マタイ6:5-8で、偽善者のように祈ってはならない、意味のない繰り返しをしてはならない、長々と祈ってはならない、しかし父なる神は私たちの必要をご存知であると信じて祈るべきだと、イエスが祈り方について教えてくださった後、次にどのように祈るべきかを教えてくださいました。私がクリスチャンを観察してきた中で気づいたのは、子どもでも理解できるイエスのこれらのシンプルな言葉に、実際に注意を払っている人はごくわずかだということです。イエスは誤った祈り方について教えてくださったのに、多くの人はそれを真剣に受け止めておらず、また正しい祈り方についても教えてくださったのに、これも多くの人は真剣に受け止めていません。
しかし、イエスは私たちにただ繰り返すだけの祈りを教えてはおられません。もしあなたがすべての言葉を心から込めて言うのであれば、繰り返すことに何の問題もありません。しかし、イエスは私たちのすべての祈りを特徴づけるべき「型」を教えてくださったのです。
イエスは、「祈るときは、このように祈りなさい。『天におられる私たちの父よ』」と言われました。イエスが最初に言われたのは、神に話しかける時は、神を「父」と呼びなさいということです。旧約聖書の時代には、誰も神を見上げて「父よ」と呼ぶことはできませんでした。旧約聖書の祈りは常に「おお神よ、全能の主よ」といったものでした。なぜなら、神は全世界の最高経営責任者(CEO)であり、神の民は工場の小さな従業員のようなものだったからです。CEOに好きなように話しかけることはできません!
しかし、新約時代においては私たちは神の子どもであり、CEOの子どもが父親のオフィスに入って「お父さん」と呼ぶことができるように、私たちにも神の子どもとしてのその特権があることを理解する必要があります。それは根本的に異なるのです!
しかし、ほとんどのクリスチャンは神を「父」とは呼ばず、「おお神よ」と呼んでいます。それ自体は間違いではありません。神は神であり、神として呼びかけるのは正しいことです。しかし、神を「父」としてではなく、「神」としてのみ呼びかけるのであれば、何か問題があります。
旧約聖書では、神にはヤハウェ(またはエホバ)(ヘブライ語のアルファベットには母音がないため、正確な発音は誰も知りません)という名前がありました。私にとって、それは全く重要でない議論です。なぜなら、私は神をエホバともヤハウェとも呼ばないからです!
私は神を「ダディ」(「お父さん」「パパ」)と呼びます。
イエスが「私たちの父よ」と祈るように教えてくださったので、神は私の父です。ローマ8章には、聖霊が私たちの心に入ってきて、「アバ!父よ!」と叫ぶと書かれています(ローマ8:15)。しかし、「偉大なるエホバよ、私を導いてください」といった歌を歌う人たちがいますが、彼らは自分の父に語りかけているのでしょうか。神はエホバですが、私たちは神を父として呼びかけることを学ぶ必要があります。
もし私の子供たちが、私を「プーネンさん」と呼んだら、私は彼らに何か問題があると思うでしょう!なぜ彼らは私をプーネンさんと呼ぶのでしょうか。
彼らは私を「ダディ!」と呼ぶべきです。私が神に祈る時、エホバとかヤハウェがたとえ神の名前であっても、そのように呼びません。私は「父よ」と言います。なぜなら神は私の父だからです。私は神の子となったのです。
神の子となったというこの現実を、多くのクリスチャンはまだ実感していません。それは彼らが聖霊に心を開いていないからです。聖霊が人に満ちる時、聖霊が最初に行うことの一つは、その人に「アバ父よ」と叫ばせることです。これは「ダディ」という意味です。あなたにもそのような経験がありますか。これは非常に重要なことです。誰かがあなたにそう言うように教え込むものではありません。
それは内側から自然に湧き上がる叫びです。この内なる変化は、人が聖霊に満たされ、新生した時に、聖霊がその人の心に入ってくる時に起こります。
聖霊に満たされた人は、神を真に自分の父として知っています。神を父として知り、神を父と呼ぶことは、キリスト教生活において最も重要なことの一つです。
あなたは神を主と呼ぶこともできますし、神と呼ぶこともできます。しかし、あなたが祈るべき最も重要な方法は、「アバ父よ」と祈ることです。
イエスは「私たちの父よ」だけでなく、「天におられる私たちの父よ」と祈るように言われました。私たちは地上の父に祈っているわけではありません。地上の父は私をとても愛してくれるかもしれませんが、困難な状況で私を助けることができないかもしれません。
