「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。」(マタイ6:5)。
イエスは、私たちに祈り方を教える前に、まず警告として「祈りにおいて避けるべきこと」をいくつか挙げておられます。
第一に、偽善者は祈っている姿を人に見られることを好みます。「彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
ここにある原則はこうです。もしあなたが公の場で祈り、その目的が「他人に評価されること」にあるなら、それは神ではなく人からの名誉を求めていることになります。公の場で祈り始めるほとんどの人が、最初は人からの称賛を求めてしまっていることを、正直に認めざるを得ないでしょう。
自分自身に問いかけてみてください。あなたは公の場でも、私的な場(一人きりの時)と同じように祈っていますか。 ベッドの横で一人膝をついている時、あなたはどう祈っていますか。神様に何を語っていますか。それは、人前で祈る時と同じ内容でしょうか。 それとも、人前では言葉を飾り立て、声を震わせ、俳優のように振る舞って、「自分はいかに熱心で感情豊かな人間か」を印象付けようとしてはいませんか。
それはすべて偽善です。神はそれを嫌われます。このような公の祈りは、神の目には忌まわしいものであると自覚すべきです。神はそれを嫌い、耳を貸すことさえされません。 多くの教会の公の祈りがこのカテゴリーに属しており、人々は自分がどれほど上手に祈れるかを誇示しようとしています。これはイエスの教えに完全に反することですが、多くの人がこれを行ってしまうのは、イエスが命じられたことを正しく理解していないからです。
どうすればこの偽善から自分を清めることができるでしょうか。祈るたびに、自分自身を深く吟味(判断)すべきです。私がクリスチャンとして初めて人前で祈った時のことを覚えています。白状しますが、私は人からの称賛を求めて祈っていました。家に帰り、自分を裁いてこう言いました。「主よ、あのような祈り方は間違っていました」。次に人前で祈った時もまた、やはり人からの名誉を求めてしまい、また家に帰って自分を裁きました。人前での祈りにおいて、人からの名誉を求める欲求から完全に清められるまでには、数年の歳月を要しました。しかしついに、全能の神、天の父に対してのみ祈ることを学んだのです。あなたはどうでしょうか。まだそこに至っていなければ、人からの栄誉を求める心から救われることを熱心に求めましょう。
イエスは言われました。「祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」
公の場でこれをどう実践すればよいのでしょうか。それは、心の中に閉めることのできる扉を持つことです。たとえ100人の真ん中に立っていても、私には心の扉があります。それを閉めて、「今、私は全能の神、私の父の前にたった一人で立っている」と意識するのです。周りに人はいても、彼らを意識しないようにします。
祈る時に目を閉じる理由の一つもそこにあります。目を閉じて祈らなければならないという律法はありません。イエスもそうされたように、目を開けて祈ることもできます。しかし、周囲の状況に気を取られないよう、また周囲の人からの称賛を求めないようにするために、私たちは物理的に目を閉じ、人々を遮断するのです。同じように心も閉ざして、「父よ、今扉を閉めてあなたに祈っています」と言いましょう。それが、公の場であっても「隠れた所におられる父」に祈る方法です。隠れた所を見ておられる父は、必ずあなたに報いてくださいます。もしあなたが人からの称賛を求めず、父なる神に祈っているなら、神は必ず報いてくださり、その祈りに答えてくださると確信してよいでしょう。
マタイ6:7で、イエスはさらに助言されています。「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
神を知らない人々が犯す間違いの一つは、空しい繰り返しをすることです。ある宗教では、何かを唱える習慣があります。宗教的なフレーズを繰り返し、無意味な言葉になっています。
クリスチャンであっても、霊的な言葉をただ機械的に繰り返す可能性があります。「ハレルヤ、ハレルヤ……」と連呼しても、それが単なる儀式になってしまえば無意味です。「主を賛美します」という言葉も同様です。新約聖書の中で「ハレルヤ」という言葉は黙示録19章に登場しますが、そこでは必ず「〇〇という理由で、ハレルヤ」と、明確な理由を伴って語られています。主を賛美するなら理由があるはずであり、無意味に言うべきではありません。
感謝することは大切ですが、それが空しい繰り返しであれば、神の前では何の価値もありません。それどころか、神の名をみだりに唱えることにもなり得ます。「ハレルヤ」の「ヤ」は、主(ヤーウェ)の短縮形です。ユダヤ人は神の名をみだりに唱えないよう、その名を口にすることさえ恐れていました。多くのクリスチャンが、無意味に「ハレルヤ」と言うことで、実は神の名を軽んじているのではないかと私は危惧しています。私は主を賛美する時にこの言葉を使いますが、毎回必ず心を込め、意味を持って言うように努めています。私はこの言葉を使うことに反対ではありませんし、神も反対しておられるわけではありません。しかし、それは意味のある言葉でなければならず、意味のない繰り返しであってはなりません。
クリスチャンがこのような単純な戒めを真剣に受け止めていないことがお分かりでしょうか。イエスは、意味もなく呪文のように同じことを繰り返すのは信仰者ではない人々だと言われました。私たちの生活において、そのようなことはあってはなりません。私たちは神を敬い、心から言葉を発する必要があります。王や大統領、あるいはインドの首相の前に行って、自分が何を言っているのかも分からずに、ただ同じことを繰り返すなどということはできません。私たちは神に対して、もっと深い敬意を払うべきです。意味のない繰り返しは避けましょう。
イエスはまた、「言葉数が多いことで聞き入れられると思ってはいけない」とも言われました。多くの人が、長く祈れば神は必ず聞いてくださると勘違いしています。「3時間祈ったから、神様は間違いなく答えてくださる」というのは、聖書的ではありません。
カルメル山で、バアルの預言者たちは何時間も(おそらく6時間以上)祈り叫びましたが、何も起こりませんでした。一方、エリヤは立ち上がり、わずか30秒ほど祈っただけで、火が降りました。主が聞き入れられるかどうかは、祈りの長さではないのです。
「一晩中祈ったから、答えられるはずだ」という考えも同様です。祈りの答えをもたらすのは、信仰と罪のない心です。詩篇66:18にはこうあります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」
一晩中祈ろうが、どれほど立派な祈りだろうが、関係ありません。解決していない罪があるなら、告白していない罪が心にあるなら、あるいは兄弟との間に関係の縺れがあるなら、神はあなたの祈りに耳を貸されません。まず行って、兄弟との問題を解決しましょう。神との間、あるいは隣人との間に、告白され清められていない罪があるなら、1分祈ろうが10時間祈ろうが、それは時間を無駄にしているだけなのです。