最優先すべきこと

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 章 1
正しい価値観

盲目の人が、手触りの滑らかなただの紙と百ルピーの小切手を手にした時、紙の感触でただの紙の方を選んでしまうかもしれません。実際の紙片の価値を目にすることができないからです。また二歳の子供に、おもちゃと小切手を渡す時、当然おもちゃを選ぶでしょう。幼い二歳の子は小切手の価値を知りません。

今日、世界中で多くの人が無意識のうちにまったく同じことをしています。あなたは正しい価値観を持っていますか。私たちに誤った価値観があると、自分のいのちを無駄にしてしまいます。そして、それが今日の世の中の最大の悲劇です。この悲劇は、無宗教者の人たちにだけ起こっているのではなく、宗教に熱心な人々の間でも起きているのです。

人は霊的に盲目な状態で生まれます。そのため、永遠のものと比較して、現世のものの相対的な価値を測ることができません。その結果、人はこの世が与えてくれる富、名誉、快楽に時間とエネルギーを費やします。人は「見えるものは(すべて)一時的なものである」のに対し、「見えないものだけが永遠である」(2コリント4:18)ということにほとんど気づいていないのです。イエスは、当時の宗教的な人々が持っていた誤った価値観に異議を唱え、全世界を手に入れても、いのちや魂を失ったら何の利益にもならないと語りました。イエス・キリストを通して神と正しく結びついていない人は、創造主の前に立つ日に、この世で成し遂げ、獲得したすべてのものがまったく無価値であることに気づくでしょう。

 「罪はすべて赦され」、「天へ向かっている」信仰者も大勢いますが、彼らの価値観は同じように混乱しています。審判の日に彼らは、自分の魂は救われているかもしれませんが、自分の人生をかなり無駄に過ごしてしまったことに驚くでしょう。彼らはいつも傍観者として、自分の救いに満足し、喜んで賛美歌を歌い、人々が神に用いられるのを眺めていますが、自分も用いられる存在であることに気づいていません。時々彼らは、他のクリスチャンの人生に見られる力と喜び、実りが、なぜ自分にはないのかと不思議に思います。彼らはクリスチャンの集会に頻繁に参加して霊的な刺激を受けようとしますが、実際は内面は常に弱く、病弱なままです。時折、クリスチャンとしてより高いレベルに到達したいという野心を持つかもしれませんが、すぐに元の位置に戻り、さらに低い所にまで落ちてしまいます。なぜでしょうか。

 ほとんどの場合、理由は簡単で優先順位を正しく理解していないからです。この信仰者たちは、上記の例の盲目の人と二歳の子供のように何度も真の霊的富を捨て、価値のないものを選んでしまうのです。こうして、神は彼らが霊的に豊かにしてくださろうとしているのをよそに、彼らは霊的に破綻しています。

 イエスは、ご自分に来る人々の目からこの盲目を取り除きたいと常に願い、人生で本当に最優先すべきことは何かを教えておられました。マルタには「必要なものが一つあります」と言われ、金持ちの若者には「あなたに欠けているものが一つあります」と言われました。 これらの言葉でイエスは、それぞれの人生で一番大切なことが何かを強く訴えておられたのです。

また、旧約聖書の時代には、ダビデだけが「神の心にかなう人」であり、彼は最も大切なことを知っていました。「私は一つのことを願った」という彼の言葉がそれを表しています。キリスト教の最も偉大な使徒であるパウロもまた、「私はこの一事に励んでいます。」と書かれてあるように、最も大切なことを優先した人です。彼はこれを自分の主題として生き、ナザレのイエスが天に昇って以来、パウロはこの世界が見た中で最も有益な人生(永遠の観点から)を送りました。

 今日の世の風潮は、例外なく私たち皆に歪んだ価値観を与えています。その影響で、私たちは人生の優先順位を間違えています。その影響は計り知れないほど強力です。人類の歴史上かつてない速さで、世界は道徳的腐敗と堕落のどん底に沈んでいます。暗闇はますます深まり、やがて暗黒に至ります。そのような状況で、イエスは教会がこの地の塩、この世の光となることを望まれました。しかし、塩は塩気をほとんど失い、光は輝きを失いました。腐敗と暗闇は信仰者の家庭にまで入り込んでいます。そして、パリサイ人の偽善のパン種が教会に深く浸透しているため、教会は実際の状態に気付かず、それに向き合う意志もありません。今日も既存の価値観を見直すべきだと呼びかける神の霊の声を、鋭い耳を持っている人だけが聞くことができます。

 この大きな暗闇の中で、あなたも私も見ることができる唯一の光は、聖書の中にあります。聖書に目を向けて、信仰者が最優先すべきことが本当は何かを自分で探してみましょう。聖書は私たちの偽りの姿を映し出すので、読むと傷つき、不快にさえ感じるかもしれません。以下は二十世紀のある神のしもべの兄弟の言葉です。とても勇気をもらえます。

 「イエスの言葉は、傷つけたり怒らせたりする部分がなくなるまで、傷つけ怒らせるでしょう(マタイ11:6参照)。イエスの言葉に一度も傷ついたことがないのなら、本当にイエスの言葉に耳を傾けているのか疑わしいです。イエス・キリストは、神に仕える人を砕くことに対して、決して容赦されません。神の霊が、私たちに厳しい御言葉を与える時、主が私たちの中のある部分を傷つけ、死に至らしめたいと望んでおられることがわかるでしょう。」(オスワルド・チェンバーズ著『So Send I You』より)

「あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

わたしはあなたに忠告する。…また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞きなさい。」(黙示録3:17-22)。

「私の耳を開いてください。

そうすれば、あなたが発する真実の声を

聞くことができます。

波の音が私の耳に届くと、

すべての偽りが消え去ります。

今、私は静かにあなたを待ちます。

私の神よ、あなたの御心を見せてください。

私の目を開いて、私を照らしてください。

御霊よ」

 章 2
必要なことは一つ

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』 (ルカ10:38~42) 

  42節のマルタに対するイエスの言葉は、なんと印象深いことでしょう。

「必要なことは一つです。」

なすべき良いことはたくさんあるかもしれませんし、当然不可欠だと考えられることもたくさんあります。しかし、イエスは、何よりも必要なことが一つあると断言しました。その一つとは何でしょうか。

 イエスと弟子たちはちょうどベタニアに到着したところでした。マルタは彼らを見ると、喜んで家に迎え入れ、座らせ、すぐに台所に駆け込んで食事の準備をしました。その間、イエスはそこにいる人々に説教を始めました。マルタは、妹のマリアが手伝いに来ず、イエスの言葉を聞くために腰を下ろしていることに気づき、怒りに駆られて台所から飛び出し、イエスの方を向いて、次のような言葉で訴えました。「主よ、私は台所で皆さんのために食事の準備を一生懸命しているのに、妹はただ座って何もしていません。妹に起き上がって手伝うように言ってください!」しかし、驚いたことに、イエスが叱責したのはマルタ自身でした。イエスは、マリアではなく、マルタに非があると告げました。

マルタが何か罪深いことをしたから咎められたというわけではありません。彼女は喜んでイエスを家に迎え入れました。彼女が台所で行った仕事は、自分のためではなく、イエスと弟子たちのためでした。彼女は、主を心に迎え入れ、主と他の人々に無私無欲に仕えようとしている今日の信仰者の典型です。しかし、彼女の熱意にもかかわらず、彼女はイエスに叱責されました。

 これにはどのような意味があるのでしょうか。彼女の行動のどこが間違っていたのでしょうか。そして、その答えは、イエスの「必要なことは一つだけ」という短い言葉の中に確かにあります。マルタは奉仕のことで叱責されたのではなく、最も重要なことを優先しなかったことで叱責されたのです。

 主は、マリアは良い方を選んだと言われました。それは何だったのでしょうか。彼女はただイエスの足元に座り、御言葉を聞いていました。ただそれだけです。しかし、それが他の何よりも必要なことなのです。私たちの生活の中で、聞くことはどれほどの割合を占めていますか。私たちは主の足元に座り、御言葉を読み、それを通して主が私たちに語りかけてくださるのを聞くことに、どれほどの時間を費やしているでしょうか。他の事が主に聞くことよりも優先されて、私たちはしばしばマルタと同じ過ちを犯しています。

私たちが気を取られているのは、日常的な事柄だけではなく、クリスチャンとしての奉仕もあります。私たちは集会での祈りや礼拝や証しに積極的に参加しますが、それでもマルタのように私たちも主に咎められるかもしれません。

 「マリアはその良い方を選んだのです。」これは、マリアに対して、イエスご自身の御言葉の価値を示されました。そして今日の私たちに語られている、神のいのちの御言葉の重要性もイエスは示唆しておられたのでしょう。

 私たちの最初のテーマは、聖書で私たちに与えられた素晴らしい神の御言葉です。私たちはこれを三つの観点から見ていきます。まず聖書の権威、次に神の御言葉を聞くことの重要性、そして最後に神の御言葉が私たちの人生にもたらす影響について考えます。

聖書の権威

 まず聖書の神聖な権威について考えなければなりません。なぜなら、これが他のすべての基礎だからです。この点を解決せずに先に進むことは、基礎を築かずに建物の建設を進めるのと同じくらい悲惨なことです。聖書の権威を確信して初めて、私たちは聖書を正しく評価し、認識できるのです。

 クリスチャンの家庭で生まれ育った多くの人は、両親や教会からそう教えられたというだけで、聖書を神の御言葉として疑いなく受け入れてきましたが、自分の心でその確証を得たことがありません。しばらく幸せに過ごしますが、ある日現代主義的な人に「聖書は矛盾だらけだ」と批評されます。そして、「著者たちは名前の挙がっている人物ではなく、ずっと後の著者たちであり、疑わしい動機で書いている。イエスやその弟子たちが実際に何を教えたのかを知ることは不可能だ。大きな救いの出来事についてさえ、事実に基づく証拠は不十分だ。現代人が、そのような作り話を信じることはできない。」と説きます。批評はさらに続きますが、すぐに彼らの信仰全体が崩れ始めます。なぜでしょうか。それは、聖書を正しく理解していないからです。神は、私たちが物事をただ信じるということは望んでおられません。多くのクリスチャンは他の人にただ信じればいいというような印象を与えますが、それは完全に間違っています。神は、私たちが理解できるように心の目がはっきりと開かれることを求めておられるのです。

 聖書は、私たちの心の目はサタンによって閉じられていると言っています。したがって、罪人である私たちは、そのままの心では神のことを理解できません。ですから、神を理解するには、神がご自分のメッセージを直接知らせてくださる、神の啓示にかかっているのです。(神は、真剣に求める者にはいつでも答えてくださるお方です。)

 私たちの心は罪深いので、誤りを犯すことがあります。また、私たちは知識において完全ではありません。したがって、そのような私たちの心が、人間の理性をはるかに超える聖書の言っていることがよくわからなくても問題ではありません。これは、聖書が理性に反しているという意味ではなく、小さな子供のような私たちが神の領域に入ろうとしていることを意味します。私たちの知性が完全で誤りがなかったら、間違いなく聖書に書かれていること全てを完全に理解し納得するでしょう。新生した人がキリストに似た者に変えられていく過程で、より聖書を理解し神の言われることに納得できるようになるという事実こそが、そのことを証明しています。しかし、自分の無力さではなく、自分の批判的な能力に屈するならば私たちはつまずきます。私たちの罪深い知性の理にかなうことだけに信仰を置くなら、後々私たちは砂の上に自分を築いたことに気づくでしょう。

 なぜ私たちは聖書を神の御言葉だと信じているのでしょうか。

 第一にイエス・キリストの証言があります。福音書の中で、イエスは権威として旧約聖書を常に引用しています。ルカ第4章で宣教の初めに、サタンの誘惑に対して申命記を引用し的確に答えておられます。イエスは「こう書いてある」という言葉で宣教を始められました。これは聖書の権威を率直に表す言葉です。復活後、ルカ24 章で、イエスは再び聖書を解説しています。最初はエマオへ歩いている二人の弟子に、そして次に屋上の部屋にいる十一人の弟子にです。これらの出来事の間の三年半の間、イエスは何度も何度もヘブライ語聖書を神の権威ある御言葉として引用しておられました。そして、これらのヘブライ語聖書は、今日私たちが持っている旧約聖書と同じであることを忘れないでください。新訳四福音書の短い記録の中で、イエスは少なくとも五十七回、旧約聖書からの引用や言及をしています。これらのことから、旧約聖書を引用することがイエスの習慣であったのは明らかであり、新約聖書に記録されていない事例は、他にもたくさんあったでしょう。

イエスは旧約聖書の権威を信じて疑いませんでした。実際、この文書化された権威が、イエスが世で受け入れた唯一の権威でした。イエスは当時のパリサイ人やサドカイ人に答える際、常に聖書を引用していました。「こう書いてある」という言葉が訴える根拠を表しています。

 今日の説教者の多くは神学者、哲学者、心理学者、さらには世の作家の意見を引用しますが、主イエスは決して他人の考えを引用しようとは思われませんでした。イエスの唯一の権威は旧約聖書でした。イエスの証言を受け入れるなら、聖書を神の御言葉として受け入れなければなりません。聖書を拒む者はイエスご自身の証言を拒むのです。

  第二に、聖書には確実性があります。聖書の中の数多くの詳細な預言が実際に成就しています。聖書の三分の一は預言です。主イエスの誕生、死、復活に関する預言は、イエスが地上に来られる何百年も前に旧約聖書でなされましたが、イエスが来られた時に文字通り成就しました。旧約聖書時代の多くの主要国、特にイスラエルに関する預言は、文字通り成就しました。私たちが生きている間に、ユダヤ人はパレスチナの故郷に戻り、エルサレムの町を占領しました。しかし、これらの出来事は二千五百年前に預言されていました。

 聖書が神の啓示によるものであることのもう一つの証拠は、聖書の中の六十六の書に見られる驚くべき統一性です。これらの書は千六百年の間に三つの異なる言語で書かれ、王、羊飼い、軍の指導者、予言者、パリサイ人、漁師など、教育水準も社会的、文化的背景も幅広い約四十人の著者によって書かれました。それでも、この書物全体を通して素晴らしい統一性があり、根本的な矛盾は一つもありません。所々で見られる些細な矛盾は、文書の書き写しの誤りで説明できます。道徳的、倫理的矛盾はありません。聖書の歴史的な記述の多くは疑問視されてきましたが、さらなる研究で確認されています。聖書の科学的記述 (聖書は科学書ではないため、数は少ないですが) はすべて、物理世界で確認された事実に当てはまっています。聖書は人類の科学的知識が極めて不十分だった時代に書かれましたが、当時そしてその後の時代の人々が信じていた、がさつな科学的推論も含まれていません。科学は絶えずその見解を変え、専門書を書き直していますが、聖書にはそのような改訂は必要ありません。

 聖書が何世紀にもわたり、敵対者によるあらゆる攻撃に打ち勝ち続けてきたということも、聖書が神の啓示を受けていることのもう一つの証拠です。聖書ほど激しく攻撃されてきた本はこの世にありません。しかし聖書は、その支持者たちの批判や敵の敵意を、見事に乗り越えてきました。

 フランスの思想家ヴォルテールはかつて、百年後には聖書は存在しなくなるだろうと言いました。それはまさに彼の「有名な最後の言葉」でした。皮肉なことに、彼の死後、聖書協会は彼が住んでいた家に事務所を開設したのです。このようにして、神は御言葉を立証しました。

 思想家は現れては去っていきますが、聖書はますます力強く生き続けます。世界中の男女にこれほど愛され、尊敬され、大切にされてきた本は他にありません。聖書は今でも世界のベストセラーです。

 また、聖書は神の霊感を受けた御言葉であると私たちは信じています。なぜなら、聖書によって無数の人々の人生が変えられ、時には聖書の一節によって変えられたという、広く認められた事実があるからです。人に影響を与えるとは到底想像できないような聖書の一節でも、人々を回心させ救いに導くために神によって用いられてきました。邪悪な男女が、この素晴らしい書の一節を読むことで、一夜にして神の人に変えられてきました。これは、翻訳がひどくて、そのような成果が望めないような現地語版でさえ起こりました。神は確かに、この本を通して語り人々の人生に内面的な変化をもたらしています。

 聖書の霊性の六番目の証拠は、その無限さです。何世紀にもわたり、最も鋭敏な知性を持つ多くの優秀な人々が、一生をかけて聖書を研究してきました。それでも、その深みは完全に知られていません。底なしの鉱山のように、この本は新しい宝物を生み出し続け、常に新しい方法で人々に語りかけています。

 さらに、そのメッセージは崇高なほど単純で、子供でも理解できます。時代はそれを時代遅れのものとすることはできません。それは永遠のものです。謙虚にそれを調べるだけで、この素晴らしい本の中にすべての問題の答えが見つかります。これが単なる人間の著作であれば、それは不可能です。しかし、神の霊を受けた本には、無限の神の尽きることのない知恵が含まれています。したがって、人は必要に応じてそこから引き出すことができます。

 最後に、聖書の霊性の最大の証拠は、私たちが神の前でへりくだって聖書を読む時、神が聖句を通して私たちに語りかけてくださることです。その言葉を聞くと、それが神の声であるとますます確信するようになります。三位一体や贖罪の教義など、聖書の偉大なテーマは、人間が作り出せるはずがありません。それらは聖霊によってのみ知ることができます。それらは間違いなく神から与えられたものです。

また、聖書の各書の内容とメッセージには、特に主イエスご自身を映し出す鏡として見ると、驚くべき意図がそこにあることも発見できます。古い解説書の題名「聖書全体におけるキリスト」は、聖書の研究者が常に発見してきたこと、つまり、彼らがキリストを研究の目標とした時、聖書全体が綿密につながっていて、さらに信憑性の高さを形成していると言うことを顕著に記しています。

 私たちは、聖書の権威が広く疑問視されている時代に生きています。パウロはコリントの信仰者たちに、サタンがエバを堕落させたのとまったく同じように、彼らの心をも堕落させる可能性があると警告しました (2コリント11:1-3)。悪魔がエバに来た時、彼は「神は言ったのですか」という質問から始めました。それ以来、サタンは人々にも同じ質問をしてきました。「本当に神はそう言ったのですか。」

 これは、人々を信仰から遠ざけるためにサタンが最も成功した手段の一つです。聖霊は、世に欺く霊が入り込むので、終わりの日に欺瞞が増えると強調して警告しています (1テモテ4:1)。「信仰から離れるようになります。」という記述は、この節が異教徒ではなくクリスチャンについて述べていることを示しています。

 主イエスは、終わりの日について語る際に、マタイ 24 章でこの欺瞞の可能性について三回言及しました (5、11、24 節)。使徒パウロは2テサロニケ2:3 でも、主の日が来る前に「背教」が起こると述べています。

 この離反は明らかに、サタンの巧妙な欺瞞に誘惑されたクリスチャンによるものです。この警告は重大です。それにもかかわらず、私たちがまだ油断しているなら、私たちは間違いなく騙されてしまうでしょう。

 人はどのようにしてあなたを騙そうとするでしょうか。偽造紙幣を渡して百ルピーを騙し取ろうとするなら、できるだけ偽造紙幣が本物そっくりに見えるように作るでしょう。そうして簡単にあなたを騙そうとするのです。そしてサタンも同じように巧妙です。疑いを持たないクリスチャンを騙すための最も強力な手段は「クリスチャン」の説教者です。聖書を根拠として説教しているものの、聖書の権威に屈していない説教者です。注意してください。注意深く見てみると、彼らの説教の内容は聖書にまったく書かれていないことがあります。また、彼らの説教には偏りがあり、聖書の真理を捻じ曲げています。

 このような欺瞞に対する防御手段は聖書そのものです。聖書をよく知らないと、必ずこのような欺瞞の餌食になります。自分の信仰に関する事柄が全て聖書の権威に基づかなければ、私たちは散々振り回されて、ついには信仰そのものを失うでしょう。

