勝利の秘訣

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 章 1
絶え間ない勝利の人生

私たちの人生における神のみこころは、絶え間ない勝利です。 これは多くの聖句のなかではっきりと教えられています。

いくつか考えてみましょう:

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、」(Ⅱコリント2:14)。

「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ 8:37)。

「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」

(1ヨハネ2:1)。

 それにも関わらず、信仰者に勝利の人生を送ってほしいと神が望んでおられることを、人々に納得してもらうのは、依然として難しい課題です。

 私たちが、幼い子供のように聖書に書かれてあることをそのまま受け取り信じるなら、このメッセージははっきりと私たちに伝わります。

  しかし、私たちが人間の理性に頼るならば、この邪悪な世で打ち勝つ人生などあり得ないという最もな論拠に辿り着くだけです。

 そして、多くの信じない「信仰者」は、理性がつぶやくその言葉のとおりに人生を送ります。 そして私たちは、この世で勝利を収める人生は無理だと自分に言い聞かせるのです。

 まず第一に、神が勝利ある人生を望んでおられると確信しない限り、私たちは決して、そのような人生への信仰を持つことはできません。 そして信仰がなければ、勝利の人生に入る事は不可能です。

  クリスチャン生活のすべては完全に信仰に、そして信仰は、神が私たちに語ってくださるみことばに基づいています。

 たとえ、何年も負け続けてきたとしても同じです。 神のみことばの中に、絶え間ない勝利の人生の真実をはっきりと見ることができれば。それは勝利の人生への第一歩となるでしょう。

 章 2
信仰の絶対的な必要性

1ヨハネ 2: 6 には、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」とあります。

 イエスはどのように歩まれたのでしょうか。打ち勝っておられたのは時折でしょうか。それとも、常にでしょうか。答えは明らかです。 私たちと同じように、イエスもあらゆる点で誘惑されましたが、決して罪を犯されませんでした。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

 私たちは今、主が歩まれたように歩むよう求められています。 果たしてこの世でそれは可能でしょうか。神は、私たちにできないとご存知のことを、私たちにしなさいと言われるでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。

  世の父親であっても、子供たちに不当な要求をすることはありません。 ましてや、神はそのようなことを言われるお方ではありません。

 新約聖書マタイ 13: 58 に最も悲しいみことばの一つが書かれてあります。

「イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。」

マルコ 6:5 の同じ箇所にも、「そこでは何一つ力あるわざを行うことができず」と書かれています。

 イエスは、ご自分の故郷で何か奇跡を行いたいと思っておられました。実際、人々にとって、それらの奇跡は必要でした。しかし、彼らの不信仰のためにお出来になりませんでした。

 神が本当はあなたのために行いたかったのに、あなたの不信仰のためにできなかった奇跡があったのではないでしょうか。キリストの裁きの座で、「あなたの不信仰のために、私はあなたのために、そしてあなたを通して、望んでいたすべてのわざを行うことができませんでした。」という言葉を聞く人がいるのではないでしょうか。

 世の生涯の終わりにそのことに気づいたら、私たちの心にはどれほどの後悔が残ることでしょう。 ですから今日、このことについて考えてみましょう。

 私は、クリスチャンとして回心した後の初期の数年間、聖書を学ぶ集会のグループの中で過ごしました。 ある意味、私はこのことについて神に感謝しています。なぜなら、そのおかげで、聖書についての基本的な知識を十分に得ることができたからです。

 しかし、彼らの学びは主に人間の理性によるものであり、聖霊の啓示によるものではありませんでした。 学生が学校で化学を勉強するように、私たちは聖書を勉強しました。 私たちは旧約聖書の型の意味などを見出しましたが、実際は、生活の中で罪に打ち負かされていました。私は、 神が私の罪を赦してくださったことを正しく理解はしていました。 しかし、私はそれ以上の信仰はありませんでした。

 みことばの中に聖霊のバプテスマの真実を知り、それを神に求めていた時、私は自分の不信仰に気づかされました。 私は断食して祈り、聖霊のバプテスマを受けるためならどんな代償を払っても構わないと思っていましたが、神が私の願いを聞いて、それを叶えてくださったこともなかなか信じることができませんでした。

 イエスは祈る時はいつも、自分が求めたものはすでに与えられたと信じるよう教えてくださいました。

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

 私は、このみことばを子供のように、純粋に信じるのに何年もかかりました。そしてついに、神の恵みによって、神が私の祈りを聞き入れ、それを叶えてくださったと信じることができたのです。

  私は信仰によって御霊によってバプテスマを受けました。 思いがけず、続けて与えられた異言の賜物は、私が信仰によって得たものの証しでした。

 今、その苦労した当時のことを振り返ると、私を妨げていたのは不信仰だったことがはっきりとわかります。

 罪に打ち勝つ人生をスタートする場合にも、これと同じ原則が当てはまります。 神が私たちをそのような人生に導くことができるお方であり、本当に成し遂げてくださると信じなければ、いくら断食し、祈ったとしても何も変わりません。

 サタンは、私たちが信仰を通してでなければ、神から何も得ることができないことを知っています。ですから、サタンがどのようにあなたの心を不信仰で満たそうとするかお分かりになるでしょう。 不信仰は、嘘や姦淫よりも非常に危険です。後者は容易に罪として認識されますが、不信仰はそうではないからです。

ヘブル 3:12にはこう書かれています。

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

 不信仰の邪悪な心は私たちを神から遠ざける可能性があります。 不信仰は他のすべての罪の根本原因です。これについては次の章で説明します。

ローマ6:14にはこう書かれています。

「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

 ここで聖霊は、もし私たちが恵みの下にいるなら、罪が私たちを支配することはありえないとはっきりと告げます。 とてもわかりやすく書かれているので、子供でも理解できます。 それにもかかわらず、多くの信仰者は未だに、罪に勝利する人生の可能性を信じていません。

 神はあなたが勝利のうちに生きることを望んでおられます。 あなたの思考生活がどれほど汚れているか、また、どれだけ長い間、怒りに負けているかは関係ありません。 主はあなたを完全に自由にし、清い心を与えることができます。 しかし、あなたが信じなければ、神はできないのです。

 聖書には、心で信じていることを口で告白しなければならないと書かれています。

ローマ10:10にはこう書かれています。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

 これは大切な原則です。なぜなら、私たちが自分の信仰を表現するのは、口による告白を通してだからです。 これは、ひいては罪の力からの解放につながります。

  ですから、私たちはサタンに対して「神は私を罪に勝利する人生に導いて下さると信じる」と証しの言葉を告げるべきです。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」 (黙示録 12:11)。

 あなたの人生で勝利が現実のものとなるまで、失敗、挫折しても、その度にこの告白をし続けてください。 一夜で実現しなくても落ち込む必要はありません。 神はきっとあなたの口からの告白を尊重してくださるでしょう。そして あなたもサタンに勝つことができます。

 章 3
神のみことばを真剣に受け止める

多くの信仰者にみられる悪い癖は、神のみことばを軽視することです。 マタイ 12:36,37のイエスのみことばを例に挙げてみましょう。

「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

 ほとんどの信仰者は、自分たちが発した無駄な言葉一つ一つについて言い開きをしなければならないとは思っていません。この聖句を本当に信じるならば、陰口、悪口、怒りはすべて私たちの生活から取り除かれます。イエスのこの言葉を真剣に受け止める人は皆、自分の話す言葉から、無駄な言葉を排除します。

 イエスはここで、私たちは自分の言葉によって裁かれると言われています。 私たちは皆、信仰によって義とされることは知っています。 しかし、行いのない信仰は死んだものであり、私たちの言葉を改めない信仰は死んだ信仰です。

 過去三か月間、自宅やオフィスで、夫、妻、子供、使用人の人などに対してあなたが発した(または書いた)すべての言葉を思い出してください。あなたの会話を録音したテープは、あなたが義とされた神の子であり、あなたの周りの世とは違うことを証ししてくれますか。それとも、その録音された言葉は、不信仰者が話すのと同じ言葉ですか。

 多くの信仰者の言葉は清いとは言えません。なぜなら、イエスのみことばを真剣に捉えていないからです。 そして、彼らは神を恐れていません。

 彼らは神を恐れるよりも人を恐れます。 神のみことばを真剣に受け止める習慣を身につけなければ、霊的な成長を望むことはできません。

 ヤコブ 1:26にはこう書かれています。

「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」

 舌を制御できない人には、キリスト教は無価値です。なぜなら、イエスが言われたように、私たちが話す言葉は私たちの心を表すからです。

「心に満ちていることを口が話すのです」 (マタイ 12:34)。

私たちの口の使い方は、「私たちの霊的な状態」を最も明確に示すものの一つです。

別の例を挙げましょう。神のみことばにはこう書かれてあります。

夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」 (コロサイ3:19)。

 これは一体どういう意味でしょうか。夫は妻に対して一度ぐらいはつらく当たっても問題ないということですか。

  私たちは通常、神のみことばが姦淫や殺人を禁じているので、そのような罪は絶対に犯してはならないことは知っています。 しかし、夫は妻に対してきつく当たってはいけないというこのみことばを読んでも、それほど衝撃は受けません。なぜでしょうか。 それは、私たちが、神のみことばのうち、どの戒めが重要で、またそうではないかを選り好みしているからです。 私たちは、神のみことばすべてを真剣に受け止めなければならないことに気づいていません。

 神のみことばを一つ一つ真剣に受け止める人は、失敗する度に自分の罪を嘆き、 こうして彼らは、聖霊により、慰め(強さ)が与えられ、勝利の人生へと導かれます。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」 (マタイ 5:4)

