主の弟子となるために ザック・プーネン

筆者 :    ザックプーネン カテゴリー :   弟子
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 章 1
弟子か改宗者か?

信者の中には、一つのことで一聖句に捕らわれ他の聖句を除外してしまう誤りがよくあります。悪魔は

「・・・に書かれている」(マタイ 4:6)という言葉を引用して主を試しました。しかし、主は「・・・にまた書かれている」(マタイ 4:7)と言って悪魔の試みを拒みました。神の全体の目的は、聖書のみ言葉とみ言葉が

「・・・に書かれており」また「・・・にも書かれている」というように、比較する時に初めて理解することができるのです。

大宣教命令のことを考えましょう。

イエスは彼の弟子にこう命ぜられました。「全世界に出て行って全ての造られたものに福音を述べ伝えなさい」(マルコ 16:15)。イエスはまた、こう言われました。「出て行って全ての民を弟子にしなさい」(マタイ28:19)。この 2 つの命令は、1 つの大宣教命令の 2 つの部分です。この命令の両方をよく考え従うことによってのみ、私たちは神の全御旨を知り成就することができるのです。

福音の伝道

最初のステップは明らかに出て行って全てのものに福音を述べ伝えることです(マルコ 16:15)。この命令は、個人の信者になされた者ではなく、キリストの全み身体に対してなされました。一人の信者や地方教会が自分で全世界の全ての人々に福音を述べ伝えるのは不可能です。私たちの一人一人が最善を尽くして、この任務の小さな部分を担うことは可能です。

しかし、その任務は例え小さくても達成しなければなりません。ここに使徒行伝 1:8 が重要になってきます。一人一人の信者は、もしキリストの証人となるなら、その人に臨み力を与える聖霊を受けなければなりません。全ての人が伝道師として召されたのではなく、全ての人がキリストの証人になるよう召されたのです(なぜならキリストは、キリストの教会に何人かの限られた人を召されたからです。 エペソ 4:11 にはっきりと書かれています。)。

しかしキリストはまた、失われた人々のためにより広い働きをする教会に伝道師をお与えになりました。しかし、伝道師の仕事は単に「魂の獲得」や(一般的に言われているように)「人々をキリストに導く」だけではなく「キリストのみ身体を立て上げる」(エペソ 4:11,12)ことです。今日の伝道の多くに見られる最大の失敗がここの点です。今日のほとんどの伝道は、キリストのみ身体を立て上げることに主眼を置かず、個々の魂を救うことに置いています。これらの魂は死んだ教会に送られ、やがてすべて失われてしまうか、良くても生ぬるい信仰に陥り、ある日主の口から吐き出されることになるのです(黙示録 3:16)。

いずれにしろ、彼らはキリストのみ身体に立て上げられません。このようにして、悪魔の目的のみが果さ

れるのです。聖書にあるように、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです(マタイ 23:15)。というのは、第一にその人は最初失われていました、第二にその人はある伝道師にまだ失われた者であるのに自分は救われていると信じ込ませられているからです!!そのような伝道を通してできあがる唯一のものはその伝道師個人の帝国です。そのような伝道の唯一の理由は、お金を設けたり人から名誉をもらったり、または両方を目的とする伝道師の思いなのです。

イエスは伝道する人々を「人間を獲る漁師」と呼びました。しかし、悔い改めていない「クリスチャン」リーダーやグループ、または票をもとめている政治的リーダーを後援とするリーダーやグループと協力して行われる伝道は、穴だらけの網で魚を獲るようなものです。人は、イエスがアナやケパやヘロデやピラトをイエスと同じ演壇に立つように招かれ、伝道集会を始められるということになることがイメージできないのです。しかも今日の伝道者の多くはそのようなことをするだけではなく、その演壇から悔い改めていないリーダーを称賛するのです。

更に、そのような「網」で獲った魚は海に戻され(死んだ「教会」)、次の伝道集会で再び捕えられ、最後にもう一度海に戻されるのです。この工程(プロセス)は、宗派を超えた教会の集会を行い、参加者の数や決心カードを数えている多くの伝道師たちにより何度も何度も繰り返されてきました。そのような伝道は喜びをもたらしますが、天の天使たちにはもたらすのではなく数多くの悪魔にもたらします。いったい、二倍も悪いゲヘナの子にされた人々に天使は喜ぶことができるでしょうか?今日の伝道集会での統計は全くでたらめです。

たとえ印や不思議な現象がイエスは罪を許し病気を癒すというメッセージに伴っても、残る疑問は、そのような伝道で何人が弟子とされキリストのみ身体を立て上げたかということです。

私たちの主の弟子は決してこのような形の伝道をしませんでした。彼らは改心した人々を地方教会に置き、弟子とし、霊的に立て上げたのです。

エペソ 4:11 が述べている 5 つの働き人(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)は、コリント 12:28 には以下のように順序をつけています。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち, 第一に使徒, 次に預言者, 次に教師, それから奇蹟を行なう者, それからいやしの賜物を持つ者(新訳時代には全ての伝道者は癒しの賜物を持っていたので、伝道者のことを言っています), 治める者(文字通り羊飼い/牧師を意味する「船の舵取り」)などです。このみ言葉は、神の目には使徒や預言者や教師の働きは、キリストのみ身体を立て上げるためには伝道者の働きよりも重要であるということを明確にしています。

弟子とする

伝道の目的は、全世界に出て行って全ての民を弟子とせよ(マタイ 28:19)という大宣教命令の後の部分に照らしてみる時に初めて完全に理解することができます。これは、悔い改めていない人々のための神のご計画が成就される方法です。悔い改めた人は弟子にされなければなりません。

残念なことに、今日、悔い改めた人でさえ、しばしば本当に悔い改めいないことがあります。というのは、多くの場合、その人は正しく悔い改めていないからです。伝道集会で、その人は悔い改めのことにはふ れられずにただイエスを信じるように言われたかも知れません。そのような改心者はイエスのところに祝 福を受けに来ますが、罪を捨てるためには来ないのです。ということで、今日ほとんどの改心者は、まだ 生まれる状態になっていない時に人の数を増やしたいと拘って待ちきれないでいる助産婦(伝道者)に 介助された未熟児のようです。このような未熟児は普通すぐに死ぬか、後に問題を抱えて生きることにな り、羊飼い(牧師)にとって数え切れない多くの問題を起こします。そのような人々は、排教者(バックスラ イダー)とは呼びません。なぜなら彼らは一歩も前進しないで最初のところに留まっているからです。イエスは、「ひとりの罪人が、ただ悔い改めずに信じるのではなく、悔い改めるなら、神の御使いたちに喜び がわき起こるのです。」と言われました(ルカ 15:7,10)。

イエスはザアカイが過去にしたすべての金銭的不正に対して賠償するとを誓った時、救いがザアカイの家に来たことを話しました(ルカ:19:9)。残念なことに、今日の伝道者は、賠償のことを触れずに「救いが来た」と宣言しています。しかし、完全な悔い改めがあり、人が心から改心した場合、もしその人が生涯神の御心を行うのであれば、その人は弟子となるように導かれなければならないのです。弟子化に繋がらない伝道は不完全です。

しばしば、改心者を主の弟子にしようとする人々と共に働こうとしない伝道者がいますが、それは、自分の王国を立てようとする伝道者自身の思いあがりです。私たちはそんな人々を裁く必要はありませんが、彼らは終わりの日に、主に対して彼らが導いた改宗者たちを弟子にしなかったことを明確に弁明しなければならないのです。

人々を悔い改めと信仰に導く最初のステップの次に、イエスがマルコ 16:16 で明らかにされ、ペテロがペンテコステの日に説教したように(使徒 2:38)、洗礼を施さなければなりません。マタイ 28:19 もまた洗礼の必要について述べています。これは、新しく生まれた人に必要な次のステップなのです。そして、イエスの弟子として日々の生活に置いてイエスに従わなければなりません。

弟子であることの条件

ルカ 14:25-35 は弟子であることの条件を非常に明確に述べています。

そこでイエスは邸宅の土台を据えたが、その費用を払えないため完成できなかった人(28-30)について語っています。このことは、弟子になるにはそれだけのコスト(犠牲)がかかることを述べています。イエスは私たちに建てる前にまず座って建築費を計算するように言われました。

神は、私たちが、自分の罪が許された後、弟子になるのにどれだけのコストがかかるか分かるようになるまで、何年も待つようには望んでおられません。イエスは人々がイエスのもとに来るとすぐに弟子になるコストについて話されました。イエスはまた弟子になりたくない信者は塩気をなくした塩のように神に対 して役に立たないものだた言われました(ルカ 14:35)。

改心した人が弟子になるためには、まず第1に、主に従う時に妨げとなる親戚とのしがらみを切らなければなりません(ルカ 14:26)。第 2 に、日々自分自身、自分の命を捨てなければなりません。第 3 に、自分の財産を愛することを捨てなければなりません(ルカ 14:33)。誰でも弟子となるには少なくともこの 3 つのことが要求されます。

弟子の最初の条件は、私たちが自分の親族に持っている自然で法外な(強い)愛を断ち切らなければなりません。イエスは「わたしのもとに来て, 自分の父, 母, 妻, 子, 兄弟, 姉妹までも憎まない者は, わたしの弟子になることができません」(ルカ 14:26)。と言われました。これはきつい言葉です。「憎む」とはどういう意味でしょうか。憎むことは殺すこと(1ヨハネ 3:15)と同じことです。ここで死ぬと言われていることは、私たちの親族にたいして持っている自然な愛情です。

ということは、私たちは彼らを愛さないという意味でしょうか?いいえ、決してそんな意味ではありません。私たちが彼らへの人間的な愛を捨てる時、神はその人間的な愛に代わって神の愛を与えてくださるの です。私たちの親族に対する愛は、私たちの愛の中で親族ではなく神がいつも第一にという意味で純 粋なものとなるのです。

多くの人々は、父、母、妻たちに気を使って神に従いません。主は私たちの人生において主を第一とするように要求されます。もし主を第一としないなら、私たちは主の弟子となることはできません。イエスは、主である以上、私たち人生におけるすべての主でなければなりません。

イエスがこの世におられた時、示されたことを見てみましょう。イエスは母を愛されましたが、母がどんな小さなことでも父の完全な御心に沿わないようなことをされるのを許されませんでした。私たちは、イエスの母がなされたことに対し何の関わりがありますかと言われたカナの婚礼にこのことを見ます(ヨハネ2:4)。

イエスはまた私たちに兄弟たちを「憎む」とはどのようなことかと教えられました。ペテロがイエスが十字架に架かられるのを拒もうとした時、イエスは振り向いて今まで誰にも言ったことがないような厳しい言葉でペテロを咎めました。「サタンよ、引きさがれ!」と。あなたは私の邪魔をするものだ(マタイ 16:23)。ペテロは、人間的な愛を持ってこのことを言った訳ですが、イエスはペテロが父の御心とは反対のことを言ったので、彼を咎めたのです。

天の父に対するイエスの愛は何よりも優るものでした。イエスは私たちがイエスに対して同じようにすることを望んでおられます。主は蘇られた後、ペテロにこの世のなによりもご自分を愛するかと聞かれ、その後で教会の羊を養うように言われました(ヨハネ 21:15-17)。主を第一に愛する者だけが主の教会において責任が与えられています。

エペソの教会の指導者は、主への最初の愛(献身)を失ったので、主に拒まれる危機状態にあった

(黙示 2:1-5)。もし私たちが詩篇を書いた人のように「わたしはあなたのほかに, だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇 73:25)と言うことができるなら、私たちは弟子としての条件を完全に満たしているのです。イエスが私たちに求められる愛は、主に一生懸命に賛美して表現する感情的、感傷的、人間的な愛情ではありません。そうです、もし主を愛しているなら、主に従うのです(ヨハネ 14:21)。

弟子としての第 2 の条件は、自分自身の命を憎むということです。イエスはア「わたしのもとに来て, 自分のいのちまでも憎まない者は, わたしの弟子になることができません」(ルカ 14:26)と言われ、更に強調して、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は, わたしの弟子になることはできません」

(ルカ 14:27)と言われました。

イエスは、弟子は「自分を捨て, 日々自分の十字架を負わなければならない」(ルカ9:23)と言われました。日々聖書を読み、祈ることよりもっと大切なことは、自分を捨て、日々自分の十字架を背負っていかなければならないことです。自分を捨てると言うことは自分の命、すなわち私たちがアダムから受け継いできた命を捨てると言うことです。十字架を取るということは、そのような自分の命を死にやるということです。自分の命を死にやる前に、まず、この命を憎まなければなりません。

自分の命はキリストの命の主たる敵です。聖書は「肉」と言っています。肉は私たちに内在する悪い欲望の貯蔵庫で、いつも自分の好きなように振る舞うように、自分自身の益、名誉、楽しみ自分の道を求めるように仕向けます。

もし私たちが誠実であれば、私たちの最も良い行いでさえ私たちの腐敗した欲望から来る悪い動機により壊されるということをみとめなければならないでしょう。この「肉」を憎まない限り私たちは決して主に従くことはできないのです。

こんな訳でイエスは自分の命を憎む(失う)ことについてたくさん語られました。事実、この聖句は福音書(マタイ 10:39、マルコ 8:35、ルカ 9:24、14:26、ヨハネ 12:25)6 回出てきます。これは福音書で最も良く繰り返し出てくるイエスの言葉の一つです。しかも、最小で最も理解されていない説教です。

自分の命を憎むことは、私たちの権利や特権を求めず、名誉を求めず、自分の野心や利益を捨て、自分の道を歩むことを止めるということです。私たちは、ただこのような道を喜んで歩むなら、イエスの弟子となることができます。

弟子となる第 3 の条件は、私たちは自分の所有物をすべて捨てなければならないということです。イエスは、「あなたがたはだれでも, 自分の財産全部を捨てないでは, わたしの弟子になることはできません。」と言われました(ルカ 14:33)。私たちの所有物とは、自分自身のものとして所有しているものです。それをすべて捨てると言うことは、もはやそれを自分のものとしないとすることです。

私たちはアブラハムの人生においてこのことをはっきり見ることができます。イサクはアブラハムの子、 彼のものでした。ある日、神はアブラハムにイサクをいけにえとして捧げなさいと言われました。そしてア ブラハムはイサクを祭壇の上に置き、彼を殺そうとしました。しかし、神はそれを止められ、アブラハムに、神に忠実なことが分かったのでいけにえは必要ないと言われました(創世記 22)。その後、アブラハムは、イサクは彼の家に住んだけれども、もはや彼自身の子でないことを悟ったのです。イサクは今や神のも のなのです。

これが、私たちの持っているものを捨てるということです。すべて私たちが持っているものは祭壇に置き神に捧げなければなりません。

神は私たちがそのものをある程度使うことを許されるかもしれません。しかし、それらはもはや自分のものと考えることはできないのです。たとえもし自分自身の家に住んでいても、私たちは神の家ろ考えなければなりません。つまり、神は家賃無料で私たちに貸してくださったのです。これが本当の弟子であることなのです。

