本当の真理

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 章
イントロダクション

ご存じでしょうか

素晴らしい神によって創造された世界で、どのように悪が始まったのかを。

あなたの良心はあなたの目と同じであることを。

魔術の力を打ち破ることができることを。

愛の神である天の父と話すことができることを。

神の助けを借りてすべての問題を克服できることを。

 章 1
悪について

人類が懸命に理解しようと努めてきた最大の謎の一つは悪です。全知全能の神によって創造された世界で、悪はどのように始まったのでしょうか。

 なぜ世界は悪に支配されているのでしょうか。そしてこの世はなぜ病気、貧困、悲しみ、そして苦しみで溢れているのでしょうか。神は私たちを助けることに無関心でおられるのでしょうか。

 これらの疑問には答えがあります。聖書は私たちにその答えを与えてくれます。まず先に進む前に、神に関する事実を明確にしておきましょう。

 神は、時間という枠を超えて永遠に存在し、始まりもありません。しかし、私たちはこの事実をなかなか理解することはできないでしょう。それは私たちの小さな頭に神の知恵を収めようとすることであり、不可能なことです。それはちょうど、海の水を全てコップの中に入れようとするのと同じです。

 聖書の最初の節は次のように始まります。

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。 (創世記は、神のみことばである聖書の六十六冊の本の最初の本です。この小冊子全体で括弧内に示されているすべての参照は、聖書の中の一冊から引用されています。)

 聖書は、神が永遠の昔から存在しておられたことを説明しようとはせず、ただ事実だけを述べています。

 また、聖書は神が私たち人間との個人的な関係を望んでおられるとも啓示していますが、神は私たちが「人」として理解できるような方ではありません。神は霊であり、神のご性質は常に不変です。神は全知全能で、無限の知恵と愛に満ち、そして無限に聖い方です。神の愛は利己的ではありません。神はご自分の喜びと栄光をだれかと分かち合いたいと強く望まれ、そのために生き物を創造されました。まず何百万もの御使いを創造されますが、これは人の創造よりもずっと前のことでした。

 それから神は、御使いの中から彼らのリーダーとなるべき御使いをお造りになります。彼の名前はルシファーです。その名前は、今では邪悪な名前と見なされますが、かつてはすべての御使いの中で最も輝かしく、最も賢く、最も美しい名前でした。ルシファーはすべての御使いの頭でした。

 主はルシファーについて次のように言われました。

「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。・・・わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」(エゼキエル28:12〜15)。

 神が創造された星や木とは異なり、ルシファーと他の御使いたちには、神に従うか従わないかを選択できる自由意志が与えられました。

 人が道義的な存在であるためには、この自由意志が必要不可欠です。

 星や木などの創造物には、自由意志がなく自分で選択することができないので、善も悪も行うことができません。それらは絶対的に神の法則に従うだけであり、神の子にはなれません。それは、科学者が製作したロボットが有無を言わず、ただプログラムされたすべての命令に従って動くだけで、その科学者の子供になれないのと同じです。

 次に必要なのは良心です。鳥や動物は、自発的に行動することができます。しかし良心がないので、聖くも罪深くもありません。ですから、道義的な存在である神の子供にはなれないのです。事実、鳥や動物があなたの子供になることはありません。あなたは自分の命令にすべて従うように犬を訓練することができます。しかし、あなたの息子があなたに性格がよく似ていても、この犬があなたの性格を受け継ぐことはありません。

 神はご自分に似た者に人を造られました。それは私たちが神の子になることができるということです。良心とは、私たちが道義的な存在であることを思い出させ、神の律法に反した際に罪を認めさせる内なる声です。

 御使いたちも、自由意思と良心が与えられていたので、神の創造物の中でも特別な存在でした。しかし、彼らの頭であるルシファーという御使いは、すぐに邪悪な考えや野心を持ち始めました。これが、この世界の悪の始まりです。

 ルシファーの心は不満に満ち、邪悪で高慢で反抗的でした。それまで宇宙は実に純然たるものでした。しかし、悪は自由意志のある創造物の心の中に頭角を現しました。

 悪は最初に心の中から生まれたことを覚えておいてください。外面的な要素ではありません。そして、悪は今日でも心の中から始まります。

 また、この世に最初に悪をもたらした罪は高慢、プライドであったことも覚えておいてください。神はご自分の御座からルシファーを追い出しました。そしてその瞬間からルシファーはサタン(悪魔)と呼ばれるようになりました。

 聖書はこうしてサタンの堕落を説明しています:

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。

密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12~15)

 しかし、ルシファーは自分が追い出される前に、他の御使いを自分の反逆に巻き込みんでいました。事実、天の御使いの三分の一という何百万もの御使いが彼に賛同しました。(これについては黙示録12:4に書かれてあります。)そして、神はルシファーとそれらの御使いたちを追い出されました。彼らこそが、今日人々を悩ませている悪霊(悪魔)です。あなたはそれらの悪霊や他からの呪術などによって悩まされているかもしれません。 しかし、あなたには聖書という福音があります。それはあなたをそれらの苦しみから永遠に、完全に解放してくれます。

 この冊子をよく注意しながらお読みいただければ、読み終わる頃には神があなたのためにどのような奇跡を成し遂げてくださるかをご理解いただけるかと思います。

 通常、私たちには「サタン(悪魔)が世のすべての悪の原因であるなら、なぜ神はサタンと他のすべての悪霊を滅ぼさないのか」という疑問があります。

 神はご自分が望まれるならばすぐに実行できる方です。しかし、神はそうされません。なぜなら、神は計り知れない知恵において、悪魔と悪霊の存在を許され、そこに目的をもっておられるからです。それはサタンによって、この世の人生が困難や不安、危険なものになることで、人々が神に立ち返り、この世の快適な暮らしではなく永遠のいのちに目を向けるようになるためです。

 もし、私たちの人生が病気や苦しみ、貧困などが全くない、ただの安住の地だったとしたら、神について考える人はほとんどいないでしょう。ですから、私たちが苦しみの時に神について考え、神に立ち返ることができるよう、神はこの世の人生の不幸や危険をお許しになられます。

 サタンがあなたの人生にもたらす問題、病気、試練でさえ、あなたが神に立ち返るために、いつくしみ深い神がお許しになっていることです。それらの困難はあなたへの神の愛の表れです。これが聖書のメッセージです。