 主イエスは、パリサイ人や律法学者が旧約聖書を拒絶し、自分たちの口承伝統に置き換えたことを非難しました (マルコ 7:5-13)。彼らは神の書かれた御言葉を長年拒絶し、ついには、神ご自身が実際彼らの中に来られた時にも、その生きた御言葉を拒絶するに至りました。律法学者やパリサイ人の霊的な子孫は、私たちの世代にいます。そして、多くの人が彼らに騙されています。私たちは本当に気をつけなければいけません。

 詩篇作者は、神は御名よりも御言葉を尊ばれたと語っています (詩篇 138:2)。したがって、それを拒絶したり無視したり、軽視したりすることは、計り知れない損失を招くことになります。しかし、それを敬うことは、計り知れない富への扉を発見するということです。

御言葉を聞くことの重要性

 毎日、じっくりと神の御言葉に聞き入ることの大切さは、この章の冒頭で述べたマルタへのイエスの御言葉に明確に示されています。他にも役立つことや有益なことはたくさんありますが、何よりもこのことが絶対に不可欠です。

 酸素なしでは私たちの肉体が生きていけないのと同じように、私たちも神の御言葉なしでは生きていけません。私たちの霊にとって最も不可欠なものは、毎日主の足元に座って主の御言葉を聞くことです。

 イエスは、人の人生に影響を与えるすべての要素を誰よりもよくわかっておられました。また、全ての人が陥る可能性のある状況や前途に待ち受ける危険、そしてサタンの策略もご存知でした。人の霊的成長に何が必要かもご存知でした。なぜなら、物事の相対的な重要性と非重要性を熟知していたのはイエスだけだったからです。

そしてこのイエスが、何よりも必要なことが一つあると言われました。ルカ4:4でも同様の言葉を使われました。 「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」これは申命記8:3からの引用で、そこでは神は四十日間、荒野でイスラエル人を養ったマナのことを指していました。

イスラエル人は、神が毎日天からマナを与える目的が、同じように神の御言葉を受けることを学ぶためであると告げられました。 荒野の旅で力を得るために、イスラエル人は毎日マナを必要としていました。同じように、人生における試練に立ち向かう力を得たいなら、人は毎日神の御言葉を受け取る必要があります。

イエスはこれらのことをただ述べられたのではありません。イエスは弟子たちに、毎日神の御言葉を聞くことがどれほど大切なことか印象づけようとしたのです。もしそれが真実なら、神の書かれた御言葉について黙想する時間を割かない人生は、他に何を成し遂げたとしても、無駄な人生ということになります。

  ルカ17:26-30で、イエスは終わりの日はノアとロトの時代のようになると語られました。人々は食べたり、飲んだり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりしていました。これらのことは、どれもそれ自体罪深いものではありません。すべてごく普通な正当な行為です。ではなぜイエスは、これらの行為が罪深い時代の特異な特徴であると述べたのでしょうか。

それは、当時の人々がこれらの日常の活動に没頭して、神のための時間をまったく持っていなかったからです。悪魔は、神を彼らの生活から完全に排除することに成功しました。もちろん、これはいつの時代でもそうですが、道徳の退廃と腐敗をもたらしました。

 この状況を、今日の世界で見られる状況と比較すると、社会の考え方やそれに伴う結果がまったく同じであることがわかります。男性も女性も忙しすぎて、神に耳を傾ける時間がありません。自分の生活を一度振り返ってこのことを確認してみましょう。「この世の霊」は信仰者の心の中にも忍び込んでいます。

科学は、私たちの先祖にはなかった、多くの時間を節約できる機器を発明しましたが、それでも人間は時間に追われています。今日、私たちは車、電車、飛行機で旅行できますが、彼らは動物や自分の足で移動しなければなりませんでした。今日では機械、機器が私たちに代わって毎日の家事をこなしてくれますが、私たちの先祖は、はるかに長い時間を費やさなければなりませんでした。しかし、当時の人々は、今日の人々よりもはるかに多くの時間を神のために使っていました。なぜでしょうか。 彼らは生活の中で正しい優先順位を守っていたからです。彼らは最も大切なことを最優先しました。

 私たちが主の有力な証し人となるためには、毎日主の足元で時間を過ごし、主の御声を聞くことが不可欠です。今日、説教をしたいと熱望する人の多くは、毎日神の御声を聞く習慣を身につけていません。その結果、「主の御言葉」は残念ながら少なく、人間の言葉がうんざりするほど増えています。今日の説教者の中で、「主の御言葉が共にある」と言える人はどれほど少ないことでしょう(列王下3:12)。しかし、それは聖書の中で、すべての真の神のしもべの特徴でした。まず、神ご自身が語られることに耳を傾ける時間を費やしていない人には、神について他の人に話す権利はありません。これは、公の説教だけでなく、個人的な証しにも当てはまります。

 モーセについては、主の前に行き、「そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。」と書かれています(出エジプト34:34)。

 ヨシュアは、神の御言葉を毎日黙想することによってのみ、繁栄し栄えると神から告げられました (ヨシュア 1:8)。

 サムエルは、神が語られるのを辛抱強く待ち、それから人々に語った人の典型的な例です。その結果、主は「彼のことばを一つも地に落とされなかった」のです (1サムエル 3:19)。」

 イザヤ書 50:4 の主イエスに関する預言では、イエスには父の声を聞く習慣があったので、朝ごとに神が主に語られたとあります。その結果、同じ節が私たちに語っているように、イエスは、ご自分のもとに来るすべての人に、それぞれが必要とする言葉を用意しておられました。イエスはまさに父の完全な代弁者でした。神の声を毎日聞くというこの習慣がイエス自身にとって必要であったなら、私たちにとってはなおさらです。ここでつまづいてしまうと、困っている人々に十分な奉仕をすることは決してできません。 「弟子として聞く」ことを学んで初めて、「弟子の言葉」を持つことができるのです。

 残念ながら、今まで人に教えてきたはずの人の多くは、この「一つのこと」を無視したり、怠ったりしたために、いまだに霊的な幼子のままです。

 主を聞くということは、単に聖書を読むことではありません。 単に「習慣」として聖書を読む人もたくさんいます。 主を聞くということは、それ以上のことを意味します。 それは、私たちが神の御言葉の中に、私たちへのメッセージをしっかり受け取るまで、神の御言葉を黙想するということです。そうして初めて、私たちの心は新たにされ、キリストの心に徐々に従うことができます。 しかし、聖書を読む多くの人は、このように黙想することをまだ学んでいません。

 マリアがイエスの足元に座ったことから、少なくとも三つの霊的な真理を学ぶことができます。

 座ることは、歩くこと、走ること、立つこととは異なり、主に休息の象徴です。 これは、神が私たちに語りかけるのを聞く前に、私たちの心が静まり、頭の中を休ませなければならないことを教えてくれます。告白されていない罪は心を、また、この世の煩いや富への執着は頭の中を乱します。良心が安らぎを得られなかったり、不安や恐れで心がいっぱいだったりしたら、どうして神の「静かなささやき」を聞くことができるでしょうか。詩篇 46:10 は、神を知るためには静まっていなければならないと教えています。

また、人の足元に座ることはへりくだりの象徴でもあります。マリアはイエスと同じ高さの椅子に座っていたのではなく、それより低い位置に座っていました。神は、裁きのとき以外は、高慢な人には決して話しかけません。しかし、神の前で子供のようになるへりくだる霊には、いつでも話しかけ、恵みを与えてくださいます(マタイ 11:25)。

 第三に、マリアのように座ることは従う姿勢の象徴です。それは主を前にした時の弟子の姿勢です。私たちの従順は神の御言葉に従うことです。神は私たちの好奇心を満たしたり、情報を与えたりするために御言葉で語られたのではありません。御言葉は神の心の願いの表現です。神は私たちが従うように語られるのです。イエスはヨハネ7:17で、私たちが神の意志を喜んで行う場合にのみ、その御心を理解することができると言われました。

 多くのクリスチャンは、聖書を通して神が語りかけてくださるのを聞こうとせずに、何ヶ月も何年も聖書を読んでいます。それでも彼らは十分満足しているようです。私はあなたに尋ねます、あなたは毎日主の声を聞いていますか。もしそうでないなら、その原因は何でしょうか。主は聞く人に語りかけます。あなたの霊の耳をふさいでいるものは何でしょうか。それは主の前で心が静まっていないからでしょうか。あなたにへりくだる心が欠けているからでしょうか。それともすでに語られた御言葉に従おうとしていないからでしょうか。それとも、聞きたいという願いそのものがないのでしょうか。 それが何であれ、神はそれを即座にそして永遠に正し導いてくださるお方です。サムエルの祈り、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」を自分でも言ってみてください。それから聖書を開いて、主の御顔を真剣に求めてください。そうすれば、あなたも主の声を聞くことができるでしょう。

神の御言葉の効果

 私たちは、神の御言葉が私たちの人生にどのような影響をもたらすかを知れば、毎日主の足元に座って神の御言葉を聞くことがどれほど大切であるかがわかります。

医者から薬を処方されても、その薬が自分にどのような効果をもたらすのか具体的に分からないと、結果として定期的に服用する気がなくなります。服用を怠っても、何かを失ったとは思わないでしょう。しかし、その一方で、その薬が自分の体にどんなに素晴らしい治療効果をもたらし、健康状態が大いに改善されると知ったら、たとえ高額であっても忘れず定期的に服用するでしょう。

 同じように、神と神の御言葉に定期的に静まり聞き入る時間を全く持たないのに、喪失感を感じないクリスチャンがたくさんいます。あなたの生活を振り返って見てください。ある日、神との静かな時間を逃したとしたら、何か大切なものを失ったと後悔しますか、それとも、大したことではないと感じますか。これほど多くの神の子たちが、毎日神との静かな時間を過ごすことなく、それについて何も感じていないのはなぜでしょうか。それは、神の御言葉が人の人生に与える創造的な影響を十分に理解していないからに他なりません。これから見るように、それは薬以上のものです。御言葉は食物なのです。彼らは、私たちを変えてくださる神の御言葉の大きな力に身を委ねないことで、どれほど多くのものを失っているかに気づいていません。

 神の御言葉が人に与える影響について理解するために、聖書中で描写されている九つの象徴を考えてみましょう。

 第一に、詩篇 119:105 では神の御言葉が光に例えられています。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

知らない土地を暗闇の中歩く時、私たちは道を見るために光を使います。これは、罪の真っ暗闇にあるこの世で聖書が私たちにしてくれることを表しています。聖書は私たちに神への道を示します。聖書から離れては、神の救いの道について何も知ることはできません。

 さらに、聖書は正しい教義の道を歩む信仰者に光を与え、道の脇にある偽りの教えの落とし穴を照らして、彼らがそこに陥らないようにします。その光がなければ、何が偽りで何が真実かを知ることはできません。

聖霊はベレアの信仰者たちを褒めました。なぜなら、彼らは使徒パウロが彼らに説いたことさえ、自分で聖書で確認するまで受け入れなかったからです(使徒17:11)。そして初めて、彼らはそのメッセージを受け入れたのです。 (パウロが他の教会にしたように、誤った教義を正すための手紙を彼らに送らなくても良かったのは、彼らが説教者に対してこのような態度をとっていたためでしょうか。)聖書を熱心に調べる人は、誤った教義に簡単に誘惑されることはありません。彼らは自分たちを自由にした真理をよく知っています。

 残念ながら、今日では多くのクリスチャンが、自分で聖書を学ぶのを面倒くさがり、自分のことで忙しくしています。その結果、聖書について無知な彼らは、悪魔の騙しの餌食になりやすいのです。悲しいことに、現代においては、雄弁さ、感情的高揚、メッセージの論理的な提示などが、説教者の良し悪しを見定める基準となっています。

 神の言葉を正しく解説しているかどうかは、二の次でしかないようです。真の教義は、その人の性格や話す才能よりもはるかに重要であることを忘れないでください。薬瓶の中身は、その大きさや形や外見よりも重要です。

 あなたが探しているのは真実ですか、それとも雄弁なメッセージですか。そして、もしあなたが本当に真実を探しているなら、まず聖書を知らない限り、真実が何であるかをどうやって知ることができるでしょうか。

 一般人には聖書は理解できないと司祭から言われた人が、たまたま新約聖書を手に入れ、それを読んだ結果救われた、という以下のような話があります。

 ある日、司祭がある人を訪ねました。彼の前に本が開いて置いてあったので、司祭は何を読んでいるのかと尋ねました。彼が聖書だと答えると、司祭はそれは無知な一般人向けのものではないので読むべきではないと返します。

 「でも…」、その人は続けました。「私はそれを読んだ結果救われたのです。それに、1ペテロ 2:2 には、成長するためには、純粋な御言葉の乳を求めなさいと書かれています。」

「ああ」司祭は言いました。「しかし、神は私たち司祭を牛乳配達人として任命し、あなたに牛乳を届けているのです。」

「そうですか」とその人は答えました。「前は毎日牛乳を届けてくれる牛乳配達人がいましたが、すぐに牛乳に水を混ぜていることに気付きました。」 「それで、代わりに牛を買うことにしました。今では純粋な牛乳が手に入ります。」

 兄弟姉妹の皆さん、私たちが神の御言葉を自分で学ばなければ、純粋な牛乳、腐敗していない教義を得ることができません。なぜなら、この罪で暗くなったこの世では、神の御言葉が、私たちの歩みを確かにする唯一の光だからです。したがって、それは問題の解決の鍵でもあります。神は、私たちの人生に道筋を示してくださっていますが、多くのクリスチャンはそれが見つからないと嘆いています。多くの場合その理由は単純で、神の御言葉を習慣的に瞑想していないからです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」それは私たちに道を示すための神の備えです。

 第二に、神の御言葉はヤコブ1:22、23で鏡に例えられています。顔が汚れているか清潔か、髪が乱れているかとかれているかを見るためには鏡が必要です。鏡がなければ、自分の外見の様子がわかりません。ヤコブが二十世紀に手紙を書いていたなら、おそらくさらに一歩進んで、もっと現代的な例えのレントゲンを使って、神の御言葉の効果を説明していたかもしれません。

 レントゲンは、他の方法では知ることのできない、私の体の内臓の状態を見せてくれます。聖書も同じように、神の御前での私の心の状態を見せてくれます。聖書は私を正し、戒め、私がちゃんと神に仕えることができるように備えてくれます(2テモテ2:3:16、17)。今日、多くの人々は自分の霊的状態について自分を欺き、自分には何も悪いところがないと思っています。なぜでしょうか。それは、神の御言葉のレントゲンを一度も見たことがないからです。

 信仰者であっても、神の前で犯した罪に気づかないことがあります。私が聖書を黙想している時に、聖霊は、私にそれまで知らなかった罪、例えば私の行動の動機にある利己心に何度も気づかせてくれました。聖霊が知らせてくれるまで、私はその罪にまったく気づいていませんでした。霊的な停滞と衰退を避けるためには、神の御言葉という鏡(またはレントゲン)を通して毎日自分自身を吟味する必要があります。鏡で自分の顔をチェックしない日はありません。自分の心も吟味しない日がありませんように。

 それから、エレミヤ書 23:29では、神の御言葉は火に例えられています。

聖書では、火は浄化するもの、燃え尽くすものの象徴として使われています。火に入れられた金は浄化されますが、木は燃え尽きます。同様に、神の御言葉は私たちの生活に浄化効果をもたらし、非キリストの要素を排除します。先に見たように、それは私たちの誤りを明らかにするだけでなく、私たちを聖い者にします。

 毎日主の足元で時間を過ごす誰もが、聖められることを望みます。なぜなら、御言葉が人生からすべての不純物を一掃するからです。しかし、同じ火が御言葉を拒む者を焼き尽くすというのは恐ろしい真実です(ヨハネ12:48)。神の御言葉に対する私たちの態度が、私たちを清めるか滅ぼすかを決定します。私たちが御言葉に従うなら、私たちは清められます。私たちがそれを無視したり拒絶したりするなら、確実に私たちは焼き尽くされます。

 四番目に、エレミヤ23章の同じ節で、神の御言葉は岩を粉々に砕くハンマーに例えられています。山腹に道を作りたいなら、岩を砕かなければなりません。今日ではその目的でダイナマイトを使用しますが、エレミヤの時代にはハンマーが使用されていました。

 神の御言葉は、私たちの前に立ちはだかる大きな障害を取り除くことができる神のダイナマイトです。私たちはみな人生で試練や問題に直面します。山々が迫ってきて、行き止まりに陥ったように見える状況です。そのような状況の中、落胆し、打ちのめされ、何をすべきか、次にどこへ向かうべきかがわからなくなります。そのような時に、神が聖書で与えてくださった御言葉を知らないと、私たちはその御言葉の約束を断言し立ち向かうことができません。約束を知っていれば、ダイナマイトのように、私たちの道にある障害物を吹き飛ばし、山の障壁を通り抜けて反対側へと私たちを連れて行くでしょう。私たちは御言葉を知らないことで、どれほど多くのことを逃してきたことでしょうか。

 第五に、ルカ 8:11 では、神の御言葉が、地に蒔かれると実を結ぶ種にたとえられています。1ペテロ1:23 では、私たちの新生は、御言葉の種が私たちの心に芽生えた結果だとあります。私たちが実り豊かになって初めて、神は私たちの人生を通して栄光をお受けになることができます。

 あなたの人生と奉仕には、神の栄光のための実がありますか。それは、まず第一に、あなた自身の人生において、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった形で現れていますか。 (ガラテヤ 5:22、23)。そして、あなたの奉仕の中に、罪人が主に立ち返り、信仰者が主に益々惹かれて行くというような実がありますか。

 そうでないなら、おそらくその理由は、あなたが神の御言葉を「命を持つ種」として、規則的に心に受け入れていないからでしょう。詩篇 1:2、 3 には、神の御言葉 を定期的に黙想する人だけが、実り豊かな木のようになり、何をするにも栄えると書かれています。

 神の御言葉は詩篇119:103でも食物に例えられています。同じ象徴はエレミヤ15:16と1ペテロ2:2にも出てきます。預言者エゼキエルと使徒ヨハネも聖書の中ではそれぞれ「巻き物を食べている」と書かれてあります(エゼキエル3:1〜3、黙示録10:9、10)。ここには、人間が神の御言葉を吸収し消化する様子が描かれています。

 食物は私たちに力を与えます。食物は私たちの体に必要不可欠です。栄養不足の人は痩せて体質が弱く、そのため病気への抵抗力がありません。また、人から体に攻撃を受けても身を守ることができません。軽く押されただけで倒れてしまうでしょう。まったく同じように、神の御言葉をないがしろにする人は霊的に未発達で、その結果誘惑に抵抗できず、悪魔の猛攻撃に耐えることができません。

 神の御言葉を定期的に黙想する者だけが、力強いクリスチャンに成長します(1ヨハネ2:14)。聖書をただ読むだけでは強くなれませんが、黙想することで、御言葉があなたの人格、心の奥底に浸透し、あなたの一部となり、あなたの「心」に留まります(詩篇 119:11)。

 ヨブは、神の口から出る御言葉を、日々の必需品よりも重んじたと言いました(ヨブ 23:12)。毎日神の御言葉を聞くことで、彼は霊的な強さを大いに蓄えました。これは間違いなく、サタンの猛攻撃に直面したヨブの驚くべき回復力の理由です。彼は、直面したすべての逆境にもかかわらず、神への信仰を失いませんでした。自分の夫ほど神の御言葉を尊重していなかった彼の妻は、災難に見舞われるとすぐに神を呪い始めました。しかし、ヨブはそうではありませんでした。彼の例から、神の御言葉を毎日受け取ると、人生のあらゆる試練に立ち向かうための途方もない力が得られることがわかります。