私たちは自分の所有物をそのようにしたでしょうか。私たちの所有物とは、銀行預金、資産、仕事、資格、才能や特技、妻、子どもなどこの世で価値をおいているものすべてのものです。私たちは、真の弟子になりたいなら、それらすべてを祭壇に置かなければなりません。

その時になって始めて私たちは神を心から愛することができるのです。これはマタイ5:8 で語られた「清い心」なのです。きれいな想いを抱くのは十分ではありません。きれいな想いは、私たちが気づいているすべての罪を捨てたと言うことです。清い心は私たちが全てを捨て去ったということです。

ということで、真の弟子であるというのは、以下ことに対しての態度の抜本的な変化があるということが分かります。

(a)私たちの親戚や愛する人々(b)自分自身の人生(命) (c)所有物

もし私たちがこれらのことに正面から真摯にとりくまなければ、いつまでも神の御心をすべて成就することは不可能でしょう。もし説教者がこの弟子化のメッセージを「水で薄める」ことなく、明言しないなら、キリストのみ身体を立て上げることはできないでしょう。

弟子になるためのステップ

マタイ 28:20 は続けて弟子は主から与えられた一つ一つの命令に従い実践することを教えられなければならないと言っています。これは弟子になるために通らなければならない道です。ある者はマタイ

5,6,7 章を読んで、イエスが与えたいくつかの、ほとんどの信者が従うことができるような命令を見ます。弟子は学ぶものであり、従うものです。

私たちの国(この世)での必要は、神の全忠告を述べる召しにあずかってきた人々、イエスのご命令に自ら忠実な人々、イエスのすべてのご命令に従うようにまた他の人々に教える、すなわちキリストのみ身体を立て上げる人々のためです。イエスは弟子に一つの印、すなわちお互いに愛し合うことによって私の弟子であることを人々は認めるであろうと言われました(ヨハネ 13:35)。

そのことを覚えておきなさい!イエスキリストの弟子は、彼らのメッセージの内容や音楽、「異言で語る」こと、集会に聖書を持って行くこと、集会でうるさいほどに話すことなどによって認められるのではありません!!彼らは互いに愛し合う深い愛により認められるのです。

人々をキリストのもとに導く伝道集会は、弟子たちが互いに愛し合う教会が築かれているところでないといけません。しかし、悲しいことは、毎年伝道集会が何度も開かれている多くの場所で、教会の中で信者間でごたごたもなく、互いに愛し合っている教会を一つなりとも見つけることが難しいのです。新しく信じた人に勝利の生活がすぐにできないことは理解できます。しかし、もし争いや未熟さがこの世の教会の長老や指導者にあれば、なんと言ったらいいのでしょうか?

大宣教命令の中で2 番目に最も重要な部分(マタイ28:19,20)である、弟子化とイエスの命令に完全に従うことは、完全に無視されているのです。大宣教命令の最初の部分(マルコ 16:15)だけが通常どこでも強調されています。強調されているのは伝道、主による印と不思議により確信を得るメッセージです。

しかし、マタイ 28:19-20 では、強調されているのは弟子化、イエスのご命令に全面的に従うことにより明らかにされている弟子の生き方です。非常に多くのクリスチャンは、前者を取りますが、後者を取るのは極わずかなクリスチャンです。しかも、前者だけを取ることは人間の体の半分と同じように不完全で意味のないものになります。何人の人がこのような状態を見たことがあるでしょうか?

イエスの働きにおいて、私たちは彼の伝道的癒しの働きのために非常に多くの人々がイエスに従っていたことを聖書から読みました。イエスはいつも彼らの方を向いて弟子になるということはどういうことか教えました(ルカ 14:25,26)。今日の伝道者が、彼ら自身で、或いは、使徒や預言者や教師や牧者と協力して、始めた働きを完成することができればいいのですが。

なぜ説教者は弟子化のメッセージをすることに躊躇しているのでしょうか。それは、信徒の数が減るからです。しかし、彼らが分かっていないのは、教会はずっと良くなるということです!!

イエスが大衆に弟子になることについて説教された時、その大勢の人数はたった 11 人の弟子にまで

に減りました(ヨハネ 6:2 と 6:70 を比較)。他の人々にはそのメッセージは難しすぎて立ち去っていきまし

た(ヨハネ 6:60,66)。しかし、神が最終的に世での目的を成就されたのは、イエスに留まった一握りの 11

人の弟子と共にされたのです。

今日この世でのキリストのみ身体として、私たちは、あの 11 人の弟子たちが1世紀に始めたのと同じ働きをしなければなりません。人々がキリストのもとに導かれた後、弟子の訓練と従うことを学ばなければなりません。これで、キリストのみ身体を立て上げることになります。

聞く耳のある者は、聞くが良い。

 章 2
弟子であることと家庭

弟子は主イエスの学ぶ者(生徒)であり従う者です。イエスを自分の模範とした者で、自分の人生をあらゆる方法でその主人に合わせることを求めます。無償の愛の行いのように弟子の行いはまず第一に家庭で始まります。

弟子であることと両親

真の弟子であるための基礎は私たちの生活(人生)においてイエスキリストをすべての主とし、自分の持っているもの、自分のすべてを主に捧げることです。

まず第一に、ルカ 14:16 で主が命じられたようににどのようにして自分の両親を「憎む」かということを考えてみましょう。

最初のステップは、両親を尊重することです。これは約束と共にある最初の命令です(エペソ 6:2)。私たちは、両親を尊重するようになってからでないと、主が私たちに望まれる方法で両親を憎むことはできません。今日世界には両親を憎んでこの上なく喜ぶ邪悪な子どもたちがたくさんいます!!カルトもまたこの個所を拡大解釈して両親を決して尊重することのない若い人々を集めています。

イエスの模範は、弟子なら従がわなければならないことなのです。もし、私たちがそうすれば、私たちは決して迷うことはありません。しかし、もし主のみ言葉を主の示されたことを見ないで解釈するならば、多くのクリスチャンがそうしたように、私たちも道を外れてしまいます。私たちの主は私たちに「私から学びなさい」(マタイ 11:29)と言われました。

イエスは地上の母をどのようにして「憎んだ」のでしょう。まず第一に、イエスはヨセフとマリヤを、ナザレの家におられる間は親の権威に服従して尊重されました(ルカ 2:51)。

イエスがおられた時の 30 年間のことについて聖書に 2 つのことが書かれています。

まず第 1 に、ヘブル 4:15 には、イエスが私たちと同じように試みに会わされたが、決して罪を犯さなか

ったことが書かれています。そのことから、イエスはナザレにいた時の30 年間多くの試みに会われた、す

なわち、人が子どもから 30 歳の大人になるまでに遭遇するのと同じような誘惑に会われたに違いないことが分かります。

マルコ 6:3 では、イエスは少なくとも 4 人の兄弟と 2 人の姉妹がいたことが書かれています。同じ家に

合わせて 9 人が貧しい家に住んでいたわけです。(ルカ 2:24 とレビ記 12:8 を比較し、マリヤは貧しかっ

たので 1 匹の子羊さえ主に捧げることができなかったことを知ると、貧しい家庭であったことが理解できま

す。)それで、家の中でうまくいかないことが起こっても逃れる個室はありませんでした。ヨハネ 7:5 でも、イエスの兄弟はイエスを信じなかったとあります。兄弟たちは、家族の中で決して怒らず勝手なこともしないこのイエスに妬みを持っていました。兄弟たちは一丸となってイエスに何度も立ち向かい、試み、苛立たせました。小さい家に住んでいる未信者の大家族なら誰でもイエスがナザレで遭遇したに違いない問題が分かるでしょう。でも、イエスは決して罪を犯さなかったのです。更に付け加えれば、イエスが 10 代

又は 20 代の時(イエスが働かれていた期間、ヨセフのことには触れていませんので推定です)に父ヨセフを亡くしています。それで、8 人の家族を養うという重荷が長男のイエスにのしかかって来ました。彼は良く働き、家族を支えました。そのような状況の中でたくさんの誘惑あったことと思います。でも、彼は罪を犯しませんでした。

第 2 に、イエスは 30 年間両親の家に住んでいる間、「ヨセフとマリヤに仕えられた」(ルカ 2:51)。私たちが自分の子どもの時代からみんな知っているように、このことは易しくなかったでしょう。子どもの頃私たちが何かしたい時、両親から何度自分がしたくない他のことをしなさいと言われたでしょうか。

それで、イエスが示された模範をすべての私たちの子どもに対して掲げることができます。父親は「主の訓戒」の中で子どもを育てるように言われます(エペソ 6:4)。「主の訓戒」とは何でしょうか。それは、主に、イエスがナザレにいた間、主ご自身が子どもたちのためにたてられた手本なのです。

もし男の子か女の子が上記の 2 つの部分について見てきた主の模範に従うなら、イエスご自身について書かれているように神の知恵と寵愛を受けて育つでしょう(ルカ 2:52)。

私たちが大人になって結婚した時も、私たちは年老いた両親に敬意を払わなければなりません。創世記 9:21-27 には、ノアの息子のハムが酔ってテントで裸で寝ているのを見たことが書いてありいます。ハムは、洪水の前に結婚しており、もう大人でした。彼は、兄弟のところへ行ってこのことを話し、父を侮辱

(恥をかかす)しました。ハムの言ったことは本当でしたが、彼は父を敬わなかったのです。そしてハムと彼の家族は結果として呪われました。中傷する人、悪口を言う人は、本当のことを言ったとしても呪われます。そのようの人はイエス・キリストの弟子になることができません。

ノアの他の二人の兄弟、セムとヤペテは、父の裸を見ないようにして後ろ向きに歩き、覆いをかけて、年老いた父を敬いました。そして、彼らとその家族は祝福されたのです。

この話しから学べることは神は自分の両親を敬う者を祝福し、さげすむ者を呪われることです。この話しは、私たち老いも若きもすべての者に警告と模範として聖書の最初にきちんと置かれています。

ヨセフとマリヤは(旧訳時代の契約に従い)神を敬う人でしたが、私たちは彼らが(ローマ 6:16 に述べられている、明かに新しい契約の約束である)罪の問題を克服したのではないことを覚えておかなければ なりません。彼らには、今日のように、まだ聖霊の働きがなく、恵みのもとに来ることができなかったので す。それで、彼らは家で言い争いもあって、互いに平常心を失い、いろいろ罪も犯したに違いないと思 います。(もしこのことがなかなか信じられないなら、多分、マリヤが純潔だったと思われているかも知れ ません!!)イエスはヨセフとマリヤがナザレの家で何度も何度も罪を犯すのを見たにちがいありません。でも、イエスはご両親をさげすみませんでした。これは自分の両親を敬うことの意味の大切な(主要な) 部分です。

箴言 23:22 にはこう書いてあります。「あなたの年老いた母をさげすんではならない」。もし、あなたの両親が過ちを犯すのを見るなら(裸の姿)、さげすんではいけません。その弱い部分に覆いをし、だれにもその弱さを話してはいけません。実際、本当の愛のあるところには「多くの罪が覆い隠される」ということですから、私たちは、すべての人々にはこのような接し方をすべきなのです。

もしあなたが新しく生まれ、両親はまだそうでなく、彼らはあなたに聖書のみ言葉に反することをするように言うなら(例えば、偶像崇拝や未信者との結婚等)、あなたは彼らに敬意を払いつつ神のみ言葉によりそのようなことはできないことを話してください。あなたは主の側に立たねばなりません。しかし、偉そうにそうしないでください。やさしく、うまくしてください。

しかし、み言葉に不忠実なことがないような事がらにおいては、子どもは家にいる時は両親に従わなければなりません。しかし、家を出たなら、自分の家庭を築き、親から独立します。でも、親を尊敬し大切にしなければなりません。

このことはまた、イエスのなされたことで分かります。つまり、弟子たちは従わなければならないということ。イエスが 30 歳の時に家を出られ、バプテスマを受けられた後、福音書に書かれている最初の出来事

は、カナの婚礼でした。マリヤはもう 30 年間もイエスを家庭では多くの問題を解決した従順な息子として見ていました。それで、彼女は葡萄酒が足りないことで何かできるだろうと言うことは知っていました。彼女は多分奇跡が起こるとは考えていませんでした。これまでイエスが奇跡をなされたことはなかったからです。しかし、彼女は息子は賢くて独創性に富んだ子だということは家庭で見てきました。それで、彼女はイエスに何かしてほしいと頼みました。

そこで始めてイエスはマリヤにはっきり話すのを見ます。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう、女の方」(ヨハネ 2:4)。この時イエスは既に家を出られていたので、彼女に従う義務はありませんでした。

これが、イエスが弟子に自分の両親を「憎みなさい」と言われた時の意味です。私たちもこのことをただしく見極める必要があります。私たちは一緒に住んでいる時は両親に従い、次の神のご命令に関することにおいては両親を「憎ま」なければなりません。イエスがマリヤに「私の時はまだ来ていません」(ヨハネ

2:4)と言われたのは、神の御心を成し、父なる神がイエスに与えられた働きを成就する時だったのです。私たちは両親を離れて家をでたなら、もやは両親のもとにはいないのです。

すべての人に与えられた十戒の最初の戒律は「それゆえ, 男はその父母を離れ, 妻と結び合い, ふたりは一体となるのである」(創世記 2:25)であることは、興味深いことです。そして、この戒律はアダムには父母がいなかった時に与えられたものです!!結婚しようとする者のためにはっきりと書かれました。

残念なことに、インドのほとんどの結婚において、夫は神のこの戒律にしたがいません。私たちはクリスチャンでない人が奥さんよりも両親側についているのは、理解できます。しかし、このことについてインドのクリスチャンでない風習に従うクリスチャンについて何と言いましょうか?彼らは神が私たちの国(イン ド)に望まれる婚姻生活の形を明示しないのです。

まず物理的に両親のもとを離れるのは問題ではありませんが、精神的に離れることができるが問題です。夫の第一の忠誠と内的な繋がりは妻でなくてはならず両親ではありません。

同様に妻は自分の父の家を忘れよと言われます(詩篇 45:10)。

私たちは確かに両親が年老いて弱って来ると世話をしなければなりません。ここでもまた、イエスは、十字架で息を引き取られる時、ヨハネにご自分の母を彼の家に引き取るように言われたように(ヨハネ

19:26,27)、私たちに模範を示されています。しかし、両親が夫婦の中に入ることは決して許されないのです。インドの多くのクリスチャンは、過度な両親との愛着の故に、主に従うことができていないのです。

申命記 33:8-11 では、なぜレビ人は祭司になるよう神に選ばれたかが書かれています。彼らは神を自分の両親や子供たちより上に置いた報いとしてこの役目が与えられたのです。モーセがイスラエルが金の子牛を拝んでいるのを見て、彼とともに主につく者は誰かと聞いた時、レビ人たちだけが前に出てモーセの傍に立ったのです。レビ人たちは、宿営の中の偶像崇拝を行ったおのおのその兄弟や隣人を剣で殺すように言われたのです(出エジプト 32:26-)。このレビ人はイエスの真の弟子の先駆者でした。

律法はモーセによりイスラエルの民にまさに数日前に与えられました。その律法においては、彼らは自分の両親を敬うように言われています(出エジプト20)。しかし、今や、剣を取って自分の身内を殺せと言われているのです。そこでは、2 つの真理を見ることができます。レビ人たちは身内が偶像を礼拝しているのを見た時、彼らを見逃し他の誰かを殺すこともあり得たでしょう。しかし、彼らはそうしませんでした。

「彼らは自分の父、母、兄弟、息子をも認めず、、、」(申命記 33:9)

一体何人のクリスチャンが、母親の涙を見て、または両親が「私たちがどれだけあなたのためにしてき たか見てみなさい」と言うのを聞いて動揺して、主のご命令に従わなかったことでしょうか。このようにして、そのような人々は自らをイエスの弟子に相応しくないものとしているのです。

一方、もしあなたが(多くの子どもたちがしているように)自分の勝手な理由で両親を憎んでいるなら、 このことはあてはまりません。あなたがまず学ばなければならないのは、自部の両親への敬意の払い方です。

まず両親を敬うことを学んだ者だけが、イエスが自分の両親を「憎め」と言われた時の意味を理解することができるのです。というのは、主が最初に「憎むこと」について話されたのは、自分の両親を敬うことができる人々に対してだったからです。

人間的なやさしさのゆえにイエスがされたように剣を使わない人々や妥協してしまう人々はこれからずーっと霊的に苦しむことでしょう。レビ人の息子たちが自分の両親に対してこのようなことをするのは辛いことでした。しかし、彼らは主のためにそうしました。

マラキ 2:4,5 では、主はレビ人に神を畏れ、その名を崇める故、命と平和の約束を与えたと言っておられます。しかし、その平和は剣でもたらされたのです!!

