会衆、クラブ、教会

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 章 1
第1章 新しいぶどう酒には新しい皮袋が必要です

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」(ルカ5:38)

 主が、何年もかけて私の人生において成し遂げてくださったことを、是非この本で、皆さんと分かち合いたいと思います。私が経験したことは、犠牲の上に得られる永遠の価値そのものであり、それによって私の人生は大変尊いものになりました。

 私たちが、キリストの教えと生き方を真剣に理解しようとする時、私たちは十字架へと導かれます。そして、十字架では自分にとって大切なものをあきらめ、様々な領域で犠牲を払わなければなりません。しかし、それらを通して、主が語られることが私たちの人生において実現し、私たちは神のご計画を余すところなく果たすことができます。

 新約教会を建てる ということは非常に尊いことではありますが、その道は狭く、容易いことではありません。

 唯一重要なもの

 イエスは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないと言われました。 新しいぶどう酒とは、イエスが聖霊を通して私たちに与えようとしておられる、イエスご自身のいのちです。そして、新しい皮袋とは、この新しいいのちを反映する新約教会であり、私たちはこの教会を建てるように求められています。

 私たちがこの新約の人生を真剣に生きようとする時、神が少しずつ私たちに気づかせてくださる利己主義という何層もの皮(タマネギの皮のような)を剥がしていかなければなりません。新約教会を建てようとする時も同じです。

 古い皮袋は、神の御言葉ではなく、人間の慣わし(ならわし)に基づいて建てられる教会を指します。これらの教会にもいくつもの層があり、主のご啓示に従い、一枚ずつ剥がされなくてはなりません。 残念なことに、新約教会を建てようとするキリスト者は、古い皮袋の層がまだ剥がされなければならないにもかかわらず、すぐに立ち止まってしまいます。 彼らは、慣れ親しんだ人や自分が育ってきた宗派の習慣をいくらかは取り除くことは出来ます。しかし、主は、私たちが古い皮袋を完全に取り除くこと、そして、ご自分の新しいぶどう酒が真新しい皮袋に入れられることを望んでおられるのです。

 新しいぶどう酒と新しい皮袋が何を意味するのか、そして、キリストのからだである教会を建てるとはどういう意味なのかを、長年、私は理解していたつもりでした。しかし、私はただ理論上で理解していただけでした。私はそのことについての説教を、誰よりも多く聞いていたので、それらの知識が頭の中にただ蓄積されていたのです。毎週日曜日に父から新約についての説教を聞き、また、月曜日から土曜日も自宅で父が教えてくれました。しかし、それらの情報は、ただ頭の中に積み上げられていく一方でした。新約について、頭ではなく心で理解するのに何年もかかり、そしてようやく、キリストのからだとしての新約の教会こそが私が主に仕えることができる唯一の道であると知ったのです。

 今、イエスは私のいのちにとって唯一のお方 です。そして人々との関係は、自分と主イエスとの交わりから築かれます。ですから、キリストのからだである新約の教会を建てることは、今、私にとって 唯一の主への奉仕なのです。

 私たちの主イエスは、なぜ地上で過ごされた日々、十字架の道を選ばれたのでしょうか。聖書は「彼の前に置かれた喜び」(ヘブル12:2)のためだと言っています。

 彼の前に置かれた喜びとはどういうことでしょうか。

 ヨハネ14章にはイエスが十字架に向かわれる前、弟子たちへ別れの言葉を告げておられたことが書かれてあります。使徒ヨハネが私たちのために、最後の晩餐でイエスが述べられたことを、五章にわたって書き綴ったことは本当に感謝です。そこでイエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われました(ヨハネ14:31)。イエスがまさに十字架に向かわれる時です。しかし、その言葉の前にこう言われました。「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。」(ヨハネ14:30)。それは、常に父に従いながら父との交わりの中にいるという彼の永遠の喜びを示す言葉でした。ですから、イエスは父への愛、父の命令への従順、そして私たちへの愛から十字架へ向かわれたのです。

 この喜びこそが、イエスの教会を建てるための唯一の道です。罪を克服し主の御心を成し遂げたいという願いは、まず父の命令に従いたいと思う父への愛から来なければなりません。人々への愛は二次的要素です。もちろん、私たちが教会を建てる場合、人々への愛や思いやりが必要です。しかし、その愛の前に、私たちの天の父への愛がなければなりません。それは神の命令に従いたいと強く願うほどの熱心な愛でなければなりませんん。

 新約教会を築くために必要な二つの重要な要素は父への愛と人々への愛です。これらは、十字架の二つの板、つまり縦の板と横の板で表わされます。縦または横の板のみでは十字架は成立しません。

 十字架は、私たちの毎日の生活でどのように十字架を負うべきかを定義する、双方向の関係性を大変美しく示しています。

 次章より、私たちの生活で十字架の両方の板を持つことの意味と、これら二つの板がが一緒になって新約教会を建てるのにどのように働くかをお話ししたいと思います。

 章 2
第2章 十字架の縦の板

十字架の縦の板は、私たちにとって、まず大切な父なる神への愛を表しています。人々がイエスを架ける十字架を作った際、彼らは最初に縦の板から始めたに違いありません。そして、その板は横の板の約二倍の長さでなければなりませんでした。

 それは、天の父と私たちの垂直的な関係が最も重要であるということを意味しています。その垂直関係の次に、人々との水平関係が築かれなければなりません。

1. イエスの模範に従う

 イエスはカルバリの丘まで十字架を運ばれる前、すでに、地上で過ごされた一万二千日以上の日々を通して、彼の内に十字架を負っておられました。そして、イエスは私たちに、「あなたが私の弟子になりたいなら、あなたも毎日十字架を負わなければなりません。」と言っておられます(ルカ9:23)。イエスが地上で一万二千日以上の年月を過ごされた信念は「まず天の父を愛し、父の命令に従うことであり、そして人々を愛すること」でした。


そのため、イエスは両親に従いながら、 三十年間ご自分の家で過ごされました。不完全なヨセフとマリアに毎日三十年間黙って従うために、彼はどれほどたくさんの不従順や葛藤、苛立ちなどの誘惑を克服しなければならなかったことでしょう。しかし、イエスは「彼の前に置かれた喜び」、つまり「父と母を敬いなさい」という父の命令に従うことによって天の父と交わり、その喜びで満ちておられたのです。

 どのような場面においても、ご自分の十字架を背負い、天の父に従われるイエスの姿勢は、彼の生涯が終わる時まで続きました。イエスご自身が最初のキリストのからだであり、イエスは三十三年と半年、毎日十字架を負われました。今日、イエスの霊的なからだの一員である私たちも、イエスが歩まれたように歩まなければなりません。

 イエス・キリストの教会は、回心者だけでなく、弟子たちの教会でなければなりません。弟子とは、自己意思を否定し、自分の十字架を日々背負う人のことです(ルカ9:23)。ですから、あなたが新しいぶどう酒(イエスのいのち)を新しい皮袋(新約教会)に入れたいと望むなら、毎日自分を捨て十字架を背負い、イエスに従わなければなりません。そして初めて、キリストのからだとしての教会を建てることができます。