 第七に、申命記32:2では、神の御言葉は露に例えられています。聖書では、露は神の祝福の象徴です。神がイスラエルを祝福した時、神は彼らに露と雨を与えました。イスラエルが罪を犯した時、神は列王記上17:1にあるように露と雨を降らなくさせました。したがって、この象徴は、神の祝福は、神の御言葉を受け取り従うすべての人に、御言葉を通して与えられることを教えています。箴言10:22は、その祝福が私たちを豊かにし、私たちのすべての欠点を補うことができると宣言しています。これは何という大きな励ましでしょう。

 福音書には、これを説明する例が複数あります。ある日、イエスの弟子たちは五千人以上の人々に食事を与えるという課題に直面しましたが、彼らが集めることができた食べ物は、少年が持って来ていた五つのパンと二匹の魚だけでした。弟子たちはこれでは全く足りないと慌てましたが、主はその食物を祝福されました。その結果、人々は皆満足し、かなりの量が余りました。別の機会に、弟子たちは一晩中漁をしましたが、何も取れませんでした。その後、朝になって、イエスが彼らに話しかけました。彼らが主の指示に従い網を下ろすと、すぐに網は魚でいっぱいになりました。

 この二つの例は、主の祝福が確かに人を豊かにするという事実を示しています。主の御言葉を通してもたらされる祝福は、私たちのすべての不足を補います。あなたは才能に欠けていて、他の人のように説教したり、歌ったり、祈ったりすることができないかもしれません。しかし、あなたのいのちに天の露が降り注ぐ時、あなたの限界を超えて、神はあなたを何千人の人々を祝福できる者に変えてくださいます。ですから、毎日、主の御言葉を前にして主を待ちましょう。主の露があなたの魂に降り注ぐまで、主の御前で待ちましょう。

 露は祝福以上のものです。それは新鮮さの象徴でもあります。聖書によって私たちは益々新たにされます。日々主の声に耳を傾けることで、私たちのクリスチャン生活は絶えず新鮮に保たれます。破滅や腐敗を招く一切のものによって滅びないように、私たちを救ってくれます。

 カビの生えたパンを見て口からよだれが出る人はいません。そして、多くの信仰者が見せる腐敗した状態も誰かをキリストに引き寄せるとは期待できません。あなたのクリスチャン生活は毎日新鮮ですか。そのためには 露の下にある天のマナを毎日食べなければなりません (出エジプト記 16:13-15、20と比較)。

 神の御言葉は詩篇 119:162 では、さらに富に例えられており、聖書の他の箇所では金にたとえられています。お金で本当に裕福になれるわけではありません。資格を取得して大きな収入を得て、たくさんのお金を稼げる立場に就くことはできるかもしれませんが、それで得られる富は消え去るだけです。神の御言葉以外に、本当に豊かになれるものはありません。

 本当に豊かな人は何も不足がありません。いつも満たされています。一方、貧しい人は、自分よりも富んでいる人に物乞いをしなければなりません。神の御言葉は、あなたが決して路頭に迷わないほど豊かにしてくれます。また、自分の必要を満たすだけでなく、私たちが他の人の必要も満たせるようにしてくれます。

 人生で直面するどんな状況でも、その解決策が聖書のどこかに見つからないということはありません。答えは、あなた自身と似た聖書の人物の経験、または聖書の教えの中に必ずあります。聖書に書かれていることをよく知っていたら、困難の時に聖霊が適切な聖句を思い起こさせ、そこから答えを与えてくださいます。

 私は、自分の人生で何度もこのことが真実であることを知りました。1964年5月6日に主が私を召し、インド海軍の任務を辞任する許可を求める申請書を提出した時、海軍本部はすぐに私を手放してはくれませんでした。私は本当に困惑し、次に何をすべきかわかりませんでした。すると主は、モーセがパロのもとに行き、イスラエル人が主に仕えるように解放してほしいと頼んだ時のことを私に思い出させてくれました。パロはその要求をきっぱり拒否しましたが、モーセはあきらめませんでした。彼は、イスラエル人が解放されるまでパロのもとに通い続けました。ここに私は自分の問題の答えを見つけたのです。そこで私は再び辞任の許可を申請しましたが、私の申請はまたも却下されました。私は三度目に申請し、前とまったく同じ理由を述べました。その後何ヶ月も返事がありませんでした。やっと、最初に申請してから二年後に辞めることができました。

 これは、神が私たちをあらゆる状況に対処できるほど豊かにしてくださることの一例です。私たち自身の人生だけでなく、困った時に助けを求めて私たちのところに来る人々の人生にも当てはまります。

 最後に、エペソ 6:17 を見ると、神の御言葉は聖霊の剣と呼ばれています。クリスチャン生活は、狡猾な敵との絶え間ない戦いです。その攻撃方法は、神の愛、神の正義、さらには神自身に疑問を投げかけることです。この剣は、使い方さえ知っていれば、悪魔のあらゆる動きを打ち破ることができます。失望や落胆は悪魔の最も強力な武器の一つです。悪魔はそれによって多くの勇士を倒してきました。モーセ、エリヤ、ヨナは、その衝撃に怖気付きましたが、主の御言葉に耳を傾けることで乗り越えることができました。

 あなたや私は、気晴らしになることに時間を費やすことで、一時的にはその気持ちを乗り切ることができるかもしれませんが、完全に克服できるのは神の御言葉だけです。イエスご自身も、この剣によってのみ荒野でサタンに打ち勝ったのです。

 私が海軍にいた頃のことですが、私たちの船は一か月以上小さな港に停泊していました。私たちは毎日海に出て訓練していました。船上での仕事のプレッシャーは強烈で、かなり長い間クリスチャンとの交わりの機会がなかったこともあって、ある日私はひどく落ち込んだ気持ちになりました。状況が私を圧倒していたのです。私が船室で一人で座っていると、突然、次の聖句が頭に浮かびました。

「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」(申命記28:13)。

  すぐに、主がどんな状況でも私を上に置いてくださると約束してくださったことが分かりました。すぐに天の喜びが私の心に再び湧き上がり、再び歌が口からこぼれました。敵のあらゆる攻撃に打ち勝つ神の御言葉の力とは、まさにこれです。

 今まで考察してきた九つの象徴は、神の御言葉が人に与える影響を物語っています。イエスが、「一つのこと」が信仰者の生活において最も重要であると言われた理由がお分かりいただけたでしょうか。イエスの御言葉を真剣に受け止めますか。そうであれば、今すぐ決意しましょう。他の事がいかに重要に思われても、これからは毎日の中で、主と神の御言葉と共に過ごす静かな時間をそのことに奪われないようにしましょう。聖書は、この世に神の御言葉を聞くことの飢饉が起こる日が来ると語っています (アモス 8:11、12)。その日には偽物が多くあるかもしれませんが、1テモテ4:1、2 がこれを示唆しているように、真実の飢饉が起こります。その日はもうすぐやって来ると私は信じています。そして、真の神の御言葉の飢饉は、時が経つにつれてますます大きくなるばかりです。

 エジプトのヨセフは豊作の年の間に穀物を蓄えたので、神が予言した飢饉が来た時も、不足することはありませんでした。私たちが今賢明になれば、まさにそのような必要に備えて、今日、神の御言葉を心に蓄えるでしょう。主がこのメッセージを私たち皆の心に深く刻み込んでくださいますように。

「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」(箴言 8:34)

「イエスの足元に座り、

ああ、彼が語る言葉が聞こえてくる!

幸せな場所!なんと近く尊いことだろう!

毎日そこにいられますように。

イエスの足元に座り、

私はそこで泣き祈るのを好む。

彼の豊かさから、

毎日恵みと慰めを集める。」

 章 3
私が願う一つのこと

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

(詩篇27:1−4)

 この素晴らしい詩篇は、イスラエルの王位に就いた人物、ダビデによって書かれたものです。しかし、そのダビデは4節で、彼が望んだのは全世界でただ一つだけだったと語っています。当時の王たちは主に二つの願いを持っていました。一つは領土を広げること、もう一つは富を蓄えることでした。イスラエルはまだそれほど大きな国ではなく、ダビデ自身も「非常に裕福な王」ではありませんでしたが、彼の祈りはどちらでもありませんでした。たとえ敵に囲まれても、彼の唯一の願いは主の御前に住み、主の美しさを見ることであると述べています(3、4節)。そして、彼はさらに、これを生涯追い求めると付け加えています。

 これは、愛する人の前に座り、その美しさを眺め、全世界で他に何も望まない恋人の姿のようです。変わる必要もありません。お互いへの愛はそれほど深いのです。そのような愛を経験した人は、これがいかに本当の愛であるかがわかるでしょう。聖書の中でダビデが神の心にかなう人と呼ばれている理由がここにあると私は信じています。

 彼は完全な人ではありませんでした。彼は人生のある時期に非常に深い罪に陥り、姦淫と殺人を犯しました。しかし、彼が悔い改めた時、神は彼を赦し、清め、失敗のどん底から引き上げ、そのようなダビデを神の心にかなう人と呼びました(使徒13:22)。

 この理由の一つは、先ほど述べたように、ダビデの心の奥底に主への強い愛があったことです。サムエル記上 16:7 で、神は人の心をご覧になると述べられていますが、この御言葉が実際にダビデを指していることは興味深いことです。

 主への愛は、このように、信仰者の人生における最高の優先事項の一つです。

 愛は私たちに必要不可欠なことです。ここでは、三つの項目に分けて考えてみましょう。

 まず、神と人との関係の基盤となる愛、次に、献身の動機付けになる愛、そして最後に霊性の表れとしての愛を見ていきます。

  愛 - 神と人との関係の基盤

 最初の章で、信仰の基盤について考えることから始めたように、ここでも、主への愛にはしっかりとした基盤が必要です。その基盤は、私たちへの神の不変の愛であり、それ以外の何物でもありません。

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ 4:19)。

多くのクリスチャンは、この点について最初からはっきりと理解していないため、後に困難を経験します。クリスチャン生活のまさに初めに、この基盤をしっかりと築く必要があります。そうして初めて、私たちはさらに前進することができます。

 神がこの地球を創造し人間をそこに置かれた時、その神の意図は、地球上のすべてのものが愛の中で生き、動くことでした。神が人間に求めた従順でさえ、奴隷のような服従ではなく、愛による従順でした。選択の自由がなければ、愛という言葉の本来の意味ではなくなってしまうので、神はアダムに、間違った選択、つまり人間が神に従わないという大きなリスクを伴うにもかかわらず、自由に選択できる意志を与えました。どんな犠牲を払っても、神は人と自由な関係を築こうとしました。神は人が奴隷のように仕えることを決して望んでおられませんでした。当時も、そして今日も、神はそれを望んでおられません。

 私たちは、聖書全体を通して、人に関するすべてを支配する神の愛を見ることができます。これに関連して、聖書で「愛」という言葉が表されている最初の二箇所を見てみましょう。聖書の中のどのテーマについても最初の記述は、テーマを学ぶ上で常に大きな助けになります。ですからこの二節を調べてみると、神の愛についてもっとよくわかるはずです。

 愛についての最初の記述は創世記 22:2 で、イサクはアブラハムが愛する唯一の息子と呼ばれています。この章の後半で続く、祭壇へのイサクという捧げ物は、父なる神がその唯一の子を私たちの罪の捧げ物としてお与えになったカルバリの明確な描写です。

したがって、この節で示されている愛は、父なる神のキリストへの愛の描写です。

聖書で「愛」という言葉が 二番目に言及されているのは創世記 24:67 で、イサクのリベカへの愛、つまり夫の妻への愛について語っています。この章の残りの部分も大変美しく書かれてあるように、ここではキリストの教会への愛が明確に描かれています。

新約聖書では、この二つの概念はヨハネ15:9で主によって結び付けられています。

「父がわたしを愛されたように(創世記22:2に描かれている父の息子への愛のように)、わたしもあなたがたを愛しました。(創世記24:67に描かれている花婿の花嫁への愛に匹敵する、罪人に対するキリストの愛のように)」

 このように、旧約聖書に出てくる話においても、神の人間に対する強い愛が反映されています。

 それでは、創世記24章を見て、イサクとリベカの関係の描写の中に、主の大きな愛の特徴をいくつか見てみましょう。神が私たちをどれほど愛しているかを示すために、夫と妻の関係を例として使用されることは非常に重要です。夫と妻の結び付きは、地上のすべての関係の中で最も親密なものです。

類似点を過度に増長することはあまり賢明ではありませんが、新約聖書のエペソ5:21-23などの聖句は、 神が私たち一人一人と個人的な関係を持ち、また私たちも神との関係を自分の中に持つことを望まれていることを明確にしています。このように、旧約聖書の典型において、人間に対する神の強い愛がはっきりと表されています。

 創世記 24 章では、イサクととリベカの関係を示す図の中に、神が人間とそのような関係を模索しておられる寓話を見ることができます。

そこでは、アブラハムは父なる神の象徴または型、アブラハムのしもべは聖霊の型、イサクは子なる神の型として、リベカは、聖霊がキリストのもとに引き寄せようとしている、遠い国に住む救われていない異邦人の型として位置づけられるでしょう。

 アブラハムのしもべ (彼らの遣わされた使命においては、アブラハムとイサクの両方を代表していた) の態度と、リベカに対するイサクの態度の中に、キリストの愛の特徴を見分けることができます。

まず、22節と53節で、アブラハムのしもべが、主人の富からリベカに贈り物を与えているのがわかります。これは神の心を知る手がかりになります。

 神が私たちのところに来てくださる時、私たちに何も要求することなく、ただ与えて下さいます。

良い夫が自分の持っているものすべてを妻と分かち合いたいと思うように、主も私たちと持っているものすべてを分かち合いたいと願っておられます。私たちの中には、もし私たちが主に完全に身を委ねてしまうと、主から多くのことを要求され、自分たちの生活は成り立たないと考える人がいます。言葉ではそうは言わないかもしれませんが、私たちはこのように御手に委ねることを内心、躊躇してしまいます。

しかし、イエスは、私たちの所有物を奪いに来る泥棒は悪魔であると明確に語っておられます(ヨハネ10:10)。この御言葉を信じる人はなんと少ないことでしょうか。主イエスが、持っておられるすべてものを私たちに与えるために来てくださったと本当に信じるなら、迷わず主に私たちの人生を委ねることができるでしょう。

 貧しい老婦人のために家賃を払うための贈り物を持ってきたある牧師の話があります。牧師は彼女の家に行き、ドアをノックし、しばらく待って、またノックしました。しかし、返事がなかったので、牧師はとうとう立ち去りました。数日後、牧師は道で彼女に会いました。「先日、贈り物を持ってお伺いしたのですが、ドアは鍵がかかっていて、返事がありませんでした。」牧師は老婦人に言いました。「ああ、すみません。私は中にいましたが、家主が家賃を徴収しに来たのだと思いました。それで、ドアを開けませんでした。」

 兄弟姉妹の皆さん、主イエスは家賃を徴収するために来たのではありません。主は、ご自身が持つすべてのものを私たちに与えるために来られたのです。主は、想像を絶するほどの富を私たちにもたらそうと望んでおられます。主にドアを開けないのはなんと愚かなことでしょう。主に完全に人生を明け渡さないのはなんと愚かなことでしょう。

 アブラハムのしもべをもう一度見てください。この話で注目すべきことは、この人が、リベカがイサクのために神よって選ばれた女性だと知っていたにもかかわらず、彼女に一緒に行くよう強制しなかったことです。しもべはリベカの自由意志を尊重し、彼女自身が望んだ時に彼女を連れて行きました(54-59節)。これもまた、この章の冒頭で簡単に見たように、私たちに対するキリストの愛の特徴です。

神は人間の選択の自由を尊重します。神の愛には強制がありません。神は決してあなたに何かを強制することはありません。この世の人はそうです、キリスト教の指導者でさえ、あなたの意志に反して多くの圧力をかけるかもしれませんが、神は決してそうしません。(ここではっきり言っておきますが、神に似たものに変えられたいと願う人は誰でも、この点で神に従うはずです。)

 主はあなたに聖書を読んだり、祈ったり、神の証しをすることを決して強制しません。神は罪人に神に立ち返るよう強制することは決してなく、また信仰者に神に従うよう強制することも決してありません。

 幕屋に関するモーセへの指示の中で、神は喜んで捧げる者からのみ捧げ物を受け取るよう命じました(出エジプト記 25:2)。この原則は新約聖書にも繰り返し出てきますし、(2コリント9:7)実際、この原則は聖書全体に貫かれています。神は人が神に従うよう命じますが、決して従うことを強制しません。神自身が人間に与えられた自由意志を常に尊重します。あなたや私がこのような神の愛を恐れる必要などあるでしょうか。

 リベカがようやくイサクの家に着いた時、イサク自身は野原で祈っていました(63節 - 欄外)アブラハムのしもべがリベカを迎えに行った旅は長く、片道約六百マイルで、二か月ほど留守にしていたに違いありません。帰還の時が近づくにつれ、イサクは花嫁がいつ到着するのかと、高まる期待とともに待ち続けていたことでしょう。毎日、彼はテントの入り口から見て一行がやってくるのを待ち、毎日野原に出て、花嫁が早く来るように神に祈ったことでしょう。そしてある日、彼はついにラクダがやって来るのを見ました。彼の心はどんなに喜びに満たされたことでしょう。しかしこれは、私たちの愛する主が今、天の御国で私たちを待ち望んでいる、その神の熱い思いのほんの一部にすぎません。

 私たちは罪深く、汚れ、しばしば反抗的ですが、主の愛は大きく、御国で主は私たちを待ち焦がれておられる、これは素晴らしい事実なのです。私たちの心には主に会いたいという切なる願いがあるかもしれませんが、私たちを迎え入れ、栄光を私たちと分かち合いたいという主の願いは、私たちの思いよりもはるかに大きいのです。

 神は完全にご自分で全てを満たすことのできる方ですが、人の中に住まわれることを切に願われた神の愛は、聖書全体に貫かれているもう一つのテーマです。神がご自分の愛の現実性と偉大さについてあらゆる証拠を示してくださっているにもかかわらず、人々が神の愛を疑う時、神はどれほど悲しまれることでしょう。

 イスラエル国家の歴史を通じて、神は彼らに神の愛の永続性を知らせようとなさいました。神は永遠の愛をもって彼らを愛しました(エレミヤ31:3、申命記4:37)。そして、神が求めておられるのは彼らの愛であると言われました(申命記6:5)。しかし、彼らは私たちと同じで、常に神の愛を疑っていました。それでも神は彼らを愛し続けました。彼らが神に忘れられたと不平を言った時、神はイザヤ49:15の優しい言葉でお答えになりました。

 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」

 母親は成長した大きな子供のことを常に考えているわけではありませんが、胸に抱く小さな子供のことは、起きている間、その子のことを考えない瞬間はほとんどないでしょう。夜寝る時も、彼女が最後に考えるのは隣で眠っている赤ちゃんのことです。夜中に目が覚めたら、彼女はもう一度子供を見て、大丈夫かどうかを確認します。朝起きた時、最初に思うのは再び乳を飲んでいる子供のことです。それが母親の子供に対する愛情です。神の自分の子供に対する愛情もこれと同様です。

 ホセア書もこれを強調しています。ホセアが個人的に経験したつらい経験は、イスラエルに対する神の態度のたとえ話でした。誠実な夫が不貞な妻を愛するように、神の愛は永遠だとホセア書は語っています。神はまた、聖なる神が不従順な花嫁に誠実であるというこの偉大な真実を描く雅歌と言う書を聖書の中に設けられました。

 私たちの信仰は、神が私たちを扱われる時、全て神の愛に基づいているというこの事実にしっかりと根付く必要があります。

 ゼパニヤ書 3:17 の「その愛によって安らぎを与えられる。」という言葉は、「神はその愛のうちに、そっとあなたのために計画しておられます」とも翻訳されます。神が私たちの人生にもたらすすべてのことは、御心により、私たちのために愛を持ってご計画されていることを、私たちは理解しているでしょうか。あなたや私の人生に起こるすべての試練や問題は、私たちの究極の善のために計画されたものです。