 ここにもう一つ、勝利の秘密があります。

  神のみことばを一つ一つ真剣に受け止め、神の基準に達しない時はいつも、自分の罪を嘆きなさい。

 このようにして、あなたは神を恐れていることを証していきます。そしてそれは、勝利の人生につながる知恵の始まりです。

 神は、霊において打ち砕かれ、悔い改め、神のみことばにおののく者たちを恵みと愛をもって見つめてくださいます。

わたしが目を留める者は、へりくだって心を砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2)。

 章 4
神の愛による計らい

神は常に人間に従順を求めておられました。旧約の下で、イスラエル人には従うべき戒めが与えられました。 しかし彼らは、神の律法を完全に守ることはできないことに気づきました。

 私たちがただ従うだけでなく、喜んで神に従うことができるように、神は新訳の下で、律法を私たちの心と思いに書き記すとを約束しておられます。 神の約束は次のとおりです。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 (エゼキエル 36:27)

 私たちは神の戒めに従うことによってのみ、神と交わることができます。

 しかし、信仰者のほとんどは従うということを理解していません。彼らは「恵み」が何であるかを完全に誤解しており、従うことは旧約時代のことだと考えています。 そのため、神の戒めは重荷だと感じています。 これはサタンの偽りに他なりません。

 これは神の愛に関して無知であることの結果です。 神の戒めはすべて私たちの益のためであり、私たちを自由にします。そして、私たちを完全に愛してくださる神のみこころから生じたものです。

 モーセは(神がシナイでイスラエルに律法を与えたことに関して)「神の御手には、ご自分の民のための律法がありました。確かに(これは)神がご自分の民を愛していることを証明しています。」(申命記33:2、3-欄外)と述べています。 神が私たちに律法を与えてくださっているという事実は、私たちに対する神の熱烈な愛の証拠です。

 神の戒めの中には、自己否定を要求するものもあります。 しかし、長い目で見ると、それが私たちにとっては最善であることがわかります。 父親は、子供たちに負担をかけたり傷つけたりするような命令はしませんが、ただ子供たちを助けるためだけの命令をします。 ですから私たちも、神が与えてくださった戒めを理解しなければなりません。信仰を持つことは、完全な愛の神を信じるということです。 そのような信仰を持つと、私たちはどんな犠牲を払ってでも、喜んで神の戒めを守るでしょう。

 しかしここに、私たちの敗北の多くの原因があるのです。サタンは人々に、神の戒めは不必要、または重荷であると信じ込ませます。 なぜ神がこうするべきだと言っておられることが分からなければ、それは私たちが未熟だと言うことです。私たちが霊的に少し成熟すれば、理解できるはずです。

 学校に行かされる子供たちは、なぜ親は家にいて遊ぶことを許してくれないのかを理解できないかもしれません。 子供は、両親が自分に厳しいと思うかもしれません。 しかし、親が子供たちに教育を受けさせるのは愛です。

 このような子供たちと同じように、私たちも神の道を理解できないことがよくあります。 しかし、もし私たちが神の愛を信じるなら、私たちは疑問に思うことなく、神の取り計らいとみことばにすべて従うでしょう。

 苦しみについて考えてみましょう。 なぜ愛の神は、私たちが苦しみを経験することを許されるのでしょうか。それは、苦しみが私たちの霊的な教育の授業内容の一部であるからです。 神は、苦しみを通して私たちを成熟へと導いてくださいます。 もしあなに苦しむ機会があまりなかったら、霊的な価値のある道を学ぶことはできなかったはずです。

 おそらく、あなたは前回ちょっとした苦しみを経験した際に、あまりにも不満に思っていたため、神は今、あなたをあなたの思うようにさせておられるかもしれません。神がそのようにお手上げ状態になることは、非常に悲しいことです。私はそうなってしまうよりも、 毎日、生活の中で苦しみを経験する方を選びます。

 神が私たちを苦しみを通して導いてくださっているのに、自分を他人と比較するのは愚かなことです。 それは、スラム街の貧しい子供たちが一日中、泥の中で遊べるのに、なぜ自分たちは学校に行かなければならないのかと疑問に思うようなものでしょう。

 私たちに対する神の計らいはすべて、完全な愛に基づいています。 神は私たちが幸せになることを望んでおられます。この世の表面的な、儚い幸せではなく、聖い人生を通してもたらされる奥深い永遠の幸せです。そして、苦しみを経ること以外に聖さにあずかる術はありません。

霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」 (ヘブル12:10)。

 イエスは、これまでにこの地上を歩いた人々の中でも、最も幸せな人でした。 しかし、最も苦しまれたのもイエスでした。 彼の幸せは、人生を楽に過ごすことによってではなく、御父のみこころを行うことから来ました。 イエスは父が完全な愛であることをご存知だったので、父が送ってくださったすべてのものに喜んで従われました。 それがイエスの人生の秘密です。

 章 5
神はイエスを愛したように私たちも愛してくださいます

私たちのあらゆる霊的問題の根本原因は、神が愛なる父であり主権者であることを知らないことにあります。

 私のクリスチャン生活に大きな変化をもたらした真実は、父がイエスを愛されたように、私たちも愛してくださるという、イエスが私たちに与えてくださった輝かしい啓示です。

 イエスは父にこう祈られました。

「……あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:23)。

 イエスはここで、私たちの周りの世がこの真実を知ることができるように祈られました。 しかし、世がそれを理解する前に、私たちの心がしっかりとこの事実を掴まなければなりません。

 すべてのクリスチャンは理論的には愛に満ちた天の父を信じています。 しかし、彼らがしばしば不安や心配、恐怖を抱えているということは、彼らが心の奥底でそれを信じていないことを証明しています。

 神がイエスを愛されたのと同じように、私たちのことも愛してくださっていることを信じる人はあまりいません。 イエスが私たちに、上記の聖句の通りだとはっきり言われなかったなら、私たちの誰もその真実を信じることはできなかったでしょう。

 この素晴らしい真実に目が開かれると、あなたの「人生観」全体が変わるはずです。 あらゆる不平不満、憂鬱感はあなたの人生から完全に消え去ります。 実際、それは私の人生にも起きました。

 私は長年、憂鬱感に縛られて打ち勝つことができませんでした。それは、神のみこころではありませんでしたが、なぜか私はそこから抜け出すことができませんでした。 しかし、神がイエスを愛されたのと同じように、私を愛してくださっているという真実に目が開かれて以来、私の状況は一変しました。

 私の人生に起きることはすべて、愛に満ちた父の手によるものだとはっきりわかったのです。神は私を、ご自分の目のように、大切に気遣ってくださるのを理解することができました。 だから今、人生のどんな状況でも、私は不平を言ったり落ち込んだりすることはありません。 パウロが言うように、どんな状況にも満ち足りて、神を賛美する秘訣を学んだからです。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」 (ピリピ4:4、11)。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 (1テサロニケ 5:18)。

これは今、私の人生の揺るぎない土台となっています。

  神はイエスを愛されたのと同じように、私を愛してくださっています。

 断食や十分な祈りをしないから、勝利の人生を送れないということでは決してありません。 勝利は自己努力によってではなく、信仰によってもたらされるからです。 「何に対する信仰?」と思われるかもしれません。 神の完全な愛への信仰です。

 多くの信仰者はサタンからの非難を受けながら暮らしています。サタンは、彼らに次のように言い続けます。 「断食もしていないし、十分に祈ってもいない。 証しも、聖書の勉強も足りない。」などなど。彼らは絶えず、そのような自己非難の声に駆り立てられ、終わりのない虚しい活動に奔走し、無駄な作品を作り続けています。

 自制や断食、祈り、十分の一献金、証しなどの行動が、神への愛に基づいていなければ、無駄な行為であることにお気きでしょうか。

 それよりもまず、私たちが神の愛に平安を見出していなければ、これらの行動は愛から出たものではありません。

エペソのクリスチャンに対するパウロの祈りは、神の愛に根ざすようにということでした。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、… 」(エペソ 3:16、17)。

 エペソのクリスチャンはすでに回心し、御霊のバプテスマを受けていました。 しかし、彼らは、神の完全な愛の長さ、広さ、高さ、深さを理解し、その愛に根付き建てられることができるように、内なる人が聖霊によって強められる必要がありました。 パウロがキリストのからだを築き上げる賜物について語り続けたのはその後のことです。

しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、…」 (エペソ 4:7、11、12)。

 神の愛にある完全な安息は、常に私たちの内になければなりません。 私たちのミニストリーが効果を発揮するためには、私たちがそこに根ざし、基礎を置く必要があります。

 新約聖書の別の箇所では、これを「安息に入る」と表現しています。

「(神の私たちに対する完全な愛を)信じた私たちは安息に入るのです。」と使徒は言っています(ヘブル4:3)。

  そして、この安息に入るために、心を尽くすよう私たちに勧めています。

ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル 4:11)。

 神の愛の中に完全な安心感を持って「休んでいる」状態でないと、簡単に挫折してしまいます。

 自分を愛してくれる人を探す人で世界は溢れています。 多くのクリスチャンは、愛を求め教会から教会へと渡り歩き、そこで友情に愛を求めたり、結婚に愛を求めたりします。  しかし、多くの場合ただ失望に終わるだけです。 孤児と同じように、このアダムの子孫たちは不安を抱え続け、その結果、何度も自己憐憫の感情に襲われます。 悲しいことに、未だ回心した後でも多くの人が不安に苛まれています。

