ご自身の意志を否定し、父のみこころを行うために地上に来られたと言われました(ヨハネ 6:38)。これは、イエスが父のみこころに反する人間の意志を持っていたことを示しています(マタイ 26:39)。そうでなければ、イエスはご自分の意志を否定する必要はなかったでしょう。

 イエスもまた、私たちと全く同じように、あらゆる点で誘惑されました(ヘブル4:15)。イエスはそれらの誘惑に決して心の中で同意しなかったので、罪を犯しませんでした。(ヤコブ1:15)。

 ​​ 私たちが直面するあらゆる誘惑は、主イエスが地上での生涯において直面し、克服されました。

 私たちは皆、一日たりとも罪を犯さずに生きることがどれほど難しいかを知っています。ですから、イエスが成し遂げた最大の奇跡は、私たちと全く同じように日々、あらゆる点で誘惑されたにもかかわらず、33年以上も罪を犯さずに生きられたことだったと言えるでしょう。イエスは死に至るまで罪に抵抗し、大声で叫び、涙を流して父なる神から恵みを求めたのです(ヘブル5:7、12:3、4)。

 私たちの先駆者であるイエスは今、十字架を背負い、自分の意志を死に至らしめるという模範に従うよう、私たちを召しておられます(ルカ 9:23)。

 私たちが罪に陥るのは、罪に真剣に抵抗せず、克服するための恵みを父なる神に求めないからです。今日、私たちはイエスの生涯の外面的な側面、つまり大工や独身者といった姿や、水上を歩いたり死者を蘇らせたりするといった宣教活動において従うように求められているのではありません。罪を克服されたイエスのように、私たちも忠実であり続けることに従うべきなのです。

 聖霊は、私たちに「イエス・キリストについて二つの告白――一つは、イエスが主であること、もう一つは、イエスが肉体をとって来られたこと――を告白する」ように促してくださいます(1コリント12:3、1ヨハネ4:2、3)。どちらの告白も同じように重要ですが、後者はさらに重要です。なぜなら、反キリストの霊を識別する印は、イエスが肉体をとって来られたことを告白しないことにあると教えられているからです(2ヨハネ7)。

 今日、人であるキリスト・イエス(1テモテ2:5)は「多くの兄弟の中で最初に生まれた方」(私たちの兄)であり、その父は私たちの父でもあります(ローマ8:29、ヨハネ20:17、エペソ1:3、ヘブル2:11)。

 ​​イエスは地上に来られた時、神であることをやめたのではありません(ヨハネ10:33)。天に帰られた時、人であることをやめたのではありません(1テモテ2:5)。

救いに関する真理

 神の御言葉は「救い」について、過去形(エペソ2:8)、現在形(ピリピ2:12)、未来形(ローマ13:11)の三つの時制で語っています。言い換えれば、義認、聖化、栄化です。

 救いには基礎と上部構造があります。その基礎とは、罪の赦しと義認です。

 義認とは、罪の赦し以上のものです。それはまた、キリストの死、復活、昇天に基づいて、私たちが神の目に義と宣言されたことを意味します。これは私たちの行いに基づくものではありません(エペソ2:8, 9)。なぜなら、私たちの義なる行いでさえ、神の目には汚れた布切れのようなものだからです(イザヤ64:6)。私たちはキリストの義を身にまとっています(ガラテヤ3:27)。悔い改めと信仰は、赦され義とされるための条件です(使徒20:21)。

 真の悔い改めは、私たちの中に償いの実を結ばなければなりません。すなわち、不当に所有している(他人の所有物である)金銭や物品、滞納している税金を返し、不当な扱いをした人々にできる限り謝罪することです(ルカ19:8, 9)。神が私たちを赦してくださるとき、私たちも同じように他人を赦すことを求められます。もし私たちがそうしないなら、神は赦しを取り消されます(マタイ18:23-35)。

 悔い改めと信仰の後に、水に浸されるバプテスマを受けなければなりません。それによって、私たちは神と人々と悪霊に対して、私たちの古い人が確かに葬られたことを公に証しするのです(ローマ6:4, 6)。

 それから私たちは聖霊のバプテスマを受けることができ、それによって私たちは、私たちの人生と言葉によってキリストの証人となる力を授けられます(使徒1:8)。聖霊のバプテスマは、神のすべての子どもたちが信仰によって受ける約束です(マタイ3:11; ルカ11:13)すべての弟子は、自分が真の神の子であることを聖霊の証しによって知る特権を持ち(ローマ8:16)、また、自分が真に聖霊を受けたことを確信する特権も持っています(使徒19:2)。

