失敗における神の目的

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 章 1
人の失敗における神の目的

(2000 年 4 月 9 日日曜日、インド、バンガロールのクリスチャン フェローシップ チャーチでのメッセージです。)

 ルカ 22 章 31 節で、イエスはペテロに危険が迫っていると警告されます。

 「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、 あなたの信仰がなくならないように 、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 ご存知のように、その夜ペテロは三度も主を否定しました。また、34 節ではイエスは次のように言われました。

「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 今朝私がお話ししたいことは、私たち人間の失敗、挫折における神の目的 です。たとえ、私たちが失敗して落胆しても希望を持つことができます。

 まず第一に、神は失敗を許しておられるのでしょうか。神はそれを許してくださるのでしょうか。失敗にはどんな目的があるのでしょうか。それとも失敗とは、神の完全な御心の中では全く無意味で、神の目的の達成には無益なものなのでしょうか。

 上記の箇所を読むと、神はペテロが神を否定するのを制止されなかったことがわかります。なぜイエスは「シモン、あなたが一度たりとも私を否定しないようにあなたのために祈りました。」と言われなかったのでしょうか。なぜ主は、たとえペテロが過ちを犯しても、彼が信仰を失わないことだけを祈られたのでしょうか。イエスが、ペテロが失敗しないように祈られなかったのは非常に興味深いことです。

 私たちの中には、決して罪を犯さないように主に祈ってもらいたいと思う人がいるかもしれません。そして主にこう祈って欲しいと思うでしょう。「私の息子そして娘よ、あなたが決して誘惑に負け、失敗してしまわないように、あなたのために祈ってきました。」しかし興味深いことに、主は私たちのためにそのようには祈られません。

 イエスはシモンのために何を祈られましたか。サタンがペテロを誘惑しても、彼が信仰 を失わないことです。イエスは、ペテロが誘惑に負けないようにではなく、神の完全な愛に対する信仰を失わないようにと祈られました。つまり、ペテロが失敗して絶望のどん底にいても、 神は自分を愛しておられると言えるようにと祈られたのです。

 それが信仰であり、どんなに挫折しても、神は私たちをありのままに愛してくださるということを、私たちは常に口と心で告白しなければなりません。

 これは聖書の中の放蕩息子の告白です。彼は父親がまだこんな惨めな自分を愛していると信じて疑いませんでした。 放蕩息子よりも、つまり豚のえさを食べるほど、またはそれよりも落ちぶれてしまった人を私は想像できません。この息子はまさに人生のどん底にいました。 しかし、彼はどん底に落ちてしまった時でも、一つのことをまだ覚えていました。つまり、 父はまだありのままの自分を愛してくれているということです。

 そうでなければ、彼は家に帰らなかったでしょう。もし、父が亡くなり、兄が家を切り盛りしていると聞いていたら、家に帰ったと思いますか。いいえ、彼は兄がどんな人かをよく知っていました。その兄の元に、彼は二度と戻ってこなかったはずです。彼が家に戻ってきたのは、父親が彼を愛していることを知っていたからです。

 教会の牧師や長老たちがこの話の兄のような存在と感じて、その教会に再び足を運ばない人もいるでしょう。私たちはそのような人々を来ないからといって責めることはできません。しかし、その教会の長老たちがこの父親のような人であるなら、極悪な罪人がイエスの元に来たように、救いを求めてその教会にやってくるでしょう。

 私たちの教会も、極悪な罪人でも気軽に来られるよう場所でなければなりません。イエスが本当に私たちのただ中におられるなら、その罪人は間違いなくやって来て、私たちの中で救いを見つけられるはずです。

 何度も何度も失敗を繰り返した人、人生を台無しにした人、どん底に達した人、すべての人に希望があります。主はあなたをその地点から迎えてくださり、栄光の高みへと導いてくださいます。主の私たちへの祈りは、 私たちの神の愛に対する信仰が絶対に無くならないことです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん、今日あなたにとってこのメッセージが必要でなくても、将来、挫折しどん底に落ちた時、必ず必要になると思います。

 あなたがどこにいても、どんなに落ち込んでも、神はあなたを愛しています 。その時、神の愛に対するあなたの信仰が失われませんように。

 信仰とは基本的に、神がまだ私たちを愛していると信じることです。

 神は私たちの罪を喜ばれず、また、私たちが罪の中を歩み続けるのも望んではおられません。愛して止まない自分の子が病気であるのを見て、その病気を憎む父親のような存在です。らい病や結核にかかった子供を持つ母親のことを考えてみてください。その母親は自分の子供をとても愛していますが、それらの病気を心から憎むでしょう。

 神は罪人を愛しておられますが、彼らの罪を忌み嫌っておられます。

 カルバリーの十字架に、私たちは神の罪人への愛と罪に対する憎しみを見ることができます。神の罪人への愛は、イエスが私たちのために十字架で死ぬことをお許しになられたことにあり、罪への憎しみは、イエスが十字架で世の罪を負われた時、イエスから御顔を背けられたことに表れています。

 愛でおられる神がどうして人々を地獄に送ることができるのかと言う人がいるでしょう。地獄とはどのようなところでしょうか。地獄とは神が完全に見捨てた場所、つまり神がおられない場所です。この世は神に見捨てられてはいません。だからこそ、この世にはまだ多くの善と美があるのです。

 たとえば、創造物の美しさを見てください。また、多くの人には良識と善良さがあります。悪魔はすべて の人間を捕らえたいと思っていますが、それはできません。なぜなら、神は人間の周りに防御壁を設けて、悪魔が好き勝手にできないようにしておられるからです。人間に健康、繁栄、その他多くの快適な暮らしを与えるのも神の慈しみです。これらの祝福はすべて、善人にも悪人にも神から与えられています。これらが、世が神に見捨てられていないことを証明しています。しかし、地獄はそうではありません。地獄に憐れみ、慈しみはありません 。地獄は本当に神に見捨てられた場所です。

 この世では、回心していない多くの人々に善意があります。なぜなら、彼らがまだ神の影響下にいるからです。しかし、一旦彼らが地獄に行ってしまうと、まさにその同じ人々が悪魔のように邪悪になります。彼らに対する神の憐れみはありません。

 地獄に行って初めて人々は、神に完全に見捨てられるとはどういうことかを経験します。それはイエスが十字架で経験されたことです。イエスは、神に見捨てられた時、その暗闇の三時間、十字架上で地獄を経験しておられました。神がどれほど罪を憎んでおられるかがわかります。

 では、前述の人々の疑問に対する答えはどうなるでしょうか。愛の神は人々を地獄に送ることができますか。その答えは、次の質問の答えにあります。

 愛の神は、世の罪を負ったその御子に十字架の上で地獄を体験させるでしょうか。

 事実、それが可能でるということは、人々を地獄に送ることも可能であるということです。愛の神は、罪を 犯し続け「私は神には従わない。 永遠に自分の道を選び続ける。」という人々から御顔を完全に背けられます。

 聖書はこう言っています。

「何度も懲らしめられ、その懲らしめを拒む人は、その日突然滅び二度とチャンスはありません。」(箴言 29:1 )

 人が神の愛ある招きを拒み続けているなら、本当に危機に直面しています。

 しかし私は、敏感な兄弟姉妹の皆さんが、この言葉を聞いて自己非難されたと感じてほしくありません。なぜなら、この節は罪に陥る人のために書かれたのではなく罪を愛し、罪を犯し続けたい人に警告するために書かれた からです。聖く生きたいと思いながらも失敗を繰り返す人のために書かれたものではありません。あくまで、 神に逆らい、罪を犯し続けたいという、神に背を向ける人々に向けて書かれました。

 では、自分がどちらであるかどのようにして見極めることができるでしょうか。

 それはとても簡単です。悔い改め、神に立ち返りたいという願望 があるかどうかを自問してみてください。神に立ち返り、神を愛したいという願望があなたの中に少しでもあるなら、それは聖霊がまだあなたの人生で働いておられ、神があなたをご自分の方に引き寄せようとしておられる証拠です。

 あなたは敗者かもしれませんが、あなたは反逆者ではありません。失敗する人と反抗する人の間には大きな違いがあります。

 神がペテロの失敗を許されたのは、目的を持っておられたからです。それはペテロをふるいにかけることでした。サタンが本当に望んでいたのは、ペテロを完全に滅ぼすことでしたが、神はそれを許されませんでした。神は、私たちが限度を超えて試されることを許されません。サタンはペテロをふるいにかけましたが、結果的にはペテロからたくさんの籾殻が取り除かれました。それが、神が私たちの失敗を許しておられる本当の目的です。

 私たちの人生から籾殻が取り除かれるのは良いことではありませんか。農家が小麦を収穫すると、それを使用する前にふるいにかけてもみすりをすると籾殻がはがれて下に落ちます。

