イエスが私たちに教えてくださった最初の三つの祈りは、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」です。すべてが神に関することであることに注目してください。
人間は基本的に自己中心的です。アダムから受け継いだのは、自己中心的な生き方であり、私たちはほとんどの場合、まず自分のことを考えます。人々の関心は自分そして自分の家族のことにあり、たとえ回心したとしても、やはり自分、そして自分の家族のことしか考えません。キリストを受け入れた時も、キリストが自分と自分の家族をどのように祝福してくださるかということを考えます。それはキリスト教ではありません。イエスは、私たちのあらゆる苦しみや不幸の根源である、この自己中心的な生き方から私たちを解放するために来てくださいました。
多くのクリスチャンが常に喜んでいることができないのは、自分自身に中心を置いているからです。良いことが起こると喜びますが、思い通りにならないことが起こると、例えば期待していた昇進が得られなかったりすると、喜びを失ってしまいます。なぜでしょうか。神は依然として王座におられ、あなたの罪は赦されており、悪魔はすでに打ち負かされているのに。あなたが望んでいたものが手に入らなかったからといって、喜ばないのはおかしな話です。イエスは、私たちのあらゆる問題の根源である自己中心的な生き方から私たちを解放するために来てくださいました。
私たちは食べ物を求めることができるでしょうか。もちろんできます。イエスはマタイ6:11で、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るように教えてくださいました。「日ごとの糧」には、食べ物、衣服、住居、そして子供たちの教育が含まれます。なぜなら、子供たちは教育を受けて仕事に就き、日々の糧を得る必要があるからです。これらのことを求めるのは何も悪いことではありません。この祈りに続く「私たちの罪を赦してください」「私たちを悪から救い出してください」という祈りも良い祈りですが、「私たち」に関するこれら三つの祈りはすべて、神の御名、神の御国、そして神の栄光を求めた後になされます。イエスは私たちの中の優先順位を変えようとしておられるのです。
正しい祈り方は、神の御国、御名、そして御心を第一に考えて祈ることです。言い換えれば、私は生き方全体を変え、今後は神の御名、神の王国、そして神の栄光という観点から物事を考えるようにならなければなりません。それこそが真に霊的なクリスチャンです。この祈りは誰でも唱えることができます。オウムでさえできるでしょう。しかし、この祈りを心から祈ることができるのは霊的な人だけです。なぜなら、霊的な人だけが、人生における最大の関心事が、国において、教会において、そして自分自身と家族において、神の御名が聖とされることであると正直に言えるからです。
「神の国がすぐに来ますように、神が教会内を統べ治められますように、そして神の御心が私の人生、私の家族、あらゆる場所で行われますように。」これが霊的な人の証です。これら三つがあなたの心の中で最も重要な願いとなるまで、自分を霊的な人間だと思ってはいけません。人生の中心がまだ自分自身にあるなら、他のすべては無意味です。
多くの人は、回心した時、それまで人生がずっと自己中心的だったので、イエスを自分の人生の軌道に加えただけで、イエスに仕えてもらうことを期待しています。罪を赦してもらい、祈りに答えてもらい、祝福してもらい、繁栄させてもらい、病気を癒してもらうためです。これはキリスト教ではありません。これは宗教を付け加えた自己中心的な人生です。キリストが真に心に入ってこられる時、私たちは自己中心的な人生から離れ(悔い改め)、神中心に生きるようになります。
主の祈りの最後にある、私たち自身に関する三つの祈りの中で、イエスは物質的なこと(日曜の糧を今日も与えてください)に触れていますが、それを「御心が天で行われるように、地にも行われますように」という祈りに結びつけておられます。「父よ、私は天の御使いが天で御心を行うように、私の人生においても地であなたの御心を行いたいのです。ただ真っ直ぐに従いたいのです。そしてあなたの御心を行うために、健康が必要です。ですから、今日必要な糧を与えてください」という祈りです。あなたは神の御心を行うために、それとも自分の御心を行うために、日々の糧を祈っているのでしょうか。罪を犯すためでしょうか、それとも神を喜ばせるためでしょうか。私たちの祈りは、「神のために生きるための健康と力のために、今日必要な糧を与えてください」であるべきです。
もう一つ注目すべき点は、この祈り全体を通して、「私」や「私の」という言葉が一切使われていないことです。興味深いことに、私たちの祈りには「私」や「私の」という言葉が頻繁に出てきますが、主が私たちに教えてくださった祈りには、これらの言葉が全くありません。主は「私たちに与えてください」と言っています。「主よ、私だけではありません。私の兄弟のことも考えています。彼も日々の糧が必要です。」「私たちを赦してください」と言っています。「私だけを赦すのではなく、私の兄弟も赦してください。」 「私たちを救い出してください…。」
真に霊的な人とは、人生の中心に神を置いている人であり、自分自身について考える時も、自分のことだけでなく、周りの人々、つまり神の家族の一員である他の人々のことも考える人です。神は大きな家族の父でおられる方なので、真に霊的な人は他の人のことも考えるのです。
正しい順序は、まずキリスト、そして他の人々、最後に自分です。自分だけではありません。霊的な人はそのように祈ります。自分の必要のためだけに祈るのではなく、当然自分の子供たちのことを心配しますが、人の子供たちのことも心配します。彼らを軽蔑したりしません。
自分の子供たちと同じくらい人の子供たちのことを心配するのは、人間的には不可能です。現実的であるべきですが、それでも彼らに対するある程度の思いやりを持つべきです。「今日必要な糧を私たちにお与えください。」「私たちが他の人を赦したように、私たちの罪をお赦しください。」これは、イエスが最後に繰り返される大切な祈りです。
