聖霊は真理の御霊と呼ばれています。イエスはこう言われました。
「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13)。
私は、頭からつま先まで、人生のすべてにおいて真理でありたいと思っています。なぜなら、それがイエスに従うことの意味だからです。イエスは「わたしは真理である」と言われました。
キリスト教の説教者でさえ、人々に話す際に体裁のいい話し方をする人がよくいます。彼らは「もしこのように言ったら、問題が起こるかもしれないから、体裁よく話そう。」と考えます。しかし、イエスはそうではありませんでした。イエスは常に真理を率直に、直接的に語られました。イエスが失礼だったという意味ではありませんし、私たちも失礼であるべきだとは思いません。しかし、イエスは個人的な利益のために、外交的な態度をとることはありませんでした。私たちは真理を語る際に、恵み深く思いやりをもって語るべきです(失礼であってはなりません)ー私たちは常に人々と話す時には慈悲深くであるべきですー。しかし、私が言っているのは、あなたに影響を及ぼす真理のことであり、私たちは自分自身に関して正直でなければなりません。
聖霊が私たちをすべての真理へと導いてくださることをご存知ですか。
初期教会で裁かれた最初の罪は、貪欲の罪ではなく、不正直の罪でした。使徒5章では、アナニアとサッピラは、多くの人々が土地を売って、使徒たちの足元にその代金を捧げているのを見ました(使徒4:34にも多くの人がそうしていたと記されています)。アナニアとサッピラも、教会の中で心から神に献身しているという評判を得たいと思い、自分たちの土地の一部を売りましたが、他の人たちのように代金を使徒たちの足元に捧げませんでした。仮に彼らが土地を10万ルピーで売って5万ルピーを隠し、残りの50%を教会に捧げたとしましょう。もし今日、誰かがそのように自分の財産を売却し、その収益の50%を神に捧げたとしたら、あなたはきっとその人を心から信仰深いクリスチャンだと呼ぶでしょう。しかし、アナニアは殺されました。それは、彼が捧げなかったものではなく、嘘をついたことの結果でした。
彼は他の人々と列に並び、人々が使徒たちの足元に代金を置いていく間、黙って立っていました。彼もまた自分の金銭を置いて、その場を立ち去りました。
ペテロは立ち去ろうとするアナニアに「アナニア、ここに戻ってきなさい」と言いました。神はペテロに、この男が欺瞞者であることを見抜く洞察力を与えていました。ペテロは使徒5:4で彼にこう言いました。「この土地はあなたの所有物でした。誰もあなたに売るように頼んだわけではありません。神はあなたの金や土地を求めていません。皆が自発的に献金しているのです。あなたが土地を売った後も、そのお金はあなたのものだったのです。誰もあなたに50%や10%、ましてや1%さえも献金するように頼んでいません。なぜあなたはこのようなことを考えたのですか。あなたは神を欺いたのです。」アナニアは「私は何も言っていませんし、一言も話していません。」と言うこともできたでしょう。しかし、あなたは口を開かなくても神に嘘をつくことができることを知っていますか。アナニアはただ列に並び、使徒たちの足元にお金を置き、立ち去りました。彼は何も言いませんでしたが、その行動自体が偽善、偽りでした。
あなたは教会の交わりに来て、他の人たちと同じように心から信心深いふりをすることができますが、実際には欺いています。もしあなたが他の人たちと同じように、心から信仰しているふりをしながら座っているのに、実際にはそうでないなら、たとえ口を開かなくても、それは偽りです。
あなたはイエスに「私の銀も金も、すべてを捧げます」と、他の人たちと一緒に素晴らしいメロディーと歌詞の歌を歌います。しかし、あなたが心からそう思っていないのであれば、完全に偽りです。多くのクリスチャンは、集会でそのような歌を歌い、週の他のどの曜日よりも日曜日に神に多くの嘘をついています。もしあなたが「すべてをイエスに捧げます」と歌っているのに、すべてを捧げていないなら、それは偽りです。あなたは説教者がそのことには触れないかもしれませんが、あなたはそのことを知らなければなりません、なぜならそれが真実だからです。もしあなたがすべてをキリストに捧げたなら、そう言うべきでしょう。そうでなければ、口を閉ざすか、「主よ、すべてを捧げたいのですが、まだすべてを捧げていません」と言った方が良いのです。その方が正直です。たとえ他の人たちが歌っている曲に合わなくても構いません。神に対して正直でありなさい。