 主はサタンを使って私たちの人生から籾殻を取り除きます。驚くべきことに、神は私たちが何度も失敗することを許し、この目的を達成されるのです。神はサタンを使ってペテロにあるご自分の目的を果たされました。私たちも同じです。

 私たちにはみな、プライド、自信、独善などの籾殻がたくさんあります。そして、神はサタンを使って私たちを何度も失敗させ、私たちからその籾殻を完全に取り除いてくださいます。 主があなたの人生でこの目的をすでに達成されたどうかは、あなたしか分かりません。しかし、籾殻が取り除かれれば、あなたはよりへりくだる者になり、自己中心、独善的ではなくなります。また、失敗した人を見下したり、自分自身を他の誰よりも優れていると思いません。

 繰り返しになりますが、神は、私たちの度重なる失敗によって、サタンが私たちから籾殻を取ることをを許しておられます。だから、失敗しても失望する必要はありません。あなたはまだ神の御手の中にいるのです。失敗を繰り返すことで達成される輝かしい目的があります。しかし、そのような時に神の愛への信仰を失ってはいけません。それこそまさに、イエスがペテロのために祈ったことであり、今日私たちのためにも祈ってくださっていることです。

 神は、私たちが底辺まで落ちた時も、私たちの神の愛に対する信仰が固く揺るぎないものであることを祈っておられるのです。

 多くの挫折を経験して初めて、私たちは本当に「ゼロポイント」に到達します。ペテロがそのゼロ点に達したのは、二度目の「回心」をした時でした(ルカ 22:32 - KJV)。ペテロは振り返りました。ペテロがどん底に落ちた時に、イエスの方 を振り向いた という事実こそ、ペテロへのイエスの祈りが答えられたという証拠です。彼は失望のあまり倒れこんでしまったのではありません。ペテロは信仰を失うことなく、立ち上がりました。神はペテロに長いロープをつながぎ、行き詰まってしまった時彼をすぐに引き寄せられました。

 神の子であることは素晴らしいことです。神は、私たちが離れていかないように、私たちにロープを結ばれます。そのロープはたるんでいるので、私たちは何千回も転んだり、主から離れたりしようとするでしょう。しかし、ある日それ以上進めない状態になった時、神は私たちを引き戻してくださいます。

 もちろん、その時点でロープを切って逃げることもできます。 あるいは、神の慈しみに打ちひしがれ、嘆き悲しんで神の元に戻ることもできます。 ペテロは後者を選びました。 彼は泣いて主に立ち返りました。 しかし、イスカリオテのユダはそうではありません。 彼は、ロープを切り、自分のいのちの上にある神の権威に反抗したので、永遠に滅びに至りました。 私はあなたがペテロと同じ道を選択すると信じています。

 イエスはペテロに、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。

 私たちが他の人を力づけるのに十分な強さを持てるのは、私たちが完全に砕けた時です。

ペテロが本当に強くなったのは、弱くて砕けてしまった時だけでした。 この経験が、ペテロを御霊に満ちた働きへと導きました。

 彼がこのような挫折を経験していなかったら、ペンテコステの日、挫折知らずのプライドの高い人、自分の周りにいる哀れな罪人たちを見下す人になってしまっていたでしょう。そして神は高慢な者を忌み嫌われるので、ペテロは神の敵になっていたことでしょう。

 実際に今日、このようなことが信仰者の多くに起きています。彼らは一度も 自分が完全に崩壊した、砕かれたという経験がありません。彼らは真に聖霊に満たされていたかもしれませんが、完全に砕かれたことはありません。そして、彼らは高慢によってすぐに油注ぎを失ってしまいました。

 私自身の人生では、聖霊の満たしを受けるずっと前に、神は十字架と挫折の道の真理を教えてくださいました。それは、私が道から迷い出てしまうのを防いでくれました。神は私の何年にもわたる失敗を通して、私の自信と自己正義を完全に打ち砕いてくださいました。 何年もの間の毎日の失敗です。私の人生の 六十年間をグラフで表すとしたら、次のようになります。

 私が生まれた時、すべての赤ちゃんのように、罪を犯したことがなく、無邪気で可愛らしい赤ん坊でした。回心後 (十九 歳)、しばらくの間すべて順調に進み、グラフはゆっくりと上昇していました。そして神が私のミニストリーを祝福し、私はキリスト教界でよく知られる人物となりました。しかし、プライドが私に浸透し、私のグラフは無意識のうちに下がり始めました。

 外見上では、私は有名な説教者でした。しかし、私の内の生活と神との歩みは悪化し始めていました。私の内なる人は堕落者、背く者になっていました。そしてついに、私の人生のグラフ線がゼロに達しました。それは二十六年前のことです。その時点で私はミニストリーを完全にやめようかと真剣に悩みました。なぜなら、自分が実践していないことを説いて、人々を欺きたくなかったからです。当時の私は、自分の偽善と背信に対して神からの裁きを受けるに十分に値しました。しかし、神は私を裁いて地獄に送る代わりに、 私を聖霊で満たしてくださったのです。

 なぜ神はそうされたのでしょうか。神の道は私たちの道とは異なります。次の話を想像してみてください。きっとこの奥義がお分かりになるでしょう。

 あなたは世界各国で展開する大企業の社員ですが、会社に対して不誠実であり、命令に従わず、会社の利便性をただ悪用し、会社に汚名を着せてきたと考えてみてください。 ある日、あなたは社内でさらにひどい過ちを犯します。そしてついに、 会社の取締役があなたのところに来てこう言いました。「あなたのすべての悪行を許し、今日からあなたの給料を三倍にしよう。」

 このようなことは実際ありえないとお思いになるかもしれませんが、これこそまさに、神の道が人の道とは違っていることを示す例であり、二十五年前に神が私にしてくださったことです。

 神が私をそのように取り扱って下さった結果、どうなったでしょうか。その日以来、私は神の慈しみを利用して、さらに罪に甘んじるようになったでしょうか。いいえ、それどころか、ローマ2:4にあるように、「神の慈愛が私を悔い改めに導いた」のです。私は嘆き悲しみ、そして完全に崩れ落ちました。神の慈愛によって私は砕かれ、その後、神のために聖い生活を送りたいと強く願うようになりました。

 しかし、私はここであなたに正直に申し上げたいと思います。私の人生のグラフはその日以来順調に右肩上がり、というわけではありません。いいえ、私の人生にはまだ浮き沈みがあって、奮闘している他のクリスチャンと同じです。パウロが言うように、私にも「外には戦い、内には恐れ」があります。 ですから「気落ちした時に慰めてくれる」兄弟たちの助けを必要としています(2コリント7:5,6)。しかし、私は成熟を目指して一心に走り続けたいのです。

 私が神の御心に沿った道を歩み始める前に、神は私が何度も失敗の穴に落ちるのを許されました。そして、私の回心から十六年たった、三十五才の時ようやくゼロポイントに私は到達することができました。その時点で、ほぼ人生の半分が終わっていました。

 あなたは私のような頑固者ではないと思うので、それほど長くはかからないかもしれません。しかし、あなたが希望を捨てないように励ましたかったので、私の証しをお話しさせていただきました。

 神が私にしてくださることは、あなた方にも同様にしてくださいます。

 希望がない人は誰もいません。 私たちが生きている限り、私たち皆に希望があります。希望が失くなるのは、死んだ時だけです。

 ペテロは神が望まれる者になる為に、ゼロ地点まで落ちる必要があったのです。

 自分自身がどん底に落ちると、同じように落ちてしまった人を決して軽蔑することはできません。罪人、挫折してしまった信仰者や指導者を決して見下すことはできません。私たちは自分がかつてどれほど敗者であったかをよくわかっているので、罪を克服したことを自ら誇ることはとてもできません。

 ですから、ペテロ自身が他の信仰者に、「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてはいけません。」と警告したのです (2 ペテロ 1:9)。ペテロは、このことを忘れると霊的に近眼または盲目になると言っています。私はそのようになりたくありません。私は常に、御国と永遠の価値について、長期的な視野を持ちたいと思っています。

 近視の人とはどのような人のことでしょか。世俗的なもの、つまり罪の快楽、物質的な富、そして人の名誉と評判を愛する人、そのような人々が近視の人です。

 私たちはそのようなクリスチャンを気の毒に思わなければなりません。視力が非常に悪く、十フィート以上先が見えない人がいたら、その人に腹を立てることはありませんが気の毒に思うでしょう。本に二センチ眼を近づけて本を読む人を見ても、同じように思うでしょう。眼科医が厚いメガネをつけている人に「視力表」を見せる時、その人は一番上の大きな文字はほぼ見えますが、それも「E」か「S」かはわからないと答えたら、 医者はどう思いますか。叱りますか。いいえ、視力の弱さを残念に思うはずです。

