私たちのCFC教会では、「死後に天国へ行く方法」については説教しません。イエスが私たちに命じられたのは、あらゆる国に行って弟子を作り、ご自分が命じられたすべてのことを彼らに教えることであって、地獄を免れて天国へ行く方法を教えることではなかったからです!!
しかし残念なことに、今日の福音宣教の多くは、死後に天国へ行く方法ばかりを強調しています。私はそのような福音を説きません。なぜなら、人々を天国へ連れて行くことには関心がないからです。それは神の御業(みわざ)です。
私は、この地上でイエス・キリストの弟子を作り、イエスが命じられたすべてのことに従うよう彼らを教えることを目指しています。それこそが、マタイの福音書28章18節から20節で主が私たちに明確に与えられた使命であり、私たちCFC教会が世界の各地で過去50年にわたり実践しようと努めてきたことです。
私が説く福音とは、この地上でいかにしてイエス・キリストの弟子となり、日々イエスに従っていくかということです。イエスは、いのちに至る門は小さく、その道は狭いと言われました(マタイ7:14)。私たちは、罪を悔い改め、キリストの死と復活を信じることによって、その狭い門に入ることができます。そして、自分の十字架を背負い、日々「自己(肉)」に対して死に、人生においてキリストを第一とし、イエスに従うことによって、その狭い道を歩むよう召されているのです。それこそが、先の聖句でイエスが教えられた「いのち」と「弟子としての歩み」の道であり、私たちがすべての教会で教えている「永遠のいのち」への道なのです。
弟子としての歩みに関して、イエスはルカの福音書14章26節でこう言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 」この聖句にあるように、愛する家族を「憎む」ことについて説教されるのを、これまでに何度耳にしたことがあるでしょうか? 実はこれこそが、主イエスの弟子となるための「第一の」条件なのです。しかもイエスは、単なる「改宗者」ではなく「弟子」をあらゆる場所でつくるよう命じられました。ですから、もし私たちが弟子をつくりたいと願うなら、他の何を教えるよりも先に、弟子としてのこの「第一の」条件を教えなければなりません。
子供が学校に入学したとき、最初に教わるのは物理や化学ではありません。そうではなく、最初に教わるのはアルファベット、つまり「ABC」です。それと同じように、私たちの教会に加わる人々にも、何よりもまず「弟子としてのアルファベット」、すなわち「イエスを何よりも愛すること」を教えなければなりません。その条件を満たすことを望まない人々には、最初にはっきりと次のことを告げなければなりません。そのような人は、主イエス・キリストの弟子にはなれないこと、そして、弟子に「二流」などというものは存在しないということです。弟子にはただ一つのあり方しかありません。それは、「父、母、兄弟、姉妹、妻、子、そして自分自身のいのちまでも憎む」者となることです(ルカ14章26節)。
では、家族を「憎む」ことを求めるイエスのこの言葉と、「父と母を敬え」、「キリストが教会を愛されたように妻を愛せ」といった聖書の他の命令、さらには子供や兄弟姉妹を愛するという教えとを、どのように捉えればいいのでしょうか。
イエスはメッセージの中で、要点を明確にするためにしばしば例えを用いられました。そこで私は、家族を「愛する」ことと「憎む」ことという、一見矛盾するこれらの命令を理解するための例えを探し求めました。そして、私にとってその疑問を解き明かしてくれたのが、次のような例えです。
私は、父、母、妻、子、兄弟、姉妹に対する自分の愛を、星の光に例えてみました。星の光は明るく澄み渡り、そこには何の闇もありません。それこそが、私たちが家族に対して抱くべき愛の姿なのです。しかし朝になり、太陽が昇ると、星は見えなくなります。星はそこにあり続けていますが、私たちには見えません。それと同じように、キリストへの私の愛は太陽の光のようなものであるべきです。その光の中では、家族への愛は薄らいでしまいます。家族への愛は依然としてそこにあります(朝になっても星がそこにあり続けるように)。しかし、キリストへの愛があまりにも大きいため、他のすべての人への愛は、今やキリストへの愛を通してのみ全うされます。妻や両親、あるいは親しい誰であっても、私とキリストの間に割り込むことを決して許さないということです。このようにして私たちは、キリストへの至上の愛を通してのみ、他のすべての人を愛していくのです。
イエスは「わたしはわたしの教会を建てる」と言われました。それを建てることができるのは、ただ主だけです。私たちは、主の体の「肢体(部分)」にすぎません。ある者は舌のようであり、ある者は手のようであり、またある者は足のようです。あまり目立たない信仰者であっても、体の隠れた器官のような役割を果たしています。しかし、キリストこそが、ご自身の体を築き上げる「頭(かしら)」です。
私たちは、主の体の肢体として、主に支配され、管理され、用いられるために、ただ自分自身を主に捧げることしかできません。手や足は、自分たちだけで何かをすることはできません。頭が手に何をすべきかを命じ、足にどこへ行くべきかを命じるのです。
それと同じように、私たちはキリストに従うべきです。そうして初めて、キリストの体は機能し、築き上げられていきます。それこそが、私たちが強調しようとしてきたことです。
しかし、神がある人を用い始め、その人が「キリストの体」がその地に築かれていく奇跡を実際目にしていくと、「霊的な高慢」という大きな危険が出てきます。神が私たちを祝福してくださる時、高慢さがすぐそばに忍び寄ってくるのです。私たちは、その地域の教会を築いたのは自分たちだとか、人々をキリストのもとへ導いたのは自分たちだと思い込んでしまうことがあります。そして、神のしもべや教会が高慢になるとき、神は直ちにその人や教会に「敵対」します。
私たちが皆、神を恐れ、日々御霊の力を求め、それによって人生において神の栄光を現し、この終わりの時に神の教会を築き上げていくことができますように。
アーメン。