2. 信仰者の内的生活

 教会を建てるには、主との垂直的な関係が最も重要です。そして、この主との関係は、内的生活の中だけに築かれます。クリスチャンの多くが悪魔によって欺かれ、神への献身は外的な要素だと考えています。しかし、神への真の献身は百パーセント内側にあるものであり、誰の目にも見えません。あくまで私たちの内的な要素です。

 新約は、主に内なる姿勢、思考、動機に関するものです。

 山上の垂訓で、イエスはこの内的領域について話されました。新約のもとでは、(旧約のような)単に、姦淫を避けるだけの問題ではなくなり、私たちは性的な罪深い考えをさえも憎まなければなりません。旧約では、あなたがどれだけ与え、どれだけ祈り、断食するかが重要でしたが、イエスは私たちがあくまで隠れた所で与え、祈り、断食すべきであり、誰にもこれらの行いが知られるべきではないと言われました。これが新約の新しいぶどう酒です。キリストへの内なる献身を人目から隠すことが重要であると認識していないならば、新約の基礎を理解していないことになります。私たちの神への献身は常に内密でなければなりません。

 私たちのいのちは「キリストとともに、神のうちに隠されてある」ものでなければなりません(コロサイ3:3)。これは素晴らしい生き方です。キリストへの献身を人の目から隠そうとすればするほど、主の奥義をさらに学ぶことができます。誰も知らない隠れたところで花婿と大切な時間を過ごす必要があります。最高の結婚生活とは、夫と妻が誰もいないところで、誰にも知られずに、お互いのパートナーを共に喜び合える結婚です。イエスは今日、イエスの花嫁として、このような献身的な霊を備えている人々とともに教会を建てておられます。

 縦の板(父への愛とキリストへの熱心な献身)が置かれると、次に横の板(人々への愛)が付けられ、十字架が完成します。私たちは喜んでそこに自分の身を置き、十字架にかかります。

 章 3
第3章 十字架の横の板

 水平方向の板を空中で吊り下げようとすると、もちろん落下します。しかし、それを垂直方向の板に釘で打ち付けると、固定され、十字架が完成します。垂直方向の板は必要不可欠なのです。

 私たちが建てる教会は、新約教会でなければなりません。新約教会は、「私は自分が望むことではなく、天の父が望んでおられることを行う」という心構えで生きると決心した人によってのみ建てられます。

 悲しいことに、クリスチャンの多くにはこの姿勢が見られません。私自身の人生もかつてそうでした。私は自分自身を探し求め、自分を信仰者と名乗りながら、好きなように生きていました。私は、自分の思い描く「教会」というイメージにあった教会の一員になりたかったのです。多くの点で私を好んでくれる人と交わりたい思っていました。私は実際、自分の気に入った人たちとだけ、共に時間を過ごしていました。そして、ある兄弟が私を怒らせるようなことがあれば、私は彼を避けていました。私は全く十字架の道を歩んでいませんでした。このような考え方のままでは、キリストのからだとしての教会を決して築くことはできません。素晴らしい教えを受けながら、十字架の道を歩まないことは大いにありうることです。


1. イエスの真の弟子とは

 何年もの間私は、イエスの弟子であるという証拠はお互いを愛するということだと思っていました。 なぜなら、イエスがヨハネ13:35で、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と言われたからです。ですから、私が自分の行く教会の兄弟姉妹を愛することによって、自分はイエスの弟子であることを証明できていると思っていました。しかし、この聖句を注意深く読むと、それは 人(未信者)が私たちをイエスの弟子として見なす印、証し のことを言及していることがわかります。それが十字架の横の板です。

 しかし、イエスはそれよりも前に、弟子であるための条件 は私たちが自分を捨て、自己意志を十字架につけることだと言われました(ルカ9:23)。私たちが、誰の目にも触れない自分の思考やその他の内面的な部分でイエスの弟子になることが神にとっては重要なのです。あなたが毎日、自己意志を否定する姿を神がご覧になれば、あなたを「 ルカ9:23 のキリスト者 」と呼んでくださるでしょう。それこそまさにキリスト者があるべき姿です。「弟子たちは…キリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。

 その上で、他の弟子たちである兄弟姉妹を愛することが世に対してのキリスト者としての証しになります。

 しかし、もう一度、縦の板が第一に必要であることを忘れないでください。神はあなたの神への愛をいつでも見定めることができるお方です。ですから、あなたがあなたの教会に来る人を愛するからと言って、自分がイエスの弟子だと思い込んではいけません。人への愛は、あなた自身を欺き、自分は弟子だと思い込ませようとします。あなたが日曜日、教会で他の信者と一緒にいるのを好むとしても、それがあなたの弟子であることの証明にはなりません。あなたは他の信者と顔を合わせない月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日こそ、自分を捨て熱心にイエスを愛し、自分がイエスの弟子であることを証しするべきです。あなたは毎日、神の御前で生きるべきです。

 主に花婿との交わりを第一に求めるイエスの弟子たちにとって、一週間の七日はすべて同じです。他の弟子たちとの交わりは、主との交わりから生まれます。そのような弟子は、誰が自分の教会に加わったのか、または誰が教会を去ったのかなど気に留めません。真の教会は、イエスが自分のいのちにとって唯一重要な方であるとする弟子たちによって築かれます。

 縦の板であろうと横の板であろうと、板自体は十字架ではありません。残念ながら、ほとんどの信者と教会は、縦の板のみを、または横の板のみを強調しています。それによって、私が見てきたキリスト者の集まりは三つのタイプに分けられます。

1.会衆

2.クラブ

3.真の教会

そして、これらのうち最後の集合体だけが、新しい皮袋に入った新しいぶどう酒です。

 章 4
第4章 会衆

会衆は、縦の板の集まりです。 私が行ったことがある、ほぼ全ての教会はこれにあたります。 会衆の人々は、個人的な神との歩み、聖書研究、そして、教義的な清さにのみ関心を寄せており、 すなわち彼らは全て異なるサイズ(主への異なるレベルの献身)の板に過ぎません。 また、彼らは互いに交わりを築こうとしません。そして、自分に対して批判的な人たちを避けようとします。

私自身も長年、この会衆の一人でした。私は、 何年にもわたり真理についてのメッセージを聞いてきたので、個人的な神との歩みは揺るぎのないもので、「大丈夫だ」と確信していました。 しかし、ヨハネはこう言っています「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」 (1ヨハネ4:20)。 事実、「会衆」の人々は、この節をあまり気に留めていません。

 ヨハネはこの節で、私たちが「自分は縦の板を持っているから、自分は十字架を背負っている」と誤解していると言っています。 あなたには、外側の聖さがある程度あるかもしれませんが、会衆内の人々とは交わりません。


1. 「会衆」は旧約の形式

 会衆という形式は、孤立した兄弟姉妹の集まりであり、友情があるかもしれませんが、お互いに深い交わりを築こうとはしていません。彼らは、互いに愛を築くために一緒に時間を費やすことはありません。これは、実際にイスラエルの旧約の時代にあった集まりの形式です。

