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地上に人として来られたイエスの生涯に私たちは敬虔さの秘訣を見ることができます。イエスは私たちと全く同じようにあらゆる面で試みを受けられましたが、思考、言葉、行為、態度、動機、どのような点においても一度も罪を犯されませんでした。(1テモテ3: 16 ; ヘブル4:15)。

 誘惑は罪とは違います。ヤコブ 1:14、15がそのことを明確に示しています。私たちの思いは罪を犯す前に、その誘惑に引き寄せられます。マタイ4で、イエスが誘惑を受けられたことは明らかですが、彼の心は一度も誘惑に同意しませんでした。そのために、彼は決して罪を犯されなかったのです。イエスは常に心を清く保っておられました。

 イエスは私たちと同じように誘惑に会われました。しかし、彼は延々と同じ誘惑に戦っておられたわけではありません。イエスが私たちのように誘惑されておられたなら、性的な領域での誘惑もお受けになったことでしょう。しかし、彼は、完全な敬虔さを通して、十代でこの誘惑に打ち勝っておられたと思われます。その結果、彼は公的な場所で宣教する頃までには、性的な領域での誘惑に打ち勝っておられました。そのために、女性はイエスの足を拭くことができ、彼も全く誘惑されませんでした。この分野の誘惑という戦いに真面目でない人は、この真理が理解できないかもしれません。

 誘惑という学校は他の学校と同じです。つまり私たちは皆、幼稚園から始めなければなりません。主イエスも最初は最も初歩的な誘惑を受けられたはずです。しかし、イエスは各教科で必要な授業時間を超えて残られたことはありません。彼が三十三歳で十字架にかけられた時、彼は「完了した」と言われました。それはすべての誘惑が克服されたということでした。イエスは学校でのすべてのテストを見事に合格されたのです。彼は完全な者とされ、人としての教育は完了しました(ヘブル5:8,9)。

  誘惑の幼稚園クラス(例えば、性的な汚れた思い、怒り、嘘など)に忠実でない人が、イエスが直面された誘惑の博士号クラスを理解しようとすることはばかげていると同時に烏滸がましいことです。あなたが自分に誠実であるならば、これを理解できます。(ヨハネ7:17)。しかし、誘惑の瞬間に不誠実でいる人は、何冊の本を読んでも、どれだけのテープを聞いても理解できません。神の真理はテープや本からではなく、神の言葉を通して、神ご自身の口から直接聞かれるからです。

 私たちが一生ずっと同じ罪と戦うことは、神の御心ではありません。神は「カナンのすべての巨人」が倒されることを望んでおられます。肉体的そして精神的成長の各段階で、私たちは次々と新しい誘惑を受けます。 四歳の子供は怒りに誘惑されますが、性的欲求ではありません。それは 彼が十代の時にやってきます。しかし、もし、男性がいつか自分は性的領域で誘惑を克服できるという願いをただ告白しながら、それに負け続けることは神の御心ではありません。全き心を持って戦えば、すぐに勝利することができます。

 荒野での四十日間の厳しい誘惑の終わりに、サタンがイエスを誘惑しよううとした時、サタンは性とお金の分野でイエスを誘惑しようとするのは無益であることをよく知っていました。なぜなら、イエスはそれよりも何年も前にそれらの誘惑に勝利されていたからです。サタンが掲げた最後の三つの誘惑が持つ意味合いは、私たちがイエスのように歩むことに忠実であるならば理解できるような、非常にレベルの高いものでした。

 福音は、イエスが人となって、あらゆる面で私たちのように誘惑され克服されたので、私たちもイエスと同様に克服できるということです(黙示録3:21)。