 聖化は建物の上部構造です。聖化(罪と世から「区別される」という意味)は、新生(1コリント1:2)から始まり、地上での生涯を通して継続されるべき過程です(1テサロニケ 5:23, 24)。これは、神が聖霊を通して私たちの内に始め、神の律法を私たちの心と思いに書き記してくださる働きです。しかし、私たちは自分の役割を果たし、恐れおののきをもって自分の救いを達成しなければなりません(ピリピ 2:12, 13)。聖霊が私たちに与えてくださる力によって、私たちは体の行いを死なせなければなりません(ローマ 8:13)。

 私たちは「すべてのものから自分自身をきよめなければならない」のです。肉と霊の汚れを捨て、神を畏れて聖さを完成させます(2コリント 7:1)。

 弟子がこの働きにおいて聖霊に徹底的に、そして心から協力するなら、聖化の働きはその人の人生において急速に進展するでしょう。聖霊の導きに対して鈍感な人の人生では、この働きは明らかに遅く、停滞します。

 誘惑の時こそ、聖化を心から望む私たちの真摯な気持ちが真に試されます。

聖化されるということは、律法の義が私たちの心の内に成就されることです。旧約のように外面的に成就するだけではありません(ローマ8:4)。これはイエスがマタイ 5:17-48で強調されたことです。

 律法の要求はイエスによって要約され、神を心から愛し、隣人を自分自身のように愛することとされました(マタイ22:36-40)。

 神が今私たちの心に書き記そうとしているのは、まさにこの愛の律法です。心の中に宿るのです。なぜなら、それが神のご性質だからです(ヘブル 8:10; 2ペテロ 1:4)。そして、あらゆる意識的な罪に打ち勝ち、イエスのすべての戒めに従う生き方として、表面化されます

(ヨハネ 14:15)。

 イエスが定められた弟子としての条件(ルカ14:26-33)をまず満たさなければ、この命に入ることはできません。これは基本的に、すべての親族と自己の命よりも主を第一とし、すべての物質的な富と所有物への執着から離れることです。

 これは私たちが最初に通らなければならない狭い門です。次に、聖化という狭い道が来ます。聖化を求めない者は決して主を見ることはありません(ヘブル12:14)。

 今ここで良心において完全であることは可能ですが(ヘブル7:19; 9:9, 14)、イエスの再臨の時に栄光の体を得るまでは、罪のない完全さを得ることはできません(1ヨハネ3:2)。その時になって初めて、私たちはイエスのようになることができるのです。しかし、私たちは今からでも、イエスの歩まれたように歩むよう努めなければなりません(1ヨハネ2:6)。

 この朽ちる体を持っている限り、どんなに聖化されても、無意識の罪は存在します。(1ヨハネ 1:8)しかし、もし私たちが心から願うならば、良心において完全であり(使徒 24:16)、意識的な罪から解放される(1ヨハネ 2:1a)ことができます。(1コリント4:4)

 こうして私たちはキリストの再臨と栄光を待ち望んでいます。それは私たちの救いの最終段階であり、罪のない完全な者となる時です(ローマ8:23; ピリピ3:21)。

教会に関する真理

 教会はキリストのからだです。教会の頭はキリストのみであり、本部は第三の天のみにあります。キリストのからだにおいて、すべてのメンバーは役割を持っています(エペソ4:16)。ある人は他の人よりも重要で目に見える奉仕をしているかもしれませんが、すべてのメンバーが貢献できる価値あるものを持っています。

 キリストは教会に使徒、預言者、伝道者、牧者、教師を与え、御自身のからだを建て上げました(エペソ4:11)。これらは奉仕であり、肩書きではありません。

 使徒とは、地域教会を開拓するために神に召され、遣わされた者たちです。彼らは教会において第一の地位を持ち(1コリント12:28)、自分に与えられた限度内で誠実に奉仕する長老です。(2コリント10:13)。預言者は、神の民の隠れた必要を見抜き、それに応える者です。伝道者は、異邦人をキリストに導く賜物を与えられた者です。そして、彼らは回心者をキリストのからだである地域教会に導かなければなりません(現代の伝道活動の多くがここで失敗しています)。羊飼いは、子羊や羊を世話し、導く者です。教師は、聖書とその教義を説明できる者です。これらの五つの賜物は世界中の教会のためのものであり、その中から、羊飼いはすべての地域教会の支柱となります。上記のその他の賜物は、(他の地域から)巡回して奉仕します。

 地域教会の指導は長老たちの手に委ねられるべきです。新約聖書はこれを明確に教えています(テトス 1:5、使徒 14:23)。『長老』(elders)は複数形であるため、少なくとも二人は必要であることを意味します。すべての教会において、長老は複数必要です。これは、地域教会の指導におけるバランスを保つため、そして、主の臨在の力によって(マタイ18:18-20に記されているように)サタンの活動を抑制するためにも必要です。

