今日のクリスチャンの中には、多くの面で「旧約」の下に生きている人々がいます。彼らは、「新約」がペンテコステの日に確立されたことに気づいていないのです。それはまるで、インドの人々が1947年にインドが独立したことを知らないようなものです。そのことを知らない人がいるでしょうか?
クリスチャンがいまだに「旧約」の下に生きているというのも、それと同じくらいおかしなことです。
旧約においては、罪の赦しを得ることしかできませんでした(詩篇103篇)。一方、「新約」においては、ローマ人への手紙6章14節にある通り、罪はもはや人を支配することはありません。罪の赦しがあるだけで、罪に対する勝利がない状態、それこそが「旧約」の下にある生き方なのです。
「旧約」の時代には、一つの体として共に働くことのできない集まりがありました。今日の教会もまた、一つの体として機能できないのであれば、それは実質的に「旧約」の集まりに過ぎないことを証明しています。
什一献金(収入の十分の一を捧げること)が強調されることもまた、「旧約」に基づくものです。今日のキリスト教界で見られる什一献金の強調は、完全に「旧約」のものです。ですから、私たちは新約聖書における「捧げること」の原則を理解しなければなりません。
新約聖書には、10%を納めなければならないという律法はどこにもありません。什一献金が命じられている最後の記述は、旧約聖書の「マラキ書」にあります。イエスがマタイの福音書23章でこのことに触れた際、相手にしていたのは、まだ「旧約」の下にいた人々、つまりパリサイ人やユダヤ人でした。「新約」はペンテコステの日に確立されましたが、それ以降、クリスチャンに対して什一献金を納めるよう命じる箇所は一つもありません。什一献金への言及さえ全くないのです。
ヘブル人への手紙の中に、アブラハムがメルキゼデクに10%を捧げたという記述が漠然とありますが、それはアブラハムが何らかの律法に従って行ったことではありませんでした。 彼は自分の好きなように捧げることができたのです。たまたまそれが10%だったというだけであり、アブラハムは律法に従っていたわけではなく、もしそうしなかったとしても罪を犯したことにはならなかったでしょう。
新約において、献金の原則は、人知れず行うこと(マタイ6:1-4)、喜んで行うこと(2コリント9:7)、そして収入に応じて行うこと(1コリント16:2)です。どれだけ献金すべきかという決まりきった律法はありません。神が与えてくださった祝福に応じて献金すればよいのです。豊かに与えられ、余裕があるなら多く献金できますし、余裕がなければ献金しなくても構いません。それでよいのです。なぜなら、神は富める方であり、貧しい子供たちが神への献金によって苦しむことなど望んでおられないからです。
これらの原則を理解していなければ、多くの牧師や説教者に金銭的に利用されてしまうでしょう。しかし、献金は人知れず行うべきだということを心に留めておいてください。献金額を公表させるような教会は、実際にはマタイ6:1-4にある神の御言葉に背くよう求めていることになります。可能な限り、献金は人知れず、自発的に、そして喜びをもってなされるべきです。
だからこそ私は個人的に、人々の前で献金袋を回し、喜びをもって献金できないかもしれない人々に無理やり献金を強いるようなやり方はすべきではないと考えています。そのような状況では、隣の人が献金する様子を見ているため、人知れず献金することは恐らく不可能でしょう。あるべき姿は、教会内のどこかに献金箱を置き、人々が自らの力に応じて、人知れず、喜びをもって自発的に献金できるようにすることだと私は信じています。しかし、このような方法をとる教会はごくわずかです。なぜなら、多くのキリスト教の説教者や教会の間に、金銭への強い執着があるからです。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:20)というイエスの言葉を覚えておいてください。この言葉は、「神の国に入るために、私たちの義がいかにして律法学者やパリサイ人の義にまさるべきか」を説く「山上の垂訓」の見出しでもあります。
献金という点においても、イエスは、自分たちの献金内容を人々に知らしめたがった偽善者であるパリサイ人とは、全く異なる態度をとるべきだと語っておられるのです。イエスは、人前で自分の義を行うことに気をつけるようにと言われました。それが根本的な原則です。イエスは、人から注目されるためにそれを行ってはならないと言われたのです。
人がそれに気づいてしまうことは避けられない場合もありますし、偶然知られてしまったり、どうしても避けられなかったりしたからといって、罪悪感を抱く必要はありません。しかし、私たちは「人の目を引くために」それを行うのではありません。そこが重要な点です。そうでなければ、天におられる父から報いを受けることはできません。この聖句によれば、主の働きのために献金した人々の中には、天で何の報いも受けられない人たちがいます。なぜなら、彼らは自分がどれほど献金したかを周りの人に知らせたいという思いがあったからです。
もし内密に捧げるなら、ひそかなところで見ておられる父が報いてくださいます。それは神が約束された素晴らしい報いです。私たちがこの命令に従うなら、いつかキリストが再び来られる時、そのような人々のために大きな報いが用意されているのです。