 そのような集まりでは、夫と妻の間さえも交わりがないでしょう。なぜなら、そのうちどちらか一人は、いわゆる「超霊的人物」だからです。

 たとえば、妻が子供の面倒等で大きな家事の負担を感じている一方、夫は妻を助けるどころか、一人で「静かな時間」を過ごし、神の御言葉に没頭します。そのような夫は「会衆」的な考えの持ち主です。

 そのような人が、本当にクリスチャンと言えるでしょうか。彼は聖書を読み、祈り、教会に献金しているので、自分を霊的なキリストの弟子だと思っています。しかし、それは明らかに誤解です。悪魔は、そのように多くのクリスチャンを騙してきました。実際、悪魔は、長年私を騙し続けました。クリスチャンとしての活動を行うことによって、自分がキリストの弟子であると、私は思い込んでいました。

 これは、旧約の宗教です。「会衆」という言葉は、実際に、旧約時代に使われた言葉です。

 モーセがイスラエル人に律法を与えた時、彼らは会衆でした。集りの中で、どのように礼拝すべきかの詳細な命令を、神が彼らに命じられた時も、彼らは、ただ個人の集まりであり、また彼らは皆、神が、聖い道を歩むように召された一個人でした。

 イスラエルの歴史には、モーセのような「一人の指導者」とエリヤのような「一人の預言者」がいましたが、二人の指導者や預言者が共に働いたり、互いに交わりを築いたり、イスラエルで共に働いたりすることはありませんでした。そのような交わりは、新約の下で初めて出来ることです。それが「新しい皮袋の新しいぶどう酒」の原則です。

 旧約時代、人は、自分たちの家族とその生活を重視していました。たとえ、神聖な人であっても、他の人々と交わろうとはしませんでした。 「交わり」という言葉は、旧約時代には存在しなかったのです。神のために働きたいと強く望んでいた人たちは、孤軍奮闘していました。彼らは、"一つのからだ"の中の仲間とお互い交わりを築いたり、互いに一つになって働くことは決して望まなかったのです。なぜなら、旧約の下では"一つのからだ"にはなれなかったからです。彼らは、ただの会衆だったのです。

 新しいぶどう酒と新しい皮袋

 しかし、今、私たちの主によって新約が建てられました。私たちは、新たに生まれ変わり、キリストのいのちである新しいぶどう酒を受け取ります。

 キリストのいのちとは、(古い皮袋が意味するような)個々に生きることではありません。回心した他の信者たちと教会内で交わりを作らず、自分と家族だけを考える利己的な生き方に、このキリストのいのちを入れようとするならば、イエスが言われたように、私たちの生き方である古い皮袋は裂けるでしょう。神は、私たちを聖霊(新しいぶどう酒)で満たし、それが新しい皮袋(キリストのからだ)に注がれることを願っておられるのです。

 神は、この新しい皮袋と新しいぶどう酒の人生を私に与えてくださいました。ですから私は、誰もが皆、このことを経験できると強く確信しています。私が「会衆」クリスチャンだった頃、人生の全てが破綻した時、神は私を憐れんでくださいました。神は私に「新しいぶどう酒を、新しい皮袋に入れさせてくれないだろうか」と言われました。 「皮袋が裂ける」ということは、古い皮袋が取り除かれるので、大変喜ばしいことです。神が、私の古い皮袋を破ってくださったことを本当に感謝しています。その時、私は天にあるものではなく、人間の伝統や教会建設に関する自分の構想等、世のことに信仰を置いていたことに気付かされました。

 神への献身は、多くのクリスチャンにとっては外的な要素を意味します。彼らは、教会の全ての集会に出席し、敬虔な祈り、着席をもって、皆、互いに宗教的な言葉で会話します。そのような外的な行動によって、彼らは、自分が最も霊的であると錯覚します。 更に悪いことに、実生活の様々な事柄について、彼らと話すことはできません。なぜなら、彼らにとって、そのような会話は「非霊的であり世俗的」だからです。彼らは「霊的な」事柄についてのみ話したがります。普段の、日常生活についてお互い話すことが許されない、それは、偽りのキリスト教です。

 イエスが、弟子たちや周りの人々に語っておられた時、いつも旧約聖書の箇所を引用されていたわけではありません。イエスは、それらの御言葉が必要な時にだけ用いられました。例えば、イエスがサタンへ話された時、或いはパリサイ人の質問に答えられた時等です。 しかし、イエスは大抵の場合、弟子たちに日常のありふれた事柄について話されていました。イエスは、決して偽りの霊で行動されませんでした。そのようにして、新しいぶどう酒が本当に何を意味するのかを私たちに教えてくださいました。

 宗教的言語で会話するということは、自分たちの教会は、同じ宗教的言語を用いる人によって成り立っているのだという誤解を招きます。

聖句を互いに引用したり、聖句から得たものを集会において共有したりすることは出来ます。もしあなたが、それが霊性の現れだと捉えるならば、あなたは魂、感情によって人生を送ることになります。

3. 地に落ちるべき麦の粒

 今日の何千という人の集まりである、巨大な教会を考えてみましょう。彼らの中には、お互いに敬虔な交わりを持ってる人が二人もいないかもしれません。彼らは、魂を揺さぶるような力強い音楽と雄弁な説教によって、巨大な教会へと引き込まれています。しかし、このような教会がキリストのからだの表れとは言えません。ただ、神との関係だけを個人的に考える縦の板の集まりに過ぎないのです。それは、偽りです。なぜなら、そこには横の板がないからです。これでは、十字架が成立しません。

イエスは、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。」(ヨハネ12:24)と言われました。永遠に残る真実の実は、自分に対して死ぬ麦の粒から生まれます。 金色のショーケースのような巨大な教会に、それぞれ異なる一万の麦がきれいに並んで座り、それを見て人々は感動します。私はその光景を目にする度に、「もしこれらの麦のうちの二つでも自己を捨てて地に落ち、お互いに交わりを築きたいと望めば、神は彼らの間で働いてくださり、キリストのからだが彼らを通して反映されるのに。」と思うのです。

 私たちの教会が、地に落ちて死ぬことを望まない麦の粒の集まりにならないように。神が、私たちを助けてくださいますように。

神は、地に落ちて死ぬことをいとわない、たった一粒の麦からも始めることができるお方です。神は、その一粒に別の一粒を加えられ、またそれから別の一粒、そして更にもう一つの粒をと次々に加えてくださいます。このようにして、飢えている世を養うことができる、キリストのからだとしての教会が建てられます。しかし、自己に対して死のうとしない麦の粒は、本当のパンではなく、パンの絵の仮面を被って、世の飢え渇いた人々を欺きます。イエスは、一粒の麦が地に落ちて死ぬと、(間違いなく)多くの実を結ぶと言われました。

 小麦の粒はとても小さいので、指で挟むとほとんど見えなくなります。あなたの集会は、他のクリスチャンのグループや教会から非難され見下されるような、名の知られていない小さな信仰者の集まりかもしれませんが、気を落とさないでください。更に言えば、あなたの周りの巨大な教会には、感動的な奉仕活動、宣教報告をし、莫大な給料を稼ぎ、高級車に乗る有名な牧師がいるでしょう。しかし、彼らのことを羨む必要は全くありません。私たちの召しは、"地に落ちて死ぬ"ことです。主は、私たちの中から永遠に続く実を結んでくださいます。それが主の約束あり、真の教会を建てる秘訣です。