 教会を一人で指導することは、新約聖書の教えに反します。しかし、長老の一人は、御言葉の賜物を持つならば、「教会の使者」(黙示録2:1)となることができます。

 イエスは弟子たちに称号を持つことを禁じました(マタイ23:7-12)。したがって、ラビ、父、牧師、牧師、指導者と呼ばれることは、神の言葉に反します。実際、「牧師」(

revelend)という称号は、聖書の中で神に対してのみ用いられています(詩篇111:9 - KJ V聖書)。そして、それを用いる者は、ルシファーのように、神のようになりたがる罪を犯す可能性があります(イザヤ14:14)。 教会においては、大小を問わず、すべての人が兄弟であり、仕える者でなければなりません。

 地域教会の集会は、教え(使徒20:9, 11)、祈り(使徒12:5, 12)、伝道(使徒2:14-40)のための集会でない限り、すべての弟子が預言を行えるように開かれていなければなりません(1コリント14:26-40)。集会で預言したいと願う人は、預言の賜物を熱心に求めなければなりません。(1コリント14:1, 39)。主に個人の構築のために意図された異言の賜物は(1コリント14:4, 18, 19)、教会の集会でも用いることができますが、必ず解釈が伴わなければなりません(1コリント14:27)。異言の解釈は、啓示、知識の言葉、預言、教え、あるいは神への祈りなどです(1コリント14:2-6)。1コリント12:8~10、28、そしてローマ12:6~8に挙げられている賜物は、キリストの体の建て上げに必要です。聖霊の賜物を軽蔑したり無視したりする教会は、決して聖霊の賜物を得ることはできません。

 女性は集会で頭を覆って祈ったり預言したりすることは許されていますが、権威を行使したり、男性を教えたりすることは許されていません(1コリント11:5、1テモテ2:12)。

 教会はまた、あらゆる手段を用いて、手の届くすべての人に福音を宣べ伝え、すべての国々でキリストの弟子を作ることを目指す責任があります(マルコ16:15、マタイ28:19)。 しかし、弟子作りを伴わない伝道は、地上におけるキリストの証しの妨げとなります。

すべての地域教会は、「パンを裂くこと」を通して主の死を告げ知らせなければなりません(1コリント11:22~34)。この証しをどれほど頻繁に行うかは、教会が決定する問題です。神の御言葉はそれぞれの教会に自由を与えています。しかし、それが空虚な儀式へと堕落することは決して許されません。

 献金に関して、神の御言葉は、神の働きのために未信者から金銭を受け取ることは間違っていると明確に述べています(3ヨハネ7)。したがって、未信者が出席している集会では献金を受け取ってはなりません。信仰者によるすべての献金もまた、自発的かつ秘密裏に行われなければなりません(2コリント9:7)。金銭を得る目的で、働きの報告を他の人に送ることは(たとえそのような報告が「祈りの手紙」と呼ばれていても)間違っています。

 教会が揺るぎない存在であり続けるためには、弟子たちを信仰の従順、すなわちイエスのすべての戒め、特にマタイ5章から7章に挙げられている戒めへの従順へと導く必要があります。新約聖書の最も小さな戒めでさえも、熱意をもって守り、宣べ伝えなければなりません。これが、人を神の目に偉大な者とするのです(マタイ5:19)。

 新約聖書が言及していない事柄は数多くあります。このような事柄において、私たちは独断的になるべきではなく、他の弟子たちにそれぞれの信念を持つ自由を与えなければなりません。同時に、私たち自身も自身の信念をしっかりと保つべきです(ローマ14:5)。

 すべての事柄において私たちと意見が一致する人を愛するのは容易です。しかし、私たちの愛は、私たちと意見が異なる人に対する態度によって試されます。神は、すべての子たちが些細な点において同じ見解を持つことを意図しておられません。また、すべての地域教会においても同様です。神の栄光は、多様性の中にある一致の中にこそ表れるべきです。画一性は人為的なものであり、霊的な死をもたらします。神は画一性ではなく、一致を望まれるのです。

 最後に、私たちは、イエスの弟子たちの最も明確な特徴は、互いへの愛であることを忘れてはなりません(ヨハネ13:35)。ですから、教会は父と子が一つであるように、一つとなることを求めなければなりません(ヨハネ17:21)。これらすべては、私たちがしっかりと拠り所とすべき真理です。私たちはこれが真理であることを知っています。なぜなら、心からそれを受け入れたすべての人を自由にしたからです(ヨハネ8:32)。

 章 24
クリスマスとイースターに関する真実

人は羊に例えられます。そして羊は、何も疑問を持たずに群衆に従う傾向があります。しかし、イエスは来て、私たちにすべてを神の御言葉によって吟味するように教えられました。パリサイ人は人間の伝統を重んじました。イエスは神の御言葉を重んじました。人は神の口から出るすべての言葉によって生きるべきでした(マタイ4:4)。