 この問題に関して福音の答えはなんでしょうか 。

 答えは、神の愛の中に安住することです。

 イエスは弟子たちに、髪の毛は数えられており、無数の鳥に餌を与え、無数の花を美しく着飾ってくださった神が、彼らを気遣われないことがあろうかと言われました。

 以下の聖句がすべてを語っています。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)。

 神はイエスを気遣ってくださったように、あなたも気遣ってくださいます。私たちが時折、仲間や同胞によって失望させられるのを神が許されるのは、私たちが人間に頼らないようになるためです。 神は、私たちをそのような偶像崇拝から解放して(人間に依存するのは偶像崇拝の一形態です)、私たちが完全に神だけに頼ることを学ぶことを望んでおられます。

 ですから、神があなたに四面楚歌のような絶望的な状況を許されても、落ち込む必要はありません。 それは、あなたが神への信仰によって生きることができるように、神が人への依存からあなたを引き離そうとしておられるからです。 神がイエスを愛されたように、神もあなたを愛してくださっているという事実に安らうことが大切です。

 クリスチャン間の競争や嫉妬はすべて、同じ不安から生じています。 神の愛に平安を得て、神がみこころのままに自分を造ってくださり、賜物や才能を与えてくださったことに間違いはなかったと信じる人は、他人を妬んだり、競争したりはしないでしょう 。信仰者の間の問題もすべて、基本的にはこれと同じ不安が原因です。

 神がイエスを愛しているのと全く同じように、あなたを愛してくださるという真実に目が開かれる時、どれだけの問題が解決されるか考えて見てください。

 章 6
あらゆる試練には神の目的がある

私たちの人生に起きるすべてのことに、神が輝かしい目的を持っておられるとわかると、人生は素晴らしいものになります。 私たちの祈りに神が「ノー」と言われる時も、完全な愛の心から出た神の答えです。

 神が荒野で、イスラエル人を噛むための燃える蛇を送られましたが、果たしてそれは愛からでしょうか。

「そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。」 (民数記 21:6)。

 もちろん、それは間違いなく神の愛からです。神が、イスラエルの民を悔い改めさせ、神に立ち返らせ、彼らを祝福できるようにそうなさったのです。神は民を祝福したいと思っておられましたが、まず彼らが悔い改めなければなりませんでした。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)。

 神がこの世界を病気、毒蛇(悪)などの存在する住みにくい場所にされた理由の一つは、人々が苦悩の中で神により頼み、神が彼らを祝福するためでした。 そして、私たちは、神が(サタンが引き起こす)悪さえも用いて、ご自身の目的を達成しようとされていることが分かります。

 私たちが贖われた人々と会うと、どのようにして神が、毒蛇や経済的困難、癌などの困難を用いて、彼らを罪から遠ざけ、神の子供にしてくださったのかを証ししてくれるでしょう。 また、神がどのように苦しみを用いて、神の子たちを聖め、神の性質にあずかれるようにしてくださったについても聞くことができます。

 主が来られる日、私たちはこの世では理解できなかった多くの事柄について神に感謝するでしょう。 しかし、神の知恵と愛を信じる信仰者は、もうすでにすべてのことに日々感謝しているはずです。

 私たちにある神の最終的な目的は、私たちが神の性質にあずかるということです。 神は私たちの益、つまり私たちが神の御子の似姿になれるよう、すべてのことを働かせてくださるのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」 (ローマ 8:28、29)。

 なぜ神は、私たちが時々うっかりお金を失くしたり、悪い人に騙されたりすることをお許しになるのでしょうか。 混雑した電車やバスの中でスリにあったことがある人は多いかと思います。 私がそのような機会に会った時は必ず、そのスリ犯や泥棒のために祈ることにしています。 しかしそれとは別に、神は、お金や物質的なものへの過度の執着から私たち引き離したいと願っておられます。 神は、私たちが計算高くなって、お金を失うことを過度に心配したり、少しでも儲けると喜んだりすることは望んでおられません。神は、私たちに神の中にのみ喜びを見つけてほしいのです。

 この喜びは、物質的な損得に左右されることはありません。

 イエスはその喜びに満たされこの世を生きておられました。そして、私たちもイエスのように歩むようにと聖書は言っています。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」(ピリピ2:5)。

 誰かがイエスの宣教への感謝の気持ちから一万デナリをイエスにプレゼントしたとしても、彼の喜びは少しも増えなかったでしょう。 彼の喜びはすでに、父の中に満ち溢れていました。

 同時に、イエスの喜びは物質的な損失によっても減ることはなかったでしょう。 イスカリオテのユダは、イエスへの贈り物として入ってきたお金の多くを盗んでいました。 イエスはそれを知っていました。 そして、イエスはユダのことを嘆かれたに違いありませんが、お金そのものを失ったことにはまったく気にしておられませんでした。

 信仰者たちから得た献金に対する今日の説教者たちの態度を考えると、なんという違いでしょうか。しかし、このような説教者たちのことはさておき、私たちについてはどうでしょうか。 物質的なものによって私たちの喜びは増減していますか。もしそうであれば、私たちはもう一度自分自身を吟味して、自分の救いに努めるべきです。

 もし、あなたが本当にイエスのいのちにあずかることに真剣ならば、神は、物質への執着、人からの名誉への欲求、自己憐憫、非キリスト的な態度からあなたを解放するために、本当に多くの困難をあなたの人生にお許しになるでしょう。

 しかし、あなたがそれを望まないのであれば、神はあなたを強制しません。もしあなたが、ほとんどの信仰者が送っているような、堕落した惨めな人生で十分というならば、神はあなたをそのように手放されるでしょう。

 しかし、あなたが神の最善を心から求めるならば、神は真剣にあなたを扱い、あなたを破滅させている原因を切り取り、あなたを堕落させる偶像を破壊してくださいます。 神はあなたを安定した場所、つまりもう揺るぐことのない安住の地に連れて行くために、あなたが痛み、失望、喪失、屈辱、不当な批判などを受けることを許してくださるのです。

 そうすれば、その後、裕福か貧乏か、貶されるか褒められるか、名誉か不名誉か、そういったことはあなたにとってどうでもよくなるはずです。

 この世のすべてのものをキリストの死に持って行くならば、あなたはイエスのいのちにあずかり、この世で王のように歩くことができます。

「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:10)

 キリストにある豊かな命への道を見つける人はほとんどいません。なぜなら、自己否定ー自己の完全な死ーという代償を喜んで払う人がほとんどいないからです。 私たちは自己に対して死ななければ、信仰によって生きることはできません。 私たちが、キリストとともに十字架につけられることを望まないなら、神の完全な愛についての知識は、常に理論で終わってしまいます。 この世のすべてを捨てなければ、私たちはイエスの弟子にはなれません。

イエスは言いました。

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」 (ルカ 14:33)。

 先ほど以下のヨハネ 17:23を読みました。

「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

 ここでイエスは、世のため、あるいは肉欲的なクリスチャンのために祈っておられたのではありません。イエスは、すべてを捨ててイエスに従った十一人の弟子たちのために祈っておられたのです。この弟子たちは、肉欲的なクリスチャンや世の人々が決して知ることのない、父の愛の中に平安を得ていました。

 なぜ大抵のクリスチャンは肉欲的なのでしょうか。それは、サタンが彼らを騙して、神に自分を完全に委ねるよりも、いわば「両方のいいとこ取り」をしたほうが幸せになれる、と思い込ませているからではないでしょうか。 しかし、これは偽りに他なりません。

 もし私たちが、神の完全な愛を信じているなら、私たちは喜んで、すべてを躊躇いなく諦めるでしょう。 そして、私たちは不安から完全に解放されます。

 ピリピ 4:6と7はこう命じています。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 肉欲的なクリスチャンは、自分たちの船が嵐の中で沈んでしまうのではないかと常に心配しています。 イエスは父の愛の中に休んでおられたので、嵐の中でも眠っておられました。 イエスは、悪魔がそう簡単にご自分を溺れさせることができないことをご存じでした。 イエスの御父はいつもイエスを見守っておられました。御父がイエスを愛し、気遣ってくださったのと同じように、私たちをも愛し、気遣ってくださっていることに気づくと、人生はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。

 そして最終的に神と出会う時、私たちは、神の愛が私たちの想像よりもどれほど大きいものだったかに驚くでしょう。また同時に、自分たちの不安、心配がどれほど愚かなものだったかにも気づくでしょう。しかし、その時に気付いて何になるでしょう。

 今こそ神の愛の事実に目を開き、信仰によって生きる時です。

 章 7
耐えられないほどの試練は与えられない

1コリント10:13は素晴らしい聖句です。 そして大きな慰めです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 耐え難い試練や悲しみを経験したと人々は言います。アダムの子孫にとってはそうかもしれません。しかし、イエスの弟子たちには当てはまりません。なぜなら、神が彼らに降りかかるあらゆる試練や誘惑を注意深く見守っておられるからです。

 サタンや私たちを憎む者たちは、様々な方法で私たちを追い詰めます。 しかし、サタンは神の許可なしに私たちに近づくことはできません。 旧約聖書の中でさえ、サタンは、神がヨブの周りに垣を設けられたので、ヨブに触れることができないことに気がつきました。サタンは神にこう言いました。

「あなたは彼と、その家とすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」 (ヨブ記 1:10)。

 しかし、ヨブが聖化されるために、神はその垣を開かれ、サタンが彼を攻撃することを許されました。 しかし、垣の隙間の大きさは神によって決められました。最初は少しだけ開かれましたが(ヨブ1)、後になってさらに開かれました (ヨブ2)。 ヨブの財産を盗んだシェバ人もカルデヤ人も皆、神がお開けになった隙間から入って来たのです。

「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。…。カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(ヨブ記 1:15、17)。