これらのことがらは今日ではどんな意味をもつでしょうか。レビ人が古い契約の時代にしたように実際の剣を他の人々に使うことはしません。今日私たちが「剣を使うこと」の意味は、私たちが自分の両親や親せきに対して抱いている人間的な愛/想いやりを断ち切り、神の愛に置き換えることです。自分の両親への人間的な愛では、彼らを助け喜ばすために罪を犯すことになる可能性があります。神の愛があるならば、私たちは罪を犯さないだけでなく、もっと深く、純粋に彼らを愛すことができ、憎まれても愛することができるでしょう!!

また、両親が私たちにしてほしいことと、神が私たちに望まれることとの間に葛藤がある場合、私たちは神に従わなければなりません。神が私たちが神を畏れる者なのか自分の親族を喜ばそうとする者なのかを試されるのは、そのような状況の時です。

私たちの両親や妻や子供や親族たちが私たちの人生に占める問題については、神が私たちの人生に占めることに対立するものとして、クリスチャン生活の最初にきちんとさせておかなければならないことです。

私たちが神を崇めるなら、神も私たちを支えられます。あなたが神の側に立つなら、両親でさえ祝福を受けます。神の究極の目的は、私たちのためであり、他の人々のためであります。妥協する人は霊的に失われてしまうだけでなく、両親も神の恵みを受けることがなくなるでしょう。主のご命令に従うなら、決して失われることはありません。

神がアブラハムにイサクを捧げるように言われた時、神が強調されていたことはこの同じ原理だったのです。イサクはアブラハムの心の拠りどころであり、アイドルだったのです。それで神はアブラハムにイサクを捧げなさいと言ったのです。

あなたの両親や妻や子供にたいしてそのような愛着を持ってはいけません。集会であなたの奥さんがあなたのところに来て、兄弟の一人について陰口するなら、あなたも陰口の中に入りますか、それともそれを密かに拒否しますか。あなたの奥さんを喜ばしたいですか。もしそうなら、あなたは自分自身を見失うことになります。しかし、あなたは自分自身を清く保つなら、自分を救うことになります。そして、行く行くは奥さんも救われるのです。このような「憎む」ということはすべての関係している人々にとって一番良い方法なのです。

もし私たちはそのようなことに熱心なら、誰も私たちが契約の祭司になることを止めることはできません。このことをもう一度いいます。あなたがご両親と対立する時、乱暴になってはいけません。やさしい態度 で「お父さん、すみません。これは、主のみ言葉に反するので、できません」と言ってください。沢山の信 じたばかりの人々が乱暴な態度と真理に立つことを混同しているので沢山の問題が生じています。

弟子であることと結婚

結婚は人の全人生を作り上げることもでき、損ねることもできるので、非常に重要な人生の段階です。結婚で神の御心を求めている若い人々は、主にまず自分が主の弟子であり、結婚は人生で最大のこ

とではなく、イエスに従うことが第一であることを告げなければなりません。

弟子とはすべてを捨てた人です。弟子は主が求められればよろこんで独身でいます。そのような若い人だけが結婚で神を第一とするのです。今日信者の中に多くの不幸せな結婚、そしてそのような結婚の中に調和がないのを見る時、彼らはまず主の弟子として結婚しなかったことは明らかです。

一度主を第一としたなら、私たちは神の御心を「安心」の土台から求めることができます。神はアダムを眠らせ、彼の妻を備えられました。アダムはパートナーを探して園の中を走りまわる必要はありませんでした!私たちも「静かにして」神の御心をおこなう必要があります。そして、必要な時に神ご自身が生涯のパートナーを私たちに与えられます。これは私たちがパートナーを探し求めてはいけないということではなくて、慌てふためく必要がないということです。

男性が 25 歳、女性が 20 歳になると、生涯のパートナーを求めて祈り始めるべきです。あなたがこの年になる前までは、結婚のことは考えずに主と主のみ言葉とその働きに携わるべきです。外側だけで人を見ないでください。非常に心を惹かれるパートナーに出会っても、「他の人に取られたくないからすぐに捕まえないといけない!」とは言わないでください。もし神が本当にその人をあなたのパートナーに選ばれたのなら、神は、その人をあなたのために取っておいてくださいます!!もしあなたが本当に主の弟子であるなら、主はあなたに最も良い人を備えてくださいます。

ダビデはサウルから王座を奪い取ろうとはしませんでしたが、神の時を待ち、そして神はダビデを「わたしの心にかなった者」(使徒 13:22)と呼びました。あなたも神を待ち、そのみ手から全てを受けようとするなら、神はあなたについても同じように言われます。もしあなたが神のみ国をまず求めてあなたの時間を ささげるなら、あなたは結婚の問題を安心して神に任すことができます。あなたが神を崇めるなら、神もあなたを支えられます。

箴言 19:14 では、家と富とは先祖からうけつぐもの, 賢い妻は主から賜わるものであると述べている。だからあなたの結婚相手を主から求めてください。

生涯のパートナーを見つけることについては弟子はどうすべきでしょうか。

私は「見合い」結婚、つまり神により整えられた結婚を強く信じています。聖書には二つの結婚について書かれています。神はアダムのパートナーを用意されました。そして神はイサクのパートナーを用意されました。そして私自身の証ですが、神は私の最高のパートナーも用意してくれました。

主はその御目をもって, あまねく全地を見渡し, その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです(2 歴代 16:9)。誰も神のように全世界を見渡すことはできません。主に信頼する人は決して失望に終わることはありません。

それで、もしあなたが良き妻や夫を望むなら、まず全身全霊で持ってイエスの弟子になってください。そして、神ご自身があなたの結婚を整えてくださいます。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」アブラハムの僕は主にイサクのために良き女性のところに導いてくださいと祈り願いました。そして主はそうされました(創世記 24)。

聖書は神が心の一新によって私たちに御心を表されると言っています(ローマ 12:2)。それで、私たちは完全な神の御心であると分かるために自分の心が変えられるようにしなければなりません。新しくされた心というのは、神の観点から人を見ることができるようになった心です。

箴言 31:10-31 には、神が勧められる妻について書かれています。そこでは、結婚において女性を考える時すべての若い男性が捜している点が述べられています。それは、すべての若い男性が人生において求めるべき価値です。

多くの若い男性は、箴言 31:30 にむなしく偽りだと言っている、美しくて魅力ある女性を捜します。箴言

11:22 では、きつい口調で、美しいが, たしなみのない女は(神を恐れることはたしなみの第一歩である), 金の輪が豚の鼻にあるようだと言っています。ある男たちは、「指輪」(美しい顔)と親しくなり、豚(その女性)と結婚する。

箴言 31 章に書かれている女性は、毎朝早く起き、良く働く人です(13,15 節)。彼女は家族のためにぶどう畑を作り(16 節)、お金を使うのに注意深く、貧しい人を助け、「その舌には恵みのおしえ」があります

(26 節)。いいかえれば、彼女はよく働き、質素で、寛大で、話す言葉は優しさで満ちているのです。

彼女の手はきつい仕事で分厚く、舌はソフトです。残念なことに、今日多くのクリスチャンについて見ることは、まったく反対で、手は(怠慢により)柔らかく、舌は(高慢のため)硬いのです!! そのような女性と結婚する男の人は災難です!!

良き妻は、いつも聖書を学んでいる女性の中にいるとは限りません。若い男の人は宗教活動と霊性とを間違わないよう注意すべきです。あなたが結婚した時、あなたに必要なのは妻であり、子どもには母親が必要です。あなたの中の誰も聖書の教師である女性を必要としないでしょう。このことを覚えておいてください!

雅歌 8:9 では二つのタイプの女性、城壁のような女性とドアのような女性、について言っています。ドアは、あなたのところに近づく「前向き」な女性で、心を広く開けています。城壁は、神がすべての女性を造られたように、穏やかで控えめな女性です。もし女性がドアのようなら、聖書を続けて読むと、彼女の両親は彼女をバリケードで囲まなければならない(つまり、いろいろな方法で彼女を抑える)とあります。しかし、もし彼女が城壁、または宮殿のようなら、彼女の生活を通して信仰の家を建てることができるのです。

1ペテロ 3:3-4 には、神が女性の中に捜しておられる最も価値あるものは、「やさしい、静かな霊」であるので、イエスの弟子になりたいすべての女性に、高価な服や宝石を避けるように言っています。弟子 は基本的には着ているもので評価されませんが、女性の装いが彼女の性格を表しているのは本当です。女性が心に抱いている価値はしばしば着ている服装に現れます。イエスの弟子なら、だらしない、身だ しなみのない服装はしないでしょう。しかし、また、派手で高価な服や宝石に金を使わないでしょう。

霊的な妻を捜している若い男性は、やさしい静かな霊、勤勉、穏やかな話しぶり、謙虚さ、簡素に加えて、まず神を恐れることを求めるべきです。

女性が結婚のことを考える時、ふつうは、教育、お金、容姿を相手に求めます。女性が結婚において家族を養うことができない男性のことを考えるべきでないことは真実で、聖書はすべての男性は、家庭と家族を築く前に、まず仕事に精を出す(収入を得る方法)ように言っています。しかし、それだけが全てではありません!

女性として、先ず、あなたの考えている男性が全身全霊あなたが見上げることができるイエスの弟子か どうか確認する必要があります。あなたは喜んで、聖書があなたにそうするように言っているだけではなく、彼をあなたの頭とすることができますか?これが、男性のことを考える時、まずあなたが自分に問いかけ る必要のある最初の一つです。

弟子であることと家庭

マラキ 2:25 では、神の子孫を授かるために神が男とその妻を一つにされたことを読みました。誰もが子

供を育てることができます。しかし、イエスの弟子は信仰の子供を育てます。

このことについ、てまず最初の要求は両親の少なくとも一方が、全身全霊をもって主を愛するイエスの心からの弟子でなければなりません。

次に重要な要求は、夫と妻とが一つになることです。これは、もし相手が弟子でなければできないこと でしょう。そうなれば、もう一人のパートナーは子供のことでサタンと一人戦わなければなりません。しかし、もし両者が心から心からするなら仕事は、ずっと簡単です。このことは、正しく結婚相手を選ぶことがどんなに大切かという理由です。

もし夫と妻がいつも互いに口論し、責め合っているなら、子供を信仰面において育てるのは難しいでしょう。もしあなたが霊的な家庭を築きたいなら、結果として、あなたが自分の権利の多くを捨てなければならなくても、どんなことをしても夫と妻とが一体になることを求めなさい。あなたは供が主に従うものとなるのを見るとき、これはつどのつまり価値あるものとなるのです。

二人の弟子が一つになる時、大きな力となります。イエスはマタイ 18:18-20 で、二人の弟子が地上で一つになるなら天におけるサタンの働きを縛る力を得ます(エペソ 6:12)と言われました。このようにして私たちは私たちの家庭から悪を遠ざけ、子供への影響がないようにすることができます。

エペソ 5:22~6:9 では、聖霊が妻と夫、子供と両親、僕と主人との関係について語っています。すぐ後の節(10 節~)では、続けて聖霊が悪霊との霊的な戦いについて語っています。そのことは私たちに何を語っているのでしょうか。これですよ、あれですよ、と悪魔は家庭での関係を第一に指図してきます。ここに私たちが悪魔にうち勝たなければならない場合があるのです。

お互いに言い争っている夫と妻は、実は自分たちが悪魔にドアを開け(夫婦の溝から入ってくる)、家庭に入って子供たちを攻撃することが分かっていないのです。親にふてぶてしく反応する反抗的な子供は、お母さんがお父さんに話すのと同じような方法で話すようになり、またはお父さんが主にある面反抗的であるのを見て、その態度がうつるのです。可哀そうな子供を最初に両親が家庭に持ち込んだ伝染病にかかったからと言って攻めるのは無駄です。まず悔い改めるべきは両親です。

家庭での一致はあなたの家の大きさや美しさ、または道具/家具よりはるかに重要なものです。神の栄光は、まず主の弟子なら、小屋に住んでいる家族に現れることができるのです。

イエスの真の弟子は、アダムとエバがエデン罹った「他の人の責任にする」という恐ろしい病から解放されるでしょう。アダムは彼が犯した罪でエバを攻め、エバは自分のしたことを蛇のせいにしました。

天のみ国は「心の貧しい人」のものです(マタイ 5:3)。心の貧しい人の第一の特性は、その人が自分の失敗を認識しており、まず自分は足りないと思っているのです。心の貧しい夫と妻は地上で彼らの家庭

を天のみ国に変え、自分を裁き他人を責めることはしません。そのような家庭で子供たちはどんなに素晴らしい恵みを引き継ぐか想像できますか?