 そして、お金と罪の喜び、そして人からの名誉のために生きるような、信仰的に近眼の信仰者を非難しても無駄なことです。彼らの近眼の度はきついので、私たちは彼らのことを悲しまなければなりません。彼らがいつか主の前に立つ時、本当に後悔するでしょう。

 しかし、このような信仰者がたくさんいるのは事実です。彼らがどのようにして、霊的に盲目になってしまったかお分かりになりますか。

 彼らは「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(2 ペテロ 1:9)。彼らは、神が自分を救い出してくださったその穴のことをすっかり忘れてしまい、その後も神が彼らを祝福してくださっていると高慢になります。

 私は、神が助け出してくださった穴のことを決して忘れたくありません。

 私の罪はすべて消し去られ、神は私がこれまでに犯した罪を一つも覚えておられないことをよく承知しています。「今すでにキリストの血によって義と認められた」(ローマ5:9)と書かれてあるように、六十年間の人生で一度も罪を犯したことがない者として、今日、私は神の前に立っています。神はまさにそのように私を見てくださるのです。

 しかし、私はかつての自分を決して忘れたくありません。神は私に「もはや、彼らの罪を思い出さない」と言われました(ヘブル 8:12)。しかし、私はかつての自分を常に覚えています。だからと言って、サタンに自己非難する機会を与えたり、罪を引きずって落ち込んだりして、過去を思い出すのではありません。いいえ、絶対にしません。 「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)。

 サタンが私を非難するならば、サタンに正々堂々とこう言います。

 「『イエスの血がすべて の罪から私を清めた。』『小羊の血によって』サタンに打ち勝ちかった。」(黙示録 12:11引用)

  神が私に目を留め聖霊で満たしてくださる時、私は自分が落ちてしまった場所を決して忘れることはありません。

 神がかつてユダに言われたように、私もそうでした。(エゼキエル16章)

「だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。」(5節)

「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。」(6節)

「それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし…」(9節)

「 わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。」(10節)

「…わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。」(14節)

 愛する兄弟姉妹、どう思われましたか。

 あなた方の多くが聖霊に満たされておられるかと思います。しかし、神はあなたの自信とプライドをも打ち砕かれたでしょうか。それをチェックするのはとても簡単です。次の二つのことを自問してみましょう。

 まず第一に、あなたは他の人を見下していますか。違う宗派だからと言って見下していませんか。教理上の観点では多くのクリスチャンと意見が一致しないかもしれません。しかし、決して見下してはいけません。正直に言うと、私は他の宗派のクリスチャンの兄弟姉妹は、自分よりもよっぽど素晴らしいと感じます。ただ、教義の違いがあって、私は彼らと共に働くことができません。しかし、私は彼らを誰も見下しません。

  パリサイ人のように、「神よ。私はほかの人々のように…ではないことを、感謝します。」(ルカ 18:11)と言ったことがありますか。言ったことがあるならば、あなたがどのような聖霊の体験をされたとしても、あなたは打ち砕かれてはいないということです。

 次の質問です。あなたは自分の霊的な成長や業績を誇りに思っていますか。

 打ちのめされた人は、自分の肉には何も良いものがないことを認識しているので、自分の人生や働きの中で得たどんな実に関しても、すぐに神に栄光を帰すことができます。

 次の二点が心打ち砕かれた人の目印です。

1.信仰者であろうと未信仰者であろうと、誰も見下しません。

2.自分の霊的成長や働きを誇りません。

 ヤコブは、神が倒された人の典型的な例です。 ヤコブは神と二回会いました。最初はベテルで(創世記 28 章)、二回目はペニエルです(創世記 32 章)。

 ベテルは「神の家」(教会の一種)を意味し、ペニエルは「神の顔」を意味します。 私たちは皆、神の教会に行くこと以上に、 神の御顔を見なければなりません。

 ベテルでは、「日が沈んだ」(創世記 28:11)と書かれていますが、これは地理的な事実にすぎませんが、ヤコブの人生で何が起こっていたかも示しています。その後の二十年間は彼にとって深い暗黒の時代だったからです。 それからペニエルでは、「太陽が昇った」(創世記 32:31)と書かれています。これもまた地理的な事実ですが、ヤコブもついに神の光の中に入りました。

 ペテロの二回の回心のように、時代を超えて神と共に歩んできた多くの信仰者も、神と二回出会っています。 一回目は、回心して神の家(教会)に行き始めた時です。 二回目は、彼らが神と顔を合わせて直接会い、聖霊に満たされ人生が変えられる時です。

 ベテルで、ヤコブは地上に設置されたはしごが天まで届く夢を見ました。 ヨハネ 1:51 で、イエスはそのはしごをご自身、すなわち地上から天国への道であると説明されました。

 ヤコブが実際に見たのは、イエスが天国への道を開かれるという預言的なビジョンでした。主はその夢の中でヤコブに多くのことを約束されました。しかし、ヤコブは非常に世俗的な人だったので、この世での安泰、健康、経済的繁栄しか考えられませんでした。そして彼は神に、「主よ、もしあなたがこの旅で私に食べ物と衣服を与え、無事に家に連れ戻してくれるなら、私の収入の十パーセントをあなたに差し上げます。」と言いました。ヤコブは神を見張り番のように扱っていました。そしてもし神がそうされたなら、ヤコブは収入の十パーセントを神に支払うでしょう。

 今日も多くの信仰者が、この時のヤコブのように神を見ています。彼らは神からの物質的な繁栄だけを望んでいます。そして、もし主が彼らにこれらのものをお与えになるなら、彼らは教会の集会に忠実に出席し、主の働きのためにお金の一部を献金します。そのような信仰者は、この世のビジネスマンと同じように、自分の快適さと利益を求めて、実際に神と ビジネスを行っているにすぎません。

 ヤコブは二十年、世のものを手に入れることに必死でした。彼はラバンの家族から妻を得ようと試みましたが、結局二人妻を迎えます。それは彼の意思ではありませんでしたが、二人とも自分の妻にしました。それから彼はラバンをだまし、彼の羊を奪って、それによって大金持ちになりました。ヤコブは無一文でラバンの家に来ましたが、そこで彼は富豪になりました。ヤコブは間違いなく神の祝福が経済的繁栄をもたらしたと確信していました。それは今日の信仰者も同じです。

しかし、本当の「神の祝福」とはなんでしょうか。繁栄ですか。

いいえ、それはキリストの似姿に変えられることです。

 あなたの人生がまだ神と人にとって無益であるなら、良い仕事、良い家、そして多くの快適な暮らしあっても何の役に立つでしょうか。

 神はヤコブへの働きをまだ終えてはおられませんでした。神はペニエルで二度目にヤコブと出会います。

 兄弟姉妹である皆さんに是非とも申し上げたいのですが、皆さんの多くは神との二度目の出会いを必要としています。それは人生のどん底に落ちた時に起きる出会いです。神はあなたを裁いたり地獄に送ったりするどころか、あなたを聖霊で満たしてくださるのです。

 創世記32章には、ヤコブはエサウ (二十年前に長子の権利をだまし取った兄) が彼に会いに来ると聞いて非常に怖がっていたと書かれています。 彼は、エサウに殺されると思っていました。 私たちが恐怖を感じる特定の状況に直面することを神は許されますが、それは私たちにとって非常に良いことです。 なぜなら、人に何かされることに恐怖を覚える時、私たちは神に近づくからです。

 ペニエルでヤコブは一人でした(創世記 32:24)。 私たちが神と向き合う前に、まず神は私たちを一人にします。ですからサタンは、今日の世の生活を(特に都会では)非常に慌ただしく忙しいものにして、多くの信仰者が神と静まる時間を持てないようにしています。日々の生活が忙しすぎて、彼らにとって優先度の低い事柄 (神) は人々のスケジュールから完全に除外されています。 これが今日のキリスト教界で起きている悲劇です。

 その夜、神は何時間もヤコブと格闘されましが、ヤコブは全く屈しませんでした。そのレスリングは、ヤコブの過去二十年間の人生を象徴していました。

 神はヤコブが頑固であるのを見て、ついに彼の股関節を脱臼させました。ヤコブは当時四十歳くらいでしたが、非常に強い男でした。彼の祖父アブラハムは、百七十五歳まで生きていました。つまり、ヤコブはまだこの時、人生の七十五パーセントを残している青春の真っ最中だったと言えるでしょう。このような若い年齢で股関節脱臼になることは、まったく望んでいなかったはずです。 彼が立てていた将来の計画が台無しになってしまうからです。

 現代にあてはめるならば、二十代の若者が股関節を脱臼して松葉杖をずっと使わなければならないようなものです。本人にとってそれはかなり辛い出来事でしょう。ヤコブは一生松葉杖なしでは歩けなかったかもしれません。

