多くの人は、罪が赦されただけで満足しています。そのような人はイエスを、赦し主として知っていますが、救い主としては知りません。
怒りと性的な欲情という罪について、私たちは真剣に考えなければいけません。その深刻さを理解するだけでなく、どうすれば克服できるかを理解しなければなりません。
山上の垂訓の中で、イエスが私たちを地獄に導く罪がこの二つの罪であると言われていることからも、その深刻さは明らかです。
私は、クリスチャンの99%は、怒りが非常に深刻な罪であると思っていないと感じています。怒りが自分を地獄に導くものだとは、到底考えていないでしょう。彼らは、マタイ5:22でイエスが言われたことを信じていないのです。もし彼らが、イエス・キリストの言葉を信じないなら、一体どのようなクリスチャンなのでしょうか。あなたはイエスが怒りについて言われたことを信じますか。それとも、心理学者を信じますか。心理学者はあなたを天国に導くことはできません。
また、99%のクリスチャンは、女性を目で追いかけることも深刻な罪だということを信じていません。ほとんどの人が全くそれを真剣に受け止めていないのが現状です。これは、サタンが罪をそれほど軽く、取るに足らないもののようにしてしまった証拠です。
エイズやガンのような致命的な病気を考えてみてください。エイズに感染したり、ガンになったりすることを軽く捉える人はどれくらいいるでしょうか。それらの病気がどのようなものか全く知らない人だけが、深刻に受け止めないはずです。もしあなたが、かなり辺鄙な村に住む文盲な貧しい女性に、ガンにかかっていると告げたとしたら、彼女は動揺しないでしょう。なぜなら、彼女はガンが何であるかを知らないからです。一方、教育を受けた人が、医師からガンが体中に広がっていると告げられたら、非常に動揺するに違いありません。なぜでしょうか。ガンの危険性を認識しているからです。
同じように、霊的に無知な人は怒りを重大な罪と思っていません。霊的に無知な人は、女性への情欲を重大な罪とは思っていません。それは、僻地の文盲の女性が癌の深刻さを知らないのと同じように、あなたが霊的に無知であることの表れです。
一方、霊的な人は、これらの罪を非常に深刻に受け止めます。霊的な人は、神がみことばで言われなくても、それらが重大な罪であることを本能的に分かっています。なぜなら、怒りは他人を傷つけ、みだらな欲情は自分自身を傷つけるからです。だからこそ、私たちはこれらの罪をより注意深く見つめ、どのように克服できるかを自問すべきなのです。
マタイ1章で、御使いがヨセフのもとに現れた際、彼は新約聖書で最初の約束を与えました。マタイ1:21には、「イエスはご自分の民をその罪から救って下さる」とあります。これがイエスの御名の意味です。イエスの御名を唱える人の多くは、その御名が何を意味するのかさえ知りません。マタイ1:21は、「イエス」という御名は「ご自分の民をその罪から救って下さる方」という意味であるとはっきりと述べています。
怒りや性的な思考に関して、それらの罪から救われることと、赦されることにはどのような違いがあるのでしょうか。
罪深い怒りを覚え、それを悔い改めて主に赦しを願うなら、主は赦してくださいます。そして明日、また罪深い怒りを覚え、主に赦しを願うなら、また主は赦してくださいます。そして来週、同じことをして主に赦しを願うなら、主は赦してくださいます。
同じように、もしあなたが目で女性を欲情し、それが罪だと気づき、主に赦しを請うなら、主は赦してくださいます。そして、もしあなたが明日また同じことをして、主に赦しを請うなら、主は赦してくださいます。インターネットでポルノを見てしまい、主に赦しを請うなら、主は赦してくださいます。
しかし、あなたはこれらの罪から救われているでしょうか。いいえ。赦されたでしょうか。はい。しかし、あなたの人生のパターンは、罪を犯し、主に赦しを願い、また罪を犯し、また主に赦しを求めることです。これでは堂々巡りです。あなたは赦されたでしょうか。はい。ですが、あなたは何千回も罪を犯し、すべての罪が赦されたとしても、あなたは果たして罪から救われているでしょうか。いいえ、なぜなら、あなたは罪を犯し続けているからです。
それはまるで、穴から這い上がって出て来て、また穴に落ちるようなものです。誰かに引き上げてほしいと頼めば、引き上げられますが、翌日また自ら穴に落ちてしまいます。誰かに引き上げてほしいと頼む度に、また穴に落ちてしまうのです。これにはいつ終わりがあるでしょうか。
イエスはこれまで、あなたのために何をしてくださいましたか。イエスはあなたを赦してくださいました。そして今、正直に主にこう言いましょう。
「私はあなたを赦し主として知っていますが、救い主としては知りません。罪を赦してくださる方として知っていますが、罪から救ってくださる方としてはまだ知りません。」
私たちは常に正直でなければなりません。もし、自分自身に不誠実であれば、聖書が約束している完全な境地に至ることはできません。神は正直な人を愛されます。皆さんにも神の前に正直になり、心から正直にこう言うことをお勧めします。「主なるイエス、私はあなたを赦し主としてしか知りません。救い主として知りません。」
枝は木に付いていなければ実を結ぶことはできません。そして、五十年間その木に付いていたすべての枝は、その木に向かってこう言うことができます。「あなたなしでは実を結ぶことはできません。しかし、私があなたに留まるなら、実を結ぶのは容易いことです。」
枝が苦労して苦しんでいると思いますか。マンゴーの木を見てください。その枝はマンゴーを実らせるのに骨折っているでしょうか。いいえ。しかし、その枝を木から切り落とすと、たとえ五十年間マンゴーを実らせていたとしても、枯れてしまうのですぐに実をつけられなくなります。しかし、木に残っている限り、樹液が流れ込み、マンゴーが実るのです。これが罪を克服する原則であり、あらゆる国の弟子であるすべての人に教えるべきことです。
親愛なるみなさん、キリストなしではどんな罪も克服できないことを理解しなければなりません。確かに外的な罪の克服は可能でしょう。しかし、それは何を証明するでしょうか。世の中には、誰も殺さず、肉体的に姦淫さえ犯さない無神論者が大勢います。杯の外側を清く保つためなら、イエス・キリストは必要ありません。あなたはただ良いパリサイ人になることはできます。 クリスチャンでない人、無神論者でさえ、決して不正をせず、正直で、外面的には非常に清廉潔白な生活を送っている人がいます。
しかし、内面となると、彼らは堕落しています。内面の清廉さは、自制心以上のものです。ヨガの力で怒りを外に表に出さないようにすることはできますが、それは本当の解放、救いではありません。それは毒が中に残るように瓶をしっかりと閉じているようなものです。その中身は依然としてあなたを破滅させます。それはキリストが与えてくださる解放ではありません。
キリストは、私たちの内を怒りから解放してくださいます。瓶を開けても、そこには毒はもうないということです。
私の心の中を見ても、そこに怒りはありません。私が口を閉じて癇癪を起こさないように努力しているわけではありません。それはヨガであり、怒りから完全に私を解放するものではありません。怒りからの救いは、キリストが心の中の怒りから私たちを解放してくださるということです。怒りは完全に消え去り、そのような心の中をのぞいてみれば、怒りも、女性への情欲も存在しません。
それができるのはイエスだけです。