日々の十字架を背負う
主はモーセに「あなたは長らくこの山のまわりを回っていたが、…」と言われました。(申命記2:2-3)
私たちが霊的にいつも同じレベルにいるのであれば、それは、ただ円の中をぐるぐる回っているようなものです。私たちは、進歩しながら罪を次々と克服していくべきです。
そして、何年も前に打ち勝てなかった古い罪に、今も変わらず負けていてはいけません。例えば、男性であれば、十年前と同じように女性を見ては情欲を抱き、誘惑に陥ったりしてはいけないのです。
この領域で、まだ罪を克服できていないのならば、円をもう一周しているということです。
主は、私たちが前進することを願っておられます。あなたは昨日、十字架を背負いましたか。あなたは十字架を背負ったかもしれません。しかし、それは昨日の罪を克服するためだけのものでした。(マタイ6:34)今日はまた別の日です。今日は今日で、自分の体と自分の意志を新たに犠牲として捧げなければなりません。今日も欲望、怒り、プライド、名誉への執着、そして憎しみなどに対して、私たちは死ななければなりません。こういった欲望は、私たちの肉の中に存在し、私たちが生きている限り、私たちに付きまといます。ですから、命が尽きる時まで「日々の十字架」を背負う必要があるのです。あなたは、毎日の生活でこのようにあなた自身を捧げていますか。そうでなければ、あなたは反キリストの霊によって容易に騙されてしまいます。
全ては神の御手による秩序であると信じる
ヨブは、子供、財産、さらには健康など、彼が所有していたものは全て神からの贈り物であり、神には御心のままにそれらを除かれる権利があると知っていました。そしてヨブが実際、それら全てを失った時、神を礼拝して言いました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:20-22)
全てを捨てる覚悟がなければ、つまり所有権を放棄しなければ、本当の意味で神を礼拝することはできません。ヨブはまた次のように言いました。「神は私に起きているすべての詳細をご存知である」(ヨブ23:10
- リビングバイブル
)今日、私たちはヨブよりも更に先へ進み、(ローマ8:28に基づいて)「神はどんな些細なことも、全て私のためにご計画くださっている。」と言うことができます。
私たちが神を愛し、自分の人生で神の目的を達成することだけを望むならば、神がお許しになる全てのことは、完全な知恵と愛の中で、神により計画されたものであることがわかります。そして、神の力は全能であり、それらを通して私たちがキリストの似姿に成長するよう働いてくださいます。(ローマ8:29)
ヨブの時代で、唯一潔白で正しい人として、神はヨブをサタンに示されました。今日、更に多くの信仰者が、神によってサタンの前に推薦されるべきです。それは、困難な
状況においても決して不平や不満を言わず、いつも全てのことに感謝できる兄弟姉妹たちを意味します。(エペソ5:20)
愛で満たされるように努める
ローマ5:5が明らかにしているように、御霊に満たされていることの紛れもない証拠は、愛です。もし、異言で話すこと以上に愛が強調されていたならば、キリスト教会にどのような違いがもたらされるでしょうか。(使徒2:4ではなくローマ5:5が聖霊の満たしを示す証しとして強調されていれば)
神の御言葉は、たとえ私たちが山を動かすほどの信仰、異言や預言の賜物を持っていても、私たちの内に愛がなければ、神の目には私たちは無に等しいと言っています。一方で、私たちが異言で話したり、預言したり、山を動かしたりしなくても、愛があれば神に受け入れられます。
イエスは、ご自分の人生で聖霊の超自然的な賜物を用いられる前に、バプテスマで御父により認められました。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」
彼は三十年間、聖霊、つまり天の父と人々への愛に満ちておられました。それゆえ、御父はイエスを大変お喜びになったのです。愛は最も優れたものです。
それはまさしく御国の霊そのものです。イエス様は言われました。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたを遣わします。」(ヨハネ20:21)
今日、私たちもキリストのからだとして、次のように断言できるはずです。「あなたが私を見たならば、イエスがどのような方でおられたかを垣間見たことでしょう。あなたが私の家に一緒に住むならば、天の御国がどのような場所であるかわかるでしょう。あなたがわたしと交わりを持つならば、イエスというお方、そして天の御国という場所を少し体験することができるでしょう