 ヨブの子供たちの家を吹き飛ばした嵐も、同じ垣の隙間からやって来ました。

しかしそれは、ヨブの体を攻撃する病が入るには小さすぎました。その後、神が垣をもう少し開くと、病気も侵入してヨブは苦しみました。

 ヨブは当初、すべて起きていることを神がコントロールしているとは知りませんでした。それに気づいたのはかなり後のことです。しかし、私たちはこのヨブを責めることはできません。なぜなら、ヨブには私たちが使っているような聖書という書物がなかったからです。

 私たちには今、垣の開閉を管理しておられるのは誰かを明確に示してくれる神のみことば、聖書があります。

 垣は実際には、私たちの周りの火の壁である神ご自身のことです。

「しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。―主の御告げ―わたしがその中の栄光となる。」(ゼカリヤ2:5)。

 しかし、旧約聖書に出てくるエリシャの従者と同じように、私たちの目はしばしば盲目であり、私たちを取り囲む火の壁が見えません。しかし、エリシャはそれを見たので、彼には恐れがありませんでした。

「神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車と大軍がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいでしょう」と言った。

すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから」と言った。

そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」 (2列王 6:15-17)。

 この若者にはエリシャが見たものが見えなかったので非常に恐れました。エリシャが彼のために祈ると、彼の目は開かれました。 私たちの目も開かれなければなりません。

 垣をいつ閉めるべきかも神はご存知です。 神は、私たちの霊的な器量に応じて、また聖さにすこしでも近づきたいという私たちの熱意に応じて、私たちを取り巻く状況を、慎重かつ正確にコントロールされます。

 私たちが霊的に未熟で弱いならば、神は私たちが大きな誘惑に遭うことを許されないでしょう。 また、神はサタンが私たちをむやみやたらに攻撃することもお許しになりません。

 同時に、私たちが、自分の人生にある神の目的に無関心ならば、神は楽な人生をお与えになります。 しかし、永遠に損をするのは私たちです。

 ヨブは神に選ばれたしもべの一人だったので、これほど激しい苦しみに直面することが許されました。神は、これらの非常な苦しみを全ての人の人生に許されるわけではありません。なぜなら、それに耐えられるレベルまで霊的に成長した人はほとんどいないからです。 いずれにせよ、そのような霊的成熟に興味を持っている人はほとんどいません。

 イエスは、父の御手により、私たちが直面する可能性のある、あらゆる試練、誘惑を経験されました。こうしてイエスは、完全な方になられたのです。

 ヘブル 4:15 を参照してください。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

ヘブル 5:7-9 も見てください。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり…

 こうしてイエスは人としての教育期間を完了し完全になられました。私たちが完全になるためにも、それ以外に方法はありません。

 神は、耐えられないほどの誘惑や試みに私たちをあわせられないという事実は、私たちが常に打ち勝って生きていける理由です。

1コリント10:13で与えられた神の保証がなければ、私たちはこれほどの自信を持つことはできません。

 神は、私たちに訪れるあらゆる試練や誘惑は必ず克服できると保証して下さっています。 ではなぜ、私たちはすぐに挫折してしまうのでしょうか。

 それは、私たちが試練や誘惑の度に神が用意してくださった逃げ道を選ばないからです。

その逃げ道とは何でしょうか。

 それは、イエスのように、十字架の死に至るまでへりくだることです。

「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:8)

 これは豊かな人生への狭い道であり、見つける人はほとんどいません。 プライドが肉体に深く根付いているため、この素晴らしいへりくだりの道をなかなか見つけることができないのです。

 また、へりくだるということが何を意味するのかさえ理解していません。 これは確かに謎めいていますが、神は真剣に向き合う人にはそれを明らかにしてくださいます。

 私たちは、プレッシャーが人生を困難なものにしていると考えるかもしれませんが、 実際、自分のプライド、つまり自分自身について抱いている高い評価、高慢からきているのです。

 予約なしの満員電車に乗らなければならなかった時のことを、私は時々思い出します。 座る椅子がなく、隅の床に座ったり、時には立たなければなりませんでした。 始発駅というだけあって、車内は人も荷物もぎっしりでした。途中の駅に停まる毎に、車内の状況は悪化し、人も荷物もどんどん増えていきます。人ごみの圧迫感は常に高まっていました。

 そして、「ああ、今自分が蟻くらいの大きさになれたら、もう押しつぶされることはなくなるのに」とひしひしと思いました。 私は、自分が人間の大きさだから、この雑踏の中で非常な圧力を感じることに気がつきました。もっと太っている人にとっては、間違いなく状況は酷かったはずです。

 すべては私たちの大きさによって決まります。 蟻は、その混雑した車両を非常に広いと感じて、押しつぶされそうなどと文句は言わないでしょう。

 それが霊的な答えです。 外からの圧力が高まった時、自分がどんどん小さくなっていけば、圧力は和らぎ、徐々に消えていきます。

 神は私たちが小さくなることを望んでおられます。神は、私たち自身が無であると感じるまでに私たちを無にしてくださり、そして、私たちを通してご自身の目的を達成されるのです。

 たとえば、なぜ私たちは人に対して腹を立ててしまうのでしょうか。それは、私たちが自分自身や自分の権利を高く評価しているからです。私たちは、人々が自分に十分な敬意を払っていない、あるいは自分の権利が奪われたと感じます。

 人が陰で自分のことを悪く言うと、私たちは傷つきます。 私たちにこのような苦しみをもたらしているのは、私たちの膨れ上がったプライドです。 プライドの風船に穴をあけて完全にしぼんでしまうと、圧力がまったくないことが分かります。

 これが秘訣です。神が私たちの目を開いてくださり、私たちがそれを見ることができますように。

 周りの人々が不平不満をつぶやく横で、私たちには何の不満もありません。なぜなら、へりくだるという逃げ道を選ぶからです。

 章 8
神はへりくだる者にのみ恵みを与える

神が私たちに、へりくだることを望んでおられるもう一つの理由があります。

 ーそれは、私たちに神の恵みを与えるためです。 神はご自身の律法に背くことはできません。ーそして、神の律法の一つには、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるとあります(1ペテロ5:5)。

  神がどれほど私たちを愛して下さっていても、私たちがお驕り高ぶっているならば、私たちに恵みをお与えになりません。そして、神からの恵みがなければ、私たちは打ち勝って生きることはできません。 誘惑の力は、神の恵みの力によってのみ克服できるからです。

「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

旧約の下では、人々は心の中で誘惑と闘い、もがき苦しみましたが、いつも負けていました。

 タルソスのサウルはかつて、神の律法という外部標準に従って生きていました。

 ピリピ3 :6 で、彼は自分の人生について、「律法による義についてならば非難されるところのない者」と当時の自分を表現しています。しかし、心の中にある情欲や貪欲に対しては、自分が無力であることに気づいたのです。 彼はローマ7:8でこう言っています。

「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」

 人々は律法を守ることによっては、様々な欲から心を清く保つことができませんし、また律法はそのためのものではありませんでした。

 律法は、肉の欲に対する人間の罪深さや無力さを示し、罰を被ることへの恐れによって、人間を外的な罪から守ることを目的としていました。人は律法によって、うわべでは人の目から見ても完璧な人生を送ることができます。 しかし、心の中は罪の下水道にもなりかねないのです。 律法にできることはこれが全てでした。

 しかし、イエス・キリストによる新約の福音は、律法によってできなかったことが、恵みによって達成されるということです。 神の恵みは、私たちの罪を赦してくださる神の哀れみだけではありません。 それ以上のものです。 私たちが罪を克服できるのは神の力です。

 2コリント 12:9 では、「恵み」は「力」と同じものとみなしています。主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われているからです。

 この恵み(力)は、私たちが誘惑に遭う時助けてくれます。 ヘブル 4:16にはこう書かれています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか

「恵みによって心を強めるのは良いことです。」(ヘブル13:9)。 そうすれば、私たちは情欲やむさぼりに心が汚されないようにすることができます。 これは新約の福音です。

 ヘブル8 :10 で神は、「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」と言われました。

  旧約(律法)の下では、神は人に「あなたは…してはならない」と告げておられました。

  しかし、(この聖句で)新約の下では、神ご自身が「私は…を入れ」、「私は…を書きつける」と言われ、神ご自身が主体を担っていることに注目してください。

 神は恵みである御霊を通して、私たちの思いと心の中で働いてくださるのです。

 恵みを通して、 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)。 このようにして、「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされ」ます(ローマ8:4)。

 これが、神がペンテコステの日に御霊を注がれた主な目的でした。 神が「その日…エルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注(ゼカリヤ書12:9、10)」がれたのは『恵みの霊』でした。

 その川は今も、滝のように神の御座から地へと流れ続けています。 聖なる都エルサレム(教会)に住む者は、その滝の下で神の恵みに浸ることができるでしょう。

 そして、ローマ 6 : 14 に書かれてある約束が成就します。

「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

 しかし、この滝の水を受けるには、一つだけ条件があります。それは、私たちがへりくだることです。

 恵みは、私たちを罪や境遇、憂鬱、不機嫌、サタン、恨み、憎しみ、嫉妬、欲望、その他あらゆる悪などから救ってくれます。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ 5:6)。

 へりくだるべき「神の力強い御手」とは何でしょうか。日常生活で起きる状況や出会う人々をコントロールする御手です。へりくだるということは、たとえ、人々が私たちの頭上を乗り越えようとしても、どのような状況においても、私たちのための神の計らいに喜んで従うということです。