 以前、ビジネスマンである兄弟の話を聞いたことがあります。彼はビジネスで成功しましたが、徐々に神から離れてしまいました。彼の教会の長老たちは何度も彼と話をして、彼が主の元に戻れるように努めました。しかし、この兄弟は自分のビジネスに夢中でした。

 しかし、ある日、毒ヘビが彼の三人の息子の末っ子に噛み付き、その子は危篤状態に陥りました。医者の目にもこの子の病状は絶望的でした。それから父親は教会の長老の一人に、子供のために祈ってもらえないかと頼みました。その長老の兄弟は賢明な人でこう祈り始めました。

 「主よ、このヘビを送ってくださり、この子が噛まれたことも感謝します。六年間、私はこの家族に、神について考えさせようとしましたが無理でした。しかし、このヘビは一瞬で彼らをあなたの元に立ち返らせたのです。

 主よ、今やこの家族は十分に教訓を得ましたので、どうかこの子を癒してください。そして、彼らが今後決してあなたを忘れることがありませんように。」

 ある日突然ガンなどの重病で病院に運ばれるまで、神のことを全く考えていない人もいます。そのような事態になってはじめて神について考え、救いを求めて神の元に戻ります。この世界の不治の病、病気、貧困、その他の多くの悪はすべて、人々を罪から立ち返らせるために神によって用いられてきました。

 このように、神は永遠の天の住まいを見い出すように私たちを導いてくださいます。神はサタンの手から私たちを救い、永遠の救いをもたらすために悪を用いられます。

神は、何度もサタンを利用しますが、最終的に彼らは私たちを落とし入れるために自分が掘った穴に自ら陥るのです。

 神がサタンの存在を許されるもう一つの理由は、神の子を聖くすることです。

 火について考えてみましょう。世界の歴史の中で、何百万人もの人々が火事で亡くなっています。それでも、私たちは火を使わなければ生活できません。食物が調理され、自動車や飛行機、機械が動くために火は必要です。金も火によって精錬されます。火は有害で危険ですが、幅広く利用されています。

 同じように、サタンは悪であり人々を貶めようとしますが、神はそれでもサタンを用いられます。サタンは、さまざまな困難や試練を通して神の子たちを試すことが許されています。このようにして神の子たちは火で精錬された金のように、聖い者へと変えられていきます。

 神は世界のすべての悪を一瞬で取り除くことができる方ですが、ご自分の目的を達成するためにこれらの悪の存在をお許しになっておられるのです。

 章 2
罪について

なぜ人はしばしば動物のような振る舞いをするのでしょうか。それは、彼らがただ欲求と自分自身にしか興味を持っていないからです。

 では、動物は何に興味がありますか。食事、睡眠、性的満足感だけです。そして、人もこれらのことにしか興味がないならば、動物と同じレベルということになります。

 しかし、神は人を動物ではなく神の似姿に創造されました。道徳的で正しく、品性と自制心を持つ存在であり、動物のような自己欲の奴隷ではありません。

 私たちが動物よりも賢くて、教養があるからといって、私たちが動物よりも優れているということでもありません。賢くて教育を受けた人々でさえ、貪欲で、利己的で、性欲や怒りの奴隷になっている人がいます。

 私たちには心よりも奥深い部分、つまり霊があります。私たちは霊によって神の存在を認知します。しかし、動物にはこの霊がありません。

 前の章で見たように、神は私たちを、自由に選択する力を持った道義的な存在として造られました。しかし、私たちが自分の思うままにその選択の自由を用いると、神の律法に背いてしまう危険性があります。それでも神は、自分の意志で神を選ぶ子供たちを望まれ、あえてそのリスクを負われたのでした。

 世界の混乱、疾病、そして悪は、人間が神に背き、悪魔に耳を傾けた直接の結果です。神が創造された最初の男女はアダムとエバでした。彼らが造られた際、全く純真なままでした。しかし、彼らは聖くあるかどうか自分で選ばなければなりませんでした。そのため神は、アダムとエバを誘惑することをサタンにお許しになり、悪ではなく神を選ぶ機会を彼らにお与えになりました。

 これについては、聖書の最初の本、創世記の第2章と第3章に書いてあります。

 純真さと聖さの間には大きな違いがあります。純粋さとは、赤ん坊のようなことをさします。赤ん坊は、無邪気で善悪を知りません。アダムが造られた時、彼はちょうどその赤ん坊のようであり、まだ、聖い者でも完全な者でもありませんでした。その小さな赤ん坊が完全な大人になるためには、成長過程で幾つかの選択をしながら悪を拒否して神を選んでいかなければなりません。

 私たちが心の中で誘惑に打ち勝つ度、私たちの品性は向上します。これまでの人生で行った数々の選択が、今日のあなたを作り上げているのです。

 あなたの周りの人の人格があなたよりも優れている場合、それは彼らが、人生の中でより良い選択をしてきたからです。私たちは皆、毎日様々な選択を迫られています。そして、それらの選択は最終的な私たちの姿を決定付けます。

 神が最初に男女を創造された時、神はサタンの誘惑を通して彼らが聖くなるための機会を設けられました。神はアダムとエバを園に置かれ、一本の木を除いては他のすべての木から食べてもよいと言われました。実際これはとても単純なテストでした。彼らは、美味しそうな果物が実る何千もの美しい木々がある園に置かれ、一本の木の実以外はすべてを食べてよいと言われました。

 しかし、彼らは神のことばに従うかどうかという、このテストに失敗してしまいます。なぜなら、サタンがその園に来てアダムとエバを誘惑し、彼らがその禁じられた木の実を食べたら神のようになれると言ってきたからです。その時、二人が受けた誘惑は、「その木の実を食べたい」という単純なものではなく、「望むなら神のようになれる」ということでした。

 それはサタン自身が望んでいたことでした。そして、サタンは二人をそそのかします。もちろん、サタンが言ったことは偽りでした。今日もサタンは人々をそのような嘘で欺き、人々もアダムとエバのように安易に騙されています。二人は神に背き、サタンが以前に経験した同じ結果に苦しみました。その後、二人は神の臨在から追い出されてしまいました。

 その出来事の詳細は、聖書の最初の本、創世記の第3章にかかれてあります。

 アダムとエバは、神の命令に背くことで、神ご自身のように全能で自由になれるだろうと考えていました。しかし、彼らは自由になったでしょうか。いいえ。彼らはただサタンの奴隷になってしまいました。