 イエスがパリサイ人と絶えず繰り広げてきた戦いは、神の言葉と人間の伝統との間の、長年にわたる戦いでした。教会において、私たちにも今日、同じ戦いがあります。神の御言葉は、私たちが地上で持つ唯一の光です。そして、神が最初に光を創造されたとき、神はすぐにそれを闇から分けられました。闇とは、罪と人間の伝統の両方です。私たちもまた、教会に混ざり合うことのないように、これら両方を神の純粋な御言葉から切り離すように求められています。

クリスマス

 多くの人がイエス・キリストの誕生日として祝うクリスマスを考えてみましょう。あらゆる宗教の商店主は、クリスマスが大きな利益を得られる時期であるため、クリスマスを楽しみにしています。これは商業的な祭りであり、霊的な祭りではありません。クリスマスカードや贈り物に何百万ルピーものお金が費やされます。この時期にはアルコール飲料の売上も上がります。

 では、これは本当に神の子の誕生日なのでしょうか、それとも別の「イエス」の誕生日なのでしょうか。

 まず神の御言葉を見てみましょう。聖書には、イエスがベツレヘムで生まれた夜、羊飼いたちがユダヤの野原に羊を連れていたと記されています(ルカ 2:7-14)。パレスチナの羊飼いたちは、10月以降2月までは夜間に羊の群れを野原に放っておくことはありませんでした。その時期は雨が多く寒いからです。ですから、本当のイエスは3月から9月の間に生まれたということになります。そうであれば、12月25日は、何も知らないキリスト教界に、改宗していない人によって押し付けられた、別の「イエス」の誕生日に違いありません。

 さらに、たとえ私たちがイエスの生誕の正確な日付を知っていたとしても、教会でそれを祝うことを神が意図されていたかどうかという疑問は残ります。イエスの母マリアは、イエスの生誕の正確な日付を確かに知っていたはずです。そして彼女はペンテコステの日の後、長年使徒たちと共にいました。しかし、イエスの生誕日についてはどこにも言及されていません。これは何を示しているのでしょうか。

 ただ一つ、神は教会にイエスの生誕日を祝うことを望まなかったため、意図的にその日付を隠されたということです。イエスは、年に一度誕生日を祝うだけの普通の人間ではありませんでした。イエスは、私たちとは違い、「日の始まりがない」神の御子でした(ヘブル7:3)。神は、私たちがイエスの生誕、死、復活、昇天を年に一度だけでなく、毎日認識することを望んでおられます。

 旧約と新約の違いを理解することで、神が今、ご自分の子供たちに特別な聖日を祝うことを望まれない理由が理解できます。

 旧約聖書の下では、イスラエルは特定の日を特別に聖なる日として祝うよう命じられていました。しかし、それは影に過ぎませんでした。今、神の御心は、キリストをいただいた私たちの人生のすべての日が等しく聖なる日となることです。新約聖書の下では、週ごとの安息日さえも廃止されました。だからこそ、新約聖書のどこにも聖日について言及されていないのです(コロサイ 2:16, 17)。

 では、クリスマスとイースターはどのようにしてキリスト教界に侵入したのでしょうか。 答えは、幼児洗礼、什一献金、聖職者制度、その他多くの人間の伝統や旧約聖書の慣習が侵入したのと同じように、サタンの巧妙な働きによってです。

 4世紀にコンスタンティヌス帝がキリスト教をローマの国教としたとき、多くの人々は心変わりすることなく「名ばかり」キリスト教徒になりました。しかし、彼らは太陽崇拝と結びついた、年に一度の二つの大きな祭りを放棄したくありませんでした。一つは12月25日の太陽神の誕生日で、南半球に沈んでいた太陽が帰路につく日(冬至)でした。もう一つは3月/4月の春の祭りで、太陽神がもたらした冬の終焉と暖かい夏の到来を祝いました。彼らは太陽神を「イエス」と改名し、二つの偉大な祭りを祝い続けました。今ではキリスト教の祭りとなり、クリスマスとイースターと呼ばれています。

 ブリタニカ百科事典(世俗史の権威)は、クリスマスの起源について次のように述べています。

  12月25日は、ミトラ教において不敗の太陽フィロカルスの祭日でした。クリスマスの慣習は、キリスト教時代よりはるか昔から続く、季節的、異教的、宗教的、そして国民的な慣習の派生であり、伝説に彩られています。キリストの生誕の正確な日付と年は未だに十分に確定されていませんが、西暦440年に教会の父祖たちがこの出来事を祝う日を定めた際、賢明にも(?)、人々の心にしっかりと刻まれ、最も重要な祝祭であった冬至の日を選びました。キリスト教が異教の地の人々の間に広まるにつれ、冬至の慣習の多くが「キリスト教の慣習と融合」していきました(1953年版、第5巻、642A、643ペー ジ)。

 これらの異教の慣習は、ニムロドによって始められたバビロニアの宗教に由来しています(創世記 10:8-10)。伝承によると、ニムロドの死後、妻セミラミスは私生児を産み、彼女はそれがニムロドの復活であると主張しました。こうして母子崇拝が始まり、数世紀後、名ばかりのキリスト教徒によって「マリアとイエス」へと受け継がれました。