 章 5
第5章 クラブ

クラブ は、会衆の反対といえる集まりです。

 前章でお話しした会衆とは、いろいろな長さの縦の板が横に並び、互いに重なりあったものでした。その中には、進んで献身する人もいればそうでない人もいます。しかし、彼らには交わりがありません。

 クラブは、お互いを気遣う人々で構成された集まりです。しかし、この集まりには大きな危険が伴います。なぜなら、彼らは直ぐに自分たちを会衆と比較して、「私たちは、皆、互いに愛し合っている」と言ってしまうからです。クラブでは、人々がお互いに熱心に語り合い、お互いに良い交わりを持っていると信じています。ですから、教義に則って同じように考え、同じような身なりをしている等の理由で、自分たちは皆、霊的な信仰者だと思っています。しかし、このクラブでも、人々はまだ、同じ型で切られた同じサイズの木製の板のままなのです。


1. クラブは無契約の宗教

 私たちが、横の相互関係が重要であると一旦認識すると、私たちの集まりがクラブになってしまう可能性が大いにあります。私たちは人々を集会に歓迎し、参加するように勧めますが、言動、行動等、全てにおいて私たちのようになることを期待します。このようにして、全く同じ人たちの集まりであるクラブが形成されます。

全て、同じ形と大きさにカットされるクッキーの生地のようなもので「クッキーカッタークリスチャン」と呼ばれることもあります。メンバー全員が、同じ宗教的な話し方をするという事象の上に、相互の関係が成り立っているのです。

 例えば、異なる社会や言語を背景とする人が教会(クラブ)に来る場合、その人が自分たちと同じような教育を受けた人であれば、直ぐに交わりを築きます。しかし、自分たちと同じような教育を受けていない人、または、教義のことをよく知らない人が来ると、その人と交わることに違和感を感じ、遠ざけるようになります。そして最終的には、その人はクラブを去っていきます。彼は、彼らの型にはまらなかったのです。そのようなクラブの皮袋は、旧約でも新約でもありません。そこに全く 契約は存在しません。

 私たちが前章で見たように、会衆は、旧約 に基づいていました。神への献身がありましたが、相互の交わりはありませんでした。しかし、それとは別に、契約のない人生 を送るクリスチャンも多くいます。彼らは、神が自分を、旧約と律法から解放してくださり自分は自由になったと思いこみ、契約のない人生を歩みます。そのような人々は、パウロのガラテヤ人への手紙を特に好んでいますが、そこに書かれてある 「律法から自由になること」の意味を完全に誤解しています。彼らは、契約そのものを望んでいないのです。

 しかし、契約がなければ、キリストとの結婚は成立しません。

 妻と私が結婚した時、私たちは契約を結びました。結婚には規則書のようなものはありませんが、いくつかの愛に基づくルールがあります。たとえば、私は神の恵みにより、妻を騙すことはしません。これは、「あなたが結婚したらしてはならないこと」というタイトルの結婚の規則本に書かれているルールではありません。 私は妻を愛しているので、妻に対して誠実です。私は彼女を愛しているので 、彼女に害を及ぼすようなことは決してしたく​​ありません。キリストとの結婚にも、同じようにいくつかのルールがあります。なぜなら、イエスキリストは最初に私を愛してくださり、私もまた心を尽くしてイエスを愛しているからです。キリストと私との関係は、規則書ではなく、愛の律法に基づいています。

 クラブには、固有のルールがたくさんあります。クラブの一員になりたい場合は、一般的な人間の慣習等の特定の要件(神の律法を超えたルール)を満たさなければなりません。そして、あなたと神との間に契約がないので、あなたは他者との間に 自分の契約 を持つ必要があります。「あなたが私の背中を掻いてくれるなら、私もあなたの背中を掻きます。あなたが私によくしてくれるなら、私もあなたによくしてあげます。でも、あなたにその気がないなら、私とあなたの間も終わりです。」多くの信仰者がこのような相互関係を築いています。

 またクラブでは、あなたは世俗的な特権を得ることができます。例えば、 子供たちや若者たちは、そこで他の子供たちや若者たちと出会い、楽しみます。あなたは、彼らのカンファレンスに参加し、そこで結婚することもできるでしょう。そして、彼らはあなたのために素晴らしいお葬式も行ってくれるはずです。

2. クラブでの人生は破滅に終わる

 信仰者が、上記のような友情を互いに築く場合、彼らは単なる横の板の束にすぎません。彼らの中にはキリストに献身している人がいるかもしれませんが、その縦の板は非常に短いものです。ほとんどの場合、縦の板が存在しません。

 キリストの裁きの場で、自分はクリスチャンクラブの一員にすぎなかったと嘆くことのないようにしましょう。

あなたが"教会" に行き始めたのは、あなたの夫や妻または他の誰かが、あなたをそこに誘ったからですか。良い説教を聞くことができ、困っている時には誰かがあなたを助けてくれる、そのクラブ的な場所が好きだったので参加したのでしょうか。

 良い教えを聞くと、あなたはそれを理解しているからといって、自分が霊的だと思ってしまいます。そして、あなたの"教会"での教えは他の"教会"よりも優れていると喜ぶでしょう。しかし、キリストへの献身という縦の板があなたに欠けてはいないでしょうか。もしそうであるのならば、あなたはキリストの裁きの場で、大きな衝撃を受けることになります。そう、あなたは神の国の外にいることに気づくのです。

 空港の保安検査場には、乗客が荷物を置くベルトコンベアがあります。私たちの手荷物をそこに置くと、X線検査装置を経て反対側に出てきます。私は、キリストの裁きの場がこのようなものであると思います。しかし、キリストの裁きは、X線ではなく大きな炉です。神は私たちの人生の行動を一つずつその炉に投げ込まれます。そして、反対側に出てくるものは、私たちが、地上でどのように生活していたかによります。 1コリント3:13-15は、多くの信者にとって、彼らの働きはすべて木、草、わらのようなものであり、燃やされると述べています。反対側には何も出てきません。何年もの間、良い「教会」にただ座っていた人たちは、その日、人生の大半を浪費していたことに気づきます。

 何年もの間、良い「教会」に出席し、集会やオンラインで素晴らしい説教を聞いていた人に、主は、裁きの日にこう言われます。「あなたは自分の人生を無駄に過ごしてきた上に、私への個人的な献身がなかったので、私はあなたのことを知らないし、あなたも私のことを知らない。あなたは、私と共に決して歩まなかった。」(マタイ7:22-23)それは本当に悲しいことです。

3. 信頼するのは教会それとも主?