 神が私たち自身の計画を絶たれるのは、私たちが神の最善を逃さないようにするためです。私たちは地上でそれをすべて完全に理解することはできないかもしれません。しかし、他に理由はなく、すべては愛ある神の手から来るのだと認識すれば、私たちを悩ませる心配や恐れ、苦悩は取り除かれるでしょう。多くの信仰者たちは、この真理にしっかりと根ざしていないので、不安や心配が心に生じ、聖書が語る「人知を超えた神の平安」や「言葉に尽くすことができない、栄えに満ちた喜び」を知ることがありません。

 主イエス・キリストの宣教は、旧約聖書をよく読んでいた当時の宗教者が神について持っていた誤った概念を訂正しました。

 イエスに関するすべてのこと、病人を癒したこと、悲しんでいる人への慰めの言葉、罪に苦しむ人への愛ある招き、弟子たちに対する忍耐、そして最後に十字架上での死、これらすべてが神の心の愛の性質を示しています。

 イエスは弟子たちに、天の父が彼らを愛し、あらゆる必要を補ってくださることを何度も強調しておられました。イエスは御父を疑うことを何度も叱責しました。世の父親が「子供たちを養う」方法を知っているのであれば、愛にあふれた天の父は、どれほど多くのものを養ってくださることでしょう(マタイ7:9-11)。

 放蕩息子のたとえ話は、わがままで反抗的な子供たちに対する神の偉大な赦しの愛を彼らに示していました。イエスは、確固たる論理、たとえ話、そしてご自分が示した模範によって、当時の人々の神についての誤った見解を正そうとされました。

 十字架に架けられる前の最後の祈りで、イエスは世が神の愛を知るようにと祈られました(ヨハネ17:23)。無限で不変である愛の真実を語る神の御言葉から、私たちの心が確証を得て、それが深く、そして永遠に心に刻み込まれますように。なぜなら、神への信仰は、この土の中以外には育たないからです。

愛 - 献身の動機

主への奉仕の根底にある動機は大変重要です。キリストの裁きの座で重要な事は、「あなたは何をしたか」ではなく、「なぜそれをしたか」です。 最も重要なのは、聖書を読んだり祈ったりする時間数や、配布するパンフレットの数、証しした魂の数ではなく、これらすべてを行う動機です。これらすべての霊的活動に熱心に携わっていても、完全に利己的な動機、あるいは単に律法主義的な動機ですべてを行うことは可能です。主に仕えるこの二つの方法の例は、放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11-32)に見ることができます。弟の動機は利己的であり、兄の動機は律法主義的でした。これらを簡単に考えてみましょう。

 ある日、弟は父親のところに来て、財産の自分の分け前を求めました。そして、私たちがこれまで見てきたように、神の本質は惜しみなく与えてくださるることであり、このたとえ話の父親も息子に喜んで与えました。

 しかし、弟は欲しいものをすべて手に入れるとすぐに父親のもとを離れ、遠い国へ旅立ちました。彼が父親への愛からではなく、父親から得られるものだけを動機としていたことが明白です。 多くのキリスト教信者はそのような人たちです。彼らは、自分が欲しいものだけを求めて神のもとにやって来ます。個人的な利益と祝福が彼らの宗教の原動力です。異教では、もちろん一般的にこれらが動機です。異教徒が神から個人的な利益を得るために施しをしたり、長い巡礼に出かけたりするのは、私たちにとっては驚きではありません。

 しかし、残念ながら、同じ姿勢がキリスト信仰者の間にも見られます。信仰者の九十パーセントが「キリスト」を受け入れたのは、もはや物質的な利益のためではなく (ここインドでは以前はそうでしたが)、地獄を恐れ、天国の喜びを得たいという願望からであるというのは、おそらく真実です。これは全く悪いことではないかもしれませんが、クリスチャン生活の最初から、自分のためという利己的な動機によって、神の元に来ているのです。兄弟姉妹、あなた自身の心を探り、これが自分に当てはまるかどうか考えてみてください。

 さて私が言ったように、霊的に成熟する過程で、主の元に行く動機が自己中心的であることを自覚し、その態度を改めるならば、これはそれほど悪いことではありません。

 しかし残念ながら、実際にはそうなるケースは稀であり、多くの信仰者は自己利益のレベルで一生を過ごしています。彼らが神に与えようとするのではなく、常に神から得ることを求めているため、彼らの人生には多くの問題があり、奉仕に喜びがほとんどないのです。

 なぜ私たちは聖書を読むのでしょうか。多くの場合、私たちは祝福を得るために読みます。時には、聖書学者としての評判を得るためかもしれません。神の御心を知り、それを実行するために、そして私たちの人生を通して神が栄光をお受けになるために聖書を読むことは、どれほどまれなことでしょう。

 なぜ私たちは祈るのでしょうか。多くの場合、それは単に特別な祝福を得たいという思いからです。主の御業が主の栄光のために、この地で益々成し遂げられるようにと祈る信仰者は、どれほど稀でしょうか。私たちは断食して祈ることもあるでしょう。しかし、私たちは立ち止まって、その動機について考えたことがあるでしょうか。自分が強く望んでいるものを得るためではないでしょうか。もちろん、霊的なこともありうるでしょう。聖霊に満たされることなどです。

 しかし、その動機がやはり利己的なものである可能性もあります。つまり、誰が用いられるかに関わらず、神の御業が大いになされることではなく、自分が大いに用いられたいと言う思いです。私たちが求めているのが良いことであっても、やはり利己主義です。

 あなたは賛美の歌い手ですか。ソロを演奏する音楽の才能のある信仰者がいますが、彼らのうち、自分たちが求めているのは主の栄光だけであり、自分自身の栄光でもないと正直に言える人は何人いるでしょうか。

 あるいは、神の御言葉が説かれる集会について考えてみましょう。私たちは信仰者が「私たちはそこで祝福を受けました」と言うのを何度も聞いたことがありませんか。 「私たち」 - 強調されているのは、彼ら自身がその集会で神から何かを受け取ったかどうかです。 神が栄光を受けたかどうかは、あまり重要視されていません。概して、ほとんどの信仰者は、何かを受け取れるところに行くだけです。したがって、彼らは生涯、霊的な幼子、いや、霊的な物乞いのままです。なぜなら、彼らが最も霊的な活動だと思っていることさえ、利己主義の罪が影響を与えるからです。

 1コリント 3:12-15 に描かれている、神のために私たちが行ったすべての働きが焼けてしまう悲劇は、その働きを利己的な動機で行ったことの直接的な結果です。真の悔い改めは、自己中心から神中心になるということです。

 この放蕩息子のたとえ話では、兄の方が二人の中では優れていると一般に考えられがちです。しかし、兄の態度を調べてみると、兄も弟と同じくらい悪いところがあったことがわかります。

 弟が帰ってくると、父親は家族全員で喜びました。しかし、兄は嫉妬​​心からその喜びを分かち合うことができませんでした。放蕩者の弟にこのような栄誉が与えられたことに腹を立て、家に入ることさえしませんでした。父の懇願に対する兄の返答は、彼がこれまで父に仕えてきた霊そのものを物語っています。

「私はこれまでずっとあなたに仕えてきましたが、一度も背いたことはありません。それなのに、あなたは私にこのような報酬を一度も与えてくださらなかったのです。」

 父に対する兄の仕え方は、喜びと愛情に満ちたものではなく、賃金のために主人に仕える召使いのように、打算的で律法主義的でした。私たちの多くもそうであるように、兄は自分を他の人と比較したため、不満が募りました。兄弟どちらも、受けるに値する以上の祝福を受けるはずだったのに、祝福を受けるに値する人は何も受けなかったのです。

 あなたはそのように主に仕えていますか。聖書を読み、祈ることは、自分に課せられた、決して破ってはいけない規則的な義務として行っていますか。 毎日静かに聖書を読むことが良心を満足させるためだけなら、その静かな時間は儀式にすぎません。 多くの信仰者が聖書を読むことや祈ること、証しすることに喜びを感じないのも不思議ではありません。 神の恵みによって救われたのに、自ら進んで再び律法の下に身を置くなら、主への奉仕がすぐに負担や重荷になるのも不思議ではありません。

キリストの死によって、私たちは律法に対して死んでいます。それは、復活したキリストと結ばれるためです。 これがローマ7:1ー6 の教えです。 パウロのかなり奇妙な表現は、単に、召使いが主人に仕えるように律法主義的に主に仕えるのではなく、妻が愛から夫に仕えるように、これからは「新しい霊で」主に仕えるという意味です。

 この二つには大きな違いがあります。まず召使いを見てみましょう。召使いは規則の下で働き、決まった労働時間と決まった賃金があります。現代社会では、召使いは働きすぎや低賃金だと思えばストライキを起こします。

 残念ながら、今日、神の子の多くがそのように主に仕えています。「召使い」は定められた「儀式」を忠実に行います。毎日個人的に静まる時間は短く、その後神の前で、困っている数人の名前をオウムのように復唱する「執り成し」を行います。これに加えて、週に一、二回、あるいは三回、集会や礼拝に出席します。 こうすることで、神に十分に喜んでもらい、自分や家族に災難が降りかからないように、子供たち全員が試験に合格するように、そして仕事で定期的に昇進できるように神に求めます。さらに、福音伝道の信念も誇りに思っています。そして、予期せぬことが降りかかると、神と人々の前ですぐに不満を述べるのです。確かに神に仕えないよりは、恐れから神に仕える方がまだましですが。

しかし、兄弟姉妹の皆さん、もっと高くて優れた道があります。それは愛の道です(コリント12:31; 13:1)。神は、宗教的活動を怠れば罰せられるかもしれないという恐れから、私たちが仕えることを望んではおられません。神は、私たちが、良い妻が夫に仕えるように、愛から神に仕えることを望んでおられます。妻は賃金のために、あるいは決まった時間だけ夫に仕えるのではありません。規則に従って働くことも、報酬のために働くこともありません。夫が生涯病弱であっても、妻は夫を愛しているからこそ、多大な犠牲を払って、報酬がなくても夫に喜んで仕え、世話をし続けるでしょう。

 これが神が私たちに望んでおられる奉仕です。なぜなら、それが神が御子を通して私たちに与えてくださった奉仕だからです。神への純粋な愛からではない奉仕は、神の目には無価値です。さらに、利己的な目的や律法主義的な霊で神に仕えることは、まったくの苦痛な作業です。それは、ベアリングに砂が入った車を運転しているようなものです。車はうめき声を上げ、文句を言い、少しでも前に進もうと苦戦します。しかし、残念ながら、私たちの中にはこのような生き方や奉仕をしている人がいます。砂を取り除いて機械に油をさしてください。車はスムーズに、音もなく、素早く動きます。そして神は、あなたが聖書を読み、祈りに費やす時間がそのようになることを望んでおられます。神は、あなたが礼拝し、証し、クリスチャンとしてのすべての活動が、神への愛から、自由にそして喜びのうちに湧き出ることを願っておられます。

 旧約聖書の偉大な聖人ヨブの姿勢は、私たちが見て来た二人の息子とは著しく対照的です。ヨブ記には、神に受け入れられる奉仕の姿が書かれてあります。サタンは、ヨブが奉仕から何か得るために神に仕えていると非難しました。

 神はヨブを祝福し、計り知れないほど豊かにしませんでしたか。そのような報酬を得るために働く人はいないでしょうか。

それゆえ、真実を明らかにするために、神はサタンがヨブを試すことを許し、サタンは一撃でヨブのあらゆる財産を奪い、次に子供達を、そして最後には健康さえも奪いました。しかし、これらの大惨事に直面しても、ヨブは神を賛美し続けました。試練の中の激しいプレッシャーの中で、ヨブは時々神の計らいを疑います。しかし、ヨブの言葉をいくつか見てみましょう。

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。ヨブ1:21

私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。

ヨブ2:10

神が私を殺しても、私は神を待ち望み…神もまた、私の救いとなってくださる ヨブ13:15−16

私は知っている。私を贖う方は生きておられ…私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。ヨブ19:25−27

神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。ヨブ23:10

 ヨブが純粋な動機で神に仕えていることをご覧になった神は、ついにヨブに、以前与えた倍の祝福を与えられました。そのような従順な霊を示す者こそ、神の最高のものを手にすることができます。そしてヨブは、あくまで旧約聖書の中の神の人であったことに注目してください。ヨブがそのような高みにまで昇ることができたのなら、新約の時代の私たちにも、なおさら起こりうることなのです。

 約二百年前、モラヴィア派の宣教運動、神の霊の驚くべき働きが、現在のチェコで起きました。この運動は、今日ではめったに見られないほど、主への並外れた献身的な態度を持つ、歴史上最も素晴らしいと言えるキリスト教宣教師を何人か輩出しました。

 これらのモラヴィア派の信仰者の中には、福音を携えてアフリカに足を踏み入れ、そこでハンセン病患者のコロニーに辿り着いた人たちがいました。彼らは、ハンセン病患者たちにキリストの福音を宣べ伝えたいと申し出ましたが、外に出た時に他の場所に病気の伝染が広がってしまうと言う理由で、コロニーに入ることが禁じられました。 しかし、患者たちの魂を主のために勝ち取りたいという願いがあまりにも強かったので、彼らはコロニー内で生涯を過ごすことを決意し、主のためにそこで生き、死ぬことを厭いませんでした。

 別の例では、モラヴィア派の兄弟たちは、西インド諸島の島に奴隷だけで構成された共同体が住んでいるという話を耳にしました。しかし、そこに入ることを許されたのは奴隷だけでした。それでも、奴隷たちをキリストのために勝ち取りたいという思いは非常に強く、彼らに栄光の福音を宣べ伝えるため、兄弟たちは自由を捨て、その島の主人に自らを奴隷として差し出しました。

 なぜこれらの人々はそのような犠牲を喜んで払うことができたのでしょうか。利己的な動機からでしょうか。今日の多くのキリスト教活動の目的のように、評判を高めるためだったのでしょうか。それとも、神に媚びるため行われた律法主義的な奉仕だったのでしょうか。

 いいえ、決してそうではありません。キリストに対する純粋な愛によって、これらの兄弟たちは世が愛するすべてのものを捨て去りました。それは、らい病人や奴隷たちの中から「ほふられた子羊のために、その苦しみの報いを勝ち取る」ためでした。この世で永遠の価値あることを成し遂げた人々は、常に愛から主に仕えた人々です。ヤコブがラケルを勝ち取るために十四年間仕え続けたのは、愛だけでした(創世記29:20)。ヤコブは彼女への愛によって、労苦の重圧も忘れました。キリストに対する愛は、あなたや私を、最も困難な奉仕を喜びのうちに切り抜けさせてくれるでしょう。

愛 - 霊性の表れ

 この章の最後に、ヨハネ21:15-17にある主の復活後の出来事について見ていきます。十字架刑の前に、ペテロは主を三度否定しました。これは、ペテロが主と共にいた三年半の中で最も失望した時であり、それまでペテロは傲慢で、自己主張が強く、祈りを怠る人間でした。

 しかし、主は、ペテロに羊を牧するよう命じられた時、ペテロの弱点については一切お触れになりませんでした。また後にも、もう少しへりくだって祈り深くなり、主のために迫害に直面しても大胆に証しするように、とはペテロに言われませんでした。

 そうです、これらは確かに霊的な人、特に神の民の指導者となる人に求めるべき資質ですが、主はそのような質問をしませんでした。イエスにとって、単純な質問一つにペテロから真の答えが得られればそれで十分でした。

「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

 キリストへの愛は、人の霊性の真の表れです。人が教会で高い地位、おそらく司教の地位に達した場合、私たちは当然、その人は霊的な人に違いないと考えます。しかし、必ずしもそうであるとは限りません。

 人を霊的にするのは、新生とそれに伴うキリストへの愛です。今日では、教会の司教が新生していない可能性もあります。神学の学位を一つあるいは複数取得しても、また、健全な福音主義の神学校を卒業したとしても、人は霊的になるわけではありません。あなたはフルタイムのクリスチャン活動家や教会の牧師かもしれませんが、それで神の人になるわけではありません。

 あなたも私も、集会に定期的に出席することや、聖書の深い知識、伝道への衰えない熱意を霊性のしるしだと勘違いしてしまいます。

 独特の服装や敬虔な外見も私たちを欺くことがあります。しかし、それらはどれも重要ではありません。神の目に真の霊性があるかどうかのテストは、ただ一つ、つまり神への愛の度合いです。結局のところ、それはあなたと主だけの問題です。主はあなたに「私を愛しますか」と尋ねられ、その答えを見つけるのはあなたです。

 イサクがリベカを愛した時、彼が見返りに求めたのは彼女の奉仕ではなく、彼女の愛でした。同じように、主が私たちに期待しているのは、私たちの奉仕ではなく、私たちの愛です。真の愛があるところには、奉仕が自然に伴います。

 アブラハムのしもべは、リベカと共にメソポタミアからカナンまで六百マイルの旅をしました。その旅の間、二人は何を話したと思いますか。もし彼女が本当にイサクを愛していたなら、リベカは間違いなく、道中ずっとイサクについて尋ねていたでしょう。主イエスを本当に愛する信仰者は、まさにそのような渇望をもって聖書を読みます。日々、聖霊に主の美しさをもっともっと明らかにしていただくことを心から願います。私たちが見たように、これこそがダビデ(詩篇27:4)の望んだことでした。

 時代を超えて、この点でダビデに従った人々がいました。アバディーンの地下牢に横たわっていたサミュエル・ラザフォードは、「ああ、主よ、もし私とあなたの間に広い地獄があって、そこを通り抜けなければあなたに近づけないとしても、私はためらうことなく突き進みます。そのすべてを突き抜けて、あなたを抱きしめ、私のものと呼べるなら。」と叫びました。ああ、しかし残念なことに、そのような飢え渇きを感じている人はなんと少ないことでしょう。主への愛の尺度こそが私たちの霊性の本当の尺度であることを、私たちに改めて示してくださいますように。そして、私たちが自分自身を欺かないように、主ご自身が用意してくださった物差しを思い出しましょう。私たちの愛の証拠は、私たちの従順さです(ヨハネ14:15、21、23、24)。

聖書の最後の書は、この重大な真実を確認しています。そこで主は、エペソの教会が始めの愛から離れてしまったことを叱責しています(黙示録2:1-5)。

 他の点では、それは注目すべき良い教会でした。そこのクリスチャンたちは忍耐強く働き、悪を憎み、偽りの使徒を暴き、御名のために耐え忍んできました。彼らは心身を主の御業に捧げ、何事にも諦めませんでした。しかし、これらすべてにもかかわらず、主は彼らを喜ばれてはおられませんでした。主の証し人としての彼らの存在が脅かされるほど、重大な何かが欠如していました。

主は彼らに、堕落してしまった、悔い改めなければ、主は証人としてのしるしである油注ぎを取り消すと言われました。では、彼らには一体何がかけていたのでしょうか。

 それはまさに、主への愛です。彼らは主に対する最初の愛を失ったのではなく、主への愛を忘れ、その愛がどこかに移行してしまったのです。 彼らは集会や修養会、大会やその他のキリスト教活動に忙しくなりすぎて、これらすべてのものの目的である主を見失っていました。

 この章は明らかに、主が私たちの奉仕よりも、主に向けられた心の献身を気にかけておられることを示しています。

 悪魔はこのことをよく知っているので、私たちがあらゆる奉仕活動に没頭して祝福の主との大切な時間を過ごさせないようにし、主への個人的な献身を最終的には剥奪しようと全力を尽くします。

 イエスは、終わりの日に罪が世界にあふれ、多くの人が主への愛に冷たくなるだろうと警告しました(マタイ 24:12)。私たちは今、その時代に生きています。自分は主の信仰者だと言う大多数の人々の霊的な温度は氷点下です。私たち自身が常に警戒していなければ、その冷めた心が私たちの中にも浸透して行くでしょう。