 私たちは神の御言葉に聞き従うことによってのみ、私たちは本当の意味で自由になれます。

 このようにしてサタンは今日も多くの人々を欺いています。彼は、人生を思う存分楽しみたいなら神の律法を無視するべきだと人々に促します。

 このようにして罪は人類の中で始まりました。その日、エデンの園でアダムとエバが下してしまった深刻な決断は、彼ら自身とその子供たちの生涯にも大きく影響しました。

 人生におけるすべての決断は、相応の結果を生み出します。私たちは皆、自分で蒔いたものを刈り取ります。そして私たちの子供たちは、私たちの蒔いたものからできた苦い実を刈り取らなければなりません。アダムの場合、彼と妻はその後の生涯、神の臨在から引き離されてしまいました。

 ですから、今日、どんな些細な選択も大して重要ではない、将来、今自分が蒔いている種を刈り取ることなどないと思ってはいけません。私たちがこの世のどんな物よりも神を望むという思いに至るために、神は私たちが様々な人々や状況を通して、試練を受け誘惑されることを許されます。それがすべての試練の目的です。私たちが創造物よりも創造主を求めるかどうかが試されます。

 すべての罪の本質は、神よりも創造物や私たち自身を選ぶことにあります。神の道ではなく、自分の道を選ぶということです。神の御心に沿ってではなく、自分の思うままに生きることです。罪は姦淫や殺人、盗難を犯すということだけではありません。小さな子供の頑固さの中にも、罪の始まりが見えます。罪は生まれてくるすべての子の性質の中にあります。そして子が成長すると、自分の我を通し、欲しいものを手にいれるために他の子たちと喧嘩もします。

 私たちは大人になっても、子供の頃の性質はあまり変わりません。私たちは賢くなって方法を変えるだけです。教養のある人でさえ同じです。彼らはただ自分の利己主義、貪欲さ、欲望をうわべだけの品格、時には宗教などで覆い隠します。

 罪は私たちの人格の隅々まで広がっており、それらを断食や祈りなどの宗教的行為、巡礼や自制心によって取り除くことはできません。神だけが私たちを罪から救うことができます。

 しかし、神は私たちが罪は悪であると認識するまで待たなければなりません。イエスは、正しい人ではなく罪人を招くために来たと言われました。これは、世の中には正しい人もあり、罪人もいるという意味ではありません。イエスはそのことを皮肉にも、自分たちは聖人だと思い込んでいる、自己正義的な宗教家たちに話されました。イエスは、自分を「正しい人」と思っている人々を救うことはできないと言われたのです。

 自分が病気だと認めた人だけが医者に行きます。ですから、私たちは最初に自分が罪人だと認めなければなりません。

 私たちがどんな宗教を信仰していようと、私たちは皆、罪人に変わりありません。私たちは、思考、言葉、行い、態度、動機において、神の聖なる律法に反しており罪を犯しています。私たちは神の神聖な基準に到底満たないのです。

 病気が体に与えるダメージよりも、罪が魂に与えるダメージの方が深刻です。しかし、私たちはこれを認識しているでしょうか。それは目に見えません。しかし、罪の影響は病気の影響よりもはるかに重大です。罪は私たちのいのちを破壊し、この世においても、私たちを不幸にします。そして私たちが罪から救われなければ、私たちは永遠に滅びてしまうのです。

 章 3
良心について

私たちは皆、良心とともに創造され、その良心によって、私たちは善悪の区別ができる存在であると自覚します。良心は私たちの内にある神の声であり、私たちに自分の行動に責任があることを教えてくれます。そして、いつか私たちは自分がどのように生きてきたかを神に説明しなければなりません。

 私たちは良心のない動物とは違います。理性のない動物は神に大して何も答える必要はありません。動物が死ぬとそれで終わりです。しかし、私たちにとってはそうではありません。人は神のかたちに創造された永遠の存在です。

 私たちには、さばきの日というものがあります。その日、私たちが一生の間にしたこと、言ったこと、考えたことはすべて私たちの心に戻され、神によって評価されます。そして、神は聖書にある神の律法の基準に従って私たちを裁きます。それから私たちは、自分の行動、言葉、考えについて神に弁明しなければなりません。

 聖書は、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と述べています(ヘブル9:27)。

 多くの人は、この世で犯した犯罪に対する罰を免れているかもしれません。しかし、最終的に神の裁きの座の前に立つ時、それらの罰から逃げることはできません。

 また、この世ではあなたの人への善意の行為が感謝されたり、報われたりしないかもしれません。しかし、キリストがこの地に戻って来られる時、あなたはその報いを受けるのです。

 私たちは自分のこの世での生き方、行いについて、いつの日か神に弁明しなければなりません。ですから、いつでも良心の声に耳を傾けることはとても大切です。

 良心は、神から私たち人間への、最も素晴らしい贈り物の一つです。それは私たちの体に感じる「痛み」のようなものです。私たちは大抵、痛みは煩わしいものと捉えます。そして、その痛みが私たちのいのちにとってどれほど素晴らしいものかに気づいていません。

 体に異常があることを教えてくれるのは痛みです。それは体からの最初の合図であり、私たちに病気を知らせます。痛みがなければ、いつ病気になったかさえわからず、そのまま死んでしまう可能性もあるでしょう。そのような非命の死から私たちを救ってくれるのは痛みです。

 ハンセン病は神経、すべての感覚を破壊する病気であり、その患者は痛みを感じません。ハンセン病患者が足に釘を刺しても、痛みを全く感じません。しかし、足は感染症にかかってしまいます。しかし、このハンセン病患者はその感染症に気づくことができません。最終的には、彼の足の傷はひどくなり、それを切断しなければならなくなるでしょう。なぜなら、この患者は「祝福の痛み」を感じることができないからです。

 良心は痛みのようなものです。私たちが神の律法に反する時、つまり罪を犯そうとしている時、またはすでに罪を犯している時、良心は私たちに警告します。私たちがその警告を無視して反抗し続けると、心の内側にある罪の意識が徐々に消えていきます。そしてついに、罪に対する感覚、良心を完全に失ってしまいます。そして、良心のない動物のようになります。これが動物よりも邪悪な行動をとる人がいる理由です。 

 そのような人生が最終的にもたらすものは、神による永遠のさばき、罰です。

 私たちはその良心の知らせによって皆、自分が罪人であることを悟ります。その罪悪感は「祝福の痛み」であり、決して振り払ってはいけません。それは私たちが霊的に病んでおり、癒される必要があることを教えてくれます。良心は神から私たち人間への最高の贈り物です。