私たちが正直になるとどうなるでしょうか。2テサロニケ 2:10には、真理への愛を受け入れない者たちについて書かれています。真理を愛することは、真理を語ること以上のことです。私は真理を語ることはできますが、それよりもさらに高いレベルは、真理を愛することです。私は真理を愛し、真理を語りたいという強い切望があるので、自分の中に偽りが一切あってほしくありません。私たちがあらゆる偽りから救われるために、真理への愛を受け入れない場合、その結果が2テサロニケ 2:11に書かれてあります。それは、神ご自身が私たちを欺かれるということです。これは新約聖書の中で最も恐ろしい聖句の一つです。
親愛なる友よ、もしあなたが真理を愛していないなら、はっきり言います。全能の神はあなたを欺かれます。サタンは欺く者であり、あなたの欲望はあなたを欺きます。あなたの心は偽りに満ちています。さらに、偽りからあなたを守る唯一の希望である全能の神が、あなたを欺くことを決めたとしたら、あなたには何の希望もありません。2テサロニケ 2:11は、神があなたに偽りを信じさせると言っています。
あなたは新生していないのに、新生したと信じさせられるでしょう。あなたは聖霊に満たされていないのに、聖霊に満たされていると信じさせられるでしょう。なぜでしょうか。たった一つの理由です。あなたが真理への愛を受け入れていないからです。
聖書に最初に記されている罪を知っていますか。それは嘘でした。サタンがエバに「あなたがたは決して死にません。」と嘘をついた時です(創世記 3:4)。それが聖書に最初に記されている罪、つまり嘘です。
聖書に最後に記されている罪は何でしょうか。聖書の最後の章を開いてみてください。そこにも嘘が最後に記されている罪として挙げられています。黙示録22:15には、嘘をつく者は聖なる都の外にいると記されています。つまり、聖書の中で最初に言及されている罪と最後に言及されている罪はどちらも嘘です。初期の教会で裁かれた最初の罪も嘘でした。神に欺かれる人々は、真理を愛さない人々です。このことを真剣に受け止めることは、私たちにとって非常に重要です。「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。」(マタイ5:37)。これは私たちを欺きから守ってくれます。
イエスは「わたしは道である」と言われました。私たちは皆、そのことを理解しています。私たちはイエスが道であり、命であることを認めています。しかし、イエスはまた「わたしは真理である」とも言われました(ヨハネ14:6)。
旧約聖書の時代には、このようなことはあり得ませんでした。ダビデは詩篇51:6で、バテ・シェバとの罪を犯した後の告白の中で、「主よ、あなたは心の奥底に真理を求めておられることを悟りました。私にはそれがありません。私は欺瞞者でした。ゴリアテを殺すことも、ペリシテ人を打ち負かすこともできましたが、心の中では欺瞞者でした。バテ・シェバと罪を犯し、まず彼女の夫をその日のうちに彼女の寝床に行かせることで罪を隠そうとしました。しかし、それはうまくいきませんでした。そこで、彼女の夫を殺し、彼女と結婚しました。主よ、あなたは私の心の奥底に真理を求めておられることを悟りました。私にはそれがありません。」と述べています。しかし、心の奥底にある真理は、聖霊のおかげで、今日私たちが持つことができる素晴らしいものの一つです。真理の御霊は、私たちの人生、そして心の奥底に至るまで、私たちを真実な者にしてくださいます。
黙示録14章には、シオンの山で小羊と共に立っている人々について書かれています。黙示録14章4節には、小羊がどこへ行ってもついて行く、勝利者たちの群れについて書かれています。彼らの特徴の一つは、「彼らの口には偽りがなかった」(黙示録14章5節)ということです。
人間の子は生まれた時から偽り者です。詩篇58篇3節にそう書かれています。しかし、ここにいる人々は、偽りから完全に解放され、どこにも偽りが見られない人々です。彼らはイエスのようになっています。真理に満ちているのです。皆さん、私たちはあらゆる種類の偽りから自分自身を清める必要があります。
たとえ真実を語ることで代償を払わなければならないとしても、真理のために立ち上がり、人生から偽りをなくすと決意するなら、あなたの人生は間違いなく清められるでしょう。あなたは神を見ることができるようになります。今日キリスト教界に蔓延しているあらゆる欺きに惑わされることは決してありません。神ご自身が真理を示してくださるので、あなたは真理を知るでしょう。そして、自分の霊的な状態について惑わされることも決してないでしょう。