 神は垣の隙間を見ておられ、一度にどれだけ開けるべきかを知っておられるので、自分が耐えられるかどうか不安になる必要はありません。 神はいつそれを閉じるべきかも知っておられるからです。

 私たちが何かの罪に負けてしまう場合、その理由はただ一つ、私たちのプライドです。 神が私たちに恵みを与えてくださらなければ、私たちは罪を克服することはできません。 そして、私たちが高慢ならば、神は恵みを与えてくださらないでしょう。

  自分が負けてしまったと思ったらすぐに、神のもとに行って次のように告白しましょう。

「主よ、私が打ち勝つために、あなたが与えてくださる恵みを妨げているプライドが、私のどこに潜んでいるのか教えてください。」

 このように、失敗する度にすぐに自分自身を裁くと、即座に勝利を掴むことがでるのです。

  罪に対する勝利は、新約の下の私たちの生得権です。

 無知やプライドの為に、サタンにそれを奪われないように気をつけてください。 勝利を得るのに時間がかかるとすれば、それは神が私たちをへりくだらせるのに時間をかけておられうからです。 アダムの子孫である私たちのプライドや自信を揺るがせるのには時間がかかります。

 もう一つの種類の高慢、それは自分には罪を克服する力があると考えることです。

 私たちは皆、もう少し思い切った決心や自制心があれば、また、もう少し祈りと断食をすれば、そして聖書の知識がもう少しあればなどと考えます。そして、この本で勝利の秘訣について読んでいる今でさえ、教義の内容を十分理解できたから、罪を克服するのは簡単だと思ってしまいます。そして、自信がまだ自分自身にあって、神の恵みではないことに気づかずに、その大きな自信を持って進みます。しかし、結局私たちはとても惨めに挫折してしまうのです。

 しかし、一度の失敗しただけで私たちは何かを学べると思いますか。いいえ、そうではありません。 ですから神は、私たちが何度も何度も倒れるのを許されます。あれほど自分で決意したにも関わらず失敗し、勝利を得る希望が見えないと完全に諦めるその日まで。 それがゼロポイントであり、それによって、神は私たちを勝利の約束の地に導いてくださるのです。

 旧約聖書の中で、神はエジプトを出たイスラエル人を、エジプトを出てから二年後に約束の地の国境まで連れて来られました。 しかし、彼らは不信仰のために約束の地に足を踏み入れることはできませんでした(民数記13章と14章を参照)。 そこで神は、高慢で自信に満ちたイスラエル人のすべて戦士(自己の強さを象徴する)が滅びるまで、さらに三十八年間、荒野をさまようことを許されました(申命記2:14)。 そしてついに、彼らはゼロポイントに到達し、約束の地に入ることができました。そして、エリコは実に簡単に陥落しました。

 神が私たちの中で働いてくださるその前に、神は私たちをゼロにする必要があります。 四十年もかかる必要はありません。 あなたが、どんな犠牲を払ってでも、神の御前にへりくだる強い決意を持っているなら、一、二年以内にそれは実現するでしょう。

 自分の境遇や他人のせいにし続ける限り、勝利を望むことはできません。 しかし、私たちが謙虚になって、神が私たちの状況をすべて支配しており、どんな試練も私たちにとって乗り越えられないものはないと信じるならば、勝利は確実です。

 章 9
神は私たちの状況をコントロールする

揺るぎない信仰は、神に関する三つの事実、つまり神の完全な愛、絶対的な力、そして完全な知恵の上にあります。 もし、神の愛に確信があるならば、神の主権にも確信がなければなりません。

 だからこそイエスは、祈りの前に神を「天におられる私たちの父」と呼ぶように教えて下さったのです。

 「私たちの父」と言う言葉で、私たちは神の完全な愛を思います。 そして「天におられる」と言う言葉で、世で起こるすべてのことを、絶対的な主権で支配しておられる全能の神を思い浮かべます。 神は完全な知恵のある方であり、それに従って私たちの道を完全に定められるのです。

「​​神、その道は完全(神の知恵は完全である)。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。(神は私の状況を完全に治められる)」(詩篇 18:30、32)。

 もし神が愛、力、知恵において完全でおられないなら、私たちには信仰を置くべき土台がありません。しかし、神はその三つすべてを完全に備えておられるので、私たちは決して動揺する必要はないのです。

 信仰とは、神の完全な愛、絶対的な力、そして完全な知恵全く信頼し、自己を神に委ねることです。

 私たちは誰もが、神の知恵が完全であることをすぐに理解できます。 しかし、天がはるか地上にあるように、神の道は私たちの道よりもはるかに高いところにあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8、9)。

 ですから、私たちは主がどのように働かれるか、またどのように私たちを取り巻く事柄を治められるのかを理解できないことがよくあります。

  子供が父親の考えをすべて理解できないのであれば、私たちも神の方法をすべて理解できなくても当然のことです。しかし、私たちが霊的に成長し、神のご性質により預かるようになれば、神の道をますます理解できるようになります。

 また、すべての人々と状況の上にある神の完全な主権については、多くの信仰者がまだ半信半疑です。 彼らは口ではそれを認めるかもしれませんが、日常生活の中で実際にそれを信じることができません。 しかし聖書には、神がご自分の民のためにどのように主権をもって働いておられるかを示す例がたくさんあります。そして多くの場合は、最も有り得ないような方法です。

 私たちは皆、エジプトからのイスラエル人の救出など、神がご自分の民のために成された奇跡的なわざをよく知っています。しかし私たちは、サタンが神の人々を攻撃する際に、神がサタンに対して形勢を逆転させるような、より優れた奇跡を見過ごすことがよくあります。

 例えば、ヨセフの話は典型的なその例です。 神はヤコブの十一番目の息子を、彼が三十歳になるまでにエジプトの二番目の統治者にするという計画を立てておられました。

 ヨセフは神を畏れる少年だったので、サタンに嫌われていました。そこで、サタンは兄たちをそそのかして、彼を仲間外れにさせました。 しかし神は、彼らがヨセフの命を奪うことは許されませんでした。 そして兄たちは、ヨセフをイシュマエル人の商人たちに売り飛ばすことに成功します。その後、商人たちはヨセフをどこへ連れて行きましたか。 そう、エジプトです。このようにして、神のご計画の第一段階は見事成し遂げられたのです。

 エジプトでは、ヨセフはポティファルに買われました。 これも神の計らいでした。 ポティファルの妻は悪女でした。 彼女はヨセフに興味を持ち、何度も彼を誘惑しようとしました。 彼を誘惑することは無理だと悟った彼女は、ヨセフを無実の罪で告発し、投獄させました。 しかし、ヨセフは監獄で誰に出会いましたか。 パロの献酌官です。神はヨセフが献酌官と会えるように、献酌官も同時に投獄されるようご計画されていました。

これが神のご計画の第二段階でした。

 そして第三段階では、パロの献酌官にヨセフのことを二年間忘れさせることでした。

「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。…それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。…そのとき、献酌官長がパロに告げて…」(創世記40:23; 41:1,9)

 それは神の予定表によれば、ヨセフが監獄から釈放される時でした。

詩篇 105篇19、20節にはこう書かれています。

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。」

 この時ヨセフは三十歳でした。 神の時が来たのです。 そこで神は、パロに夢を与え、同時に献酌官に、夢を解き明かす者としてヨセフのことも思い出させます。

 こうしてヨセフはパロの前に現れ、エジプトの第二の統治者となりました。ヨセフの人生における出来事のタイミングは、完璧そのものでした。

 私たちは、神のように物事を計画立てることは思いもつかないでしょう。 もし、私たちにヨセフの人生を計画する権限があったなら、おそらく人々が彼に危害を加えないようにするだけでしょう。 しかし、神の方法ははるかに優れています。

 人々が私たちに行う悪が、かえって神の目的を達成するということは偉大な奇跡です。 すべてのことが、神に選ばれた者たちの益のために働くようにと、神はサタンの形勢を逆転されることを喜んでおられます。

 これらの出来事を私たちの状況に当てはめてみましょう。

 邪悪な人々、嫉妬する兄弟たち、ぬれぎぬを着せる女性たち、私たちを助けると約束しながらも忘れてしまう友人、あるいは不当に投獄されることに対して、私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。

 神が、私たちの人生の神の目的を達成するために、これらすべての人々と彼らの行動を意図的か、偶然かに関わらず用いられる主権者であると、私たちは信じているでしょうか。 もし神がヨセフにそうしてくださったのなら、私たちにも同様のことをしてくださるのではないでしょうか。

 しかし、ヨセフにたてられた神の計画を台無しにすることができた人物は誰でしょうか。 それはたった一人、ヨセフ自身です。

  もし彼がポティファルの妻の誘惑に負けていたら、間違いなく神に拒まれていたでしょう。

 あなたの人生における神の計画を台無しにし、滞らせることができるのは、宇宙でただ一人だけ、それはあなた自身です。 他の誰にもそれはできません。

 あなたの友人でも敵でもありません。 天使でもサタンでもありません。 あなただけです。 これを一旦理解すれば、私たちは多くの恐怖や、自分を傷つける人々への間違った態度から解放されるでしょう。

 私たちの心が、この真理の上にしっかりと確立されるように、旧約聖書からもう一つ例を見てみましょう。

 エステル記には、神がどのようにしてユダヤ人を虐殺から救われたかが記されています。 しかしその中でも、神がある小さな出来事を通して成されたことは、驚くべきことでした。

 ある夜、王はなかなか眠れませんでした。 ハマンとその妻は、ある夜、すべてのユダヤ人を滅ぼす前置きとして、翌朝モルデカイを絞首台にかける許可を得ようと企てていました。 しかし、ハマンとその妻が邪悪な計画を立てている一方で、神はモルデカイのために働いておられました。 「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」 (詩篇 121:4)