 イエスは良心を目に例えられました(ルカ11:34〜36)。私たちの目は、涙によって毎日何度も何度も洗われているので、体の中でも最も清潔な部分です。

 私たちが瞬きする度に(私たちは気付かないうちに1日に何千回も瞬きしています)、目のすべてのほこりは洗い流されています。ほんの少しのほこりでも目に入ったら、目をきれいに洗うまで何も手につかないほど、私たちは強い刺激を感じます。

 これと同じように、私たちは"常に清潔に"良心を保たなければなりません。

 私たちの罪は、神によってのみ赦され、清められることができます。それが私たちの良心が罪の意識から解放される唯一の手段です。

しかし、罪の赦しというのはそんなに安価なものではありません。

 章 4
赦しについて

では、神はどのようにして私たちの罪をお赦しになるのでしょうか。

 神は正義の神であり、罪を見過ごして人を赦すことはできません。それは不義だからです。神は聖なる義の神であり、罪は罰せられなければなりません。

 しかし、神は愛の神でおられるので、私たちの罪が赦される道を作ってくださいました。

 すべての宗教は私たちに正しく、親切で、誠実であるように教えます。しかし、これらはすべて、罪の赦しを受けた後の生き方に関わることです。善良さ、優しさ、誠実さはすべて、建物の上部構造です。最も必要な建物の土台は罪の赦しです。

 神が私たちの罪をお赦しになるためになされたことは、世界を創造された時よりもより困難と苦痛を伴うものでした。

 神は一言で素晴らしい世界を創造されました。しかし、神は一言で、私たちの罪をお赦しになることはできません。

 人間の罪が赦されるとしたら、方法は一つしかありません。

 神は私たちのような人にならなければなりませんでした。神は人間として、私たちの誰もが直面する誘惑や試練を乗り越え、私たちの身代わりとなって死んで、私たちの罪に対する罰を負ってくださいました。

 罪に対する罰は、苦しみや病気、貧困、最下層の社会に生まれ変わることでもありません。永遠の死です。それは永遠に神から離れるということです。

 肉体の死によって、私たちは肉体から離れます。霊の死も同様、私たちはすべてのいのちの源である神から永遠に離れてしまいます。

 あなたがこの先、いくら良い行いをしたからといっても、あなたの過去の悪を決して贖うことはできません。罪は、私たちが神の律法に負っている負債のようなものです。国の法律に違反して税金を納めない場合、後で払うからといって許されることはありません。また、後になって税金を納め始めても、過去の未払いの税金は払わなけばなりません。それは罪についても同じです。将来、どんなに良い行いをしても、過去の罪の代価は支払わなければなりません。

 聖書には「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と書かれています(イザヤ64:6)。

 神は良い行いを喜ばれます。しかし、私たちの最善の行いでさえ、神の神聖さに達しません。なぜなら、神の神聖さは無限だからです。ですから、私たちは事実、絶望的な状態にあり、私たちが神の臨在に入ることは不可能です。

 しかし、大いなる愛の神は、私たちの罪が赦される道を作ってくださいました。

 神は人知をはるかに超えた方であり、私たちの能力で理解できるようなお方ではありません。聖書は神を一つとして啓示していますが、その一体性の中に、父、子(子が父を通して生まれたという意味ではなく、父と同じ性質を持っているという意味です。)と聖霊として知られている三者がおられます。全てが同じ方を意味します。私たちの心は、別々の三者が一つの神であるということをなかなか把握できません。なぜなら、私たちには別々の体を持っている一個人という概念しかないからです。

 しかし、神は霊です。限度のある私たちの能力で、超越した神のご性質を理解することはできません。

 犬が人間を理解できないように、私たち人間も、神が聖書の中で私たちに明らかにされていること以上は神のことを理解できません。

 例えば、頭の良い犬の前に三つの骨を置き、一つずつ数えることで、1 + 1 + 1 = 3という足し算を説明できるかもしれません。しかし、最も賢い犬に1 x 1 x 1 = 1という掛け算を説明しても理解できないはずです。しかし、私たち人間は、三つある一が互いに掛け算されても一になることは誰もがよく知っています。

 このように私たち人間は犬よりも優れていますが、それ以上に神は私たちをはるかに超えたお方です。犬が掛け算を理解するためには、彼らが人間にならなければならないように、私たちも神を完全に理解するためには、神にならなければなりません。

 ですから、神が三位一体の神であることを理解できなくても当然なことです。しかし、私たちは、神ご自身が御言葉でそう言われているので事実として知っています。

 同じように、人は人間の論理によって、神がどこにでもいるというならば、すべての人間、動物、植物、宗教的礼拝所に存在するはずだといいます。これは、神の真理を理解できない人間には理にかなっているように聞こえます。

 しかし、それは完全に誤りです。神は、どこで何が起きているか全て知っておられるという意味で、"どこにでもおられる方"です。しかし、神は地獄で何が起こっているのかご存知であっても、地獄にはおられません。地獄(罪人に対する永遠の罰)の本来の意味は、「神のおられない場所」であり、そこでの罪人の苦しみは耐え難いものです。神が全てに存在されないのは明らかです。

 私たち人間をその永遠の罰から救うために、父なる神は、二千年近く前に、御子をお遣わしになりました。その子は聖霊の超自然的な働きによって処女を通して誕生しました。そしてこの赤ん坊はイエス・キリストと名付けられました。

 イエスはすべての人間が直面するあらゆる誘惑や試練を経験し克服して、子供から大人へと成長しました。しかしイエスは決して罪を犯しませんでした。

 父なる神は、三十三歳であったご自分の子であるイエス・キリストが邪悪な人々に捕らえられ、十字架につけられることをお許しになられました。イエスは十字架上で、私たちの罪に値するのろいを、身代わりとなってお受けになり、人類の罪の罰をその身に負われました。それは神の偉大な愛そのものです。

