雅歌はすべてのクリスチャンにとって重要な書物です。クリスチャン生活を始めた当初、主が私をこの書物へと導いてくださったことに、心から感謝しています。キリストとの個人的で、愛に満ちた、献身的な関係こそが、主への真の奉仕の源泉です。それは伝道であれ、教会開拓であれ、聖書教育であれ、社会奉仕であれ、何であれ変わりません。私たちはまず、「花婿と花嫁の歌」――主が私たちに歌ってくださる歌、そして私たちが主に歌い返す歌――を学ぶ必要があります。
雅歌1:1でまず気づかされるのは、これが主にソロモンの歌、つまり花婿の歌であり、花嫁の歌ではないということです。つまり、主が私たちに歌ってくださる歌であり、私たちが主に歌う歌ではないということです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:19)。私たちが先に主を愛したのではありません。主が先に私たちを愛してくださったのです。主が、まず私たちにこの歌を歌ってくださったからこそ、私たちは今、主に歌を歌うことができるのです。
雅歌4:8で、花婿が花嫁にこう言っているのが聞こえます。「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニル、すなわちヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。」これは天の領域で生きるよう招く言葉です。主はこう言われます。「低い地上の視点から物事を見ずに、私と一緒に天の領域に来て、そこからすべてを見なさい。そうすれば、地上のものは小さく、儚く、価値のないものとなるだろう。」主は私たちをより高い次元へと引き上げようとしておられます。確かに、地上には獅子、すなわち悪魔、邪悪な支配者や権力者がいます。しかし、私たちはそこで主と共にあり、主と共にそれらの邪悪な力すべてに打ち勝つのです。
雅歌4:12で、花婿は花嫁を「閉じられた庭」と呼んでいます。それは花婿だけの特別な庭です。花嫁は他の誰のものでもありません。花嫁は主だけのものです。あなたと主との関係は、そのようなものでしょうか?主はあなたに「あなたは私の特別な庭、私だけのものだ」と言えるでしょうか?
世の中には、必要以上のお金を稼ぐ機会、地上の権力や名声を得る機会など、私たちを誘惑するものがたくさんあります。こうした誘惑は、花嫁を誘惑しようとする他の男たちに例えることができます。しかし、ここで花嫁は誘惑されていません。彼女は愛する方だけを心に留めています。花嫁は花婿だけのものです。
キリストとこのような関係を築いている信仰者はごくわずかです。そのため彼らは、キリストを深く知ることができず、御言葉を理解できないのです。聖書を理解する秘訣は、まず何よりも主と親密な関係を持つことです。主以上に御言葉の意味を私たちに説明できる人がいるでしょうか。初期の弟子たちのように主と共に歩み、主があなたに語りかけてくださることを熱心に求めなさい。そうすれば、当時の弟子たちのようにあなたの目は開かれ、あなたの心は燃え上がるでしょう。
雅歌5:2には、花婿が真夜中にやって来て「わが愛する者よ、戸を開けてくれ。」と呼びかけたとき、花嫁は着替えて戸を開けるのを面倒くさがり(雅歌5:3)、また足を洗ったばかりなのに汚れてしまうとつぶやきます。花婿は自分で戸の錠を外そうとしました(雅歌5:4)。すると花嫁は気が変わり戸を開けましたが、愛する主はもういませんでした。彼女が呼ばれた時にすぐに返事をしなかったために、主は去ってしまったのです。
私たちにも同じことが起こり得ます。主は私たちにこう言われるかもしれません。「本を読んだり、おしゃべりしたり、今してること全てやめて、私とあなた二人だけになり、私と語り合おう。一緒に散歩に行きましょう。」そして私たちは、「主よ、ちょっと待ってください。やらなければならない大切なことがあるんです。15分で終わりますから、それから行きます。」と答えるかもしれません。そして15分後、その大切な(?)仕事を終えると、「主よ、準備ができました。」と言うのです。しかし、主はもういなくなっていて、どこにも見当たりません。
あなたは神のしもべとして効果的に働きたいですか?主があなたを召されたら、すべてを投げ出し、主の声に耳を傾ける習慣を身につけましょう。決して後悔することはありません。
雅歌5:2で、花婿は花嫁にこう語ります。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」イエスは失われた者を探し、救うために地上に来られました。十字架の道(自己否定の道)を歩み、この世の暗闇の中で迷える羊を探し求め、苦しみを受けました。今、花婿は花嫁に同じ道を歩むよう招きます。しかし、花嫁はそれを拒みます。
雅歌6:4-10で、花婿は、すべての女性の中で、自分の完璧な花嫁に匹敵する者はいない、誰よりも彼女を選んだと花嫁を称えます。すべての夫は妻をこのように見るべきです。「世の中には魅力的な女性がたくさんいるが、私の妻に匹敵する者はいない。彼女は私の目には一番だ。」と。
これは主が私たちについて語られた言葉です。主は、世の中の賢い人、裕福な人、偉大な人よりも、私たちを高く評価し、喜んでくださるのです。
雅歌7:1-9で、花婿は再び花嫁を称賛します。私たちは、たとえどんなに弱くても、主が私たちを愛してくださり、喜び褒めてくださることを理解しなければなりません。多くの信仰者は、主が自分を愛してくださっていることを信じられないために、絶えず自己非難に苦しんでいます。花婿が花嫁の唇を称えると、花嫁はすぐに「あなたの唇の方が真実です」(雅歌7:9)と答えます。これは、二人の間の繋がりがどれほど強いものかを示しており、私たちも主とこのような親密な関係をを持つべきなのです。
雅歌7:10で、花嫁は「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と言います。ここで花嫁は、主が自分のものであると言っているだけでなく、主が自分を好んでくださっているとも言っているのです。主が「愛している」と言うことと、「気に入っている、好む」と言うことは全く別のことです。夫は妻を愛していても、妻のやり方に満足していないかもしれません。主はあなたを愛しておられるかもしれませんが、あなたの人生における多くの事柄に満足されていないかもしれません。
成熟した愛は主を喜ばせることを求めます。花嫁は花婿と共に働き、「さあ、愛する者よ。野へ出かけましょう」(雅歌7:11)と言います。花嫁は今、収穫の時を迎え実った畑、つまり逼迫した世に対する花婿の思いを分かち合います。しかし、決して一人で畑へ行ってはなりません。愛する主と共に行きましょう。主との関係を築き、主に仕えなさい。主こそ、あなたが主のために働くことができる畑の最良の場所を知っておられる方です。
私はこのようにして、過去60年間、フルタイムの主のしもべとして主にお仕えしようと努めてきました。
私は決して一人でどこかへ行きたいと思ったことはありません。「主よ、あなたが道を示してください。私もあなたと共に行きます。一緒に畑へ行きましょう。あなたがどこへ行くのか教えてください。主よ、あなたが道を切り開いてください。私はあなたと共に参ります。一緒に畑へ行きましょう。あなたがどこへ行かれるのか教えてください。もしあなたがどこにも行かないのなら、私も行きません。」と申し上げてきました。
私たちが主と交わり、主に従ってお仕えするならば、私たちの人生を誇らしげに自慢したり、自分の働きを他の誰かの働きと比較することは決してないでしょう。