 神はその夜、王の眠りを妨げました。その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」 (エステル 6:1)。

  王は夜が明けるまで、何時間も国の歴史に耳を傾けました。 それから、モルデカイがかつて、王を暗殺から救ったと言う記録に差し掛かりました。 王は家来たちに、このことでモルデカイにどんな名誉が与えられたのかと尋ねると、彼らは「何も与えられていません。」と答えます。

 全ての事柄の神のタイミングはここでもまた完璧でした。 まさにその瞬間、ハマンが、モルデカイを絞首刑にする許可を王に求めようと、中に入ってきました。 ハマンが口を開く前に、王はハマンに、王として自分が讃えたい人物のために何ができると思うか尋ねました。 自惚れたハマンは、王が自分のことを言っているのだと思い込み、そのような男のためには盛大で栄誉あるパレードを提案しました。そして、王は 「モルデカイのために早くそれをしなさい」と言いました。

 私たちの神はなんと驚くべきことに、サタンの形勢を逆転されるのでしょうか。 ハマンはついに、モルデカイのために自分が用意した絞首台に掛けられました。

(他人のために)穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、(別の石に)石をころがす者は、自分の上にそれをころがす(自分を押しつぶすために)」(箴言 26:27)。

 この物語のハマンは、常に私たちに対して、何らかの悪を企てているサタンの一種です。 神にはもっと良いご計画があるので、神はサタンを止めません。 同時に神は、サタンを打ち負かしたいと思っておられます。 悪魔が私たちのために掘る穴は、最終的には悪魔自身が陥ることになります。

 ゼパニヤ 3:17には(ある翻訳では)「神は私たちのために愛のうちに静かに計画を立てておられる」と書かれています。

 その夜モルデカイは、ハマンとその妻が邪悪な計画を全く知らずに熟睡していました。しかし、神はモルデカイを守る計画も立てておられました。 ですから、モルデカイは、たとえハマンの邪悪な計画を知っていたとしても、同じようにぐっすり眠ることができたでしょう。神がモルデカイの味方だったら、誰が彼に敵対できるでしょうか。

 ペテロも、ヘロデによって処刑される前夜、神が自分のためにそっと愛のうちにご計画を立ておられることを知っていたので、牢獄でぐっすり眠ることができました。 そしてちょうど良いタイミングで神の御使いがやって来て、ペテロを起こし彼を自由にしました(使徒12章)。

 私たちも、人間や悪霊が私たちに何をしようとしているかに関係なく、すべての事柄とすべての人にある神の完全な権威を信じていれば、毎晩ぐっすりと眠ることができます。

 一度神の主権を理解することができたら、私たちは何かにつけて人々を責めたりしなくなります。 私たちは、もはやサタンを恐れたり、彼が何か害を及ぼすのではないかと恐れたりする必要はありません。 私たちは病気や、その他この世のあらゆるものを恐れることはありません。

 聖書は、どんな状況でも、すべての人に対して、すべてのことに感謝しなさいと教えています。

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:20)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:18)。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1テモテ2:1)。

 神の絶対的な主権を理解して初めて、私たちは心から感謝できるでしょう。

 神はイエスを気遣ってくださったように、私たちも気にかけてくださいます。 イエスを助けた同じ恵み、イエスの勝利を可能にした同じ聖霊の力が、今私たちに与えられています。

 ユダはイエスを裏切り、ペテロはイエスを否み、弟子たちはイエスを見捨て、群衆はイエスに背を向け、イエスは不当に裁判にかけられ、無実の罪を着せられ、十字架につけられるために連れて行かれました。

  それでも、カルバリに向かう途中で、イエスは群衆に向かって、「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」(ルカ23:28)と言われました。

 イエスには自己憐憫のかけらもありませんでした。

 イエスは、自分が飲む杯が父から与えられたものであると知っていたからです。 イスカリオテのユダは、その杯を運んだ使者にすぎませんでした。 それで、イエスはユダを愛の目で見て「友よ」と呼ぶことができました。 神の完全な権威への信仰がなければ、それはできません。

イエスはピラトにこう言われました。

「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネ19:11)。

 この確信があったからこそ、イエスは王として威厳を持って、この世を歩むことができたのです。 イエスはその霊的尊厳をもって生き、同じ霊的尊厳をもって死なれたのです。

 今、私たちは「イエスが歩まれたように歩む」ことが求められています。 主がピラトの前で「素晴らしい告白の証し」されたように、私たちも未信仰な世代に対して、はっきりと告白をしなければなりません。

 パウロは1テモテ 6:13,14でテモテにこう告げています。

「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。

私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」

 すでに見たように、神が成しておられる最善は、私たちを神の性質、神の聖さに預らせるためです。 神は、その驚くべき主権において、ご自身の目的を達成するために、私たちが出くわすすべての人を利用されます。 だからこそ、私たちはすべての人に感謝できるのです。

 なぜ神は、厄介な隣人、口うるさい親戚、そして横暴な上司があなたに嫌がらせをし続けることを許されるのでしょうか。神は、簡単に彼らをあなたの前から取り除いて、あなたの生活をより快適なものにすることができるお方です。 しかし、神はそのようなことは一切されません。 なぜでしょうか。神はあなたを聖化するために、彼らを用いられるからです。 神はまた、あなたを通じてそのような人々を救いたいとさえ思っておられるでしょう。

 神に感謝します。私たちの勝利は、家であれ、オフィスであれ、その他の場所であれ、私たちがどのような人々に囲まれているかに決して左右されません。 私たちの勝利は、完全に神の恵みにあります。 そして私たちがへりくだるならば、その恵みはあらゆる場面で私たちのものとなり得るのです。

 章 10
神への信仰 – それともお金への信仰?

 お金はこの世において大きな力を持っています。 だからこそ、イエスは、私たちが仕える主人として神と富の二者を挙げられました。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(ルカ16:13)。

 世はお金の力を信じており、「お金があれば何でもできる」と言います。 私たち信仰者は「神は何でもできる」と言いますが、ほとんどの人が、生ける真の神以上に、彼らの神であるお金に対して信仰を持っています。

 この世は常にお金が関わっているので、この領域でも打ち勝って行かなければなりません。

 世はお金が奇跡を起こすと信じています。 私たちについてはどうでしょうか。私たちの神は、お金以上の奇跡を起こすことがおできにならないのでしょうか。しかし、私たちに信仰がないならば、神は私たちのために働いてくださいません。イエスは、この世界で何事も不可能ではないのは、 一人は神であり、もう一人は信仰を持った信仰者であると言われました。

どんなことでも、神にはできるのです。…信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ 10:27; 9:23)

  神にとっても、信仰を持つ人にとってもー 不可能なことは何もありません。

これは素晴らしいことです。 それこそが、私たちを神の全能の力と結びつける信仰の力です。 そのような信仰によって、私たちは、神がお金よりも偉大であることを周りの人たちにに証ししなければなりません。

 バンガロールの集会所を立てる際にセメントを購入しなければならず、そのために政府から許可をもらわなければなりませんでした。 私が役所の担当者に会いに行ったところ、来週また来るように言われました。翌週また行った時も、また来るように言われました。 これやりとりはしばらく続きましたが、役所の実情に詳しい人が、その事務官が間接的に求めているのは賄賂だと教えてくれました。

 賄賂を渡すことは有り得ないことですが、その代わりに私たちは祈りました。 私は何度も何度も役所に通い続け、それによってかなりの忍耐力を身につけました。 数か月後、ようやく許可を取得しました。 私はただセメントだけを申請していたのですが、同時に忍耐力も得ることができました! 神はいつも私たちが求める以上のものを与えてくださいます!! ハレルヤ!!

 腐敗した役人を用いて私に神の性質、すなわち忍耐を神が与えてくださったとは、何とすばらしいことでしょう。 もしあの人に賄賂を渡していたら、もっと早くセメントを手に入れていたでしょう。しかし、私は忍耐力を得ることができませんでした。 これが神の道なのです。 私たちが神を敬えば、神も私たちを敬ってくださるでしょう。

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」と主は言われます(1サムエル2:30)。

 私たちの人生において、神のみこころ以外の野心がなければ、何の問題はありません。

 バンガロールに教会を建てることが神のみこころであるならば、セメントは必要だと私たちは考えていました。 しかし、そうでないならば教会の建物は望んでいませんでした。 そして神が示してくださるその時まで、私たちの思いは変わりませんでした。そして、セメントの許可を得るまでの四年間、忍耐を学ぶことができました。

  神の予定表は常に完璧です。 神はいつも時を守り、遅らせたりなさいません。 神が私たちにセメントを渡すと定められた日に、私たちはそれを手にするだけです。世のいかなる力も、私たちが神の予定を妨げることはできません。ですから、私たちが忍耐して神の時を待つのであれば、神はご自身の方法で、そしてご自身のタイミングで、関係する役所の人にも働いてくださることがわかります。

サウルは忍耐力の欠如から王国を失いました。 以下の箇所を読んでみてください。

サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。

 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。

 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。

 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。

 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」

 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」サムエル上 13:8-14)

 多くの人は焦りのせいで神の最善を逃しています。 あなたが真実と正義に立ち、神の時を待つ姿勢でいるなら、あなたの人生における神の計画を妨げる人は誰もいません。

「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」(ヘブル6:12)。

 同じ原則が、家計にも当てはまります。 私たちの信仰はお金ではなく、神にあります。 神の御国の法則に従って生計を立てれば、必要に応じた十分なお金があります。 決して裕福にはなれないかもしれませんが、物乞いをする必要はないはずです。ダビデは次のように言いました。