 イエス・キリストが十字架で血を流され死なれた時、私たちの罪に値する罰は完全に支払われました。義の要求が全うされたのです。

 神はイエス・キリストが埋葬されて三日後に死からよみがえらせ、十字架での犠牲が受け入れられたことを世界にお示しになりました。

 神は唯一であり、この地球上に肉体をもって現れた神はただ一人、主イエス・キリストであるということは、次の二つの事実によって証明されています。

⒈主イエス・キリストは、世の罪のために死んだ唯一の方です。

⒉主イエス・キリストは、死んだ後に蘇り、二度と死を経験されなかった唯一の方です。したがって、人間の最大の敵である死に打ち勝ったことが証明されました。

 地上でさらに四十日過ごされた後、イエスは今日もおられる天の御国へと戻られました。

イエスはこの世を去る前に、再度この地に戻って世界を裁き、義と平和で治められると約束されました。イエスは地球に戻る前に起きる特定のしるしを私たちに教えてくださいました。これらのしるしが、今実際に起きているのを見れば、キリストの再臨が非常に近いことがわかります。

 ですから、イエスが地上に戻って来られる前に、私たちがキリストによって与えてくださる許しを受けることは重要なことです。

 章 5
悔い改めについて

罪に対する罰は霊的な死です。これは、私たちの霊が神の臨在から永遠に切り離されるということであり、イエスが十字架の上で経験されたことです。彼は天の父に見捨てられてしまいました。

 神であり、永遠におられるイエスは、十字架上での暗黒の三時間、父から完全に切り離されるという苦しみを身をもって経験されました。それは、私たちが本来永遠に受けるはずの地獄での苦しみです。

 私たちの罪に対する罰はイエスによって取り除かれました。しかし、私たちが神からの赦しを受け入れないならば、私たちは赦されず、罰から解放されることはありません。キリストが私たちのために死んでくださったにもかかわらず、世のほとんどの人々が赦されていない状態にあるのはこのためです。

 キリストは、クリスチャンの罪だけでなく、全世界の罪のために、あらゆる宗教の人々のために命を捧げてくださいました。

 神がキリストの死を通して、買取ってくださったものを受け取るためには、まず罪を悔い改めなければなりません。これは、自分の罪深い生き方を心から悔いて、そして自分が知りうるすべての罪から立ち返りたいと望むということです。

 はじめは、あなたの良心は何が神を喜ばせ、何が神を悲しませるか決められるほど鋭くありません。ですから、あなたが神を悲しませるすべての要素から完全に立ち返ることは不可能です。また、神はそれを求めてはおられません。神は現実的な方です。神はそれらから離れたいという熱意をあなたに望んでおられます。良心によってはっきりと示されることから始めてみましょう。

 しかし、自分の悪習慣をやめるあなたの意志は強くないかもしれません。この点でも、神はあなたのその弱さも完全に理解しておられます。神はあなたにそれだけの強さがあるとは思っておられません。神はあなたに「あなたはそれをやめたいと思っている?」と尋ねられます。

 あなたが誠実に、本当に罪深いことすべてを捨て去りたいと望み、それを神がご覧になれば、たとえあなたがまだ悪習慣に何度も負けてしまっていても、神はあなたをそのまま受け入れてくださいます。本当に素晴らしい福音です。

 また、あなたが過去にした過ちを整理しようとするあなたの意欲こそ、あなたが自分の古い罪深い生き方をやめようとしている証拠です。そしてここでも、神はあなたの限界を理解しておられます。

 あなたが過去に犯したかもしれない何千もの間違いや罪があり、あなたがどんなに一生懸命努力しても、あなたはすべてを清算できません。しかし、できることもいくつかあります。あなたができる範囲の中で償うことも神の御心です。

 例えば、誰かからお金を盗んだことがあるならば、その金額を貯金してすぐにその人に返すべきです。あなたが言葉で誰かを傷つけたことがあるなら、その人のところに出向いて、(手紙を書かくのもいいでしょう。)許しを求めましょう。

 このような行動は神にとって、あなたの誠実さと謙遜さの指標となります。神はへりくだった人だけを助けてくださいます。そして、神の助けがなければ、私たちは救われることができません。

 聖書は真の悔い改めを「偶像から神に立ち返る」ことと言っています(1テサロニケ1:9)。偶像崇拝とはどういうことでしょうか。

 それは主に、創造物を創造主の上に置くことです。それが創造されたものがお金であろうと、きれいな女性であろうと、自分の名誉であろうと、何であろうと。

 そのような創造物を選ぶことは偶像崇拝です。なぜなら、それは創造主の代わりに創造物を礼拝することになるからです。そして、それはすべての罪の根源です。神はそのような偶像崇拝を憎んでおられます。なぜなら、偶像は神がおられるはずの人の心にその位置を占め、人を滅ぼすからです。

 偶像はまた、礼拝対象の神として、人間の手によって作られた物理的な物体もあります。しかし、美しくて素晴らしい全能の創造主を手で作ったり、絵に描いたりすることは不可能です。創造主である神に、神の創造物に似せて神のイメージを作り上げることは神への侮辱です。

 神は霊であり、肉眼では見えません。神は昼も夜もご自分を思い出させようと、私たちに良心を与えてくださいました。しかし、宗教活動や巡礼が、良心の声を聞くことに置き換えられてしまっています。

 人々が神の律法に反しそれを続け、さまざまな宗教的活動や儀式を行うことで、良心の声を抑えつけようとします。このような人は、自分は犠牲を払い、巡礼しているから、神は自分の多くの罪を赦してくださると思っています。しかしこれは偽りです。

 神は私たちの宗教的な儀式や活動を見ておられるわけではありません。神は私たちの心を見て、私たちが良心に耳を傾けているかどうかを見ておられます。

 ですから、悔い改めとは、あらゆる種類の偶像崇拝から立ち返ることです。真の悔い改めとは、私たちはすべての創造物から創造主に立ち返り、「全能の神よ、あなただけが礼拝され、仕えられるべき方です。今まで、創造物を崇拝してたことをどうぞお許しください。今からの私の人生にとってあなただけが一番大切なお方です。」と言うことです。

 悔い改めは、私たちが仕事や家族を犠牲にして、仙人のように森や山に住まなければならないという意味ではありません。

 神は私たち誰もが家族を持ち、彼らのために働くことは神の御心です。お金を稼ぐことは罪ではありません。しかし、神よりもお金を愛することは罪です。

 現代文明による快適で豊かな生活を送ることは罪ではありません。しかし、私たちが神よりもそれらによって喜びや満足感を得ようとするのは罪です。

 神は私たちの体を、食事や睡眠において、また性的にも満たされるように創造されました。これらのいずれにも問題はありません。お腹が空いたり疲れたりすることと同様に、性的欲求も恥じることはありません。