「仕事をしている母親」について一言いわせてください。私たちの時代には、ある町では高い生活費のため、このことは残念ながら必要になっています。しかし、そのような母親にたいして憶えてほしいある原理があるのです。

テトス 2:5 では、神が女性に望まれることは、まず「家庭での労働者」であることです。だからどの母親も、家の外の仕事を求めるあまり家庭の責任を放棄すべきではありません。愛情と献身においては、第一に主、次に夫、子供の順でなければなりません。妻の仕事(もしそれをしなければならないなら)は、先の 3

つの後の 4 番目に来なければなりません。

子供のいない結婚した女性は、あまり問題なく働きに行くことができます。 近年小さな子供がいる母親が働きに行く理由が2つあります。

1. 夫の収入が家庭を支えるのに十分でない場合、生活のため。

2. 夫と妻がもっと楽な生活をしたいため。

もしあなたが神の前に正直に働く理由は生活のためですと言うなら、あなたは神があなたの家族のすべての責任に対して特別な祝福を与えられるでしょう。

しかし、もし本当の理由が贅沢であれば、あなたは本当に危険な状態にいることを警告しなければなりません。何年もの後、あなたの子供が家を出て、好き勝手なことをし神に対して役に立たない者になって、あなたはその結果の刈り取りをすることになるでしょう。

神は私がただしてきたことを説教していることの証人です。私の妻は 1969 年に長男が生まれた時医者の仕事をしていました。その時、私たちの収入はその日暮らしができるほどのわずかなもので、貯金は 全くありませんでした。しかし、私たちは、妻が仕事をやめ、家にいて家族の世話をすることを決めました。その後28 年間、彼女は決して仕事に着かず4 人の子供を育て、主を愛し従ってきました。その結果はど

うだったでしょう。今私たちは 4 人の息子がみな新しく生まれ洗礼を受け主に従い、主の証をしているの

を見て喜びで一杯です。そのような祝福は妻が 28 年間働いて稼いだなら得られる 3,4 百万ルピーに比べはるかに大きいものです。私たちは今、全く後悔していません。私たちはここで主のみ心を求めている他のお母さんたちをただ励ましたく証をしているのです。

本当の弟子は、家に入ってくる雑誌や本、家族が見ているテレビやビデオ番組にも注意するでしょう。家の長としての夫は、世的なものが家庭に入って来ないようにする厳重な門番のようでなけれななりません。工場でいえば、各品物を検査し保証する品質保証課の課長のようなものです。子供が主の弟子に

なることを願う親は、そのようなことにおいて子供たちの言いなりにならないようにしなければなりません。それは愛ではなく、主に対して愚かなことであり、不信仰なことだからです。

強い教会はどれも強い家庭があります。もし家庭が弱ければ、教会も弱いのです。教会の強さは大きい音にではなく、あるいは心地よい歌にでもなく、あるいはよい説教にあるのではありません。それは、その教会を作っている家庭の神を敬うところにあるのです。

私たちが主にあって家庭を築き、主の栄光を帰することができますように。


 章 3
弟子と金銭

「しもべは, ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり, または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは, 神にも仕え, また富にも仕えるということはできません。」(ルカ 16:13)

ここで主は、神に代わる主人は富の神(拝金主義と物欲者)であると明言されています。代わりの主人は悪魔ではありません。なぜなら弟子は誰も悪魔を愛しながら、同時に神を愛する危険性はないからです。しかし、富の神に関しては、危険があります。

私たちがこの世に生きている限り、毎日金銭を扱わなければなりません。もし私たちが注意しないと、イエスの弟子のように、私たちは、神と金銭を同時に愛すことができるのではという危険に面します。

金銭は私たちを容易に虜にし、主の弟子になることを妨げることができます。だから、私たちは、丁度悪魔に対しいい加減な態度を取ることができないように、お金に対していい加減な態度を取ることはできません。私たちは、主の弟子であるか、富の神の弟子であるかのどちらかなのです。両方の弟子になることはできません。神を喜ばせようとするのか、金儲けに走るのかのどちらかです。磁石に N 極と S 極があるように、2 つの相反するものがあります。もし私たちが真に神に向いているなら、お金から離れることでしょう。神を本当に愛するために、富の神を憎まなければなりません。このことを真理として受け止めるか、イエスが嘘を言っていることで非難するかどちらかしなければなりません。

金銭をさげすむことは、あなたがそれを大事に思わないという意味です。あなたはお金を使いますが、それに固守してはいません。天国では、通りは金でできています。地上のこのところでは、人々は金を頭の上に置きますが、天国ではかかとの下に置きます。天国は、この世でお金をかかとの下に置くことができるようになった人々のために備えられているのです。

イエスは彼の弟子に多くのことについて革新的なことを言いました。彼は、もし私たちの右の眼が情欲を持ってみるなら、「それを引き抜きなさい」と言われました。それについて、イエスは目で罪を犯すことがどれほど重いことかを私たちに言っているのです。イエスはまたイエスに従っていくために私たちの親戚を「憎まなければならない」と言いました。それについてイエスはイエスに従うことに対する主なる反対は家族から来ると指摘しています。正に同じようにして、イエスもまた金銭について根本的なことを述べ られています。神を愛するためには、人はお金を憎まなければならない。お金は多くのクリスチャンの手にくっついています。これが、神にすがりつけない理由です。しかし、この命令を真剣に受け止めているクリスチャンはほとんどいません。それで、弟子の道を決して歩くことのできないのです。

主は弟子たちをジャングルに住み、結婚、仕事、財産、金銭を捨てるような禁欲主義者になるよう招きませんでした。クリスチャンはバプテストのヨハネの弟子ではありません、イエスの弟子です。また、イエスは生涯のほとんどを大工として働き、彼の地上の家族を養いました。

イエスは地上のものに対する彼の態度においてバランスが取れていました。彼は婚宴で沢山の葡萄酒を作ることができ、また 40 日間断食もできました。真の弟子もまたご馳走の楽しみ方を知り、また必要な時には断食する方法を知っています。

金銭を愛することは私たちすべての者の中にあります。金銭を愛さないと思っているものは、自分を欺いているか、嘘をついています。というのは、人間は誰もお金を愛するものだからです。聖書は「お金を愛することはあらゆる悪の根源である。」と言っています。主だけが私たちをそれから解放することができます。

聖書には、最初はうまく行くのですが、お金に走ることにより神の一番良い物をなくしてしまうというような多くの例が書かれています。ロトはソドムに行きお金を設け、それによって彼の全家族を滅ぼしてしましました。バラームはお金についての預言を通して自らを滅ぼしてしましました。ゲハジは神の預言者になる機会を逃しました、なぜなら彼はナーマンのお金を追い求めたからです。

金銭関係における義

もし人が改心した時までに金銭関係で不正をおこなったことがあれば、彼は改心した後、神が私の過去を許してくださったので、過去にした不正をただす努力をする必要はないと言うことはできません。盗んだお金は改心したらできるだけ早く返さなければなりません。負債もできるだけ早く返済しなければなりません。たとえもしあなたが、2,3 回の食事を抜いて、あなたの内の不必要な物を売らなければならなくでも、あなたはそのことをし、そのような問題の決着をすぐにしなければなりません。このことが弟子になる方法です。

多分あなたは返済するお金がないかも知れません。あなたはまず少しだけでも返済することから取りかかることができるでしょう?多分毎月10ルピーとかです。神は、神を敬う者にを敬われるのです。聖書には「もし熱意があるならば, 持たない物によってではなく, 持っている程度に応じて, それは受納されるのです。(2コリント 8:12)」とあります。救いがその人のところに来たとイエスが言われたのは、ザーカイが返済しますと約束した時で、それよりも前ではなかったのです(ルカ 19:9)。神は不義を決して祝福されません。多くのクリスチャンが霊的に成長していないのは、彼らが返済をしていないということによります。

ローマ13:8 は私たちは誰にも負債がないようにと強く言っています。もし私たちがお金を借りたら、できるだけ早く返すべきです。神がイスラエルの民に約束した恵みの一つは、もし神に従うなら決してお金を借りてはならないことでした(申命記 28:12)。ローンで物を買うことは借りものをして借金することの別の

方法です。神の恵みなしで生きるよりは、物がなくて生きる方がいいのです。

銀行や誰かの事務所から借りるローンについてはどうでしょうか。ローンで家を建てたり車を買うのは正しいのでしょうか。ここで心に留めておかなければならない基本的なことは、「借金と返済のバランス」の問題です。もしあなたの借金に相当する額のもの(家や車やスクーター)を担保として一つでもあれば、あなたは本当に借金をしているのではないのです。もしあなたが急に死ぬとすれば、あなたの妻はその負債を負うことはないでしょう。家や車は売ることができ、負債は返せます。しかしもし婚宴のためにお金を借りて使ってしまうなら、あなたは借金の担保として何もなく、あなたには負債を持ていることになります。これは私たちが避けるべきタイプの負債です。

多くいのクリスチャンは婚姻にお金を使う場合、とても愚かです。多くの結婚した夫婦は、結婚式の日に盛大な披露宴をしたかったため、結婚生活を負債を抱えて始めます。すべて盛大な披露宴をしたかったという理由で何年もかかって借金を返済することになるのです。彼らは、簡単な披露宴をすれば他の人々は何と言うのだろうかと恐れていますが、神が何年もかかって返済する借金を抱えていることをどう思っておられるかは心配していないのです。コーヒーとビスケットだけで披露宴で十分という信者の方々のために神に感謝します。彼らができる範囲のことでされているのですから。もしあなたが盛大な披露宴を催せるだけのお金があれば、好きなようにしてもいいのです。しかし、もしあなたがそのために借金をするなら神を汚すことになります。このことは、急進的/過激に思えるかもしれませんが、弟子である ことは急進的なことです。

花嫁の持参金もまた多くの信者の間に見られる悪です。イエスの本当の弟子は結婚の条件に花嫁やその家族から持参金を要求しません。花嫁の父親が彼女が結婚した後に贈り物をするのはなにも悪いことはありません。しかし、お金を結婚を決める要因とするのは、悪そのものです。今日インドの持参金制度は悪魔的です。しかもほとんどの教派のクリスチャン(伝道派、改革派)がそれを受け取っているのです。

フランスの無神論者ヴォルテールは、18 世紀におけるヨーロッパのクリスチャンを何年にもわたって見て来たあと、多くのキリスト教派の教義が異なっても、結局はお金については同じ教義を持っている、つまり彼らは金銭を愛しているのだと言いました。花嫁の持参金についても同じです。彼らはお金を愛しているのです。

水のバプテスマについてよりも持参金についての正しい聖書的な見方を持つ方がもっと重要です。なぜなら、人が幼児洗礼を受けたとしても、天国に入れるのだから。しかし、貪欲なものはだれも神の国に入ることができません(1コリント 6:10 より)。

神が私たちに与えてくださったことに満足することは神を敬うことのもう一つの大切な部分です。イエスの弟子はみな自分が稼いだ収入の範囲内で生活するようにしなければなりません。神は、神の子がどれだけ稼ぐかを決める唯一のお方です。聖書には、自分を他人と比べるのは知恵のないことだ(2コリン ト 10:12)とあります。神が私たちに描かれた範囲内で生きることというのは、例えば、他の家族が持っていても、買える余裕がなければ買わないと言うことです。私たちは分相応のことで満足することを知らなければなりません。

馬屋でイエスを出産したマリヤの態度を考えてみましょう。彼女は赤子を産んだ時、きれいな部屋とか個室はありませんでした。しかし、彼女は不平を言いませんでした。彼女は自分を低くし、神が沢山示されたことを受け入れました。これが、自分の与えられた範囲のことでよしとすることです。

金銭関係における忠実さ

私たちが収入内で生活し、負債をしないようにし、金銭関係に忠実であることだけでは十分ではありません。私たちは神が私たちに与えたお金に忠実であり続けなければならないのです。

申命記 8:18 には、私たちを富ませる力を与えるのは神であるとあります。私たちは、神が乞食の家庭に生まれることを許されることもあることを忘れてはなりません。神はあなたが愚かで、知恵遅れであることも許されるのです。あなたは神が富を築くことができる知的能力や賢さをあなたに与えたお方であることを決して忘れてはなりません。

金銭に忠実なことは、イエスが私たちに教えたように、先ず第一に私たちが稼いだすべて、10%(旧約聖書にはそのように理解されています)だけではなく、すべては神のものであると認識することを含みます。どれほども私たちのものではないのです。それで、私たちはそのすべてを祭壇に置き、全てを神に返さなければならないのです。私たちは、神が私たちに与えられたものを、私たちの地上の必要に対して倹約して忠実に使わなければなりません。

5000 人に食べ物を与えられたことで、私たちは少なくとも 2 つのことを学びます。まず第一に、もし神が祝福されるなら少しのもので私たちのすべての必要を満たされると言うこと。第二に神は無駄を嫌われるということ。イエスは弟子に余分なパンと魚を集め、何も無駄がないように言われました。私たちの主は、天の父がパンと魚を十分に増やしくださったので、丘にあった余ったものも集めずに放っておかれるようにされることもできたでしょう。しかし、主はそうはされませんでした。神が私たちを豊かに祝福されたからといって、私たちは出費に無頓着でいいということはないのです。

ものが少しダメになったからと言って捨てますか?それは金持ちのすることです。信心深い人はそのダメになった所を直してみようとします。霊性はそのようなことと全く関係がないと思っていますか? 関係があります。

イエスの弟子として、私たちは自分のお金の使い方において訓練されなければなりません。夫は家の頭として家の財政を扱うものでなければなりません。不必要な出費がカットされるのをチェックするのは

夫の責任です。夫は妻が買いたいあるものを買う余裕がない時に妻に説明しなければなりません。

小さいものに忠実な人だけが、大きいことにも忠実です。これは神との基本的な原理です。もし私たち が小さいことにまた物質できなことに忠実でなかったら、神は私たちに本当の富、み言葉での啓示のこと、及び神の本質の富を与えてくれません。

もし私たちが霊的に成長したいと願うなら、私たちはすべての無駄をさけなければなりません。もし私 たちが神に忠実な僕になりたいのなら、不必要な買物にお金を浪費しないでください。たいそうなご馳 走や派手な生活にお金を無駄にしないでください。まだ使えるものを捨てないでください。もしあなたが、必要でなければ、貧しい人々にただで上げてください。

ルカ 14:33 には、私たちは何も持ってはいけないとあります。私たちは多くのものを持つことができます。何も所有してはいけないのです。それで、もし何か私たちの高価なものが盗まれたり駄目になったりす れば、そのことで取り乱したり悩んだりする必要はありません。なぜなら本当は私たちのものではないか らです。私たちは主の所有物の単なる管財人なのですから。神は私たちに神の栄光をあらわすために 多くのものを与えてくれます。しかし、私たちはここでは単に旅人にすぎません。

人はすべてを神にささげない限り純真な心を持つことができません。純真な心は潔白な心とは違います。潔白な心は金銭関係においては義を通してやって来ます。あなたは潔白な心を持っているかもしれませんが、あなたの心は何か地上の所有物、または仕事に未練があるかもしれません。その時、あなたは心から神を愛しているとは言えません。あなたの心は純真ではないからです。

