筆者 :    ザックプーネン カテゴリー :   家庭 教会 弟子
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「あなたがたのうちの誰かに、真夜中に家を訪ねてくる友人がいるとしましょう。親愛の情と礼儀から、あなたは彼に食事をしたかどうか尋ねます。もし彼がまだだと言い、冷蔵庫や家の中を見ても食べ物がないとわかったら、あなたはどうするでしょうか?隣人のところへ行くでしょう。」(ルカ11:5参照)

  実際、このようなことはめったにありません。真夜中に隣人を起こしてまで友人のための食べ物を頼みに行く人などほとんどいないでしょうが、この人はあえてそうするのです。 彼は隣人の家に行き、戸を叩いてこう言います。「パンを3つ貸してください。明日お返ししますから、今貸してほしいのです。親しい友人が訪ねてきたのですが、彼に出す食べ物がないのです。」すると家の中の人は、自分も子供たちも皆寝ているのだから、邪魔をしないでくれと言います。「真夜中に私たちを起こし、しつこく戸を叩いて迷惑をかけているじゃないか」と。しかし、この人は必要なものを手に入れるまでは戸を叩き続け、隣人を眠らせようとはしません。

 主はこう言われます。「たとえ友だちだからといって隣人が何もくれなかったとしても、あなたがしつこく、恥も外聞もなく戸を叩き続ければ、彼は起きてきて、必要なものを与えてくれるでしょう。」なんと素晴らしい表現でしょうか、「必要なものを」という言葉は。

 私は、聖霊のバプテスマを求めた時のことを思い出します。神の御言葉を効果的に教えるための聖霊の力、そして語る力を求めていたのです。クリスチャンになり、神の御言葉を分かち合い始めた頃の私は、とても内気な人間でした。聖霊の力が必要だとわかっていましたし、その力を受ければ別人のように変えられると信じていました。そして、まさにその通りになったのです。

 もしあなたが、自分自身のためではなく他者のために、聖霊の力強く超自然的な油注ぎを求め、絶えず「主よ、この人たちを養うためのパンをください」(この表現はルカ11章8節に見られます)と叩き続けるなら、神は必要な分をすべて与えてくださるでしょう(ルカ11章13節)。ここで私が言及しているのは聖霊のことです。イエスは、私たちが神に何を求めるべきかを明確にされました。「他者に仕えるために聖霊の力をください。自分の必要は満たされました。ルカ18章の段階は過ぎ、今は他者の必要について考えています」。それこそが真のクリスチャンです。

 多くの人は、背筋を走るような感覚や電気ショックのような刺激、あるいは異言を語ることなど、自分自身の利益になるような聖霊の力を求めがちです。しかし、私たちが聖霊の賜物を求めるべきなのは、他者を祝福するためなのです。私がかつて聖霊の賜物を求めた時のことを覚えています。それは他者に仕えるためでした。たとえ異言の賜物を与えられたとしても、それは自分自身を霊的に新鮮に保つためでした。なぜなら聖書には、異言を語る者は自分自身を築き上げるとあるからです。他者に仕える際に常に新鮮な状態でいられるよう、自分自身を築き上げたかったのです。ですから、異言の賜物でさえ、他者の益となるためのものであり、自分を新鮮に保ち、自分を築き上げるためのものでした。聖霊の賜物はどれも、単に個人的な自己満足のためではなく、他者の祝福につながるような個人的な霊的成長のためのものだったのです。

 聖霊の賜物はすべて、他者のためのものであることを覚えておく必要があります。「御霊の実」、喜びや平安は自分自身にとって益です。しかし、もし私に聖霊の賜物があるなら、それが預言であれ、癒やしであれ、その他の賜物であれ、それらの賜物は他者に益をもたらします。私たちはその両方を必要としています。神に求めること、そして信仰を持つことが必要なのです。

 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊(特に聖霊と、神のすべての良い賜物)を与えてくださる。」 (ルカ11:13)

 私たちは、自分たちが「父」のもとへ近づいているのだという信仰を持つ必要があります。私たちは、秘書を通さなければ近づけないような、遠い存在である企業のCEOのもとへ行くのではありません。私たちは天の「お父さん」のもとへ行くのです。その方が、私たちに何かを拒まれることなどあるでしょうか。私たちにとって良いことで、神が拒まれるようなことは何一つありません。もし神が何かを与えないと判断されたなら、それは私たちにとって益にならないことだと確信してよいのです。

 使徒パウロはかつて、自身の体に「肉体のとげ」と呼ぶ病を抱えていました。彼はそのとげを取り除いてほしいと三度祈りました(コリント人への手紙第二 12章)。神はそれを取り除かれませんでしたが、パウロはそれが自分の益になるのだと悟りました。なぜなら、それによって彼はへりくだり、砕かれた心を持ち続けることができたからです。神は、常に私たちに良いものを与えてくださいます。神がそのように私たちに良くしてくださる、それも計り知れないほど良くしてくださる時、私たちはどうすべきでしょうか。私たちもまた、他の人々に対して良くあるべきです。

 「主よ、私が仕えるべき人々の必要を満たす助けとなるものを、私に与えてください」。 教会の人々に対して、彼らを敬虔な生活へと導き、イエスが命じられたすべてのことを行うよう導き、「山上の垂訓」の基準に従って生きるよう導きたいという強い思い(重荷)を抱くとき、あなたは聖霊の力を求めるでしょう。また、人々の必要を満たし、彼らを悪魔の支配から救い出し、敬虔な生活へと導くような、天からの預言的な言葉を求めることでしょう。そして、もし彼らを心から愛しているなら、あなたは粘り強く祈り続けるはずです。

 真夜中に隣人の家を訪ねたあの人は、それほどまでにその客を愛していたと思いませんか。彼はその客を深く愛していたからこそ、その夜のうちに何とかして食事を用意しようと思ったに違いありません。もし、私たちのもとに客が訪れた際、食事の用意がなかったとしたら、たいていはこう言うでしょう。「申し訳ありませんが、食べ物が何もないので、もう寝ましょう。朝になったら何か用意しますから」と。しかし、この人は空腹の客を心から愛していたため、「たとえ隣人に対して恥をさらすことになっても、今夜あなたのために何か手に入れてみせます」と言ったのです。これは、粘り強く神のもとへ行き、「主よ、この人たちに仕えるために聖霊の賜物を私に与えてください」と願う姿を美しく描き出しています。