 この子神の誕生日は、古代バビロニア人によって12月25日に祝われました。セミラミスは天の女王(エレミヤ 44:19)であり、数世紀後、エフェソスではダイアナまたはアルテミスとして崇拝されました(使徒19:28)。

 セミラミスは、枯れた木の切り株から一夜にして成熟した常緑樹が生えたと主張しました。これはニムロドが復活し、天からの贈り物を人類にもたらすことを象徴していました。 こうして、モミの木を切り倒し、そこに贈り物を吊るす習慣が始まりました。これが今日のクリスマスツリーの起源です。(Google検索をすれば、これらの事実を証明する文書がすべて見つかります。)

「主はこう言われる。異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。」(エレミヤ10:2-4)

イースター

 『イースター』という言葉は、天の女王の称号の一つである『イシュタル』または『アシュタロテ』(1列王記 11:5参照)に由来します。これはソロモンが崇拝した偶像の一つです。この名称は国によって若干異なる表現が用いられました。

ブリタニカ百科事典には次のように記されています。

  ドイツ語の『Oster』に対応する英語の『イースター』という言葉は、キリスト教が中央ヨーロッパのチュートン族に(!)負っている恩恵を物語っています。キリスト教がチュートン族に伝わると、この偉大なキリスト教の祝祭を祝う際に、彼らが『春』の祭りを祝っていた際に用いていた多くの異教の儀式や慣習を取り入れました。

 復活の「祭り」が春に行われ、死に対する生の勝利を祝うものであったため、教会はこの行事を、冬の終焉、新年の到来、そして太陽の復活を祝う、ゲルマン人にとって最も喜ばしい祭りと容易に結びつけることができました。

 春の女神エオストレ(またはオステラ)が、このキリスト教の聖なる日にその名を与えました。卵を豊穣と再生の象徴とする概念は、古代エジプト人やペルシャ人にまで遡ります。 彼らもまた、春の祭りの時期に卵に色をつけて食べる習慣を持っていました。卵を生命の象徴とするこの古代の考えは、卵を復活の象徴とする考えへと容易に移行しました。古くからの迷信によると、復活祭の朝に昇る太陽は天空で踊ると言われています。この信仰は、観客が太陽を讃えて踊った古代異教の春の祭りにまで遡ります。…プロテスタント教会もまた、復活祭の朝に日の出礼拝を行う習慣に従っていました。(1959年版、第7巻、859~860ページ)

 キリストの死と復活は、福音書の中心的なメッセージです。イエスが私たちにこの出来事を記念するよう意図した唯一の方法は、「パンを裂く」ことであり、私たちは教会として共にこの儀式に参加するべきなのです。

 パンを裂く時、私たちはキリストの死を証しするだけでなく、キリストと共に私たち自身も死ぬことを証しします。聖金曜日やイースターの感傷主義は、人々の注意をイエスに従う必要性から逸らし、空虚な儀式主義へと向かわせます。

神の御言葉か、人間の伝統か

 クリスマスとイースターを祝う背後には、神の御言葉に根拠がないにもかかわらず、人間の伝統に従うという、はるかに危険な原則が潜んでいます。この伝統の力は非常に強いため、他の分野では聖書に従っている多くの信仰者でさえ、クリスマスとイースターを祝うことをやめることができないのです。

 世俗的な著述家でさえ(例えば、上記で引用したブリタニカ百科事典の著者たちのように)明確に理解しているにもかかわらず、多くの信仰者がそれを受け入れようとしないのは驚くべきことです。クリスマスとイースターは基本的に異教の祭りです。名前を変えたからといって、これらの祭りがキリスト教的なものになるわけではありません。

 冒頭で述べたように、イエスはまさにこの問題、つまり人間の伝統と神の言葉の対立をめぐって、パリサイ人と絶えず争っていました。イエスは、罪を戒める説教よりも、「父祖たち」の空虚な伝統を非難したことで、より多くの反対に直面しました。私たちもイエスと同じように忠実であれば、同じ経験をするでしょう。

 神の御言葉だけが私たちの導きであり、敬虔な人であっても、神の御言葉に従わない点では、私たちの模範になることはできません。

「すべての人を偽り者としても、神は真実な方である」(ローマ3:4)。ベレア人はパウロの教えさえも調べようと聖書を調べ、聖霊はそれを称賛しています(使徒17:11)。これは私たち皆が従うべき良い模範です。

 ダビデは神の心にかなう人でした。しかし、40年間、イスラエル人がモーセの青銅の蛇を崇拝することを許していましたが、それが神にとって忌まわしいものであるとは気づいていませんでした。彼は、そのような明白な偶像崇拝さえも明らかにしていませんでした。この偶像崇拝的な慣習を暴露し、滅ぼすために光が与えられたのは、はるかに小さな王、ヒゼキヤでした(2列王記 18:1-4)。