神に捧げる

イスラエルの民は収入の約 15%、十一税と他の捧げもの、を主に捧げました。十一税の背後にある原理は申命記 14:22,23(リビングバイブル)にこのように書かれています。「十一税の目的はあなたがいつも人生において神を第一とすることを教えるためです。」イスラエルの民が収穫したものを集めた時、彼らが全てを神から受け、神を生活の中で第一としたいということの感謝として、その10%を神に捧げなければなりませんでした。しかし、次第に十一税は、今日の多くの信者にとってそうなっているように、形式的になり重荷となりました。

新しい契約の下では、神を第一とするという同じ原理があります。しかし、神にどれだけ捧げるべきでしょうか。新訳聖書には、私たちは神が富ませてくださった分に応じて捧げなければならない(1 コリント

16:2)とあります。しかし、今大切なことは、どれだけ捧げるにしても喜んでしなさい(2 コリント 9:7)とあります。

ルカ 6:38 には、もし与えるなら私たちも与えられます、とあります。しかし、もしあなたが見返りを期待して与えるなら、神は心の中をご存知で神から何もいただけないから、あなたはがっかりするでしょう。神から最良のものを受け取るのは、見返りを期待せず喜んで与えるひとだけなのです。

私はある兄弟のことを聞いています。彼は沢山稼いではいませんでしたが、家で必要なものに欠くことはないようで、負債もありませんでした。ある人が彼に彼の人生の秘密を聞いた時、彼は「私は神から頂いたものをスコップでかき集めて神にお返しし、神もまた私にそうしてくださいます」と言いました。そしてわたしは、神の方が大きいスコップを持っておられることを発見しました!私たちはいつも神に捧げたよりも多くのものを頂くのです。

2コリント 9:6 には、「少しだけ蒔く者は, 少しだけ刈り取り, 豊かに蒔く者は, 豊かに刈り取ります。」とあります。

私が十一献金に対して説教することは、どこでもみなさんよく知っておられます。しかし、人々が分かっていないのは、私が、神に喜んで全て捧げなさいという、十一献金よりももっと難しいことについての説教です。これはイエスが説教されたことです。イエスは神に 10%を捧げることを命じた律法にしたがうパリサイ人に話されました(マタイ 23:23)。しかし、イエスはペンテコステの後新しい契約に従うであろう弟子に、「すべてを捧げなさい」と言われました(ルカ 144:33)。このことは、私もまたこれまでの 40 年間実践し説教するように求めてきたことです。

もし私たちが神に栄光を帰するなら、かみは私たちを大切にしてくださいます。もし私たちが神のみ国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて私たちのこの地上での必要は与えられます(マタイ

8:33)。神は私たちが望むものはなんでも与えられるような愚かな方ではありません。なぜなら、神は私たち地上の父よりも賢いお方だからです。しかし、神は私たちが必要なものをすべて与えられるお方です。私たちが必要とするものと欲しいものとは非常に大きい違いがあります。ピリピ 4:19 に、神はすべての必要を満たされると約束されています。

私たちはまた与えることに賢くなることを学ばなければなりません。多くの貧しい人々は与えることに忠実ですが、賢明な方法でしていません。彼らは神の働きと思っていることにお金を捧げます。しかし、そのお金で、誰か不忠実なクリスチャンの働き人がどこかで贅沢に暮らすことに使われるだけです。そのような貧しい人々は誠実かも知れませんが、賢くはありません。私たちはどこへ私たちのお金が行くのか、どのように使われるのかを知らなければなりません。

貧しいものに捧げる

私たちは「すべての人に対して, 特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」と言われました(ガラテヤ 6:10)。私たちはあらゆるところにいる信者の中で貧しい人々を助ける責任があります。しかし、私たちは教会の寛大な人々から金銭的なものを得ることを主たる目的とする人々を教会に連れて来ないように注意しなければなりません。インドのような貧しい国でそのような危険を回避する唯一の方法は、まず最初に信者の中の本当の兄弟であるかどうか確認することです。それができれば、その人を金銭的に助けるべきです。そうでなければ、私たちは教会に弟子ではなく、寄生虫を持ってくることになります。

使徒行伝4:34 に、初期のクリスチャンには、富める人は貧しい人を助けたので、一人も貧しいものがいなかった、とあります。誰も、金持ちが貧しい者に与えることを強制しませんでした。彼らは心から自由に与えたのです。

しかし、多くの信者は貧乏な人を助ける知恵を持っていません。彼らは魂の寛容さでもって与えるべきでない人々に愚かに与えるのです。これは、主のお金が無駄に使われることになり、また、教会に金持ちが与えることができる助けだけを求めてくる寄生虫を増やすことになるのです。貧乏な人々の間で人気取りになり、彼らを自分たちの下に引きつけておくという目的で、金持ちの信者はそのようなことを沢山しているのです。もし、少しの額だけ回数を多くして与えるなら、これはそんなに問題ではありません。しかし、あなたが大金を、または教会の誰かに定期的に捧げるなら、あなたより知恵のある先輩の敬虔な 長老に常に助言を求めることが良いでしょう。さらに、そのような長老は教会の誰が一番困っているかを知っていることが多いのです。

初期のクリスチャンはそのようなことにおいて知恵がないことを認めるほどに謙虚でした。だから、貧しい人々に配られるものを使徒に渡したのです。しかし、使徒たちは、決してそのお金を自分のために使いませんでした。沢山のお金を受け取ったペテロとヨハネはそのお金を他の人々に渡すことに忠実な人だったので、ある貧しい乞食に「金銀は私にない。」と言ったのです。二人は、すべてお金は手元に残すことなく他の人々のために捧げました。ですから、彼らは、死にいたるまで霊の注ぎを受けていたのです。この話は今日かなり違っています。お金を受け取った説教者の手に多くの金が渡ってしまっているのです。

私たちからお金を借りたいという人に貸すことはどうでしょうか。私は海軍にいた時、私たちの地方教会の一人の信者がある日私のところに金を借りに来ました。私は神のみ言葉が「求める者には与え, 借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言っていることを知っていました。その人は私に来月必ず返すからと言いました。それで、私はその人の貸してほしい分を貸しました。しかし、翌月になってもその人はお金を返さず、更にもう少し貸してほしいと言ってきました。私は沢山給料をもらっており、簡素な生活をし、家族はいませんでした。それで、私は余分なお金を沢山持っていました。私はもう少し彼にお金を渡しました、そして、また翌月、その人は私に同じことを要求してきました。少したって、その人は信仰を捨て、酒を飲み、お金を浪費するようになりました。私がそのことを知った時、私は彼に、「もしそのように悪魔に渡すような金があれば、私に返すのが当然でしょう。そうすれば私はそのお金を主にお返しできるのだから」と言いました。彼は私のことを大変腹を立てて、「おれを脅かすのか!」と言いました。それで、私は、彼に金を返すように言うのを止めました。

そして、私は主のところへ行き、私はどこで間違ったのかと尋ねました。主は私の過ちを示されました。主は私に、「あなたはそのお金を自分のもののように扱いました。それは正に私のものです。あなたはそのお金を渡す前に私に相談すべきだったのです、たとえ貸すお金でも。

もし誰かが私に 10000 ルピーを大事に取っておくようにくれ、そのことをあなたが知っており、その中から貸してほしいと頼みに来た場合、私はあなたに、私のお金でないから、あなたに貸す前にお金の所有者に相談しなければならないと言ったでしょう。しかし、私は先ほどの場合にはこのようにしませんでした。なぜなら、私のお金は主のものだと知らなかったからです。もし私がイエスが命じられたように(ルカ

14:33)全てを主に対して捨てたとすれば、私はその人に私の持っているものはすべて主のものであり、そのことについて主に相談しなければならないと話したでしょう。しかし、そうしないで、私は機械的にみ言葉に従い、主のお金を失ったのです。悪魔でさえみ言葉をイエスに対して引用しました。私は聖書のみ言葉とみ言葉を比べてみるべきだったのです。

私たちは明らかに必要とされるものを喜んで与えなければなりませんが、その都度主に聞く必要があります。私たちは「神の口から出る一つ一つのみ言葉」で生きなければなりません。私たちが本当に困っている人に出会う時、もし主を求めるなら、その人にお金を与えるかどうかについて私たちの霊において確証をを得るでしょう。ことによると、あなたに助けを求めている人は、神が「豚の群の中で」弟子訓練している「放蕩息子」かも知れません。もしそうなら、その人にあげるお金は、その人が父の家に戻るのを妨げるだけで、その人の助けにならないでしょう。

私たちが今日規定や規制のある律法のもとではなく、何をすべきで何をしてはいけないかその時その時の状況において大胆に教えてくれる聖霊の導きにより生きることができることを感謝します。

フルタイムの働き人

1 コリント 9:14 には、主が福音を述べ伝える人々は福音の働きから生活のささえを得るように言われた

ことが書いてあります。しかし、パウロは 15-18 節で続けて、なぜなら自分の生活は自分で支え、主に仕える原理により働いているのだから、自分のためにはそのような支えはいらないと言いました。そのようにして、パウロは、コリントの人々から自分のための金銭的支えを受け取っていなかったので、コリントのクリスチャンに主に献金することについて自由に話すことができたのです。彼は、コリントの人々に困っている貧しい信者にお金を渡すように言いました。

私たちは、イエスや弟子がその働きのために財政的支援をしてくれるように誰かに求めたことがないと、知っています。彼らは貧しい人々にお金をあげなさいとだけ言いました(マルコ10:21、ヨハネ13:29、2 コリント 8,9 章、及びガラテヤ 2:10)。これは、金銭関係の弟子訓練の方法です。

このメッセージは特に今日のフルタイムの働き人に必要です。なぜなら、彼らの多くは、恥じることなく信者に頼み、また捧げないものには神の罰が下るとまで言って彼らとその働きを支援するよう圧力をかけさえします!!神はこのような方法を取られません。神のやり方は、箴言 11:25「おおらかな人は肥え, 人を潤す者は自分も潤される」にあるように、私たちが人々のために時間を取り労苦して世話をすると、神 も私たちの世話をしてくださるというものです。これは人に頼らない、神にある信仰の方法です。

インド海軍にいた時、私の給料や身体上必要なことはすべて海軍が世話をしていました。わたしは誰かの所へ行って財政支援をしてくれないかと頼む必要はありませんでした。神は海軍や他の雇用主よりも偉大なお方ではないでしょうか?もし私たちが、真に全能なる神の僕であるなら、人のところへ助けを求めに行く必要があるでしょうか。神の僕が他の信者からお金を乞うのは私たちの神の威厳/尊厳を侮辱することになります。神は僕が神だけに頼り人に頼らないことを切に望んでいます。

具体的に話しましょう。ある日西洋人がスーツを着てアメリカ合衆国の大使だと言ってあなたの家にや って来ます。そして、彼の国が経済危機に面しており、国のためにいくらかのお金を寄付してほしいと言います。あなたはどう考えますか。あなたは、あなたをだまそうとしている詐欺師だとすぐに分かるでしょう。なぜですか?あなたはアメリカ合衆国たる国は一軒一軒人々からお金を乞うような国ではないと知って いるからです。

今、一人の人があなたの家に来て、または雑誌を送り、主イエスキリストの大使だと言って、神の国がお金がなくて困っており、神の働きのためにいくらか寄付して窮地を脱することができるように助けてほしいと言ったとしましょう。あなたはそれを信じるでしょう。どうして?あなたは神の国はアメリカ合衆国よりもずっと劣ると考えているからです。このことは悲しいかな、本当なのです!そして、「神の僕」に装った詐欺師たちが今日何千もの信者たちをだますことができる理由なのです。

多くのいわゆる「神のしもべ」たちが神の国の尊厳をそんなにも低くしたとは何と恥じるべきことでしょうか。これは、彼らが金銭関係でイエスの弟子にならなかったからです。それ故に、彼らは、金銭関係で他の人々をもイエスの弟子とすることができないのです。

今日、多くの説教者が聖書学校や児童養護施設を作り、人を助けるのではなく自分自身を肥やし、彼らの家族の生活レベルを高くしています。彼らの働きの成功の輝かしい報告書が定期的にニュースレターを通して諸外国に送られ、「万能のドル」を手に入れています。金の追求は、私たちの国でも実に多くの神の僕たちを破滅させています。

主の働きのために捧げられるお金は、世界中のお金の中で最も神聖なものです。もし私たちがその目的のために使わずにそれを自分たちの個人または家族のために取るなら、私たちは大変な危険状態にあります。永遠に失われるという危険状態にあります。私たちは、一杯のお粥(お金)で相続権をなくすことになり得るのです。

クリスチャンの働き人は質素に生活することが必要です。これもまた拝金主義に陥らない方法です。私は自分の財布からお金を使うのに非常に注意深いクリスチャンの働き人を見てきました。しかし、彼らは

「ミッションのお金」を使うことになると、浪費するのです。ある貧しいアメリカの寡婦がインドにいる主の働き人に少額ながら精一杯の寄付をしました。そしてインドの働き人はそのお金を彼自身の高価な家を建 て、贅沢な食事をするために使いました。これは、不信仰なことです。これは、そのような働き人が話す時、預言的な声を持っていないという主な理由です。

なぜインドの教会は預言者がいないのでしょうか。

主は私たちの時代に預言者をまだ送ったことのない 10 億人のこの国のことを放っておかれるでしょうか?主は必ずインドに目を止め多くの預言者を召されることでしょう。しかし、多くの人々はその預言の賜物を拝金主義に売り渡しバラムやゲハジの道に走ってしまいました。その結果、今日ほとんど預言者が残っていません。

インドの教会は自分の足で立つようにならなければなりません。そして、この目的のためには、主がある日インドのクリスチャンの働きに寄せられるすべての外国からのお金を止められるかも知れません。もし主がそうされれば、金目当てに働く人はただちに明らかにされるでしょう。なぜなら、彼らは今している働きを止めるからです。そして、多分本当の預言者が現れ、主イエスの教会が立てられ、主のみ名がインドに褒め称えられるでしょう。

もし神があなたを神にフルタイムで仕えるように召されたなら、あなたは神の僕であり、決して人の僕で はないことを確信しなさい。金持ちの人々があなたに個人的にお金を渡し始めるなら、あなたは神のみ 言葉と妥協するのは目に見えています。彼らに反することは何も言えません。聖書は1コリント 7:21,23 で、私たちは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけませんと言っています。多くの信者 はあなたを捧げものを通して奴隷にしようとします。あなたは彼らに気をつけなさい。

その他

今日インドで多くのクリスチャンの主への信仰と忠実さが試される場合の一つは、未信者が信者のところに宗教的なお祭りのためのお金を出してほしいと言ってくる時です。キリストの弟子は、親切でなければなりませんが、そのような時にはしっかりして貧しい人々のためには喜んでお金を差し出しますが、未信者のお祭りのためには、それらの宗教を信じていないので出せませんと言わなけれななりません。インドのある場所では、そのようなことをするとクリスチャンの命の危険が及ぶ場合もあります。そのような場合には、弟子は賢明でなければなりません。クリスチャンはどのようなことがあっても主を拒むことはできないのです。しかし、もし人々が強盗のように強制的にお金を出すように言えば、自分を責める必要はありません。神はその人の状況を理解されているからです。