 神は非常に多くの方法でヤコブを砕こうとされましたが、成功しませんでした。そしてついに、神はヤコブに身体的な障害を与えられました。

 それによってヤコブはついに砕かれました。

 神が必要だと判断されれば、私たちにも同じような体験をお与えになるでしょう。神は愛す者だけを教え導き、最大の危機から私たちを救ってくださるのです。

 神があなたを正すことをお止めになり、あなたが神に背を向けて健康で贅沢な暮らしをして、人生を無駄に過ごすこともあり得るでしょう。 しかし、誰がそれを望むでしょうか。私はむしろ、神と共に歩み世で神の目的を果たすため、神が私を徹底的に教え、懲らしめ(必要であれば肉体的にも)、打ち砕いていただく事を望みます。

 使徒パウロでさえ、打ち砕かれるためには肉体にとげが必要でした(2コリント12:7)。パウロの肉体のとげは、絶えず彼を苦しめていたとあるので、何らかの身体障害だったのかもしれません。彼は、この「サタンの使者」が取り除かれるように、何度も何度も神に祈りました。しかし、神は言われました。「サタンの使者といえども私は取り除きません。なぜなら、あなたがへりくだる者になるためにはそれが必要だからです - あなたが私(神)とあなたの仲間のために良き働きができるように。」

 神はヤコブの股関節を脱臼させた後、彼にこう言われました。「わたしはやるべき事をやり終えた。だから今私を去らせよ。あなたは私ではなく、ただ女性とお金だけを望んでいた。」しかし、ヤコブは今、神を手放すつもりはありません。ついに彼は変わったのです。 女性と財産を奪うために人生を費やしてきた男は、今では神をつかみ、こう言います。

 「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 股関節が脱臼したとき、ヤコブの心の中で大きなわざがなされたので、彼は神だけを望む人に変わりました。

 昔から言われているように「神以外何もない時、神のみが必要な方であることがわかります」 これは本当のことです。

 そして神はヤコブに「あなたの名は何というのか。」と尋ねられます。ヤコブは、「ヤコブです。」と答えます。 「ヤコブ」は欺瞞者、騙す人を意味します。ヤコブはついに自分が欺瞞者であることを認めます。

 あなたはどうですか?あなたもヤコブのような欺瞞者ですか。自分が霊的な人間であるかのように振る舞い、周りの人を騙していませんか。もしそうなら、今日神の御前に正直になり、あなたが偽善者であることを神に伝えませんか。

 この何年も前に、盲目の父イサクが彼に名前を尋ねた時、ヤコブは自分がエサウであるふりをしました。しかし今、彼は正直者です。そして主はすぐにヤコブに言われました。

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。」(28節)

とても勇気付けられる言葉ではないでしょうか。

「あなたはもう偽善者ではありません。」

ハレルヤ!

 あなたがもうこれから罪に陥ることはないということではありません。しかし、あなたの人生にはもはや偽りや騙しはありません。

 そして、神はヤコブに言われます。

 「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神の王子)だ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 ヤコブは欺瞞者から神の子へという大きな変貌を遂げました。これはヤコブ自身が崩れて初めて実現しました。

 私たちもこの召しに与かっています。つまり、神の子としてキリストと共に天の座に着き、霊的な権威をサタンに対して用いて、人々をサタンの束縛から解放することです。私たちはキリストの体の一部として、神と共にまた人々の間で力を帯びて勝利します。

 私たちは神の御前に自分の偽善や偽りに関して正直になり、神によって砕かれ、すべての人にとって祝福となることができます。

 この出来事の何世紀も後、ヤコブの子孫ナタニエルがイエスに出会った時、イエスが言われました「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽り(ヤコブ)がない。」(ヨハネ1:47)。それからイエスは、ヤコブがベテルで見たはしごの夢のことをナタニエルにお話になり、ナタニエルもまた「イスラエル(イスラエルの王子)」だと言われました。ナタニエルが完璧な人だったからではなく、正直者だったからです。

 ヤコブは自分が神の御顔 を見ることができたこの場所を「ペニエル」と名付けたと書かれています。ベテルで、彼は神の に来ることができました。もしあなたが何年も神の家にいながら、神の御顔を一度も見たことがない、神と向き合ったことがないならば、もう一度神の御顔を見る機会が必要です。

 その時ヤコブ(欺瞞者)は興奮してこう言うでしょう。

「神よ、私は今あなたの御顔を仰ぎ見て、私はまたいのちを得ました。」

「私は会社をクビになるべき者なのに、三倍の給料をいただきました。」

「私は地獄に行くべき者なのに、イエスは代わりに私を聖霊で満たしてくれました!!ハレルヤ!!」

 なぜ多くの信仰者が聖霊に満たされていないのか、その理由がお分かりいただけたかと思います。彼らは自分の力で得ようとしています。彼らは聖霊を受けるにふさわしい者になろうとしています。多くの宗教を信仰する誠実な人たちも、彼らと同じように罪の赦しを求めていますが、許しを得ることができません。なぜでしょうか?それは彼らも自分の手で獲得しようとしているからです。

 あなたはどのようにして罪の赦しを受けましたか。あなたが努力して頑張ったからでしょうか。あなたの人生の中で、自分が神の許しを得るには値しないということに気づき、あなたはクリスチャンとしてではなく、罪人としてイエスの元に来ました。そして、あなたの罪はすぐに許されました。御霊の満たしを受ける時も、私たちは同じです。

 今日、聖霊の満たしを断食や祈りで得ようとしている信仰者が多くいます。これらは何も悪いことではありません。それらはすべてよい事です。しかし、御霊によって完全に満たされようとしてこれら行うなら、あなたは間違った道を進んでいます。

 あなたは御霊の満たしを受けられない時、神にこう問いかけるでしょう。

 「主よ、私は断食し、祈り、待ち続けているのに、なぜあなたは私を御霊で満たしてくれないのですか。」

 あなたは罪の赦しも、聖霊も自分の努力で得ることはできません。なぜなら、どちらも神の賜物だからです。また、あなたは神に何か支払って得ることもできません。

 あなたはこれらをただで受け取るべきであり、そうでなければ絶対に得られるものではありません。

 神の贈り物はすべて無償です。しかし、多くの人は神の賜物に値する代価を神に払おうとする過ちを犯しているため、いずれの賜物も受け取れないのです。また、受け取るのにふさわしい自分になろうとしても同じです。これが、あなたがまだ聖霊に満たされていない主な理由かもしれません。

 イエスが世におられた時、パリサイ人は自分たちが誰よりも罪の赦しを受けるに値すると思っていました。しかし、彼らは赦しを得ることなく、彼らの行く先は地獄でした。一方、マグダラのマリアのような罪人たちは、すぐに罪の赦しを受けました。また罪に塗れた人生を送ってきた盗人は一瞬で許され、十字架につけられたその夜にパラダイスに行くことができました。

 神は、受けるに値しない者に最高の賜物を与えてくださいます。 十一時間後にぶどう畑に働きに来た人々は、自分は何も貰う資格はないと思っていましたが、一番最初に賃金が支払われました。しかし、彼らよりもずっと早くに働きに来ていた人々は、自分はそれ相当の賃金をもらえるだろうと期待していましたが、結局最後に同じ一デナリが支払われました。

 放蕩息子の話では、父親は指輪をはめていたと書かれています。しかし、ある日、この父親はその指輪を外して、すべてのお金を無駄にして帰ってきた次男に渡しました。なぜ彼は、それを長男に渡さなかったのでしょうか。なぜなら長男が独善的だったからです。人間的な見方をすると、もちろん指輪は長男に渡されるべきでした。しかし、父親はそれを次男に与えたのです。

 それが神の道です。神はそのような方法で、高慢な人をへりくだる者にし、神の前でだれも奢ることができないようにします。 神の方法は私たちの方法とは違い、神の考えは私たちの考えとも違います。 どのように神が人をどのように取り扱われるかの基本原則をお分かりいただけたでしょうか。

 私を悔い改めに導いたのは、神の慈しみでした。そして、その後も絶えず神が示してくださった慈しみだけが、私をより大きな悔い改めへと導きました。神の慈しみがあなたも悔い改めに導いてくださいますように。

 私たちは、神の慈しみを利用してはいけません。神はこれまで多くの点で私たちを憐れんでくださいました。だからと言って、神は私たちのことを喜んでおられるということではありません。いいえ、そうではありません。神はすべての人を慈しまれます。しかし、私たちを悔い改めに導く唯一のものが、その慈しみです。そして、私たちが心に偽りなく、ただ神に立ち帰れば、神も私たちの手に指輪をはめてくださるでしょう。神は特に私たちのような罪人のために、その指輪を残してくださっているのです。