 私たちは、敬虔な人々の生き方の聖さには倣えますが、人間の伝統に光を当てていないことには倣うことはできません。私たちの安全は、神の言葉の教えに従うことだけにあり、それに付け加えたり、減らしたりすることではありません。

人を裁いてはならない

 最後に:クリスマスとイースターを祝う誠実な信仰者に対して、私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。

 クリスマスとイースターを祝わないだけでは、霊的になれるわけではないことを覚えておくことが重要です。そして、これらの祭りを祝う人は、だからといって肉欲的な信仰者ではありません。

 霊的な人とは、クリスマスとイースターを祝うかどうかにかかわらず、日々の自己否定と聖霊の満たしの道を歩みながらイエスに従う人のことです。

 ですから、これらの祭りを祝う信仰者に出会う際、彼らがこれらの祭りの異教的な起源を知らないかもしれないという寛大さを持つべきです。ですから、彼らがこれらの祭りを祝う時、彼らは決して罪を犯しているわけではありません。一方、私たちが彼らを裁くなら、私たちは罪を犯すことになります。

 12月25日は通常、誰もが祝日であり、その前後は学校も休みなので、多くの人がこの期間を年末の家族団欒の場として利用します。これはとても良いことです。

 また、年に2回(12月25日とイースターの週末)しか教会の礼拝に出席しない人もいるため、教会がこれらの日に礼拝を行うのは良いことです。そうすることで、そのような人々に福音を伝え、イエスが「私たちの罪から救うために地上に来られ、私たちのために死とサタンを征服してくださった」ことを伝えることができるからです。

 真の信仰者は、イエスが生まれ、彼らの罪のために死に、そして復活してくださったことに、年に2回だけでなく、毎日感謝しています。

 キリスト教の初期には、一部のキリスト教徒が安息日を祝っていました。安息日は、クリスマスやイースターと同様に、キリスト教とは無関係の宗教的な祝祭でした。そのため、聖霊はパウロに霊感を与え、他のキリスト教徒が裁くことで罪を犯さないように警告するローマ14章を書きました。クリスマスやイースターを祝う人々を批判する人々にも、同じ警告が当てはまります。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。…あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。…ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。日を守る人は、主のために守っています。…なぜなら、神に感謝しているからです。…それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。…それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。…こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」(ローマ14:1〜12抜粋)

そして、これがクリスマスとイースターに関するこの学びを締めくくるにふさわしい言葉です。

 章 25
挫折した人への神の完全なご計画

過去の人生で堕落し神に背いたため、今、神の完全な計画を果たせないと感じている兄弟姉妹はたくさんいます。

 このことについて、聖書が何と言っているかを見てみましょう。自分の理解や論理に頼るのではなく。

まず、聖書がどのように始まっているかに注目してください。

 初めに神は天と地を創造した(創世記 1:1)。そして、神が天と地を創造された時、それらは完全であったに違いありません。なぜなら、不完全なもの、不完全なものは神の手から出ることはできないからです。

 しかし、神が創造した天使の中には、堕落した者もいました。このことは、イザヤ書 14:11-15とエゼキエル書 28:13-18に記されています。

 その時、地球は創世記1:2に記されている「形がなく、空虚で、暗い」状態になりました。

 創世記1章の残りの部分は、神がその形がなく、空虚で、暗い塊に働きかけ、そこから非常に美しいものを造り出し、神ご自身が「非常に良い」と宣言されたことを記しています(創世記1:31)。創世記1:2〜3には、神の霊が水の上を動き、神が御言葉を語られたことが記されています。そして、これが変化をもたらしたのです。

 これは、現代の私たちにとってどのようなメッセージなのでしょうか。

 それは、私たちがどれほど失敗し、どれほど状況をめちゃくちゃにしてしまったとしても、神は私たちの人生から栄光に満ちたものを作り出すことができるということです。

 神は天と地を創造された際、完璧な計画を持っていました。しかし、ルシファーの罪によって、その計画は頓挫しなければなりませんでした。しかし、神は天と地を再び造り直し、そこから非常に良いものを造り出されました。

 では、その後に何が起こったかを考えてみましょう。

 神はアダムとエバを創造し、すべてを新たに始めました。神は彼らのためにも完璧な計画を持っておられたに違いありません。もちろん、善悪を知る木の実を食べることは含まれていませんでした。しかし、彼らは禁断の木の実を食べ、神の当初の計画を破綻させました。その計画がどのようなものであったにせよ。​​

 論理的に考えると、彼らはもはや神の完全な計画を成就することはできないでしょう。しかし、神が園で彼らと出会った時、神は残りの人生を神の次善の策で生きなければならないとは告げませんでした。そうではありません。創世記3:15で、女の子孫が蛇の頭を砕くと約束されました。これは、キリストが世の罪のために死に、カルバリの丘でサタンに打ち勝つという約束でした。