インドの多くの人々が直面するもう一つの問題は、政府の法的許可や免許や制裁を受けるためにお金を渡さなければならない場合です。多くの説教者は「神性」という評判を失うのを恐れてこの問題について説教をしたがりません。しかし、このことについて明確に教える必要があります。というのは、インドではクリスチャンは毎日この問題に直面しているからです。ここで、多くの信者の肩から不必要な罪の荷を下ろすことができる分別ある助言をしたいと思います。

1 コリント 6:12 および 10:23 にあるように、人々が暮らしてゆける 3 つのレベルがあります。

(1) 不法:不義が行われる

(2) 合法:義の最低限度のレベル

(3) 有益:信仰の最高レベル

私たちは明らかに不法をおこなうレベルへ落ちてはならない。それ故に、私たちは不義が行われるために誰かにお金を渡してはならない。その不義とは、政府(または組織)を欺いたりすることや、あなたの渡すお金が賄賂となることである。

しかし政府の役人があなたに完全に法的な件で許可を出すからお金を出すように求め、あなたは役所になんども行くのを避けるために彼にお金を渡したとしたらどうなるのでしょうか。そのような場合、あなたは他の誰かを欺いているのではありません。あなたは自分であなたのお金を渡しているのです。これは、レストランでウェーターにチップを渡すのに例えられます。または多分もっと正確には、あなたに銃を向けた窃盗団にお金を渡すのに例えられます。この場合の違いは、役人が通達を法外に押し付けたか銃を押しつけたかです。「法外な金の請求」に変わりありません。しかし、少なくともあなたはあなたの利益のために不正なことをさせませんでした。また、誰も欺きませんでした。このことは第2のレベル、です合法的レベルです。

しかし、同じ状況にいるもう一人の兄弟は、お金を担当官に支払わない、そして主が彼に制裁するとい う信仰を持っているかもしれません。これは、最高のレベルです。しかし、すべての人がこのレベルの信 仰を持ってはいません。このようなレベルの信仰を持っている人は、このレベルでやっています。しかし、そのレベルの信仰を持たない人を裁いてはいけません。このことはロマ 14 で明確に教えています。

しかし、私たちは腐敗した役人にお金を渡して難しい状況から逃れようとする時、ただ神に頼るなら神は私たちに奇跡をなさる場合があります。それで、私たちは難しい状況の中で神を求め、神を喜ばすための知恵を求めます。私たちは、完全に向って突き進んでいます。しかし、もし私たちの信仰がもう一人の人のレベルにまで上がらなかったらといって責められる必要はありません。

給与と貯蓄

最も高い給料の仕事を求める場合は正しいでしょうか。仕事であなたが霊的生活、あなたの身体、魂を交わさない限り全く正しいのです。しかし、もしあなたの金銭を追求することが、神の国やその義を犠牲にするようなことであれば、ほんの少しであっても、それは正しくありません。高い給料の仕事を探すのは、主の働きのためにより多くのお金を得ることができ、実際良いことです。しかし、もしその仕事で主のために働く時間が少なくなれば、それは神のみ心ではありません。だから、そのような場合に決断する時には注意しなければなりません。

バラムの場合を考えてください。神は、バラク王のところへ行ってはいけないと彼にはっきり言いましたが、王がバラムに更に多くのお金を出した時、彼は「神のみ心をもう一度求め」たかったのです。神はバラムの心に強欲さがあるのを見て、彼を行かせました。神のみ心を求めるふりをするそのような信者が沢山います。彼らの心は強欲に願望を求めているのです。神はそのような人々に彼らの動機をご存知ですから、行きたい所へ行かせます。

今日信者は海外に仕事を求めて行きますが、さまざまな理由があります。ある人はインドの貧しい家族を助けるために行くかもしれません。もっともな理由です。しかし、他の人は、ただ自分のために、必要以上のお金を儲けに行くかも知れません。この二人の信者の行きつくところは同じではありません。必要のために行った最初の人は霊的に成長するでしょう、一方貪欲で出かけて行ったもう一人の人は、信仰から離れるでしょう。

工場の組合に入りその中で賃上げを要求するのは正しいでしょうか。あなたが暴力的な行為に甘んじなければ何も悪くはありません。あなたは賃上げのためにいつも上部(経営者側)に求め、嘆願することができます。しかし、あなたはあなたが望むことを得るために反体制的な行動やストライキをしてはなりません。あなたは神があなたに必要な物を与え、与えられるもは何でも満足するという信仰を持たなければなりません。神のやり方というのは祈って主にあなたが必要とする分を十分に稼いでいないことを話すことです。神はあなたの必要に答えてくださいます。

将来のためにお金を貯蓄するのはどうでしょうか。イエスの弟子は普通預金や定期預金や会社の株やその他の富を持つことができるのでしょうか。イエスは、私たちは地上に宝をを蓄えるのではなく天に蓄えるように言われました。しかし、ここで質問は、どの時点で貯蓄が「自分のために蓄えられた宝」となるのでしょうか。この質問の答えは簡単ではありません。私たちはどうしなければならないかを他人に押し付けることはできません。主は私たちを大人として扱われ、どの時点でどれが宝となるか自分で決める責任を負わせられます。もし、それが「お金」であれば、そのお金は必ず私たちの宝となります。しかし、もしそれが「主とその働き」であれば、例え私たちは地上に沢山富みを持っていたとしても、私たちの宝は天にあります。

聖書は、私たちに将来のために蓄えているアリのやり方(箴言 6:6-11)から学ぶよう強く言っています。アリには冬のために食べ物を蓄えるように言うリーダーはいません。アリたちはそうする知恵を持ってい るのです。アリたちに突然予期せぬ出費が生じれば、他のアリに頼んで借りなければなりません。前の年に彼らの出費に注意を払っていて、将来のために蓄えを作っていれば、そうする必要は全くありません。

イエスは贈り物として受け取った同じ日に、すべてを使い切ってしまうことはされませんでした。イエスと弟子はいくらかを蓄えました。ユダはその蓄えを袋に入れて持っていました。彼らは、必要な時にその中から必要な分を使いました。何パーセント彼らは蓄えたでしょうか。聖書には何も書いていません。それ

はいいことです。神は私たちにすべてのことについて新しい契約の下での自由をお与えになりました。私たちはどの律法の下にもいません。私たちは聖霊によって導かれるべきなのです。

家を持つことは正しいのでしょうか。今日、家を建てるには相当額のお金が必要です。もし神があなたにあなたの家を建てることができるほどのお金を稼ぐ能力をお与えになっていれば、神は多分お金をためて家を建てるよう望んでおられると思います。しかし、もしあなたがこつこつとお金を貯めなければ、どうして家が建てられるでしょうか。天から突然お金が落ちてくる訳がありません。あなたは貯めなければならないのです。

旧約聖書では、神はレビ人に相続地を持ってはならない(民数記 18:20)と言われました。しかし、ヤコブの他の 11 の部族は土地を持つことが許されたのです。同じようにして今日、神は、ある兄弟には家を建てることを許され、もう一人には家を建ててはならないと言われます。神のみ心は、そのようにして、すべての人に同じであるとは限りません。

二人のレビ人の息子と子孫は、幕屋の道具を運ぶ車を持つことが許されました。しかし、レビ人のもう一人の息子と子孫たちは、肩に担いで運ばなければなりませんでした(民数記 7:7-9)。今日、同じようにして、神はある信者には車を与えられ、他の者は自転車を持つ余裕もなく、歩かなければならないのです。

神のみ心は各信者により異なります。各人は自分で神のみ心を見つけ、与えられたものを他人と比較せず、神の口から出る一つ一つの言葉により生きなければなりません。

もし私たちがどうしてよいかわからない金銭的にどうしてよいか分からない状況にある場合、神のもとに行きどうすればよいか知恵を求めなさい。神は私たちが信仰を持って願うなら、それを私たちに与えると約束されました(ヤコブ 1:5)。

私たちは主がその言葉で私たちにお与えになったお金を使う法則を理解しなければなりません。聖霊は私たちにそれぞれの状況においてどのように法則を当てはめるかを示してくださいます。

この最も重要なこと、お金において弟子の歩むべき道を歩みましょう。

 章 4
弟子と教会員

イエスの弟子は一人ではありませんでした。いつも地方教会で仲間と一緒に暮らしていました。

イエスは、彼の弟子である一番重要な印は「お互いに愛し合う」(ヨハネ 13:35)ことだた言われました。このことは、弟子が他の弟子たちとよき関係を持ってこそできることです。だから一人孤独な弟子はいないわけです。

ヨハネ 12:24 では、麦の粒は地面に落ちて一粒のままではないということが明らかにされています。麦の粒は死にますが沢山の実を実らせます。一人の弟子は他の弟子たちを見つけ、または他の人を弟子にし、そして一緒になってキリストの体である地方教会を建てます。どの弟子も地方教会の一部分です。もしあなたが、一人孤独なら、それは、まだ地に落ちて死んでいないからに違いありません。

主を恐れること

新訳聖書には、教会は、神が建てられる家として描かれています。箴言 24:3 には、家は知恵によって建てられると、あります。

一人の弟子は聖書を勉強しただけでは、賢くなれません。それは知識を増すだけです。知恵の初めは、主を恐れることです(箴言 9:10)。主を恐れることは、クリスチャン生活の第一歩です。ヤコブ 3:17 には、「上からの知恵は, 第一に純真であり」とあります。それ故に、主の体を建てようとするものはみな最初に主を恐れることを学ばなければなりません。他の人々に「私に聞きなさい。主を恐れることを教えよ う。」(詩篇 34:11)と言えなければなりません。

わたしたちは、教義上の正確さ、感情表現、賛美と礼拝、伝道主義などを強調するかも知れません。しかし、もし主を恐れるという土台がその下になければ、私たちが建てるすべてのものはある日崩れ落ちてしまいます。

教会はプログラム、活動、人的戦略、その他いかなるビジネス界の原理によっても建てられることはできません。そのような方法でなされるクリスチャンの働きは、人の目には印象深く映りますが、神がそれを火で試される時、それは単なる薪や干し草や藁のようでしょう(1コリント 3:11-15)

神の家の特徴は、自己を裁く(1ペテロ 4:17)-神のみ前で自分自身を裁くことです。イザヤ、ヨブ、ヨハネたちはみな神を見た時、自分自身が無に等しい者、罪人であると知りました(イザヤ 6:5、ヨブ 42:5,6、黙示録 1:17)

アダムとイブが神の神性を犯した時、エデンから追放されました。神は命の木の前にそれを守るために炎の剣をもったケルビムを配置しました。この命の木はイエスが私たちに与えられた永遠の命(神性)を表しています。剣は、私たちが神性を分かち合うことができる前に、私たちの己自身の命を殺さなければならない十字架を表しています。剣が最初イエスの上に落ちたのは本当です。しかし、私たちは彼と共に十字架に付けられたのです(ガラテヤ 2:20)。そして「キリスト。イエスにつく者は, 自分の肉を, さまざまの情欲や欲望とともに, 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ 5:24)

ケラビムのように教会の長老たちはこの剣を振りかざして神の命に至る道は肉の死を通してしかないことを宣言しなければなりません。神との交わりに戻す方法は、その剣を通してなのです。今日ほとんどの教会が妥協ばかりし、キリストのみ体の発現を止めてしまっているのは、この剣が振りかざされていないからです。

民数記 25:1 には、イスラエルの民は「モアブの娘たちと, みだらなことをし」始めた時の時代について書かれています。イスラエルの民の一人がモアブの女をテントの中に連れ込んだ(6 節)。しかし、一人の祭司、ピネハスが、イスラエルがその時の民として破壊されることから救った。彼は、神の栄光を熱望して いたので、すぐさま槍をとりテントの中に押し入ってその男と女とを刺殺しました(7,8 節)。そして疫病が止んだのです(9 節)。しかしその時には24,000 人の人々が殺されていました。疫病は非常に速く広がったので、その日一人の「剣を振りかざしたケルビム」がいなければ、疫病でイスラエルのすべての野営している民が殺されたことでしょう。

「剣を振りかざしたケラビム」がどの教会にもいる価値がおわかりになりましたか。

今日疫病は、その剣を使う方法を知っているピネハスがあまりいないので、クリスチャンの世界に急速に広がっています。あまりにも多くの長老や説教者が私たちにいつも「ミデアン人を愛する」ように言う快楽の人々なのです。悪魔は私たちに教会で剣を用いるべきではないとの論議を沢山起こしてくるでしょう。悪魔はイエスに聖書のみ言葉を引用したように、その考えを支持するためにみ言葉さえ引用してくるでしょう。

ピネハスが剣を使うことにより個人的に得なければならなかったものは何でしょうか。何もありませんでした。もう一方で、彼は沢山のものを失いました。特に、親切で優しいという人の評価を!!彼は沢山の陰口と殺された親戚や友達の怒りの対象ともなりました。しかし、ピネハスをそのようにさせたのは、神のみ名栄光と尊厳でした。そして、神は神の許可の印を「彼はわたしのねたみを自分のねたみとした」と言って、ピネハスの働きのことを言われました(民数記 25:11)。最終的にこの話から分かることは、神の承認の印が唯一重要だということなのです。主は続けてピネハスについて語っておられます、「見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。それは彼がおのれの神のためにねたみを表わしたからである」

(民数記 25:12,13)。 前章では、私たちはレビ人たちが剣を使ったので、主がどのように彼らにも平和の契約をされたかを見ました(マラキ 2:4,5)。

今日多くの教会には平和がありません。それは神の剣を使わずに人間的な方法で平和を追い求めて

いるからです。その結果は対立と争いです。キリストの平和は家庭においても教会においても己の命を刺し通す剣と共にもたらされるものです。

教会で指導的な立場にある人は、もし教会を清く保とうとするなら、キリストのみ名の栄光のために妬ましいほどの情熱で燃えなければなりません。親切で優しいというレッテルを捨て、神のみ名の栄光のみを思わなければなりません。

両替人とハトを売る人々をイエスが宮から追い出させたのは、神のみ名の栄光への情熱でした。神の家を思う熱心がイエスを食いつくした(ヨハネ 2:17)。これは、キリストのようになることを意味する大切な所です。しかし、もし人々から嫌がられ誤解されるようなら、誰がキリストのようになりたいと思うでしょうか。

ホセア 6:1 では、「神は私たちを引き裂いたが, また, いやし, 私たちを打ったが, また, 包んでくださる」とあります。私たちがどの教会においても必要なのは、切り開き癌を取り除くことと、また縫い合わせ て癒すという二つのバランスです。このような働きは二人の兄弟が調和を持って、つまり一人が切り開き、もう一人が縫い合わせる、または一人が両方するというようにして、働くことにより可能です。聖霊はパウ ロとバルナバを一つのチームとするように言われました(使徒13:2)、そこでパウロは主として切り開き、バルナバは主として縫い合わせました。

イザヤはイエスについて、その言葉は鋭い剣のようだ(イザヤ 49:2)、疲れた者に慰むをもたらす(イザヤ 50:4)と預言しました。もし主が今日教会で話されるなら、鋭い言葉と慰めの言葉で話されることでしょう。

イエスキリストがおられた時代にイエスの言葉を聞いた人たちは悔い改めて弟子になったか、または怒って離れて行ったかのどちらかです。イエスはペテロに厳しいことを言いました(マタイ 16:23)。しかし、ペテロは怒りませんでした(ヨハネ 6:68)。一方、イスカリオテのユダはイエスが言われた小さなことにも怒りました(ヨハネ12:4-8、マタイ26:24)。主のみ言葉は今も私たちが怒るかどうかを見るために試されます。 神のみ言葉がこのようにして述べられていない教会は、神の目的を成就することはできません。

交わりと一致

愛はイエスの弟子の重要な印です。それで、イエスの弟子の間の交わりはとても重要です。マタイ18:18-20 で、私たちはそのようなイエスの弟子の間の交わりからおこる力のことを読みます。この説の内容は以下のようです。

主なるイエスは言われました、「もし二人か三人私の弟子が一つのところにいて、不一致がなく、その代わりお互いに調和した多くの楽器から生まれる調和のような一致があれば、私はその中にいます。そして、もし、私の父に何か願い事を言うなら、かなえられます。弟子たちは地上のどこにいても、また悪魔の働きを縛る権限が与えられています。そして、この地上で弟子が縛る悪魔の活動は「天」において縛ら

れます。そのような信者は、地上で悪魔により縛られている人々を解放する力も与えられます。

悪魔はその驚くべき力はイエスの弟子の一致と交わりの中にあることを知っていますが、多くの信者はそれを知りません。それで悪魔の主な目的は信者たちを悪魔に対して無力にするために常に信者の間に不一致をもたらすことでした。

もし、夫と妻が霊的に一つであれば、どんな力が家庭にあることでしょうか。悪魔はそのような家庭を制覇することはできません!

