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1.自分の力を神の力に置き換える

 イザヤ40:29-31には、私たちが礼拝し、仕える全能の神が、私たちが疲れた時には力を与えてくださり、精力に欠ける時、主は活気を与えてくださると書かれています。神は、神に仕えるための健康と力を私たちに与えてくださいます。主に仕える中で、若い人、強健な男性でも、時に疲れ果ててしまうことがあります。しかし、年齢を問わず、主を待ち望む人々は新たな力を得ます。なんと素晴らしい約束でしょうか。若い人たちがつまづき倒れている傍で、年長者の人は聖句にあるように、鷲のように翼をかってのぼることができ、走ってもたゆまず、歩いても疲れません。

 私たちの必要は、主が必ず与えてくださると、ただ信頼して待つということを全ての人に是非学んでいただきたいと思います。あなたは新しい力を得ると聖句は約束しています。または、別の訳では「主を待つ者は力を取り替える」とあります。それは、私たちが人間の力を主に一度手渡すと、神の力を得ることができるということです。ハレルヤ! 私たちの持つ全てが主の力と交換されるということです。なんと素晴らしいことでしょうか。

 イエスは御父に言われました。「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。(ヨハネ 17:10、11)

 主の働きにおいて、自分自身を見つめるためには、主の力が必要不可欠です。主に仕える全ての人は、私たちの霊だけでなくからだにも、超自然的な復活の力が主によって与えられると信じなければいけません。そうすれば、私たちは年老いても神のために実を結ぶことができます。(詩編92:14)

2.聖霊の油注ぎを大切にしてください

 「すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現れた。それで私はひれ伏した。」エゼキエル3: 23

 これはミニストリーの大切な原則です。常に顔を地面の塵につけ、主の前にひれ伏しましょう。実際に行うのも良いでしょう。部屋の中の床で横になり、神の前でこう言ってみましょう。「主よ、ここが然るべき私の場所です。そしてこれが私です。あなたの目には私は何者でもありません。」

 人の前に立って説教する私たちは、非常に多くの人々からの賞賛を受けることがある故、非常に大きな危険の中にいます。説教者である私たちは、誰よりも頻繁に主の前に一人になり、横たわって私たちが彼の目には何者でもないことを自己認識する必要があります。神は、私たちの息を一瞬で奪うことのできるお方です。そして神は、私たちの油注ぎを一瞬で取り上げられます。私は、人生において、油注ぎを失うことを何よりも恐れています。私は、油注ぎを失うことよりも、全ての財産と健康を失うことを望みます。私たちは、些細なことと思われがちなお金や口に不注意でいると、油注ぎを簡単に失ってしまいます。エゼキエルの顔が塵の中にあるとき、御霊が彼の中に入り、彼を立ち上がらせました。神の前の地面の塵、まさにそこが私たちの上に御霊が降り注がれる場所です。神に、私たちを立ち上がらせていただきましょう。決して自分の力に頼ってはいけません。

3.神は過去の過失にかかわらずあなたを励まし続けてくださいます

 それは、イザヤ42:2、3に書かれています。「彼は叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせない。」これは、マタイ12: 19、20でイエスのことを言及するために引用されており、次のように続いています。「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく…」

 これは、主が荒廃した人生を送る人を決して失望させず、その人を励まし、癒されるということを意味します。主は、失くなりそうなろうそくの芯を絶やすことなく、むしろ、神はそれを吹き飛ばして炎に変えられます。神は、進んで挫折した弱い信仰者を助けられます。落ち込んで失望してる人々に手を差し伸べ、彼らの霊を引き上げられます。主の真の僕(しもべ)は、このような主の励ましの働きを持ち、絶望を感じて人生に疲れきっている人々の霊を奮い立たせることができます。どのような場所にも、これを必要としている人々がいます。私たちはみな、そのようなミニストリーを神に求めましょう。