 クリスチャンの兄弟姉妹の皆さん、たとえ他のすべてを失っても、ただ一つのこと、つまり主への愛は絶対に手放さないでください。ダビデのように、あなたが心から望み、生涯求め続ける唯一のこととしてそれを大事にしてください。

「その中で一番すぐれているのは愛です。…愛を追い求めなさい」。

(1コリント13:13、14:1)

「最愛の友、神よ、

あなたの深い悲しみと、

終わりのない憐れみに対して、

どんな言葉を借りて感謝したらよいでしょうか。

私を永遠にあなたのものにしてください。

そして、もし私が倒れても、

主よ、私を決して、決して

あなたへの愛よりも

生き長らせないでください。」(賛美歌)

 章 4
一つ欠けていること

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。(マルコ10:17〜22)

 これは、熱心に主のもとに来たけれども、失望して去って行った裕福な若者の話です。彼は並外れた若者でした。真実を知りたいという熱意から主のもとに駆け寄り、ひざまずいてへりくだりました。そして、彼が永遠のいのちについて、とても興味を持っていたのは明らかです。

 これは若者には珍しい、そしておそらく裕福な若者の間では最も珍しいことです。さらに、イエスが彼に戒めについて語られた時、彼はためらうことなく、戒めをすべて守ったと答えることができました。彼は姦淫をしたことがなく、殺したこともなく、盗んだこともなく、偽証したこともなく、だれかをだましたことも、父や母を辱めたこともありませんでした。

 イエスが彼の発言に反論されなかったことから、彼が優れた若者であり、正直で、高潔で、道徳的で、誠実で、熱心であったことは否めません。しかし、イエスはその後、彼の人生にまだ欠けている唯一のことを指摘しました。それは非常に重要なことであり、それがなければ、彼の他の資質は無益でした。

 この若者は物質的な所有物への執着があったために、十字架を背負って主に従うことを望まなかったのです。

 21節には、イエスが彼を見て愛したと書かれています。イエスはこの若者を見て、彼の若い人生に神の栄光のために使われる大きな可能性を、また彼自身と悪魔のために悪用される可能性の両方を見出されました。そして彼を愛しました。

主は今日の若者たちも、まったく同じようにご覧になられるでしょう。主はすべての若者の人生に潜在する可能性を見ると同時に、彼らの人生のほとんどが「永遠に」続かないものに費やされていることもご存じです。今日、非常に多くの若者がそのようなものに魅了されています。この話の若者のように、彼らは悲しみながら去っていくのです。彼らは代価を払ってイエスに従うことを望まず、彼と同じように、自分が創造され贖われた目的を人生を通して果たせると言う素晴らしい特権を逃してしまいます。彼らが選んだ悲しみは永遠に彼らのものとなります。

 マタイ11:28で主が重荷を負った罪人に与えた招きは誰もが知っていますが、それに続くイエスの次の言葉については知らない人が多いと思います。「わたしのところに来なさい」という呼びかけを聞いた人々に対して、イエスは続けてこう言われました。

「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(29節)

これは実際には、イエスが他の箇所で言われた「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」という言葉と同じです。

 しかし、マタイ11:28と29のイエスの二つの聖句は、決してイエスの意図によって分けらたものではありません。イエスは、ご自分のところに来るすべての人が自分の十字架を負って従うことを意図しており、従う意志のない者がイエスのもとに来ることは望んでおられませんでした。

 主イエスは、救われ天国へ行くことだけを望む人々と、十字架を負って完全に従う覚悟のある人々という、二つの異なる献身の形を人々に示されたのではありません。イエスが人々に求められた基準はただ一つです。罪の赦しを求めて神のもとに来た者は皆、神の目的を成就するまでそれを追求するということです。

 多くのキリスト教の説教者は二つの別々の基準を示しています。一つはキリストを救い主として受け入れること、もう一つはキリストを主として生きていくことです。しかし、これはパウロの言葉を借りれば「別の福音」であり、使徒たちが説いていたキリストの福音ではありません(ガラテヤ1:6-9)。

 神が元々結び合わせたものを、キリスト教のメッセージの二つの重要な要素として人が分離してしまったことが、今日のキリスト教会に活気がない原因です。

 おそらく、十字架を背負うことの本当の意味を明確に理解している人はほとんどいません。ほとんどの人は、人生の偶発的な重荷を十字架と呼んでいます。また、身体的な弱さを十字架と見なす人もいます。さらに、手に負えない妻や愛情のない夫、反抗的な子供などをも当てはめる人がいます。

 言っておきますが、これらは、人々が首にかけている金の十字架や教会の尖塔の石の十字架と同じように、私たちの本当の十字架ではありません。これらはどれも、イエスが「自分の十字架を負いなさい」という言葉で意味した十字架ではありません。今日のキリスト教会は、キリストの十字架を宗教的シンボルとして美化しすぎて、ほとんどの人が誤解しています。

 イエスが世で生きていられた時代、十字架は死の道具でした。それはとても屈辱的なものでした。もしあなたがその時代にエルサレムに住んでいて、ある日、ローマ兵に囲まれながら十字架を背負った人が通りを歩いているのを見たら、その人が処刑場へ向かっているのは明らかです。彼は親族や友人に別れを告げ、二度と戻ることのない道を進んでいます。彼はこの世に別れを告げ、そこを永遠に去って行きます。この世で所有していたものは、二度と見ることはありません。さらに、イエスは最も恥ずべき屈辱的な死に方でこの世を去ろうとしておられました。十字架の死は不名誉の死です。

 イエスがこの裕福な若者のような人々に、十字架を背負ってご自分に従うように命じられた時、イエスはこれらのことを言われたのです。

従うということは、イエスが十字架に架けられるためにエルサレムに向かった同じ道を歩むということです。イエスが信仰者の人生における十字架について語る時、この十字架の絵を心に思い描かない限り、彼が何を意味しておられたのかを完全に理解することはできません。

 しかし、先に進む前にここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエスは誰にも十字架を背負うように強制しないということです。前章で、神は常に人の自由意志を尊重することがわかりました。イエスはこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)。ここには強制はまったくありません。イエスは、神の目的全体に私たちが自発的に献身することを望んでおられます。

 別の機会に、主イエスは一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実を結ぶことを話されました (ヨハネ 12:24)。ここでも、イエスは後に起きる十字架での死を暗示していましたが、この聖句の原則は、霊的に実り豊かな人生を送ろうとするすべての人に当てはまります。

一粒の麦は、他の麦と一緒に穀倉にとどまっている限り、一粒のままです。実を結ぶには、他のすべての麦から切り離され、一粒だけ地に落ち、そこで死ななければなりません。

そうして初めて、勝利に満ちた豊かな実りが芽生えます。ですから、この章の主題は、キリストと共に死ぬことです。ここでも三つの見出しで考察します。まず、十字架には分離が含まれること、次に十字架は死を意味すること、そして最後に十字架は勝利と実りをもたらすことです。

十字架には分離が含まれる

 カルバリの丘でイエスが十字架にかけられた時、イエスと共に有罪とされた二人の盗賊が、イエスを真ん中に置き、両側に架けられました。苦しみの時間、二人は物理的に離れていましたが、イエスの十字架によっても霊的に離れていました。そこで二人は永遠に分けられ、一人は滅び、もう一人は永遠にイエスと共にいることになりました。

 これはイエスの十字架が常にもたらすことの描写です。十字架は、光を選ぶ人間と闇を選ぶ人間を分離します。そう、分離です。今日、人類に分離をもたらそうとする動きはいつもサタンから来ており、統一に向けたあらゆる動きは常に神から来ると思っている、熱心なクリスチャンはたくさんいます。しかし、彼らは聖書のことをよくわかっていません。

 聖書は、最初の段落で分離について語っています。創世記 1:3 では光の創造について、4 節では神がこの光を良しとされたと書いてあります。そこで神は光と闇を分けられました。  もし神が、光と闇の混合を許していたなら、おぼろげな光が現れたかもしれませんが、それでは神が創造された光の、いのちを与えるという本来の目的は果たすことができなかったでしょう。このように、分離を最初に行ったのは神であったことがわかります。神は独自性ある神であり、聖書全体を通して、この原則が明確に記されています。

 さらに、「分離の原則」は同時に「人々の分離」を含みます。神はイスラエルが他の国々の人と結婚することを禁じられました。それは、彼ら自身が暗闇にある国々に対して光となるためでした。同じ理由で、新約聖書では教会は世から分離するようにと明記されています(2コリント 6:14)。実際、英語版で「教会」と訳されているギリシャ語の「エクレシア」という言葉自体が「召された集団」を意味します。

 教会と世は、カルバリでイエスの両側で架けられた二人の盗賊と共通点があります。二人とも元々は悪人でしたが、一人は悔い改めたので赦され、義とされましたが、もう一人は罪を犯し続け、赦されることなく死にました。ですから、彼らの永遠の運命は、教会と世がそうであるように異なっていました。なぜなら、世の霊は神の霊に全く反し、闇を愛し、光に背を向けるからです。そして自分の運命を自分で選んでいます。

 時にはこれは宗教界にも当てはまります。キリスト教の「教会」として行われていることが、神の霊ではなくこの世の霊に従ってなされ、神の御言葉ではなく人間の伝統に基づいていることもあり、私たちは見極めなければなりません。

主イエスが、エルサレムの町の外で十字架につけられていたまさにその時に、祭司や宗教指導者たちは町の中の宮で神を礼拝していました。彼らは神の子を十字架につけましたが、盲目のまま、神が自分たちを喜んでいると信じ込み、虚しく宗教儀式を続けていました。主イエスご自身は、その生涯においても死においても、すべての宗教的形式主義の外におられました。そして、主イエスの真の弟子たちもそうです(ヨハネ16:2)。

 今日、ラオデキヤの教会のように自負し、それらのユダヤ人と同じ立場にあるキリスト教会は数多くあります。彼らは、自分たちは万事順調であると考え活動を続けており、実は、主ご自身は教会の戸の外におられるのです(黙示録3:14、20)。

二十世紀初頭、主を受け入れたばかりのアフリカ系アメリカ人が、米国南部のある都市の教会の礼拝に参加した話があります。彼は、キリスト教会にも肌の色による差別が及んでおり、この教会が白人専用であることを知らず、そして案内係に建物内への入場を止められたことに驚きました。彼はがっかりして立ち去り、祈りの中でそのことを主に言いました。主はこう答えました(物語によると)。

 「心配しないで、わが子よ。わたし自身、その教会が設立されて以来ずっと、その教会の中に入ろうとしてきましたが、まだ入ったことがありません。だから、あなたが追い返されても不思議ではありません。」

  宗教的形式主義や教会の伝統が神の御言葉よりも優先されている場合、このような社会的偏見は簡単に人の心を捕らえます。自分の十字架を背負ってイエスに従うクリスチャンは、自分がそのような世俗的なキリスト教界から霊的にかけ離れていることに気づきます。

 しかし、そこから分離することがなかなか難しいのが現状です。今日、キリスト教会間の統一性ばかりが語られているので、多くの人は会衆に分離を説けば、無慈悲で反キリスト者だと見なされると恐れています。 

 ですから、真のキリストらしさが何であるかについて偏った見方をしないよう、ルカ 12 章 51、52 ​​節のイエスの御言葉を心に留めきましょう。イエスはそこで、分裂をもたらすために来たと強調しておられます。もちろん、聖句には一体性が書かれてあり、それはヨハネ17章でイエスが語っておられることで、神性から来る一体性(「私たちの中に」、21節)です。イエスはこの章で、分裂についても非常に強く語っておられます(16節)。この一体性は、エペソ4:3に書かれてある一致、聖霊によってもたらされる一致です。人間が作った一体性はまったく別のことです。それはバベルの塔で示された一致(創世記11:1-9)と同じで未来はありません。

 世からの分離は、事実、新約聖書の主要なテーマです。十字架に架けられる前に、イエスは弟子たちに、彼らは世に属していないと言われました。イエスは、この世の者ではなく、ただ一人の個人でした。そして、弟子たちも真にこの世の者ではないことを断言しました。そして、弟子たちはこの世に属していないので、この世は生きにくい場所であることも言われました。(ヨハネ15:19; 17:16)。

 弟子には、世に染まらずに自分を清く保つ責任があります(ヤコブ1:27)。教会はキリストの花嫁であり、キリストによって愛され、勝ち取られ、聖別されたからです(エペソ5:25-27)。パウロがコリントの信徒たちに対して言った「神の熱心」ということです。パウロは、キリストに彼らを清い処女として差し出すことを望み、悪魔が彼らを堕落させることを心配していました(2コリント11:2、 3)。これは、世の霊と親しくする信仰者たちにヤコブが語った「貞操のない人たち」という極めて強い言葉でも表現されています(ヤコブ4:4)。

 確かに、聖書は分離について多くのことを語っています。しかし、聖書が語っているのは距離的なことではないことを覚えておいてください。それは、世俗的な人々から物理的に距離を置くということではなく、心の分離を指します。 

 世の人々と接触のない、人里離れた場所に隠遁者として住めば神に近づくことができると考えた人は多くいます。修道院に閉じこもる修道士や、修道院の壁の中に隠遁する修道女は、聖書が教える分離の意味を理解していません。また、この分離は、白やサフラン色の服、またはその他の制服を着ることを意味するものではありません。イエスご自身は、外面的な区別の手段を説いたり、実践したりすることはありませんでした。

 イエスが教え、実践したのは、この世の霊から自由になることでした。この世の真っ只中に生きていてもです。

 私たちは異質な要素の中に存在します。海の真ん中にいる船は水に囲まれていますが、海水は船の中に入りません。信仰者がそのように生きれば、遅かれ早かれ世からの嘲笑や反対に直面するでしょう。信仰者にとって、世はすぐに住みにくい場所です。

 イエスは、ご自分に従うには必ずこのような患難があると弟子たちに前もって警告されました(ヨハネ16:33)。クリスチャンが天国に属する者であれば、当然世は居心地の悪い場所です。クリスチャンは、水から出たきた魚であり、ここでは生きていけないと感じても驚く必要はありません。魚が陸上で生き続けるには奇跡が必要ですが、キリストの真の教会が世で生き抜くためには、それと同じくらいの奇跡が必要です。しかし、それこそが、神が信仰者に期待されていることなのです。つまり、奇跡を起こしてくださる神の力に日々頼る人生です。

 神は、神の民とこの世の霊との間に、天国と地獄を隔てる淵(ルカ16:26)と同じくらい深く広い溝があることを期待しています。それは、絶対に橋渡しもできないくらいの溝です。神はいつも神の民に、この世の霊からの自由を願っておられます。残念ながら、多くの信仰者はまだこのことを理解できず、無力で欲求不満を抱えたままです。

 アブラハムは、彼の霊が一旦解放され自由になると、力と豊かな実りの場所へ導かれました。これは創世記22章に明確に描かれています。主はアブラハムに、一人息子を捧げるように言われました。これは(12節から明らかですが)イサクを殺めるためではなく、息子への過度の愛情からアブラハムを解放するためでした。

 ここでは、神のしもべとしてのアブラハムの質が試されていました。神は、アブラハムが息子イサクに対する利己的な所有欲から解放されること願われたと同時に、イサクを神の賜物として常に大切にしてほしいとも思っておられました。

 主が私たちから物質的な所有物や、大切にしているものを差し控えたり、取り上げたりされる時、主はアブラハムと同じことを私たちにもなされるでしょう。聖句の中で、主は金持ちの若者に、持っているものをすべて売るように言われました。彼はお金に執着しすぎていたのです。

 物質的なものはそれ自体では罪ではありません。それが主に従うことの妨げになった時に、罪深いものになります。同じ理由から、主は私たちの家族の中にも試練をお許しになります。それは愛する人への過度の愛着から私たちを引き離すためです(ルカ14:26、27参照)。

 真の分離とは、私たちが持っているものすべてを、自分のものではなく主のもの、そして主の栄光のために与えられたものと信じて所有することです。

 私たちは自分を神の子であると思っているかもしれませんが、キリストの十字架のこの側面をそのすべての犠牲とともに受け入れなければ、神がすべての息子と娘に与えてくださる子としての特権を楽しむことはできません(2コリント6:14-18)。

 兄弟姉妹の皆さん、神が私たちに与えようとしている、想像もできない富があります。私たちはまだそれを受け取っておらず、神はそれを私たちに与えることができません。なぜなら、私たちの心は散漫で、私たちの手はこの世と物でいっぱいだからです。

十字架は死を意味する

 イエスが弟子たちに語った十字架を、私たちが本当に受け入れるならば、それは死を意味します。小麦の穂が地面に落ち、踏みつけられ、輝く外殻が割れた時、それはもはや美しくありません。それとまったく同じように、十字架を背負ってイエスに従う信仰者は、この世にとって魅力的ではなくなります。世はその人を軽蔑します。以前は彼を多くの点で賞賛していたかもしれませんが、もはやそうではありません。その人は、自分の主のように人々から軽蔑され、拒絶されています。 

 旧約聖書の時代に、祭壇に捧げられた犠牲が火で焼き尽くされ灰になったように、キリストの十字架は人を死に至らせます。それが主への真の献身ということです。神の火は、神に捧げられたすべての命を焼き尽くし、その魂はもはや自分自身や世のために生きることはできず、神のためだけに生きることになります。彼はこの世に対して死に、この世も彼に対して死ぬのです(ガラテヤ6:14)。

 今日のクリスチャンの中には、この事実を考慮しない表面的な捧げ物が多くあります。しかし、私たちの救い主が「自分の十字架を負いなさい」と言われたのであり、これが神に受け入れられる唯一の捧げ物です。

 旧約聖書の犠牲で、祭壇の上で火で焼かれなかったものは神に受け入れられませんでした。私たちは、神の祝福を受けようと自分を神に捧げたことは何度もあるかもしれませんが、このように自分に対して死ぬために身を捧げたことがありますか。神が喜ばれる部分を自我から取り除き、野望や計画をすべて打ち砕き灰にしてもらったことがありますか。それが十字架の意味です。

 クリスチャンが主イエスに従うと公言しながら、同時に、イエスを十字架につけ拒絶する世から受け入れられて評判を得ようとするのは実に嘆かわしいことです。彼らのキリスト教は、偽りのキリスト教以外の何物でもありません。世あるいはキリスト教界で受け入れられ、人気を得ることは、神の祝福を示すものではありません。それどころか、イエス自身が常に警戒するよう警告していたことです(ルカ6:26)。

イエスにとって、世がご自分を受け入れるか拒絶するかは、少しも問題ではありませんでした。なぜなら、イエスは十字架にかかるずっと前から、この世に対して死んでいたからです。イエスはわざわざ世から嫌われるようなことはされませんでしたが、一方で、父の御心を行うことで世から拒まれても気になさいませんでした。

 それこそイエスの弟子たちがもつべき霊です。だからこそ、パウロは自分を「キリストのために愚かな者(a fool for Christ's sake)」と呼んだのです(1コリント4:10)。

 このF.F.C.S.は、F.R.C.S.やその他の世俗的な資格よりもはるかに求めるべき学位です。パウロが行くところはどこでも、彼を愚か者として軽蔑する人たちがいました。しかし、パウロは動揺しませんでした。主と同じように、彼はこの世に対して死んでいました。

 ある町である人が、聖句を書いたプラカードを体に付けて通りを歩き、主の証しをしていました。(西洋では「サンドイッチボード」と呼ばれています。)その結果、彼は町の多くの人々の嘲笑の的になりました。ある日、彼が外出した時、プラカードの表には「私はキリストのために愚か者です」という言葉を、裏には「あなたは誰の愚か者ですか」という言葉を書いていました。

 兄弟姉妹の皆さん、もし私たちがキリストのために愚か者になる覚悟がなければ、気づいていてもいなくても、私たちは悪魔のために愚か者になるということを理解していますか。