もし、長老の二人でも霊的に一つであれば、どんな力が教会にあることでしょうか。悪魔はそのような教会を制覇することはできません!

悪魔は、ほとんどの教会や家庭を打ち負かします。なぜなら、そこにはそのような一致や交わりがないからです。

私は悪魔を追い出すことについて話しているのではありません。このような信仰を持っている信者なら、イエスの名によってイエスがマルコ 16:17 でされたように、自分たちで簡単に悪魔を追い出すことができます。

しかし、悪魔が起こした問題から人々を解き放つため、悪魔の働きを縛ることははるかに難しいことです。信者は一人ではできません。キリストの体の表れが必要です。それには、少なくとも二人の弟子が必要です。そのような「体」により行使される権限だけが、闇の力を食い止めることができます。

各教会の中心に互いに完全に一致している人が少なくとも二人いなければなりません。悪魔はいつもそのような核なるものを分裂させるために狙っています。もし、悪魔のとおりになれば、教会は悪魔に対して無力になります。しかし、もしその核なるものが一致していれば、悪魔は教会に対して無力になります。このことは、家庭にも当てはまります。

どこの教会にも、ちょうど家族の中で成長した子どももいれば、幼子もいるように、新しく救われた人もいれば、成熟した人もいます。幼子の状態の人は、互いに喧嘩し、悪口を言い、不平を言い、噂話をします。なぜなら、彼らはどうすれば平和になるか知らないからです。そのような幼子の状態の人々が、成長しているどの教会にもいます。しかし、彼らは決して神の働きの妨げにはなりません。教会の中心にいる一致した長老の中心部分が勝利の教会に導くことができます。幼子はどの教会にも非常にたくさんいるかも知れません。しかし、神は、いつも中心部分を霊的にも数においても建て上げることを求めてきました。悪魔に立ち向かい、教会を生かし、勝利に導くのは、この中心部分です。

教会での交わりは伝道よりも大切です。迷った羊のたとえ話では、イエスは羊の群れの99 匹は、「悔い改めの必要のない義なる人々」でした(ルカ 15:7)。「悔い改めの必要のない」者とは誰でしょうか?明ら かに、絶えず自分を裁いている人々です。そのような人々は悔い改めの必要はありません。なぜなら、その人たちは絶えず自分の罪を悔い改めているからです。そのような弟子はお互いに一致するのに何の問題もありません。

しかし、もし羊の群れの 99 匹が絶えず争って、お互いに割きあっているとすれば、羊飼いは迷った羊をそこに連れて行くことはできないでしょう。というのは、その羊はそのような群れにいれば殺されるかもしれないので、山にいた方がずっと安全だからです。

私たちの教会は、「悔い改めの必要のない義なる人々」から成っていなければなりません。迷った羊が連れて来られるのは、癒しや平和のある私たちの教会しかないでしょう。主は、彼の羊を水のそばの緑の牧場に導きます。イエスが建てられる教会は、平和な所です。迷った羊はそのような教会にこそ連れて行かなければなりません。ほとんどの教会は、このようではありません。なぜなら、教会員たちは改心した人たちですが、弟子ではないからです。

私は一人の改宗した仏教徒に出会いました。彼は初めてキリスト教会に行った時、その中であった争いを見て恐ろしくなり、仏教のほうが良いのだろうかと何度も思ったそうです。それから、彼は本当の交わりと愛の支配する教会を見つけ、慰められました。

エコひいき

多くの教会でみられるもう一つの悪はエコひいきです(ヤコブ 2:1)。ヤコブは、2 章で集会でお金持ちの人々に特別な席を用意すると言う危険について私たちに警告しています。そのようなことをする人は罪を犯しています(ヤコブ 2:9)。これは言葉やカーストの違いの時にも適用されます。

多くの教会では、ある一つの言語を話すグループの信者は他の言語を話す人々とあまりうまくやっていません。他のグループの人々や異なったカーストと交わることができないグループ(コミュニティ)の人々は、同じ仲間のなかで交わろうとする傾向があります。しかし、もし彼らがイエスの弟子なら、文化人も未開人も問題なく交わりを持つでしょう。

2コリント 5:16 には、新しい契約の下では、私たちは人々の肉的なことによって評価しないことが書かれています。私たちは、みんなキリストにあって新しく造られたので、肌の色やグループやカーストで見ません(17 節)。新しい創造においては、言葉も、グループもカーストの違いもありません。もし私たちが信者の人々をそのような生き方に導こうとしないなら、イエス・キリストの教会を建てることはできないでしょう。

しかし、ここで一つ警告する必要があります。イエスの弟子は、カースト制を信じていないことをただ証明するために他のカーストの人と結婚することは必要ありません。そのような人がいますが、結婚生活がうまくいかない結果となっています。結婚にはお互いを合わすようにする努力が必要で、二人の間の違 いはできるだけ小さくしなければなりません。イエスの弟子であることは、結婚の場合、年齢、教育、家族、経済状態、カーストのことを考えないことではありません。こえらのすべてのことを考慮して、結婚を決め ることが必要です。

長老としてエコひいきに陥ることがあることを考えなさい。もしあなたが説教している時に、聖霊的に示されてなにか厳しいことを話さなければならないとします。そして、あなたの話す言葉で誰かが傷つくかも知れないと突然気付いたとします。あなたは人々を怒らせたくないから、聖霊があなたに言うように言ったことを言いませんでした。あなたは神があなたに使うように言った剣を使わなかったのです、なぜならあなたは人々を喜ばせたかったからです。これはエコひいきで、あなたの働きにおいて神の油注ぎを失うことになります。

聖霊の賜物

霊の賜物のことを考えてみましょう。これはまたキリストの体を建て上げるのに不可欠のものです。新約聖書には3つの霊的な賜物が挙げられています(1コリント 12:8-10,ローマ 12:6-8,エペソ 4:11)。

1コリント 12:12-26 では、霊の賜物を使うことを私たちの体の各部分の機能(働き)に例えています。ある人は命がありますが、盲目でものが言えず機能していません。多くの教会はこのようです。信徒は新しく生まれました。しかし、彼らは主に仕えるために聖霊の賜物を持っていません。力がありません。

霊の賜物はキリストの体が見え、聞こえ、話し、歩けるようにしてくださいます。神性はキリストの体の命です。しかし、キリストの体は、霊の賜物なくして他の人々になにができるでしょうか。イエスが霊の賜物を持っておられなかったら、イエスご自身はどのようであられたのでしょうか。イエスは、罪に勝ち、聖なる生活をされたでしょう。しかし、聖霊の油注ぎがなかったら、あのような説教をし、病人を癒し、悪霊を追い出し、また、奇跡をおこされることはなかったでしょう。

イエスが 30 歳の時に聖霊の油注を受けましたが、それによって以前より清くされたのではありません。31

歳のイエスは 29 歳の時より清くされたのではありません。しかしイエスは聖霊の油注ぎで他の人々に仕える力を受けました。もしイエスが人々に聖なる生活を示しに行かれたのだけだったら、イエスは父の目的を成就されなかったでしょう。今日、教会も、単に清い生活を他人に表すだけでは、神の目的を達成することはできないのです。イエスは、清さと賜物とを持っておられました。今日も、そのみ体はその両方を持っているに違いありません。

今日キリスト教界における悲劇は、あるグループは清い生活を強調し、他のグループは聖霊の賜物を強調していることです。しかし、これらどちらかであるべきというものではありません。聖書には、「いつもあなたは白い着物を着(いつも清い生活をし), 頭には油を絶やしてはならない(いつも油注がれて生活する)。」(伝送の書 9:8)とあります。私たちはいつも両方が必要です。

聖霊の賜物が全ての人を霊的にするとは限りません。コリントのクリスチャンはみんな聖霊の賜物を持っていました(1コリント 1:7)。彼らは「知恵の言葉」(一つの霊の賜物)を集会で使いました。それにも拘わらす、彼らの中に誰も知恵(霊的)のある人はいませんでした(1 コリント 6:5)。知恵の言葉は、肉の人を通して来ます。しかし、知恵そのものは霊的な人にだけあるものです。人は神から一瞬にして知恵の言葉を受け取ることができます。しかし知恵そのものは何年も苦難を通ってしか得ることはできません。

私たちは霊の賜物を自分自身で選ぶことはできません。なぜなら、キリストの体において私たちが働くためにどの賜物が私たちに一番適しているかを決めるのは神です。しかし、私たちはキリストの体を建て上げるこれらの賜物、特に預言の賜物を熱心に求めるように言われています(1コリント 14:1,12)

イエスが弟子に天の父に聖霊を求めるように教えられた時(ルカ 11:13)、イエスは、隣の家に食べものを頼みに行った一人の男のたとえ話で、どのようにお願いするのか、分かりやすく説明されました。このたとえ話には、注意すべき 2 つの重要なポイントがあります。

1. その人は自分のためではなく誰か他の人のために食べ物をお願いしている。

2. 彼は必要な物をもらうまでお願いしている。

このたとえ話から何を学びますか。

まず第一に、私たちは自分自身のために聖霊の賜物を求めるのではなく、他の人々のために求める のです。もし聖霊の洗礼と賜物を求めた人だけがこの一つの原理を持ち続けたなら、ずっと深く霊的に なっていたでしょう。そして、今日キリスト教界において偽りの賜物を行使することはまずなかったでしょう。残念ながらほとんどの人々は、他の人を祝福するのではなく、ただ自分自身経験するために聖霊の力 を求めるよう教えられています。

私たちの周辺には、神がかなえたい必要を持っている人々がいます。そして神はその必要を私たちを通してかなえたいのです。だから神はその人たちが私たちにばったり出会うようにされるのです。神は私たちが神にこの人々を解放し、祝福するために必要とされる聖霊の賜物を求めるよう願っておられます。

ある男の人がイエスの弟子のところに悪霊に取りつかれた子どもを連れて来ました。しかし、弟子たちはその子どもを助けることができませんでした。それで、その人はイエスのところへ行き、「あなたの弟子のところへ行きましたが、彼らは、助けてくれることができませんでした。」と、言いました。これは、私たちの隣人や友達が私たちのことについて主に訴えている言葉ではないでしょうか。

もし私たちが自分たちのためにだけ主の祝福を求めるなら、私たちは渇いたままでいるでしょう。神は 他の人々に水をやる(助ける)人々にだけ水を与えます(箴言 11:25)。おそらくあなたの近くにいるある兄弟は彼の問題を解決するため知恵のことばを必要としています。もう一人の人は落ち込んでいるので、激励の言葉を必要としているかも知れません。また、他の人はある束縛からの解放を必要としているかも知れません。私たちはそのような人々を助けるために必要とする賜物を神に求めなければなりません。

聖霊の賜物は他の人々を祝福し教化するために与えられます。ルカ 4:18,19 には、イエスが聖霊の油注ぎを受けられた結果について書かれています。それで、イエスは貧しい人々に福音を述べ伝え、捕えられている人々を解放し、目の見えない人々を見えるようにし、虐げられた人々に自由をもたらし、主の恵みの年を宣言しました。注目していただきたいのは、ここで述べたことはすべて他の人々の益となるためであるということです。聖霊の賜物は主の生活において主ご自身に益をもたらしたのではありませんでした。

もし、私たちが正しい方法で聖霊の賜物を求めるなら、私たちは他の人々のことを気にかけ、彼らを助けるために自分自身の無力さを感じなければなりません。

このたとえ話から学ぶ第 2 のことは、私たちは受けるまで神に聖霊の力を求め続けなければならないということです。神は私たちが本当に神の力を受けたいと切望しているかどうか、聖霊の賜物を本当に評価しているかどうかを見るため、私たちを試されます。神はまた私たちが本当に無力で、神の力なしでは神に仕えることができないのかどうか待って見られます。多くの人は、自信過剰で、そのためこれらの試みに失敗するので、すぐに祈りを止めます。

地方教会の集会

1コリント 12 章で述べられている霊の賜物の中で、地方教会では、言葉の賜物である教えや預言や異言や異言を説くこと(1コリント 14:26-)のみが使われているのを見ます。そこには奇跡の賜物が教会の集まりに使われていませんでした。伝道の働きにおいて、今日でも、癒しの賜物や悪霊を追い出すことが福音のメッセージの確認として使われる所があります(マルコ16:15-18)。そして、伝道者(特に未伝道地の宣教師)と呼ばれる人々は、神が彼らにこれらの能力を与えることを期待しています。しかし、これらのことはどの地方教会の集会でも起こるとは限りません。

教会の集会で使われる主な賜物は、預言の賜物です。旧約聖書の預言は未来のことを予言しました。しかし、新約聖書の預言は、教会を建て上げ、強く呼びかけ、慰める(勇気づける)ために神のみ言葉が語られることを言及しています(1コリント 14:3)。どの教会もこの賜物を使う人がいなければなりません。教会は、使徒、教師、伝道者(教会内に留まってはいません)がすべて必要ではありませんが、もし教会が成熟するなら、預言者と羊飼いは必要です。

旧約の預言者たちは、心に荷なっている「主の重荷」のことを話しました。アーロンは 12 の石を彼の胸

当てに載せました(イスラエルの 12 部族の意味)。これは今日神のみ言葉(預言)を説くものが、丁度母親が体内に子どもを宿しているように神の民を心に荷なうことを描いています(ピリピ 1:7)。

これらの預言の賜物は教会の集会の最初に語るべきものでありその時その教会に必要な神からのみ言葉を明かします。預言者は神のスポークスマン(代弁者)として話します(1ペテロ 4:11)。宗教的な説 教と預言の言葉との間には大きな違いがあります。説教は知的な働きの結果として人の頭から生み出されるもので、その聞き手を感動させます。しかし、預言は人の心を通して神から来る言葉です。聞き手を感動させる話はしませんが、聞き手の心の秘密を暴き、行動に駆り立てます。

そのような預言者に反応する人々は、自らを正します。しかし、それに苛立つ人々は、預言者に対して怒ります。預言者は決して人気者ではなく、嫌われ、誤解され、苦しめられます。イエスがナザレの会堂で預言された時、人々は説教の途中で中断させ、イエスを外に引きずり出し、殺そうとしました!!