 イエスはかつてパリサイ人に皮肉を込めてこう言われました。

 「あなたは医者を必要としません。医者を必要としているのは病人であり、私は彼らのために来ました。」 (マタイ9:12)。

 イエスは彼らを目を開かせるために、愛の中にも皮肉的な表現を用いられましたが、彼らの目は開かれませんでした。

 イエスは、自分を義人だと思っている人ではなく、自分を罪人だと認める人を呼びに来られました。今朝、ここに座っているあなた方の多くが、気づかずにパリサイ人たちと同じような、偽善、高慢や自己中心といった病にかかっている可能性は十分にあります。

 これらの病気は、エイズやガンよりも深刻で、あなた自身を破壊してしまいます。これらの罪に比べれば、殺人や姦淫などの他の罪は風邪や熱のようなものです。あなたは殺人者と姦淫者は完全に病んでいると思われるでしょう。しかし、あなたはその両者よりもさらにひどい病にかかっている可能性があるのです。

 神は、ご自分のいのち、力、権威を私たちに与えたいとお考えです。だからこそ、私たちの中の自分が最終的に壊れるまで、私たちが何度も失敗することを神はお許しになるのです。

 ヨブの物語では、神がヨブに財産、子供、健康、すべてを失うことを許され、ヨブをどん底に追い詰められました。また、違う意味でも、彼は妻 (ヨブにいつも愚痴を言っていた) と 三人の良き友人 (ヨブのことを誤解し批判した) も失いました。彼の友人は、落ち込んでいるヨブを攻め立てることを喜ぶ独善的説教者に成り変わりました。憐れみの神がそれらを終わらせるまで、彼らはヨブを攻撃しました。これらすべての圧力の中で、ヨブは繰り返し自分を正当化しました。

 そして、主がついにヨブに語られた時、ヨブは自分の自己中心が崩れていくのを見て、悔い改めました。ヨブは元々義の人でしたが、自分の正義を誇りに思っていました。しかし、神がヨブをこのようにして教えられた後、ヨブはゼロになることができました。それ以来、彼は神のみに栄光を帰すようになりました。このようにして、ヨブに対する神の目的は達成されたのです。

 ヨブがゼロになった時、神に言ったことに注目してください。

  「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ 42:5)

 これがヨブにとってのペニエルでした。彼も神の顔を見て、命を救われました。そしてどうなったでしょうか。ヨブはちりと灰の中で悔い改めました(6節)。神はご自分の慈しみを啓示されて、一瞬のうちにヨブを打ち砕き、悔い改めに導かれました。四人が何日もかけて説教しましたが、彼らにはヨブを悔い改めさせることはできませんでした。

 私たちのほとんどは、集会の中で説教者から神のことを聞きます。しかし、私たちが必要としているのは、神の慈しみを見て砕かれる、神との直接の出会いです。これはペテロも経験しました。ペテロが主を否定し、鶏が二度鳴いた直後に何が起こったでしょうか。ペテロは主の顔を見ました。これがペテロのペニエルです。

 「主が振り向いてペテロを見つめられた。」(ルカ22:61)と書かれています。その結果、「彼は、外に出て、激しく泣いた。」(62節)とあります。

 慈しみと赦しに満ち溢れたイエスの表情は、その漁師の荒れた心を打ち砕きました。

旧約の下で、神はイスラエルに健康、富、そして多くの物質的な繁栄を約束されました。しかし、それらすべての中で最大の祝福が一つありました。民数記 6 章 22 節から 26 節に記されているものです。ここではアロンが人々を祝福するように命じられたと書かれています。

「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」

 今日の多くの信仰者が、神と向き合って人生が全く変えられるという素晴らしい祝福を求めるのではなく、健康、富(未信者も祈ることなく得られているもの)や感情的な特別な体験(その多くは偽りです。)という劣った祝福を求めているのは残念なことではありませんか。

 決して金持ちにならなくても、癒されなくても、主の御顔を見るなら、それですべての必要が満たされます。

 ヨブが神の御顔を見た時、彼の全身には腫れ物がありましたが、彼は神に癒しを求めませんでした。彼は、「私は主の顔を見ました。それで十分です。」と言いました。 「識別力」と「神からの御言葉」を振り翳してきた三人の説教者は、ヨブに彼が人生で隠してきた罪のために罰を受けていると主張しました。今日もそのような自称「預言者」がいて、「主はこう仰せられる」から始まる偽りのメッセージを送り、神の民をただ非難します。しかし、神はその三人の説教者のようにヨブを裁きで脅すことはなさいませんでした。神はヨブに彼の失敗について問われる事もなく、ヨブがプレッシャーの中、(神に対して)呟いた不平さえも見過ごしてくださいました。

 神はただ、慈しみだけをヨブに示されました。神の慈しみは、人間が楽しむために神が創造された美しい世界と、人間に従属するべく創造された動物の中に見られます。ヨブを悔い改めに導いたのは、その神の慈しみでした。多くの人が神の愛を利用したり乱用したりします。しかし、ヨブの場合は悔い改めに至りました。そして、主はヨブが前に所有していたものの二倍のものを彼に与え祝福されました。

 ヤコブ 5 : 11 にあるように、神が私たちを挫折に導く最終的な目的は、私たちを豊かに祝福することです。ヨブの自己中心とプライドを破壊し、彼を砕かれた人間にすることが神の御心でした。神が私たちに物質的および物理的な祝福を与えてくださっても、それらすべての背後にある神の御顔を私たちが見なければ、それらの祝福が私たちを神から遠ざけ、私たちを破滅させる可能性があります。今日、このようにして物質的な繁栄によって神から離れてしまった信仰者が何人いることでしょう。

 主と向き合うというこのビジョンは、この世の全ての物に対する欲望からも私たちを解放することができます:

 「あなたの御顔をみせてください、神聖で愛に満ちた輝きを見せてください。

そして、あなた以外の愛について考えたり夢見たりすることは決してありません。

もろもろの小さな光はすべて暗くなり、虚しい栄光は衰えます。世は再び美しく見えることはないでしょう。」(賛美歌 : Show me Thy face)

 ペテロは主の御顔を見て、激しく泣きました。ここでペテロは完全に折れたと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。彼がペニエルを経験するために、主はもう一度彼に失敗の経験をさせなければなりませんでした。

 ヨハネ 21:3 で、ペテロが仲間の使徒たちに「私は釣りに出る。」と言っています。これは「今から釣りに行く」ということではなく、「使徒を辞める」ということを意味していました。使徒として失格者である自分はこれからはまた、漁師として生きていくと。

 主がペテロを召された時、ペテロは数年前に漁師をやめていました。 彼はすべてを捨て、最善を尽くして主に従いました。 しかし、彼は失敗し、使徒という役目は自分には向いていないと感じました。 歴史上で最も優れた説教者であるイエスの素晴らしいメッセージを三年半にわたって聞いた後、ペテロはその主をあからさまに否定しました。 それも一度ではなく三度も。それまで彼は使徒になろうと十分頑張っていました。

 しかし、彼にはまだ長けている事が一つ残っていました。それは釣りです。 彼は少年の頃から釣りをしており、その道ではプロでした。 それで彼は、挫折した後もう一度漁師の道に戻ろうと決心しました。主を見捨てて逃げてしまっていた他の使徒たちも、「使徒」として失敗してしまったので、同じことを考えていました。

 使徒たちは誠実な人たちでした。彼らはいつもイエスのメッセージに感謝し、イエスの話を聞く度に彼らの心は燃えていました。彼らは心からのイエスの弟子になりたいと願っていました。しかし、彼らは失敗してしまったのです。

 あなたも彼らと同じような経験をされたかもしれません。あなたは力強いメッセージを聞いて、心を動かされたかもしれません。神の御言葉を聞いて、あなたの心が燃えたことがあるでしょう。あなたはすべてを捨てて、心から主に従いたいと願ったことがあるでしょう。力強いメッセージを聞いた後、何度も「決断」を下したことがあるでしょう。何度も失敗を重ねては「今度こそは頑張れる」と思ったこともあるかもしれません。しかしまたスタートしても失敗してしまいます。

 あなたがこうして過去を振り返ってみると、千回以上の失敗を重ねただけのように見えるかもしれません。「無駄だ、諦めた方がいい。この福音は他の人のためのものであって、私には向いていない。私には到底無理なことだ。絶対うまくいかない。」と落ち込んでいる人もいるでしょう。

 今日、あたなはそのように感じていますか。何度トライしても無駄だからもう止めようと決めてしまいましたか。幸運や虚しい快楽を求める世俗に戻ろうと心に決めましたか。主イエスの弟子として生きるよりもむしろ、「クリスチャン」として生きなくてもいい世俗的な人でいる方がいいと思いますか。