 イエス・キリストの教会は、私にとって地上で最も楽しい場所です。心の底から本当にそう思うのです。聖人の交わりは、とても心地好いものです。 しかし、それは、天の父と主イエスとの交わりの素晴らしさを上回ることはありません。 私の主イエスと父との交わりは、私の人生において決して断たれることはなく永遠に続きます。そして、私が今、経験している神の民との交わりは、そのイエスと父との交わりに基づいています。  

 しかし、クラブ にいる人は、主ではなく、そのクラブの中に平安を得ます。彼らは、敬虔な人たちの話を聞くことで慰められます。あなたも今年、何百もの説教を聞いたかもしれませんが、それであなたがイエスの真の弟子になれるということではありません。

 クラブにいる人はまた、常に甘やかされたいと期待しています。そして、特別な一人 として扱われなければ、すぐに腹を立てます。彼らは人からの名誉を求め、認められることを待っています。彼らは、誰からでも視線が注がれ、優しくされたいと思っています。しかし、一旦、教会の長老の兄弟が諌めると、彼らはすぐに気分を害し、ついにはクラブを去っていきます。

 敬虔な、また年長の兄弟が私を戒めてくれる時、自分が不愉快に思ったなら、それは私がただの「クラブ」クリスチャンであることの証明だと主は私に教えてくれました。私の周りの人たちは、キリストの真の人生を経験しているかもしれません。そのような兄弟たちと何年も席を共にしながら、キリストの裁きの時には、自分はただのクラブ員であったことに愕然とするのです。戒めや非難に対して逆上したりしないよう、私たちをそのような罪から主が救ってくださいますように。

 私たちを愛し、愛にあって神の言葉を語ってくださる長老や敬虔な年長の兄弟たちを、神は私たちに与えてくださいます。彼らは、子を愛する父親が、むちを用いて子を教えることを熟知しているので、私たちにもむちを与えます。私たちの天の父が私たちを愛しているように、そのような年長の兄弟たちは私たちを愛しています。そのような敬虔な兄弟たちがあなたに対して言ったことに、反抗したり不愉快になるならば、それは、あなたがクラブ的な考え方を持っているということになります。

 また、そのようなクラブ的思考は、最終的に霊的成長の欠如を招きます。そして、あなたの人生に霊的な成長が見られないならば、あなたは信仰から外れている事になります。クリスチャン人生が滞ることはありません。敬虔な兄弟が注意してくれた時に、私たちが苛立つならば、私たちは確かに信仰の後退者であり、地獄へ向かう途中にいるということです。

 ヘブル12:5-8は、天の父の叱責を愛するように勧めています。なぜなら、神は私たちに対する愛から、私たちを叱責してくださるからです。同様に、父親の心を持つ教会の長老の兄弟たち(1コリント4:15のパウロのように)も、私たちが挫折し、不信仰になり迷い出たりしないように、彼らの愛で私たちを正してくれるのです。この兄弟のしつけに私たちが反抗するならば、私たちはクラブ的思考の持ち主であり、敗北者です。

 章 6
第6章 真の教会

新約聖書には、旧約聖書には出てこない新しい言葉がたくさんあります。 その一つが「交わり」です。

 五旬節の日に、三千人が力強いリバイバルで新生したものの、彼らは次の十日間に渡る野外リバイバル集会を開催しようとは考えませんでした。 そのような集会は、近年人々が頻繁に行っていることです。しかし、神は、弟子たちに「リバイバル集会」を終了し、出かけて行って教会を建てなさいと言われました。

 使徒2:42には、彼らが「交わりをした」と書かれてあります。 その言葉が聖書に登場するのは、この節が初めてです。それは、ギリシャ語の「コイノニア」の翻訳で、 「共有する」という意味です。

(*注:詩篇 55:14で「fellowship」と訳されているヘブライ語は、実際には「いっしょに (交わり)」ではなく「相談する」を意味します)


1. 十字架から流れる愛

 弟子たちが聖霊に満たされた直後、彼らの交わりが生まれました。

クリスチャンが今日、自分が聖霊に満たされていることを主張する時、彼らは「私は異言で話しました」または「病気の人のために祈ると、その人は癒されました(少なくとも、彼は癒されたと思います!)」または「私は雄弁に説教しました」と言うでしょう。

 しかし、彼らがペンテコステの日に聖霊に満たされた時、彼らはリバイバル集会から去り、互いに交わりを築きました (使徒2:42)。それこそが、聖霊に満たされることの主たる結果でなければなりません。

 1コリント12:13には、「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」 と書かれています。教会が、会衆やクラブではなく、一つのからだであると明確に書かれてあります。 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(1コリント12:27)。

このからだは、十字架に基づいて建てられ、皮袋が新約の教会です。

会衆旧約の概念です。

クラブ には契約が一切ありません

しかし、真の教会新約に基づいて建てられます。

 私たちは最近、契約 という言葉をあまり使いませんが、新約とは、イエス・キリストの教会を建てている人々の間の、合意と献身を意味します。彼らは、新郎である主に自分自身を捧げ、それからお互いを捧げ合います。十字架には、縦と横の2つの板がありますが、彼らはまず熱心に主を愛し、次にお互いを愛します。

 これは、 各教会の聖餐式のパン に象徴されています。私たちは主と交わり、主のように自ら進んで自己を捨て(1コリント11:26-28)、またイエスのからだの一員として互いに交わりを持つことを望みます(1コリント10:16、17)。 それゆえ、私たちは皆、一つのパンで聖餐にあずかるのです。

 私たちのお互いへの愛は、好意を寄せる人への人間的な愛情とは違います。「 私もあなたもお互い好きなので、私たちは幸せな家族だ。 」ということではありません。主への愛からお互いの愛が生まれるのです。

 同様に、宣教師として、福音宣教を志す際も、希望を失った人々への思いやりではなく、主への愛からでなければなりません。

 聖霊によって私たちの心の中に注がれるのは、主と人々への愛です(ローマ5:5)。

2. 真の教会を建てる

 父(ザック・プーネン)が、旧約と新約における聖霊の働きの違いを、次のイメージを使って示してくれたことがあります。旧約では、人間の心は蓋のついたコップのようでした(ユダヤの神殿で最も神聖な場所を覆う幕のように)。神は、この閉じられたコップの蓋の上に聖霊を注がれ、モーセやバプテスマのヨハネに注がれたように聖霊は祝福の川に流れ出て、周りの群衆に与えられました。

 しかし、新約では、コップの蓋が取り除かれています(2コリント3:12-18)。これは、イエスが息を引き取られた時、真っ二つに裂けた神殿のベールに象徴され、最も神聖な場所への道が開かれたことを示します。そして 、聖霊が注がれ、コップが満たされます。(信仰者の心をまず清めてからですが) そして、イエスがヨハネ7:37-39で説明されたように、聖霊はそれぞれの「心の奥底から」 溢れ出て、群衆を祝福します。これが、新約教会を建てるふさわしい方法です。

 しかし、あなたがまだ人に説教するためだけに聖霊を必要としているのなら、結局あなたの集まりは会衆かクラブ になってしまいます。しかし、神が私たちを聖霊で満たし、私たちの心に神の愛を注がれるなら、聖霊が私たちの心の奥底 から溢れ、人々へ流れ出るでしょう。その後、同じ交わりの霊を持つ人々と一緒に教会を建てることができます。私たちが神と人への愛に溢れ、一人一人が自分の十字架を負うことによって、御霊のからだが形成されます。