聖書は、私たちは日々お互いに励まし合って、罪に惑わされてかたくなにならないようにしなければならない(ヘブル 3:13)、と言っています。それ故に、教会でのすべての預言(勧め)の目的は、人々を罪に惑わされている状態から救うことでなければなりません。預言は人々の心にある隠れた部分を暴露し、 人々が神の前に顔をうずめ悔い改めることができるのです(1コリント 14:25)。

もし私たちが自分を裁き、「恐れおののいて自分の救いを達成する」(ピリピ 2:12)なら、主は私たちに光を与え、まず、私たちの罪の欺きから救われます。それから、私たちは同じ言葉を他の人々に伝え、彼らを救いに導きます。私たちは、最初に罪と示されたことだけを他の人々に伝えなければなりません。

しかし、ここで注意すべき大切な言葉があります。預言者のことばを聞く人々は、聞いたことを評価するように言われています(1コリント 14:29)。彼らはまず第一に聞いたことを神のみ言葉に従って評価し、次にそれが神からの言葉であるのかどうかをみます。これは、宣教するすべてのメッセージ、与えられたすべての預言、説き明かされた言葉に、話し手自身の考えがどこか入っているからです。それで、私たちは「すべて注意深く吟味しなさい」、「良い者だけを保持していなさい」(1テサロニケ 5:21)と命じられました。

もし私たちの間の油注ぎが私たちが聞く「預言」のある部分を証言しないなら、私たちはそれを拒否しなけれななりません。それが私たちが欺かれない唯一の方法です(1ヨハネ 2:28)。多くの信者は、生活において言うに言われない被害を受けています。なぜなら彼らは盲目的にすべて聞いた「預言」を神ご自身からのもののように鵜呑みにし、聞いた通りに行動したからです。

あなたが尊敬する他の説教者を真似することについての注意をもう一言付け加えましょう。もしそのような真似が無意識に行われているなら、深刻ではありません。しかしもし意識的に行われているのなら、あなたは駄目です。というのは、そのような真似はあなたを通して出てくる主があなたに与えてくださったユニークな働きを妨げるからです。

たとえ全新約聖書が聖霊によるのもであっても、私たちはパウロやペテロやヨハネが同じ言葉を使って真理を言い表さなかったことが分かるでしょう。彼らはそれぞれ自然に彼らのところに来た言葉を使って福音書を書きました。パウロは決して「新しく生まれる」ということについて一言も書きませんでしたが、

「キリストと共に十字架に付けられる」ことや「古い人を脱ぎ棄てなさい」ということについて沢山書きました。

後にペテロが手紙を書いた時、彼はパウロの使った表現(句)を真似することがでkました。しかし、彼はそうしませんでした。彼は自然と浮んで来た言葉を使って「肉にある苦しみ」について書きました。ヨハネもまた、何年もの後に書いた時、彼の使った言葉においてはユニークでした。彼もまた、パウロやペテロの言葉を使わずに、「神から生まれる」ことについて彼独特の言い回しで書きました。

これは神が私たちに他の人々が使ったのと同じ言葉を使わないよう願っておられることを明確に示しています。神は、渡したちを通して神のことばを述べられる時、私たちの人格を消されることはなく、上司が言うことをただタイプする秘書のように私たちを扱われません。神は、聖霊に満たされ油注ぎを受ける時も、私たちの個性を大事にされます。

黙示録 21:19,20 では、教会は、いろいろな色の宝石で建て上げられる建物として描かれています。各宝石を通って輝く光は同じで、イエスの命です。しかし、宝石を通って来る色は、赤、青、緑など、いろいろあります。私たちの一人一人もイエスの命を表すために召されています、しかし、私たち自身のユニークで個性ある人格を通して働きがなされます。

もしあなたが私の働きや説教や文書を真似ようとするなら、最後には挫折するでしょう。あなたはあなた自身の生活からあなたに自然に起こって来ることをあなた自身の方法で話さなければなりません。そうすればあなたはキリストの体に対して祝福となります。神は神の教会でだた一人の「ザック・プーネン」を望んでおられます。神は、別の人を望んでいません。あなたがあなた自身になることを望んでいます。

教会の集会では、主からの言葉を持っている全ての人は、長老の権限の下、預言できます。神は男にも女にも預言の霊を降り注ぐとはっきり言われており(使徒 2:17,18)、男女とも予言できるのです。もし女が頭に覆いをかけるなら、神は教会の集会で祈り予言することを許してくださいます(1コリント 11:5)。

多くの人は、霊的怠慢や臆病なために教会での預言を求めません。テモテは臆病な人でしたので、パウロはテモテを駆り立てて、神が彼に与えた賜物を呼び起すようにしなければなりませんでした(1テモテ 4:14、2テモテ 1:6,7)。私たちは教会の集会に出る時、臆病と不信仰の霊を封じ込めなければなりません。

しかし、教会の集会における自由は、自分の声を聞き、立ち上がり、みんなをうんざりさせる肉的な人々により利用されることがあります。そのような人々は、長老が黙らせなければなりません。なぜなら、教会のすべては、「適切に秩序よく」なされなければならないからです(1コリント 14:40)。しかし、今日、大抵の教会では長老は臆病か「やさしい」兄弟として知られたいという評判を求めており、肉的な長々と話しする人を黙らせないことは残念なことです。

教会の集会で一番大切なところは、「賛美と礼拝」(基本ですが)の時ではなく、神の預言の言葉が話される時であることを、心にとめておきましょう。

霊的指導

さて、神の教会での指導の問題について見てみましょう。

神は各教会に主の方法で教会を導くように長老を任命します(1コリント 14:23;テトス 1:5)。長老は基本的には説教者ではなく指導者です。「指導者」は他の人々の先頭に立つ人です。絶えず前に進んでいます。「私がイエスに従っているように私の後について来なさい」と言うのです。

しかし、多くの説教者は、「私の後について来ないでください。キリストを見て、彼の後について行ってください」と言います。これは、謙虚な言い方に聞こえます。しかし、このことは初期使徒たちが言ったことでは全くないのです。彼らは信者の人々を招いて、自分たちがキリストに従っているように自分たちの後についてくるように言いました(1 コリント 11:1,ピリピ 3:17)。彼らは、自分たちが完全だからではなく、正しい方向に進んでいるから、そう言ったのです。

長老制は総体的なことがらです。次の例で良く分かります。両親がしばらく家を離れる場合、長男に、例え彼がまだ10 歳であっても、家の「長」となって留守の間すべてのことを取り決めるように頼みます。そ

の長男は明らかにまだ成人ではありません。でも 7 歳や4 歳の子より成熟しています。両親が家に戻ると、長男はもう「長」ではありません。

このように、長老制は教会においても機能します。もし、教会で最も成熟していれば、若い兄弟が教会の長老になることもあります。教会の他の人々が成長するにつれ、彼もまた共に成長します。しかし、もし彼が霊的に成長を止めたら、いつか誰か他の人が彼の先を行く長老になります。長老であることは神の家における肩書(称号)や職務ではなく、他の人々を導くだけの成熟しているということなのです。

そのような指導者は、私たちが敬服し従わなければならない人です(ヘブル 13:17)。借地人たちに農地を貸した人のたとえ話では、所有者自身が借地料を集めに来たのではなく、召使いをよこした(マタイ

21:34)とあります。主は教会での主の代表者を任命しました。イエスは弟子たちに、人々が彼らを受け入れる時、彼らは主ご自身を受け入れているのです(マタイ 10:10)と話しました。私は今日のキリスト教界での非常に多くの祭司や説教者や牧師のことを言っているのではありませんが、神の純粋な僕としてあなた自身が認める人々のことを言っているだけです。

神の教会では、権威は上から与えられ、下から認められます。

それは、あなたはあなたが尊敬する長老たちだけに従う必要があると言う意味です。もしあなたが一人の長老を敬虔な人として認められないなら、あなたはその人に従う必要はありません。しかし、そのような場合、その教会を去って敬虔な長老がいる教会に行くのがあなたにとって一番良いでしょう。しかし、そのような人が見つかった場合、あなたはその人に敬意を払い尊敬しなければなりません(1テモテ5:17,1 テサロニケ 5:12)。

あなたが誰かを長老と認めたなら、あなたはその人に従わなければなりません。教会における服従の目的は家庭におけるのと同じです。子どもたちは両親人従うことにより数多くの危険から守られます。敬虔な長老なら、羊飼いの犬が羊の番をするように、あなたの魂を見守るでしょう。

真の長老はその羊の一匹一匹の霊的な状態を知っているべきです(箴言 27:23)。もし一人の長老がその群れを心に負っているなら、神はその長老に、必要ならば超自然的に、その羊の一匹一匹の状態について識別力をお与えになるでしょう。教会の集会で長老がするメッセージは、たとい長老が羊の必要に気づいていなくても、羊が必要としていることばなのです。

羊の群れをその心に負うこと、これがすべての羊飼いにおける第一の要求です。長老ではないけれど仲間の信者の世話をし、気にかけている多くの兄弟がいます。そのような兄弟は、神の目には本当の羊飼いで、羊は、その羊飼いを信頼し、助けを求めてやってきます。

教会のお金と働き人

弟子の教会は金銭関係においては、はっきりとした説明責任をしなければなりません。私たちは集会に来る人々からお金を得たり、好意や他の何かを得るようなことをしてはいけません。人々は、私たちがだた彼らを自由に祝福することだけを考えているとはっきり分からなければなりません。

私たちの教会では、集会の間は献金は決して集めません。これには沢山の理由があります。まず第一に、私たちは神への捧げものはすべて喜んでしなければならないと信じています。もし献金が公的に行われれば、これは難しいです。第二に神への捧げものはすべて、隠れてされなければなりません。人々があなたを見ている時、隠れてするのは不可能です。(他の人々はあなたがどれだけ捧げたかわからないかもしれませんが、それでも捧げているのは分かっています。)第三に未信者が集会に来ているかも知れません。彼らは、神に献金する特権はありません。彼らは、献金する前にまず自分自身を神に捧げなければなりません(2コリント 8:4,5,3ヨハネ 7)。彼らはまた彼らが教会で聞く福音は無料であることを知らなければなりません。それを聞くのにお金を払う必要はありません。それで私たちは献金を集めて、彼らを戸惑わせることをしないのです。

同時に、信者が感謝の意として神に献金する機会を与えるために、私たちは会堂に献金箱を置き、喜んでそっと献金できるようにしています。

ほとんどのクリスチャンの働き人は他の信者の捧げものや献金で支えられています。このことに関して何も悪いことはありません。なぜなら主は「福音を述べ伝える者はその生活の糧を福音の働きから得ることができる」と言われました(1コリント 9:14)。ペテロや他の大方の弟子たちは、このように、他の信者によって支えられていたように見えます(1コリント 9:5,6)。

しかし、私たちは自給自足し主に仕えたパウロ(1コリント 9:15-18,2 コリント 12:14,2テサロニケ 3:7-9, 使徒 20:33-35)に違った例を見ます。インドの現状況においては、パウロのように主に仕えたいと思う沢山の人のために非常に多くの必要があります。

こういうわけで、私たちの教会では、ほとんどの長老はパウロのしたように自給自足で教会に仕えているのです。この方法はインドのような貧しい国においては、お金が目的で働き人として教会に来る人々を除外するという利点があります。

フルタイムの働きを考えている主の弟子たちに幾つかの指針があります。

1. 神から明確な召しを受けた場合に限り、あなたはフルタイムの働き人になってゆきます。

2. イエスは、この世の仕事を忠実にする人だけを彼の弟子に召されました。これは、神が例外を作られることができるけれども、聖書の中で基本的なルールのようです。なぜ神が世俗的な職業についている人々を選ばれるかは多くの理由があります。

(i) 神は、その人がよく働く人かお金の扱いに忠実な人かを見るために、まず世俗的な仕事の中で人を検証されます。イエスが召された人たちは、漁師やお金を扱う者として熱心に働き忠実な人たちでした。

(ii) 従って喜んで犠牲になることもまた試されます。なぜならフルタイムで主に仕えるために世の仕事を辞めた人は、辞める仕事がない人と違って代価を払わなければならないからです。このことを試されることにより、人はその「召し」が純粋に神からのものかどうか知ることができます。「神が召された」ということを想像することは、捨てるものが何もない人には簡単です。今日インドでは、多くの人が、他に仕事がないからという理由だけで、クリスチャンの働きをしています。それ故に彼らにとっては仕事であり、召しではないのです。

(iii) 世の仕事をしてきた人々だけが、世の中の仕事に忠実であるよう努力している他のクリスチャンに実践的な真理を教えるための必要な経験を積むでしょう。

3. 神が人をフルタイムの働きに召される時、そのために既に聖霊の賜物を用意されているのです。だから、もし神が本当にあなたを召されておられるなら、あなたが世の中の仕事についている間でさえ、神はあなたの働きに対して既に整えられてられるのです。

4. 最後に、あなたは、主の働きの重荷が大きくなり、世の仕事と両立できなくなる時になってから世の中の仕事を止めることを考えるべきです。あなたは、実際にはフルタイムで働かず、ほとんどの時間何もしないでぶらぶら過ごしていて、何回か夕方数軒の家を訪ね、週に2回集会を持っている多くの

「フルタイムの働き人」のようにならないようにすべきです。その人たちのほとんどは、この世の仕事に

就いていた時、主のためにもっと働いていたのです!悪魔はそのような怠けたフルタイムの働き人を

肥えた土地にいるのを見つけます。そして、彼らは、彼らはただ毎日するだけの十分な仕事がないという理由で、さまざまな種類の罪、うわさ話や不倫などに陥るのです。

神は住んでいる周囲の世界に神の御国の原理(主権)を表す弟子や教会を捜しておられます。私たちは心から神の召しに答えられますように。

聞く耳のある者は、聞くがよい。