マタイ6:14で、イエスはこう言っています。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」この条件を理解することは非常に重要です。なぜなら、イエスご自身がこの条件を定められたからです。
もしあなたが人々を赦さないなら、父はあなたの過ちを赦してくださらないでしょう。あなたが他の人があなたに対して行ったことを赦さない時、神は赦しを差し控えるのでしょうか。間違いなくそうです。あなたが他の人を赦さないなら、神はあなたを赦してくださらないでしょう。このことを覚えておいてください。神が人々と接する際の根本的な原則は、私たちが他の人々にどのように接するかによって、神も私たちを同じように取り扱われるということです。
私たちが他の人に慈悲深いなら、神も私たちに慈悲深いのです。あなたが他の人を赦すなら、神はあなたを赦してくださいます。マタイ5:7で、「憐れみ深い者は幸いです。その人たちは憐れみを受けるから。」とあります。ここで私たちはこう言うことができます。他の人を赦す者は幸いです。彼らは赦されるからです。そして、他の人を赦さない者は赦されないでしょう。
イエスはかつて、このことを明確に説明するために、マタイ18:21-35でたとえ話を語られました。これは、私たちが理解しなければならない非常に重要なことのたとえ話です。
ある王に多くのしもべがいて、多額の借金をしていました。その中の一人は1万タラントの借金をしていました。これは10億ルピーのような、決して返済できないほどの巨額の借金です。しかし王は慈悲深く彼を赦しました。ところが、許しを受けたこの人は外に出て、自分に100ルピーの借金がある別の人を見つけ、彼の首を掴んでこう言いました。「もしお前が金を返さなければ、裁判所に訴えて牢屋に閉じ込める!」そして、彼は実際に彼を牢に閉じ込めました。他のしもべたちがこれを見て、王に報告しました。王はそのしもべを呼び出し、「お前は悪いしもべだ。お前は私に借金を許してほしいと頼み、私は許してやったではないか。私がお前に慈悲を示したように、お前も仲間のしもべに慈悲を示すべきではなかったのか。」と叱責しました。王は激怒し、借金をすべて返済するまでこのしもべ拷問官に引き渡しました。 言い換えれば、赦されたはずの借金が再び彼の肩にのしかかったのです。これはどういうことでしょうか。私たちを赦してくださる神が、赦しを取り消されるのでしょうか。すでに赦してくださった罪を、再び私たちの肩に負わせるのでしょうか。この聖句によれば、そうなのです。聖書は、神が私たちの罪を「忘れた」とは決して言っていません。神は「わたしはもはやあなたの罪を思い出さない」と言っています。これは、「あなたの罪をあなたに咎めない」という意味です。神が完全に忘れるという聖句は、どこにもありません。私自身、自分が犯した罪を忘れることができないのに、どうして神が忘れることができるでしょうか。いいえ、神は今でも知っておられますが、私たちを咎めないのです。このたとえ話は、私たちが他人を赦せば神も私たちを赦し、赦さなければ神も私たちを赦さないということを教えています。
そして最後の祈りは、「私たちを試みにあわせないでください」です。これはどういう意味でしょうか。神は私たちの限度を超えた試みをお与えになりません。(1コリント 10:13)が、この祈りをすることは私たちにとって良いことです。なぜなら、誘惑の中には、私たちの対処能力をはるかに超えるものがあるということを認識することが大切だからです。神が私たちの限度を超えた試みをお許しにならないことは知っていますが、私たちにとって強烈な誘惑に導かれないように祈る必要があるのです。「悪から救い出してください」という祈りは、謙遜な姿勢を表しています。「この誘惑にどうやって打ち勝つのか分かりません。打ち勝つ能力がありません。ですから主よ、父よ、私にとって大きすぎる誘惑に、どうか導かないでください」と祈っているのです。このように祈る時、私は自分の無力さと弱さを表しています。これは誘惑に対する良い態度です。
私たちは、自分は十分誘惑に打ち勝てるはずだと考えてはなりません。多くの人が罪に打ち勝てないのはそのためです。ほとんどのクリスチャンが罪に敗北する理由は、自信過剰であることです。彼らは自分に能力があると思っています。もう少ししっかりとした決意を持って、歯を食いしばれば克服できると考えています。いいえ、それでは克服できません。私たちはこう認めなければなりません。「主よ、私にとって耐え難い誘惑に私を導かないでください。そして、どんな誘惑に直面しても、悪から私を救い出してください。なぜなら、私は自分の力だけでは悪に打ち勝つことができないからです。」
人を赦すことに対する悪が強いと私たちが認識さえすれば、イエスがここで教えているように私たちは祈ることができます。もし誰かが、あなたやあなたの家族にひどい危害を加え、その人が犯した悪に対して、その人を赦すことが非常に困難な場合、神に恵みを求めて祈りましょう。「主よ、どうか私を助けてください。この赦せない心という悪から私を救い出してください。私にはこの人を赦す力はありませんが、どうか私が彼を赦せるように助けてください。」
祈りは、私たちの弱さと神への依存を表明するものであり、信仰とは、天におられる父なる神が、私をすべての罪から解放するために御子を遣わしてくださったのだから、神は必ず私を助けてくださるという確信です。ローマ8:32には、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあります。
祈りはマタイ6:13の「御国と力と栄光は、とこしえにあなたのものです。アーメン」で締めくくられます。これは非常に重要です。「主よ、すべてが終わった時、あなたが私の祈りに答えてくださり、私が求めたすべてを成し遂げてくださった時、御国はあなたのもの、力もあなたのものだと認めます。私にはこの人生を生きる力はありません。罪に打ち勝つ力もありません。力はあなたのものです。そして、私が罪に打ち勝つ時、栄光もまたあなたのものです。」
そして祈りは「アーメン」で終わります。「アーメン」とは「その通りになりますように」という意味です。