 実際には、私たちが物理的に互いに離れている時こそ 、真の教会が築かれます。私たちが、日曜日の集会に来るだけで作られるものではありません。真の教会は、お互い顔を合わせない日常生活の中で、聖霊の働きによって築かれるものです。なぜなら、私たちが様々な誘惑に直面している時、(不誠実になったり、怒ったり、または目の欲に駆られたりする時)あなたがイエスの教会の一員であるかどうかが明らかになるからです。これらの誘惑において、十字架を負い、自己を捨て、主への献身を保ち、罪に対して抵抗するならば、光の中を歩き、主と交わることができます。そして、私たちが互いに顔を合わせる時、お互いに真の交わりを持つことになります(1ヨハネ1:7)。

 コロサイ人2:2は、私たちの心が「愛で結び合う」 ことについて語っています。私自身は、自分を他の人と愛で結び合わせることはできません。聖霊だけが、私たちの心を互いに結び付けてくださるのです。しかし、プレゼントをあげたり、一緒に時間を過ごす等、何らかの方法で人の心を自分のものにしようとするならば、それはただ クラブ の集まりです。しかし、神は「ただ自分に対して死ぬべきである」と言われました。実際、私が自分を捨てようと決心するならば、聖霊は、目に見えない超自然的な方法で、同じ教会に導かれ、同じように自分を捨てた兄弟姉妹と私たちを結びつけてくださいます。

 私たちの交わりが、素晴らしいものに変えられるのは、同じ教義を信じて同じ讃美歌を歌っているからではなく、私たちが皆、地に落ちて自己に対して死んだからです。従って、私たちは聖霊を通して、互いに交わることができるのです。

 私たちが、自己を捨てずに持っている繋がりはただの友情であり、真のクリスチャンの 交わりをもたらすことはありません。交わりは霊的なものですが、友情はこの世的なものです。

 世界中の人には皆、友情 があります。クラブに属する世俗的な信仰者たちは、多くの親密な友情関係で繋がり、互いを深くいたわります。しかし、彼らは決して 真の交わり を持つことはできません。なぜなら、真の交わりは、聖霊が私たちのいのちの中で成してくださる霊的な業だからです。神は 「イエスの死をこの身に帯びている」神の子をご覧になると、「イエスのいのち」 (2コリント4:10、11)を与えてくださいます。 二人の信仰者の間 に「イエスのいのち」があれば、彼らの間に真の交わりをもたらします。そして、神は、そのような信仰者たちと共に新約の教会を建てられます。

 この真理を知ってから私は、「主よ、あなたの真の教会を作ることに興味のある人はどこにいるでしょうか?」と主に尋ねることを止めました。もし、私自身がまず地に落ちて死に、自己を捨てたいと望むなら、神ご自身が、仲間を見つけて私たちを引き合わせてくださると気づいたからです。私が、自己を捨てることができないならば、神によって私たちが出会うこともないでしょう。

 私たちの周りで、そのような敬虔な信仰者を自力で見つけようとすることは、干し草の山から針 を見つけようとする程、至難の技です。私たちは、何年も干し草の山の中の小さな針を探します。そして何年も探し続けた後、ようやく一本の針を見つけるかもしれません。しかし、主は「時間を無駄に費やして、これらの針を探そうとするのはやめなさい。私はそれらがどこにあるか知っています。あなたは、ただ地面に落ちて、自己に対して死ぬべきです。」と言われます。そうすれば、あなたの中にある、イエスのいのちそのものが強力な磁石になって、それらの「針」(敬虔な信仰者たち)を引き出してくれるに違いありません(ヨハネ1:4、12:32)。

 敬虔な人生を歩み、新約の教会を建てようと望む信仰者たちは、あなた自身とあなたが述べ伝える十字架のメッセージに引き寄せられて来ます。それが神のなさる業です。神は、熱心で敬虔な素晴らしい兄弟姉妹を、私たちのところに連れて来てくださいます。 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」 と、イエスはヨハネ6:37で言われました。そして、父は私たちにも同じことをしてくださるはずです。これが新約の教会が建てられるべき道です。

3. 個人的な犠牲の基盤について

 エレミヤ3:14で、主は言われます。 「わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。」 なんと素晴らしい約束でしょうか。私たちは、神の心に叶った牧者に出会う時、真の教会に辿り着いたと実感します。そこで、牧者たちを敬うことを学び、たとえ、彼らがあなたを戒めたとしても反抗的になってはいけません。彼らは、あなたを敬虔さ、聖さへ導こうとしているからです。

 エペソ5:25は、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を捧げられた」 と言っています。個人的に犠牲を払わずに教会を建てることはできません。イエスは、天から地に来られた時、大きな犠牲を払われました。イエスは、ご自身の慰めと安らぎを犠牲にされ、ただ貧さの中に生きておられました。彼は、 ご自身を捧げられたのです。

 犠牲を払わずに新約教会を建てよう等と考えてはいけません。教会を建てたいけれども、お金や個人的な利便性を犠牲にしたくないという人が建てることができるのは、 会衆やクラブです。真の教会は、犠牲なしで建てることはできません。 キリストは、真の新約教会を建てるために、ご自身を捧げられました。私たちも自己を捨て 、イエスと共に新約教会を築くべきです。信仰者が、神の聖霊に満たされることを喜び、十字架の道を歩むなら、たとえ、その人が世において最も劣る人であっても、真の教会を建てるために主が用いてくださいます。

 あなた自身が、自分が卑しいものだ と自覚しているならば、神は今日、あなたにこう言われます。「あなたは小さなとるに足りない麦の粒だ。地面に落ちて死になさい」。そうすれば、あなたは、神があなたの中に起こされる奇跡を体験するでしょう。神があなたを通してなさる御業を、今日、あなたは目で見ることも、心の中で想像することもできません(1コリント2:9)。しかし、あなたは神を愛し、この本を通してあなたに届く神の召命に耳を傾けましょう。

 章 7
第7章 教会を建てるー与える者

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

 イエスが地上に住んでおられた時、彼の「教会」は非常に小規模でした。一緒に集っていた十二人の兄弟のうち、一人は裏切り者になりました。しかし、残りの十一人は、イエスに従うために全てを捨てた真の弟子たちでした。その結果、彼らは聖霊に満たされ、そして、世界に大きな変化をもたらしました。

 しかし、この聖霊のバプテスマを受ける前、彼らは互いに議論し合っていました。イエスが、十字架につけられる旨を弟子たちにお告げになった時、弟子たちはすぐに次のリーダーシップについて論じ合いました。(マルコ9: 31-34)。世においても、一般にリーダーである人が地位を退く時、それに属する人たちは後継者について話し合います。しばらくの後、イエスは再び弟子たちに、彼が十字架につけられ、その三日後に復活すると告げられました(マタイ20:18-21)。そこで、ヤコブとヨハネをはじめとする弟子たちは、再び高い地位への欲をあらわにします。なぜなら彼らは、前にイエスが栄光を受けられるのを目にしたことを誇り、皆の前で高慢になっていたのです。しかし、イエスは彼らに「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり…自分のいのちを 与えるため」と答えられました(マタイ20:28)。