「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」(詩篇37:25)。

イエスはこう言われました。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 (マタイ 6:33)。

 信仰を持って歩み始めたクリスチャンの「フルタイム奉仕者」の多くは、結局、堂々たる乞いのようになり、自分たちの経済的必要を巧みにほのめかす「祈りの手紙」(多くの場合、「物乞いの手紙」に過ぎませんが)を毎月送っています。

 愛に満ちた全能の天の父がおられるのに、なぜ自分の必要を人々にほのめかす必要があるのでしょうか。 私たちの月々の必要などの些細なことで、神に頼ることができないのならば、神に仕えることを完全にやめたほうがいいでしょう! このような状態にある時、神と富の一体どちらを信じているのでしょうか。

 私たちの関心が神の関心と同じであれば、何も問題はありません。

  神が私たちに持たせたくないものを買いたい、所有したいという欲求がなければ、私たちはいつも安住することができます。なぜなら、神は必要に応じて、時には奇跡的に、常に私たちの必要を満たしてくださるからです。 しかし、物質的な欲望を満たすために不必要なものをたくさん買いたいという欲求に負けてしまうと、常に困難に直面するでしょう。

 同じ信仰の法則が、人生のパートナーを見つける場合にも当てはまります。

「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。」(父は子たちに家と富を与えることができるが、彼らに理解ある妻を与えることができるのは主だけである。箴言19:14 - リビングバイブル)。

 もし神が誰かをあなたの人生のパートナーとして用意されているとしたら、他の誰かがその人と結婚する可能性はあるでしょうか。神の主権を信じているなら、そうはなりません。

 全く焦る必要はありませんし、掴もうとする必要もありません。 神はその人をあなたのためにしっかりと守ってくださるのです。 あなたはただじっと休んで待っていれば良いのです。。

 アダムは結婚相手を探そうとエデンの園を必死に走り回る必要はありませんでした。 たとえ動き回ったとしても、誰も見つけられなかったでしょう。 神はアダムに何をされましたかした。 神はアダムを眠らせました。そして、神が彼のために用意しておられたのは、実にアダムが眠って休んでいる時でした。そして神は彼を起こし、エバを与えました。

 神はアダムを愛されていたのと同じように、あなたを愛して下さっています。そして、もし神が、あなたのために結婚を計画されているのであれば、必ずあなたを適切な人に導いてくれるでしょう。 しかし、あなたは神を信頼しなければなりません。 信仰を持たずに待っていても失望するだけです。

 もしあなたに神の御心以外の野心がなければ、たとえ独身であることが神のみこころであり、そうであっても構わないのであれば、まったく恐れる必要はありません。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」 (2歴代 16:9)。

 なんとすばらしい神が私たちにはいるのでしょうか!

「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(1ヨハネ5:4)。

 もし、あなたに神の完全な知恵、愛、そして力への信仰があるなら、あなたは必ずこの世とその支配者とその力(富、快楽、名誉など)に打ち勝つことができるでしょう。 しかし、もしあなたが神の主権や愛を信じなければ、アダムの子孫とともに悲惨で、不敬虔で、そして妥協し挫折する人生へ引きずり込まれることになるでしょう。

 章 11
神は弱い者を助ける

世の中では、神は自助する者を助けてくださると言います。 しかし、聖書は、神は自分ではどうすることもできない人を助けてくださると述べています。 神は弱い者と無力な者の神であり、ご自分をやもめ、孤児、そして在留異国人の神と呼んでいます。

申命記 10章17,18節にはこうあります。

「あなたがたの神、主は、神の神、主の主で、偉大で、力あり、恐ろしい神、かたよって愛することなく、わいろを取らず、

みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。」

 神はご自身を金持ちや力のある人の神とは呼んでおられません。なぜなら、これらの人々には人的、経済的な援助があるからです。 イエスは、人にもお金にも頼ることができない、弱者や無力な人々の神です。 神は弱い者の味方です。 だからこそ、神は私たちを助ける前に、私たちを弱らせなければなりません。

 神はパウロのからだにとげを与え彼を弱らせました。それは、パウロが神の力が常に自分の命にあることを知るためでした。

2コリント12:7-10 でパウロはこう言っています。

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

 あなたが自分の富や影響力のある友人たちに頼って、人生を楽に過ごしている限り、神はあなたの思うがままにされるでしょう。神は、あなたの助けを求める祈りにも答えられません。なぜなら、あなたが自分の銀行口座や知り合いの力ある人といった肉の腕に頼っていることを、神はご覧になっているからです。

 しかし、もしあなたが、人にもうこれ以上頼ることはできないという、本当の弱さに達したならば、あなたは世で最も恵まれた人になるでしょう。 そして、神ご自身があなたの支えとなってくださいます。 弱くて無力であることは幸いなことです、なぜなら私たちはすべてにおいて神に信頼するからです。

 ユダのアサ王は神に何度も助けられた人でした。 しかし、足に重度の病気を患った時、その癒しを主ではなく医者に頼りました。 彼について次のような悲しい言葉が書かれてあります。

  「それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者に求めた。アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。」(歴代誌下16:12、13)。

 アサは王だったため、この国で最も優れた医者に診てもらうのに十分なお金を持っていました。 しかし、彼の影響力と富のすべては病気を治すことはできませんでした。 彼が主を信頼していれば、どんなに良かったことでしょう。

 彼が医師の治療を受けたことには何の問題もありません。 彼が医者に頼っていたことが間違いだったのです。

 主だけがあなたの助け手であるという心構えであることが最善です。 もし、あなたが自分の人生で、神の最善だけを願うならば、神が肉の腕に寄りかかるあなたを何度も引き離そうとしてしていることに気づくでしょう。

 そのようにして神は、あなたを衰えさせ、神だけを頼ることができるようにしてくださるのです。

 神がエリヤにどのように対処されたかを考えてみましょう。 イスラエルに飢饉があった時、神はカラスと小川を使ってエリヤを養われました。

「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。

 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」(1列王17:4-6)。

 一日に二回、カラスがパンと肉を持ってきて、小川にはいつも十分な水がありました。 このようなことは頻繁に起こったので、エリヤは神ではなく小川とカラスに頼る危険がありました。 そこで神は、供給経路を変更することに決めました。

「しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。」 (1列王 17:7)

 ある朝、エリヤが小川に行ってみると、川が枯れていることに気づきました。 神はご自分のしもべに、カラスや小川に依存するのをやめるよう教えておられたのです。エリヤにとって、 肉食のカラスにその肉をしもべの所に運んでくださった神は、次の供給手段を必ず備えてくださる信頼できるお方でした。

 そこで神はエリヤにツァレファテに行くように言われました。そしてそこで神は、裕福な実業家ではなく、年老いて無力で貧困に苦しむ非ユダヤ人の未亡人を通して、ご自分のしもべを養おうとされていたのです。

 私たちだったらきっと、ツァレファテでそのような奉仕に彼女のような人は選ばなかったでしょう。

 しかし、神の道は私たちの道とは異なります。 神は、私たちの信仰が手段そのものではなく、神に置くことができるように、最も可能性の低い方法を喜んで用いられるのです。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」 (1コリント1:27-29)。

 長い間、私たちに餌を与えてくれたカラスが来なくなる日は、私たちの人生にとって素晴らしい日になるでしょう。私たちは、神だけを信頼するようになるからです。

 あなたを助けると約束した人が、あなたを失望させたとしても、不満に思う必要はありません。 あなたが生ける神に頼ることを学べるように、神が、その人の援助を止めてくださったに違いありません。

 神は嫉妬深い神であり、ご自分の栄光を人と分かち合うことはありません。

「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」 (イザヤ42:8)。

「わたしのほかに神があってはならない」という言葉は、私たちが何度も聞く必要がある言葉です。なぜなら、私たちの肉には偶像礼拝、つまり人や経済的資源に頼る傾向があるからです。 神は私たちがすべての必要を神だけに頼ることを望んでおられます。 そうすれば、私たちは常に勝利の中で生きることができます。

 章 12
十分な恵み

これまで述べてきたことの要約と本質は、私たちの救いはすべて恵みと信仰によるということです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。」 (エペソ2:8)。

 私たちは、恵みによって、信仰を通して、罪の赦しと聖霊のバプテスマを受けてクリスチャン生活を始めました。 いつか、私たちの主イエス・キリストが栄光のうちに再臨される時も同様に、恵みによって、信仰を通して私たちは引き上げられて空中で主に会うでしょう。

 したがって、この世のクリスチャン生活の始まりと終わりは、恵みと信仰によります。 私たちが学ばなければならないことは、その間にあるもの全て、同じように受けるということです。 恵みと信仰によって、私たちはすべての悪を克服し、神が世で与えてくださる使命を果たすことができます。

 神は未来を全てご存じです。 明日、来週、来年私たちに起こることは、神にとって驚きでも何でもありません。 神は最初から終わりをご存じです。

 これは私たちにとって大きな慰めです。 あなたが明日か来週、大きな試練や誘惑に直面すると神がご存じならば、神は必ずあなたにそれに対処する恵みを与えてくださるでしょう。

 主はパウロに、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。 (2コリント12:9)。

 神の恵みはあらゆる必要を満たしてくれます。

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(2コリント9:8)。

 恵みは、私たちが必要な時に十分に与えられます。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 (ヘブル 4:16)。

 あなたの必要が何であれ、神の恵みはあなたを助けるには十分です。ですから、その恵みを受けるために、大胆に恵み御座に来るように言われています。

 私たちが過去に挫折しまっていたのは、その恵みを受けなかったからです。 しかし、これから先は違います。 私たちが、必要な時にへりくだって恵みを願い求めるなら、神は私たちを決して失望させません。

 聖書は、豊かな恵みを受けた人はイエス・キリストを通して、そのいのちを治めるだろうと言っています、。

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」 (ローマ 5:17)。

 アダムがすべてを支配し、統治する、それが神のアダムに対するみこころでした。 創世記 1:26にはこう書かれています。

「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」

 アダムの不従順により、彼の人生ではそれが実現しませんでした。 しかし今、神は地上に新しい民、つまり王の威厳をもってこの地を統治するべき、イエス・キリストへの信仰によって生きる神の子を起こされました。

 あなたがへりくだって神の恵みを受けるなら、もう罪があなたを支配することはありません。恐れや不安が再びあなたの心に入りません。

 あなたの上司、隣人、親戚、敵、サタン、もう地球上の誰も、あなたの人生を惨めにすることはできません。 あなたは勝利の秘訣を学んだのですから。

 キリストにおける勝利に常に私たちを導いてくださる神に感謝します。

神の新しい恵みの契約の下で生きることは、なんと素晴らしいことでしょう。

約束の地はあなたの前に開かれています!