 その思いこそ、漁業に戻ろうと決意した時の使徒たちの思いです。そして、主は彼らが戻ることを許し言われました。「さあ、行きなさい。釣りをしてみて、そこで成功するかどうか試してみなさい。」それで、ペテロと彼の友達は一晩中魚を捕まえようとしましたが、惨めにも一匹も釣ることができませんでした。人生でこれほど最悪な夜を彼らは過ごしたことはなかったでしょう。

 神があなたを神のものとして召されたら、神はあなたを手放されません。神はあなたが「釣り」や、まさにやろうとしている事で失敗することを許されます。私たちは自分の思うがままに挑戦しますが失敗します。神の愛は、些細なことで人生を無駄にすることを許しません。

あなたが神から離れようとしてもどこに行っても、どんな事をしても失敗するでしょう。あなたが神のもとに帰ってくるまでは。

 しかし、これは主が召されていない人には当てはまりません。「闇の」お金を手に入れながら、神なしで健康に暮らしている、多くのビジネスマンや政治家がいます。神はなぜそれを許されるのでしょうか。なぜなら、彼らが神の子ではないからです。しかし、私は今、彼らについて話しているのではありません。私が話しているのは、 神が世界の創世の前から自分のものとなるように召されたあなたのことです。

 実際、ガリラヤ湖にはたくさんの魚がいて、その夜、他の漁師たちがたくさんの魚を捕まえていたでしょう。それらの魚は他のすべてのボートの近くに集まっていました。しかし、神はその魚たちをペテロから遠ざけたので、一匹の魚も彼に近づきませんでした。他の漁師たちは、ペテロのボートに来てどれほどたくさん釣れたかを彼に話したかもしれません。そして、ペテロと仲間は、なぜ何も釣れないのかますます不思議に思ったことでしょう。

 なぜ自分は他の人と同じように株でお金を儲けることができなかったのか、疑問に思ったことはありませんか。あなたのビジネスが他の人のように「何百万」単位で利益がでないのはなぜだろうと思いますか。あなたの周りの人々がより裕福になっている一方、自分は裕福になれないと思っていませんか。それは、神があなたを召され、世俗的な人々が持っているものよりも優れたものをあなたに与えたいと願っておられるからです。

 ペテロは神の召命に背を向けていたので、神はもう一度彼を挫折させて壊さなければなりませんでした。当時、使徒たちは夕方六時頃から釣りを始めていました。しかし、イエスは翌朝五時頃まで彼らのところに来られませんでした。

 主は、その夜、ペテロに魚は釣れないことをご存知でした。なぜ、イエスは彼らが釣りに出かけた後すぐに来られなかったのでしょうか。ペテロたちは時間を無駄にせずに済んだはずです。また、イエスがその夜の少なくとも九時ごろまでに来られなかったのはなぜでしょうか。なぜ彼は翌朝五時まで待っておられたのでしょうか。なぜ彼はペテロたちが十一時間、散々苦労して疲れ果てるまで現れなかったのでしょうか。

 その質問の答えの中に、私たちの失敗を許される神の構図を見ることができます。 人間の失敗には神の目的があるのです。 私たちがもがき苦しんで、何度も助けを求めて叫んだにも関わらず、なぜ神は私たちを助けに来られなかったのか、そして私たちの熱意がなぜまだ報われないのかが明らかになります。

 その夜、ペテロと彼の友達が午後六時に釣りに出かけた時点では、彼らはまだ失敗を経験しておらず。彼らは希望に満ちていました。 夜九時になっても魚は獲れず、彼らは少しがっかりし始めていたことでしょう。しかし、彼らはまだ、自分たちの船出を「失敗」として片付けることはできませんでした。 真夜中にはほとんど諦めがついて、落胆していたかもしれません。 翌朝の午前四時には、彼らはすべての希望を失っていました。 しかし、彼らはまだなお、 完全な敗北者にならなければなりませんでした。 そのためには、彼らはさらに失敗を犯さなければなりませんでした。 彼らの自信のグラフ線はどんどん下がっていきました。 しかし、その線はゼロまで到達する必要があったのです。どん底まで。

 ゼロに到達したのは翌朝の午前五時でした。その時、彼らは完全に諦めこう言います。

 「これ以上努力しても無駄だ。家に帰ろう。」

 その時、主が現れました。これこそ神の御心でした。主は彼らの網を魚であふれさせました。彼らは人生でこれほどの量の魚を釣ったことは一度もありませんでした。その朝、彼らは153匹の大きな魚を獲ることができました。それまでは、天気がいい日でもせいぜい20、30匹くらいしか釣れなかったでしょう。この日の大漁は本当に奇跡でした。その湖で一日にこのような大量の魚を釣った人はいませんでした。この出来事はガリラヤの歴史に残されるでしょう。彼らがすべての希望を捨てた時、主が彼らのために奇跡を起こしてくださったということが永遠に語り継がれるでしょう。

 あなたは今日、何もかもうまくいかずに落ち込み挫折し、どちらへ向かえばよいか、次に何をすればよいか分からずに、頭を抱えていませんか。もしそうであるならば、今、まさに主があなたに現れようとしておられます。あきらめないでください。

 主はあなたの自信がゼロになるのを待っておられます。主がまだあなたのもとに来られていないならば、それはあなたの自信のグラフ線がまだゼロ点に達していないということです。主は、まだあなたの中に、完全に取り除かれなければならない自分が残っているのをご存知です。

 ラザロの話のなかでも、主が来られる前に、彼は死んで埋葬されなければなりませんでした!

 この漁の朝、イエスは湖畔に来られた時、何を使徒たちに尋ねられましたか。主は彼らに魚は釣れなかったことを知っておられました。しかし、主は彼らに尋ねられました。「魚はつれましたか。」おそらく、最初は誰も答えようとしなかったでしょう。イエスは彼らにもう一度尋ねなければならなかったかもしれません。そして彼らは、ついに「いいえ」と答えることができました。

 彼らは正直に自分たちの失敗を認めました。ヤコブとヨブのように。主が彼らに認めてほしかったのは、彼ら自身の敗北、失敗だけでした。

 私の人生における最大の喜びの一つは、この輝かしい真実を発見したことです。それは、 人生のどの時点においても、神が私たちに求めておられることは、正直であることです。 そうすれば、神は私たちのために奇跡を起こしてくださるのです。

 「魚はありますか?」 「いいえ、ないです。」 「右側に網を投げてごらんなさい。」

そして奇跡が起こりました!

「名前はなんですか?」 「ヤコブです(騙す者)。」 「あなたの名前はもはやヤコブではなく、イスラエル(神の王子)です」

ここでも奇跡が起きました。

 兄弟姉妹の皆さん、これが神の道です。

 神が私たちに求めているのは、正直であることだけです。

 今日、神の前に正直になりませんか。

 私たちの教会は病院のようなものです。私たちは皆患者です。私たちは専門医ではありません。私たちの中には、他の人よりも長くこの病院にいる​​人もいます。しかし、私たちは皆患者です。医師はただ一人、それはイエスご自身です。専門医や診察医は、生ける神の教会ではなく、カルト教会の自己中心的な、独善的な人々の間に見られます。

 私たちの病院はどなたでも大歓迎です。あなたの病気が深刻であれば、私たちのところできっと癒されるでしょう。そしてこれが私たちのメッセージです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 神は、価値に値しない者に目をとめてくださいます。取税人は、「罪人という私を憐れんでください。」と祈りました。 (ルカ 18:13 - NASB)。彼は自分自身を「罪人」 と呼んでいました。この取税人は周りの誰もが聖人だと感じていました。彼の目には、自分は地球上で 唯一の罪人 としか写っていませんでした。そしてイエスは、その人は義と認められて家に帰ったと言われました。神が義としてくださるのはそのような人々だけです。

 この「義とする」という言葉が実際に何を意味するかについて、少しお話しさせてください。それは美しい言葉であり、私たちを解き放ってくれる言葉です(ルカ18:14)。

 本のページを見てください。どのページの右側の余白も、左側の余白と同じようにまっすぐ揃っています。コンピュータ言語では、これを「justification(均等割り付け、両端揃え)」と呼びます。各行の文字数は異なりますが、コンピューターは右端を完全に揃えてくれます。コンピューターで何かを「両端揃え」せずに書いた場合、右端が不揃いになってしまいます。

 手動タイプライターを使っていた頃、ページはちょうどそのように印刷されていました。各行が同じ長さになるように書くことは一ページ書くのも至難の技でした。しかし今、私たちは「均等割り付け」という機能を利用しています。これは、各行の末尾にある単語を単にハイフンで次の行に続けるということではありません。本のページには、全くハイフンが見当たりませんよね。ハイフンがあったら、あまり見栄えもよくありません。コンピューターは、各行の単語間のスペースを調整して、すべての行がきちんと「揃う」ようにします。

