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1.偽善

自分が、実際よりももっと敬虔で神聖であるという印象を他に与えること、それが偽善です。 偽善者は、自分自身を偽り、または嘘をつきます。

イエスはマタイ23章13-29節で、偽善者たちを七回激しく責め立てられました。そしてイエスは、パリサイ人に彼らの内側は「放縦で満ちている」(マタイ23:25)と言われます。それは、彼らが自分たちの欲、快楽のために生きているということを意味しています。しかし彼らは、聖書をよく知っており、断食して祈り、献金を捧げるので「自分はより敬虔である」という印象を他に与えようとします。彼らは外見的には非常に敬虔に見えます。

しかし、彼らは公の場で長く祈る一方で、静かに一人で祈ることはしませんでした。今日もこのような人々が多く見られます。神を絶えず賛美する霊を持たず、ただ日曜日の朝、教会でのみ神を賛美するならば、それは明らかに偽善です。

2.霊的なプライド

 霊的なプライドは、神聖さを追求する人々の間に見られる最もよくある罪です。

祈りの中で、他人を見下す利己主義のパリサイ人の話は知られていると思います。(ルカ18:9-14) 信仰者が公の場で祈る際、その90パーセントが「他人の祈りにただ耳を傾けるだけで神には祈っていない人達」を、ただ感動させようする祈りです。

この話の中のパリサイ人は、彼の外側の生活では、他の罪人のようにそれほど罪深くはなかったかもしれません。 しかしイエスは、常に自分の霊的な奉仕活動に思いをめぐらせ、すぐ他人を軽蔑しようとする彼らのプライドを憎まれたのです。

信仰者が、他を裁こうとするのは霊的なプライドからです。イエスは、天国で最も偉大な人は、最もへりくだった者であることを教えられました。(マタイ18:4)

天国における最大の美徳はへりくだり、謙遜です。

3.汚れ

 汚れは、主に私たちの目や耳を通して私たちの心に入ります。そしてこの汚れは、私たちの心から再び出てきて、その後、舌や目など、体の各部分を通して外に表れます。それゆえ、清さを求める人は誰でも「見ること聞くこと」について、特に注意が必要です。

イエスは、汚れをとても憎んでおられたので、彼らの弟子たちに、他と一緒になって罪を犯すよりも、彼らの右の目をえぐり出し、右の手を切り取った方がいいと言われました。

通常、医者は右手の切断、または目の手術などをいつ患者に勧めるでしょうか? 恐らく、その器官を取り除かなければ、病状がますます悪くなり、命の危険に晒されるような状態の時です。罪に関しても同じように考えることができます。 罪はとても重大なことで、私たちの命そのものを脅かしかねません。

4.人助けへの無関心

 会堂の指導者たちが、イエスが安息日に人を癒すことに反対した時、イエスは大変怒っておられました。(マルコ3:5 TLB)私達は、全ての人、特に神の子供、信仰者達に善を尽くすように命じられています。(ガラテヤ6:10)

生活の糧を必要としている兄弟を助けようとしなかった人々は、裁きの日、神の前から取り去られるだろうとイエスは言われました。(マタイ25:41-46)

私達は、病気の信者を癒す賜物を持ってはいないかもしれません。しかし、私達は皆、病気の人を訪ねて励ますことができます。それが、主が私達に求めていることです。

金持ちは、アブラハムの子孫であるユダヤ人「ラザロ」この兄弟を気に掛けなかったので、地獄に行きました。良いサマリア人においてのたとえ話では、祭司とレビ人は、道端で負傷しているユダヤ人兄弟に同情を示さなかったので、イエスは彼らを偽善者と呼びました。

5.不信

 聖書は、不信仰を悪い心と言っています。(ヘブル3:12)イエスは、弟子たちを不信仰によるものとして、七回叱責しました。 (マタイ6:30; 8:26; 14:31; 16:8; 17:17-20;マルコ16:14;ルカ24:25参照)。

イエスは、他のことで弟子たちを叱責したことはほとんどありませんでした。しかし、不信仰は神に対する侮辱です。なぜなら、それは「神は、この世の父親ほどご自分の子供を愛し養ってはくれないのではないか」と言っているようなものだからです。

私達が、愛に溢れた天の御父、そして御言葉にある神の約束に信仰を持ってさえいれば、失望、不機嫌、落胆に対していつでも勝利できるはずです。聖書の中でイエスが驚かれた箇所が2つあります。一度は彼が信仰を見た時と彼が不信仰を見た時です。(マタイ8:10。マルコ6:6)イエスは、人々の中に信仰心を見た時は非常に感動されましたが、天の御父に信頼しようとしない人に対しては、非常に落胆されたのでした。