 十字架を受け入れるということは、この世に対して死ぬ立場を受け入れることであり、そうなれば世から褒められるか貶されるかはもはや問題ではなくなります。これは多くの若者に「唯一の欠けていること」であり、それによって、主への効果的な奉仕がかなり制限されてしまい、多くの場合完全に妨げられています。

 私たちは多くの学歴や資格、才能を持っているかもしれませんが、これが欠けているなら、それらはすべて主への奉仕において何の役にも立ちません。

 十字架はこの世に対する死を意味するだけではありません。それはまた、私たち自身の意志に対する死も意味します。これは、これまで見てきたことよりも難しいことです。なぜなら、それはもはや私たちが自分の道を歩まず、主の道を選ぶことを意味するからです。

 またそれは、自分の権利を主張しないということです。他の人が私たちを傷つけても、もはや報復しないことを意味します。これは、イエスが山上の説教(マタイ5、6、7章)で弟子たちに示された生き方です。それは不信者だけでなく、悲しいことに、信仰者の多くの人も送っているような世俗の生き方とは全く異なります。

 上記の3章でイエスが定めた基準を見て人々は、それに従って生きるのは難しすぎると言いました。難しすぎるのではなく、不可能です。私たちが日々の生活の中で十字架を受け入れる覚悟がない限り、そのような生き方は不可能です。

しかし、私たちのいのちがキリストの支配に委ねられるならば、私たちは喜んで人々に反抗しようとする自分を拒み、人が私たちに行うすべてのことに素直に従うことができます。なぜなら、それを許されるのは神だからです。

 これこそが、イエスが裁判にかけられた時の姿勢でした。イエスは一言で七万二千の御使いを助けに呼ぶこともできましたが、そうされませんでした。イエスは、父がすべてを許したと信じて、偽りの告発、侮辱、殴打、十字架刑に素直に従いました。裁判でイエスは虫のように扱われ(詩篇22:6)、拒絶され、踏みつけられました。

 蛇と虫の違いは、前者は踏みつけられると反撃しますが、後者は踏みつぶしても決して「報復」しないということです。前者は悪魔の霊であり、後者は神の子の霊です。誰かが私たちを傷つけたり、侮辱したり、権利を踏みにじったりした時、私たちは、このどちらかの霊によって対応します。あなたの場合はどちらでしょうか。

 ひどく屈辱的な侮辱を受けたことがありますか。 十字架を受け入れるということは、責める人に対して、同じ口調で言い返さないように聖霊に舌を縛ってもらい、痛烈な返事を書かないように手を縛ってもらい、憎しみに愛を、呪いに祝福を、辛辣さに優しさを返すように心を溶かしてもらうことを意味します。

 そのような状況では、友人や傷ついたあなた自身が、「屈辱をそのまま受け入れて、侮辱する相手を逃すな」と言うかもしれません。しかし、聖霊は十字架の道を指し示し、「いいえ、何もせず、何も言う必要はない。その代わりに、あなたを通してその人を愛させてください。」と語ってくださるでしょう。

 あなたはどちらの声に耳を傾けますか。罪深いこの世に生きている限り、毎日、時には一日に何度もこのような状況に直面することになるでしょう。また、信仰者からそのような扱いを受けることもあるでしょう。そのような時、二つの道しかないことを覚えておいてください。自ら進んで死を受け入れるか、それかあなたの主を再び十字架につけるかのどちらかです。

 この世はキリストを再び十字架につけることはできませんが、信仰者はある意味ではそうすることができます(ヘブル6:6)。生活の中で十字架を受け入れることを拒む度に、私たちはキリストを再び十字架につけているのです。十字架の道を拒否することで、霊的生活は麻痺し、十字架を受け入れれば、私たちの心は喜びで満たされるだけでなく、大きな実りへの道も開かれます。

 ここで先ほど言ったことを繰り返しますが、このように十字架を受け入れるということは、もはや何事においても自分の道を望まず、主の道だけを望むということです。

 これは、ゲッセマネでのイエス自身の祈りに暗示されています。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」これは、キリストとの結びつきを説明するために、パウロが婚姻関係を用いていることにも示されています。「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのおとにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:24)

 この従うとはどういう意味でしょうか。それは、神の御心だけを行うことができるように、私たち自身の意志を十字架につけることを意味しています。これが、十字架にかけられた時のキリストの霊であり、この霊によってキリストは闇の勢力を完全に打ち負かしました。

 キリストにある兄弟姉妹の皆さん、あなた方は、たとえ自分の意志に何度もノーを言うとしても主の意志だけを望む、これほどに主に身を委ねていますか。神の御心を行おうとする者の行く道には常に十字架があります。

 さらに、死が人をこの世から次の世へ移すのと同じように、十字架を受け入れることで信仰者はキリストの御国の次元へと移されます(コロサイ1:13)。信仰者はすぐにこの世を別の観点から、まったく新しい価値観で見始めます。金銭、世俗的な財産、人々、すべてが十字架の光、永遠の光、キリストの御国の光の中で見られるようになります。もはや、人々を貧富差、社会的地位の違いで見ることはなく、キリストが死んでくださった魂たちとして見ます(2コリント5:16)。

 そのような人にとって、金銭や物質的なものは前のように魅力的なものではなくなります。永遠のものが、さらに輝きを増します。彼は、この世界全体とその中にあるすべてのものがすでに「神によって罪に定められ、それゆえ、いつか必ず滅びる」と見ています。今後、神の御心を行い、天に宝を積むためだけに生きます(1ヨハネ2:17、1ペテロ 4:1-3)。

 しかし、神の子らが、不信者と同じように、世俗的な目で人や物質的なものを見ている現状があることは悲しいことです。そのような魂は、主イエス・キリストの十字架の本当の意味を決して理解していません。

 自分自身を一度チェックしてみましょう。 自分がどのような状態にあるかに関心がありませんか。 マタイの福音書第 5、6、7 章を読み、イエスの命令のうち、従わなくてもいいだろうと思った項目がいくつあるか、正直に自分に問いかけてください。

十字架は勝利をもたらす

 これまで述べてきたことをお読みになって、気が滅入ってしまいましたでしょうか。 十字架のメッセージには、より明るい面、前向きな面があります。十字架はそれ自体が最後ではない、ということです。それは復活の命への道です。十字架の働きを受け入れる意志のあるすべての人の前には喜びが与えられています(ヘブル12:2)。地に落ちて死んだ麦は、いつまでもそこにとどまることはなく、勝利の実りを豊かに実らせます。

 十字架の道を受け入れる信仰者は、たとえ他の人にどれほど誤解されても、最終的には神によって立証されます。実りは自己の死を通してもたらされます。この実りの一部は、地上にいる間にも見られるかもしれませんが、すべてはキリストの裁きの座でのみ見られ、主が忠実な者たちに報いられる時です。

 ヨセフの生涯は、この素晴らしい例を示しています。愛する兄弟たちに売られ、異国の地で奴隷となることは、ヨセフにとって辛い経験でした。それでも、ポティファルの家にいる間、彼は不平を言わず、自分に割り当てられた仕事を忠実に遂行しました。ポティファルの妻が偽って彼を告発した時も、ヨセフは神に忠実であり続けました。牢獄に入れられても、彼は文句を言わず、神が許すすべてをそのまま受け入れ、誰に対しても恨みを抱きませんでした。恩知らずのパロの給仕に忘れられたヨセフは、それでも神にも人にも恨みを抱きませんでした。

 このすべての結果、彼はついにエジプトの支配者になりました。神は、神を尊ぶものを尊ばれるのです(サムエル記上2:30)。神は、当時も今日もそのようにしてくださるお方です。それは必ずしも、ヨセフのように世の目に煌びやかな名誉ではないかもしれませんが、神ご自身からの名誉です。十字架の道を避けると、どれほど多くのことを逃すことでしょう。

 しかし、物語はまだ終わっていません。ヨセフが最高位に昇進し、エジプトで全権を握った後も、彼はポティファルの妻にも兄弟たちにも復讐しようとせず、彼らを惜しみなく許しました。

 多くの信仰者は、最初はヨセフのように歩み、一歩一歩十字架の苦しみに耐えます。その後成功が訪れ、神から栄誉と称賛を受けます。そして悲しいことに、同時に傲慢さ、利己心、復讐心も生まれます。しかし、ヨセフはそうではありませんでした。牢獄にいても王座にいても、彼は謙虚な人のままでした。なんと素晴らしい人だったのでしょう。これこそが神にいつも喜ばれ敬われる姿勢であり、神の子の霊です。

 私たちにこの霊がないならば、何か大切なものが欠けていると神は言われるでしょう。主イエスがサタンを無力にしたのは、奇跡でも説教したメッセージでもありません。ヘブル2:14には、イエスが悪魔を無力にしたのは、イエスの「死を通して」であると書かれています。

 主ご自身が死によってのみサタンを打ち負かしたのであれば、弟子たちが他の方法でサタンを打ち負かすことはできないはずです。

 イエスの名において奇跡をいくつか行えば、悪魔は打ち負かされるだろうと考える人は多くいます。しかし、悪魔はキリストの十字架以外の武器には屈しません。信仰者が人生の中で十字架以外の道を受け入れまいと断固として拒否する時、悪魔が彼に対して無力になることがわかるはずです。聖書は、自分に関わることを全て、神の御手に喜んで完全に委ねることができる人だけが、サタンに敵対でき、サタンは彼から逃げると言っています(ヤコブ4:7)。神に服従していないのにサタンに敵対するのは愚かなことです。

 十字架の道こそが勝利への唯一の道です。だからこそ、サタンはイエスがその道に行かないように全力を尽くしました。そしてサタンは人々が十字架の道を受け入れるのを常に邪魔します。

 ペテロは善意の愛から、イエスが十字架の苦しみを経験するのを阻止しようとしましたが、イエスはそこでサタンの声を即座に認識しました(マタイ16:21-23)。私たちの友人や親戚も、困難な道にいる時に同じようなアドバイスをしてくれるかもしれません。しかし、自分の心の中であれ他人からであれ、十字架の道から私たちをそらすような声は、常に悪魔のささやきであることを覚えておいてください。私たちはサタンの声を普段認識しているでしょうか。

 黙示録では、主イエスは屠られた子羊として描かれています。そこには、カルバリの天国の姿が描かれています。人間の目には、カルバリは敗北に写りました。復活後のイエスを見た不信者の記録はなく、そのため、世はカルバリを敗北とみなします。しかし、天国の目には、カルバリは最大の勝利でした。世では神の子羊が十字架につけられましたが、天国ではその子羊であるイエスを礼拝します。イエスに従うことで自分の権利を放棄すると、世の人々はあなたには自分の意志がないと言うかもしれませんが、御国は神の子が勝利を得たと喜びに満ちるのです。

 「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。」(黙示録 12:11、12)。

 詩篇 124 章 7 節には、クリスチャン生活が罠から逃れた鳥に例えられています。空を舞う鳥は、神がすべての子たちに経験してもらいたいと願う、栄光に満ちた、自由で完璧な姿の象徴です。山や川は、地上の生き物の往来を妨げることがありますが、鳥はそうではありません。鳥はそれらすべてよりも高く舞い上がります。神は人間を、その鳥のように完全に自由で、すべてを支配し、すべてを従わせるために創造しました (創世記 1 章 28 節)。しかし、人は不従順によって、わなに捕らえられ、飛べない鳥のようになってしまいました。

 十字架だけがそのわなを壊し、私たちを自由にすることができます。他に方法はありません。世と自分、この両者に対する死を受け入れてください。そうすれば、あなたは悪魔の力に対しても死ぬことができます。

 あなたに対する悪魔の支配は破られ、その鳥のようにあなたが上へ舞い上がるのを妨げるものは何もありません。それが真の自由であり、聖霊が私たちの人生にもたらすことを望んでいるものです(2コリント 3:17)。しかし、十字架の道こそがその自由への唯一の道です。

 以前の章と同様に、このメッセージも、私たちが生きているこの終わりの時代に適用します。2テモテ3:1-8 では、終わりの時代について説明されています。

 そこでは、人々は主に自己愛者になるとあります。その結果、十字架の思いに最も反するあらゆることが彼らの人格に表れるでしょう。したがって、クリスチャンが迫害に会うと、ほとんどの人がそれに抵抗するのも不思議ではありません(マタイ 24:9、10)。

 生涯ずっと表面的なクリスチャン活動に満足してきた多くの信仰者は、その迫害の時に主から離れます。なぜなら、彼らのキリスト教は長い間、キリストの十字架の求めることではなく、自分たちの都合に合わせて決められてきたからです。

 マルコ 4:17 で、イエスはそのようなクリスチャンを根のない人々と呼んでいます。彼らのキリスト教は表面的なものです。彼らの人生に根を作るために、十字架を受け入れる機会を神が与えてくださる時も、彼らはいつもそれを避けています。

 キリストにある人生の充実へと人を導くことができる道はただ一つしかありません。私たちは自分の思う道を歩くこともできますが、それでは神の目的を果たすことは決してできません。人生で十字架の道を避ければ、私たちのすべての賜物と才能は無駄になります。私たちはそれを受け入れるか拒否するかを選択できます。選択は完全に私たち次第です。サドゥ・スンダル・シンは、私たちが御国に到達する時、そこではイエスのために十字架を背負う二度目のチャンスはないと言いました。

 あなたは今は拒否するかもしれませんが、イエスが血を流され歩まれた道を辿る機会は永遠にありません。私たちが祝福の主に出会う時、彼の手と足にはまだ釘の跡があります。その時、私たちの人生を振り返り、自分が絶えず十字架を避けてきたことに気付いたらどうでしょう。むしろ、私たちが常に十字架に屈し、その日に後悔しないようにしましょう。

「絶えず死に渡されています…、勝利の行列に加え」てくださいます(2コリント4:11; 2:14)

「イエスよ、私は十字架を負いました。

すべてを捨ててあなたに従います。

貧しく、軽蔑され、見捨てられ、

あなたは私のすべてになります。

私が求め、希望し、確信していたすべての熱い野心は消え去ります。

それでも、私はなんと豊かなのでしょう。

神と御国は依然として私のものです。」

 章 5
私がすべきこと

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。

 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

  兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:7−14)

 まず最初に注意していただきたいのは、使徒のこの言葉は、クリスチャンになって間もない熱心な若者が書いたものではないということです。これは、豊かで充実した人生の終わりに近づいた、成熟したクリスチャンの証しです。このパウロが回心してから三十年が経ちました。その間、神は彼を用いて、しるしと奇跡によって力強く宣教し、多くの教会を建てられました。

 最初からパウロは福音の働きに惜しみなく身を捧げ、絶えず旅をし、大きな苦難を経験しました。彼は主に似た者となるにつれて、罪に対する勝利の現実を知るようになりました。そして、多くの喜びの中でパウロは、彼の言葉を借りれば、第三の天に上げられ、霊的な真実の驚くべき啓示を受けるという、特別な経験をしました。

 しかしパウロは、これらを全て経験したにもかかわらず、神が彼の人生に意図されたすべてのことをまだ達成できていないと述べています。彼は歴史上でも最も素晴らしいクリスチャンの一人ですが、人生の終わりに近づき、まだ目標に向かって進む必要があると言っているのです。

残念ながら、ほとんどの信仰者は、救われ、回心すれば神の裁きを確実に免れると考えています。しかし、使徒にとっても、パウロのようなキリストの真の弟子になろうとする人にとっては、そうではありません。この箇所で彼は、キリストが目的を持って彼を捕らえたという確固たる信念を宣言しています。その代わりに、彼はどんな犠牲を払ってでもその目的をつかむ決心をしました。

 これは、主が回心の際に私たちをご自分のものとしてくださり、私たちの魂を地獄の火から天国へと救ってくださるという目的をはるかに超えた目的を持っておられるという、途方もなく厳粛な真実なのです。

 使徒パウロのような成熟した人が、信仰者としての三十年間のたゆまぬ奉仕の終わりに、自分の人生に対する神の目的はまだ達成されておらず、すべてを果たすためにまだ努力しなければならないと言わなければならなかったとしたら、その目的はなんと広大なものなのでしょう。

 パウロはこの箇所でさらに続けます。パウロにとって、この世が大切にしているものはすべて、神の目的を理解してそれを達成するというこの究極の目的に比べれば、価値のないゴミだと言っています。パウロはこれを、この世のすべてを捨てるに値する賞とみなしています(14節)。

 周りを見渡し、信仰者が世俗的な所有物を欲しがり、物質的なものに執着し、生活の中でそれらを神のものよりも重視している現状は、彼らのキリスト教がパウロのキリスト教から非常にかけ離れていると結論せざるを得ません。

 救いを地獄の炎から逃れるための保険としてのみ考えるのは、霊的に幼稚であることのしるしです。霊的に成熟すると、神が私たちを救ったのは、神が永遠の昔から私たち一人一人のためにすでに計画しておられた道を私たちが毎日歩めるようにするためだったと気づきます(エペソ2:10)。その道こそ、パウロが神の人生における目的と呼んだものでした。

もし私たちが神の恵みを受けて満足するけれども、神のご意志を成し遂げることに熱意がないなら、どれほど徹底的に福音を説いたとしても、永続的に価値のあることを何も達成せずに終わります。

 もちろん、悪魔の最初の目的は、何らかの方法で、キリスト・イエスにおける神の恵みについて人々の目をくらませ、彼らが救われないようにすることです(2コリント4:4)。しかし、それで成功しないので、次に新しい信仰者を偽り、神が各人に明確なご計画を持っておられるという事実を隠します。サタンはこれでかなり成功しています。人生で下す大きな決断においてさえ、少しでも真剣に神のご意志を求めようとしない信仰者が数えきれないほどいるのが現状です。


 ピリピ人への手紙のこの箇所では、クリスチャン人生は、私たちが絶えず前進しなければならない人生であることが書かれてあります。この世で私たちがどれだけ霊的に成熟しても、常に前進し続けなければなりません。

 多くの信仰者がこの教訓を無視しているため、生きた証しがないのです。彼らの唯一の証しは、手を挙げたり、伝道集会で決心カードに署名をした遠い昔の祝福された日についてでしょう。それは素晴らしいことですが、それ以来何も起こっていません。

 箴言 24:30-34 は荒れ果てた庭の描写で、それは救われた後にくつろいでいる人の状態を説明しています。庭を雑草やイラクサから守るためには、常に雑草取りと手入れが必要です。人間の魂も同じです。

 初期のメソジストの証し集会で、一週間以上前の証しをしてはならないという規則を作ったのはジョン・ウェスリーだったと思います。過去七日間に主が自分にしてくださったことについて何も語れない人は、自分を背教者と見なしたほどです。私たちのうち、その試練に耐えられる人は何人いるでしょうか。そのような集会で、私たちは陰気な態度で黙って座っているのでしょうか。

 13節と14節のパウロの言葉に注目してください。「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

 これが、クリスチャンにとってのもう一つの優先事項です。神の目的を理解し、それを達成するために突き進むことは真の神の子の生き方です。霊的エリートたちのための特別な選択肢ではありません。

 もう一度、この主題を三つの観点から考えてみましょう。まず、この生き方を妨げるもの、次に私たちを強くする力、そして最後に、人生の最後まで走り続ける心構えについて考えます。

妨げとなるもの

 神がイスラエル人をエジプトから救い出された時、神は彼らが荒野を旅してカナンに向かう道筋を定められました。しかし、彼らは毎日、雲と火の柱に従って歩むことでしかそれを知ることができませんでした。今日、贖われた神の子供たち一人一人のためにも、神は道筋を定めておられます。しかし、彼らは毎日神と共に歩むことでしかそれを知ることができません。

 神が私たちを捕らえてくださった目的を完全に把握するには、神と共に歩むことを学ばなければなりません。その際、私たちはあらゆる段階でサタンの抵抗を受けるでしょう。

 泥棒が貧しい人よりも金持ちの家に侵入するのと同じように、サタンは肉欲的な信仰者よりも霊的な信仰者に矢を向けます。したがって、霊的成熟の一歩一歩が進むにつれて、戦いはますます激しくなるでしょう。