 さあ、この事実を考え、論理的に理解できるか試してみてください。

 私たちは、キリストの死が永遠の昔から神の完全な計画の一部であったことを知っています。「小羊は世の初めから屠られた」(黙示録13:8)。

 しかし、キリストが死んだのは、アダムとエバが罪を犯し、神に背いたからにほかならないことも知っています。

 ですから論理的に考えると、キリストを世の罪のために死なせるために遣わすという神の完全な計画は、アダムの罪にもかかわらずではなく、アダムの罪によって成就したと言えるでしょう。アダムの罪がなければ、私たちが、カルバリの十字架で示された神の愛を知ることはできなかったでしょう。

 それは論理に反します。だからこそ聖書は、「自分の悟りに頼るな」(箴言 3:5)と述べているのです。

 もし神が数学的論理に従って働かれるなら、キリストの地上への降臨は神の次善の計画だったと言わざるを得ないでしょう。しかし、そう言うのは冒涜的です。それは神の人間に対する完璧な計画の一部だったのです。神に間違いはありません。しかし、神は全能であり主権者であり、また初めから終わりを知っておられ、常に愛をもって静かに私たちのために計画しておられるので、人間が神の私たちへの関わり方を説明しようとしても、人間の理性ではうまくいきません。

 神の道は私たちの道ではなく、神の思いは私たちの思いとは異なります。その違いは天と地の距離と同じくらい大きいのです(イザヤ 55:8, 9)。ですから、神の道を理解しようとするとき、私たちは自分の巧みな推論や論理を脇に置くべきです。

 では、聖書の冒頭から神が私たちに伝えようとしているメッセージとは何でしょうか。それは、神は失敗した人から栄光あるものへと変え、その人の人生における神の完全な計画を成就させることができるということです。

 これが聖書における神の人間へのメッセージであり、私たちは決して忘れてはなりません。神は、何度も失敗した人から変え、神の完全な計画を成就させることができるのです。神の次善の策ではなく、最善のご計画なのです。

 ​​なぜなら、失敗さえも、神が忘れられない教訓を授けるための完璧な計画の一部だったかもしれないからです。これは人間の論理では理解できません。なぜなら、私たちは神をあま りにも知らないからです。

神が用いることができるのは、傷ついた男女だけです。そして、神が私たちを打ち砕く方法の一つは、度重なる失敗です。

 使徒ペテロの指導者としての訓練の一部は、失敗でした。主はペテロの失敗を用いて彼を打ち砕きました。

 神が私たちに対して抱えている最大の問題の一つは、私たちが誇りで高ぶらないように祝福を与えることです。私たちが怒りに打ち勝った後、それを誇りに思うことは、以前よりもはるかに深い穴に落ち込むことです。神は、私たちが勝利した時も謙虚に保たなければなりません。

 罪に対する真の勝利には、常に最も深い謙虚さが伴います。度重なる失敗は、私たちの自信を破壊し、神の恵みなしには罪に打ち勝つことはできないと確信させるのに一役買っているのです。そうすれば、勝利を得たとしても、決してそれを誇ることはできません。

 さらに、私たち自身が何度失敗したとしても、失敗する人を決して軽蔑することはできません。私たちは、数え切れないほどの挫折を通して、自分の肉体の弱さを知っているので、挫折する人々に同情することができます。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(ヘブル 5:2)

 このようなメッセージを聞いた論理的な人は、「では、益を得るために、なおさら罪を犯そう」と言うことができます。

 ローマ 3:7, 8(TLB聖書)は、そのような人に次のように答えています。「あなたは、『私の不正直は神の正直さを明らかにし、神の栄光を現した』と言います。もしあなたがその考えを貫くなら、次の結論に至ります。私たちが悪ければ悪いほど、神はそれを喜ばれる、しかし、そのようなことを言う者たちの断罪は当然です。」

いいえ、私たちは善がもたらされるために罪を犯すべきだと説いているわけではありません。また、神の恵みを利用し、故意に神に背き、それでも蒔いた種を刈り取ることを避けられるとも言っていません。

 ​​しかし、人間の論理では、堕落した人間に対する神の恵みを理解することはできません。 神にとって不可能なことは何もありません。ー私たちが何度も惨めに挫折した後でさえ、私たちを神の完全な御心に導くことさえ可能なのです。私たちの不信仰だけが神を阻むのです。

 もしあなたが「でも、私は何度も挫折してきた。神が今私を御自身の完全な御心に導くことは不可能だ」と言うなら、それは神にとって不可能なことです。なぜなら、あなたは神がしてくださることを信じることができないからです。しかしイエスは、私たちが信じる限り、神が私たちのためにしてくださることに不可能なことは何もないと言われました。

