多くの人々は、不安を罪だとは考えていません。それはちょうど、ほとんどの人が、怒り、金銭への愛着、人からの称賛を求めること、敵を憎むこと、あるいは、罪のない嘘をつくことなどが罪だと考えていないのと同じです。そしてそれらのことを、単なる「弱さ」と呼びます。しかし、「弱さ」と呼んでいる限り、そこから解放されることは決してありません。イエスは、私たちを弱さから救うために来られたのではありません。罪から救うために来られたのです。
もし私たちが何かを「罪」として告白するならば、イエスはそこから私たちを救い出してくださいます。しかし、もしそれをより聞こえの良い言葉で言い換えようとするなら、そこから解放されることは決してないでしょう。 思いつく限り最も醜い言葉で、その本質を言い表してみてください。情欲を「姦淫」と呼び、怒りを「殺人」と呼び、金銭への愛着を「神への嫌悪」と呼ぶのです。そうすれば、それがどれほど邪悪なものであるかを悟り、そこから解放されるでしょう。
もしあなたが、エイズや癌を、単なる咳や風邪と同じような程度の病気と考えるなら、それらを真剣に受け止めないでしょう。多くの人々は、イエスがそれらの罪について、あれほど厳しく語られたにもかかわらず、それらを非常に軽く考えています。私は彼らを責めるつもりはありません。なぜなら、彼らの指導者や教師たちが、そうした真理を彼らに教えてこなかったからだと言えるからです。
神の真理のすべてを説き明かし、人からの称賛を求めないようなキリスト教の説教者や教師が、あまりにも不足しているのです。誰の金銭も求めず、ただ真理を語ることによって、神の民を霊的な救いへと導こうとする説教者は、ごくわずかしかいません。それはまるで、患者の金銭には興味がなく、ただその人を健康へと導くことに関心を持っている医師のようなものです。そのような説教者は、極めて稀なのです。
人々はまた、思い煩いを単なる「弱さ」と呼びます。しかし、それは単なる弱さなどではありません。
全宇宙の主であるイエス・キリストは、マタイによる福音書6章25節から34節にかけての箇所で、三度にわたりこう仰っています。「思い煩ってはならない(不安になってはならない)」。わずか10節という短い範囲の中で、主は三度も「思い煩ってはならない」と繰り返されているのです。この主こそ、私たちに「殺人を犯してはならない」「姦淫を犯してはならない」「盗みを働いてはならない」と命じられた、あの主と同一のお方なのです。
これらすべてを並べてみましょう。「殺してはいけない、姦淫してはいけない、盗んではいけない、思い煩ってはいけない」。この中で、罪ではないものはどれでしょうか?「まあ、私が思い煩うのは週に1、2回だけのことだから」などと言えるでしょうか?それはまるで、「まあ、人を殺すのは週に1、2回だけのことだ」とか、「姦淫だって週に1、2回、それほど頻繁にやっているわけではない」と言い放つのと同じことです。なぜ私たちは、ある種の罪は深刻に受け止め、別の罪はそうしないのでしょうか?
それは、あなたがたの教師たちが、そのことを教えてこなかったからです。恐れとは弱さではありません。それは罪なのです――殺人と同じように、罪なのです。何が罪であるかは、どうすれば分かるのでしょうか? もし神が「それをすべきではない」とおっしゃるなら、それは罪なのです。もし神が「妻を愛しなさい」とお命じになったなら、たとえその妻が悪女であったとしても、あなたは彼女を愛さなければなりません。なぜなら、神がそうおっしゃったからです。そして、もし神が何かを「してはならない」とお命じになったなら、たとえあなたがそれを悪だと思わなかったとしても、してはなりません――それは悪です。それは、私が不貞を悪いことだと思っているからではありません。神が「してはならない」とおっしゃったからです。神はこうもおっしゃいました。「思い煩ってはならない。恐れてはならない」と。私は、神が「してはならない」とおっしゃった事柄を、悪として捉えたいのです。
思い煩いは、神との交わりを破壊します。思い煩いは、「神は私を気にかけてなどいない」と主張するに等しいのです。それは神に対する侮辱です。 ゴミ箱をあさって物を食べている4歳の子供を見て、あなたはどう思うでしょうか? 私たちの国には、残念ながら、そのような子供たちが少なからずいます。彼らには、自分たちのことを気にかけてくれる親がいないのです。果たして、私たちの天の父もそのような方なのでしょうか? 私たちの天の父は、私たちのことを気にかけてくださらないのでしょうか? 天の父を、あのゴミ箱をあさって、物を食べている子供たちの父親と同列に扱うことは、神に対する侮辱に他なりません。あの子供たちは、次の食事がどこから手に入るのかさえ知りません。彼らには思い煩う権利があります。なぜなら、彼らの地上の父親たちは、彼らのことを気にかけていないからです。しかし、もしあなたに天の父がおられるにもかかわらず、あなたが思い煩っているとしたら、それは天の父をも彼らと同じような父親の部類に入れていることになってしまうのです。