 既に三十行を書き込まれた端が揃っていないページも、コンピューターにすべての行を揃えるように命令することもできます。一つのキーを押すだけで、すべての行がきれいに整います。

 神が私たちを義とされる時、神は私たちにまったく同じことをしてくださいます。もしかしたら、あなたは今までの人生に失敗し、なにもかもうまくいかなかったかもしれません。しかし、あなたがキリストの元に来るなら、神は一瞬にしてあなたを義としてくださいます。あなたが、まるで今まで一度も罪を犯した事のないかのように、 過去の人生のどの行の端も凹凸なく、綺麗にまっすぐ整えられるのです。

 素晴らしいと思いませんか。コンピューターがページの上でする事を、神は私たちにしてくださいます。それは二十世紀の「両端揃え」(「義とする」)という言葉そのものです。

 もう一つ付け加えさせていただきますと、コンピュータに「両端揃え」するように命令すると、その後書くすべての行も自動的に揃い、他の行と完全に一致します。同じように、義化も、過去と同じように未来にも当てはまります。 これは実に驚くべき福音です。

 神は今、キリストにおいて私たちを見ておられます。 私たちには、もはや誇れる自分の義はありません。 キリストご自身が私たちの義です。

 神が私たちを義と認めて下さる時、私たちは人生で一度も罪を犯したり、過ちを犯したことがない者のようになります。

 そして、私たちは常にキリストの血によって義とされます。なぜなら、私たちが光の中を歩めば、キリストの血は私たちが意識した罪、無意識の罪どちらの罪からも私たちを絶え間なく清めてくれるからです。

 聖書を読む際に犯しがちな最大の過ちの一つは、数学の問題を解く時のような論理的な考え方で読もうとすることです。神は数学的論理によって働かれる方ではないので、私たちは神の御心をその考えで理解することはできません。

 過去にたくさんの罪を犯し、失敗してきた自分が神の完全なご計画を果たして成し遂げれるだろうかと考えた時、数学的論理によれば、それは不可能です。なぜなら、計算式では、どこかの段階で誤りがあれば、最終的な答えも誤りです。

 もしあなたが論理を用いるならば、あなたが過去のどこかで神の御心に失敗し(それが2歳の時であろうと52歳の時であろうと)、どれだけ努力や悔い改めをしても、神の完全な御心を全うする事は不可能だ言わなければなりません。数学の問題のどの段階で(ステップ 2 であれ、ステップ 52 であれ)間違えようと関係なく、あなたは正しい答えを出すことができません。

 しかし神は言われます。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―」 (イザヤ 55:8、9)

 私たちの人生における神のご計画が数学的論理に従って行われないことを神に感謝します。もしご計画がその論理に基づくなら、一人の人間も(使徒パウロでさえも)神の完全な計画を成就できなかったでしょう。私たち誰もが誤り、挫折した経験があります。私たちは信仰者になってからも何度も失敗しました。信仰者になった後も、私たちは故意に罪を犯したこともあります。正直な人は皆、すぐにそれを認めます。 しかし驚くべき真実は、私たち皆、一人一人にまだ希望があるということです。

 数学は、わずかな誤りも許されません。 2 + 2は3.99999999とはなりません。正確に 4 でなければならず、それ以上でもそれ以下でもありません。

 しかし、神のご計画は数学のようには進みません。神のご計画には、誤り、失敗が必要です。 失敗なしに、私たちが崩れる道はありません。したがって、失敗は私たちの霊的教育課程において大変重要なのです。

 イエスは一度も罪や失敗を犯さなかった唯一の方です。しかし、私たち(私たちの中で一番優れている人でさえ) は、失敗を通して神によって砕かれなければなりません。ペテロとパウロでさえ、何度も罪や失敗を乗り越えなければなりませんでした。

 ですから、福音のメッセージを喜んでください、そして神の慈しみがあなたを悔い改めに導きますように。福音が神のうちにある喜びと完全な安息へとあなたを導いていただきましょう。その安息とは、神が「あなたをその愛する御子によって(永遠に)受け入れてくださった(エペソ1:6 - KJV)」ことを知ることによって得られる休息です。

 毎日、私たちは本当にたくさんの過ちを犯しています。偶発的にまたは無意識であっても、私たちは罪に陥ります。時には、私たちにかかる重圧が大きすぎて失望し、さらに罪を犯したくなることもあるでしょう。神はそのプレッシャーを理解しておられ、私たちの思いを十分に分かってくださっています。神は、私たちが「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)」神は私たちの人生にあるすべてのことを修正してくださいます。

 クリスチャンの生活は、人間の論理によるのではありません。それは天の父の奇跡を起こす力、完全な知恵、そして完全な愛に従って成り立ちます。

 自分の人生の各行を端を揃えようとタイプして、その端を完全に一直線にすることは誰にもできません。私たち一人一人を義としてくださるのは神のみです、どんなに善良な信仰者であっても。だれも神の前で誇ることはできません。

 また、私たちは人生の戦いで苦しみ挫折、失敗してしまった人たちを憐れむべきです。私たちは皆、自分自身も失敗を繰り返し、神から多くの憐れみをいただいてきたからです。

 最後に、イエスの名において、この言葉をあなたにお伝えしたい。

  あなたは今どこにいても、神があなたの人生に立てられた完全なご計画をあなたは実現することができます。 

 もし明日躓いてしまったら、すぐに悔い改めて神のもとに立ち帰れば、神は再びあなたを義としてくださいます。

 この福音が自分には向いていない、役に立たないなどと決して言わないでください。 偽り、律法主義の説教者、悪魔の言葉に長く耳を傾けてきた方はそう言いたくなるかもしれません。 彼らの言葉に耳を傾けず、彼らの本を読むのもやめて、これからは神ご自身と神の御言葉に耳を傾けてください。 神の御言葉を自分の口で言ってみるのも良いでしょう。

 試練の時にあなたの信仰が失われませんように。

主が私たちのために祈ってくださるように、私たちもお互いのために祈りましょう。

 章 2
失敗した人への完全な神の計画

過去のある時点で神に対して罪を犯し、神を裏切ってしまったために、自分の人生に立てられた神の完全な計画は成し遂げられと感じている兄弟姉妹がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 この問題について聖書が何と述べているかを見てみましょう。私たち自身の理解や論理的感覚に頼ってはいけません。

まず、聖書がどのように始まるかに注目してください。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記 1:1)天と地は、神が創造された時、完全であったに違いありません。なぜなら、神の手から不完全なものは何も生まれないからです。

しかし、神が創造した御使いの何人かは堕落しました。これは、イザヤ14:11-15 とエゼキエル 28:13-18 で説明されています。そして地は創世記 1:2 に記述されているように「混沌であって、闇…」(新共同訳)「茫然として何もなかった」(新改訳)という状態になってしまいました。

 創世記 1 章の残りの部分では、神が形のない何もない暗闇にどのように働きかけ、そこから神ご自身が良しと言われるほどの非常に美しいものをどのように作られたのかを説明しています (創世記 1:31)。 創世記 1 章 2 節と 3 節を読むと、神の霊が地上を動き、神が御言葉を発せられたことがわかりますが、これが重要なことです。

 今日の私たちへのメッセージは何でしょうか。私たちがどれだけ失敗したり、人生を台無しにしたりしても、神は御霊と御言葉を通して、私たちの人生から輝かしいものを生み出されるということです。

 神は、天と地を創造された時、それらに完全な計画を持っておられました。 しかし、ルシファーの堕落により、その計画を無効にしなければなりませんでした。しかし、神は天と地を作り直し、混乱の中から「非常に良い」もの創造されました。

 では、その次に何が起きたでしょうか。

 神はアダムとイブを作られましたが、その後もまたやり直さなければなりませんでした。 神は彼らのためにも完全な計画を持っておられました。もちろん、善悪の知識の木から食べるという彼らの罪は含まれていませんでした。 しかし、彼らは禁じられた木から食べてしまったので、神のご計画が損なわれました。

 論理的に考えれば、もはや人が神の完全な計画を実現することはできません。

 しかし、神が園で彼らに会いに来られた時、神は「あなたの後世は私の次善の策で生きていかなければならない。」とは言われませんでした。 いいえ、神は創世記 3:15 で、「女の子孫が蛇の頭を砕く」と彼らに約束されたのです。 それは、キリストが世の罪のために死に、カルバリでサタンに打ち勝つという約束でした。

 この事実を踏まえて、次のこと理論的に解決できるか考えてみてください。

聖句に「 …ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めから…」(黙示録 13:8) とあるので、キリストの死は世の初めから永遠において、すでに 神の完全な計画の一部であったことがわかります。

 また、アダムとイブが罪を犯した為 に、キリストが死ななければならなかったことも事実です。ですから、世の罪のためにキリストを地に送り十字架にかけるという 神の完全な計画は、アダムが罪を犯した為に成就したということになります。