 しかし、お腹が空いたからといって食べ物を盗んだり、仕事中に寝たりすることは好ましくないことです。同様に、性的欲求を満たしたいからといって、他人を犯してはなりません。神は、性的欲求を満たすことができるようにと結婚を命じておられます。一人の男性には一人の妻がいることが望まれます。結婚以外での性的関係は罪です。私たちはすべての性的な罪を悔い改め、完全に断ち切って、誠実に神に立ち返らなければなりません。

 あなたが悔い改めなければならないもう一つの罪は、人への愛のない態度です。あなたが神に自分の罪を赦してもらいたいと思っておられるなら、自分を傷つけたすべての人を喜んで許さなければなりません。

 神があなたにしてくださったことを、他の人に行うべきです。あなたが許さないのならば、神はあなたを許してくださいません。

 主イエス・キリストは言われまし、

「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:15)。

 自分をひどく傷つけた人を許すことは難しいことです。しかし、その人を許すのを助けてくださるよう神に祈ることができます。

 神が全能の力であなたを助けてくださるので、あなたは彼らを許すことができます。私たちの罪がどんなに大きくて邪悪でも、私たちが本当に罪を悔やみ、過去の罪深い生き方をやめたいと悔い改めるなら、神は私たちのどんな罪をも許してくださいます。

 章 6
信仰について

 私たちが悔い改めた後、次に神の赦しを受けるために必要なものは信仰です。

聖書にはこう書かれてあります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)。

 恵みとは、神の助けと祝福を私たちに与えようと差し伸べられる神の手です。信仰とは、神の手からそれらを受けとるために差し出す私たちの手です。

 前に見てきたように、私たちがプログラムされた作業だけを行う心のないロボットになることは神の御心ではありません。私たちは自分で選ぶことが求められています。

 あなたは、神があなたを本当に愛してくださる素晴らしい神であると信じますか。

 あなたは、神が御子、主イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪のために十字架にかかってくださったこと、神が三日後に彼を死から蘇らせたこと、そしてイエスが今日、天の御国におられることを信じますか。

 あなたがもしこれらのことを信じるならば、あなたはすぐに神からの許しを受けることができます。

 罪からの救いは、主イエス・キリストの御名以外にありません。もしあなたが、イエス・キリストを主であり救い主として受け入れたいのならば、結婚と同じように、「全てのことから離れて、イエス・キリストにのみに信頼し一つになる」必要があります。これはちょうど、女性が結婚する時、以前の恋人を全て忘れて夫となる一人の男性を愛し、彼と共に残りの人生を歩まなければならないことと同じです。

 聖書は、私たちと主イエス・キリストとの関係を、霊的な結婚に例えています。主イエス・キリストだけが神である私たちの夫となるのです。ですから、あなたはキリストを受け入れた後に、まだほかの神々を礼拝したり祈ったりはできません。あなたは自分で決めなければなりません。

 あなたがもし、イエス・キリストを選ぶならば今がその時です。

 ひざまずいて目を閉じ、以下のように神に話しましょう。神はあなたがどこにいてもあなたの声を聞いておられます。そして神はあなたの話を聞きたいと望んでおられます。意味を噛み締めながらゆっくりと言ってみましょう。

「主イエス・キリストよ、私は罪人です。私は本当にすべての罪から立ち返りたいのです。あなたが私のすべての罪のために死に、死からよみがえり、今日も生きておられると私は信じます。

 私のすべての罪を赦してください。私の心といのちにどうか入ってください。今日から私の人生の主となってください。私は他のすべての神を捨て、これからあなただけを礼拝します。」

 1分もかからない、とてもシンプルな祈りです。しかし、真摯に祈れば、あなたの魂は永遠に救われ、あなたはすぐに神の子になとなれるのです

 これは、オウムのようにこれらの言葉を繰り返せば皆が祝福されるというような、魔法の決まり文句ではありません。重要なのはあなたの心の誠実さです。あなたが本心から祈るならば、神はあなたの罪を赦し、あなたを受け入れ、あなたを神の子にしてくださいます。あなたが不誠実ならば、何も変わりません。

 神は決して誰にも、キリストを受け入れるよう強制されません。そして、真のクリスチャンもキリストを受け入れるように誰かを強制するべきではありません。強制的な変化では何もかわりません。

 自分が本当に神に赦され、受け入れられ、神の子になったという確信は非常に重要です。私たちにその確信がないままでいることを神は望まれません。そのため、私たちの心に来て、私たちが神の子であると告げてくださる聖霊を通して、また、御言葉(聖書)のなかの約束によって、神は私たちにその確証を与えてくださいます。

 主イエス・キリストは言われました、

「そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:37)。

 私たちは永遠にこのキリストの約束を信頼することができます。

 上記の祈りをイエス・キリストに対して心から祈られたでしょうか。

 もし、あなたが真剣に祈ったならば、あなたはイエスのもとに戻ったということです。そして、イエスは決してあなたを拒まれない方だということがおわかりになったでしょう。イエスはあなたを受け入れてくださいました。あなたが自分で神の元に来たならば、神ご自身があなたを受け入れてくださったことがわかるはずです。

 神に受け入れられているかどうかについて、あなたの感情に頼る必要はありません。感情は私たちのからだと関係していますが、霊的な事柄において私たちを欺きます。

 感情に頼ることは、砂の上に家の基盤を築くようなものです。私たちは神の御言葉にある神の約束に信仰を持たなければなりません。そしてそれは、岩の上に建物を建てることと同じです。

 自分が神の子になったことを確信したら、その事実を公に告白する必要があります。聖書は、自分の心が信じていることを自分の口で告白しなければならないと言っています。ですから、あなたは、イエス・キリストがあなたの救い主であり、主であることを告白する必要があります、キリストがあなたの罪を赦され、キリストがあなたの人生の唯一の主であることを友人や親戚に伝えなければなりません。

 次に、バプテスマ(洗礼)を通してキリストとの関係を告白します。キリストに心と命を委ねると決めた後、できるだけ早くバプテスマを受けるのが好ましいでしょう。バプテスマは宗教的な儀式ではなく、神、人、御使い、そしてサタンへのイエス・キリストだけに属していることの証しです。

 バプテスマでは、別のクリスチャンが父、子、聖霊の御名によって(川か水槽などで)完全にあなたの全身を水に浸し、そして再び水から引き上げます。この行為によって、あなたは古い自分はいなくなったことを証しします。完全に水の中に沈むことは、古い自分を葬り去ったことを意味します。