 イエスはここで、世にいる二種類の人々を言及しておられます。自称「クリスチャン」と名乗る人の中でも、「受ける人」と「与える人」の二種類があります。世俗的な霊を持っているクリスチャン(会衆クリスチャンとクラブクリスチャン)は、キリスト教から何かを得ようと常に期待している「受ける人」です。一方、真の教会の人々「与える人」たちです。彼らは常に、自分が神に、そして人々へ何を施すことができるかを探します。イエスは、受けるよりも 与える方が幸いであると言われました(使徒20:35)。

 この世では、あなたの地位が高くなればなる程、あなたはより多くの人に仕えられる ことになるでしょう。事実、この世の政治家たちは、常に彼らに奉仕してくれる人に囲まれています。しかし、あなたが天の御国で成長したいならば、あなたは逆に 人々に仕えなければなりません。イエスは、これを教えられただけでなく、ご自身の生涯を通して実践されました。

 受ける人たちは常に、教会内の人に自分の必要を満たしてもらおうとします。彼らの期待が外れると、出来事や仲間に対して不快感を覚え、ついには教会を去って行きます。一方、 与える人 たちは、教会という家族の一員としての責任を負い、ただ神の恵みによって、それらの必要や不足を満たそうと辛抱強く、そして忠実に互いに仕えるのです。

 たとえば、私たちが、教会内の人と自分との間に愛が欠けており、自分のコップが空であると感じる場合、彼らが、十分な愛を自分に注がないから自分のコップが満たされないと他者のせいにします。これは「受ける人」の考え方です。代わりに、もしあなたに 「与える人」の心 があるならば、あなたはこの不足分を神の御前に持って行き、あなたのコップを満たしてくださるよう、神に頼みましょう。そうすれば、神はあなたのコップに愛を注いでくださり、その愛が、あなたのいのちから周りの人たちへと溢れ出るでしょう。

 2コリント9:6-8には、神が私たちの上に恵みを豊かに注ぎたいと願っておられると書いてあります。この聖句を読む時(英訳)、恵みが自分のためにますます蓄えられると身勝手に考えてしまいますが、この聖句を注意深く読むと、私たちが 人々に良いわざを施す 「与える人」になれるよう、あふれる恵みを私たちに与えてくださると言っていることがわかります(8節の最後の部分を参照)。

 これを書いたパウロは、エペソの教会で3年間働きました。パウロがエペソの教会に最後の別れを告げた時(使徒20:25-35)、彼は長老たちに、どのような時にも絶えず 「与える者」 として生きてきたと告げました。そのため、パウロは、教会から金銭的な援助を受けることができるとしても、決して受け取らないと断言しました。また、彼は自分だけでなく、彼と共にいた他の人の必要も満たしていました。

 パウロは、与えることに精一杯取り組んだので、神は、教会を建てるために彼を大いに用いられたのです。

 多くの人々が大抵「与える人」 になりたくない理由は、イエスがマタイ20:22-23で示されたように犠牲を伴うからです(苦しみの杯)。しかし、教会 は犠牲があってはじめて築かれます。ですから、私たちの周りの教会に必要を感じたなら、渇いた者として神の御前に行き、私たちの心の奥底を神の力で満たしてくださいと神にお願いしましょう。そうすれば、私たちの内側から生ける水の川が湧き出て(ヨハネ7:37-38)、私たちの周りの乾いた地面に流れ、 教会が建てられていきます

 章 8
第八章 教会を引き裂く–告発者

愚かな女は自分の手でこれをこわす。( 箴言14:1)

 聖書は、家が崩壊する二つの原因を示しています。 一つは、愚かな建築家によって建てられた、強固な基盤を持たない家に襲いかかる嵐です(マタイ7:26-27)。もう一つは、家を中から「少しずつ」(箴言14:1メッセージバイブルより)家を壊していく愚かな住人です。

 過去の教会の歴史や、今日の世界中にある教会をよく見ると、外部からの攻撃よりも教会内のメンバーによって、多くの教会が破壊されていることがわかります。実際、サタンが外部から教会を攻撃すると、教会は聖さの中で守られます。ですから、サタンは、クリスチャン自身が教会を内部から破壊しようとすることを大変喜んでいるわけです。神が、会衆やクラブから人々を呼び起こされ、彼らが信仰者の集まりを通して神の教会らしきものを建てても、サタンは彼らに加勢する教会内のメンバーを使って、それを内側から徐々に破壊していきます

 では、霊的な教会の中ではどうでしょうか。勿論、サタンは同じことをします。彼は、天国で神の臨在がまさに満ちているその中から破壊劇を始めました。サタンが、天使の三分の一を反逆として狡猾に引き離し(黙示録12:4)、彼らを悪霊に変えました。また初期の教会の内部にも、「狂暴な狼」がいました(使徒20:30)。銅細工人のアレキサンデル(2テモテ4:14-15)とデオテレペス(3ヨハネ1:9-10)のような人たちです。

 このような事態を避けるために、破壊を引き起こしている争いの原因を特定しなければなりません。ヤコブ3:13-4:1は、これを明確に説明しています。争いの原因は、苦みを持つねたみと敵対心(3:14)に現れる自己満足(4:1)であり、最終的には教会全体に広がり、無秩序とあらゆる悪をもたらします(3:16) 。ですからヘブル12:15は、まだ根である時に、苦みが(心と思考の中で)解決されるべきだと勧めています。

 私たちには二つの選択肢しかありません(箴言14:1)。私たちは、堅実に教会を建てるか、それとも破壊するかです。教会を建てるということは、愛に基づきます(1コリント8:1)。これは、私たちが教会内でお互いを愛すると口にするだけではありません。実際に、行いと真実を持って愛し(1ヨハネ3:18)、偽善的で表面上だけのものではないということです(ローマ12:9)。特に、意見の不一致が生じた時や争いの時に、私たちの愛の質が問われます。イエスのように、教会のために自己意思を放棄することで、真実の愛が証明されます(エペソ5:25)。イエスが、私たちにとりなしをしてくださるように、私たちもまた教会内の人のためにとりなしをするべきです(ヘブル7:25)。

 黙示録12:10では、悪魔は「兄弟たちの告発者」と呼ばれています。教会のメンバーが、サタンと共謀して他の信者を非難すると教会は崩壊していきます。このことは、若い預言者ゼカリヤの人生に見られます。彼は、神の民がバビロンの捕われの身から戻った後、エルサレムの神殿再建のために人々を導くことへ召された人です。ゼカリヤ3:1-5では、汚れた服を着た大祭司ヨシュアと、彼を非難しようとするサタンが彼の横に立っています。主がヨシュアの汚れた衣服を脱がせようとされた時、主はサタンを咎められます。そして、主はヨシュアの汚れた服の代わりに、美しく新しい服を着させてくださいました。しかし、なぜゼカリヤはその場に居合わせなければならなかったのでしょうか。それは、彼が告発者の側かまたは仲介者の側か、どちらにつくかを主がご覧になるためでした。私たちは、このゼカリヤを通して、神の家を建てる者のあり方を学ぶことができます。ヨシュアが美しく新しい服を着ると、直ぐにゼカリヤはヨシュアの頭にターバンを着けるように頼み、更にヨシュアを輝かせるのでした。