 「あなたがたの信仰のとおりになれ」というのは、すべてのことにおける神の法則です(マタイ9:29)。私たちは信じるものを得ます。もし私たちが、神が私たちのためにしてくださることが不可能だと信じれば、それは決して成就しません。一方、キリストの裁きの座において、あなたよりも人生をめちゃくちゃにしてしまった別の信仰者が、それでもなお神の完璧な計画を成し遂げたことをあなたは知るでしょう。それは、神が彼の人生の破片を拾い上げ、そこから何か素晴らしいものに変えてくださると信じたからです。

 その日、あなたの人生における神の計画を挫折させたのは、あなたの失敗(どれほど多くても)ではなく、あなたの不信仰だったと気づく時、あなたの人生にはどんなに悔いが残ることでしょう。

 長年を無駄にした放蕩息子の物語は、神が失敗者にも最善を尽くしてくださることを示しています。父親は、自分をひどく失望させた息子に、「早く一番良い服を持ってきなさい」と言いました。これこそが福音のメッセージです。贖いと新たな始まり。一度だけでなく、何度も。神は決して誰のことも見捨てないからです。

 労働者を雇いに行った地主のたとえ話(マタイ 20:1-16)も同じことを教えています。土壇場で雇われた人々が最初に報いを受けるのです。言い換えれば、人生の90%を無駄にし、永遠の価値のあることを何もしなかった人たちも、残りの10%で神のために栄光あることを成し遂げることができるのです。これは、失敗したすべての人にとって大きな励ましとなります。神の御子が現れたのは、悪魔の業を壊滅(消滅、解消)させるためです。(1ヨハネ 3:8 - AMPクラシックエディション聖書)

 つまり、イエスは私たちの人生にあるすべての結び目を解くために来られたのです。想像してみてください。私たちは皆、幼い頃、美しい糸の玉を持って生まれました。しかし、今ではその糸は1万もの結び目ができており、私たちはそれらの結び目を解くことなど到底できません。私たちは自分の人生を見つめ、落胆し、憂鬱に陥っています。福音の良い知らせは、イエスがそれらの結び目を一つ一つ解くために来られたということです。

 あなたは「それは不可能だ!」と言います。では、あなたの信仰に応じて、あなたにそれが成就するでしょう。あなたの場合は不可能でしょう。

 しかし、あなたよりも悪い人生を送っている人が、「はい、神は私の中でそれを成就してくださると信じています」と言うのを耳にします。そして、彼の信仰に応じて神の完璧な計画が成就するのです。

 エレミヤ:181-6で、神は具体的な例えを通してエレミヤに御言葉を語られました。エレミヤは陶器師の家に行くように言われ、そこで陶器師が器を作ろうとしているのを見ました。 しかし、その器は陶器師の手の中で壊れてしまったのです。そこで陶器師はどうしたでしょうか。陶器師は自分の好きなように、それを別の器に作り直しました。

 そして応用が続きます。「この陶器師のように、わたしも(あなた)を扱ってはいけないだろうか」と主は問いかけられました(6節)。(線の中にあなたの名前を書き入れてください。これが神からの問いかけです。)

 もしあなたの人生に、すべての罪、失敗を率直に悲しむなら、たとえあなたの罪が緋のように、あるいは紅のように赤く染まっていたとしても、旧約で約束されたように(イザヤ1:18)、雪のように白くなるだけでなく、神は新約において「あなたの罪を二度と思い出さない」と約束されます。 (ヘブル8:12)

 どんな失敗や堕落を犯しても、神と共に新たなスタートを切ることができます。過去に何千回も新たなスタートを切り、失敗に終わったとしても、今日、1001回目の新たなスタートを切ることができます。神はあなたの人生に栄光をもたらすことができます。

 命がある限り、希望はあります。

ですから、神への信頼を決して失わないでください。神は、ご自分の子供たちに多くの奇跡を行うことができません。それは、彼らが過去に神を裏切ったからではなく、今、神を信頼しないからです。

 ですから、「信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し」(ローマ4:20)、これまで不可能だと思っていたことを、これからの日々神に信頼しましょう。

 すべての人 ― 若い人も年配の人も ― 過去にどれほど失敗したとしても、自分の失敗を認め、へりくだり、神を信頼するならば、希望を持つことができます。

 こうして、私たちは皆、失敗から学び、私たちの人生に対する神の完璧な計画を成就していくことができるのです。

 そして、来たるべき時代に、神は、完全に敗北した人の人生に何をなさってくださるかを、私たちを例として他の人に示してくださいます。

 その日、神は、キリスト・イエスにおいて私たちに示した、慈しみによる計り知れないほど豊かな恵みを通して、私たちの中で何ができるかを示してくださいます。(エペソ2:7)

この書物のメッセージを聞く耳のある者は、聞きなさい。アーメン。