 水から引き上げられる時、あなたは新しく生まれ変わり(霊的には死からよみがえるということ)、神のみに従うことを望みます。あなたはまだ、完全な人ではありません。完全になるには一生かかります。しかし、あなたは自分の人生の方向転換をすることができました。今、あなたは罪を犯したり、神を悲しませたくないと願っていることでしょう。あなたは天の御国の民、神の子となったのです。

 章 7
救いについて

「イエス」という名前は「救い主」を意味します。

 イエスは救いを達成するために、この名前で世に来られました。人々を罪から救うために。救いは赦し以上のことです。

以下の場面を使ってその違いをご説明したいと思います。

 私の家の外の道路が工事中で、そこに深い穴が掘られたとしましょう。そして親である私は幼い息子に、「その穴の近くに行ったら危険だからだめだよ。」と警告します。しかし、息子が私の命令に従わず、穴に近寄って中を覗き込み、誤って穴の中に落ちてしまったらどうでしょう。私が十フィートの穴の下にいる息子の元へ駆け寄ると、息子は私のいうことを聞かなくて悪かったと謝り、赦しを求めます。もし、ここで私が「大丈夫、赦してあげるよ、じゃあ!」といって去ってしまったらどうでしょうか。私は息子を赦しましたがしたが、救いませんでした。

 救いには赦し以上のものが含まれます。それは落ちた穴から息子を引き上げることです。

 イエスが私たちのためになされたことはまさにこのことです。イエスは私たちの罪を赦すだけでなく、私たちを罪から救うために来られました。

 私たちは皆、何度も良心に逆らい、完全に深い罪の穴にいます。神がそんな私たちを赦してくださるということは、素晴らしい知らせです。しかし、キリストの福音は、神が私たちを赦すだけでなく、罪の力から私たちを救ってくださるということです。

 過去、現在、未来の三つの時制で私たちは救いを経験します。

 まず、過去の罪に値する罰から救われなければなりません。次に現在の罪の力から救われ、最後に、将来私たちが天国に着くとき、私たちは罪の存在そのものから救われていなければなりません。

 最初の救いは、罪の赦し、つまり過去の罪を取り除くことです。

 しかし、それだけでは十分ではありません。今後、御心に沿って正しく生きるためには、神様の助けが必要です。そしてこのために、神は私たちに神の力を与えてくださいます。

 精神的に病んでいる人が治療のために入院する精神病院について、こんな話を聞いたことがあります。病院は、患者が理論立てて考えられるまで治癒したかどうかを調べるテストを行いました。患者は蛇口から絶えず水が出ている部屋に案内されます。それからモップとバケツが与えられ、床を拭くように言われます。最初に蛇口を閉めずに床を拭こうとするならば、その患者の理性が戻っていないということです。

 私たちも同じ問題を抱えています。私たちの内には、絶えず罪が溢れ出ている蛇口があります。イエスは私たちが犯した罪を取り除くだけではなく、その蛇口を閉じる力を与えてくださいます。そうでなければ、福音はまったく良い知らせではありません。

 福音(良い知らせ)は聖書の中で「救いのための神の力」と表現されています(ローマ1:16)。力の源は第一に神の御言葉です。聖書は、私たちが誘惑や試練を克服するのを助けてくれる強力な武器です。聖書の中にも、イエスご自身が神の御言葉の力によって、サタンの誘惑に打ち勝ったと書かれてあります(マタイ4:1から11)。

 ですから、毎日神の御言葉を読む習慣を身につけましょう。そうすれば、神は聖書に書かれてある御言葉を通して私たちに語りかけ、日常生活の戦いに立ち向かえるよう私たちに力をくださいます。聖書は若い人に、「あなたは強く、神の言葉を心に留めており、サタンとの闘いに勝ちました」と述べています(1ヨハネ:14)。

 第二の力の源は、私たちの内に来て住まれる神の聖霊です。聖霊は私たちの内に永遠に住まわれ、毎日私たちに語りかけ、人生の困難に立ち向かうための力となられます。 そして、私たちがイエスの弟子として、彼の生き方に倣うために助けてくださいます。私たちを常に聖霊で満たしてくださるよう、神に求めましょう。

 主イエス・キリストは、「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました(ルカ11:13)。

 第三の力の源は、志を同じくする他のクリスチャンとの交わりです。

 たくさんの石炭がかたまって火の中にある時、それらは赤くなって燃えつきます。しかし、その中の一つを取り出すと(たとえそれが最も明るく燃えているものであっても)、その火は消えてしまいます。他のクリスチャンとの交わりなしに、一人で神のために生きようとすると、私たちにも同じことが起きてしまいます。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、「クリスチャン」と名乗る人がすべて本当のクリスチャンであるとは限らないということです。

 実際、自分たちをクリスチャンと呼ぶ人の九十パーセントは、神の子ではないと言っても過言ではありません(そのグループや宗派が何であれ)。自分の罪の性質をあきらめ、キリストを自分のいのちの主として受け入れるという個人的な決心をしていない人が多く見られます。たまたまクリスチャンの家庭に生まれた人が、自分たちはクリスチャンであると思い込んでいます。

 名前だけがクリスチャンであるような人々を避け、経験によってクリスチャンになり、日常生活の中でイエス・キリストに従いたいと願う人々との交わりを求めなければなりません。

 キリストを救い主として受け入れ、神の子になった私たちは天から生まれた(英文聖書)と聖書は言っています。神は今、私たちの父です。そして、この世の父親と同じように、神もまた、霊的にも物理的にも人生の必要なものすべてを私たちに与えてくださいます。

 主イエス・キリストは、私たちが自分の人生において、神の御心をまず第一に求めるならば、この世の人生に必要なものはすべて私たちに与えられると言われました。

 イエスは言われました。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:32、33)。

 神の子が持っている最大の特権の一つは祈りです。私たちが祈ることによって、全知全能の神と話しができ、霊の中で神の御言葉を聞くことができます。神は通常、実際に耳で聞こえる声で語られることはありませんが、神の声はその声と同じくらい私たちの内なる霊に強く響きます。イエスは私たちに、心の内にあるすべてのことを神に話すように勧められました。

 多くの人は、悲しみを分かち合う人がいないため、一人静かに苦しんでいます。しかし、神の子には、全てを分かち合うことのできる天の父がいます。そして、世での生活で必要なすべてのものを備えてくださる天の父に頼ることもできます。