 神のご意志を行いたいと願う信仰者を妨害しようとする力は数多くあります。様々な魅力を持つ世、汚れた欲を持つ肉体、巧妙な策略を持つ悪魔などです。これらが信仰者の霊的成長の妨げになるのであれば、なぜ神はそれらを排除しないのか、あるいは少なくとも彼らをそれらから守ってくださらないのかと不思議に思うかもしれません。これは何世紀にもわたって多くの人々を悩ませてきた「問題」です。

 自分よりも遥かに賢い天の父がこれらの力の存在を許されたということを私たちが知っていればそれで十分です。少なくとも、私たちが霊的に強くなるためというのが、最もな理由かもしれません。肉体そのものを見ても、筋肉は、運動によって抵抗を受けることによってのみ鍛えられます。そうでなければ、筋肉はたるんで力を失います。 試合に向けてトレーニングしているレスラーは、試合に備えるために、絶えず運動し、他の人とレスリングをする必要があります。同じように、世、肉体、悪魔の試練や誘惑から守られれば、私たちの霊的な強さは決して発達しません。

 しかし、主イエスご自身が、私たちに降りかかるあらゆる誘惑に遭われたことは私たちにとって大きな慰めです(ヘブル4:15)。ルカは、イエスが「聖霊に満ちて」荒野に行かれ、誘惑の後「御霊の力を帯びて」戻られたと語っています(4:1、14)。人が普段会う誘惑を克服されることで、イエスご自身も人として強められました。

 私たちも同じ道を歩むことができます。キリスト教の本を読んだり、宗教的な集会に参加したりするだけで霊的に強くなれるなどと決して考えないようにしましょう。そのような活動は食物を摂取するのと同じですが、強くなるためには食物とともに運動も必要です。だからこそ、世の人々との接触を断ち切り守られたクリスチャン生活を送る人は、霊的に強くなれないのです。

聖さは健康に似ています。完全に健康であるためには、定期的に運動する必要があります。そうして初めて、病気に抵抗することができます。したがって、完全になるためには、誘惑を経験し、それを克服しなければなりません。試練を避ければ、私たちは決して完全になることはできません。これが、神がエデンの園に食べることを禁じた実を置かれたもう一つの理由でした。

 それはアダムが誘惑を克服し自ら聖い者になれる機会でした。誘惑を恐れる必要はありません。主はコリント10:13で、私たちが耐えられないほどの試練に遭うことはないと保証してくださっています。

 詩篇66:10~12は、試練とそれを通して得られる益を示す素晴らしい旧約聖書の一節です。

火と水は、私たちを霊的に豊かにするだけでなく、健康にします。聖書の神の人は皆、私たちが抱える同じ誘惑にさらされていました。ヤコブ5:17は、エリヤでさえ私たちと同じように克服すべき欲望と情熱を持っていたことを語っています。これらの神の人は、試練を克服したからこそ強くなり、神の御手によって用いられました。神は私たちを試すために誘惑が来ることを許します。神に用いられる人は皆、試練を受けなければなりません。

 私たちが一人でいる時に来る誘惑は、公での奉仕の適性を証明します。誘惑を克服することは、泳ぎ方を学ぶようなものです。一日で泳ぎ方を学ぶことはできません。しかし、決心すれば、遅かれ早かれその泳ぎ方を習得するでしょう。そうすれば、もう水を恐れることはありません。同じように、決心すれば、誘惑に打ち勝つための秘訣をキリストに学び、誘惑を恐れることはありません。

 マタイ4章で主イエスに起こった三つの誘惑について簡単に考えてみましょう。それらを学べば、サタンも同じように私たちに近づいてくることがわかります。ここで説明されている三つの誘惑は、四十日間の試練の終わりに、悪魔が主を打ち倒そうとした最後の試みです。それらは悪魔の手にある最後の三つの武器でしたが、主はそれらをすべて克服しました。

 最初の誘惑は、この場合は食欲という、肉体の生理的欲求に沿ったものでした (3、4 節)。エバとエサウもこの誘惑を受けました (創世記 3:6、25:34)。彼らは失敗しましたが、イエスは勝利しました。悪魔は今日も、すべての男性と女性に、神が彼らのその欲求を満たすために定められた手段以外で、体の欲求を満たすようにという誘惑を仕掛けてきます。食欲、休息、性的満足などに対する欲求は、神自身が私たちに授けた正常な欲求であり、神はこれらの欲求を正当に満たす方法と手段も備えてくださっています。

 しかし、神の手段以外でこれらの欲求を満たそうとしたり、過度に欲求に陥ると、私たちは罪を犯します。悪魔はここで非常に巧妙に私たちを誘惑します。サタンは罪を公然と勧めるのではなく、肉体の正当な欲求を不当な方法を使って満たすようにと誘って来ます。

 食べることに過度に耽ると、私たちは大食いになり、一日も食べずにはいられなくなります。こうして、神への私たちの有用性は著しく損なわれます。自堕落な人のように、朝起きて、神と静まる時間を持つ習慣がない場合も同じです。

 今日、西洋では、悪魔はいわゆる「新しい道徳」に賛同する人たちに大勢の支持者を得ています。残念ながら、この哲学は今や東洋にも忍び込んでいます。それは、性欲の領域ではいかなる自制も行う必要がないと教えています。膨大な数の人々がこの自由放任の哲学を丸呑みしています。彼らは真理を愛することを拒み、結局は虚偽を信じるに至りました(2テサロニケ 2:10-12)。

 サムソンとダビデは、欲望によってサタンに誘惑されました。ダビデはゴリアテを征服できましたが、自分の欲望には勝てませんでした。ここで倒れた勇士は数多くいます。人生のこの分野で不注意または自制のない人は、サタンの格好の標的となります。

例えば、現代の女性服のファッションを考えてみましょう。明らかに今のファッションは、神が隠すことを意図した体のより大きな部分を露出するようにデザインされているようです。映画で上映され、道端のポスターや新聞や雑誌で厚かましく宣伝される裸の肉体の露出とファッションデザインは、人々を欲望の奴隷にするための綿密に計画されたサタンの戦略の一部です。この邪悪な時代に、私たちが自分の欲望を抑えるには、ヨブのように自分の目を警戒しなければなりません(ヨブ記 31:1)。私たちは、それらの欲望を燃え上がらせるようなものを見たり読んだりすることを拒まなければなりません。ダビデは目を制御しなかったために罪を犯しました(サムエル記下 11:2)。そのことで苦い教訓を学んだ彼は、後に神が自分の目を警戒するのを助けてくださるように祈りました(詩篇 119:37)。私たちもそれを真剣に祈るべきです。

 使徒パウロは、生理的欲求を過度に満たすと主の奉仕にふさわしくなくなるという事実を非常に意識していました。そのため、彼は自分の体を常に神に従わせました(1コリント9:27)。非常に多くの人が、この領域で無規律であるがために主への奉仕にふさわしくありません。

 イエスに臨んだ二番目の誘惑は、傲慢さへの誘惑でした。イエスは悪魔から、神殿の頂上から身を投げ、下の神殿の庭の群衆の真ん中に、無傷で神々しく現れるように言われました。イエスは、詩篇 91:11、12 の御言葉を用いて身を守られました。ここでの誘惑は、何か大きなことをして神への信頼を示すこと、つまり神に求めらていない時に飛び降りることです。

 今日、華美なものがはやっている傾向があり、キリスト教会の一部はそれに屈しています。悪魔は信仰者に、無謀で尋常ではないことをして神への信仰を示すよう促します。多くの人が、サタンの声に従って神が彼らのために計画した道から完全に外れてしまいました。

 他にも、神の時と神の導きを辛抱強く待たずに、何らかの行動方針に突進し、その結果、人生が破滅してしまった人がたくさんいます。ある人はこう言いました。「神の保護を得て、神の約束を求めたいのであれば、神の道に留まって、神の時と速さで進まなければなりません。」

 主イエスの生涯は、父の指示のもとに常に前進し、父の意志と時のみに支配され、決してサタンや人間の勧めに左右されない完璧な模範です。イエスは「わたしの時はまだ来ていません。」と助言する人々に言われました(ヨハネ7:6)。つまり、「わたしは父が命じられたときだけ動くことができる」ということです。サウル王は、神の時を待たずに先を急いだために国を失いました(1サムエル13:8-14)。多くの信仰者が同じように神の最善を逃しています。

 例えば、神の御心を待た​​ずに急いで結婚してしまう人がいます。焦って行動し、今は後悔の日々です。兄弟姉妹の皆さん、主の時を辛抱強く待つことを学びましょう。そうすれば後悔する必要がなくなります。主は、主を待つ人々を決して失望させません(イザヤ49:23)。

 三番目の誘惑では、悪魔はイエスに世界のすべての王国とその栄光を見せました。イエスがサタンをひれ伏して拝むなら、すべて与えるとサタンは言いました。ここでもまた、私たちの誰もが受ける誘惑があります。自分の利得のために信仰者としての歩みを妥協しても構わないという誘惑です。

 私たちが自分の信念を曲げてサタンにひざまずく覚悟さえあれば、この世で得られるものはたくさんあります。その一つがお金です。それは最大の魅力の一つです。信仰者はしばしば、お金を少しでも増やそうと生き方の基準を下げる誘惑に駆られます。仕事を探す時、私たちは神の御心よりも、魅力的な給料に左右されるのではないでしょうか。その結果サタンは、神の目的から私たちを容易に遠ざけることができます。これはバラムの犯した過ちであり、今日多くの人がこの道を歩んでいます(2ペテロ 2:15、ユダ 11、民数記 22 参照)。

 私たちは、このようにして実際には悪魔にひざまづいていることに気づいているでしょうか。また、不道徳で世俗的な方法で、「主の働きのためにお金を集める」クリスチャンもいます。どんなに良い目的を念頭に置いていても、それを達成するための不義な手段を神は容認しません。神は、私たちが侵略者にひざまずいて世を勝ち取ることなど望まれないのです。

 私たちが完全に主に従うなら、富の魅力に気をつけましょう。イエスは、神に頼るならば、富を遠ざけるようにと警告されました(ルカ16:13)。

 また地位の誘惑、有名になりたい、目立つ存在になりたいという誘惑もあります。知名度を求める魂は、多くのことを諦めなければなりません。クリスチャンのサークルや主の働きにおいてさえ、まさに同じ誘惑があります。

 私たちの中には、脚光を浴びたいという欲があります。私たちは皆、他の人から賞賛され、尊敬されることを好みます。「パーティーの盛り上げ役」、すべての人の注目の的、周りの誰よりも頭一つ抜きん出ている人になることは、私たちの内に満足感を与えます。教会においてさえ、歌や説教、さらには祈りにおいて、自分を他の人よりも優れている、または才能があるように見せようとする誘惑は、何とよくあることでしょう。私たちは、仲間の信仰者を犠牲にして、人々からの評価を高めようと誘惑されます。これはすべて、キリストの霊に完全に反しています。

 あるいは、キリスト教の説教者の演出をもう一度見てみましょう。より「寛大」になり、聞き手にとって不快な聖書の教義を強調せず、説教の中で罪や貪欲を非難するのは避けようという誘惑に、どれほど多くの説教者が陥っているでしょうか。

 裕福な人や影響力のある人を怒らせないようにし、より広い聴衆を得ようとします。しかし、そこにはどんな代償があるでしょうか。基本的に、これらすべてを提案するサタンにひざまずいてしまっているのです。すべての説教者は、一度や二度はこうした誘惑に遭います。悲しいことに、多くの人が、そのような妥協の根底にいるサタンへの加担に気づかずに、屈服しています。

 若い男性と女性が頻繁に誘惑される道は、結婚の問題です。この問題に関して、神の時を待つことで失うものは何もありませんが、急ぐ行動がもたらす危険性についてはすでにお話ししました。

しかし、そこにはもっと深刻な誘惑もあります。多くの信仰者が、神の御言葉に明確な記述があると知っているにも関わらず、未信者と結婚する人がいます。悲しいことに、学生時代に勇敢にキリストのために立ち上がった多くの人が、後に堕落してしまうのは、まさにこの重大な時期です。この問題で信仰者としての生き方に妥協し始め、神にとって大いに有益だった人生が台無しになってしまうケースがあります。これが「サタンにひざまずくことの代償」です。

 インドでは、人生のパートナーを選ばなければならない時期に若者が受けるプレッシャーは非常に大きいものです。回心に興味がない、また理解しようとしない親や親戚からのプレッシャーがあります。極度の貧困や不当な持参金制度によって引き起こされる、経済的プレッシャーもあります。そして何よりも悲しいのは、キリストを信じた後も、この国の異教的なカースト制度が残っていることから生じる社会的圧力です。驚くことではありませんが、多くの若いクリスチャンが悪魔によってもたらされたこれらの圧力についに屈し、非霊的な結婚に同意してしまうのです。

 サタンは私たちを騙すために、もっともらしい理論を無数に持っていて、次のように勧めます。

「2コリント 6 :14 と不釣り合いなくびきについて語られている御言葉について、あまりに心を狭くして考えてはいけない。パートナーに、『結婚後福音を信じればすべてうまくいく』と説得するだけでよいのです。この絶好の機会を逃したら、二度とこれほど素晴らしい結婚はできないかもしれないから。」

 このサタンの提案にどれだけ多くの人が騙されたことでしょう。私は神が奇跡を起こし、多くの祈りに応えて、回心していない夫や妻を救ってくださった例を知っています。しかし、このような事例があるからといって、神の御言葉に背いたり、サタンに屈する言い訳にはなりません。

 あなたは今、このような人生の転機に来ていますか。私はあなたにぜひ申し上げたい。勇気を持って自分の信念を貫いてください。どんなに圧力が強くても、悪魔的な提案はすべて拒否してください。祈りの中で神の助けを求め、神の御心を待ちましょう。神はあなたを見捨てません。神を敬えば、御心によって選んでくださったパートナーが与えられます。神が選んだ人なら、間違いなく最高の人です。

 魂の敵にひれ伏し拝む誘惑は多く、巧妙です。兄弟姉妹の皆さん、もしあなたがたが、人生における神の目的を逃したくないなら、その誘惑をすべて拒否してください。たとえ世で何か失うとしても、道徳的、霊的に誠実な道を貫いてください。良心の呵責をそれほど感じない、また、世と霊のどちらからもいいものを得たい他の信仰者に惑わされてはいけません。たとえ彼らがあなたよりも楽をしているように見えても、何の関係があるでしょうか。外観は人を欺くことがあります。この世でのいわゆる「成功」の多くは、より輝く永遠の光の中では失敗と見なされるのです。これらのことは決して受け入れないと決心しましょう。悪魔が利益や繁栄のために使う近道はどれも拒否しましょう。

 神と共に歩み、そして神を賛美しましょう。神から離れずに留まれば、最後に後悔することはありません。

 これまで私たちは、神の完全な目的に向かって進むのを妨げることに関して、罪深いことだけをみてきました。しかし、一見正当なことであっても、私たちの妨げになることがあります。だからこそ、ヘブル12:1には、罪だけでなく、競走を走る上で妨げとなるすべての重荷も捨て去るようにと書かれています。

 一例を挙げましょう。話すこと自体はまったく罪深いことではありません。しかし、話すことは簡単に有害な陰口に変貌します。また、聖書の勉強や執り成しの代わりに、無駄なおしゃべりに没頭することもあるでしょう。伝道の書5:3は、言葉数が多い人は愚か者だと教えており、箴言10:19は、言葉数の多いところには、そむきの罪がつきものであると警告しています。多くの信仰者が、言葉に関して自制心がないために、神の証し人としての特権を失っています (エレミヤ15:19)。過度または不注意な話は、必ず「霊的な力」の漏れにつながります。

 また、礼拝中の音楽や讃美の質は誰もが求めることです。しかしそのために、発声練習や楽器の才能を伸ばすのに多くの時間を費やし、そのような練習が聖書の学びや祈りよりも重要視されると、それ自体はまったく正当なものでも、私たちの霊的進歩の妨げになることがあります。毎日の主の前に静まる時間よりも賛美グループの練習に頻繁に参加する人が、どれほどいるでしょうか。

b使徒パウロは、サタンの多くの策略を意識して、罪を避けるように注意しただけでなく、神の目的を果たす上で妨げとなるごく普通の事に対しても同様に注意を払いました(1コリント10:23)。彼は優先順位を正しく決め、主の目的を達成するためには良いものさえも捨てるべきだと決心しました。彼は、クリスチャン生活においてさえ、良いと思われることが最大の敵になりうることを理解していました。悪魔は、罪によって妨害できないと分かると、有意義だと思える事柄によって私たちを妨害します。ですから、神の御前にひざまずき、知的で有益なものとそうでないものを見分けることができるように神の助けを求めましょう。

私たちを強くする力

 これまで述べてきたことは、ただ私たちを落胆させるように見えるかもしれません。サタンの策略は、非常に巧妙で多様であるため、これらのことは難しいことのように思われます。私たちは何年もの間、サタンの攻撃に打ち勝とうと真剣に努力してきましたが、失敗しました。しかし、私たちには神からの希望のメッセージがあります。 

神は私たちに聖霊を与えてくださいました。神の力は、神の目的をすべて果たすために私たちを助けてくれます。この聖霊の賜物がなければ、神はそのような要求を決してなさらなかったでしょう。神は、私たちが神の助けなしに、神のみこころを行うことを決して期待されないでしょう。

私たちが生きている時代の特徴は、イエスの復活と昇天以来、聖霊自身が、神に委ねられたすべての人のいのちに内在し満たしていることです。神は私たちをその究極の目的に召すだけでなく、その目的を達成できるようにもしてくださるのです。

 神の御子である主イエスでさえ、世での宣教に出発する前に、聖霊に満たされなければなりませんでした。この出来事は洗礼の時に起こり、イエスはその後、荒野での誘惑を見事に克服されました。この聖霊の力によって、イエスは地上での長い宣教を成し遂げ、十字架への道を歩むことができました。

 同じことがパウロや他の使徒たちの人生にも当てはまります。パウロは、神への奉仕は神の聖霊の力によってのみ成し遂げられたと証言しています(ローマ15:18、19)。今日、多くの人が「聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)という命令を無視しています。なぜならほとんどの人が、聖霊を求め満たされると狂信者になってしまうのではないかと恐れているからです。悪魔は感情から来るこの恐怖を利用して、教会の大部分の人々が神を真剣に求めないように促してきました。サタンはまた、ある人たちを我をも忘れるような特別な経験で満足させてきました。しかし、それは神からのものであったとしても、今現在も聖霊に満たされ続けるという喜びがなければ価値がありません。

 聖霊の満たしについて、多くの人が混乱しています。彼らは、神が私たちに聖霊を与えることをためらっておられると思っています。しかし、ルカ11:11〜13にあるイエスの言葉は、私たちの心からそのような疑いを永遠に払拭します。

「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

ですから、もし私たちがなかなかこのような祝福に預かれないならば、その原因は神ではなく私たちにあります。私たちはただ神に近づき、純粋に信仰をもってこの満たしを神に求めるだけでよいのです。神は、私たちに、自分の人生を神に無条件に明け渡すことだけを求めておられます。これらの条件を満たし、日々それを維持するなら、私たちは絶えず聖霊に満たされ続けるでしょう。

 この点で、ウォルター L. ウィルソン博士の証しは、多くの人にとって祝福となっています。彼は、聖霊に満たされたことが、十七年前に救われた時よりも大きな人生の変化をもたらしたと述べています。

 救われた後の数年間、ウィルソン博士は、自分の人生と働きの実りの豊かさに満足していませんでした。そして彼は、自分の中に、聖霊のための十分な場所がなかったことに気づきました。同時に、聖霊の豊かさを求めることで狂信的になるのではないかとも恐れていました。