 アダムの罪がなければ、私たちはカルバリーの十字架に示された神の愛を決して知ることはできなかったでしょう。

 ここで私たちの論理が覆されます。箴言3:5にあるように、自分の悟りに頼るべきではありません。

  神が数学的論理による方ならば、キリストが世にこられたことは人が罪を犯した後の神の苦肉の策だったと言わなければなりません。 しかし、それは神への冒涜であり誤りです。

 キリストの死は人間のためにたてられた神の完全な計画の一部でした。 神に間違いはありません。 しかし、神は全能で永遠であり、最初から終わりを知っており、常に私たちを愛して、静かにご計画してくださるので、神が私たちをどのように扱われるかを説明しようとすると、その人間の推論は失敗に終わります。

 神の思いは、私たちの思いと異なり、神の道は、私たちの道と異なります。

 その差は、天と地の間の距離と同じくらいかけ離れています(イザヤ 55:8, 9)。 ですから、神の道を理解しようとする時、巧妙な推論や論理を用いるべきではありません。

 では、聖書の最初のページから、神が私たちに伝えようとしているメッセージは何でしょうか。まさにこれは、神が失敗した人、罪に陥った人から何か輝かしいものを作り、その人に対する神の完全な計画を実現させることができるということです。

 それが人間への神からのメッセージであり、私たちはそれを決して忘れてはなりません。

 神は失敗を繰り返した人でも、神の完全なご計画を成就できます、神の次善ではなく最善のご計画を。

 失敗は、それを通して大切な教訓を人に教えたいという神の完全な計画の一部です。 私たちは神のことほとんど知らないので、これを人間の論理で理解することは不可能です。

 神が働きのために用いられるのは心砕かれた人のみです。 その私たちを打ち砕く方法の一つが、私たちの繰り返す失敗です。

 神が私たちに抱えている最大の問題の一つは、私たちが高慢にならないように私たちを祝福することです。 怒りに打ち勝ち、それを誇りに思うことは、それ以前よりも遥かに深い穴に落ちることです。 神は勝利の際にも私たちをへりくだった者に保たなければなりません。

 真の罪の克服には、最も深いへりくだりが伴います。そのへりくだりとは、繰り返される失敗によって自信が破壊され、神の恵みがなくては罪は克服できないことを確信できることです。

その上で克服できた時、決してその勝利を自慢することはできません。

 さらに、自分自身が失敗を繰り返した時、失敗した人を軽蔑することもできません。失敗した人を思いやることができるのは、私たちが数え切れないほどの失敗を経験して、自分の肉の弱さを知ったからです。 私たちは 「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」 (ヘブル5:2)。

 このようなメッセージを聞いて、論理的に考える人はこういうでしょう。

「では、善を現すためにもっと罪を犯そう。」

これに対して、ローマ 3:7, 8 (TLB) は、次のように言っています(英語)。

「あなたは、『私の不誠実さが、神の正直さを強調し神の栄光をもたらした』と言う。 もしあなたがその考えを貫けば、 私たちが悪いほど、神はそれを好まれるというでしょう。しかし、そのようなことを言う人々を神は公正に裁かれます。」

 いいえ、私たちは善が現れるために罪を犯すべきだと説いているわけではありません。 また、神の恵みを利用しながら、神に意図的に挑戦的に反抗し続けても、自分が蒔いたものを刈り取ることを避けることはできないのです。

 しかし、人間の論理では、堕落した人間に対する神の恵みを理解することはできないと私たちは言います。 神にとって不可能なことは何もありません。私たちが惨めに何度も失敗した後、私たちを神の完全なみこころに導いてくださいます。 私たちの不信仰だけがそれ妨げるのです。

 「しかし、私は何度も挫折して人生を台無しにしてきたので、 今さら、神が私を完全なご計画に導くことは不可能です。」とあなたは言われるかもしれません。 しかし、神は私たちが信じさえすれば、神にとって不可能なことは何もないと言われました。

「あなたがたの信仰のとおりになれ」は、すべての事柄における神の律法です(マタイ9:29)。 私たちは信じているものを手に入れます。 私たちのためにしてくださることは不可能なことだと私たちが信じるなら、それは私たちの人生において成就されません。

  その一方で、あなたはキリストの裁きの座で、あなたよりももっとひどい人生を歩んでいた別の信仰者が、彼の人生で神の完全な計画がしっかりと果たされたことを思い知るでしょう。その信仰者は、神が彼の崩れ落ちた人生の破片を拾い、それから「とても良い」ものを作ってくださると信じて疑わなかったからです。

 あなたの人生に対する神の計画を妨げたのは、あなたの罪、失敗ではなく(失敗がどれほどあったとしても)、あなたの不信仰であったことを知るその日、あなたはどれほどの後悔をするでしょうか。

 聖書の中の何年も無駄に過ごした放蕩息子の話は、神が失敗においても最善を尽してくださることを示しています。

 この父は、自分をひどく悲しまた息子のために、「最高のローブをすぐに持ってきてください」と言いました。 これが福音のメッセージです。新しい始まりです。一度だけではなく、何度でも。なぜなら、神は決してだれも見捨てられないからです。

 労働者を雇いに出かけた土地所有者のたとえ話(マタイ 20:1-16)も同じことを教えています。 11時間後に雇われた人が最初に報酬をもらいました。 言い換えれば、人生の 九十パーセント (11/12) を浪費し、永遠の価値に対して何もしなかった人でも、残りの十パーセントの人生で、神の栄光のために何かを行うことができたということです。 これは、挫折したすべての人にとって大きな励みになります。

「悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(1ヨハネ3:8)

 この聖句は、イエスが私たちの人生の「悪魔が結んだすべての結び目を解くために」来られたことを意味しています。

  次のように想像してみてください: 私たちが生まれた時、神は私たち一人一人に完璧に巻かれた紐の玉を与えたとします。 毎日の生活を始まり、私たちはその紐の玉から紐をほどき始め、絡まって結び目を作り始めました(罪を犯しました)。 何年にもわたって紐を解いていった今日、私たちは何千もの結び目を見て絶望しています。 しかし、イエスは「悪魔が結んだ結び目を解く」ために来られました。 結び目が一番たくさんある紐を持っている人にも希望があります。主はすべての結び目を解き、あなたの手に完璧な紐の玉を再び与えてくださいます。 これが福音のメッセージです。あなたは新しい始まりを作ることができます。

 「そんなの無理!」とあなたは言われるかもしれません。それはあなたの信仰次第です。あなたが無理と思われるならそれは不可能です。 しかし、あなたよりも悪い人生を歩んできた人が「はい、神は私にそのようにしてくださると信じます。」と言っているなら、彼の信じるとおりになり、神のご計画がなされるでしょう。

 エレミヤ 18:1-6 で、神は具体的な例えを通して、エレミヤに御言葉を語られました。 エレミヤは陶工の家に行くように言われました。 しかし、陶器師は器を作っては自分の手で壊していました。 彼は何をしていたのでしょうか。自分が気に入る器を作り直していたのです。

 そして主からこの問いがエレミヤに向けられます。「この陶器師のように、わたしがあなたにすることができないだろうか。」 (6節)。 (あなたの名前を当てはめてみてください。主のあなたに対する問いでもあります。)

 あなたの人生におけるすべての過ちに対して、敬虔を伴う悲しみがあるなら、たとえあなたの罪が緋のように、または深紅のように赤くても、旧約の下の約束のように(イザヤ1:18) あなたの心が雪のように白くなるだけでなく、新約の下の約束のように、神は「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」と言ってくださいます(ヘブル8:12)

 あなたの過ちや失敗が何であれ、あなたは神と共に新たな始まりを作ることができます。そして、過去に一千回の新しい始まりを作って、また失敗したとしても、今日1001回目の新しい始まりを作ることができます。 神はまだあなたの人生から輝かしい何かを作ってくださいます。 いのちがある限り希望があります。

 ですから、決して神への信頼を失ってはいけません。 多くの神の子たちが過去に失敗したからではなく、神を信じようとしない為に、神は彼らの間で力あるわざを行うことができません。

  これから先、今まで不可能と思ってきた事柄を主に信頼して、「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰す」ように心がけましょう。(ローマ4:20)

 お年寄りも若い人も、過去にどんな失敗をしたとしても、自分の失敗を認めてへりくだり、神に信頼するならば、すべての人に希望があります。

 このようにして、私たちは皆、自分の失敗から学び、自分の人生に対する神の完全な計画を実現することができます。

 そして、将来神は、人生で完全に敗北した人にどのような素晴らしいことをしてくださるのかを私たちを通して人々に示してくださいます。

 その日、神は「私たちの中で何ができるかをキリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって」(エペソ2:7)明らかにしてくださいます。 ハレルヤ!

アーメンとアーメン。