 主イエス・キリストは、物事を変えてくださるよう神に頼むことによって、それらが変えられると私たちに教えられました。これが祈りによる奇跡です。何かが自分や家族に何らかの形で害を及ぼしている場合、私たちは起こるすべてのことを運命だと諦める必要はありません(「起こることは全て神の御心だ」と言って)。宿命論は神の御心への従順とは異なります。私たちは必要なことは何でも、神に求めることができます。

 「神はあなたのすべての必要を満たしてくださる」(ピリピ4:19)、これが聖書の約束です。 

 しかし、世の良き父親のように、神も私たちが求めるものすべてをお与えにはなりません。神は私たちに必要なものだけを、神が見て、私たちにとって良いとおもわれるものだけを与えてくださいます。

 神は素晴らしい神であり、どんな悪も神の子たちに来ることを決して望んでおられません。ですから、私たちは大胆に神の元に行き、すべての悪から私たちを救うように頼むことができます。

 他の人が魔術や黒魔術をしたために苦しんでいる人が世界中にはたくさんいるでしょう。あなたがキリストに心と命を捧げるならば、そのような悪魔的な力はもはやあなたに害を及ぼすことはできません。主イエス・キリスト(サタンを打ち負かした)の名前を使って、サタンを追い払うことができます。

 あなたがイエス・キリストの名によって立ち向かうならば、魔術は決してあなたを傷つけたり、あなたの子供に近づくことはできません。あなたが救ってくださるよう主イエス・キリストの御名を呼び求めるならば、あなたになされた魔術の力は今、まさにこの瞬間に、振り捨てることができます。

 イエスは十字架で死なれた際、サタンを打ち負かし、サタンの力を完全に奪われたと聖書に書かれています。それはすでにその時点で完了しています。しかし、あなたの罪の赦しの場合と同じように、あなたがその事実を受け入れるまで、あなたの人生でサタンが力を失うことはありません。

「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14、15)。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

 私たちが神の子になった後でも、サタンが私たちを誘惑することを神は許されます。なぜなら、それによって私たちが強くなるからです。しかし今、私たちにはサタンのすべての攻撃に対抗して克服する力、神の聖霊の力が与えられています。

 神は、ご自分の子たちがこの世で試練や困難から解放されるとは約束されていません。神は、私たちが生まれてからずっと、裕福な両親に甘やかされて育った子供たちのようではなく、堅実なしっかりとした子供になることを望んでおられます。そして、私たちを強くするために、神は私たちが他の人と同じように、人生の試練や問題に直面することを許されるのです。そして、私たちはあらゆる困難な状況の中で神の奇跡的な助けを経験しながら、神のことをより深く知っていきます。

 章 8
永遠について

神の子となった人にとって、永遠にあるものは一時的なものよりも価値があります。

 主イエス・キリストが二千年前に死からよみがえられた後天に昇られましたが、その際イエスは、この地に再び戻ってくると約束されました。これは「キリストの再臨」と呼ばれています。これは、この世界の歴史の中で次に起こる素晴らしい出来事です。神の子は、キリストの再臨の日に自分の生涯について神に説明しなければなりません。

 この世は、私たちの永遠に向かう旅の通過点に過ぎません。私たちは今ここで、保護観察中にいるようなものです。神は私たちが天の永遠の価値を選ぶのか、この世の一時的な価値を選ぶのかをご覧になるために、人生のあらゆる状況を通して私たちを試されます。永遠に価値のあるものを選ぶのが賢い選択です。

 小さな赤ちゃんは、五百ルピー札よりもキラキラと輝く色紙を好むでしょう。なぜなら、五百ルピー冊は赤ちゃんにとって無価値だからです。私たちが天国や永遠のものよりも、この世のものを好むならば、私たちはこの小さな赤ちゃんと同じです。

 神は聖書の中で、この世とその中のすべてのものは滅びると、はっきり私たちに告げておられます。

 したがって、この世の一時的なもののために生きることは、すぐに倒産する銀行にお金を入れるようなものです。

 賢い人は安定した銀行にお金を貯金します。同じように、本当に賢い人は、永遠に価値があるもののために生きます。つまり、この世を去る時に私たちが唯一携行できる、聖さ、愛、善、赦し、へりくだりなどの私たちの質です。

 聖書は、罪を悔い改めずに死ぬすべての人の最後は悲惨であると言っています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9:27)。

 人が死んでしまったら、その人が変わるチャンスはもうありません。神もまた、その人を変えることはできません。なぜなら、神は人の意志に反して、その人を変えようとする方ではないからです。神が私たちを変えることができるのは、この世において自ら喜んで変わりたいと願う人だけです。

 将来、この世に生きていたすべての人は、死からよみがえり、自分の歩んだ人生について、神に弁明しなければなりません。聖書は、二つの復活があると言っています。

 灰となった私たちの体は神の超自然的な力によって再び体として蘇ります。第一の復活では、義なる人々、つまりキリストを救い主として受け入れ、罪を赦され、世にいる間に神の子となった人々が蘇ります。

 そして第二の復活は、主イエス・キリストを通して与えられる許しを拒否して死を迎えた人々のためのものです。人が自分の罪を悔い改めずに、そしてキリストを通して罪を赦されることなく死んだ場合、神の裁きの座でその人の生涯が明らかにされ、裁きを受けることになります。そして、その人の罪が永遠の裁きに値することが、万物に明らかにされます。天地のすべての悪の根源であり、人を罪に導くサタンも、同時に永遠の罰を受けます。

 しかし、神の御前でへりくだり、自分の罪を認めて告白し、罪を全て捨てて、十字架でのキリストの死による神の赦しを受け入れる人々は、神の臨在に入り、永遠に神と共に生きるのです。

 天は聖く平和で喜びに満ちた場所であり、御使いと世で罪から救われた人々が共に永遠に神をあがめ、賛美し、様々な形で神に仕える場所です。

 キリストの救いを信じ、神の子としてすでにこの世を去ってしまった愛する人たちとのすばらしい再会の場でもあります。

 真の神の子は、永遠に天の父である神と共にいる、その輝かしい日を心待ちにします。

 本当の真理を知って、どう思われたでしょうか。罪を赦し、神の子にしていただくよう祈られましたか。神があなたの心に語られている今こそ祈る時です。私たちは誰も、自分がいつ死んでこの地を離れるのか知りません。過ぎ行く日々の中のある一日が、この世での最後の日となりうるのです。その日が来る前に、あなたの罪が赦され神に会える準備をしておきましょう。