 ある日、彼は、ある説教者がローマ12:1から、私たちのからだを捧げることについて説いているのを耳にしました。主イエスにはご自身のからだがあり、父なる神は天の御座に留まり、ペンテコステの日にからだがない状態で聖霊だけが地上に来られたので、私たちは聖霊に自分のからだを捧げなければならないとその人は強調していました。ウィルソン博士はメッセージを聞いた後、自分の部屋に戻り、神の御前にカーペットの上にひれ伏して、聖霊に次の言葉を語りました。

「主よ、私はクリスチャンとしての生涯を通じて、あなたを不当に、召使いのように扱いました。私があなたを必要とした時、あなたを呼びました。私が何かの仕事に取り掛かろうとしていた時、あなたに手招きして私の仕事を手伝ってくれるように頼みました。私はあなたを召使いの立場に置いてきました。私が自分で決めて選んだ仕事において、喜んで私を手伝ってくれる召使いとしてあなたを利用してきました。

 ですがもうそんなことはしたくありません。今、私はあなたに私のこのからだを捧げます。頭から足まで捧げます。私の手、手足、目、唇、脳、私のすべてを捧げます。私のすべてを、外も内も。あなたが望まれる私のいのちの中で、あなたが生きてくださるように、私の全てを委ねます。あなたはこの身をアフリカに送られるかもしれませんし、ガンで床にお伏せになるかもしれません。あなたはこの目を盲目にするかもしれませんし、あなたのメッセージを持って私をチベットに送られるかもしれません。また、私をエスキモーに送られるかもしれませんし、また肺炎で病院に運ばれるかもしれません。ですが、今この時点から、これはあなたのからだです。主よ感謝します。ご自由にお使いください。ローマ12:1にあるようにあなたがこの身を受け入れてくださると信じます。『神に受け入れられる』と書かれてあります。私を受け入れてくださって、本当にありがとうございます。私たちは今一つです。」

 ウィルソン博士は、主の前にひれ伏したこの翌朝から、彼の労力が驚くほど実り多いものであったことを証ししています。(この出来事は、V. レイモンド エドマン著「彼らは奥義を見つけた」第 18 章に引用されています)。

 私は皆さんに、このことをそのまま模倣するようにと言っているのではありません。神は、私たちが人の真似をすることを望んではおられないからです。しかし、ここには私たちが心に留めておくべき重要なことがあります。それは、私たちが神の前に無条件にひれ伏して初めて、聖霊が私たちを完全に支配してくださるということです。

 意に沿わないこともたくさんあるでしょう。私たちは特定の場所に行くことや、また特定の仕事に就くことを望みません。そして、私たちは、どこでどのように主に仕えたいかと自分で選び、そして自分が思い描く仕事を成功させるために聖霊の力を強く求めます。

 しかしそれが問題なのです。私たちが神に従うことが条件付きになっているのです。私たちは自分自身の条件を決めてしまっているため、聖霊の働きをほとんど経験できないのです。私たちは、ほとんどの場合、神の満たしがなくても十分やっていけると思っているかもしれませんが、何を失っているのかを知りません。私たちは何と愚かなのでしょう。聖霊こそ、私たちの人生を最大限に活用できる方ではないでしょうか。

 兄弟姉妹の皆さん、神の霊への私たちの従順が本当に無条件でなければ、どうして神は私たちを完全にご支配できるでしょうか。私たちは、最も卑しい作業をも喜んで引き受けるくらいに、神の御心をすべて誠実に行わなければなりません。

結婚においては、肌の色が黒くても白くても、教育を受けても受けていなくても、裕福でも貧しくても、主において私たちと一体である相手を神が選んだことを喜んで受け入れなければなりません。

仕事においても、自分や家族に支障をきたしても、常に転勤しなければいけないとしても、また、一生一か所に留まらなければいけないとしても、神と共にあるべきです。

どのような場合にも、個人的な好みや懸念なしに、このように聖霊に身を委ねたことがありますか。それが、神の力のすべてを私たちの人生にもたらす唯一の降伏の形です。そして、その力によってのみ、私たちは神の目的を果たすのです。

私たちを保つ心構え

 ピリピ人への手紙の中で、パウロは、神の完全な目的を達成するために私たちが持つべき心構えを、実例を挙げて説明しています。

 彼は、後ろのものを忘れ、前にあるものに目を向け続けると語っています。どんな誘惑にも屈せず、過去を振り返ることを拒みました。

使徒20:23、24では、迫害が待ち受けていることを知っても動揺しないと述べています。神の目的に向かって突き進むという彼の決意を揺るがすような恐れはありませんでした。

また使徒26:19では、アグリッパ王の前で、三十年近く前に主から受けた天の御言葉に背かなかったことを証言しています。

そして、最後の手紙の中で、彼は勇敢に戦い、自分の歩みを終えたと断言しました(2テモテ4:7)。まさに最期の日まで、神の目的の道を粘り強く追い求めた人です。幾度となく諦めさせ、道を踏み外させようとする誘惑、激しい迫害、中傷や誹謗、その他あらゆる困難に直面しても、彼は目標を見据え、忠実に歩み続けました。人生の終わりにこのような証しを得られるなら、私たちはどれほど幸いなことでしょう。

 私たちは頻繁に過去を振り返りたくなります。過去の失敗は私たちを落胆させます。そして、案の定悪魔が現れて、神はもう私たちをお用いにならないという嘘を耳元でささやきます。ロバでさえ主が必要とされたという記述は(マタイ21:2、 3)、私にとって大きな励ましです。主イエスがメシアとしての計画を成就するためにロバを必要とし、神が一度でもロバを通して語られたのであれば(民数記 22:28)、私たち皆に希望があります。昔書かれたもの、そしてバラムのロバの物語さえも、私たちの励ましのために書かれたのです(ローマ15:4)。あなたはロバのように自分は愚かだと感じ、幾千もの過ちを犯したとしても、あなたの主はあなたを必要としておられ、主が望まれるなら、あなたを通して語ることさえできます。

 明日のことを思い煩うなと告げる聖書は、過去を振り返ってはならないとも言っています。私たちは昨日のすべてを清め、今日と未来を主に信頼して迎えなければなりません。もし明日、あなたが失敗したとしても、絶望に陥ってはいけません。主にあなたの失敗を告白し、主の血によってあなたの罪を清めてもらいましょう。そして、再び前進しましょう。そして、また再度失敗したとしても、同じように主のもとに戻りましょう。決して絶望に身を任せてはいけません。過去を悔いて、無駄な過去を振り返ることは断固として拒否しましょう。覆水盆に返らず、ただ前進しましょう。

 しかし、魂を滅ぼす高慢に振り返ることも拒否しましょう。ですから、もし明日、神があなたを何か素晴らしい方法で用いてくださるなら、そのプライドを忘れる恵みを求めてください。自画自賛にふけってはいけません。前進し続けてください。落胆も高慢も、サタンが私たちを道から引き止め、私たちの力を奪うために用いる手段です。

 エペソ5:15、16には、この邪悪な時代に賢く歩むためには、常に時を大切にしなければならないと書かれています。これは、目の前に来る全ての機会を主の栄光のために用いるという意味です(1コリント15:58)。

 私たちの人生は短いものです。私たちはたゆまず神を見つめ続け、その人生の一日一日を神のために大切にすべきです。どんなに困難な状況に直面しようとも、この心構えを保ちましょう。しかし、他の信仰者たちを見下したり、自分の運命や成功を彼らと比較したりすることもやめましょう。そうしたことも、落胆や傲慢につながるからです(ヨハネ21:20-22、2コリント10:12参照)。私たちはまっすぐ前を見つめ、他の方向を見てはいけません(箴言4:25)。

 使徒パウロは回心する前から、自分の宗教に心を尽くしていました(使徒22:3、 4)。彼の信仰は、今日よく見られるような弱々しいものではありませんでした。回心した後も、彼はキリストへの献身において同様に心を尽くしていました。回心の前後での違いは、パウロが世のものではなく、上にあるものに心を注いでいたことです。復活された主イエスは、生ぬるさを決して認めないと明確に語っておられます(黙示録 3:16)。

 神はご自分の民に完全さを求めておられます。なぜなら、神に完全に献身した者だけが、世における神の目的を果たすことができるからです。

 今日のキリスト教会のように、私たちが学業においていい加減でいたら、小学校さえ卒業できなかったでしょう。

 また、神に仕える多くの信仰者のように、私たちが中途半端に仕事をしたら、すぐ解雇されるでしょう。

 多くのクリスチャンは数多くの日常活動に真剣ですが、悲しいかな、彼らの信仰活動の中にその真剣さがほとんど見られません。ヒゼキヤ王が心を尽くして働いていた時、彼は繁栄したとあります(2歴代誌31:21)。しかし、ある日、彼は「以前のこと」を忘れ、気を緩めてしまい、主を悲しませる結果となりました。

 イエスは言葉と模範によって、ご自分に従う者たちに目標に目を留めるよう促しました。イエスは、従いたいと願い出る者に、鋤に手をつけてから後ろを見る者は神の国にふさわしくないと警告されました(ルカ9:62)。

 少し前に、イエスご自身が「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた」(51節)と書かれています。「わたしは父の務めを果たさなければならない」、これこそがイエスの変わらぬ姿勢であり、同じ方向を見て同じ道を歩もうとしない者をイエスは望んでおられませんでした。

 イエス・キリストの弟子は、人生においてただ一つの目的、すなわち神の御心を行い、それによって神の栄光を現すという目的を持つべきです。人生におけるすべてのもの ― 金銭、地位、結婚、仕事など ― は、この唯一の目的に奉仕するために用いられなければなりません。すべてを神の目的に委ねなければなりません。このような心構えを身につけて初めて、私たちはローマ8:28の約束を自らに求めることができるのです。なぜなら、神を愛し、神の御心に沿う者のためにのみ、すべてのことが益となるからです。

 また、永遠において、世で神の御心を行った者が残ることを覚えておくべきです(1ヨハネ 2:17)。それ以外の者はすべて滅びます。

 ですから、神の御心を行うことを私たちの唯一の目的としましょう。イエスがそうであったように、神の御心を行うことが私たちの食物、飲み物となるようにしましょう(ヨハネ4:34)。神の御心にかなう人とは、神の御心をすべて成就したいと願う人です。そのような人だけが、神の目にあって、その世代に効果的に仕えることができるのです(使徒 13:22, 36)神は今日の世界にそのような人々を求めておられます。

 前の三章と同様に、ここでもこのテーマが私たちの生きる現代とどのように関連しているかに注目しましょう。

イエスは、ルカ17章で終わりの日について語る際、弟子たちに振り返ることの危険性について再び警告しました。その教訓を示すために、イエスはロトの妻の悲惨な例を引用しました。彼女の弱点は何だったのでしょうか。

 ソドムの他の人々とは違って、彼女は神のメッセージを信じました。それだけでなく、それに従って町を出て行きました。しかし、その後、彼女は考え直し、振り返ってしまいました。その瞬間、裁きが彼女を襲いました。彼女は塩の柱と化したのです。後ろを振り返ったことで、彼女は固定され、動かない柱となってしまいました。その瞬間から、彼女は一歩も前に進むことができなくなりました。

今日、残念ながら、多くの信仰者は、ロトの妻のように動かなくなっています。彼女と同じような二十世紀に生きる人たちは、何年も前に救われたにもかかわらず、それ以来、神との歩みにおいて全く進歩していないません。

 彼らの人生には、救われた当時と比べて聖さも平安も忍耐もありません。罪の悔い改めも、主を信じる喜びも、世への勝利も、神の目的への理解も、救われた日と比べて何の進歩もありません。当時彼らを苦しめていた罪は、今もなお彼らを苦しめています。回心した当時と同じ富、地位、安楽への欲望が、今日に至るまで彼らの人生の主題になっています。その理由は、彼らが常に前を見るのではなく、過去を見てきたことにあります。イエスは、これが終わりの日に特に危険なことであると言われました。

 神の御前に立った時に、後悔のない人生を送りたいですか。ならば、神の御心をすべて行いたいと決意してください。日々、あなたの人生における神の目的を見つけ、理解するよう努めましょう。その目的が何であるかは、聖霊が示してくださいます。

 書物から理論的に学ぶことは決してできません。神と共に歩む中で、経験を通してのみ、理解できるのです。「主よ、あなたは私に何をお望みですか?」とは、パウロが回心した瞬間から問いかけていた問いです。私たちも、パウロと同じような心構えを持ちましょう。

 長生きすることではなく、神に満足していただける人生を目指しましょう。

世で神の御心を成し遂げ天国と永遠へ至る時、あなたはどれほどの喜びを受けるでしょうか。

 これらの言葉を読みながら、誠実に主のもとへ行き、信仰をもってこう言いましょう。

「主よ、私は私の人生におけるあなたの目的をすべて成就したいと願っています。しかし、私にはその御心を見出す知恵も、それに従って行動する力もありません。それでも主よ、私は心から汗と血を流して、あなたの高き召命の賞を得るために歩み続けたいと願っています。あなたの御前に出る時、少しも後悔することなく、ただ地上で自分の道を歩み終え、あなたの栄光を現した喜びだけを抱くことができますように。主よ、このために、私を聖霊で満たしてください。」

 あなたがこのように告白できれば、これから先、有意義な希望に満ちた人生を見つけるでしょう。主の目は、そのような男女を世界中で探し求めておられます。私たちの世代に生きるあなたと私が、神の御心をすべて成し遂げるために必要な代価を払う心構えでいられますように。

「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示録 3:11)

「私は上へ向かって歩み続けます。

日々、新たな高みへと登っています。

前進しながらこう祈り続けます。

主よ、私の足をより高い地に置いてください。

主よ、私を引き上げ、

信仰によって天の地に立たせてください。

私が見いだしたよりも高い所に。

主よ、私の足をより高い地に置いてください。」

 章 6
神に受け入れられる

聖霊は、エノクの生涯をたった三つの言葉で証ししています。「彼は神に喜ばれて…」(ヘブル11:5)。

蓄財した富や世での名誉については何も記されていません。説教した内容や良い行い、また彼の証しを通して神に導かれた魂についても、記録されていません。彼がどれほど人気者で、有名な人物であったかについても記載はありません。

彼の生涯は「彼は神に喜ばれた」という、あの緊張感に満ちた一文に要約されています。事実、それだけで十分なのです。

兄弟姉妹の皆さん、これが何よりも大切なことであり永遠に価値のあることです。

聖書は、神がすべてのものを「みこころのゆえに(喜びのために)」創造されたと言っています(黙示録4:11)。ですから、私たちがどれほど神にとって喜びになっているかが、私たちのいのちの有効性を測る真の尺度です。そして、それ以外に贖われたことの代価を証明する術はありません。

神の栄光がもたらされなければ、地上での私たちの存在そのものが無意味です。 本書を通して、神は人生で本当に優先すべきことが何かを的確に示してくださったと、私は信じています。神は、私たちに正しい知識を与えるためだけではなく、ここで示されたことに基づいて私たちが行動し、それに従って人生を改めるのを願っておられます。本書を通して聖霊が私たちを励ましてくださるならば、私たちはそれに答えなければなりません。さもなければ、霊的な停滞と死を招くだけです。

 自己中心の生活はなんと巧妙で、人間の心はなんと欺瞞に満ちていることでしょう。それはなんと容易に私たちをこの世の富の虜にしてしまうのでしょう。「ああ」と、聖書は嘆いています。

 「この世は富と快楽が全てだ。確信の持てない、主に従うという満足感のために諦めきれない。このクリスチャン人生は、もっと楽な条件で走れるはずだ。みんなも行き過ぎは良くないというし。気楽にやろう。適当に神のために生きよう!」

 神はこのような不信仰な考えから私たちを救い出してくださいます。神は私たちがすべての重荷を捨てて、賞を目指して走ってほしいと願っておられます。神は私たちがこの世の卑しい基準から離れ、神の最高の基準に満足することを望んでおられます。神に尊ばれる人にとって、人の名誉など何の意味があるでしょうか。天の富があるのに、この世の富に何の価値があるでしょうか。

 あなたは自分の命のために世での安全を求めますか。信仰のためにあう危険から何とかして命を守ろうと望みますか。もしそうであれば、あなたは間違いなくそれを失うでしょう。最後には何も残りません。

 考えを一新しましょう。イエスのために命を捨てる覚悟をきめ、主の福音のために苦難に耐える心構えでいましょう。その決断を後悔することは決してありません。無駄なことはなく、何の損失もないことに気づくでしょう。それどころか、あなたが蒔いた種から実った永遠の実を発見するでしょう。天の報いは、あなたが神の御元に捧げる供え物をはるかに上回るでしょう。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ 2:17)。キリストが栄光のうちに再臨し、現在の全てのものが消えてなくなる日に、主に完全に従ってきた人々は、手放したものを全て忘れ、言い表せない喜びに満たされるでしょう。

 私は幼い頃、毎年1月26日にニューデリーでインドの共和国記念日の式典を見に連れて行かれたことを覚えています。この日、大統領から国家最高の殊勲賞が授与されます。賞を受け取りに前に出てくるのは、無名の下級兵士で、片腕を切断されていたり、義足で足を引きずっていたり、戦場で受けた傷によって何らかの形で容貌が損なわれていたりしました。次に、表彰状が読み上げられ、受賞に値する功績が説明されます。そして最後に、国の最高位の高官たちの前で、インド大統領が受賞者の胸にメダルを授与し、何千人もの聴衆全体が、「祖国防衛」のために命を懸けた兵士に喝采を送ります。

 私はよく、その光景が、天の栄光の門に私たちが引き上げられ、主の前に立つ日を描いたものだと感じていました。その時、天の最高位の高官たちの前で、世で信仰に忠実であった贖われた男女が、万軍の王、御自身から報いを受けるのです。その日、エノクが名前を呼ばれると彼は前に進み出て、「神が喜ばれたもの」という表彰状が読み上げられる光景を想像できます。そうです、彼は地上で三百年以上も嘲笑されてきたかもしれませんが、今や大喝采の中で、霊的戦いでの勇敢さが讃えられる天国の最高の賞を授与されています。

 使徒パウロも同じ評価を受ける番が来ると前に進み出ます。世では彼は狂信者で愚か者と見なされていましたが、ここでは彼のために命の冠が用意されています。その瞬間に、すべての苦難の年月は忘れられます。その代わりに、神が喜んでくださったとわかり、その喜びが湧き上がります。これは永遠に続く喜びです。

 そして、いよいよあなたの番が来ます。私の番も来ます。愛する兄弟姉妹、あなたの賞状には何と書かれるのでしょうか。私たちがこの世の生き方を覆い隠していた、すべての宗教的なうわべだけの装い、外見上の偽りや虚栄を剥ぎ取られてそこに立つ時、何が残るのでしょうか。

 その日、あなたは何もない自分にただ悲しみを覚えるのでしょうか。

 無価値な選択、また、軽々しく無駄にした機会をひどく後悔するでしょうか。

 エノクやパウロと並んで、彼らと同じ場所に立っているでしょうか。

これらは切実な問いです。なぜなら、このことは私のただの想像ではなく、厳然たる現実であるからです。私が大まかに描いたような光景が、キリスト・イエスの再臨の時に現実に起こるのです。そして、主の警告のように、主が来られる時、私たちの多くが、主の前に恥じ入ることになるのです。

 ですから、主の御言葉に真剣に耳を傾けましょう。人生における優先事項は何かを真剣に考えましょう。永遠の価値がそこにかかっているからです。そして、今日から、すべてのことにおいて、主イエスをまず第一にしましょう。私たちが全てを捧げなけれなならない、世で生きるべきいのちがあり、走るべき競争があります。そしてその競争には目標があり、いのちには賞があります。しかし、世から受けるものはすべてゴミ屑のようです。なぜなら、私たちが王の御前に出る時、主から受ける歓迎の御声は何にも比べられないからです。

「よくやった、良い忠実な僕よ!主の喜びに入りなさい。」

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」 (黙示録 22:12)