天におられる私の父は無力ではありません。神は全宇宙を支配しておられます。神はインドの首相よりも力強いのです!もし、インドの首相があなたの父親だったらどうでしょう。何か問題が起きたら、お父さんに電話して話せばいいだけです。さて、天におられるあなたの父は、この世の誰よりも偉大で力強い方です。なぜあなたの問題を父に打ち明けないのですか。
イエスはこの祈りの最初の言葉で、信仰の土台を築こうとしていました。「天におられる私たちの父よ」という言葉は、祈り始める前に、私が祈りを捧げようとしている方がどのような方であるかを私の心に明らかにします。
私が話しかけているのは、私の天の父、私を深く愛してくださる父です。この父は天におられ、全能です。神が私を深く愛してくださること、そして神が全能であること、この二つの真理が、私の信仰の基盤です。神はどんな問題でも解決できます。何でもできるのです。そして、私を深く愛してくださいます。
これこそが信仰の最大の基盤です。
続く六つの祈りの願いをよく見てみると、最初の三つの願いは神に関することであることに気づくでしょう。祈る時、あなたの最初の願いは何ですか。ほとんどの場合、自分自身や家族のための祈りでしょう。
「主よ、この必要を満たしてください」「腰痛を治してください」「仕事を与えてください」「子供たちの世話をしてください。」「仕事と結婚相手を与えてください」などです。これらの願いは決して悪いものではありません。
私たちは確かにこれらのすべてのことを祈ることができます。神は私たちがどんな小さなことでも、些細なことでも、神に頼ることを望んでおられます。鍵をなくした時でさえ、神に助けを求めて見つけることができるのです。
どんな小さなことでも、どんな大きなことでも神に求めることができますが、何を優先しますか。
イエスは、祈る時は神とその御心に優先順位を置くべきだと教えました。それが「まず神の国を求めなさい」という意味です。
イエスはマタイ6:33でこう言っています。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
これらのものを求めることはできますが、神の国を第一に置きなさい。これが神の方法です。
イエスは、あなたの最初の祈りはこうあるべきだと言われました。「天におられる父なる神よ、御名が崇められますように。人々が私の名前について何を言おうと気にしません。それは重要ではありません。なぜなら、私の名誉などゴミ箱に捨てるにふさわしいからです。」
あなたは神の御名よりも自分の名前や評判を気にしていますか。もしそうなら、あなたはイエスが教えた方法で祈っていません。
もし誰かがあなたやあなたの娘を中傷したとしましょう。そのことが、私たちの国でイエスの御名が辱められていることよりも、自分に苦しみを覚えますか。
クリスチャン同士が争い、多くの間違ったことをしているのに、私たちはそれほど悲しんでいません。もし私たちが、そのようなことを全く気にしていないとしたら、私たちは本当に神を父として仰ぐ関係にあるのだろうか疑問です。もしあなたが自分の名前、家名、そして子供たちのこと(人々が彼らについてどう言っているか)ばかりを気にしているなら、考え方を改め、もっと神を中心とした生き方をする必要があります。
イエスは祈りを非常に重要視されました。ルカ18:1でイエスは、人々は常に祈り、決して諦めてはならない、落胆してはならないと教えられました。イエスが語られた祈りに関する二つのたとえ話のどちらにも、忍耐の重要性が強調されています。
その一つは、ルカ18:1~8に出てくる、敵に対して正義を得るまで裁判官に訴え続けたやもめの話です。これは、サタンと肉の欲望に打ち勝つための祈りの例です。もう一つは、ルカ11:5~13で、イエスが神にパン、つまり困っている人に与えるための力や賜物を求めることについて語られた箇所です。どちらのたとえ話でも、忍耐が強調されています。その人はパンを得るまで、ひたすら戸を叩き続けます。祈りに関するイエスの教えの核心は、「決して諦めてはならない。」ということです。神はあなたの父です。神はあなたの必要を満たし、あなたのために敵に打ち勝ち、他の人々を祝福するために必要なすべてを与えてくださいます。私たちは祈りと信仰をもって神のもとに行き、神の栄光のために求めるものを与えてくださると信じなければなりません。アーメン。