 今日、私たちが、神の住まわれる教会を建てる時も同じように試されます。悪魔は、他者に対する批判的な考えによって、私たちの心の苦い根を見つけ出し、その邪悪な思いを教会内の人の悪口を通して広げ、最終的に教会を分裂することによって、私たちを、教会を「引き裂く」ミニストリーへと引き込むのです。しかし、私たちは、イエスご自身が実践されたように、他者に栄光を与えるよう執りなし、教会を「築き上げる」ミニストリーに召されています(ヘブル7:25)。たとえ兄弟が罪を犯しても、その兄弟を得ることが常に私たちの目標です(マタイ18:15)。誠実に生きる教会は、イエスがその中心にいてくださるので、すべての闇の力に対して完全な権威を持ちます(マタイ18:18-20)。

 章 9
第九章 教会を愛する–羊飼いであること

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:36)

 マタイ9:37-38で、イエスは、世には多くの収穫があるのに働き人が少ないと言われました。それから、イエスは私たちに、働き人が収穫する畑に送り出されるよう、主に祈りなさいと言われました。多くの人が、この聖句によって人々を感情的に煽り、伝道活動へと導こうとします。しかし、36節から38節では、イエスが「働き人」の本当の意味を語っておられます。

 イエスは、説教者や教師に溢れる群衆をご覧になりました(多くのパリサイ人や律法学者がいたからです)。集会も十分に行われ(人々は安息日に会っていただけでなく、他の時にも集っていました)、そして多くの奇跡が起こりました(イエスはすでに多くの奇跡を彼らの間で行われていました)。しかし、彼らは羊飼いに欠けていました。

 今日も同じ現象が見受けられます。私たちは、聖書やその教えを、印刷物、オンライン、スマートフォン等で容易に利用できる時代に生きており、ほぼ全ての教会が平日に何回も礼拝を行っています。しかし、神は、自分の強固な自己中心の心を壊し、それを柔和な羊飼いの心に変えてほしいと願うリーダーを探しておられるのです。

 エレミヤ3:14-15に戻ると、神は、私たちに教会(「シオン」)の2つの重要な特徴を示しておられます。

(i)人々が、異なる場所の出身であり、様々な家族の背景があること

(ii)神が、御心にかなった羊飼いを与えられること

「御心にかなった羊飼い」とはどういう意味でしょうか?

 それは、キリストの思いやりの心を持っているような羊飼いということです。これは、人間のただの同情心ではなく、それ以上のものです。この思いやりは、悪魔によって「苦しめられた」(マタイ9:36注)人々を見て抱く霊的な感情です。これは、肉体的または感情的ではなく、霊的な利得を考え、そのために愛を持って真実を大胆に話すことを意味します。

 そのような羊飼いは、不自由や不便さをも気にしません。イエスが生きておられた間、彼は、たとえ何百マイルも歩き続けなければならない時でも、野外で寝泊りし、食事を取ることが出来ない時でも、 御父に言われた通りに歩まれました。会堂管理者(マタイ9:18-19)のような名の知れた人々、および長血を患う女性のような貧しい人々(マタイ9:20-22)等、イエスは分け隔てなく皆を愛しておられました。イエスは「彼自身の利得を考えずに」生き、生涯を終えられました。(イザヤ53:8メッセージバイブル)真の羊飼いは、イエスの生き方に従う人々です。

 この羊飼いは、妥協せずに真実を追求します。ユダヤ人がバビロンで捕囚にされたとき、一人の若者ダニエルは、神の基準に自分自身が妥協しないことを心に決めていました(ダニエル1:8)。彼の冷静なその決意は、三人の仲間を同じ決断へと導いたのでした(ダニエル1:11)。

 また、彼は聖霊と共に、喜びと信仰にあって、人々への助け人となります。パウロは次のように説明しています。「私たちは、疑いの目であなたの様子を伺いながら、あなたがどのように信仰に生きているかを見ているのではありません。私たちは、喜んであなたと共に働く協力者です。あなたが、私たちではなく、自分の信仰に堅く立っていることを私たちは知っています。」(2コリント1:24メッセージバイブル)。

 彼には霊的な権威があります。これは神だけが証明してくださることであり、「この世の支配者」(サタン)が来る時、私たちのいのちに対してサタンは何もできないという事実に基づいています(ヨハネ14:30)。

 また、彼は、神の国の福音を余すところなく伝えたいと強く願っています。しかし、説教者の多くは、人気のある話題についてのみ教え、聞き手をただ喜ばせようとします(2テモテ4:3-4)。そのような人は、羊飼いではありません。一方、パウロは自分の召しを真摯に受け止め、「神の全目的」を伝えなければ、全ての人の血について責任が残ると言いました(使徒20:26-27)。

 彼は、羊のために自分の命を捨てます。これは、たとえ好み、必要、快適さ、または予定等を全て諦めても、彼は最後まで恐れることなく羊と一緒にいるということです。イエスは、この羊飼いの心を、羊のことを全く気にかけず、何か問題が生じた時にすぐ羊たちを見放して逃げ去る雇い主の心と比べられました(ヨハネ10:11-13)。パウロは、仲間たちの生き方を見た時、仲間全員、結局は自分自身のことを求めているにすぎないことに気付きました。羊飼いの心を持っているという点で、テモテだけがパウロと同じ霊を持っていました。なぜなら、テモテは群れのことだけを本当に気遣っていたからです(ピリピ2:19-21)。

だれがわれわれのためにいくだろう(イザヤ6:8)

 何年か前に、「自分の魂を見守り、自分の生き方を喜びをもって弁明できる、自分が従う羊飼いは誰か。」と主は私に訊ねられました(ヘブル13:17)。私は、主イエスの生き方を思い返しました。なぜなら、イエスは、 この地に誕生されてからの三十年間 、天の父がイエスに服従するよう求められた全ての権威に忠実に従われたからです。そのためにイエスは、真の霊的権威を持っておられました(マタイ8:8-9)。イエスは、打ちのめされ、血を流されているにもかかわらず、ピラトの前で真の霊的権威を持って毅然とした態度を取られました。そして、ピラトが自分の権力でイエスを脅かそうとした時でも、イエスは静かに「上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません。」と言われました(ヨハネ19:11)。

 これらの聖句にある真理を知り、私の目が開かれた時、神が真の羊飼いを与えてくださるような教会、シオンを見つけたいという強い思いを抱きました。そして私は、たとえ親戚やキャリア等の世俗的な代償を払わなければいけないとしても、キリストのからだを建てることに心を尽くそうと決心しました。

 イザヤのように、神が、私を全ての罪を清めてくださり、私を打ち砕いてくださった後、神は私に尋ねられました。「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」 (イザヤ6:8)。 今、私の前に置かれている状況がどうであれ、2007年の私の決心を後悔したことはありません。

 今日、あなたがバビロンの会衆やクラブから抜け出し、霊的な「シオン」に神の教会を建てるよう神の召命を受けたならば、「私はここにおります。遣わしてください。」とあなたが答えることを心から願います。

アーメン。