さあ、入ってそれを所有しましょう。

 章 13
付録1 勝利の秘訣

要約

⒈ 神は、あなたが常に勝利に生きるのを助けたいと願っておられます。それを心から信じてください。

⒉ 神は、あなたを愛しておられるので、戒めをお与えになります。ですから、戒めの一つ一つを真剣に受け止めてください。

⒊ 神は、イエスを愛されたように、イエスの弟子たちも愛しておられます。この愛に平安を見いだしてください。

⒋ すべての試練には神の目的があります。神はあなたが耐えられないほどの誘惑や試練を決してお許しになりません。それを心から信じてください。

⒌ イエスは、私たちと全く同じようにあらゆる点で誘惑されました。しかし、罪を犯されたことはありません。誘惑された時は、イエスを模範として見てください。

⒍ 神は、へりくだる人にのみ恵みをお与えになります。ですから、常に十字架を背負い、へりくだりましょう。

⒎ 神は、すべての状況が共にあなたの最善となるように働くために、それらをコントロールしてくださっています。それを心から信じてください。

⒏ どんな状況でも、揺るぎない助け手である神だけを信頼しましょう。他のものや人に依存することからあなたを解放してくださるよう、神に求めましょう。

⒐ 神は、弱い者にのみ、力を与えてくださいます。ですから、神にあなたを打ち砕いていただき、あなたを『ゼロ点』にしていただきましょう。

 章 14
付録2 歌:神はイエスになされたことを、あなたにもしてくださる ザック・プーネン

⒈ 重荷と不安で項垂れる時、あなたの魂は失望するでしょう。

  しかし恐れる必要はありません。

  神はすぐそばにおられます。

  神は御子を愛されたようにあなたを愛しておられます。

  そして、あなたを助けてくださいます。

  神の約束の言葉を信じてください。

  そうすれば、神はあなたを助け出してくださいます。

 ※これが福音です。

  神はイエスにされたことを、あなたにもしてくださいます。

  神は力強い力であなたを強くしてくださいます。

  神ができることには終わりがありません。

2. たとえ罪と悪がこの世に満ちていても、

 あなたは打ち勝ちます。

 神の言葉は真実だからです。

 「罪はあなたを支配できない。」

 誘惑に強く引かれる時、

 神の恵みがあなたの支えとなり、

 あなたはイエスのように

 毎日勝利のうちに歩むことができます。

  ※

3. 痛みや病気があなたを襲い、

 またそれらが愛する人にも降りかかっても、

 神はあなたの気持ちをご存じです。

 神には癒す力があります。

 あなたの父はあなたの必要を満たしてくれる。

 神は忠実であり真実です。

 イエスを気遣ったように、あなたを気遣ってくださいます。

  ※

4. ああ、これは何と素晴らしい慰めでしょう。

 もしあなたがイエスを

 あなたの主であり、兄でもあることを知るならば。

 神が持っているものはすべてあなたのものとなり、

 神はあなたを手放されません。

 そして今や神があなたの味方であるなら、

 誰があなたの敵となり得るでしょうか

 章 15
付録3 知恵のことば

⒈ 律法の文言は守っても霊でそれを否定するなら、それは力のない上部だけの敬虔です。

⒉ へりくだる人は、どんな些細なことでも神と人に感謝します。

⒊ もし私たちが罪に負けてしまうなら、その根本原因はなにかしらのプライドにあります。

⒋ もし私たちが本当にへりくだった人なら、神の恵みを受けないことははありえません。

⒌ へりくだる人は、人やサタンや肉において打ち負かされることはありません。

⒍ もし私たちがへりくだるなら、神の全能の手によって守られます。

⒎ 二人とも霊において貧しくならなければ、二人が一つになることは不可能です。

⒏「心の貧しい人」とは、自分の必要を自覚し、常に自分を裁く人です。

⒐ 啓示を受けるということは、物事、人、状況などを神の視点から見ることです。

⒑ 私たちの目の梁は、目にちりがある兄弟に対する愛のない、裁くような態度です。

11.律法は私たちに命令を与えますが、それを守る力は与えません。

  恵みは私たちをより高い水準を示しますが、そこに到達する力を与えてくれます。

12.私たちは毎日、神のみこころを行うか、一日を無駄にするか、どちらかの選択ができ  ます。

13.私たちの道にある困難は通常、身を引く目印ではなく、信仰への喚起です。

14.肉に従って歩む人は人に要求しますが、御霊に従って歩む人は人の弱さを忍び、彼ら  に仕えます。

15.神の愛に安住している人は、他の人を裁いたり、妬んだり、争ったりしません。

16.神への栄光でない栄光はすべて空虚な栄光です。

17.今、私たちが利己的に生きるなら、その人生の記憶は永遠に後悔をもたらすでしょう。

18.神は、私たちが困窮し人から助けを受けることを許されることで、キリストのからだ  の中で互いに支え合うことを教えてださいます。

19.私たちが人に何かを施す時、その人の尊厳を奪うことなく行うべきです。

20.私たちの人生の本当の価値は、私たちが与えたものにあるのであって、私たちが受け  取ったものにあるではありません。

21.神の啓示によって私たちが受け取るものこそが、本当の富です。 でなければ単なる知  識であり、偽造紙幣のように価値がありません。

22.信仰は、神から聞いたみことばに基づきます。 したがって、人は神の口から発せ    られるすべてのみことばによって生きなければなりません。

23.神は、私たちを引き上げ、私たちを通して神の目的を果たす前に、私たちをゼロポイン  トに導かなければなりません。

24.私たちはキリストを模倣するのではなく、キリストに従い、キリストの性質にあずか  るように召されています。

25.神を畏れることは、人目につかない私生活に忠実であることです。

26.私たち自身以外の誰も、私たちの人生に対する神の完璧な計画を損なうことはありま  せん。

27.お金の使い方に忠実であることは、お金に関することで正しくあるよりもはるかに高 尚なことです。

28.真の霊性は、自分の意志を否定し、神の意志を行うことにあります。

29.の上に建てることは、教義を理解して気持ちが高揚することです。

  岩の上に建てることは、神のみことばに従うことです。

30.霊的であるためには、間違ったことだけでなく、無益なこともあきらめなければ

  なりません。

31.神の愛のない霊的な賜物を持つことは、絶縁されていない電線のようなもので、光で  はなく死をもたらします。

32.イエスは十字架にかけられました。それは彼が聖く生きていたからではなく、

  宗教的な姦淫を明らかにしたからです。彼の例に倣いましょう。

33.聖書の中の真の預言者は誰も聖書学校に行きませんでした。

34.私たち人間の能力や世の資格はすべて、神の目にはまったく価値がありません。

35.最高位の御使いは、自分の美しさ、知恵、地位に誇りを持って悪魔になりました。

  私たちは常にそのような高慢に気をつけなければなりません。

36. 律法は傷の炎症を抑える軟膏のようなものです。

   恵みは傷の原因となる細菌を殺す抗生物質のようなものです。

37. 信仰の紛れもないしるしは、神への賛美と感謝です。

38.神は私たちに、執着したり愛したりするためにではなく、使うために物質的なものを  与えてくださいます。

39.真のキリスト教は禁欲主義と物質主義の中間にあります。

40.イエスが栄光のうちに再臨された時にのみ、私たちはイエスの似姿なることができ   ますが、今現在、私たちはイエスが歩んだように歩むことができます。

41.イエスはご自分の家と職場(大工場)で知恵を増やしておられました。私たちも    同じように、家庭と職場のどちらにおいても知恵を増やすことができます。

42.兄弟を非難する時、私たちはサタンの協力者になります。また、兄弟のために執り成し  をする時、私たちはイエスの協力者になります。

43.自分を他にとって必要不可欠な存在にすることは、その人の神との歩みを妨げます。

44. 愛に由来しないものはすべて、いつかは滅びます。

45.私たちの霊的成熟度は、私たちと意見の相違がある人に対する態度によって試されま  す。

46.純粋な心を持つということは、神以外の何も望まないということです。

47.イエスが聖霊の注ぎなしに父に仕えることができなかったならば、私たちにもできま  せん。

48.聖霊の賜物のない教会は、からだはあっても効果的に人に仕えることはできません。

49.不可能なことが何もない二者、それは神と信仰を持つ人です。

50.私たちが自分自身を捨てれば、いつでもどんな状況でも「安らぎを得る」ことができ  ます。