。」
私たちは聖書を説教し、伝道し、教えることができますが、私たちが日常生活の中で神の愛といのちを明らかにしなければ、キリスト者としての私たちの証しは失敗に終わります。これが今日起きているキリスト教会の悲劇です。
与えることを学ぶ
神から賜物を受け取ることは確かに大きな祝福です。しかし、神様は、私たちが更なる優れた祝福を受けて欲しいと願っておられます。
「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)
この御言葉に従うならば、更に素晴らしい祝福を経験するでしょう -
与えることによってもたらされる祝福です。「人を潤す者は自分も潤される。」(箴言11:25)私たちが人を祝福するとき、神は私たちをさらに祝福してくださいます。
私たちのアダムから始まる肉の思いは、非常に利己的で、自分のことだけを考えます。私たちは、自分の所有物を、神にも他の人にもなかなか与えようとしません。聖霊は、この利己的で自己中心的なアダムの肉的な生活から私たちを救い出し、私たちをイエスの似姿に変えたいと願っておられます。そして聖霊は、与えることを私たちに促されます。この聖霊の導きに耳を傾けましょう
- そうすればあなたは今まで経験したことのない大きな祝福を見つけます。これが豊かな人生への道です。
好奇心から解放される
多くの信者が、好奇心を邪悪な罪とは認めていません。私たちの肉は、自分には全く関係がない人々についてのあらゆる不必要な情報を知りたがります。特に、人々の罪に関してのゴシップを聞きたがります。実は、それは、しばしば「祈りの課題」として何人かの信仰者によって共有されています。しかし、人々の罪に関するゴシップは、私たちには何の役にも立ちません。それどころか、それは私たちの心を汚染し、私たちに人々に対する偏見の目を与え、私たちの中に邪悪な考えを起こし、そして私たちのキリスト者としての証しとミニストリーを妨げるだけです。これが、サタンが多くの信仰者を堕落させている理由です。
聖書は次のように述べています。「みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」(1ペテロ4:15)言い換えれば、余計なお世話!
あなたは、誰かが彼自身の過去の罪について、あなたに告白または話しをしようとする時、それが自発的であったとしても絶対に阻止するべきです。誰であれ、自分の罪を人に告白するのではなく、神にのみ告白すべきだからです。罪は、それが犯された輪の中でのみ告白されなければなりません。自分以外には誰も傷つかない思考の中での罪や、私生活で犯してしまった罪は、神にのみ告白します。
しかし、他の人を傷つける罪は、その人と神に告白されなければなりません。また、教会に対する罪は、教会の集会で公にされるべきであり、同時に神に告白されるべきです。
私たちの心を清く保つために、この御言葉に従いましょう。
常に作成者の代わりに作成者を選択する
人が、神よりも神が創造されたものを選ぶ時、人は奴隷になります。多くの人は、神よりもお金や罪深い快楽を愛しています。このようにして、彼らはお金の奴隷と罪深い快楽の奴隷になり、自分自身を破壊します。イエスは、奴隷となった私たちを救い出すためにやって来られました。真の回心によって、人はこの奴隷制から解放されます。多くの人は、他人の意見の奴隷にもなっています。それ故、彼らは自由に神に仕えることができません。
神は、空を高く舞うワシのように人を造られましたが、至る所に奴隷となっている人々がいます。イエスは、私たちの罪を許すだけでなく、快楽や肉の欲などの奴隷制から私たちを解放してくださるために来られました。
家で起こる喧嘩の大部分は、世俗的なものが原因で起こります。そのような喧嘩は、夫と妻の両方が、神ではなく、神の創造物を好み選んだために起こります -
そして、彼らは自分の選択に相応しい結果を被るのです。彼らは、肉を蒔き、破壊を刈り取ります。神よりも創造物を選択したエバのような決断を、徹底的に拒むならば、あなたの家庭は幸せと喜びあふれる場所になるはずです。「主よ、私の人生の中心に自分は要りません。人生の全てのことの中心があなたであって欲しいのです。」と主に話しましょう。
これが、イエスが与えてくださった豊かな人生への道です。