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、…心配したりしてはいけません。」(25節)。自分のいのちのことで思い煩ってはなりません――何を食べようか、何を飲もうか、あるいは自分のからだのことについて、思い煩ってはならないのです。あなたの命は、食べ物や体、そして着るもの以上の、もっと大切なものではないでしょうか。
ルカによる福音書では、空の鳥たちが例に挙げられています。鳥たちは種をまくことも、刈り取ることも、倉に蓄えることもしませんが、それでも天の父は彼らを養っておられます。あなたはこれまでに、道端で死んでいる鳥を何度見かけたことがあるでしょうか。道端で死んだ鳥を目にするというのは、実に稀な光景です。私の人生全体を通しても、道端で死んだ鳥を見た回数は、片手の指で数えられるほどしかないと思います。鳥たちが飢え死にしている姿を、あなたはどこで見たことがあるでしょうか。それは極めて稀なことなのです。地球上には何百万、何千万もの鳥たちが生息していますが、種をまくことも、刈り取ることもせず、あちこちを飛び回って自ら餌を探さなければならないにもかかわらず、彼らはちゃんと食べ物にありついているのです。一体誰が彼らを養っているのでしょうか。イエスは、「天の父が彼らを養っておられるのだ」と言われました。神は、鳥たちにとっての「天の父」ではありません。神は、あなたにとっての「天の父」なのです。神は鳥たちの「創造主」として彼らを養っておられますが、あなたに対しては、単なる「創造主」であるだけでなく、「父」であられるのです。あなたは、それらの鳥たちよりも、はるかに価値ある存在ではないでしょうか。
以前、ある短い詩を読んだことがあります。それはとても興味深い詩でした。二羽の小鳥が、互いに語り合っている場面です。コマドリがスズメに向かってこう言いました。「ねえ、どうしても知りたいことがあるんだ。どうして人間たちはあんなにも不安を抱え、あくせくと走り回り、思い悩んでいるんだろう?」するとスズメはコマドリにこう答えました。「友よ、それはきっと、君や僕のことを養っている『天の父』が彼らにいないからだよ。」これが単なる心温まるお話ではないと言うことを覚えておいてください。神が私たちのあらゆる不安や悩みなど気にかけてはおられないのだ、などと考えることは、神に対する侮辱です。
では、その解決策は何でしょうか。聖書は、ピリピ人への手紙4章6節の中で、「何事も思い煩ってはならない」と教えています。
「何事も思い煩ってはならない」――これは、極めて断定的な言葉です。しかし、不安の「原因」に対しては、私たちも何らかの対処をする必要があります。もしかすると、今あなたが直面している問題があり、それが一体どう解決するのか見当もつかない状況にあるかもしれません。そのような時、どうすればよいのでしょうか。神は、何もしないでただ手をこまねいているようには言っておられません。そうではなく、「そのことについて祈りなさい」と命じておられるのです。「祈り」とは、神に対して具体的な願いを申し述べ、問題が何であるかを正確に伝えることを意味します。祈りを終えたら、感謝をもって祈りを締めくくることを忘れないでください。感謝とは、「父なる神よ、私の祈りを聞いてくださりありがとうございます。私を心にかけてくださり、ありがとうございます」と申し述べることです。神に感謝を捧げることは、いわば「受領証」のようなものです。それは、「私の手紙(祈り)が神様の御前に確かに届き、神様がそれを受け取ってくださった」という事実を認める行為です。「聞いてくださり、ありがとうございます」と私が言う時、まさにそのことを表明しているのです。
これら二つのことを実践するならば、ピリピ人への手紙4章7節にある通り、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(『守る』とは軍事用語であり、要塞のように堅固に守り抜くことを意味します)という祝福がもたらされるのです。
思い煩わないこと――それは、私たちが従い守るべき神の命令です。不安から解き放たれる時、私は同時に、多くの落胆や失意からも解放されることになります。これこそ、私たちが一歩踏み出して実践すべき、実に素晴らしい歩みなのです。